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言葉を超える世界、言葉では言い表せない世界、に、われわれの言語の最先端にある言葉たちは向かおうとしているように思われる。言葉で表せないものを言葉で表そうとしている、とは矛盾した言い方だがそうとしかいいようがない。 その兆候は現代詩を筆頭として小説にも及んでいるし歌詞にも現れている。 僕にはその本質がまだ見えない。 でも言葉を超えた世界を志向したいという気持ちは僕にもある。僕は音楽を捕まえたいと思っている。正確には音楽のゲシュタルトを記述するための言葉・概念を捜している。 言葉によってこの世界は成り立っている。しかしわれわれが見ている全世界と思われているものは実は夜中にともっている街灯の一つに過ぎないのかもしれない。明るさの周りには闇がとりまいているのだ。 それは無意識の世界なのだろうか。しかし言葉で表しようがないものを言葉が表しているのをわかるということはわれわれはそれを意識しているわけで無意識の世界とも違うような気がする。 言葉はコミュニケーションのツールと見る人もいるがそれはほんの一面でしかない。言葉の本質はもっと違うところにあるような気がする。 言葉の限界を超えて言葉を使いたいという衝動、未知の抽象的世界を記述したい欲求がわれわれを駆り立てる。 言葉を超えた世界とは、霊能者が語るような陳腐な世界ではない。彼らは言葉の内側に安易に安住しているに過ぎない。宗教の言葉もそうである。 言葉の限界を超えて外へ出て行こうとする言葉は、きっとわくわくして楽しいはずだ。
2014.01.26
高校生のころ、小説を読んでも何がいいのかさっぱりわからなかった。まったく歯が立たなかった。なぜだろう。 ひとつには受験にせかされていて小説を読む余裕がなかった。もうひとつの理由は人生の経験が不足していたせいだと思う。 しかし昔読めなかった小説が今は読めるようになった。 これまで生き延びてきた経験と現在を生きていることの生き難さの感覚が自然に小説の世界に対して対等かあるいは見下ろせる優位な地点にまで押し上げてくれたように思う。 一日の労働の疲れから悲しみの橋を渡って家に帰ってくると、ビールを飲んでプロ野球をみて風呂に入って寝るぐらいがせいぜいで小説なんか読む気になれなかった。小説が描く世界よりはるかにきつい現実の生をわれわれは生きてきた。そんなわれわれに打ち勝つ小説なんてあるものかとおもう。実際一つもないと思う。小説を読んですごいなぁなどと感心している人はたぶん人生経験がまだ足らないのだろうと思う。 その上でまだ語るに足る小説があるだろうか。 自分が生きてきた人生の重量をすっぽり受け止めてなおかつ小説の中で新しい人生を追体験させてくれる小説があるように思われる。 それらは昔まったく読めなかった純文学の小説たちだった。
2014.01.26
日本民族は従順でおとなしい民族なんだと思う。多少だまされても気にしない。鷹揚にしている。天皇ってなんなのか僕にはまったく理解しがたい存在だが国民は統合の象徴として天皇を祭って喜んで小旗を振っている。それはそれでいいと思う。しかし、われわれ日本民族をなめんなよ、といいたい。従順さの裏には身と魂とをゲヘナにて滅ぼしうる精神を宿している。だから眠っているわれわれを本当に起こしてはならない。 もし僕がクジラで生計を立てている漁師だったとしたら、生活のすべを奪われることになったらどうしただろう。生活のすべを奪われるということは生きるなということだ。人に対して生きるなということはどういうことなのかを僕は身をもって示すだろうと思う。目には目をが人類共通の対応原理だ。死ねと言うなら当然死ねといわれることを覚悟すべきだ。僕なら家族を捨て人生も捨て戦うだろうと思う。もともと男とは不要な存在だし戦って名誉の死ぐらいが妥当な存在なのだ。だが僕には家族がない。家族がいたら本当に捨てれるかどうかわからない。クジラの漁師たちは家族を選んだ。誰も死者が出ることもなくクジラ漁はなくなった。国会議事堂はいまだにその姿をとどめ首都も灰になることもなくクジラたちは平和に深海で歌っている。けれど僕は空想でその逆のことを夢見ている。男たちの無念さが僕にそういうビジョンを抱かせるのだ。 今年もイルカ漁でシーシェパードの連中が妨害しにやってくるだろう。確かに知能の高いイルカやクジラを殺すのは残酷だ。 それに僕はくじらの肉はうまいとは思わない。別に食いたいわけではない。しかしそれを生業としている人々に生業にしてない人々がやめろという権利があるだろうか。また西洋人たちの勝手なへりくつにも全然納得できない。牛や豚のと殺は問題なくてクジラはかわいそうという彼らの勝手なへ理屈に誰が同意できるだろうか。そうとう頭の弱い馬鹿しかいないだろう。つまり西洋人たちは黄色人種におめーらは馬鹿だろうといってるのに等しいのだ。僕もデンマーク人だったら偉そうにそういうかも知れないが残念ながら黄色人種だ。おれたちをなめんなよといわざるを得ない。 シーシェパードの若者たちよ。殺されても文句をいうな。その決死の覚悟でくるなら認めてやる。ただし僕が漁師ではなく農夫だったことに感謝しろ。殺されずにすむかもしれないからだ。生きて帰れたら日本の漁師の心優しさを本国で語り継ぐことだ。
2014.01.20
やっと買えそうな値段のパソコンが出てきた当時最初に買ったのはPC-6001だった。そのパソコンでオリオンという宇宙空間を漂いながらときおり現れる敵の宇宙船をミサイルで破壊するゲームにはまった。当時すでにポリゴンで作られた3Dゲームがあったのだ。8ビットのcpuでポリゴンを動かし3D空間をぐりぐりまわせた。今から思うとすごいプログラマーがいたものだと感心する。しかしPC-6001で一番興奮したゲームはICBMで他国を攻撃する戦争ゲームだった。そのゲーム、なんと記号を使ったゲームだった。つまり、都市はCとか国民は*とかであらわされ、ICBMはBだった。Bがとことこと隣の国、つまりCとか*であらわされたエリアに移動していって爆発し被害はXであらわされた。国土がすべてXになったら敗北となるゲームでパソコン相手に戦った。それがはらはらどきどきでものすごく興奮した。 その後ゲームはグラフィックが美しい立体となり豪華絢爛に進化したけれどもあのときのようなものすごい興奮は二度と味わうことはなかった。あの記号のゲームを今やったら興奮できるだろうか。 現在僕はゲームはやらなくなってしまった。テレビもゲームも卒業したと思っている。 ゲームで僕が覚えたのはリセットの仕方だけだった。僕は法律など勉強したこともないし法の精神だか支配だか知らないけどそんなのはくだらないと思っている。法ありきではない。はじめに人間ありきなのだ。人間の都合で法なんて自由に変えられるしくだらない法は従わなければいいだけだ。さらに僕は人間には自由しかないと思っている。自由と義務ではなくて自由だけで十分なのだ。義務は人間を支配しようとたくらんだ人間の悪知恵にすぎない。さらにいえば僕は国家選択の自由、国家設立の自由を唱えたい。国家が個人との契約だというなら僕は契約した覚えはないし日本国ではなくデンマークに税金を納めて日本にいながらにしてデンマーク人になりたい。なぜなら幸福度世界一の国だからだ。 ところで国家選択の自由を唱えたのは日本で僕がはじめてではないだろうか。将来日本史の教科書には板垣退助とともに国家選択の自由を唱えた僕も乗せるべきだろう。 さて、遠回りしてやっと本題に入るけど僕が言いたいのは法律にリセットという概念を付け加えたらどうなのかということなのだ。たとえば悪用されそうな法律には2年後にもう一度悪用されてないか検討し悪用の傾向が見られたら直ちに無効とするような条項を付け加えるということだ。なんだか世間では危険な法律が制定されたとか騒いでいるけど、法律ができたからって悪用されたらまた話し合って変えればいいだけではと思うけど。一度できた法律はどこまでも永遠に不滅です、ってわけねーだろ。人間ありきであって法ありきじゃないんだから。どうしても心配だというならリセット条項を入れておけばいいじゃん。 なんでそうしないのかね。頭悪いの?
2014.01.18
オーム事件は奇しくもわれわれにマインドコントロールというものの恐ろしさを教えてくれた。そしてこのマインドコントロールの技法がマスメディアを通じて国民全体にも及んでいるということが明らかになってきた。新聞やテレビが流している情報は明らかに何者かに意図された方向にゆがめられている。もはや新聞やテレビでわれわれ国民が真実を知るということは不可能だということを国民全体が知っておくべきだろう。 現在唯一自由な情報空間はインターネットであるがここにも国民に真実を知られては困る勢力が規制をかけて自分たちの都合のいいように支配しようとしている。インターネットは匿名ではない。携帯と同じように調べればすぐ誰か割り出せるようになっている。ネットカフェも身分証明が必要となっている。書き込みをみてけしからんと権力側が思ったらいつでも逮捕できる。それでもまだマスメディアのように情報空間が一定方向にゆがめられているということはなく自由度が高い。自由度が高いということは真実の情報もうその情報も均等に混じっているということだ。 田中角栄がつぶされた事件からどうも変だなぁと思っていたけど今回の小沢裁判でようやく権力の実態が国民にわかってきたのではないかと思う。 小沢は無罪で真っ白だったにもかかわらず真っ黒の印象でマスコミは情報操作し、無罪判決が出たにもかかわらず検察側は虚偽の内容をでっちあげ再審請求を出してだらだらと小沢をいじめまわしたのだ。これは警察・検察の犯罪ではないのか。そして一番の問題は警察・検察の犯罪を裁く方法がないということだ。これは勝手に自由に暴走できて権力をおもいのまま操れるということだ。政治家が官僚の言うことを聞かなければ国税庁があらを捜してなんらかのいいがかりをつけ自由に逮捕できるのだ。政治家は黙るしかないし官僚側について官僚の思い描く政策をやるしかないのだ。民主主義という名目で国民は当初からだまされていただけだった。政治家はどうすべきか何も提案しない。こわくて何もいえないのだ。 僕は新たな民主主義を提案する。国民評議会を作るべきだ。国会や政治家、政策や官僚、警察・検察を監視し不当を弾劾し処罰する権限を持たせるべきだ。政治家や公務員の給料もここが決める。国民評議会はネット上につくり直接民主主義で国民全員が参加・投票可能にする。もちろん給料なんか出ない。本当の民主主義は直接民主主義しかない。
2014.01.18
一度師と仰いだ人は自分がどんなに年をとろうと師であることには変わりない。僕は絶対に師を批判することはない。また師の悪口を言っているやつらがいれば全力を傾けて師の名誉を守りたいと思う。それが弟子としての仁義だ。 仮に万が一そのまんま東が総理大臣になったとしてもビートたけしに弟子としての礼節を尽くすのが人間としてのありかただと思う。 おれは師を超えた、師よりえらくなったぞ、などとふんぞり返っているやつは世間からすぐ見捨てられるだろうと思う。 なぜか吉本さんに世話になったくせにもう吉本さんはもうろくしたとかちゃぶ台評論家だとか悪口をいう左翼馬鹿が多くてほんとに腹立たしい。そういう人たちは吉本さんの弟子でもなんでもない。弟子失格の前に人間失格というべきだろう。僕はそういう人たちを絶対認めない。 師ができなかったことはわれわれ弟子たちが師の意志を受け継いでやってゆけばいいだけだ。なぜ師を批判しなきゃいけないのか、師を批判して安易に自分が師を越えた気分になっているその自分の甘ったれた短絡した精神が恥ずかしいと思わないのか、と思う。 そういう意味では狼少年副島は立派な弟子だなと思う。文学にはほとんど理解力がないけど師の悪口は絶対言わないし自分で得意な分野で師ができなかったところを何もいわなくても自分で切り開いて進めている。すこしDQNだけど。 昔2chでDQNとからかったことをお詫びしておきたい。もう年だなんて老人くさいことはいうな。まだまだこれからじゃないか。偉大な師を超えるにはまだ早すぎる。 さて、安易に吉本さんを批判する人たちは吉本さんの一部分しか見えていない。吉本さんが何を目指していたのか、何者たらんと考えていたのかは、文学がわかる人でないと見えない。もともと吉本さんは思想家でも左翼でもない。ただの詩人に過ぎない。宮沢賢治と同じように。 なぜ文学なのか。 そこに解読すべき魂の暗号があるからだ。 そしてわれわれは師の意志を継いで同じように魂の聖職者でありたいと願っているものたちなのだ。
2014.01.17
誰かかいっていた言葉だが、昔は何を言っているのかよくわからなかった。でも本能的に何か大切なことを言っているなと感じて心の祭壇に祭ってきた言葉だ。 その結果、人が事実について語っているとき僕は事実はあまり重視していない。事実を語る際のその人の概念がどうなっているのか、の方を見るようになった。 事実とはせいぜい一次的与件に過ぎない。ものを考えるきっかけでしかないのだ。我々は言葉によってこの世界を認識しているが事実も所詮言葉にすぎず曖昧にかつ自在に嘘をつける言葉の特性からすこしも特権的に逃れているわけではない。 だから事実を大上段から振りかざしものをいっている人を僕はあまり信用していない。我々の概念がどうなっているのかを考えている人を信用している。
2014.01.07

新年明けましておめでとうございます。 駅伝を見てもちを食べロケットストーブで火をたいているうちにあっというまにもう5日になってしまった。新年にふさわしい音楽はなんだろうといろいろ探しているうちに、沖縄の音楽にたどり着いた。ネーネーズの安里屋ゆんたを聴きたいと思ったが白髪の変な人がいっしょに歌っているのしかなくてその人の歌い方が気に入らなかった。ネーネーズのあのすばらしい声とハーモニーはまさに沖縄の心なのに標準語で歌わせたり英語で歌わせたりしたら意味がない。標準語で歌うとどんなに上手でも何かあっという間に色あせてしまうものがある。そしてなんだかつまらなくなってしまうのだ。人間椅子はあいかわらずなまっているようだけど津軽の文化に誇りをもっているからだろう。一銭にもならないけど誇りは大事だ。 沖縄の音楽ってなんだかとても心が落ち着く。深い精神性を感じる。日本の古き心のふるさとのようななつかしさがある。大昔われわれは海を渡って海流の中の島々にたどり着いた。はるか南の島からわれわれれの心と精神が運ばれてきた。沖縄の音楽はその記憶をとどめているのだろう。この透明に澄み切った穏やかな深い精神性はどこからやってくるのだろう。いろいろ日本各地の民謡は聴いて知っているけど沖縄ほど深い精神性が感ぜられる民謡はないのではないだろうか。
2014.01.05
共産党が左翼なのかどうかわからないけど靖国に参拝した総理をどう思うのか、バカボンのコメントを聴いたらやっぱりバカボンだなと思った。戦争で亡くなった方々に対する人間らしい感情の言葉が一つもなかった。思うに共産党も社会党もいつからかはわからないけど思考停止したままずっとやってきて今も思考停止したままなのだろう。何も考えようとしない。馬鹿の一つ覚えのままマルクス主義だとか憲法9条を守れといえば食えた時代もあったのだろう。柔軟な思考も知性もまるで感じられない。ただのでくのぼうじゃないのか。僕が感じていることはおおかたの国民だって感じていることだろう。それがわからないと言うこと自体、感性がさび付いちゃっている証拠だろう。まるでいいかげんの馬鹿ぼんぼんにしかみえない。伊豆大島で台風の大災害がおきたとき共産党の町長はどこかに出張していて酒を飲んでいたそうだがバカボンは遺憾に思うのコメントすらなく知らんふりのほっかむりだ。これが彼らの本質なのだ。国民はこのことを深く心に刻んでおくべきだ。絶対に許されるものではない。左翼に見られる思考力の紋切り型の浅はかさは国家を危うくするものだと思う。 国家という共同幻想はもちろんいずれ消滅した方がいいが、だからといって何でもかんでも国家のなすこと全部反対というのはだだっこの子供の思考でしかない。こうしたほうがいいでしょうと提案し説得するというのが本当の責任ある対応だし民主主義というものではないのか。国家きらい、だから全部反対というのが左翼の反応のように見える。僕には実に薄っぺらいなと見える。これでは実際に国家の運営なんてとても任せられない。憲法9条にしても、その憲法があれば平和でいられると本当に思っているとしたら思考停止のただのお馬鹿さんじゃないだろうか。また9条がなくなったらただちに戦争になると短絡する思考もあの人たちの特徴だ。日本が戦争に突っ走ったのはその短絡思考のせいだったのではなかったのか。9条があろうがなかろうが戦争はそれとは全く関係なくおきるときはおきるのだ。本質を考える努力は一切しない。そして、どうしようもないほどの想像力の欠如、これも左翼の人々の特徴だと思う。 マルクスのいう共産革命は歴史上まれにみる惨禍を人類にもたらしただけの大失敗だった。 見方によってはマルクスは史上最悪の極悪人といっても過言ではない。なぜ失敗したのか左翼の人々は何も考えてこなかったしまた考えるだけの能力もなかった。彼らは無能の集団にすぎなかった。戦後唯一真剣に考えてきたのは吉本隆明だけだった。彼が出した答えはマルクスは共同幻想というものの分析が欠けていたのではないかというものだった。共同幻想というものにどう分け入ればいいのか全くの前人未踏の領域だったが、彼がとった方法は想像力によって過去へさかのぼりできるだけ正確にリアルに人々の幻想の有り様を再現するということだったと思われる。歴史的現象学という人もいる。彼の著作がなんだったのか、成功したのか失敗したのか、歴史の審判に委ねるしかないが、ともあれ、僕は初めて読んだとき難解で何を書いているのかさっぱりわからなかった。前人未踏をゆく苦渋に満ちた歩みだったのだろうが、真剣にマルクスに向き合うというのはこういうことだと思う。共産党の誰がマルクスに真剣に向き合ったのか。おそらく誰一人としていなかったんだろうと思う。漫画のバカボンのパパのデジャブを見ているような今日この頃。 村上龍の小説に「悲しき熱帯」というのがあったが、「悲しき左翼」といってもいいだろう。
2014.01.03
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