JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

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2020.02.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『伊勢湾岸自動車道』高架を潜り『朝明川(あさけがわ)』に架かる
『朝明橋(あさけばし)』を渡る。



『朝明川』の上流側は『伊勢湾岸自動車道』が川に沿って走っていた。
遠くに関西本線の鉄橋も見えた。



橋を渡ると四日市であり、渡詰めの左の小さな公園には、東海道の案内図や力石などが。
ここで一休みし、旅友から頂いたバナナと水分を補給。



東海道四日市の街道筋案内板。
「ここは四日市 東海道 北玄関 松寺」。
43番めの宿場町・四日市は松寺➡蒔田➡西富田と続いているのであった。
昔の『朝明橋』の写真も。



『力石』。



「力石
この力石は、江戸末期から明治初期にかけ東海道筋のこの地で営まれていた茶店
「橋南(はしみなみ)のつる」の主・大久保つるが後世に残したものである。
石には 「二十七メ」 と刻まれ、その目方が二十七貫目(約100㎏)と想像される。
北勢地方で見かける力石は、その多くが神社仏閣の境内にあるが、これは数少ない民家
の軒先に保存されていたものである。
東海道を往来した旅人や篭かき衆等が休んだおりに余力を誇示するがごとく自慢げにこの石を
持ち上げたであろう往時の様子が偲ばれる。またこの辺りの地名を 「茶屋の前」 と称するのは、
この茶店に由来するものと言い伝えられている。」



公園での休憩を終えて坂道を下って変則十字路に出ると、右手の防火水槽金網に東海道案内が
貼ってあり、四日市宿まで9kmとあった。 ここから先は、民家の塀、生垣など所どころに
「東海道」 の道標が貼ってあり、IphoneのGoogle Mapを見ることなく歩くことが
できたのであった。
変則十字路を進んで直ぐ右手に『御厨神明社』があった。
御厨神明社の創建年代等は不詳であるが、祭神は豊受姫命、大山祇命である。
『御厨 神明社』の社標が左手に。



『一の鳥居』。



『二の鳥居』を潜ると『御厨神明社拝殿』。



四日市市のマンホール蓋は四日市市の花となっているサルビアをデザインしたもの。



タカハシ酒造の南を通る筋を過ぎると、左手に『松寺の立場跡』があった。
当時、桑名宿と四日市宿の間には、五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、
南は富田の立場があったのだと。



「松寺の立場跡
東海道松寺の立場跡には昔は大きな榎があり街道を往来する旅人や人足などが、
籠や荷物を降ろして杖を立て一休みした所を言う。 公の休憩所のことで茶屋などがあり
立場茶屋とよんでいた。
当時、桑名宿と四日市宿の間には、五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、
南は富田の立場があった。」



奥にあったのが『輝子頌徳記念碑』。



「輝子頌徳(てるこしょうとく)記念碑解説
伊勢国三重郡大矢知村字松寺にて佐藤庄九郎の一女として生まれる。
弘化3年(1846)4月4日生まれ。25歳の時に夫が他界。
50年1日の如し輝子は教育・裁縫の教育をし、門者千数百人に及ぶと言う(実際には三千人ほどの
子弟がいたとも)。大正6年(1917)11月13日病気にて享年72歳で世を去る。
翌年3月門人によって碑を建てる。」



立場跡から20m程先の右手に浄土真宗本願寺派の『松栄山蓮證寺(れんしょうじ)』があった。



『鐘楼』。



『本堂』



「松栄山蓮證寺
当山は浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺である。松寺三丁目に建立されていて、阿弥陀如来が
安置されている。
口伝によれば、四百年位前に、現在地にお堂があり、本堂も二百年位前に建てられたと
伝えられる古い寺である。
昔の太平洋戦争中に供出された凡(梵)鐘も、地元の篤志家のご尽力により立派に再建された。
また、戦争中には学童疎開で寺を利用していただいた時もある。
山号は松栄山といい、<松>栄山蓮證<寺>と町名の松寺とは何か関係が有るのではないかと
思われる。尚、鐘楼は平成五年・山門は平成六年に再建された。
桑名に続く東海道の道すじにある。」



蓮證寺を過ぎて暫く旧東海道を進むと、右手に大きな『御厨神明社』社標と
『龍王山 宝性寺』寺標が建っていた。



様々な手作りの道標が。

「龍王山 宝性寺
奈良時代聖武天皇が天平12年(740)朝明行宮の際、摩伊多の里に御野立された地で
勅願により建立されたのが当寺の創建とされる。創建時は樹木か鬱蒼とした敷地8450坪の中に
七堂伽藍の荘厳なお堂が立並んでいたと伝えられる。
御本尊としては江州石山寺を開基した良弁僧正による一刀三礼の彫刻になる
十一面観世音曹薩像を安置して祀り、長く隆盛をみた。
しかし永禄11年(1568)の織田信長の家臣滝川一益の長鳥一揆攻略の戦火に遭遇して
焼失した。その後現在地に小堂を建立したが正徳元年(1711)再度の火災により焼失、
事保4年(1719)第六代桑名藩主松平忠雅公の寄進によって再興されたのが現在の本堂であり、
御本尊とともに蒔田観音と愛称され、今日まで広く信仰されている。」        


奥に進むと正面に宝性寺、右に御厨神明社があった。
宝性寺は天平12年(740)聖武天皇の勅願によって創建されたといわれ、もとは天台宗で
あったが現在は単立で地元の観音堂として信仰を集めている。御厨神明社はここ蒔田村の
氏神様である。



『奉建立十一面観世音菩薩専祈』と刻まれた石碑。



文化11年(1814)の重層の『宝性寺本堂』。



『大矢知想像絵地図』。



街道に戻ると直ぐ右手に浄土真宗本願寺派の『長明殿長明寺』参道が。



この地は文治年間(1185-90)に蒔田相模守宗勝が居城した蒔田城址といわれ、境内は濠と

そしてその先には、桑名城より移築された長明寺『山門』が。



山門に掛かる『長明殿』の扁額。



『本堂』。



「朝明殿 長明寺
当寺は浄土真宗本願寺派の寺である。創立年代・開基など不明であるが、寺誌によれば、
もと真言宗潮音寺と称し、近郷の喜田村(現三重郡川越町豊田)に字長恩寺があり、この地を
当寺の旧地と伝える。文明十七年(一四八五)画像本尊を下付されたというから、この頃に真宗に
改宗したのであろう。下って、慶長九年(一六〇四)現在の寺号を公称し、寛永元年(一六ニ四)に
木仏の許可を得て寺院化したようである。のち慶安四年(一六五)領主松平隠岐守より現在の
寺地を賜わり、翌年に寺基を移し今日に至っている。
境内は落と築堺がめぐり、参道正面入口に文化三年(一八〇六)に築造された参詣橋が架かり、

(一九五六)再建された入母屋造の大規模な本堂がある。山門左脇に建つ桜はす誌では延宝年間
(一六七三~八〇)に建立したと伝える。」



「蒔田館(城)
寿永年間(一一八二~一一八五)に、伊勢平氏の一族の平家資が、富田館と同時期に
この地に築城。四方を素掘りの堀で囲み、外堀は南の鏡が池まであった。
平氏が壇の浦(一一八五年・山口県)で滅亡すると、源頼朝は各地の平氏掃討を行い、
鎌倉幕府方の大内氏に攻められ富田館・蒔田館ともに落城する。
その後、この地は後白河院の領地となり、都より守護職として、藤原宗勝が蒔田に居館し、
蒔田相模守宗勝と名乗る。
宗勝は深く仏教に帰依し、この地にお堂を建立し、長明寺の基となる。
現在、宗勝のお墓は、西富田の三光寺本堂南側にある。
戦国時代になると、蒔田城として萱生城の春日部氏の一族である春日部家春が城主となるが、
永禄年間、織田信長の北勢侵攻で本家萱生城とともに降伏、帰順した。」



桑名城より移築された山門脇には延宝年間(1673-80)に建立した『鐘楼』。



帰路に『参詣橋』から濠と築塀を見る。




長明寺を過ぎると蒔田信号交差点の手前左手に長屋門の大きな屋敷があった。



『鏡ヶ池跡』
蒔田信号交差点を渡ると左側の二軒目の民家前に鏡ヶ池跡が。
聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き、天皇の笠が池の中に落ち、
ちょうど傍で洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げた。これが縁で天皇はこの田村家に
宿をとられたという。



『聖武天皇 御遺跡 鏡ヶ池』と刻まれていたのであろうか。



「鏡ヶ池(笠取り池
続日本紀』によると、聖武天皇は、奈良時代の天平十二年(七四○)に伊勢国を行幸になり
十一月に一志郡河口をたち、鈴鹿郡赤坂の頓宮を経て、 二十三日に朝明郡の頓宮に着かれたとる。
その場所の所在は不明であるが、当地近辺であり、松原町のもと松原姓を名乗っていた
旧家田村氏宅に伝わる話では、 聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き、
天皇の笠が池の中に落ちた。 ちょうどその時、傍に洗濯をしていた娘がその笠を拾って
差し上げたため、これが縁となって天皇はこの田村家に宿をとられたという。
明くる朝、旅立ちの日は風もなし、空は真っ青に澄んで、馬上の天皇の姿と、見送る娘の姿とが、
鏡のような池の上にともに映えて、一幅の絵を見るような光景になった。
以来、この池を「鏡ヶ池」とも呼ぶようになったといわれる。」



鏡ヶ池跡の直ぐ先にJR関西本線の『西富田踏切』が。
ここは三岐鉄道の高架の下をJR関西本線が交差し、そこを東海道が通る珍しい
踏切なのであった。



西富田踏切を渡ると100m程先、右手に浄土真宗本願寺派の『木下山三光寺』が。



『山門』。



RC製の『本堂』。
三光寺は、この地を治めた蒔田相模守宗勝が没した後、子々孫々その菩提を弔い、11代正了の時、
蓮如上人の教理にふれ、一宇の坊舎を建立したのが始まりと言われる。享保3年(1718)に
建立された堂宇は安政大地震により崩壊し、その後再建された堂宇は昭和37年の火災で焼失し、
現在の堂宇は昭和47年に建立されたものである。



「木下山 三光寺
当寺院は浄土真宗本願寺派の寺であり、山号を木下山と称し、平安時代末期、時の後鳥羽院
守護職としてこの地を治めた蒔田相模守宗勝の墓碑のある寺として知られている。
承久3年(1221)法名を祐善と号した宗勝が示寂し、時の富田郷木下にあった江戸報徳寺
(真言宗)の分地に埋葬された。子々孫々その菩提を弔い、11代正了の折り、真宗八代門主
蓮如上人の教理にふれ、一宇の坊舎を建立したのが、この寺院の開基と伝えれている。
江戸徳川氏の御代(慶長11年)、長福寺の寺名をもって本願寺の末寺に列し現在地に寺院を
建立するも、寺名が時の幕府に忌避され、享保2年(1717)三光寺と改名され、翌年に
寺院御堂が建立された。130年後、安政大地震により破壊され、明治20年(1887)に
再建されるも昭和37年(1962)の火災により焼失、現在の堂宇は昭和47年に建立された
ものである。」



『蓮如上人像』。



『春日部家之墓』と刻まれた石柱。地元の名士なのであろうか。



『蒔田相模守宗勝墓』。
『蒔田城』は、文治年間(1185-90)に、『蒔田相模守宗勝』が築城したと伝えられているのだ。



『三岐鉄道三岐線と近鉄名古屋線』
街道に戻ってT字路を左折して行くと、前方に三岐鉄道三岐線と近鉄名古屋線の高架が。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.05.01 19:38:11
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