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June 6, 2016
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カテゴリ: 文化
井上 智重

熊本の旧制第五高等学校(五高、熊本大学の前身)の教授だった夏目漱石(1867~1916年)は、玉名郡小天村(現在の玉名市天水町)の前田案山子の別邸に、少なくとも2度、出かけている。

その地は明治39年(1906年)、漱石が『坊っちゃん』に続いて発表した小説『草枕』に出てくる「那古井の里」とされ、主人公の「画工」を悩ます怪美人「那美」のモデルは案山子の次女・卓(つな)といわれる。


明治30年(1897年)の暮れ、年賀の客を避けるため、五高の同僚の山川信次郎と家を出て新年を前田家別邸で迎えた漱石は、初湯につかり「温水や水滑らかに去年(こぞ)の垢(あか)」の句を残した。

2度目は、それから5カ月たった初夏、教頭の狩野亨吉や山川ら同僚たちと日帰りで訪ねている。

温泉につかり、ごちそうも食べ、おそらく骨董自慢の案山子に、宮本武蔵の『五輪書』を見せてもらったのだろう。卓の案内で、武蔵がこもったという霊(れい)巌(がん)洞(どう)に足を伸ばしている。土産に枝ごともらった夏みかんを肩に担ぎ、ピクニック気分で行ったらしい。

霊巌洞がある一帯は景勝の地で、不動岩、天狗岩、鼓ケ滝などがあり、世阿弥の能「檜垣」で知られる老女の伝説の地だ。

留学先で着想か

熊本で4年3カ月を過ごした漱石は、文部省(当時)の第1回給費留学生として2年間のイギリス留学を命じられた。



ロンドンのナショナル・ギャラリーでは、ターナーが描いた「雨・蒸気・速度」を見ている。雨の煙る鉄橋を疾走する汽車の絵だが、よくよく見ると、橋の下の川に小舟が描きこまれている。漱石はその小舟に気付き『草枕』を発送したのでは、と私は思う。

近代文明を意識

『草枕』は、画工が峠を越えて那古井の里に遊び、川を舟で下って帰ってくる話だが、汽車が轟と走ってきて「現実世界」へと呼び戻される。近代文明の象徴である汽車に「運搬」される先は、「烟硝(えんしょう)の臭い」がして「空では大きな音がどどんどどんという」大陸である。

実は日露戦争(明治37年~38年)が背景に描かれており、那美のいとこが出征する場面が最後の方に出てくる。山川とは阿蘇にも旅しており、これが『二百十日』という小説の題材となった。『草枕』と同じ明治39年に発表された短編である。

東京から阿蘇にやって来た「圭さん」「碌さん」の2人の男が内牧温泉に泊まり、阿蘇神社に回り阿蘇中岳を目指すが、風雨が激しくなり、さんざんな目に遭う。

もくもくと火口から噴き出す真っ黒な噴煙と雨と風と雲の雄大な光景に、「僕の精神はあれだよ」と圭さんは言い、「文明の革命」を碌さんに誓う。やっつける相手は「金力や威力で、たよりのない同胞を苦しめる奴ら」だ。

「いい所に来た」

今年は漱石の没後100年に当たるが、熊本にとっては「来熊120年」である。

それまで勤めていた松山の愛媛県尋常中学校の英語嘱託教員を依願退職した漱石は、明治29年(1896年)4月13日、九州鉄道の池田停車場(現在のJR上熊本駅)に降り立った。

この時、漱石は29歳。駅前で雇った人力車で新坂を下りていくと、かつ然と市街が広がり、「いい所に来た」と思ったという。明治33年に熊本を去って約7年後の同41年、東京・牛込区(現在の新宿区)早稲田南町の居宅「漱石三房」を訪ねた九州日日新聞の記者に語っている。

熊本の学生は礼儀正しく、市井の人も親切だった。鏡子との結婚生活も熊本で始まり、長女の筆子を得た。漱石は、熊本で6度、家を引越し、そのうち3軒が残っている。




(くまもと文学・歴史館前館長、ノンフクション作家)


【文化】聖教新聞2016.4.6





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Last updated  June 6, 2016 06:07:54 AM
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