JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

×

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

箱根一泊旅行 (その5… New! オジン0523さん

2026年5月 京都府立… New! 隠居人はせじぃさん

【椿 名前が分からぬ… Gママさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん
noahnoah研究所 noahnoahnoahさん

Comments

オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 予約時に保養所から確認の電話があるけど…
JINさん@ Re:再び大涌谷へ(05/16) Dさんが申し込んで下さいましたが、朝食を…
オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

Calendar

2020.02.27
XML
カテゴリ: 国内旅行
そして『稲生沢川』の河口に沿った道を海にむって進むと左手にあったのが
下田港を臨む『ペリー上陸記念公園』内の『ペリー艦隊来航記念碑』。
河津桜の先にペリーの胸像が。



ペリー提督の胸像と、アメリカ海軍から寄贈された錨が飾られていた。



『ペリー提督の胸像』。



『日米交流150周年によせて』。



1854年の日米和親条約調印から150 1周年にあたるこの年は、日米両国の強い関係を
祝う時である。
1853年にマシュー・ペリー提督は、偉大な我々二国間に通商関係を樹立するため日本に
向けて出航した。
今日、日米両国はゆるぎない関係とパートナーシップを確立し、平和と繁栄を促進している。
アメリカは深く永続的な友好に対し日本国民に感謝するものである。
アメリカ合衆国大統領 ジョージ・ブッシュ 2004年3月31日」



「日米友好の灯
この灯は、平成15年7月、日米交流の発端となるペリー来航150周年の節目を祝う
第20回ニューボート黒船祭のおり、「NEW!!わかふじ国体」の矩火リレーに使用するため
採火されたものです。ニューポート黒船祭の祝砲の火種をはるばるアメリカロードアイランド州
ニューポート市から空輸し、「日米友好の灯」と名付けられました。矩火リレーとして利用後、
平成16年3月31日、下田開港150周年の際にこのモニュメントに
点火され、日米友好のシンボルとして灯もり続けています。日米友好の灯宣言下田市は、
日米友好の灯を灯し、日本、アメリカ合衆国両国民の永久の友好と親善を願い、
両国民の交流に貢献することを宣言します。」



『ペリー上陸の碑』。



「ペリー上陸の碑
嘉永七年(安取元年-1854)再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親桑約の交渉過程で、
開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。
下田港か外洋と接近していて安全に容易に近づけること、舶の出入りに便利なことなど要求
している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。条約締結により即時開港となった
下田に、ペリー艦隊か次々と入港した。ペリー艦隊の乗組員が上陸したのか、下田公園下の
鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、
『ペリー上陸の碑』が建てられた。この記倉碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、
記念碑の前の鐘は、アメリカ海軍から寄贈されたものである。」



『日本最初の開港地』
日米和親条約(神奈川条約)を締結したペリー艦隊は嘉永7年(1854)3月18日から
21日にかけて、下田に順次来航します。
3月18日  2隻  サザンプトン  帆船  567トン 艦長 ボイル大尉
           サプライ    帆船  547トン 艦長 シンクレ尉
3月20日  2隻    レキシントン  帆船  691トン 艦長 グラソン大尉
           バンダリア     帆船  700トン 艦長 ホープ中佐
3月21日    2隻    ポーハタン   蒸気船 2,415トン 艦長 マックラニー大佐
                           ペリー搭乗
                             ミシシッピー蒸気船 1,692トン 艦長 リー中佐
4月6日   1隻     マセドニアン 帆船  1,341トン 艦長 アボット大佐
(小笠原へ食糧調達に行っていたため、マセドニアンは遅れて入港)
浦賀に来たペリー艦隊9隻のうち、サスケハナ号は中国へ、サラトガ号は本国へ条約を
携えて行ったため、下田には7隻が来航したと。



アメリカ海軍から寄贈された錨。



下田港を臨む。



遠く寝姿山から下る『下田ロープウェイ』の青いゴンドラの姿が確認できた。



県道117号線を戻り、右折するとあったのが『史跡 安直楼』。



「史跡 安直楼
この建物は唐人お吉が明治15年より料亭 「安直楼」 を経営した店でお吉の没後当店が
寿司店を開業。
以来三代108年に渡り営業を続けて参りましたが、 現在下田市の歴史建造物(史跡)として
皆様方の見学に供しております。
二階には安直楼当時の客間と遺品なども保存してありますのでどうぞお気軽にお入り下さい。 
安直楼当時の雰囲気に浸るのも一興かと存じます。   (主人敬白)」



「安直楼
米国総領事ハリスに仕えた「お吉」が明治15(1882)年に、小料理屋を営んだ建物です。
安政4(1857)年、恋人鶴松との仲を裂かれて領事館に出仕したお吉は、以後、町の人達から
「唐人お吉」と蔑まれ、酒に浸って、やがて姿を消します。
年月を経て、当家 「安直楼」を開業したが、自ら酒に溺れて数年で店をたたむ。
幕末開港の陰に咲いた一輪の花お吉は、明治23(1890)年に稲生沢川に身を投げて
そのはかない生涯を閉じた。48歳であった。
なお、当家には、お吉の愛用の遺品も保存されている。」



『史跡 安直楼』を振り返る。『大工町』の道標も確認できた。



『KARAOKE Ra-maru』の建物の壁には ペリー・キンメ・アロハ、3パターンの
『ぺるりん』が勢揃い。さすが下田街中。全員マイクを持って、バンド結成か?
『ぺるりん』は、下田商工会議所青年部が2015年(平成27年)に考案した
下田市PRマスコットキャラクター。



交差点の角にあったなまこ壁の老舗の『松本旅館』。
この旅館は、安政2年に建てられ、築後約150年が経っていると。
現在も旅館業は続けられているようであった。



『松本旅館』の漢字の字体は貫禄と歴史が感じられたのであった。



ガラス戸が開いていたので中へ。
瀬戸物の更が陳列されていた。中には人の姿もなく。



ズームで。



角の左手には『下田酒場 もり田』。



「船宿角谷跡
下田における勝海舟(幕臣)と山内容堂(土佐藩主)が暴風の為、共に下田に上陸した。
山内容堂と勝海舟による下田会談(宝福寺)で坂本龍馬脱藩罪が許された。
船宿角谷には勝海舟、板垣退助など宿泊。山内容堂は宝福寺に宿泊。」



下田に昔からある老舗洋菓子店『日新堂』。 



『大久保婦久子』
「下田出身の日本画家「中村岳陵」画伯(文化勲章受章者)の影響を置け現在の女子美術大学に
進み「皮の染色」を学び前例のない「皮革工芸」の世界で独自の技法を開発(金唐草技法)
創造性豊かな作品を発表してきた。平成十二年「文化勲章」受賞、同年十一月四日急逝された。
同年十二月下田市名誉市民の称号を贈りました。
(現在のスナック房州屋(昔は旅館大正館)が生家でした。」

『日新堂菓子店』
「大正十一年創業の老舗菓子店。昭和天皇献上銘菓「下田節」。作家「三島由紀夫氏」がこよなく
愛した「マドレーヌ」など、歴史あるお菓子を作り続けている。」

『篠田雲凰』
「明治維新後開拓子女学校で儒学を専攻したが詩文……・能筆で美人の為・・・襟を正したという。
東京愛宕山麓に塾を・・・高橋是清、藤堂・・・・以下解読不能」



『森斧薬局跡』



森斧薬局は市内でも最も歴史のある薬局。
日本薬剤師第 1号 森 斧治郎 ( おのじろう )の森斧薬局跡。
隣家との間に伊豆石の壁がほんの少しだけれど観察が出来た。



『下田商工会議所』を右に入った場所奥にあったのが『櫛田蔵』。
明治30年から40年にかけて建築された伊豆石なまこ壁造りの蔵。



『下田商工会議所』前を通過。



『下田 了仙寺』前を通過。



『下田 了仙寺』前の交差点を右折し進むと左側にあったのが『欠乏所跡』。



『欠乏所跡』そして『貿易所跡 平野屋』。



『欠乏所跡』碑と案内板。



『市指定史跡 欠乏所跡 昭和五十一年五月二十七日指定 史跡』
「嘉永七年(安政元年-一八五四)三月に締結された日米和親条約により、開港場となった
下田では薪・水・食料・石炭など欠乏品を入港してくる外国船に供給することになった。
その上、「必要な品物その他相叶うべき事は、双方談判のよ。取りきめ候事」(第六条)との
あいまいな条文があったため、ベリー艦隊が入港すると貝細工・塗物・瀬戸物・小間物・反物等が
ここに設けられた欠乏所で売られた。貿易は認められていなかったが、欠乏品供給の名目で、
事実上の貿易が開始された。なお、石炭は北九州から運ばれてきて、鵜島の麓に建てられた
石炭蔵に納められていた。
役人の監督の下に、国内の売値よりずっと高値で品物が売られ、日米通貨の交換比率が米貨を安く
評価して交易が行われた。商人達は、欠乏品売込人世話役・欠乏品売込人と組織化されていった。
幕府は欠乏所売上げの三割を税として徴収したので、公には認めなかった貿易から思わぬ
利益を得ることになった。」



今は「喫茶と御食事 平野屋」になっていた。



ここが「喫茶と御食事 平野屋」の入口。



『下田市教育委員会 下田市立中央公民館』前に到着。



道路沿いにあったが『吉田松陰拘禁之跡』碑。



「吉田松陰拘禁之跡
幕末の志士吉田松陰は海外事情を学ぶため鎖国の禁を犯し密航することを決意した。
長崎に来港したロシア船への便乗を佐久間象山に勧められ急行したが間に合わず、
翌嘉永7年(1854年)3月再航したペリー艦隊を追って弟子金子重輔と下田へ来た。
機をうかがい夜中柿崎より小舟でペリー艦隊ポーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請したが、
ペリーに拒絶された。壮図空しく破れた松陰等がいさぎよく自首して拘禁された場所が、
ここ長命寺(廃寺)であった。 さらに平滑(ひらなめ)の獄に移され、同年4月11日には
江戸伝馬町の獄に送られた。松蔭等が下田に滞在した期間は24日の短いものであり、
また海外渡航は失敗に終わったが、その行動は幕末開港の歴史に欠くことのできない重要な
1頁を刻むものであり、後に与えた影響は大きかった。」



今回は訪ねることが出来なかったが、松蔭が密航を企てた弁天島の西に建設された公園には
「踏海の朝」と題した吉田松陰と金子重輔の銅像が建っているのであった。
以下、ネットからの写真。


        【 https://jibusakon.jp/history/bakumatu/yoshidakurofune 】より

これも訪ね残った三島神社内にある「吉田松陰像」をネットから。


         【 https://tokuhain.arukikata.co.jp/izu/2020/01/post_90.html 】より

そして次に訪ねたのが『泰平寺』。
『泰平寺』の入口が解らずほぼ1周してしまったのであった。



入口右の神社。



「長松山 泰平寺 臨済宗
            天正十八年(一五九〇)再建 開山 雪叟紹立
もと本郷にあって、建長寺七十三世仏印国師を請じて開山としたか、雪叟がこの地に移して、
下田領主戸田忠次を開基大檀那として再建した。
三河国田原の豪族であった戸田忠次は、天正十八年秀吉の小田原攻めに際し、徳川氏の下で功をたて
伊豆国が家康の支配下に入ると下田五千石を封じられた。海善寺の辺りに居館を構えていたが
慶長二年(一五九七)死去し、ここ泰平寺に葬られた。
跡を継いだ次子尊次は関ヶ原の戦いで功をたで五千石を加増、祖先の地三河田原に一万石をもって
移封された。戸田氏が下田を統治したのは慶長六年(一六〇一)までの十年余であったが、この間、
町並が整えられ、殿小路・紺屋町・町店町等の町名は当時の名残を示している。忠次の墓は田原への
移封により移されたが、第三代下田奉行石野八兵衛が泰平寺の故地に墓碑を建てて記念した。
これを知った尊次の孫戸田山城守は元禄三年(一六九〇)、当寺に忠次の墓(下田市指定文化財)を
再建した。
なお、幕末開港時の安政元年(一八五四)ロシア使節プチャーチンと和親条約の交渉に当った
応接掛川路聖 が当寺を宿舎にした。また、ここ泰平寺は伊豆横道三十三観音の第二十四番と
なっている。」



泰平寺にあった山頭火の句碑
『伊豆はあたたかく 野宿によろし 波音も』。
大山澄太揮毫、昭和57年3月に建碑された。
漂泊の俳人、種田山頭火は昭和11年4月に伊豆を訪れている。
伊豆訪問を心からよろこんでいることが感じられる句であると。



六地蔵が祀られていた。



入口から本堂を。
この寺は観光客には非公開となっているようであった。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.02.27 23:16:17
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: