JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.05.23
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
「龍寶寺」の散策を終え、「山門」前まで戻り、左側にあった「玉縄歴史館」を
訪ねた。



「玉縄ふるさと館」を改修して2020年8月1日にオープンした「玉縄歴史館」。
鎌倉市植木128 。



料金200円を料金箱に入れて入館する。



「玉縄歴史館へようこそ
令和2年8月1日、玉縄ふるさと館は、歴史民族資料館、国重文古民家旧石井邸を含めて、
「玉縄歴史館」と名称を改めました。市民の声、市の博物館構想にも呼応して
「歴史館ギャラリー」もオープン、市民学芸員も増員し、鎌倉・玉縄地域の文化センターを
めざして再出発します。
この民俗資料館は、龍寶寺先代住職が伝統的な「農家の暮し」を惜しみ、地域から
民具農具の寄贈を受け、平成4年に展示したことに始まります.その後、収蔵品の老化が進んで
いたことから、玉縄城址まちづくり会議は平成20年から美化、補修、展示替えを行い、龍寶寺と
作業協定書、鎌倉市とリニューアル協働事業協定書を締結、平成23年3月「ふるさと館」を
発足させました。
ー階の展示は、主として玉縄城関係の歴史資料と自主制作したした玉縄城立体模型、玉縄城
城鳥瞰図、玉縄から出土した縄文期や後北条時代の出土品、その奥が新たにオープンする
「歴史館ギャラリー」です.そして2階には、玉縄のくらしを伝える農具や民具を展示しました。
また、農家では鎌倉唯一の国重文古民家旧石井邸、ここでは江戸時代の農家の暮らしと
住居様式を身近に体験できるよう、展示に工夫しています.
皆さま、どうぞゆっくりとご見学ください。」



「玉縄城」は永正10年(1513年)北条早雲(伊勢盛時)により築かれたとされているが、
それ以前から砦か小城があった可能性も考えられてる。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで
舟を繰り出すことが可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となった。
さらに鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面があった。
大森氏の小田原城を奪い、西相模に進出した北条早雲は東相模の相模三浦氏と争うが、
長期戦となった。この際、同氏の主筋である武蔵の扇谷上杉家当主上杉朝興が新井城に籠る
三浦義同の援軍として挟撃してくることへの備えが必要とされ、三浦半島の付け根に当たる
この地に玉縄城が築かれた。三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する押さえ、また小田原城の
守りとしての役割も担った。
祖 :北条早雲
初代:北条氏時
二代:北条為昌

四代:北条氏繁
五代:北条氏舜
六代:北条氏勝
の幟が展示されていた。



壁には多くの写真、そして模型展示も。



玉縄城地形模型。
玉縄城は、1512年(永正9年)、三浦氏攻略のために北条早雲によって築城された。
1526年(大永6年)の安房の里見実堯の攻撃も、1561年(永禄4年)の上杉謙信の
攻撃や1569年(永禄12年)の武田信玄の攻撃にも耐えた。
代々の城主は、氏時、為昌、綱成、氏繁、氏舜、氏勝。
しかし、難攻不落と呼ばれた玉縄城も1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に
徳川家康に包囲され開城した。
その後、本多正信が城主となったが、1619年(元和5年)に廃城となった。
中央が「玉縄城本丸」そしてその下に「大手門跡」。



出土した土偶埴輪や壺の展示コーナー。





絵画と甲冑。



花鳥風月図。



「玉縄城大手門模型」。中央の空堀に「大手門」が。



「玉縄城推定復元模型」。





お城散歩
    【http://kahoo0516.blog.fc2.com/img/20151101221626e97.jpg/】より

「玉縄城跡北東部の調査」。



「発掘調査成果」。



「玉縄城鳥瞰図の地名案内」。
「近年は宅地化が進み周囲に数多くのマンションが建築された。清泉女学院中学校・高等学校に

辛うじて龍寶寺から玉縄城大手口へと至る七曲坂、久成寺(鎌倉市)から同じく大手口へ至る、
ふわん坂・陣屋坂等が残っているが、それ以外に往時の状況を偲ぶことは困難である。」と。



「鶴岡八幡宮復元模型」(左)と「逆井城の物見櫓」(右)。



鶴岡八幡宮復元模型
北条氏綱による天文元年(1532 )から天文九年(1540 )まで八年間に及ぶ八幡宮の造営は、
その規模や建物配置は現存する仆物とはやや異なり今日知ることはできない。
しかし、天正一九年(1591 )豊臣秀吉による造営計画の図面である「鶴岡八幡宮修営目録見絵図」
が現存し、絵図はほぼ北条氏時代の建物を踏襲していると思われる。
本模型はこの絵図により作成されているので、氏綱造営の八幡宮の姿を思い浮かべることが
できよう。しかしながら、その指図による修営は、秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄、慶長の役の
ために中断し、下宮の修理しか行われなかった。」

鶴岡八幡宮の模型~豊臣秀吉造営時の鶴岡八幡宮:鶴岡文庫~

逆井城の物見櫓(茨城県坂東市に復元)(右)
四代城主北条氏繁が築いた『逆井城』。
このような高度な重層造物が『玉縄城』にも林立していたと推察されます。」

逆井城の写真:二重物見櫓 | 攻城団

「早雲公肖像画」と「戦国北条家系図と花押・印章」。



後北条氏の祖・初代・「早雲公肖像画」。

北条早雲 - Wikipedia

「2万年前から神奈川の海岸線の変化」。
6000年前は藤沢、茅ヶ崎、平塚地区は、かなり海岸線が奥にあったことが理解できたのであった。
そして我が家・標高41mは6000年前も陸地であった事が解ったのであった。



「鎌倉谷戸かるた」と発掘された貝殻類。



【戦国時代の鎌倉、その発見と検証展】について
この展示は、当会が企画協力した録倉歴史文化交流館における「戦国時代の鎌倉展」の貴重な
展示資料を、当ギャラリーに移転し開催するものです。ーっーっ、当会が発見し検証してきた
後北条氏、玉縄北条氏の事績を辿っています。
頼朝が幕府を開き、その後、室町幕府が東国を管轄する銀倉府を置き、鎌倉府が減亡すると
鎌倉が都市としての役割を失い荒廃していきます。そこに登場するのが伊勢宗瑞(北条早雲)
でした。
「枯るる木に 又花の木を植え添えて もとの都に 成してこそみめ」宗瑞は、こううたって
幕府の再興を誓い、その永正9年(1512)に鎌倉鎮護の城、玉縄城を築きました。
玉縄城は代々宗瑞遺訓を継ぐ玉縄城六代の城主が守り、関東経営に奔走し、そして鎌倉と周辺
領国を治めました。特に三代綱成、四代氏繁など英傑名君の事績は輝きを放っています。
宗瑞の後を継いだ小田原の北条氏綱は、玉縄城主と協力して、鎌倉八幡宮の再建を進め
鎌倉の寺社を積極的に保護するなど、あらたな都市計画をすすめました。
こうした鎌倉の再建には後北条氏の庇護をうけた多くの職人が当たり、後々まで鎌倉を
拠点に活躍します。
本展では、こうして荒廃した鎌倉で小田原の北条氏と玉縄の北条氏と鎌倉の人々がこの時代の
鎌倉のまちづくりを進め、現代に繋がる基礎を築いていった様子を玉縄城の史料を通して
お伝えします。
玉縄歴史館ギラリーは、私たちの10年来の夢を形にして、昨年の8月にオープンしました。
鎌倉の地域史を発見し、検証し、伝える場、地域の芸術文化発表の場としての役割を果たして
まいります。皆さまのご来場を心からお待ちしています。」



「関東戦国時代のはじまり
持氏の死後、鎌倉公方は不在の状態になりました。その間、関東では持氏の遺児を擁立した
ことにはじまる結城合戦(ゆうきがっせん)が、京都では将軍義教が暗殺される嘉吉の乱
(かきつのらん)が起こり、日本の社会情勢は混乱します。
その後、幕府の承認を得た足利成氏(しげうじ、持氏の子)が5代鎌倉公方になり、鎌倉府は
再興きれます。しかし、上杉氏、幕府との対立は続き、享徳3年(1454 )に成氏が関東管領
上杉憲忠(のりただ)を殺害したことにより、享徳の乱が起こります。鎌倉府は成氏方と、
幕府に援助された上杉方に分かれ、再び争うことになりました。翌年、成氏は鎌倉から出陣し
上杉方と関東各地で戦います。その後、成氏が鎌倉へ戻ることはなく、下総国古河
(現茨城県古河市)を本拠とし、古河公方と呼ばれました。鎌倉は関東の中心地という役割を
終え、荒廃していきます。



枯るる木に 又花の木を 植え添えて もとの都に 成してこそみめ
枯れてゆく木に、また花が咲く木を植え添えて、もとどおりの都にしてみせよう
伊勢宗瑞(いせそうずい)(北条早雲)」



「後北条氏の関東進出
初代宗瑞の跡を氏綱が継ぐと、姓を北条に改め、山内・扇谷上杉氏の領地である武蔵国
(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)を中心に領国を拡大していきます。一方、甲斐国(山梨県)の
武田氏や駿河国(静岡県の一部)の今川氏との対立により敵勢力に囲まれてしまいますが、
天文6年( 1537 )には扇谷上杉氏から武蔵国の河越城を奪い、北武蔵の覇権を握ります。
3代氏康の代には、山内・扇谷上杉氏の勢力を打倒し、さらに領国を広げます。
また、武田氏・今川氏との三国同盟を締結し、甥である足利義氏を5代古河公方に就任させる
ことで、関東での支配を盤石にしました。」



「北条早雲と玉縄城
北条早雲は、永正9年(1512)鎌倉街道上之道の要所に玉縄城を築きました。
以後、小田原北条氏と共に玉縄城主六代は鎌倉の寺社を守り、武家文化を守り
玉縄城の総構えを充実させ、関東を制覇する北条軍の先頭に立って戦いました。」



「北条氏の支配領域」。

ご意見募集中】北条氏(小田原北条氏、後北条氏)ゆかりの城 [お知らせ] | 攻城団(全国のお城検索サイト)

「戦国北条氏の主な武将の生没年」。



「玉縄北条関係系図」。



後北条氏と鎌倉
幕府の一家臣であった伊勢氏は、関東を支配する正当性を得るために、様々な手段を
尽くしました。
北条氏への改姓や古河公方への接近、そして鎌倉の寺社保護です。鶴岡八幡宮の修造は、その
代表的なものと言えます。修造にあたり、氏綱は鎌倉在住の職人のほか、小田原、伊豆、遠くは
京都、奈良から職人を集め、敵対する関東の諸将にも協力を要請しています。
これらの動きは、修造事業が単に八幡宮の建物の修復を目的としたものではなく、関東支配の
正当性を補完する意味を持っていたことを表しています。鎌倉を整備し、「もとの都に成す」
ことは、鎌倉幕府、鎌倉府に続く存在として後北条氏を位置付ける上で、極めて重要だった
のです。
長尾景虎(のちの上杉謙信)が、鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を行ったことからも、関東の武士
たちにとって、鎌倉が重要な場所であったことがうかがえます。」



戦国時代の鎌倉の町
明応6年(1497)の「善法寺分年貢注文」(相模原市光明寺蔵)は、戦国時代の鎌倉の町の姿を
伝えてくれる貴重な資料です。米町青物屋の三郎次郎・中座紙屋の右衛門四郎・銀細工の源三郎
塗師の助四郎など、商人や職人の名が記されています。彼らは、かって大町地域にあった善法寺
の門前に住んだ人々でした。「米町」や「中座」は、いずれも大町の地名で、鎌倉時代から続く
商業地でした。
また扇ガ谷地域には、大工や仏師、鍛冶職人が居を構えていました。特に寿福寺門前には仏所が
あり、仏師が多く住んでいました。鶴岡八幡宮修造を担った後藤善右衛門も仏師後藤家の出身と
考えられています。この後藤家をはじめ、三橋家・伊沢家・加納家などの仏師の家が、寿福寺
門前にありました。」



「扇ガ谷村絵図(鎌倉国宝館蔵)
同様の絵図が、江戸時代天保年間(1830 ~1844)頃作られており、同時期に作成されたと
推測されます。」



鎌倉の寺社復興
後北条氏は、初代宗瑞から5代氏直まで、鎌倉の寺社に諸公事(飛脚や陣僧※)の免除や所領の
安堵を度々行い、積極的に保護しました.代表的なものとして、建長寺、円覚寺、東慶寺の諸公事
免除などが挙げられます。3代氏康は、荏柄天神社の再興のために関所を設けて関銭や造営費に
あてた他、検地により各寺社に所領を寄進しています。
※陣僧・・・合戦に同行し、戦死者の弔いや敵方への使者をつとめる。」


北条氏綱の鶴岡八幡宮修造
大永6年( 1526 )、里見氏との合戦により、鶴岡八幡宮は大きな被害を受けました。これを
受けて、氏綱は八幡宮の修造を計画します。その様子は、八幡宮の僧快元が記した
『快元僧都記』に詳しく書かれています。それによると、まず修造にあたり全体を統括する
総奉行が置かれ、大道寺盛昌ら5名が任命されました。その下に、仕事内容などにより担当が
分けられた奉行や職人をまとめる大工、職人たちがいました。修造は天文元年( 1532 )から
始まります。
はじめに上宮仮殿の造営が行われ、同5年( 1536 )に仮殿が完成し遷宮を行い、同9年
(1540 ) 11月に上宮の正殿が完成し、正殿遷宮が行われました。氏綱は、翌年死去しますが、
その後も下宮の修造は続けられ、同13年(1544 )にようやく全ての修造事業が完了しました。
修造と同時に、浜の大鳥居の造営も行われています。浜の大鳥居は、八幡宮創建当初に参道の
最も南に建てられたといい、後北条氏の時代にはなくなっていました。氏康はそれを再建し、
天文22年(1553 )に完成させます。1990年の発掘調査により、現在の一の鳥居から約200m北の
地点で柱の跡が見つかり、これが氏康の建てた浜の大鳥居であると考えられています。」



後北条氏滅亡後の鎌倉
天正18年(1590)に豊臣秀吉により小田原城を攻められ、後北条氏は滅亡します。
玉縄城城主の北条氏の菩提寺であった龍宝寺の僧良達らの説得により開城します。
勝は、はじめ降伏を拒みますが、玉縄北条氏の菩提寺
こうして鎌倉は、後北条氏の手を離れます。
しかし、後の時代になっても武家政権の古都として鎌倉は重要な土地であり、豊臣、徳川の
時代にも手厚く保護されます。秀吉は、後北条氏を滅ぼした直後に鎌倉に入り、氏綱以来となる
鶴岡八幡宮修造を徳川家康に命じます。天正19年(1591)には、その設計図として修営目論
見絵図が作成されました。文禄元年(1592 に下宮が完成し、江戸幕府2代将軍秀忠のときに
八幡宮全体の修造が行われます。
江戸時代に、鎌倉は参詣・遊山の地となり、鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺などをはじめとする
寺社は、人々の尊崇をうけ続けました。」



「玉縄北条氏
鎌倉の統治は玉縄城を中心に行われ、代々後北条氏の一族が玉縄城主になりました。
氏綱の弟氏時が初代城主になり、氏綱三男の為昌が2代城主になりました。為昌が若くして
亡くなると、為昌を補佐していた北条綱成が跡を継ぎ、これ以降は綱成の子孫が玉縄城主に
なりました。綱成は、福島氏の出身で、氏綱から「綱」の字をもらって綱成と名乗り、
氏綱の娘(大頂院殿)を妻にしました。また、鎌倉を直接治める役職として、鎌倉代官が置かれ、
主に大道寺氏がその役割を担いました。」



「玉縄城史
玉縄城は、永正9年(1512 に伊勢宗瑞により築かれました。相模国東部を支配していた三浦道寸
(義同)を攻めるため、三浦半島の付け根の位置に築城されたと考えられています。
また、武蔵国や房総半島に対する拠点でもありました。宗瑞の子である氏時が初代城主になり、
その後為昌(氏綱三男)、綱成、氏繁、氏舜、氏勝と続きます。玉縄城は、永正15年(1518 )に
扇谷上杉朝興、大永6年(1526 )に里見氏、永禄4年(1561)に長尾景虎(この時に関東管領に
就任し上杉政虎と改名。のちの上杉謙信。)、同12年(1569)に武田氏の攻撃を受けますが、
いずれも落城しませんでした。特に大永6年の里見氏との戦いは激しく、討死した甘粕氏以下
35名を供養する「玉縄首塚」が現在も鎌倉市岡本に残っています。この戦いによって
鶴岡八幡宮は焼亡し、氏綱の手で修造事業が進められました。」



「玉縄城 ジオラマ」。



「玉縄城のすがた」。



「長谷川雪堤・画 植木村 龍寶寺」。



「山門図」。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 15:27:31
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