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2007.02.27
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カテゴリ: その他の読書録
 芥川賞作家であり禅僧でもある著者による禅入門。

二、悟った人にはどう見えるのか
三、日常をどう生きるか
四、あらためて、「私」とは何者なのか
五、風流に生きる

の五章からなる。
 正直なところ、理解できない部分がほとんど。仏教の理論だけでなく、西洋の哲学や宗教の考え方なども交えて解説していて、範囲が広く、抽象的なところが多い。
 そもそも、禅や宗教というのは抽象的なものなのだから当然こうなるわけだ。

 はたから見ると究極の目的のように見える「悟り」についても述べている。
 著者は「お悟り」と言っている。
 その境地に達すればすばらしいことが起こるのかというと、実は、そうではないらしい。
 なんと、「お悟り」は生活の役には立たず、
「お悟り」の状態でその辺にいられたら、じつは邪魔になるだけなのである。(p123)

ということだ。

 「禅は道教の嫡流にあたる」(p176)のであり、「禅は道教の弟分であり、道教はもともと張寿を追求した技術者の集団だった」(p189)のだそうだ。
 事の是非はわからない。すくなくとも、臨済宗ではそう考えているのだろう。

 具体的な事例を挙げたところはわかりやすい。
 金子みすゞを、
無理な表現に自分の全体を合わせ、方便であることを忘れていくから(p200)

と評したり、宮澤賢治については、
「志」がキツすぎた気がして仕方がない(p200)

と言ったりするところはよくわかる。
 彼らの境地は禅の目指す境地とは異なるのである。
 しかし、禅の境地で生活すれば幸福になれるのかというと、そういうわけではない。
未来を批評的に観測してどれかを選ばなくてはならない場合、禅はほとんどその基準を提供してくれない(p203)

のだ。

 「あとがき」に「ずぼら」の語源は「坊主」だということが書いてあるが、そうではないという説の方が有力のようだ。



 著者が副住職を務めるお寺「福聚寺」に「ふくじゅうじ」とルビが振ってある。(p102)
 地元では誰もがそう発音する。
 しかし、芥川賞を受賞したとき、記事で「ふくじゅじ」となっているのを見て、言われてみれば「聚」は「じゅ」だ、と、「ふくじゅじ」が正しいのだろうと思っていたのだが、さて、どっちなのだろう。

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Last updated  2007.03.03 08:20:16
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