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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
『伊勢湾岸自動車道』高架を潜り『朝明川(あさけがわ)』に架かる
『朝明橋(あさけばし)』を渡る。
『朝明川』の上流側は『伊勢湾岸自動車道』が川に沿って走っていた。
遠くに関西本線の鉄橋も見えた。
橋を渡ると四日市であり、渡詰めの左の小さな公園には、東海道の案内図や力石などが。
ここで一休みし、旅友から頂いたバナナと水分を補給。
東海道四日市の街道筋案内板。
「ここは四日市 東海道 北玄関 松寺」。
43番めの宿場町・四日市は松寺➡蒔田➡西富田と続いているのであった。
昔の『朝明橋』の写真も。
『力石』。
「力石
この力石は、江戸末期から明治初期にかけ東海道筋のこの地で営まれていた茶店
「橋南(はしみなみ)のつる」の主・大久保つるが後世に残したものである。
石には 「二十七メ」 と刻まれ、その目方が二十七貫目(約100㎏)と想像される。
北勢地方で見かける力石は、その多くが神社仏閣の境内にあるが、これは数少ない民家
の軒先に保存されていたものである。
東海道を往来した旅人や篭かき衆等が休んだおりに余力を誇示するがごとく自慢げにこの石を
持ち上げたであろう往時の様子が偲ばれる。またこの辺りの地名を 「茶屋の前」 と称するのは、
この茶店に由来するものと言い伝えられている。」
公園での休憩を終えて坂道を下って変則十字路に出ると、右手の防火水槽金網に東海道案内が
貼ってあり、四日市宿まで9kmとあった。 ここから先は、民家の塀、生垣など所どころに
「東海道」 の道標が貼ってあり、IphoneのGoogle Mapを見ることなく歩くことが
できたのであった。
変則十字路を進んで直ぐ右手に『御厨神明社』があった。
御厨神明社の創建年代等は不詳であるが、祭神は豊受姫命、大山祇命である。
『御厨 神明社』の社標が左手に。
『一の鳥居』。
『二の鳥居』を潜ると『御厨神明社拝殿』。
四日市市のマンホール蓋は四日市市の花となっているサルビアをデザインしたもの。
タカハシ酒造の南を通る筋を過ぎると、左手に『松寺の立場跡』があった。
当時、桑名宿と四日市宿の間には、五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、
南は富田の立場があったのだと。
「松寺の立場跡
東海道松寺の立場跡には昔は大きな榎があり街道を往来する旅人や人足などが、
籠や荷物を降ろして杖を立て一休みした所を言う。 公の休憩所のことで茶屋などがあり
立場茶屋とよんでいた。
当時、桑名宿と四日市宿の間には、五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、
南は富田の立場があった。」
奥にあったのが『輝子頌徳記念碑』。
「輝子頌徳(てるこしょうとく)記念碑解説
伊勢国三重郡大矢知村字松寺にて佐藤庄九郎の一女として生まれる。
弘化3年(1846)4月4日生まれ。25歳の時に夫が他界。
50年1日の如し輝子は教育・裁縫の教育をし、門者千数百人に及ぶと言う(実際には三千人ほどの
子弟がいたとも)。大正6年(1917)11月13日病気にて享年72歳で世を去る。
翌年3月門人によって碑を建てる。」
立場跡から20m程先の右手に浄土真宗本願寺派の『松栄山蓮證寺(れんしょうじ)』があった。
『鐘楼』。
『本堂』
「松栄山蓮證寺
当山は浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺である。松寺三丁目に建立されていて、阿弥陀如来が
安置されている。
口伝によれば、四百年位前に、現在地にお堂があり、本堂も二百年位前に建てられたと
伝えられる古い寺である。
昔の太平洋戦争中に供出された凡(梵)鐘も、地元の篤志家のご尽力により立派に再建された。
また、戦争中には学童疎開で寺を利用していただいた時もある。
山号は松栄山といい、<松>栄山蓮證<寺>と町名の松寺とは何か関係が有るのではないかと
思われる。尚、鐘楼は平成五年・山門は平成六年に再建された。
桑名に続く東海道の道すじにある。」
蓮證寺を過ぎて暫く旧東海道を進むと、右手に大きな『御厨神明社』社標と
『龍王山 宝性寺』寺標が建っていた。
様々な手作りの道標が。


























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