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孵化4日目のフィン(仮) 昼前の水・青菜交換時に、サカ坊とガイはカゴを留守にすることにしたらしいので、今後、焦点のあった写真が容易に撮れそうだ。それで、交換をしながらたびたび様子をうかがっていたのだが、実によく動くヒナで、擬卵の上を泳ぐようにあっち行きこっち行きしていた。 すでに、まぶたも形成され始め・・・、つり目かな?活発な文鳥に育ちそうだ。つまり、親類のお姉さんアラピとの絡みが、今から楽しみだ。 なお、アラシはフィン(仮)の父サカ坊の孫で、母ガイの腹違いの兄マナツの孫だったりする。複雑すぎてわからないが、ようするに父方でも母方でも親類なので、異性でも、両者のカップリング予定はない。
2014年09月30日
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脚とお尻が可愛い孵化3日目のフィン(仮) 見事に転んで肋骨にヒビが入った(たぶん)件、道路維持課に改善を要望したわけですが、今日、係りの人たちが現状の確認にいらっしゃっいました。川口市は対応が早く素晴らしい、と褒め称えさせていただきます。川口の素晴らしさは、画数が少なくて、住所を書く際に楽、と言うだけではないのです(大関どころか横綱にさえ引き相撲で勝ってしまう、心臓に毛の生えた力士の所属する湊部屋も川口市にあるのです)。 それはさておき、↑は昼前に撮影したもの。サカ坊がツボ巣の上部をむしって「青天井」状態にしているので、ツボ巣の中も明るく、自動で焦点が合うので、ありがたい。 ↓は、やはりピントが微妙に合っていない今夜の写真。それでも、そのうに粒エサが確認できる。問題なく育ってきているようで、ありがたい。
2014年09月29日
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孵化2日目のフィン(仮) 噴火の予知は不可能と自覚しながら、危険レベルを平常とし、それを信じ危険性などまるで感じず、ただ紅葉を見に行ったような登山客が、三十名余も降灰に埋まる重大な結果を招いた。 危険だからと言って、活火山に人を近づけないで良いのか?そんなことは、火山の予知をする学者の知ったことではあるまい。予知ができないという現実がある以上、いつ噴火するのか分からず危険だ、とする以外にあるまい。予知など出来もしないくせに、レベル何とかなどと素人を油断させ、危険地域に呼び込んでしまっただけではないか。予知できるできると研究予算のことばかり考えず、学者の良心に照らして、猛省すべきだと思える。 ヒナ君は元気そうだ。ただ、母ガイは、まだお遊び気分な感じで、父サカ坊は、早くも疲れた雰囲気となっている。 少々心配だ。 両親ともに巣ごもりして動かないタイプではないので、放鳥時間中に掃除を始めると、カゴの外に出ていってしまう。留守宅のヒナは撮り放題で、その点、ツボ巣はデジカメを突っ込んで取れば良いので楽で良い。ただ、テキトーに同程度の距離に焦点を合わせて撮るので(ツボ巣の中は暗くて焦点が合わない【文鳥が驚くので光を出して距離を測る機能は用いない】)、微妙な違いでボケてしまいがちだ。早くコツをつかみたい。
2014年09月28日
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綺麗な形で落ちていた卵殻出目金?ヒナすでに給餌を受けたらしい 昼前、水の交換及び一部放鳥の際、サカ坊・ガイのカゴの底に卵の殻を発見する。そこで、デジカメで巣の中を撮影すると、昨夜はいなかった赤ん坊がいた。赤ん坊、赤いイモムシ状物体・・・。早くも給餌を受けたようだ。クチバシは真っ黒で・・・、目が大きいのではないか?出目金のようだ。少々奇妙な顔つきになるかもしれない。 15代目。名前はどうしたものか。グイチもしくはグッピンの丁(2個のサイコロの目が、5と1で偶数という意味)からグッチ?グッピ?1、5なのだから、むしろピング?ストレートにイチゴちゃんも有りか・・・、しかしオスだとおかしくないか?逆に語呂合わせでトーゴ君とすれば、メスだと困りそうだし・・・。やはり、以前から予定しているフィフティーンからフィンが無難か。まだ順調に育つとは限らないので、追々決めよう。 夜、写真を撮ってみたら、擬卵を抱えて眠っているようだった。親鳥たちの育雛能力に問題はなさそうだ。 擬卵を抱えるフィン(仮称)
2014年09月27日
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前回で手仕舞いの予定でしたが、ベッドで養生する時間に、新潮の村岡訳『赤毛のアン』を読了し、今日は、朝の連ドラも最終回でしたので、最終盤で気づいた点を挙げておきます。 昔々、大学の模擬授業か何かで、私が「はしょりまして・・・」と言ったら、後ほど「はしょるってどこの言葉ですか?」と、何だか小うるさそうな女史に指摘され、驚いたことがあります。もちろん、「はしょる」は「端折る」の音変化で、縮めて省略することを意味する普通の日本語なのですが、その女史(男女同権について熱く語っていた人だったように思います)の耳にはどこかの方言に聞こえたらしいのです。 それはさておき、村岡さんはどういった部分を省略しているのか、とても大きな端折りを感じたのは、物語の最後の最後、グリン・ゲーブルズに居残ることを決意したAnneが、リンド小母さんに将来の抱負を語る部分です。原作では、大学進学をあきらめたAnneに、女が男と一緒に大学で勉強する必要はないと、慰め?るあくまで保守的なリンド小母さんに対し、Anneは教師をしながら大学で勉強することを独習すると宣言し、"Anne Shirley, you'll kill yourself."、過労死してしまうよ、と小母さんにあきれられることになっています。そして、リンド小母さんは、アヴォンリー学校の教職を、ギルバート・ブライスがAnneのために辞退した話をして、さらに20年来問題児を輩出し続けたパイ家の子供が生徒にいないはずだから、教師として手こずらないだろうといったことまで(原文下記。対訳はブログ『赤毛のアンで英語のお勉強』さん参照)、ぺちゃくちゃしゃべってくれます。 ところが、この、リンド・レイチェルの人となりがよく表れた会話シーンを、村岡さんはバッサリと割愛し、一切存在しないものにしています。代わりに、「リンド夫人はギルバートがそのことを聞いて、(中略)、もう手続きをとってしまったと報告した」と簡単な説明文を加えて、あっさり次のシーンに移ってしまうのです。 Of course you'll take the school. You'll get along all right, now that there are no Pyes going. Josie was the last of them, and a good thing she was, that's what. There's been some Pye or other going to Avonlea school for the last twenty years, and I guess their mission in life was to keep school teachers reminded that earth isn't their home. 終盤の村岡訳は、ところどころに端折りが目立つのですが、編集上の都合ばかりではなさそうです。上述のバッサリ切り捨てにしても、教育的配慮を感じます。注目すべきは、作中のパイ家の扱いでしょう。最終章のひとつ前37章の、Anneとマリラが語り合うシーンでも、英雄的な努力をしても、ジェシー・パイだけは好きになれないと語るAnneに対し、"Josie is a Pye,"、ジョシーはパイ家の人だから(好きになれなくて当然)、とあのマリラが断言し、挙句、あの一族のような嫌味な人たちも世の中の役には立つのだろうけど、アザミが何の役に立つのかわからないのと同じに、何の役に立つのか私にはわからない、と散々に悪口を言うのです。この部分も、村岡さんは、もちろんバッサリ端折っています。 つまり、せまい村社会の中で、パイ一族は問題児集団とされ、はっきり嫌われ者、地域の鼻つまみ、と言えますが、これは偏見やいじめといった人間関係の負の側面を示しているものと言えるかと思います。そのような暗い面があってこそ、陰影があってこそ、登場する人物像や時代背景が明瞭になるように思いますが、児童文学として考えるなら、光の届かない影、善良ではない側面であり、あまり子どもに見せるべきではないものと思えるのです。 おそらく、村岡さんは訳出するにあたって、児童向けを強く意識して、光の当たる明るい面を強調し、陰りのある部分は捨象したため、普通の小説を読む感覚で大人が読み比べると、村岡訳の『赤毛のアン』は物足りなさを感じてしまいますが、平面的明るさの故にわかりやすく、また、さらなる単純化の基礎テキストとして使いやすいものとなっているように思われます。 『赤毛のアン』がこれほど日本で人気となったのは、やはり、村岡さんの児童文学化といった明確なビジョンがあったからこそではないかと、私なりに思うのですが、今ならどうでしょう?抄訳は抄訳とし明確にそのように示し、大人になったら、やはり完訳を薦めるのが、妥当かと思います。
2014年09月27日
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腕に乗って口笛を待つサカ坊 年内に、メイツ出版から↓の文鳥バージョンが発刊予定とのことだ。監修者が、『鳩胸退屈文鳥』の漫画家汐崎さんらしいので、1羽溺愛の正しい姿を堪能できる内容になるものと期待している(いわゆる飼育書ではないそうだ)。 さて、確か、サカ坊・ガイの卵の孵化予定は、早くて明日だったはず。無事に生まれてくるだろうか?いつも、孵化予定日が近づくと、不安と期待が交差する。【楽天ブックスならいつでも送料無料】必ず知っておきたいインコのきもち [ 松本壯志 ]
2014年09月26日
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挙動不審なガイ 雨天用の新しい靴で、外に出たら、ごく近所の点字ブロックの上で思い切り滑って仰けに転倒し、左腰のあたりを強打してしまった。しばらく息ができずアバラ骨が折れたかと思ったが、幸い大事には至らなかったようで、かがんだりひねったりしない限り、かろうじて日常生活(文鳥の世話など)に支障はなさそうだ。 履き慣れず、磨り減っていないだけに滑りやすかったり、足元が暗かったり、家を出てすぐで油断していたなど、不利な条件が重なった結果だが、あれは、いくら何でも滑りすぎであった。近くの点字ブロックは、同じもののはずなのに、さほどでもなかったので、何かいけない素材でも混入した粗悪品ではなかったかと疑ってしまう。そうでもなければ、破損箇所もあり古そうなので、摩耗して余計に滑りやすいのか。 あのような「地雷」は、目の見えない人どころか健常者にも危険で、年寄りはなおさらだろう。改善を要望する窓口がわからないので、市役所の道路維持課にメールしておいた。 それはさておき、ガイの挙動がおかしい。前から変わった子ではあったが、抱卵の合間に出てきてウロチョロして回っている。卵は、検卵以来見ていないが、孵化しそうなのであろうか。楽しみに待ちたい。
2014年09月25日
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なぜか勝ち誇りつつ豆苗を食べるエコ やはり目つきが悪い 台湾産とされていたエコ。ハルの後妻となり、ノコリを隠して育て、隣りカゴの亭主に略奪愛を仕掛けて成就し、そのテンにドメスティックバイオレンスを受けながらも、動じることのない文鳥。実に数奇な半生。 彼女を外見的に特徴付けるのは、流麗ではないアイリングによって生み出される目つきの悪さ(意地悪に見える)と、アゴの水玉模様だ。飼い主は、この部分は半月型に白い方が好きなのだが、水玉模様も捨てがたい。この特徴が遺伝しなかったのは、少々残念に思える。
2014年09月24日
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気にしていないらしいアイ 午前中の水交換と青菜を入れる際に、比較的若手の手乗りたちを短時間放鳥している。ところが、今日は、途中でぼんやりしていたようで、気づいたら、夜の放鳥時同様に、ほぼすべて(ニッキとリオ君以外)のカゴを開けてしまっていた。 この場合、飼い主にとっても文鳥自身にとっても、不幸となるのは、夜放鳥の帰還の際に、照明を消して捕獲されるのが習慣になっている文鳥たちだ。他は、指に乗って帰るなり、勝手に帰ってくれる。つまり、アイとエコは、追い掛け回して捕まえねばならない。 で、アイもエコも、何度か網戸に衝突してくたびれたところを捕獲した。あまり気にしないでくれているらしいが、飼い主は反省している。
2014年09月23日
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あのヒナ姿から成長した現在のクリ子さん 文鳥のヒナシーズンが近づいているので、あわてて『文鳥と暮らすための本』を更新した。 1羽の文鳥ヒナに、給餌を行う際は、片手に乗せるのが基本姿勢とし、健康状態の把握としては、フンを見ない方が良い、とした。容器に入れたままエサを与えようとして、なかなか口を開けずに途方にくれたり、フンの一つ一つに気をもんで、ヒナの様子を見ることをおろそかにしてしまうのが、初心者飼い主の傾向なので、この際、間違えようの無いように、はっきり書いておくことにしたのだ。 他と違うので、かえって疑念を呼びそうだが、いずれも、私自身はそうしてきたし、今もそうしていることなので、空想だけ、聞きかじりだけ、の飼育論よりも、間違いは少ないかと思う。 早めに、給餌回数を減らす「ひとりエサトレーニング」は、かえってひとりエサを遅らせる結果になることを挙げつつ、段階的なヒナとの接し方(親鳥代行の役割)をまとめ、ヒナに起きやすい、主に精神的な諸症状、環境が一定にしすぎると怖がりになるとか、鏡も見たことがなければ、他の文鳥を仲間と認識できるはずがないとか、そういったことを書く予定だ。 文鳥の飼育本が必要な人は、ヒナの1羽飼育を始める人に多いと思うので、ヒナ編は、あくまでもそうした人を意識しているつもりだ。
2014年09月22日
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温州みかんジュースを飲むノコリ 考えてみれば、贅沢な文鳥たちだ。 蜜柑(みかん)=柑橘類の中で、温州ミカンの良い点は、簡単に向けて食べやすいのと、果汁が豊富な点だろうか。もちろん美味しい。 我が家の文鳥たちに与える場合、半分に切って、絞り器を使えばすぐジュースになるので、楽だ。1羽から数羽程度までなら、ひとかけ指でつぶすくらいで、文鳥たちのおやつとしての必要量を確保できるかと思う。そればかり食べたり飲ませたりしたら、弊害も有り得そうだが、おやつとして、時間限定で与える分には、むしろ健康的な側面の方が大きいだろう。 栄養成分のナントカが~と始めると、良い側面ばかり強調したり、逆に悪い面ばかり気にしたりし始めてしまい、真面目な人は思い込むと融通が効かなくなるが、明らかな毒以外の食べ物は、完璧に健康的な成分で成り立っていることは、まず有り得ず、その逆も無い。 うまいから食う。好きだから食べる。ただ、そればかりの偏食にならないように注意する。文鳥にせよ、人間にせよ、ただそれだけのことかと思う。
2014年09月21日
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柑橘類の食べ方が天才なシュー 文鳥はものをつかんで食べるのが下手な生き物だが、やはり例外はあり、シューは押さえ付けて食べるのが上手だ。それにしても、顔だけ見ると、ご尊父(キュー様)に生き写しだなぁ。 このように、「ちび玉極早生吉田みかん」は好評であった。シューのような喰う派ではなく、果汁を吸う派も喜ぶかと思ったが、考えてみれば、果汁を絞って別置しているので、ミカンの房から吸う文鳥は見られなくなり、別置の小皿から飲む派に移行していた。我が家の飼育環境?も、少しずつ進化しているようだ。
2014年09月20日
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枝豆を賞味するノコリ 一週間ほど前にトウモロコシ、そして今夜の枝豆が、今季の最終となる。もっとも、冷凍品をまれに提供するつもりなので、枝豆を好物とするノコリには、安心してもらいたい。 そして、明日から、蜜柑は河内晩柑から温州ミカンに切り替わる。まだ緑一色だったので、酸味が強いかと思ったが、そうでもなく、人間も普通に美味しく食べられた。河内晩柑よりも吸いやすいので、吸う派の文鳥たちは喜ぶだろう。 文鳥のおやつに、 季節を感じるこの頃ではある。
2014年09月19日
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リオ君はそれでも楽しいらしい メス文鳥が無精卵を抱卵していて「かわいそう」なので、有精卵が欲しい、という発想は、昔からあるものだが、私はいろいろな誤解を含んでいると思っている。 技術上の話だけでも、他人から文鳥の有精卵を譲られるのは、かなり難しい。その他人も、何らかの目的で、おそらく有精卵と思われる卵を、抱卵する前に取り分けて、おがくずか何かに入れて保管しなければならず、それも無事に休眠状態でいてくれるのは、一週間くらいではなかろうか。 それと、自分のメス文鳥の抱卵周期を合わせなければ、せっかく有精卵で成長していても、途中で抱卵しなくなる可能性が高い。 抱卵周期に合わせ、すでに抱卵されている有精卵を入手する場合は、運搬中に適切に保温しなければならず、数時間となれば、転卵なども必要になってくる。簡単ではないのだ。 人間は、妊娠すれば、それが我が子を宿したということで、だいたい十月十日もすれば、誕生するだろうと、予測できる。しかし、文鳥は抱卵しながら、それが我が子を育む行為だとは、たぶん理解していない。なぜって、孵化させたことも育雛経験もないのに、知るわけあるまい? 巣の中にある卵状の物体を温めるのは、繁殖期の本能で、人間のようにバラ色の未来図を思い描いているわけではないだろう。 また、育雛自体、厳しいものである。数が多ければ、親鳥はヘトヘトになってしまう。それを、楽しい作業と親鳥は人間のような感覚で認識してはいないだろう。やはり本能に基づいて育てているのであり、したがって、本能に従って、やがて自分のテリトリーから、子供たちを追い払うのだと思う。 何が「かわいそう 」なのか、物の見方は色々なので、こうと決め付けずに、熟考いただきたいところだ。
2014年09月18日
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水浴びをする時代劇スター 近衛十四郎とか、そのご子息の松方弘樹さんかと思っていたが、アトは松平健さんだったのか。確かにマツケンさんも、近頃は貫禄がついて、師匠の勝新さんを彷彿とさせる雰囲気になりつつあるなぁ。 スターのアト氏も、ますます白化を進めて、不思議な魅力を増していただきたいものである。
2014年09月17日
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ベランダのペチュニアは、二度目の剪定後、順調に再生中でしたが、数日前から成長が鈍化し、手前の株は枯れだしたので、おかしいと思って見ると、コガネムシの幼虫がいました。 そこで、土をすべて交換し、粒状の殺虫剤を混ぜておきました。めげずに頑張ってもらいたいところです。
2014年09月17日
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おそらく抱卵4日目 サカ坊と14代目ガイの5つの卵の内、4個が有精卵だった。おそらく、抱卵4、5日目なので、順調なら月末28日頃に孵化する。 ガイの子孫が「本家」を継ぐのは構わないが、将来的には、アラシ(サカ坊の孫)の子孫が合流するだろうから、サカ坊系になってしまうような気がする。少々腑に落ちないが、仕方があるまい。祖先はコレ↓と言わねばならない日がやってくるのだろう。 前妻の励まし跡がまだ少し残っている
2014年09月16日
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妻タネに言い寄るノッチの間に入る夫イブ、そして関係ないのに邪魔しに行くアト は、さすがに無関係だろうと思ったら、それは甘い!『赤毛のアン』には小鳥占いが出てくるのだ。 「十セント払うと小さな鳥がお客さんの運を選びだすのよ」、と新潮版の村岡訳の29章にあり、原文では、a little bird picked out your fortune for you.とある。picked outとあるからには、小鳥がおみくじを引いてくるタイプのもので、これは日本でも、大昔の縁日では定番だったらしい小鳥占いと、基本は同じと思われる。そして、この賢い小鳥だが、日本では、桜文鳥に容姿の似ているヤマガラが用いられ、台湾では文鳥が今でも頑張っているらしいのである。 19世紀末から20世紀初頭のカナダで、東南アジアの小鳥である文鳥がおみくじ占いを演じていたとは、ちょっと考えられず、実際はどういった種類だったのかは不明だが、おみくじ占いの文化関連で、是非考えてもらいたいテーマと言えよう。 ・・・ウチの文鳥たちに、おみくじの付いた綿棒を引っ張らせて占わせようとしたが、すべて失敗に終わった。ウチの文鳥たちは、無芸大食なのだが、それも芸の内と考えたい。
2014年09月15日
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『赤毛のアン』にわか研究の続きとなります。 講談社版の完訳を読み終え、ポプラ版が38章を32章に圧縮したために、奥行きが足りなくなっていると理解できました。児童文学と銘打たれた場合、原作を抄訳したものになってしまいますが、ポプラ版には何の説明もないので(特に「児童文学」ともされていません)、それだけを読んで、面白いだけで済ませてしまってはもったいない気持ちになりました。 そうしていたところ、新潮文庫の村岡花子訳『赤毛のアン』が届いたので(昭和29年発行、昭和62年75刷改版、平成15年121刷・・・すごすぎるベストセラー。もちろん38章しっかりあります)、さすがに、赤毛のお嬢ちゃんはお腹いっぱいで、げんなりしつつ、始めだけ読めましたが、冒頭から奇妙な部分があって戸惑いました。 「最初マシュウはくろんぼの子はどうかって言い出したんだけれど、・・・(中略)・・・ロンドン育ちのくろんぼはわたしゃごめんだ」 とされている部分で、ポプラ版では省かれています。今現在なら、白人が黒人を養子にしても、さほど不思議はないですが、19世紀末から20世紀初めの当時は、都会でも考えづらく、ましてカナダの田舎町では有り得ないと思えたのです。残念ながら、人種差別意識が濃厚だったのですから。そこで原文はどうなのか、またも、ブログ『赤毛のアンで英語のお勉強』さんで確認させて頂くと(コチラ)、次のようになっています。 At first Matthew suggested getting a Home boy. ・・・(中略)・・・but no London street Arabs for me, 英語の成績が芳しくなかった者でも、「Home boy」を「くろんぼ」と訳すのは、無茶だとわかります。この場合のhomeは、home countryのhomeで、マシューとマリラの先祖が、イギリスからの移民であることを意識している発言と見なすのが妥当でしょう。ようするにマシューは、先祖の地への憧憬もあってか、移民にとっての本国であるイギリス(のブリテン島のイングランド)の孤児を養子に迎えようと考えたのに対し、マリラはロンドンのような大都会で育った浮浪児に、田舎暮らしは無理だと、現実的な判断をし、より近傍の孤児の方が無難と見なしたものと類推されます(島名のプリンス・エドワードはヴィクトリア女王の父親にちなんだ名前です。何となく日本人の意識にはありませんが、現在のカナダ連邦も立憲君主制の国家で、君主はイギリス王室です)。この兄妹の性格の違いを垣間見せている部分とも見なせるでしょう。 そもそも島社会は、どこでも閉鎖的になりがちですし、プリンス・エドワード島は、英仏の植民地争いの舞台でもあり、先住していたフランス系の移民を排除し(当然、それ以前に先住民族がいました。彼らミクマク族はプリンス・エドワード島を「アベグウェイト」と呼んでいたそうで、それは「波の上のゆりかご」の意味だったそうです。ミクマク族の人たちの方が『相呼ぶ魂』だったのではないでしょうか?)、イギリス系の白人が入植した土地柄ですから、同じ立場の英国系移民の結束は固く、同じ白人であっても、フランス系に対してすら、強烈な差別意識が存在したものと思われます。それは、『赤毛のアン』の作中にも現れていて、例えば「まぬけの半人前のフランス人の小僧ども」(【新潮】村岡訳)といった具合です。その「フランス人の小僧」を養子に迎える考えなど毛ほどもない人たちが、黒人を養子に迎えるなどという発想がないでしょうし、万が一にも実行すれば、村どころか島中の、「センセーション」になってしまうでしょう。 つまり、カナダという国の成り立ちや、当時は歴然と存在した人種差別意識を前提とすれば、村岡さんの訳は突拍子が無いと言わねばなりません。その点、掛川訳は正確で、「最初マシューは、<本国>の子をもらってはどうかっていったんです。・・・(中略)・・・でも、ロンドンの浮浪児だけは願いさげ」としています。本国の中にロンドンがあるわけですから、本国とはイギリスなりイングランドのことを指しているのは明白ですが、それでも<>付きとするのは、いかにも慎重と言えそうです。 では、なぜ村岡さんは「くろんぼ」と訳したのでしょうか?浮浪児「street Arab」を、字義通りに『道端のアラブ人』と受け取っての誤解でしょうか?そこで、少々検索したところ、そのように誤訳を指摘される川村学園女子大学の菱田信彦教授ご見解の記事(コチラ)がありました。確かに、訳出作業は太平洋戦争前後のことですから、「海外事情があまり伝わってこない時代」なので、変わった表現を誤訳してしまうのは、致し方がないところかと思います。 また、村岡さん自体に差別感情が希薄だったことを反映しているとも見なせそうです。浮浪児は顔を洗わず煤けているので、黒く汚れてアラブ人のようだ、などと表現したら、現代では、それだけで十分に差別的と見なされるでしょうし、現在では、「くろんぼ」という表現自体がはばかられます。しかし、そのように訳した村岡さんには、人種差別の意識は皆無だったからこそ、そのような解釈になったとも言えると思うのです。 日本で生まれ育ちながら、キリスト教人道主義の『善意』の中で教育を受けたのが、村岡さんの学歴です。イギリスなりアメリカなりカナダでさえも、現地に行けば、日本人に対して現在以上に人種差別感情が存在し、露骨な体験もさせられたはずですが、村岡さんが接した欧米人は、人種差別感情を超えた伝導を行う「宣教師」としての使命感を持った外国人教師に限られていたものと思います。このおよそ浮世離れしたとさえ言える高潔な人々と接する限り、世界中のどこにでも潜在し、まして白人の優越した時代では顕著であった人種差別を実感する機会には、遭遇し難いはずです。 したがって、Home boy=street Arabとあるので、本国とは英国で、そこの黒い子なら「くろんぼ」、と単純に解しても、それは無理からぬことだと思います。 しかし、あえて「くろんぼ」としたと深読みすることも可能かもしれません。この部分を、掛川訳のように正確に訳すと、イギリスの孤児とでカナダの孤児の違いがわかりにくいのです。日本人から見れば、白人は白人ですし、ましてや、同じイギリス系なら、本家本元から養子を迎えることへを躊躇する意味は、理解しがたいでしょう。それが、肌が黒い子となれば、外見的な違いは歴然ですから、これを避けるのは無理もないと受け取れるかと思います。つまり、日本人の読み手に合わせた訳出の可能性も考えられないこともないかと思います。 また、村岡さんが訳出して出版した、第二次世界大戦における敗戦後の余塵くすぶる日本の社会、それも東京には、浮浪児と呼ばれる戦災孤児がとても多かったので、この語を避けて、あえて「くろんぼ」と表現したとも見なせるかもしれません(「くろんぼ」自体は、現在より差別的意識がなく使用されていたようです)。 実際は誤訳だったとして、いろいろ背景を考えてみるのも、楽しいかもしれません。 訳としてなにか問題があったのでは?と引っかかる点としては、第4章で鉢植えをボニーと名付ける際の、「handles」も挙げられるかと思います。ネット上の名乗りをハンドルネームなどと言うように、ペンネームやニックネーム同様の意味のはずですが、おそらく当時は一般的な言い回しではなく、もしかしたら、村岡さんもよく分からず「ハンドル」とそのまま用いたように思えるのです。しかし、この部分は同時に村岡さんのセンスが、見事に発揮されている例のようにも感じます。 「あおいの花でも一つ一つにハンドルがついてるほうが好きなの。手がかりがあって、よけい親しい感じがするのよ」 「手がかりがあって、よけい親しい感じがするのよ」は、原文にはありません。しかし、ハンドルに対しての実に素晴らしい説明ではないでしょうか。 さて、新潮版を10章まで読んで、私は、すでにギブアップ状態ですが、そこまできて気づいたのは、マシューの呼び方です。村岡さんはAnneが「小父さん」と呼んでいることにしているのです(ポプラ版も「おじさん」)。しかし、原文は、例えば、マシューが亡くなってしまう場面で、アンは「Matthew is--is」と叫ぶように(原文はコチラ)、名前を呼び捨てにしています(掛川訳はマシューです)。家族に憧れるアンとしては、「Aunt Marilla」、マリラ伯母さんと呼びたかったのに、現実主義のマリラに拒否されてしまい(血縁的に繋がっていないから)、マリラと呼ぶように言われてしまうのですが、マシューについては、特に物語の中で説明はないようです。 確か、アニメではマリラ同様、呼び捨てにして欲しいとマシューが言っていたと記憶しますが、Anneとしては伯父さんと呼びたかったかもしれません。となれば、Anneの気持ちを忖度した村岡さんが、あえて「おじさん」としたとも思われます。戦後間もないの日本において、養い親に対して呼び捨ては失礼どころか無礼の極みでしょうから、社会通念上、少なくとも男親に対して呼び捨ては受け入れられないと判断したのかもしれませんが、Anneの気持ちで訳したと考えたほうが、面白いかと思います。 個人的には、マシューはマシューの方がしっくりくるのですが、判断が分かれそうなところです。 ところで、つい先ほど知ったばかりですが、村岡花子さんのお墓は、横浜の久保山墓地で、おそらく私が、何十度かは、犬の散歩で行き来したであろう地域にあるようです(かるべ茶屋の奥の道を左手に折れて下っていった辺り)。これも、ちょっとした縁でしょうか。ちょっとした縁でのにわか研究は、このあたりで手仕舞いとしておきましょう。
2014年09月15日
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温湿度計に映る自分を確かめるノコリ 一ヶ月ほど前に、放鳥部屋に温湿度計を置いた時は、横目で飼い主を睨んでいたものだが、だいぶ慣れたらしい。今夜はノコリが、どういったものか確認するまでになった。 なお、文鳥がものを見る時は、横顔になる。何かを確かめたり、飼い主の顔を確認したりする際は、すべて横顔となる。名前を呼んだら、横顔でこちらを見る、この関係を築くのが、飼い主の最初の目標だろう。
2014年09月14日
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枝豆が好きなサーフボードイッツ 繁殖シーズンになっている。今年は、8月末から梅雨のようになって、パタっと涼しくもなったので、繁殖への切り替えは早かったようだ。 あまり産卵して欲しくないので、喜ばしいことではないが、巣作りでもしてもらって体力を発散させないと、オス文鳥たちの暴走に悩むことになるので、巣材を提供した。い草。これをお湯に浸けてふやかし、折り目をつけた上で乾かしてから提供するのだが、ツボ巣での営巣には不向きかもしれない。 より細い巣草(パーム椰子の繊維)の方が良さそうなものだし、一部の文鳥(イブ)もそう考えているらしいが、過半数はより固くて太いい草を好む。これは、巣材というより、体力を消費するための遊び道具と思ったほうが良いのかもしれない。 昔の飼育書は、繁殖期の若いオスの精力過剰状態を「追いざかり」などと表現し、アワ玉などを控えるように書かれてもいたかと思う。しかし、メスの方は産卵のために、たくさんの栄養が必要となるので、どうすれば同じカゴでメスにだけ与えられるのか、大いに疑問となる。実際は難しいので、食餌制限よりも、運動をさせ、巣作りをさせ、体力を消費させるようにしたほうが良いだろう。 今シーズンも、箱巣の使用予定はないが、巣材の提供を時折行うことにしよう。
2014年09月13日
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オーチャードグラスが食べ物か否か思案するイブ 飼い主の目から見ると、皮ばかりで食べるところがあるのか不思議なオーチャードグラスの種だが、我が家でもファンを増やしている。今夜は、その名もタネが、執拗に食べていたので、夫のイブ(11代目)が興味深げに何度ものぞき込み・・・結局かじってもみなかった。実に保守的である。 案外に思われるかもしれないが、ペットショップから迎えた非手乗り文鳥の方が、我が家生まれの我が家育ち、つまり、箱入り娘なり息子より、新しいものへの適応力が優っていて不思議はない。彼らはいろいろな環境変化を経験しつつ生きてきたので、多少の変化には動じず、慣れてしまえば、案外積極的なのである。逆に、あまりにも安定した環境で生活していると、ささいな変化にも過剰に反応し、また満ち足りてもいるので、新しいものに手を出すことも控えがちになるだろう。 安定的な環境が、飼育には最善のように思えるが、それは変化に弱くなる側面もある。例えば、いつも同じメーカーのエサ、特に人工飼料のペレットを与えていたら、その調達が難しくなり、他の物に変えたら、食べてくれないとか、温度を一定にして飼育していたら、機器の故障でそれが不可能になった途端に体調を崩してしまうとか、エサ入れや止まり木などの色や形が多少変わっただけでも近寄らなくなったとか、そういったことが起きがちとなってしまう。 ある程度、変化にも順応できるように、あえて調和を乱すのも必要かもしれない。
2014年09月12日
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ニチィの様子をうかがうリオ君 我が家の文鳥社会、と言うより、リオ君にとって、ソバカス、もしくはアバタはマイナスポイントではない。彼の本命は、ニチィなのだ。 夫のアトは、ずいぶんと嫉妬深い文鳥だが、なぜかリオ君に対してだけは寛大なので、この際、3羽で同居してしまえば良いものを、と飼い主は少し思っている。ただ、カゴという閉鎖空間で、オス同士がメスを争う闘争を起こせば、重大な事態に発展するので、実行は難しいだろう。 ・・・この際、浮気してリオ君の子どもを産んでしまえば良いのに、とも思わないでもないが、残念ながら、我が家では純白がモテないし、そもそもリオ君が交尾を迫ったことがない。やはり、リオ君には、赤毛のアン並みに強烈なアラピちゃんと同居してもらうしかあるまい。せいぜい頑張っていただきたいものである。
2014年09月11日
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今さらですが、『赤毛のアン』を読んでいます。現在のNHKの朝の連ドラは、この作品を最初に翻訳された村岡花子さんをモチーフにしたものですから、大昔に村岡訳『赤毛のアン』を熱心に読んでいたらしい家の者のため、ことのついでに、ポプラ社の『赤毛のアン』を古本で購入し、本棚に置いていたのですが、それを、自分でも読む気になったのです。 中高校生の頃は、かなり小説なども読みましたが、『赤毛のアン』は女の子向けという認識で、読書リストに入りませんでした。また、それ以前に、アニメの世界名作劇場で、『赤毛のアン』を見ていたはずですが、なぜか間違った香料を入れたお菓子を作ってしまう話だけを覚えていて、全体的には空想好きの赤毛でそばかすの女の子の話、というイメージしかありませんでした。 つまり、ほとんど無知なまま、ポプラ社の図書館用とされる単行本の大きな活字を目で追い始めたのですが、面白かったので一気に読んでしまいました。ただ、何となく原作を端折っている印象を受けました。ポプラ版を大人が小説として内容をある程度分析しつつ読むと、つじつまが合わない点を感じるのです。特に大きな疑問は、主人公Anne(eを付けろと言うので、アルファベットで表記します)の学歴です。Anneは生後3ヶ月で両親と死別し、以来、天涯孤独で、他人の家で厄介者となりつつ、子守役をしながら十歳まで成長した子どもなので、教育を受けるチャンスは無かっただろうと思うのです。文盲であっても不思議はないわけです。ところが、おしゃべりの内容は、論理だっていますし、古典の劇作か詩の中の言葉のような大げさな部分が混じります。つまり、教養を感じさせるわけです。なぜ彼女に教養があるのか、その説明となる話が、村岡訳ポプラ版には皆無です。 そこで、アニメの身の上話の部分(4話「アン・生立ちを語る」・・・マリラの声は『奥様は魔女』のサマンサの母エンドラと同じ声優さんだったんだ、と今さら気付いて驚かされました)を見たら、学校には「あんまり行ってない」とし、2番目のもらわれ先の家では、春と秋しか行けなかったが、高校の教師をしていた父母の形見の本を読んでいたと、話していました。しかし、これはこれで、また謎でしょう?2番目の家は、子守りのためにAnneをもらい受けているのです。それも、双子が3組いて合計8人という、聞くだけでウンザリさせられる修羅場ですから、その世話をしている子守のAnneに、学校へ行く時間が与えられるとは到底思えないのです。 むしろ疑問が深まったので、原文を確かめようと思いましたが、あいにく英語を見ると頭がクラクラしてしまいます。そこで、やむなく、掛川恭子さんの「完訳」とある講談社の『赤毛のアン』を読んでみました。結論を先に言えば、こちらは確かに完璧な訳でした。当該部分は、「あんまり。トーマスさんのところにいた最後の年に、ちょっとだけ」となっています。確認のため、我慢してこの部分だけ原文を見ても、I went a little the last year I stayed with Mrs. Thomas. で、トーマスおばさんの家にいた「last year」最後の年に、「a little」ちょっとだけ、でした。調子に乗って、その後の原文を載せれば、When I went up river we were so far from a school that I couldn't walk it in winter and there was a vacation in summer, so I could only go in the spring and fall. と、アニメ同様に春秋に学校へ行ったようなことを言っていますが、たぶん行けなかったものと思われます。冬は自然条件によって通えず、夏は学校が休みなので、春秋しか通えないのだから、通う必要がない、と子守に専念させたい大人に言われていたことを示唆しているだけと考えるのが妥当でしょう(この点、Anneの身の上話を聞いたマリラの感想に示唆されています。掛川訳「こき使われ、貧しさに苦しみ、だれもかまってくれなかった暮らしだったのだ。アンが身の上話で言葉にしなかった部分を読みとり、真実を見抜く力が、マリラにはあった」。あくまでも、学校に通ったのは、「a little」なのですから。 つまり、アンの学歴は、8歳くらいでの、おそらく数ヶ月の初等教育と、その後の教科書などの独習、および、10~11歳にかけての半年間、孤児院で学校教育を受けたことに限られると思われます。初等教育を受ける機会がかろうじて有ったため、その後、両親の形見の存在は不明ですが、読書など独習が可能となり、さらに孤児院ではむさぼるように勉強した、と、とりあえずは矛盾のない経過を、想像できるかと思います。頭抜けて勉強家だったので、(容姿はともかく)孤児院としては一押しの女の子だったのかもしれません。 さらに、掛川訳を読み進み、村岡訳との違いで引っかかったのは、錐状ババアことブリュエット夫人がAnneを評価する場面です。 村岡訳「フム、たいして見ばえはしないが、しんは強そうだね。けっきょくは、しんの強いのがいちばんさね」 掛川訳「へえ、あんまり肉づきがいいようには見えないね。だけど、体つきはしっかりしている。やせてしっかりしているのが、一番だそうだけどね」 村岡さんの方は、痩せっぽちな身体的な特徴ではなく、気持ちの強さという精神面を汲み取って評価していることになっているのに対し、掛川訳では、痩せてはいても体格はしっかりしている身体的な特徴を評価したことになっているわけです。そこで、我慢を重ねて原文を・・・と思ったら、原文を載せ、なおかつ訳してくれているサイトを見つけたので、参照させて頂ました(コチラ)。 Humph! You don't look as if there was much to you. But you're wiry. I don't know but the wiry ones are the best after all. wiry、ワイリーは、ワイアーの形容詞化した単語のようで、意味は「針金の」ですが、転じて「(人・体などが)筋張った・屈強な・筋金入りの」といった意味で使われるようです。つまり、筋金が入っているなら「しんが強い」とする解釈も可能かもしれませんが、やはり痩せていても骨格はしっかりしていて柔軟な体格的特徴を指していると解するのが自然と言えるでしょう(ワイヤー【針金】のようなAnneが、そう評したおばさんを木工用の錐に例えるのですから、なかなかです)。つまり、村岡訳は原文とは離れているようにも思えます。しかし、子どもに聞かせる前提なら、痩せてる方が丈夫という誤解が生じかねない個人的な見解より、しっかり者の方が役に立つとした方が、一般的な教訓を含み、わかりやすいかと思われます。 と、掛川訳は、まだ始めしか読んでいませんが、村岡さんの方が、児童文学として位置づけを意識した『赤毛のアン』で、おそらくポプラ社版は、それを簡略化されていると見なせるのに対し、掛川さんの方は、特に児童向けに意識して書かれたわけではない『Anne of Green Gables』という小説を、忠実に訳出しているものと見なせそうです。 今後、さらに、村岡訳の原本である新潮版もチェックし、気づいたことがあれば、書きたいと思います。それにしても、こういった読み方は、『赤毛のアン』の読者としては、不健全なような気がしないでもないです。なお、マシューが会話で初めに付けてしまうWell nowは、村岡さんの「そうさな」がしっくりくるとは思います。 赤毛のアン シリーズ・赤毛のアン 1 ポプラポケット文庫 / ルーシー・モード・モンゴメリ 【新書】 講談社文庫 完訳クラシック赤毛のアン 1【1000円以上送料無料】赤毛のアン/L.M.モンゴメリー/掛川恭子
2014年09月11日
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輸入キビが好物 満足顔 隻脚のポンは、最近テーブルの上に降りてきてくれないのだが、今夜はお腹が減ったらしく、妻のアイとともに落ちるようにしてエサ箱に着地し、輸入キビを頬張っていた。・・・それほどキビが好きなら、カゴの中に別置してやろうかと、思案している。 さて、昨日、愛知県の農業試験場の研究報告を探していたら、日触れた研究報告を読もうと探していたら、文鳥はセキセイより鳴き声は静か、という話題の際に探して見つからなかった某飼鳥団体の会誌を発見した。西暦2000年のもので、私は会員ではなかったのだが、ご案内をお願いしたところ、ご親切にご送付頂いたのであった。 その中で、会員各位の近況報告があり、迷惑になるといけないので、個人名などは挙げないが、「32年目にして隣の苦情で小鳥飼育断念」と見出しのある、この会の創始者のおそらくは私信の内容が掲載されている。私は、苦情で飼育断念、が頭に残っていて、小鳥の鳴き声などでのご近所トラブルの一例になるかと思っていたのだが、内容を読み返したら、かなり異なる印象のものであった。 短文だが、勝手に全文載せるのもはばかられるので、かいつまんで中身を言えば、32年前(1968年)に調布市の一戸建てに引越す以前に住んでいた墨田区の長屋では、10年間、小鳥150羽と犬2頭を飼っていたものの、1度も苦情はなかった。引っ越してからは、200羽を飼育していたが、やはり苦情を受けたことはなかった。ところが最近になって、隣家が突然「うるさい、くさい」と保健所・市役所・警察に訴えたので、「38年間の小鳥繁殖を全面的に中止」して、「雑居に50羽程度をやっと鑑賞として飼」うだけになってしまい、部屋の中に幅と奥行40cm、高さ80cmの小禽舎を設けて、「20種類(各1羽)を鑑賞用として飼って眺めて楽しんでいます」と近況を述べ、「もう、都会では、小鳥は飼えない時代になったよう」だ、としている。 ・・・さすが、プロ、アマチュアな私とは感覚が違う。 私の感覚では、と文鳥どころか各種インコを混ぜて50羽も飼えれば十分過ぎ、急速に住宅街となった地域では、まだ周囲は寛容な部類のような気がするし、「小鳥飼育断念」ではない。屋外で各種の小鳥たち数百羽の繁殖飼育が出来ないという内容なので、これは一般的な話とすることは出来まい。感覚のズレは、イ如何ともしがたいのに、案外気づかない飼育者は多いものだなぁ、と思う。
2014年09月10日
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見事な「腹筋」のアラピちゃん アラピとリオ君だと、どういった子供が生まれるだろう?やはり、曾祖母似のごま塩であるべきだと、飼い主は思うのだが、リオ君の出自がわからないので、予想困難となる。 もし彼が、優性の白遺伝子を持つ弥富系の白文鳥なら、持っている(大雑把な)色の遺伝子は、必ず優性になるとされる白因子と劣性の有色因子なので、相手が何色であろうと、白因子を受け継ぎ白文鳥となる子が、半分は生まれる。一方の、アラピ、アラ、ことアラシの方は、おそらく有色因子しか持たない桜文鳥なので、半分は同じように、多少白羽の多い桜文鳥となるはず。つまり、白と桜のどちらかで、フィフティフィフティの確率となる。 ・・・う~む、ごま塩でなくとも、両親のいずれかに似た白でも桜でも良いなぁ。と希望を変えたくなってくるが、もし、リオ君は弥富系の絶対優性の白因子を持たず、有色因子と同程度に影響する白因子のみを持っている白文鳥なら、生まれる子供は、すべて全部すべからく悉皆、ごま塩文鳥とならねばならない。ただ、ごま塩柄は多様なので、その点どういった柄になるのか、大いに楽しみにはなる。・・・やはり、第一希望はごま塩か。 なお、この白文鳥の遺伝的に相違する2系統の存在を理解していないと、いろいろと間違えてしまう。白と桜を夫婦にすれば、白と桜のヒナが半分ずつ生まれると、弥富系の白文鳥だけを見ればそういった結論になるし、弥富系の白文鳥同士の場合、半分が白文鳥、四分の一が桜文鳥、四分の一が中止卵となるので、白と桜は同じ品種だとか、白文鳥同士だと虚弱になるとか、誤解が生じてしまうことにもなる。白と桜で色を表現する遺伝子が異なるから、明確に産み分けが生じるのであり、また、絶対優性因子を両親から受け継いで2つ持つと、卵段階で致死するとしても、その因子を1つ持っているから虚弱になるということは有り得ない。実際、文鳥生産が盛んだった弥富では、古くは、白文鳥ヒナの確率を上げるため、白文鳥同士をつがいにしていたくらいである(『農業全書』)。 さらに、ごま塩を桜文鳥と見なしてしまい、ごま塩同士からは、半分は白文鳥が生まれるので、桜文鳥から白文鳥が生まれる、といった錯覚を起こすこともある。『愛知県農業総合試験場研究報告33号』 2001年に載る研究報告「台湾産ブンチョウの羽色の表現型とその活用法」で、台湾産の白文鳥と愛知県弥富産の桜文鳥で交配実験を行い、生まれた「多量の白い刺し毛」を桜文鳥と呼んでしまっているが、その姿はごま塩で、白と桜の雑種と見なすべきであった。なお、この際の実験では、台湾産白文鳥同士では、生まれる子は全て白文鳥だったとしている(11つがいで100羽)。この系統は、白と白では桜文鳥が生じないわけで、これは別系統で、白と桜を同品種と見なすことなど、不可能という事実を示している。白と白では桜は生まれず、桜と桜からは白は生まれないのが基本で、生まれた場合は、奇跡的な突然変異と見なすより、親の「白」か「桜」は、ごま塩だった可能性が高いと言えるかと思う。 問題は、白文鳥も桜文鳥も、見た目だけでは、どのような色の因子を持っているか、判断し難い点にある。白は、どちらも成長すれば純白になるだろうし(部分的に有色が残る可能性はある)、桜は白羽が多いだけなのか、有色羽の多い白・桜の雑種(ごま塩)なのか・・・。何が生まれるかわからないので、面白くて良いと、個人的には思うのだが。
2014年09月09日
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イッツに言い寄るリオ君 羽の生え揃ったリオは、うっかり落下することがなくなり、飼い主の頭上で、毎晩、営業に励んでいる。もちろん、何の成果もない。彼は、独身メスのニッキとアラピには無関心どころか、はっきり嫌っていて、その他の夫(同性を含む)を持つ桜文鳥のメスたちばかり誘っているのだ。 それも、強引なことはまったくせず、横でさえずり、さえずった後もその場を動かず、近くにいるだけで満足しきっているのだから、まず永久にどうにもなるまいかと思われる。 これはやはり、アラピのカゴに放り込んで、強制的に同棲させるしかあるまい。問題はそのタイミングだが・・・。もうしばらく様子を見て、今月末あたりか。うまくいけば良いけれど。
2014年09月08日
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動きはわりに軽快なノッチ もともと出っ張ったり引っ込んだりのノッチのお腹、最近は、じわじわと肥大し続け、羽毛からお腹の地肌を露出させるようになってきた。 生活習慣は、以前からも他の文鳥たちとも同じなので、やはり、たんなる肥満ではなく、何らかの疾患だと思うのだが、案外、今のところ行動に不自由はない。 これからの季節、お腹丸見えで冷えてもいけないので、少し引っ込んでくれることを願いたい。
2014年09月07日
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ラック・シュー・トミ・ノコリ 文鳥は十姉妹と違って、夫婦以外と体が触れ合うほど隣り合わせることは、まず無い。ところが、今夜は4羽並んでしばらくくつろいでいたので、とりあえず撮影してみた。 画像から判断すると、 ラック♂・シュー♀・トミ♀・ノコリ♂とわかった。つまり、シューとトミが夫婦でもないのに、平和に並んでいたことになる。この2羽、血縁としては祖母と孫だが(シューはトミの父ノッチの母)、それは文鳥の知るところではないはずなので、 接点がわからない。気が合うのか、今夜だけの気まぐれな現象なのか・・・。ちょっと注目したいところだ。
2014年09月06日
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夫婦でも押しのけ合うのもいるけど 「新聞は、エリートが作ってヤクザが売る」などと言われるが、未明に新聞を配るような真面目な労働者がヤクザなはずがなく、「ヤクザ」と言われてしまうのは、強引な営業をする拡張員の一部を指す。強引に居座られた経験をお持ちの人も多いかと思うが、朝日のそれなら「ウチは産経だから」、逆なら「ウチは朝日だから」、読売なら「ナベツネ(キョジンでも可)嫌いだから」で、通常はお引き取りいただけるはず・・・。 しかし、それは人口の多い都会の話で、各新聞社の販売店がそれぞれに存在するとは限らない。現に、東京23区に接する川口市の郊外の我が家に産経新聞を届けてくれるのは、毎日新聞をメインに扱う販売店だ。これが、より人口密度が低くなれば、読売朝日毎日産経、もちろん日経、なんでもござれの販売店も普通にあるわけで、エリート気取りの連中が、保守だ革新だと思想的に対立しても、そのようなことは関係ないのである。 つまり、現在は、購読者数の割合から、毎日と産経を一緒に扱う販売店が多いはずだが、万一にも毎日が朝日を凌駕すれば、主義主張など無関係に、朝日と産経を一緒に扱う販売店が増えるはず。・・・その折は、たまに朝日の家には産経、産経の家には朝日を「おまけ」してみると良いかと思う。呉越同舟、朝日産経同投函、結構なことではないか。 それで、ウチの文鳥たちだが、写真のように、ノコリ・トミ夫婦が代わりばんこに水をかき出してくれたおかげもあって、4リットルが完売となった。 仲良く、みんな一緒に、静かに、丁寧に、順序だって水浴びを楽しむのは、夢のまた夢である。
2014年09月05日
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よく見ると葉の上にバッタが・・・ スイレンの葉の虫食いが激しいので、何者の仕業かと不思議に思っていたのですが、バッタでした。水上のスイレンとバッタは、私の頭では結びつかないのですが、案外好物のようです。 見た目は悪くなりますが、スイレンの葉は繁茂しているので、バッタの駆除は考えないことにします。 剪定したベランダのペチュニアは、早くも芽吹いてきました。いつもながら、実に良い根性です。
2014年09月05日
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平たいイッツとメタボなノッチ 朝日新聞の購読者と聞いて、私が連想するのは、『時計仕掛けのりんご』という手塚治虫の漫画だったりする。1970年に『週刊ポスト』に連載された漫画らしいが、自衛隊の反乱部隊が四方を山に囲まれた地方都市の住民に、思考能力が低下する薬物を混入した食べ物を与え、交通網を遮断し、テレビラジオなどの情報から隔離し、「朝日新聞」だけが読める状態にしてしまうことになっている。そして、その「朝日新聞」とは、本当の朝日新聞ではなく、自衛隊の反乱部隊による都市閉鎖を隠蔽するために捏造したものだったが、薬物に影響された市民たちは「朝日新聞がうそをのせるはずがないわ」と、その内容を信じてしまうのである。その異常に対して鈍感になった市民の姿は、あたかも「見かけはただのまともな果物だが、中身はからくり仕掛け」で、「一見ふだんとちっとも変わった点はない。【中略】だが心の中は、まったく時計仕掛けのように空虚」と、説明されている。 その後、捏造を繰り返す朝日新聞の姿を、「漫画の神様」が予言していたようなものだが、私が朝日新聞を嫌いになったのは、記事の内容とは直接関係のない私怨によっている。それは、新聞配達をしていたいわゆる浪人生の時代に遡る。私の配っていたのは、毎日新聞だったのだが(毎日の愛読者だったからではなく、読売や朝日より広告が少なく、産経より配達する範囲が狭いとの勧誘に魅力を感じたため)、重なり合う地域の朝日新聞の配達員に良い印象を持てる人物が皆無だったのはまだしも、新規購読者の中に、「ウチは朝日しか読まないよ!」などと配達を拒否するケースが、何件もあったからである(なお、読売の配達員は愛嬌のある男だったが、フィリピンパブに入り浸り借金生活を送っていた。私の先輩には大学を何年も留年しつつ、丸井のカードローンで購入した服を着こんで、毎晩ディスコ通いする青森県出身者もいた。まさにバブルであった)。毎日と朝日で名前は似ているので、間違って契約してしまったのだろうとは思うが、それは誰の間違いなのだろうか?間違えであっても、洗剤だか何だかを受け取っている負い目もなく、「ウチは朝日しか読まないよ!」とは、どういった料簡なのであろうか?しかも、決まって『朝日』なのだ。当時の発行部数は、すでに読売が上回るくらいだったので、一軒くらい「ウチは読売しか読まないよ!」があっても良いではないか?ヤクザまがいでろくで無しばかりの新聞勧誘員に騙されたとしても、サインしてしまった以上は、契約書を確認して販売店に連絡し、受け取ったものを返納して契約無効にする旨を伝えるのが、正常な対応だと思う。そのような常識的な対応ができない者が比較的に多いとするなら、それしか読まないらしい朝日新聞の紙面には、人を洗脳して頭の中身が尋常でない「時計仕掛けのりんご」化する副作用があるのではないか、と勘ぐるようになってしまったのである。 不幸にして、若い頃にこうした先入観を植えつけられてしまった私は、その後の朝日新聞が、KYな捏造なり誤報なり虚報なり何なりを繰り返し、あるいはプロパガンダを弄んでいるように感じても、格別なものとは見なせず(そもそも読んでいないので風聞に基づく)、「朝日しか読まない」人に対しても、「かわいそうに、なるべく関わらないようにしよう・・・」、と思うだけとなっている。したがって、昨今問題がようやく表面化した、日本の一部であった地域に住む日本国民(大日本帝国臣民)の婦女子を、拉致して性奴隷にしたなどと言う、常識の欠けらがあれば、ご立派な学歴を持たずとも、真っ赤な嘘だとわからない方が不思議な内容を、信じてしまうのは、「朝日しか読まない」からだろうと、あっさり苦もなく納得してしまう。だって、「朝日新聞がうそをのせるはずがないわ」である。 しかし、購読していれば、朝日新聞にも良いところはあるだろう。今現在は知らないが、毎日新聞にしても、配っていた頃は、家庭文化面が充実していると感心させられたものだった。つまり、購読してみてわかる良さもあるはずで、購読しない外野が、政治面だけを取り上げて、朝日新聞を購読者を非難するとすれば、それは的外れでしかないだろう。しかし、政治面を含め、その内容を信じて疑わず「ウチは朝日しか読まないよ!」などと言うようでは、自分が「時計仕掛けのりんご」、だと告白するに等しいことになるかと思う。いかに愛読紙であっても、むしろ愛読紙なればこそ、是は是、非は非、しっかりと批判できる見識を持てるようにしたいものだと思うし、またそういった読者層が根付きやすい紙面づくりこそ、長い目で見れば、必要不可欠ではないかとも思う。 今回、朝日が無反省を繰り返し再生が難しいなら、せっかく良い面に着目して愛読されている人たちも、購読紙の変更を考慮して良いかもしれない。その際は、ナベツネ読売や「右翼」?な産経は嫌だろうから、毎日でお茶を濁すのが無難であろうか?毎日の営業には、精々、頑張っていただきたいものである。 さて、テレビ欄も見ない新聞の購読など、夕刊がなくて安い産経新聞であってさえ、お金の無駄使いのような気もする昨今だが、それはともかく、「ウチは文鳥しか飼わないよ!」は、私が文鳥に洗脳され時計仕掛けになってしまったから、というわけではないと思っている。飼わないのではなく、飼えないのである。 セキセイやラブバードにも興味はあるが、わけても昔飼っていた十姉妹は、また飼いたい。しかし、20羽を超える文鳥たちが飛び交う中に、十姉妹数羽では、間違ってスラム街に引っ越してしまった善良な市民一家、荒野の荒くれ者が集う西部の街に迷い込んだ開拓者の一家、そのような連想が次々と頭に浮かんできて、実行不可となるのである。 なお、我が家の荒くれ者たちは、「時計仕掛けのりんご」でも「時計仕掛けのオレンジ」でも「腐ったミカン」でも無いことは確かである。 【楽天ブックスならいつでも送料無料】時計仕掛けのりんご [ 手塚治虫 ]
2014年09月04日
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天井近くでくつろぐ文鳥の群れ 「文鳥団地」の現在の様子↓を見つつ、他人に推奨する時の、鳥カゴを設置する高さは、どの程度とすべきか考えた。 実際の飼育では、何となく床に置いてしまう人も多く、特段それで問題も起きない。しかし、これは推奨できない。床置きは、住環境によっては危険な事態を招きやすいく、文鳥の生態から考えれば不自然な位置なのである。 例えば、子供などがいてバタバタ元気に歩くなら、その振動は直接的に響くことになり落ち着かないし、そもそも足を引っ掛けて事故につながる危険がある。また、わりあい古い家屋の1階は、真冬には地面から寒さが這い上ってきて、冷え冷えとしてしまう。 そういったこと以上に、本来文鳥が地面にいるのは、摂食の時だけで、それもいつでも飛び立てるように、両脚をそろえてホッピングするほど、警戒心を持たねばならないという事実だ。実際、飼育下にあってさえ、羽繕いなどのリラックスした行動は、より高い位置で行う。つまり、本来は、低い位置では落ち着けないのが、空を飛ぶ小鳥の習性なのである。 さらに、害虫や害獣に襲われやすいという難もある。カゴに足を取られる飼い主の危険性より、野良猫や野良犬が侵入する可能性は低いはずで、ネズミが徘徊する一般住宅も少ないかと思うが、地面に近いほど危険なのは、明らかだ。そして、カゴの周囲の掃除がルーズになれば、まき散らかされたエサや水は、害虫の温床を作りやすく、床置きは比較的に風通しも悪く、さらには屋外から偶然侵入するようなごく少数のダニの類や、床に落ちた有害なものが吹き溜まる危険性もある。 もちろん、床に置いたカゴで幼い頃から飼育していれば、文鳥はその環境を当然のこととして慣れ、鳥カゴの位置を変えれば、かえって戸惑うことにもなるだろう。また、それなりに清潔な室内で掃除を欠かさなければ、問題は起こりにくいはずである。しかし、床に鳥カゴを置かねばならない理由があるだろうか? 床にカゴを置くことの利点は、特に何の準備も必要なく、カゴの落下を心配も無い、という点のみではないかと思う。しかし、飼育するにあたって準備をしないようでは困るし、落下の危険性があれば、そうならないように多少の工夫をすれば良いだけだろう。また、前述のように、人間の足元にあれば、誤って倒すことにつながり、倒れて鳥カゴが損傷したり開閉口が開けば、鳥カゴの位置が高くても低くても、文鳥は驚いて飛び出してしまうだけなので、より安全性が高いとは認めがたい。 文鳥が落ち着くからと言って、あまり高い位置に鳥カゴを置いてしまうと、今度は世話をしにくくなり、様子を観察するのも難しく、コミュニケーションもとりづらいので、非手乗りの場合など、人慣れしなくなる可能性が増大してしまう。となれば、やはり、飼い主の膝上から首の辺りが妥当なところではなかろうか。 我が家の場合は、たまたま↓のようになったのだが、こういった感じに下段が空いていると、床が掃除しやすくて楽である。このような団地状態にする必要はないが、小さなメタルラックを用意して、胸のあたりの位置に鳥カゴを置くのが、無難なところかもしれない。
2014年09月03日
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この平べったい生物、イッツの場合、特に左の指先が横を向いて接地してしまうようで、爪が伸びやすいようだ。横を向いてしまうので、先端部分がすり減らないわけだ。 切りたいのだが、前回は、片脚を使えなくなり(無傷)、通常に戻るまでえらく長い時間がかかった。この神経質、むしろ精神を病んでいると見なすべき文鳥の爪切りを、いかに平穏に行えるものか。・・・熟考の必要ありだ。
2014年09月02日
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50回にわたってゼロ行進するには、両投手の力投のみならず、野手に大きなエラーがなかったことを示しており、緊張感を継続して試合を続けた両チームの高校生諸君は、賞賛に値する。立派である。 しかしながら、50回もゼロ行進を続けるようでは、軟式野球というスポーツは、「終わってる」と、私は思う。いかに優れた投手であれ、投げ合って疲れきっているはずで、それでも1点も取れないとなれば、選手も監督も攻撃面でよほど低レベルなのか、そもそも軟式野球というスポーツに、点を取れない致命的な欠陥がありながら、それに対処するルール改正が行われていなかったことを意味するからである。 この場合、選手たちは立派なのだから、ルールに問題があるとしなければなるまい。同様に点数が入りにくい傾向のソフトボールには、同点の場合のタイブレーカー(ノーアウトで2塁走者のいる状態で開始)がルール化されているが、なぜ、軟式野球の運営団体のアレは、そうした改善が出来なかったのだろうか。ま、いつもの押取り刀で、問題が発生しなければ何もしないし、発生してもグズグズなのだろう。 さて、その、世にも珍しい50回のゼロ行進試合を、産経抄氏は「神様のプレゼント」のように感じられ「一陣の涼風のような気持ちのいいニュース」とされている(産経抄2014/9/2)。確かに、選手たちの立場で情緒的に考えるなら、そうかもしれない。しかし、あえて言うなら、試合内容を知った上で、その影響を考えた上での感想だろうか? ものの感じ方は人それぞれなので、冒頭にあげたような理由から、50回のゼロ行進を耐えた選手たちを称えるだけの感想しか持たなくとも、それはを自由で、それ自体、事実に反するとも言えない。しかし、1979年の箕島と星稜の試合と同一視するなら、それは、自己のノスタルジーに基づき、安易に別現象から類似性を追いたがる年寄りに有りがちな症状、と私には思えてしまい、それはあたかも、産経新聞が糾弾してやまない、朝日新聞の報道姿勢を見るような思いすらする。 私は、子どもだったが、テレビ観戦した記憶は薄ぼんやりとながら残っており、延長戦で勝ち越したのに追いつかれを繰り返すものであった。念のため、今、その試合内容を確認すれば、延長11回まで1対1で、12回表に星稜がエラー絡みで勝ち越したものの、スクイズは失敗し追加点を奪えず、その裏2アウトから、劇的な同点ホームランがあって勝負がつかず、サードスチールとか隠し玉とか、両チーム秘術を尽くしつつも、15回まで試合が動かず、16回表に星稜が得点し3対2となるが、産経抄にあるように、裏にファウルエラーの後のホームランが出てまたしても同点、そして、18回裏に箕島がサヨナラ勝ちする、といったものだ。このように、ごく簡単に経過を抜き書きしただけでも、ワクワクする内容なのである。投手野手打者ベンチサイド、体力も気力もすり減らし、人間らしい凡ミスを起こしながらも、諦めることなく、ありとあらゆる努力をして、悪戦苦闘している。まさに『高校野球』であり、「神様がつくった」にふさわしい試合内容と言えよう。 これと、50回にも及ぶゼロ行進では、似て非なるものどころか、どこも似ていないように、私には思えるのだが、いかがなものだろうか?少なくとも、50回にわたって0点だったということを耳にしただけで、その内容を知りたいとも、ましてや観戦したいとは思わないだろう。もちろん、選手たちには「お疲れさん!」と検討をたたえる言葉しかないが、裏に回っては高野連に注文をつけるのが、大人であり報道機関の責任のような気がする。 「神様のプレゼント」なら、少なくとも、謹んでスコアブックを入手し、可能なら録画でも試合を最初から最後まで拝見しなければならなくなるが、私は、50回のゼロ行進と結果を聞いただけで、「一陣の涼風」どころか、生暖かい風が顔を舐めていった感覚に陥り、軟式野球にとって、その欠陥を露呈した悪夢の試合内容としか思えず(繰り返すが選手たちは称えられるべきである)、少なくとも見る価値なしと判断してしまう。どうやら、50回のゼロ行進という、それだけを聞けば、珍現象により、軟式野球が多く取り上げられて喜んでいる関係者もいるようだが、それは脳天気というものだろう。軟式と硬式の違いもわからないよう無知な人々の軽薄な盛り上がりなど、輪をかけて間抜けなマスコミに踊らされたに過ぎず、ごく一瞬で消えてなくなり、無意味と言える(勘違いすれば足をすくわれるので、浮薄な人気は有害ですらある)。それよりも、ゼロ行進が50回も続き、また続かせてしまった事実の方が、はるかに重大であり、このような状態が続けば、軟式野球にとって致命的な事態とさえ言えるのである。 選手たちは、身をもって警鐘を鳴らしてくれたのだから、大人はしっかりと、早急に柔軟な対処して頂きたいものである。 なお、なぜか男子は硬式野球、女子はソフトボールと性別で分断し、野球の試合時間の長さが問題とされながら、両競技を一体として、オリンピック競技に復帰しようとの動きがあるようだが、どうせなら、男女ともに軟式ボールを用いて7回タイブレーカー方式にでもされたら如何、と、ついでのことにオススメしておきたい。
2014年09月02日
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手のひらで佇むキミョー 飼い主の手に乗らなくなって久しいキミョー、最近、腕や手首に乗るようになっていたが、今夜は数分の間、手の上でのんびりしていた。ようやく、真文鳥(まぶんちょう)に戻ってくれたと、「親」として嬉しく思う。 そもそも、父がサカ坊で母がケコなのだから、、どちらに似ても、手のひらを嫌うはずは無く、実際、よほど甘えん坊だったのに、ある日突然、手のひら恐怖症になったのだから、何とも理不尽なのだ。さらに、指を差し出しても逃げず、指の上に乗るまでに更生してくれたら、と願う。
2014年09月01日
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