JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

×

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

箱根一泊旅行 (その4… New! オジン0523さん

2026年5月 京都府立… New! 隠居人はせじぃさん

【椿 名前が分からぬ… Gママさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん
noahnoah研究所 noahnoahnoahさん

Comments

オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 予約時に保養所から確認の電話があるけど…
JINさん@ Re:再び大涌谷へ(05/16) Dさんが申し込んで下さいましたが、朝食を…
オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

Calendar

2020.01.19
XML

『旧東海道を歩く』ブログ 目次

​天合寺門宗 流汗不動『総持寺』
この寺は大正15年に再建されたもので、知立神社の別当寺であった。徳川家康側室
お万の方の誕生地である。
正面に『山門』の『竜宮門』。



『仏法大師 御自作知立不動尊』と刻まれた石柱。



『徳川秀康之生母 於萬之方誕生地』碑。



『本堂』
「神路山 総持寺は、三河国二宮「知立神社」の別当寺として創建されています。
嘉祥三年(850年)、慈覚大師円仁が巡錫でこの地を訪れた際、毒蛇に噛まれ重篤となり知立神社に
祈願したところ忽ち治癒しました。大師は神意に感謝し、別当寺院となる神宮寺を開いたと
伝えられています。この時創建されたのが神宮寺七坊であり「玉泉坊、西林坊、一乗坊、宝蔵坊、
小泉坊、吉祥坊」などが創建されたそうです。総持寺は、塔頭の一つ玉泉坊が承応二年(1653年)、
当時の住職宥海が寛永寺住職天海大僧正に師事したことから寛永寺の末寺となり寺号を現在の
総持寺に改めました。創建の経緯もあり、当時から神仏習合してきましたが明治時代初頭に
発令された神仏分離令により住職が知立神社の神官となったため、廃寺となります。
その後昭和二年(1927年)に再興され現在地に境内を移して堂宇も再建されました。
又、徳川家康の側室お万の方は知立神社の神官氷見氏一族から出たことからお万の方の生誕地と
されています。」
『本堂』の手前には『白寿観音』



本堂内部



『本堂』正面左手。



本堂の扁額『神路山松智院 流汗不動 總持寺』。



『一願出世不動』。



『観音堂』。



『観音堂』内部。



手前に『地蔵堂』、その奥に『六角堂』。

「知立 総持寺 六角堂」の画像検索結果

『六角堂』・『愛染堂』扁額。



愛染堂内部の『愛染明王像』。



ズームで『愛染明王像』を。



『留翠微笑観音堂』。



『留翠微笑観音像』。



広くない境内に様々な石仏、建物が。



この仏様は、どの堂におられたのであったか?



『地蔵堂』



『地蔵堂 弘法大師』と書かれた扁額。




抱き上げたときに軽く感じれば願いがかなうという占断装置だ。
試しに抱き上げたところ、思いのほか軽かったが・・・・。



そしして地蔵堂の内部。



『流汗不動 総持寺』の『裏門』
『三河 新四国 三不動 一番札所霊場』の石柱が裏門前(写真手前)に。



『流汗不動明王』の御朱印をいただきました。



そして旧東海道に戻り進むと、逢妻川(あいつまがわ)に架かる
『逢妻橋(あいずまばし)』が姿を現す。



『逢妻橋(あいずまばし)』



下を流れる川は『二級河川 逢妻川』。



『逢妻川(あいつまがわ)』。
隣の橋は国道1号線に架かる『逢妻大橋』。



欄干には知立神社の多宝塔の姿が。



知立神社の『知立まつり』の山車の姿も。



そして国道1号線に合流。



そして国道1号線を進む。



そして刈谷市へ入る。



懐かしき青の ​# ​​ ​の​マークの​ある建物が左手に。



『住友建機教習所 愛知教習センター』。



フォークリフト技能講習、クレーン、玉掛け特別教育等を実技しながら説明講義して
くれ、様々な資格を取得できると。



刈谷市一里山町歩道橋の階段の下にあった『一ツ木一里塚』跡は日本橋から85里目の一里塚。
「慶長9年(1604)徳川家康は秀忠に命じて、江戸日本橋を起点として東海道をはじめとする
主要街道に、1里ごとに土を盛ってエノキや松を植えて一里塚を築かせた。この地は松で
あったといわれる。
国道1号線の開通によって当時のおもかげはないが、明治18年の地籍図をみると、東海道の両脇に
塚と記載されている。
ここより東には、来迎寺一里塚(県指定史跡、知立市)、西には阿野一里塚(国指定史跡、豊明市)がある。」



『旧東海道入口』をズームで。
先に進むと国道1号線の右側(北)に旧道が残っていた。
この旧道は左を流れる水路に沿っており、程なく国道1号線に突き当たって分断されるが、
反対側の延長線上の旧道へ続いていたのであった。
しかし、国道1号線を渡る横断歩道が近くにないため、諦め国道1号線を進む。



国道1号線の『工業団地入口』交差点を通過。



『旧東海道出口』もズームで道路の反対側から。
国道1号線に突き当った旧道は、反対側の延長線上へ続いていのであった。
近くにある今岡歩道橋手前で再び旧東海道に入って進む。



旧東海道は国道1号線から別れて左方向へ進む。



刈谷市のおすいマンホール蓋のデザインは『かきつばた』。



『十王堂』。
旧道に入ると、直ぐ右手の民家に組み込まれた十王堂があった。
堂中には三面六臂の馬頭観音、地蔵菩薩半跏像、弘法大師が安置されている
とのことであったが・・・・。



『長屋門』。
十王堂の直ぐ先、左手に大きな長屋門の旧家があった。



次に旧東海道沿いにあった『洞隣寺(とうりんじ)』に立ち寄る。



寺の入口にあった『常夜灯』は、寛政8年(1796)の年号が刻まれていた。



「洞隣寺
曹洞宗の寺で、天正8年(1580)の開山といわれ、開基は刈谷城主水野忠重とされる。
本堂の隣に地蔵堂・行者堂・秋葉堂が並んでいる。寺の入り口にある常夜燈は、寛政8年(1796)の
年号が刻まれている。
墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)中津藩士の墓がある。
またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれるめったいくやしいの墓がある」



正面に『本堂』。
本堂の隣に地蔵堂・行者堂・秋葉堂が並んでいた。



境内の建物。庫裡であろうか。



境内の石仏。



大きな達摩の姿の石仏。



新たな『本堂』を建設中なのであろうか?



実は、この時に『洞隣寺』の案内板に書かれていた
「墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)中津藩士の墓がある。
またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれるめったいくやしいの墓がある」
の墓を訪ねていないことに、帰宅してブログアップされていた旅友Sさんが気づき
11月23日の「旧東海道歩き」時に立ち寄ったので併せて以下の写真4枚とともに記載する。

『中津藩士の墓』と『めったいくやしいの墓』案内板。
「中津藩士の墓」

寛保 2 年( 1742 )豊前国(大分県)中津藩の家臣が帰国途中、今岡村付近で突然渡辺友五郎が
牟礼清五郎に斬りつけ 2 人とも亡くなったため 2 人の遺骸は洞隣寺に埋葬された。
ところが 2 人の生前の恨みからか、いつのまにか反対側に傾き、何度直しても傾いてしまうので、
村人は怨念の恐ろしさに驚き、墓地を整理して改めてあつく葬ってからは墓は傾かなくなったと
いわれる。

「めったいくやしいの墓
昔、洞隣寺の下働きに容貌は悪かったが気立てのよいよく働く娘がいた。ある時、高津波村の
医王寺へ移ったところ、この寺の住職に一目ぼれした。しかし、青年僧は仏法修行の身であり
娘には見向きもせず寄せ付けなかった。娘は片想いのため食も進まずついに憤死してしまった。
洞隣寺の和尚はこれを聞いて亡骸を引き取って葬ったが、この墓石から青い火玉が浮かび上がり
油の燃えるような音がしたり、「めったいくやしい」と声になったりして火玉は医王寺の方へ
飛んで行ったといわれる。女の情炎の恐ろしさが語り継がれている。」



案内板を頼りに進むと
傾いている『中津藩氏の墓』と『めったいくやしいの墓』
が見つかった。



その周囲には歴史を感じさせる多くの「無縫塔」(卵塔)の墓石も並んでいた。



『にごりなき 心の水に住む月は 波もくだけて 光とぞなる』
この和歌は道元禅師が坐禅の境地をあらわしたとされるもの。

img src="https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/ddd738e86192974e71e45726086c24dc615a5270.15.2.9.2.jpeg" border="0" name="insertImg" />

旧東海道沿いにあった『津島社』とその手前に『案内板』が。
ここ今岡村は今川村・一ツ木村などとともに池鯉鮒宿の助郷村のひとつであり、道路の管理や
人馬の供出などの負担を強いられた。村域には東海道沿いに何軒かの茶店があり、洞隣寺の北側には
「いもかわうどん」発祥の地の碑が建てられていた。



『いもかわうどん』
きしめんのルーツとされるいもかわうどんは「芋川」の名物であるが、芋川は今岡村の一部
だったとする説、芋川 = 今岡村とする説、芋川 = 今川村とする説など諸説ある。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や井原西鶴の『好色一代男』には平打ちうどん
(いもかわうどん)が登場し、膝栗毛には「今岡村のたてばにいたる。此ところはいもかはと云
めんるいの名物、いたって風味よしときゝて、名物のしるしなりけり往来の、客をもつなく
いもかわの蕎麦」という記述がある
「江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。
この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現在に残り、
今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。」



旧東海道を更に進む。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.05.01 15:44:46
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: