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January 22, 2016
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カテゴリ: 抜き書き
原始時代の人間にとって、「土」は、真に不思議なものであったに違いない。全ての植物がそれより生まれ、冬になって死んで土にかえり、春になるとまたそこから新たな生命が再生される。それは全てを生み出し、また、全ての死者を飲み込むものであった。このような体験を基にして、太古において地母神を祭る宗教が発生したと考えられる。そして、しばしば生み出すものとしての地母神は、死の神としても祭られている。

(略)

このような、深い意味を持ったイメージは、ある種の個人的体験をはるかにこえ、「母なるもの」と呼ぶべき存在を予想せしめる。ユングはこのような観点から、ある個人の体験をこえて、人類共通に基本的なパターンが存在するとし、前述のような「母なるもの」の原型を「太母(グレートマザー)」と名づけた。全ての人間の無意識の奥深くに、太母(グレートマザー)という原型が存在すると考えるのである。この原型は、全てのものを生み養育するというプラス面と、あらゆるものを呑みつくしてしまうというマイナス面とを有している。

(略)

現在、父親像の喪失を嘆く人は多い。しかし、わが国に関するかぎり、喪失などではなく、もともと父性像は存在しなかったのである。

(略)

わが国には非常に多く、西洋には殆どないといってよい対人恐怖症の場合について考えてみよう。このような人達に会ってみるとよく解ることは、これらの人が他人との適当な「間合い」をとるときに大きい困難を感じているということである。たとえば、その彼等は誰かと二人だけでのときはいいが、そこへ三人目の人が加わると困難をきたすことも指摘されている(笠原嘉「人みしり」)。これは、一人の他人に対しては何とか間合いを測ることができても、二人に対すると混乱を生じてくることを示している。

日本人の場合は、その自我をつくりあげてゆくときに、絶えず他人の心を「察し」ながら、しかも自分自身のものを失ってはならないという、難しい仕事を行わねばならない。地なる母とのある程度の決別を行ない、天なる父をモデルにして自我を確立しようとした西洋人の自我であれば、自我と自我との間に対話をもつことになる。ところが太母とつながりが強い日本人の自我の場合は、非言語的な察し合いによって、他人との関係(関係といえるかどうかも問題だが)をつくらねばならない。


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Last updated  January 23, 2016 05:22:13 AM
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