JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.10.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

愛知県道496号白鳥豊橋線の豊川に架かる『豊橋』を渡る。
もともと東海道は現在と違うところで豊川を渡っていたが、江戸時代に東海道が
豊橋(吉田大橋)を渡るルートに定められ、江戸幕府がこの大橋を管理下に置いて
天下橋となった。これが船町(下流)側のこの大橋・『豊橋』のルーツである。
これが昭和時代になり、国道1号の整備と共にこの大橋・『豊橋』の東の酒井忠次が架けたと
される辺りにもう1つの大橋(吉田大橋)を架けた。これが八町(上流)側の大橋・『豊橋』
である。この時点で正式に、この東の八町の橋が吉田大橋(国道1号)、西の下流側の船町の橋が
『豊橋』(愛知県道496号白鳥豊橋線)という名になった。



『豊橋』から『吉田城』の『鉄櫓』が見えた。
手前に見える橋が『吉田大橋』。



『豊橋』を渡り終えて、直ぐに左折し豊川に沿って進む。
右手にあったのが『豊川稲荷遥拝所碑』。
『維持安政二龍次乙卯正月』と刻まれた石灯籠。



その後ろに、『豊川稲荷遥拝所』碑。



『豊川稲荷遥拝所と大鳥居について』
豊川稲荷はここから北方へ直線で5.5km程の所にある。



豊川稲荷遥拝所から100mほど先・右手に『真宗 高田派 朝晃山 真光寺』があった。



真光寺の創建年代等は不詳であるが、山門脇に豊橋市指定有形文化財の
『木造阿弥陀如来立像』の解説があった。



『本堂』。



『真光寺の皆様へ』、と高田本山へのバス旅行の案内。



そして次に訪ねたのが『聖眼寺しょうげんじ』。
真光寺の一区画隣にあったのが真宗高田派の『聖霊山聖眼寺』
聖眼寺は鎌倉時代に下地に移転したと言われ、永禄7年(1564)徳川家康が、今川勢が支配する
対岸の吉田城を攻撃した際、ここに本陣を構えたという。
家康は境内にある太子堂で必勝を祈願し、ここで金扇をもらい、それを用いて采配を振るったと
伝えられている。



山門前には『芭蕉句碑標石』が。
この標石には「寺内に芭蕉塚有、宝暦四甲戌年二月十二日東都花傘宜来」と。
そしてその後ろには『松葉塚』の解説板が。



『松葉塚』
聖眼寺境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和6年(1769)の再建松葉塚、および
古碑松葉塚の所在を示す宝暦4年(1754)建立の標石があり、当地方の文学史研究上
資料的価値の高いものです。「松葉(ご)を焚いて手拭あふる寒さ哉」 古碑松葉塚に刻まれた
この句は貞享4年(1687)冬、松尾芭蕉が愛弟子杜国の身を案じて渥美郡保美の里
(現渥美町)を訪れる途中当寺に立ち寄り、一句を詠んだものです。 
尖塔型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後50年忌を記念して建てられたといわれ、句が刻まれて
「松葉塚」名称の由来となっています。再建松葉塚は、明和6年に植田古帆、大木巴牛が
発起人となり、吉田連衆の協力を得て近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の墳土を譲り受けて
再建したもので、句は「ごを焼て手拭あふる寒さ哉」とあります。「芭蕉翁」の3字は白隠禅師、
句は尾張の横井也有の筆になるものです。この再建を契機に、各地の俳諧師が競って句碑を
建立するようになり、東三河の俳壇に黎明期を迎えました。



『芭蕉句碑』。
古碑松葉塚には松尾芭蕉が愛弟子社国に詠んだ
「ごを焼て 手拭あぶる 寒さ哉」
という句が刻まれていて、「松葉塚」名称の由来を示している。
「ご」は三河方言で、枯れた松葉のこと。焚き付けとして最良の燃料であったと。
この境内の松葉塚には、新旧二つの芭蕉の句碑が立っていたのであった。
古い句碑には「松葉を焚て手ぬぐひあふる寒さ哉」、
新しい句碑には「ごを焼て手拭あぶる寒さ哉」と刻まれていたのであった。
一見したとき、なぜ「手」をあぶらずに「手拭」なのかと?。
調べたところ、この手拭は湿ったものが道中の寒さで凍ったものだという。
それをあぶることで手をあぶるより寒さを余計に表現できるのだろうと。



この記念碑は?



『本堂』。



近くの幼稚園では幼児たちが楽しく遊んでいた。



蚊取り装置『モスキートマグネット』。


蚊を磁石のように引き寄せて吸い取る装置であると。
どんな仕組みで蚊を駆除するかというと、
プロパンガスの燃焼によって発生した二酸化炭素を、特殊スクリーンを通し蚊の嫌う成分を
取り除き、地表に向けて放出します。空気より重い二酸化炭素は広範囲に拡散して、蚊を
おびき寄せます。そして、バイオ技術で生成した動物のエキス:誘引剤(オクテノール)に
よって、装置を動物と錯覚させて吸引口へ引き寄せ、内蔵しているファンのバキュームにより
本体内部の捕獲ネットに閉じ込め、乾燥させてしまいます。
殺虫剤を使用しないため、他の益虫や昆虫にはまったく影響がなく、環境に優しい製品であると。
園児が蚊に刺されないように設置されているのであろう。



街道の左側は豊川の土手が続く。土手の内側には石垣が数段、積まれている。
いつ時代のものであろうか。
『下地堤防改修記念碑』が左手に。



5分ほど歩いた歩道の街路樹の元に、『下地一里塚跡』の石標を見つけた。



『江戸日本橋より七四里』とあった。



『下地一里塚跡』の石標を振り返る。



(株)ヤマサンは大豆 食用油  米穀 豆腐関連資材 和・洋・中華食材 冷凍食品などを製造。



県道387号線・清須下地線を更に進む。



『マンデビラ ピンクパフェ』であろうか?




ここを右折して進む。



『史跡 瓜郷遺跡』石柱。



『瓜郷遺跡』
「この遺跡は低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地する、弥生時代中期から古墳時代前期
(2000年前~1700年前)にかけての集落>の跡です。
昭和22年11月から昭和27年10月までの間、5回にわたり発掘調査が実施され、
土器・石器・骨角器・木製の農具などが出土しました。
これらの出土品は東三河地方の弥生文化を知るうえで重要な手がかりとなっています。
ここでは農耕(主に稲作)のほかに、漁撈や狩猟などが行われていたことがわかりました。
瓜郷遺跡は唐古遺跡(奈良県)・登呂遺跡(静岡県)などとともに弥生時代の低地にある遺跡の
一つとして貴重なものです。なお出土品は、豊橋市美術博物館に収蔵されています。」







「弥生時代の竪穴住居(復元)この復元家屋は。昭和22年~27年の発掘調査で見つかった
竪穴住居の遺構をもとに、故明治大学教授後藤守一博士の手により設計がなされたものです。
時代はおよそ1,800年前の弥生時代中期のもので、大きさは東西5.8m、南北3.5mの
楕円形をしており、中には二本の主柱と炉があります。」



竪穴住居の内部。




見事な藁葺き屋根、大きさは東西5.8m、南北3.5m。



『鹿菅橋』。



下は豊川放水路の分岐水路。



更に県道496号線の田園地帯を飯田線・小坂井駅方面意向って進む。



『豊川放水路』を渡る。



橋の名は『高橋』。



左手に名鉄名古屋本線と東海道本線。



『豊川放水路』。
東三河の清流、豊川は、かつてたびたび洪水をおこし、水害で流域に住む人々を苦しめてきた。 その理由としては、川の長さが約77㎞と短いうえに2/3は山地で降水量が多く、上流の降水が3~4時間で平地に達してしまうこと、下流域で川が蛇行し、U型部分が狭く最大流量の半分も
疎水力がないことが考えられる。 洪水対策として江戸時代には霞堤(鎧堤)がつくられたが,
昭和になってからも10年、12年、19年と大洪水を記録しており、放水路建設が急務となった。工事は、昭和18年度に本格的に着手されたが戦争の拡大によってほとんど進展せず、戦後28年度以降ようやく軌道にのった。そして1965年(昭和40)豊川の下流低地に住む人々の悲願であった
放水路(豊川市行明町・柑子町から 豊橋市前芝町へ通じる全長6.6㎞)が完成した。
洪水時,遊水池として水害の常習地帯となっていた当古・下条・大村地区などの人々は、
永年の水害の苦しみから解放されることとなった。



ここを渡った先で豊橋市から豊川市へ入る。

                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.05.01 14:48:50
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