JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.06.10
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​ ​ 『旧東海道を歩く』ブログ 目次 ​

『インクライン』を後にして、仁王門通りを『蹴上』交差点まで坂道を上る。



小さな休憩広場にあった『付近観光案内図』。



その隣には『京都市国際交流会館』が280mの場所にあるとの案内板が。
「kokoka(ココカ)」とは、「国際(kokusai)交流(koryu)会館(kaikan)」の頭文字で、
公募によりつけられた愛称とのこと。



そして右手下にあったのが『蹴上発電所(けあげはつでんしょ)』。
蹴上発電所は、京都府京都市左京区粟田口鳥居町1番地に設置され、関西電力が管理する
水路式・流込み式の水力発電所である。 琵琶湖第一疏水から取水し、琵琶湖疏水に放水している。
運転開始から125年以上経った今なお、現役の発電所として電気を送り続けているのだと。



「1890年(明治23年)に通水を開始した琵琶湖疏水第1疏水に関連して、翌1891年(明治24年)
6月に第一期蹴上発電所が運転を開始した。営業用としては日本最初の水力発電所である。
当発電所の電力は、近接する蹴上インクラインの動力源として用いられ、近隣に配電されたほか、
1895年(明治28年)に開通した京都電気鉄道(後の京都市電)でも使われた。
1912年(明治45年)、第2疏水の完成に伴い第一期蹴上発電所が取り壊され、第二期蹴上発電所が
開業した。1936年(昭和11年)には、第一期発電所の跡地に第三期発電所が建設された。
1942年(昭和17年)に京都市から関西配電に現物出資され、2017年現在は関西電力の発電所と
なっている。」とウィキペディアより。



左手の1段高い場所に合ったのが『ソティスウェスティン都ホテル京都』。



右手にあったのが『立正佼成会 京都教会』。



左手奥にあったのが『佛光寺本廟』。



『佛光寺本廟』の『山門』をズームで。



左手に『合槌稲荷神社 参道』。



「合槌稲荷大明神
ここには刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通の
南側、粟田口にあったと伝える。宗近は信濃守粟田藤四郎と号し、粟田口生條坊に住んだので
三条小鍛冶の名がある。稲荷明神の神助を得て名僧小狐丸をうった伝説は有名で、
謡曲「小鍛冶」もこれをもとにして作られているが、そのとき合槌をつとめて、明神を
祀ったのがここだともいう。なお宗近は 平安中期の人で、刀剣を鋳るのに、稲荷山の
土を使ったといわれる。」



合槌稲荷神社の先左手に『粟田神社』の一の鳥居があった。
粟田神社は、孝昭天皇の分かれである粟田氏が此の地を治めていた時に
氏神として創建したと云われている。



「粟田神社由緒
古くは山城国愛宕郡下粟田郷に属し、粟田郷は上粟田(北白川・浄土寺・鹿ケ谷・岡崎)
下粟田(三條以南)に分かれ、 この地は上古のころ孝昭天皇(人皇五代)の
皇子天足彦国押人命を祖とする一族が住み鉱物を穿ち粟や瓜を主食として、 中古熱田神宮が
奉祀されるや、一族熱田の社人として移り、土地名を残すのみとなれり。
その氏神として上古より祠ありしが人皇五十六代清和天皇貞観十八年(八七六)悪疫流行のため、
奉行藤原興世に勅して都の東、白雲の泡立つ郷の霊地に一社を建つ。」これ当社の社伝による創記である。 又伝う往古八坂神社を感神院と称するに対し、当社を感神院新宮と称し、祇園会無き年は
当社の祭礼として祇園会の代わりとなす記録あり。
依りて当社代祭礼は祇園会の始めの形なりと云う。」



訪ねなかった『本殿』をウィキペディアより。

【 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE 】より

手前に『三条神宮道』交差点。
「平安神宮」、「知恩院」への案内表示が。



神宮通りの『平安神宮 大鳥居』をズームで。



三条通神宮道西北角にあったのが『平清の道(へいせいのみち)』碑。
[東] 平清の道 
[南] 左   八坂神社から清水寺
[北]   右   南禅寺から平安神宮 
[西]特許庁登録   平成九年十一月 と刻まれていた。
「平清」とは平清盛のこと?それとも平清経?



『三条神宮道』交差点を先に進むと、街道左手のパークウォーク京都東山というマンションの前に
『坂本龍馬お龍「結婚式場」跡』が建っていた。
側面に『此付近 青蓮院塔頭金蔵寺跡』と刻まれていた。



「坂本龍馬お龍「結婚式場」跡
当地は青蓮院の旧境内でその塔頭金蔵寺跡です。 元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、
坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。
龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32)ごろに
聴きとられた、彼女の回想に詳しい。 お龍(鞆)は1906年まで生きていました。
一般には慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)
の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。 が、この話は根拠が薄く、
他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。
この地が選ばれたのはお龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。
その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。 当時は池田屋事件(6月)や
禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。
しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。
龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。
二人はながく別居夫婦だったのです。
当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟としてここに建碑します。」



ここがパークウォーク京都東山というマンションの入口。
暖簾には「丸に花菱」の家紋と浅井氏と書かれていたがどの様な関係があるのだろうか?



前方に歴史を感じさせる石橋が。



『白川』に架かる『白川橋』の袂に、『三条白川橋道標』が建っていた。



正面に「是よりひだり ちおんいん ぎおん きよ水みち」
この道標は、延宝6年(1678)建立で市内に現存する最古のものであると。



ここを左に折れて『白川』の流れに沿って進む。
白川は、滋賀県大津市および京都府京都市を流れる淀川水系一級河川鴨川支流の一級河川である。
流域のほとんどは京都市東山区および左京区に属している。
我々の目的地は『明智光秀の塚』。



『白川』沿いの柳の芽吹きを楽しみながら。



美しい新緑が青空に映えて。
一本目の白川『一本橋』が前方に。



『一本橋』手前左角に石碑が現れた。



『東梅宮 明智光秀墳』」 刻まれた弘化2年(1845)の道標。
ここを左折すると明智光秀の塚があった。



『明智光秀の塚』案内板。



左手に『明智光秀の塚』。



「明智光秀の塚
天正一〇年(一五八二年)六月二日、明智光秀は本能寺(下京区)に宿泊していた
主君・織田信長を急襲し、自害させました。しかし光秀は、備中高松城(岡山市)から
引きあげてきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)と、十三日に山崎(天王山)で戦って敗れ、わずかな
家臣とともに近江の坂本城をめざして逃れます。そしてその途中、小栗栖(伏見区)の竹藪で
地元の農民に襲われて重傷を負い、自害して家臣に首を打たせたといわれています。

光秀の首は、家臣によって隠されたといわれます。ですが吉田兼見という公家が記じた日記
『兼見卿記』によると、光秀の首は十五日までに発見されています。
十八日からは、粟田口(左京区)で重臣の首とともに晒されました。晒されたのは数日で、
二十二・二十三日には近くに埋め、塚を築いたことも記されています。
実際、『雍州府志』や「都名所絵図」など江戸時代の京都にっいて記した地誌類には、その塚が
蹴上附近にあり、三条通北側の人家の裏側にあると記されています。多くの書物に記されている
ことから、当時よく知られた名所であったことがうかがえます。
その後、江戸時代中期の安永~天明初年ごろ(一七七〇~八〇ごろ)に、蹴上の塚にあった
石塔婆がこの地に移されてきました。以来、この地が、明智光秀を弔う地として知られるように
なり、光秀の首もここに埋められたと伝えられています。
また明智光秀を弔う場所は、ここ以外にも、小栗栖の明智藪・胴塚があります。」



『明智光秀の塚』のこじんまりとした小さな社。



『長存寺殿明窓玄智大禅定門』と刻まれていたが光秀の戒名であると。



『子孫が解き明かす 明智光秀の実像』案内板。
著者の明智憲三郎氏についてウィキペディアには
「明智光秀の子の於隺丸(おづるまる)の子孫であると称している。
しかし、明治まで一族は明田(あけた)の姓を名乗っていて、曾祖父が伝承品を添えて政府に
明智姓への復姓を願い出て改名したという経緯だと云う。
明智光秀生存説(天海=光秀説/天海=秀満説)を唱えた明智滝朗は祖父。」と。



『明智光秀の塚』への路地の入口にあった、天保年間から続いている和菓子屋『餅寅』。
『光秀饅頭』の文字も。



様々な饅頭、和菓子が。



『光秀饅頭』、食べればよかったと・・・時既に遅し。


        【 https://ameblo.jp/k224679/entry-12163129424.html 】より


一本目の『一本橋』。
こちらは、有名な方の橋ではなく、橋の幅も広い。石が3つ並べられていた。
橋上で人同士ならぎりぎり行き違いできる幅があった。
明治時代までは、この橋も下流の一本橋と同じ幅だったと。
石の橋を一幅足して三本にして渡りやすくしたのだと。



『一本橋』を渡る。



柳の新緑の清々しさを楽しむ。



わずかに風に揺れて。



そして三条通りに戻り、この『旧東海道を歩く』もエピローグへと。
右手に紙専門の老舗『紙嘉』が。



『三条大橋』の文字も気のせいか大きく。



『東山三条』交差点。



そして『三条京阪』交差点を渡る。



左手にあったのが『高山彦九朗皇居望拝之像』
そして手前に『高山彦九郎先生皇居望拝之跡』碑。



三条大橋の手前の交差点左角に土下座して御所を遥拝する姿。



高山彦九郎は、群馬県の出身で18歳の時以来、前後5回上洛したが、京都に出入りする折には、
京都御所に向かって拝礼したと。



「高山彦九朗皇居望拝之像
江戸時代、ここ三条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入口であった。
今ここにある銅像は、高山彦九郎正之(一七四七~一七九三)の姿を写したものである。
高山彦九郎は、群馬県の出身である。 十八歳の時以来、前後五回、上洛したが、
京都に出入りする折には、この銅像の姿のように、京都御所に向って拝礼した。
その姿は
 大御門 その方向きて 橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 真心たふと 橘曙覧
と和歌に詠まれた。
明治維新を成就した勤王の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。
後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には、
人は武士 気概は高山彦九郎 京の三条の橋の上 遥かに皇居をネ伏し拝み 
落つる涙は鴨の水アサノサ 
と謡いつがれた。」



『高山彦九郎歌碑』をズームで。
寛政三年三月十五日 恐れみ畏れみ恪み謹みてよめる 正之
「われをわれと しろしめすぞや 皇(すめろぎ)の 玉の御声の かゝる嬉しさ」



『高山彦九郎正之先生御直筆歌碑』標柱もズームで。
寛政三年三月十五日恐れみおそれみつゝしみしみて謹みてよめる
「われをわれと しろしめすぞや すめろぎの 玉のみ声の かゝるうれしさ」



                              ・・・​ もどる ​・・・


                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.06.11 22:29:06
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