JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.11.23
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カテゴリ: 海外旅行
5日目(10/28)、この旅行も後半戦に入る。
ホテルの我が部屋から、丘の斜面に広がるヴェリコ・タルノヴォの街並みを見る。
時間は6:44。



ポーターによるトランクの回収が7:45~とのことで、トランクをドアの外に出し、7:00からの朝食に。
やや料理の品数が寂しかった。



そして朝食後、新たな旅友も加わり旅友4人と共に、あらかじめ予習をしていた
早朝散歩のコースに向かう。
ホテル前の坂道を下り、 "Vasil Levski"通りに出る。
そしてここを右折し100m近く歩いた先にあった像を訪ねた。

Monument of Mother Bulgaria(Паметник "Майка България")』
『ブルガリアの母の像』は、1877-1878年のロシアトルコ戦争(露土戦争)、1885年の
セルビアブルガリア戦争、1912年から1913年のバルカン戦争、および1914年から1918年の
第一次世界大戦で、21人の将校、24人のNCO、62人の将校の死を追悼して建立されたと。
その建設のための資金は、ヴェリコ・タルノヴォの市民からの寄付から集められた。 
3階式ての記念碑である大理石と青銅で作られた彫刻。 
その基部には、階段が続く4つの入り口がある納骨堂があった。 
入口の上には、ブルガリアの解放と統一のために戦った戦争の年が書かれており、その間に
戦争の重要な瞬間を描いた4つのブロンズのレリーフがあった。 
軍服、装備、武器を備えた兵士と将校の4つの銅像が中間の位置に配置されていた。 
記念碑の上部には、ブルガリアを代表する跪く女性の銅像があり、頭には冠があり、
右手には軍旗、左手には月桂樹の葉を持っていた。
この追悼碑は、1935年5月6日に解放と国家統一の戦争で殺された人々に捧げられたと。



跪く『ブルガリアの母の像』を遠くから見上げて。



碑は高さ6.5mで、彫刻家スヴェトスラフ・ヨツォフ(Svetoslav Yotsov)の作品。
この背面は1877年~1878年の露土戦争(=大ブルガリア公国の成立)の追悼。
露土戦争(ろとせんそう、1877年 - 1878年)は、ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で
起こった戦争のひとつ。 バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系諸民族が
トルコ人の支配に対して反乱し、それを支援するかたちでロシアが介入して起こった戦い。
ロシア帝国の勝利で終わったと。



1885年のセルビア・ブルガリア戦争への追悼。
セルビア・ブルガリア戦争は1885年11月14日に勃発し11月28日まで続いた。
セルビアは戦争の開始時には主導権を握ったものの、最終的に敗北した。
オーストリアはブルガリアの侵略を停止するよう要求し、停戦に。
最終平和は1886年3月3日に調印された。
戦争の結果、ヨーロッパの大国は1885年9月18日に起こったブルガリア統一の行為を
認めたのだと。



『ブルガリアの母の像』を横から。



1912年からのバルカン戦争。
バルカン戦争は、1912年から1913年にかけてヨーロッパの東南部で発生した戦争。
バルカン同盟諸国(ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア)と衰退しつつある
オスマン帝国との間で発生した第一次バルカン戦争(1912年10月 - 1913年5月)と、
その戦後処理においてブルガリアと、ギリシャ・セルビアの対立から発生した
第二次バルカン戦争(1913年6月 - 1913年8月)からなる。



1915年、第一次世界大戦では中央同盟国側に参戦。



この旅行でところどころで見かけた看板。



EU内での重要文化財であることを示すものか?
そして文化財保護のために資金を出す『EU構造基金』らしい。
『OPERATIONAL PROGRAMME “REGIONAL DEVELOPMENT” 』







丘の斜面に住宅が林立するヴェリコ・タルノヴォの街並みを再び。



そして旅行前の予習で、この日の朝の散歩コースに定めた橋、尖塔が見えて来た。
この先で右折しなければならなかったが行き過ぎ、その後に気が付き引き返して進む。



途中、我々のツアーのバスが駐車しているのを発見。
旅友4人を記念撮影。



そしてヤントラ川(ブルガリア語: Я̀нтра)に架かる
『スタンボロフ橋(Stambolov bridge)』に到着。



橋の上からヤントラ川(Я̀нтра)を見る。
「ヤントラ川とは、ブルガリア北部を流れる河川で、ドナウ川の右支流である。
全長 222/285km 、流域面積 7,862km2 であり、ブルガリア国内のドナウ川の支流の中では
イスクル川に次いで 2 番目に長い。主な支流はロッシツァ川、レフェディラ川、ベリツァ川、
ストゥデナ川などがある。
ヤントラ川は中央バルカン山脈(スタラ・プラニナ)に含まれる、標高 1,340m
ハジ・ディミタル峰北麓に水源を持つ。水源からガブロヴォの町までの間、川は深い渓谷を
形成する。ここヴェリコ・タルノヴォ市内に入った川は複雑に曲がり、タルノヴォ台地を
囲むように流れて平野部に流れ出る。平野部で川の幅は広がるとともに流れも緩やかになり、
スヴィシュトフの下流 16km でドナウ川と合流する。」とウィキペディアより。



橋の上から丘の斜面に住宅が林立するヴェリコ・タルノヴォの街並み。
そしてヤントラ川が水鏡となり、街の姿を映り出していた。



鉄骨アーチ構造のトラス橋。施設の建設は1892年に始まり、高さは37mであると。
橋の上部構造設計者は、イタリアの建築家ジョヴァンニ・ムスッティ(ヴァシル・レフスキ記念碑の
設計者)であると。昔は自殺の名所であったようだ。



そしてヤントラ川に架かる『スタンボロフ橋(Stambolov bridge)』を渡り、左に進むと
ヤントラ川に挟まれた中州のような場所にある、青空に突き刺さるが如き尖塔が。



『アッセン王朝のモニュメント・Monument to the Asen Dynasty
(Паметник на Асеневци)』と呼ばれていると。



ソフィアは現代のブルガリアの首都だが、アセン皇帝はここヴェリコ・タルノヴォを統治した。
市の中心にある『アッセン王朝のモニュメント』は、アセン兄弟がヴェリコ・タルノヴォを
首都と宣言してから800年を記念して建てられたと。
イワン・アセン とピーターIVは共に新しく解放されたブルガリアを統治し、ビザンチン軍との
戦いを続けた。 血族に拠る皇位継承によって、家族は権力を保持することができ、皇帝の席は
家族の間で定期的に継承されていった。 しかし、予想されるように、それは必ずしも幸せな
家族ではなかったのだ。
Ivan Asen IIは彼のいとこBorilを転覆させ、彼を盲目にした。
他の肉親も帝国を拡大する試みの中で死を迎えていったと。
アセン王朝のブルガリア皇帝は以下に。
イワン・アセン( アセン )  1187〜1196
ピーター( テオドール )       1186〜1197
カロヤン ( イオアニツァ )     1197~1207
ボリル ( ボリルカリマン )     1207~1218 
イワン・アセン        1218~1241



空を貫くかのような剣の周囲には、イワン・アセン 、ピーター、カロヤン、
イワン・アセン II  (4人の在位:1187~1241年)の騎馬像が、スヴェタ・ゴラの丘に
細長いすっくと立つオベリスクの周囲を飾っていた。



ヴェリコ・タルノヴォは、かつては「タルノヴォ」と呼ばれ、1187年~1393年に
第2次ブルガリア帝国の首都として栄えた。
イワン・アッセン王治下の最盛期にはビザンツ帝国(東ローマ帝国)をも圧倒し、
バルカン半島のほぼ全域を支配したこともあったのだ。



しかし、その帝国もアッセン王死後に衰退を始め、やがて宿敵ビザンツ帝国に屈服、
1398年にはオスマン朝とも3ヶ月にわたる首都攻防戦の後、ついに滅亡した。
タルノヴォが再び脚光を浴びるのは、500年にわたるトルコ支配からの独立を達成した
1879年から。1879年4月17日、新生ブルガリア王国初の国会がヴェリコ・タルノヴォで
開かれ、首都をソフィアへ遷都する内容を含むブルガリア初の憲法が議決されるまで
ブルガリアの首都となっていたのだと。



旧市街側からモニュメントを見るよりも,モニュメント側から旧市街の街並みを見るほうが
はるかに素晴らしいのであった。



モニュメントの周囲を回りながらシャッターを押す。



これは誰?



こちらはイワン・アセン II 像であろうか。



ヤントラ川の対岸には『インターホテル ヴェリコ・タルノヴォ
(Интерхотел Велико Търново)』が見えた。
大きなホテルであるようだが、外見は廃墟の如き感も。



そして『アッセン王朝のモニュメント』の先にあったのが、
『ヴェリコ・タルノヴォ美術館・State Art Gallery "Boris Denev"
(Художествена галерия „Борис Денев“, Велико Търново)』。



これも逆光であったがズームで。



ヴェリコ・タルノヴォ美術館は、19~20世紀の現代画家の作品を中心に展示していて、
東欧ならではのイコンなども見ることが出来るとのこと。



再び『スタンボロフ橋(Stambolov bridge)』を渡ってホテルへの帰路に。



再び水鏡を楽しむ。



水がありのままに物の姿を映すように、物事をよく観察してその真情を見抜き、




『ヴェリコタルノヴォ大学"Sveti Sveti Kiril I Metodiy University"』



この像は?



そしてホテルに戻るとロビー内に関取『琴欧州』の交通安全の日本のポスターを発見。
ここブルガリア・ヴェリコ・タルノヴォ州ヴェリコ・タルノヴォ市出身なのであった。
身長202cm、体重155kg、握力120kg、血液型はO型。得意手は右四つ・寄り・上手投げ。
最高位は東大関。現在は年寄:15代鳴戸として、鳴戸部屋の師匠を務めているのだ。



ヴェリコ・タルノヴォが「「琴欧州」効果で観光客誘致」との新聞記事も。



こんな像も。左手の力士は『高見山』に似ているが。



多くの現役力士時代の写真も。



ホテルフロント。



事前の散歩コースの予習・計画により、充実した早朝散歩になったのであった。


                             ・・・​​ もどる ​・・・


                   ・・・​ ​つづく ​​・・・








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Last updated  2019.12.14 06:54:14
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