JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.08.08
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カテゴリ: 国内旅行
町と村 」。



町と村
忍城の城下町としての行田町は、かつて上、下、新町の3町で、のち八幡町が加わり4町となった。
町の行政は、村の名主にあたる町年寄によって統括されており、のちには町年寄の下に、
町年寄見習、町年寄格、表立などの役ができ、特に表立は、直接一般町民と接する役割を
果たしていた。
村の場合、忍藩においては、城周辺の村々を佐間組、持田組、皿尾組、 谷郷組の四組に分け
割役名主を置いた。

に陣屋を置き、勘定奉行、郡奉行の指揮下に代官が民政全般に当たった。」



忍城建物入札番号記 」。



手前に「 両替商看板 」。
むかしの銀行の看板。



忍城建物入札番号記
ニの丸御殿や大手門、三階櫓など主要な建物に1番から1 8番まで番号をつけ、希望者は名前と
金額を書いた紙を提出するよう通達が出た。



忍城入札結果 忍城の解体
城郭の管理は明治政府の成立後も江戸城、大阪城といった江戸幕府直轄の城郭を除き各藩に
委ねられていた。しかし、各藩とも財政の窮乏などから城郭の維持をあきらめ破却や
修理取止めを明治政府に申し出た。
忍藩も明治3年(1870) 8月に、忍城は破壊するに任せ修理を加えないことを申し出て認可された。
明治4年(1871) 7月に廃藩置県が行われ、忍藩は忍県となるとニの丸御殿は忍県庁として
利用された。しかし同年11月に埼玉県が成立するとニの丸御殿は政庁としての役割を終えた。
明治4年(1871) 12月、城郭を管轄する兵部省は関東地方と甲斐国・駿河国の城郭の存廃調査
報告書を提出させた。その中で忍城の評価は「城郭ノ四面悉ク沼地ニシテ水満テリ、土地極メテ
卑湿往々水難アリ、其他城外高燥ノ地ナシ、廃シテハ如何」と記されている。
明治5年(1872) 2月に陸軍省が設置されると同省は武官を各地に派遣し調査に当たらせ、
翌6年(1873) 2月に城郭の存廃を決定し、不要な城郭は大蔵省へと引き継がれた。忍城も廃城と
決まり城内の建物は競売に付されることとなった。ニの丸御殿や大手門、三階櫓など主要な建物に
1番から1 8番まで番号をつけ、希望者は名前と金額を書いた紙を提出するよう通達が出た。
落札金額はニの丸御殿635円、三階櫓175円4銭余などで、これに別ロの建物を加えた総額は
2,334円81銭であった。こうして忍城の建物は地上から姿を消していった。」



描かれた忍城下
増補忍名所図絵 』は、洞季香斎の編述した『忍名所図絵』を、忍藩士岩崎長容か、藩主の
命により増補を加え、天保6年( 1835 )完成したものである。
もともとの『忍名所図絵』は、香斎が序文で明らかにしているように、『江戸名所図絵』に
ならって作ったもので、忍城下の名所・古跡・神社仏閣その他の由来や、物産なとを紹介し、
ここに展示した風景画などを加えた地誌である。
天保6年に岩崎により増補されたものが現在残されており、当時の忍城下を知る唯一の資料
である。
岩崎長容は、通称角兵衛といい、国学者であるが、絵を好んだ人である。」



増補忍名所図絵 」。
上記の繰り返しになるが「増補忍名所図会」は文政8年 (1825)に書かれた「忍名所図会」を元に
天保6年 (1835)、 同11年(1840)と2度の改訂を経て作成された地誌です。
忍城周辺の忍藩領を 東西南北に分け、神社仏閣、名所旧蹟などを挿絵を交えて詳細に
記されています。
文政8年 (1825)  洞李香斎が「忍名所図会」を著作。
          現在その所在は確認出来ていない。
天保6年 (1835)  忍藩主松平忠尭の命によ藩士岩崎長容が「忍名所図会」を増補。
          天保 6年版と思われるものの写本 が行田市郷土博物館にある。
天保11年 (1840)  岩崎長容が2度目の増補版を作成。
          名勝の地、古書の図、古器などの追加と、引用文書・口碑の類いを補足。
          忍八景の図と寺院神社は熊谷寺以外の図を削除。
          天保 11年版は須加村川島家をはじめ、幾つかの写本が確認できる。



増補忍名所図絵 」に向かって右側から「 荒川
左上に「甲州山」そして「富士山」。



ネットから(以下同じ)。



次に「 忍城眺望 」。





荒川猟鮎 」。





川(利根川) 」。





刀弥(利根)の川原 」。





小見村観音 岩窟之圖 」。





蓬莱山熊谷寺 」。





熊谷次郎直実 」。





街道と交通



街道と交通
江戸時代の行田町は館林道と日光脇往週のニつの街道が城下町の手前の佐間ロで合流し、
町の中心を貫けていたため、旅行者や物資が行き交う宿場町でもあった。新町と本町の境の
T字路には高札場が設けられ、町年寄の家が集まっており、樋口家や加藤家が本陣、梅沢家が
脇本陣を兼ねていた。物資の輸送を担う人馬も常備されており、安永5年(1776)には25人・
25匹と定められたが、その費用は町民が家の間ロの広さに応じて負担していた。
また、埼玉村から館林道に合流する騎西道や、持田村を経て熊谷宿へと向かう道、谷郷村から
北上し利根川へと至る道などの間道もあり、城下町行田を中心に道路網が放射状に延びていた。」
忍御領分絵図
忍城と周辺の村や道、水路などを記した絵図。
城を中心に置き、その周りを城附四組:佐間組・持田組・皿尾組・谷郷組)の村々が囲み、その外に
小判型をした他領の村々が表示されている。道を赤、河川を水色、堤を緑、村境を紺色で表し
城の記載は省略されているが、領内の寺社名や境標、堰を記している。
利根川を右(北)、荒川を左(南)に配置し、ニつの大河に挟まれた藩領の道や水路の位置を一目で
眺めることができる絵図である。」


忍御領分絵図」。



ズームして。
城を中心に置き、その周りを城附四組:佐間組・持田組・皿尾組・谷郷組)の村々が囲み、その外に
小判型をした他領の村々が表示されている。道を赤、河川を水色、堤を緑、村境を紺色で表し
城の記載は省略されているが、領内の寺社名や境標、堰を記している。



木曽街道 」。



「木曽街道 上尾宿 加茂之社」
作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)
日付: 1835頃
木曽街道六十九次は1835年から1842年にかけて出版された浮世絵で、木曽街道(中仙道) 69宿に
起点の日本橋と中津川宿の習絵各1枚を加えた71枚
からなる。当初、渓尞英泉が日本橋から本庄宿までの11枚に加え、宿場を飛び飛びに13枚の
24枚を描いたが、その後、歌川広重が引きいでいる。版元も当初の堂から錦樹堂に変わっている。
この作品は、木曽街道のうち、日不橋から数えて5番目の上尾宿付近の農家が、風撲機で毀物を
精選し俵詰めしている様子を描いている。農家の家屋内では、座繰りによる糸繰りが行われている。
隣接する加茂神社は、当時大衆の信仰を隻めていた。



川舟 」。



川舟
行田市は北に利根川、南に荒川が流れ、その中心に位置する忍城のまわりにも大きな沼があり、
かっては船をつかった往来が盛んでした。
また、川での魚とりや利根川の洪水の時に避難するためにも使われたので、町中の商家でも
持っていました。
利根川の沿岸には、こうした川船を造る船大工がいました。この船は行田市下中条に住んでいた
最後の船大工、中島徳ーさんが造ったものです。
昔は「利根川の水が上から下に流れるあいだは、船大工の仕事はなくならない」といわれた
そうです。しかし、鉄道や道路、橋ができてから船の仕事は減り、今では船大工は一人もいなく
なってしまいました。」



「駕籠(かご)」。



五海道其外延絵図 館林通見取絵図(国指定重要文化財)」



五海道其外延絵図 館林通見取絵図(国指定重要文化財)
この図は、江戸幕府が作成した五街道と脇往還の絵図集の一つで、館林道を描いたものである。
城下町や宿場、街道の様子を俯瞰的かつ詳細に描いており、近世交通史の第一級の資料である。
館林道は中山道を鴻巣宿北の箕田から分かれて堤根村、佐間村を通り、城下の手前の佐間ロで
荒川を渡って吹上村からきた日光脇往還と合流し、行田町に入る。新町・本町・下町を通り
長野村、小見村、荒木村を経て上新郷村(羽生市)から利根川を渡り、館林町を通って
例幣使街道の天明宿(栃木県佐野市)に達する。八王子千人同心が日光東照宮の火の番に向かうのに
通ったり、将軍の日光社参の際にはこれに従う御三家が日光街道の混雑を避けるために通行した
いわば日光街道のバイパスである。特に天保14年(1843)の将軍徳川家慶の日光社参の際には、
4月に御三家の尾張藩主徳川斉荘・紀州藩主徳川斉順・水戸藩主徳川斉昭が宿泊や通過、5月に
御三卿の清水斉彊、一橋慶壽が通過した。」



岐阻街道 桶川宿 曠原之景(きそかいどう おけがわじゅく ひろはらのけい) 」。

木曽街道六十九次は1835年から1842年にかけて出版された浮世絵で、木曽街道(中仙道) 69宿に
起点の日本橋と中津川宿の習絵各1枚を加えた71枚からなる。当初、渓尞英泉が日本橋から
本庄宿までの11枚に加え、宿場を飛び飛びに13枚の24枚を描いたが、その後、歌川広重が
引き継いでいる。版元も当初の保永堂から錦樹堂に変わっている。
現在の埼玉県桶川市当時は日本有数の紅花の産地でした。
軒下で乾燥仕事をしている女性に通りすがりの旅人がにこやかに話しかけている情景です。
道中浮世絵では珍しい構図です。



岐阻街道 鴻巣 吹上富士遠望 」。
作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)
日付: 1835頃
この作品は、木曽街道のうち、日本橋から数えて7番目の宿の鴻巣と8番目の宿の熊谷の間に
あたる吹上から、遠く望む富士山を背に広がる関東平野を行きかう旅人達を描いている。」


岐阻街道 熊谷宿 八丁堤ノ景 」。
この作品は、木曽街道のうち、日本橋から数えて8番目の熊谷宿の茶屋付近のようすを描いている。
あんころ、うんとん(うどん)の看板を掲けた茶屋では馬子が一服。供を連れた一行。
道標には「右おしけうだ(忍行田)道」「左深谷ニ里廿丁」と記されている。


岐阻街道 深谷之驛 」。
作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)
日付: 1835頃
この作品は、木曽街道のうち、日本橋から数えて9番目の深谷宿の夜の遊郭のにぎわいを
描いている。
深谷宿は木曽街道最大の宿場の一つで、多くの旅籠のほか、本陣・脇本陣、遊郭もあった。



支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場 」。
作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)
日付: 天保6- 8年(1835-1837年)
宿より5.5キロ離れた神流川渡し場を題材としている。背景の山は上毛三山であり、右から
赤城・榛名・妙義山である。土橋は初代戸谷半兵衛こと光盛が架けさせたものであり、
長さ30間(約55メートル)、幅2間(約3.6メートル)。出水で橋が流された場合に備え、
別に長さ5間5尺(10.6メートル)、幅7尺の渡し船も用意された。光盛は無賃渡しとする為に
金100両を上納した。また、右手前(および向こう岸)の常夜燈は3代目戸谷半兵衛こと光寿が
寄進したものである(在地豪商である戸谷半兵衛家の経済力と影響力がうかがえる浮世絵と
なっている。)」



道標 」。



道標 佐間・三軒茶屋
左 ささい道 右 加うのす道 」。



街道の風景
石田堤は天正18年(1590)の忍城水攻めの際に石田三成が築いた堤防である。ー里塚は下忍村と
佐間村、埼玉村の境に築かれた。
もとは道の両側にあったが、西側は崩されて東側のみ現存している。川俣関所は上新郷村
(羽生市)の利根川の堤防付近にあり忍藩が管理していた。現在は石碑を残すのみだが、
住来する船や川を渡る人々の取締にあたった。」



県指定史跡
石田堤
昭和三十四年三月二十日指定
この堤は、天正十八年(一五九十年)六月、石田三成によって、忍(おし)城水攻めのために
築かれたことから、石田堤と呼ばれています。
天正十八年三月に始まる、豊臣秀吉の関東平定に伴い、北条氏に味方する、成田氏の拠城で
ある忍城は、同年六月、石田三成、大谷吉隆、長束正家らによって、包囲されてしまいます。
石田三成らは、地形を見て、忍城を水攻めすることにし、全長二十八キロメートルに及ぶ堤を、
わずか一週間で作り上げたと言われています。実際には、自然堤防や微高地を、巧みにつなぎ
合わせたものと思われ、現在残っているこの堤も、自然堤防上に一~二メートル程盛土をした
ものです。
こうして堤が完成し、利根・荒川の水を引き入れたのですが、地形的に、城や城下町より、
下忍・堤根方面に水が溜ってしまい、遂には堤が決壊して、水攻めは失敗に終ります。
しかし北条氏の降伏により、忍城は遂に開城するのです。
今日では、ここ堤根に約二百五十メートルの堤を、残すのみですが、江戸時代、日光裏街道沿い
樹えられた、樹齢三百年余の松や檜葉が並ぶ様は、往時をしのばせる、貴重なものと
言えましょう。
                        石田堤を守る会
                        埼玉県教育委員会
                        行田市教育委員会」



川俣関所 」。
日光裏街道
鴻巣から熊谷に出ないで、行田から上新郷を経て利根川を渡り、日光へ行くことができる。
この道を日光街道といっていた。
元和3年家康の遺骸は、ここを通って日光へ送られた。その時は八王子から川越に出て忍城に
はいり、川俣で利根川に渡った。ここへは慶長年間から明治2年まで250余年間関所があった。
昭和橋から約30メートル上流の上新郷別所地先の堤の中段に、高さ2.4メートルばかりの
長方形の関所址の碑がたっている。
江戸より両毛に通ずるこの要地は、忍藩の番士4人の内2人は帰農し、1人は不明だが、もう1人は
横浜で医業にたずさわっていた。
関所の所在地は利根改修で廃滅してしまったが、石碑から東北百間を去る堤外地であった。



                                 ・・・もどる・・・



                 ・・・つづく・・・

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Last updated  2023.08.08 06:15:08
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