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過去を振り返ってみた時、懸命に登ろうとしている私がいた。何かに向かって、何かを手に入れようと必死に...そして、そのために様々な道具の力を借りながら...時にはその道具の力でものすごく速く登れたり、自分に力がわいてきたりする。周囲の人も懸命に登っている姿を見て、「まだまだ」と言いながら登る。しかし、鼻の先にぶら下げた人参を追うかのように、頂上は私と同時に上へ上へと移動していくようだ。時には頂上に着いたかのように見えた。しかし、それは仮の頂上だった。その地点でよく見てみると山はまだ続いていた。ある時、上がだめなら、下へ降りてみようと思った。その時、「何だこんな方法があったのか」とすごい衝撃を受けた。私の中で何かが大きくシフトした。下へ降りるのは登るよりずっと楽である。しかも、何だ頂上を目指していたけれど、欲しいものなんてすぐ手元にあったんじゃないか、という気になる。どんどん降りる。何かずっと打ち寄せてばかりいた波がさぁっと大きく引いていくような感覚があった。その波が引くと同時に波にかくれて見えなかったものが見えてくる。どんどん降りる。降りてみれば、もう登る必要を感じない。ただ、平面を歩いていろいろな所へ行ってみればいいということがわかる。頂上には何もなかったのかもしれない。しかも、自分で頂上を創り上げて登れ、登ると何かがあるぞ、と言い続けてきただけなのかもしれない。でも、登ってみてよかった。登る経験はとても大切だった。頂上なんてないことがわかったし、何より登らなければ降りることはできなかったから...
2007.05.17
「この瞬間の全てが愛である」 すごくシンプルであるが、この意味はとても深遠である。人の意識でどのようにもとらえることができる。この深遠さに気付くには、やはり経験が必要だ。だから、私達は経験しているのだ。その時思った。この深遠さを表現するには限界がある。しかし、次の瞬間また思った。その限界を設けているのは、自分自身である、と...その表現に限界などないことを信じればいい。そして、私達の受け止め方一つでこのシンプルなセンテンスはいかようにも広がる。深さ1センチにもまた無限大にも... そしてその受け止め方の深度を深めるために私達は経験し、このシンプルなセンテンスに今触れているとも言えよう。同じ人が同じ本を読んでも、その時その時で感じ方が違う。前回何も感じなかった部分に次回接した時、目からうろこになるときだってある。 だから、人間は面白い。この瞬間をどう生きるか...今の私のテーマはそれである。「この瞬間の全てが愛である」この素晴らしさに本当に気付くと物事への抵抗の必要を感じなくなる。この瞬間の出来事への反応、それが次のこの瞬間を生み出している。 私の中には教師がいる。私達全員の中にこのような教師がいるのだ、と信じるだけでその教師とつながることができる。今まで私が疑問に思ったことは何でも教えてくれた。それも、教室型ではなく、実践型が主で、時には本当に理解できるようにユニークな方法を使う。手取り足とりもしてくれるし、時間も十分かけるし、手本も見せてくれる。明け方の意識の中で様々なことについて言葉で解説してくれたりもする。時が経てば、この教師と一心同体になってくる。 その教師は言った。「今は体操しているんだ」なるほど、体操はそれ自体、完璧なものである。その体操があるからこそ、安全にしかも確実に向かうべき方向に行ける。体操一つ一つは大切なものである。それをなおざりにすれば、痛い思いをするだろう。伸ばすべて筋は伸ばし、自分の体の調子を確認しながら、時には筋肉や筋の変調を見つけ、その回復に労力しなければならないことも知るだろう。 その体操一つ一つを喜んでやるのか、また逃げ出そうとて画策するのか...人生はそんな例えとして捉えることもできそうだ。
2007.05.13
「死」さえもレスポンス...こんな言葉が頭の中を時々横切る。私達の抱く恐れというのは、突き詰めれば、全て「死」につながっていると思う。だから、「死」について知ることは、意味のあることだろう。恐れというのは、厄介なもので、なかなか普段の生活では意識しない部分であるが、この恐れに基づいて行動している部分がどれほど多いか...「こうなった時のために」という最悪の前提条件のもとに貯金したり、保険に入ったりすることもそうだし、仕事がなかったり、また豊かでないということにおいても、それに伴う憂鬱感の裏側には「死」の恐怖が根強くある。恋愛がうまくいかない、社会的に認められた立場にないなどということにしても、これはその人間の存在価値の問題が関わっていて、その存在価値が失われてしまうと生きる気力を失うことを私達は深層意識で知っている。だから、憂鬱になるし、不安になるのだ。もちろん、不安をもとに行動するのが悪いということではないけれど、同じ行動を起こすにも、恐れに基づいて行動するのとそうでないのとでは、違う状況がやってくる。「死」が最大の恐怖ではないことを認識することは、私達を恐れという呪縛から自由にしてくれる。自分の中にある恐れについて、深く探ってみるのはとても意味がある。私の場合、「海」と「幽霊」はとても怖いものだった。「海」については、恐らくどこかの生で海で死んだことがあるのだろう、何だかのみ込まれそうな得体の知れない恐れがあった。これは、私のコントロールが効かない、私の意志とは別の大きなものに殺されてしまうというような感覚を伴っていた。「幽霊」については、幼い頃から想像していたのは、恐ろしい顔をして突然わけもなく現れ、私を困らすというもの。やはり自分の力ではどうにもならない得体の知れないものという感覚を自分の中に確認した。「海」にしても「幽霊」にしても、これは私自身である。つまり、私自身を恐れていることがわかった。この「私自身」という言葉をどうとらえるかは人それぞれだが、私の場合は宇宙そのものととらえている。(もちろんこの宇宙は私内側にもある)つまり、私は私自身を得体の知れない恐ろしいもの、コントロールが効かない、意志に反して私を恐怖に陥れるものであると思っていた部分がある。そして、実際そのような状況を創りあげてきたのだった。何かに運命にいたずらされているように感じていたが、それを創っていたのは自分自身だった。二元性の観点から考えれば、生があるから死が存在できることになるが、そこから離れてそもそも死も生も表裏一体の同一のものであると考えると、死は単なる私たちのレスポンスに過ぎないのかもしれない。
2007.05.04
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