JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.02.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次





「笠覆寺
天林山と号し、真言宗。
俗に笠寺観音の名で知られ、尾張四観音の一つである。
天平年中(729~)禅光上人の開基で、十一面観世音を安置する。
初め小松寺と称したが、延長年中(923~)藤原兼平が堂宇を再興し、今の寺号に改めた。
のち再び荒廃したが、嘉禎四年(1238)僧阿願が朝廷に願い出て、宣陽門院庁より
田畑の寄進を受け堂塔を建立した。当寺には重要文化財・県指定文化財が多数ある。」



次に『笠覆寺西門』前の道路を経だてて左手の段上に真言宗智山派の『天林山西方院』があった。
西方院は、笠覆寺塔頭の一つであり、境内には木曽義仲の母が持仏として信仰していた
『烏瑟沙摩明王(うすまさみょうおう)』と粕畠観音と言われる十一面観世音菩薩碑が
祀られている。
朱の鳥居が西方院の『山門』。



通りからは『笠寺 烏瑟沙摩明王(うすまさみょうおう)』と刻まれた石柱が右に。



『四国百八弘法大師、日本百八観世音菩薩、南無水子地蔵尊』の幟が。
右は弘法大師、左は観世音菩薩、その前にはお砂ふみ。
右に烏瑟沙摩明王の石標と2体の石仏が祀られていた。



左に可愛いおもちゃが供えられた『水子地蔵』の小さな堂が。



『烏瑟沙摩明王』は聞き慣れない仏。
良く聞く不動明王や愛染明王と同じ明王で、この明王は母親が身ごもった女子の胎児を男子に
変える力を持っていると伝わり、男子を求めた戦国時代の武将達に厚く信仰されてきたと。
木曽義仲の母が守護仏として信仰し、出産の際にも安産だった事から安産に
ご利益があるとされた。
また不浄を浄化するとして、密教や禅宗等の寺院ではトイレの守護仏とされ、下の病に霊験
あらたかだと。



『粕畠観世音大菩薩』と書かれた幟が立ち並ぶ。



『粕畠観音大御縁起』。
「現在、粕畠貝塚のある場所は、「観音塚」「元観音」と呼ばれ、享保元年(1716)
加藤又兵衛勝貞氏が寄進した「南無十一面観世音大菩薩」と刻まれた碑と、千手観音さまの
坐像が安置してあります。笠覆寺(笠寺観音)の縁起によれば、奈良時代の天平年間に此の地に
小松寺が建てられ、笠覆寺発祥の地とあります。この近くに住む信心深い住民が御堂を建て、
立派な観音像を祀られました。近隣信者の方々は「粕畠かんのんさん」とお慕い申して日々
ご参詣され、御線香の絶えることがありませんでした。
平成4年6月に、御堂が取り壊しとなり、縁ありまして西方院の明王堂に入れられました。
厄難を除き、所願を成就してくださる観音さまとして、皆様にご参詣されています。」



『笠寺明王御縁起・烏枢沙摩明王の功徳』。
「烏枢沙摩明王の功徳
当院明王堂に安置されている烏枢沙摩明王は、今から八百年程前木曽義仲公の母君が
日頃持仏として信仰され、御子出産の折にもその功徳により安産されたと伝えられて居ります。
母君の死後、奥女中いと女がお祀りしておりましたが、義仲公粟津にて戦死されたため、
後を追い自害する際かたわらに仕えていた河内、今井の両名にご尊像をたくしました。
両名は各地を転々とした後、美濃の小木村に永住し、ご尊像は河内家の秘仏として奥深く
祀られてまいりました。
河内家20代彦太郎氏は火災に遭い、家宝一切を焼失しましたが、ご尊像のみは無事に
助かりました。氏は悟るところあって当院18世政愉和尚について得度、僧となり堂を建て
ご尊像を祀られましたが一夜、烏枢沙摩明王、夢枕にたたれ、我が功徳を広く人々に授けんと
告げられたため、戒師寺たる笠寺西方院にご尊像を移すことを決意。一堂を建て笠寺明王として
安置し、以後多くの善男善女の厚い信仰を集めています。

烏枢沙摩明王の功徳
うすさま明王様は不浄を転じて清浄にする功徳をもっていますので、不浄除の守護仏
(便所の守護仏又毒蛇などの虫の害から守って下さる仏)として信仰されております。
尚この明王様は安産、婦人病、しもの病に霊験あらたかであります。老若男女を問わず
お「下」のお世話をかけないようにと祈願し、心身ともに不浄を除き和やかで幸せな生活が
できるようにとご参詣ください。」



『真言宗智山派 天林山 西方院』寺標石柱とその奥に山門。



『本堂』は南を向いて鎮座。
近年建て替えられた様で、新しく綺麗な外観であった。



西方院を後にし、笠覆寺西門前の旧東海道を西に進む。



『笠寺観音商店街』の建物の壁には多くの人々の似顔絵が描かれていた。
地元で様々なプロジェクトの参加された方々の似顔絵であるようだ。



笠覆寺西門を振り返る。



『笠寺の歴史』



「笠寺の歴史
江戸時代の笠寺村は、東海道第四十番目の宿場である鳴海から熱田宿を結ぶ東海道筋にあたり、
農業を主な業とし、町並みには、小商家、茶屋などがあった。笠寺観音は、尾張四観音の
一つとして人びとにも親しまれ、今も節分などには露店が並ぶにぎわいを見せている。
寺伝によれば、笠寺観音はもと小松寺といい、天平五年(七三三)浜に流れ着いた霊木に
僧禅光が十一面観音像を刻み、小堂を建てて安置したことに始まる。その後荒廃し、
仏像が雨露にさらされているのを見た土地の娘が、自らの笠をかぶせた。この娘はやがて
藤原兼平の妻となり、その縁によって兼平は堂舎を再興した。これが笠覆寺の名の由来となる。
寺はその後再び荒廃したが、嘉禎四年(一二三八)僧阿願が再興した。現存する建物は、
正保年中(一六四四~四八)に建った多宝塔を最古とし、本堂は宝暦十三年(一七六三)の
建立で、その他江戸時代の各時期に建った仁王門、西門、鐘楼、護摩堂及び大師堂などが
軒を列ね、密教寺院の特色をよく示している。また、笠寺観音境内には、笠寺千鳥塚、春雨塚と
いった芭蕉碑も残されているほか、笠寺観音から東南約六百メートルの旧東海道沿いに、市内に
現存する唯一の一里塚がある。」



『笠寺西門』交差点を渡る。



南区笠寺西門バス停の脇に『戸部蛙(とべかえる)』の焼き物が。
「笠寺観音の節分は、例年にぎわい、露店が並ぶ。 この中に郷土玩具として売り出された
ものに「戸部の蛙」がある。 戸部の蛙は、昔、戸部城主、戸部新左衛門にまつわる伝説もあるが、
文化文政の頃、笠寺の瓦職人が瓦粘土で手なぐさみに作ったことに始まると言われている。
手作りの陶蛙で大小あり(3cm~5cm)、あまがえる、しまがえる、がまがえる、とのさまがえる、
かぶり相撲、子負びなど数種がある。 素焼きの極めて素朴なものであったが、
現在は釉(うわぐすり)のかかったものとなっている。」



右手に『笠寺町西之門公会堂』と『秋葉社』。



更に街道を進む。



名鉄名古屋本線の踏切を渡りその後右にカーブし北上していくと
右手にあったのが『玉泉寺』。



『玉泉寺』の本堂なのであろうか。



『東海道碑』が道の両脇に。
桜神明社 塩付街道



東海道を左に折れて塩路街道を西に進む。



道路脇の民家の庭には巨大なウチワサボテンが。



右手に『金比羅社』。



そしてその先に『富部神社』一の石鳥居が。
左手には『郷社 富部神社』の社号標も。



鳥居の扁額・『富部神社』。



鳥居のすぐ左に『秋葉社』。



『富部神社本殿 重要文化財指定記念』碑。



「富部神社
当社は慶長八年(1603)津島神社の牛頭天王を勧請したもので、「戸部天王」とも「蛇毒神天王」
とも呼ばれてていた。牛頭天王は神道だけでなく、仏教、陰陽道でも奉られる神で、神道では
病魔を自在に操る神として、仏教では病魔を操り四季を掌る神として、陰陽道では天体と方位を
掌る神として、大切に奉られている。
主祭神は素戔嗚尊(牛頭天王)で明治十一年(1878)になって田心姫命、瑞津姫命、市杵島命、
菊理姫命の四神を合祀した。
清洲城の城主松平忠吉(徳川家康の四子)は当社の霊験あらたかなるを知り、病気平癒の
祈願をしたところ、快方に向い日ならずして回復したといわれその恩に報いるため慶長十一年
(1606)社領として百石を与え、本殿、祭文殿、回廊を建て、神宮寺として天福寺(真言宗智山派)
を興した。(天福寺は明治政府の神仏分離令により廃寺、この時神社では牛頭天王を同一神と
される素戔嗚尊の名を借り存続される。)
回廊は改築されているが、本殿と祭文殿は造立当時のものである。本殿は一間社流造、桧皮葺で、
正面の蟇股、破風、懸魚、等桃山時代の建築様式をよく伝えており、昭和三十二年(1957)
国の重要文化財に指定された。
祭文殿は回脚門形式、回廊は切妻造左右四間の複廊で桧皮型銅版葺である。平成八年(1996)
名古屋市文化財に指定される。
境内の山車蔵には、享保十二年(1727)作といわれる高砂車山車が納められている。
この山車は車体が大きく三階の上に更に高く、いわゆる高砂車を象徴する大きな松の木を
背景にして屋形を据え、その前にと姥の人形が置かれている。
昭和四十八年(1973)名古屋市文化財に指定される。江戸時代、旧暦六月十二日の例祭日には
金繍の幕を巡らし、氏子が挙って曳行したが近年老朽化が著しく、十月の例祭日には蔵の中で
組立られ、祭の象徴となっている。」



境内から『本殿』を見る。



『本殿』に向かって進む。
まだ銀杏の黄葉はこれから。



『本殿』。
祭神:須佐之男命・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命・菊理姫命
当社はもと「戸部天王」ともいわれ、松平忠吉(徳川家康の四男)が病気平癒を祈願・快復した
報恩のため、慶長十一年(1606)本殿、祭文殿、回廊、拝殿を建てたと伝えられる。
本殿は慶長当時の形態を今に伝え、とくに正面の蟇股、屋根の懸魚、桁隠などによく桃山時代の
特徴をそなえており、国の重要文化財に指定されている。祭文殿と回廊は、市指定の文化財と
なっている。



境内社の富部龍王社(左)と八王子社・居森社(右)



多くの菊が展示されていた。



嵯峨菊も様々な種類が。



ズームで。



そして次に『清水稲荷殿』を訪ねた。



境内を進むがこの付近の黄葉はこれから。



『手水舎』。



境内南に『清水叱枳尼眞天(しみずだきにしんてん)』を祀る『清水稲荷殿』。
この『清水叱枳尼眞天』は、豊川稲荷と同じ神様であると。
毎年02月03日には、家内安全・商売繁盛・学業成就などを祈願する厄除の節分祈祷会が
修行されるなど、隣接の富部神社と合わせて、地元住民の方々から厚い信仰を受けていると。



『社務所』であろうか。





                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・ つづく ​・・・






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Last updated  2020.05.01 19:32:37コメント(0) | コメントを書く


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