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木原 英逸
初動対応の特徴
2011 年 3 月 11 日の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故に、科学者や技術者が集まる学術界はどのような立場で対応したのだろうか。今も、誰のためかを忘れた対応が学術界で繰り返されていないだろうか。
震災後、学術界は、シンポジウムや講演会、提言や報告、被災地域での支援、学術調査などさまざまな活動を展開した。一方、「事故に関して、科学者・学会等の専門家・専門家集団としての意見表明を聞きたい」とした市民は、当時、 6 ~ 7 割にも達していた。それにどう応えたのか。学術学会が表明した声明や提言に注目して、その初動の対応をいくつか振り返ってみよう。
震災直後の学術学会の声明や提言には、整理すると三つの特徴があった。
第一に、研究・教育の職責を果たすとしたものがあった。理学系学会が約半数を占める、「 34 学会( 44 万会員)会長声明」(「日本は科学の歩みを止めない」 4 月 27 日)は、「高度な研究と人材が日本を支える礎」であるから、今こそ日本の復興・新生のために「我々は、被災した大学施設や研究施設の早期復興及び教育研究体制の確立支援を行い、科学・技術の歩みを続ける」とした。
しかし、「国家社会」に、研究・教育で貢献するという認識は、被災「地域社会」の復興・新生に、役立つ科学・技術で貢献することを求める震災後の人々の認識とは、ずれていた。
「国家、国民のため」といっても、それはいったい誰のためなのか。「国家、国民」に名を借りた、自分たちの既得権益擁護ではないか。そう見られて批判された。社会貢献の在り方を問われたのである。
問われた社会貢献の在り方 提言・声明には人々とのズレが
責任不問には批判も
第 2 に、被災地域の復興に貢献するとするものも多くあった。そこでも誰のためなのかが問われた。土木学会は関連学会と共に、「会長 共同緊急声明」( 3 月 23 日)及び「会長 共同アピール」( 3 月 31 日)で、被災地の暮らしと経済の復興を実現するためになすべきことは、「震災の調査分析」であり、「今までに積み重ねてきた対策の再評価」を行うことで「より信頼性の高い基準や指針の構築につながる」とした。
土木学会は、想定を低く抑えた津波の基準(「原子力発電所の津波評価技術」 2002 年)を作った当事者であった。しかし、「積み重ねてきた対策」への評価はなかった。議論は、もっぱら、情報の信頼性の高さは手段としての確実性を高めることだとする方ヘ向かった。情報の目的の信頼性を問う声は弱かった。
学術学会は「独立した第三者」の立場で貢献する、その前提が問われることはなかったからである。自立した学術・科学の立場は、誰もの利益、公共の利益に貢献する。だから、目的が信頼できる情報を作っていることに違いはなかったからである。しかし、現実はそうではなかった。
その点では、日本原子力学会も同様であった。しかし、それは誰の責任かを問うという形で現れた。原子力学会は、政府の事故調査委員会の調査に、「関与した個人に対する責任追及を目的としないという立場を明確にすること」、また「設置者 [ 東京電力 ] のみならず規制当局等も含めた組織要因、背景要因」を明らかにすることを求めた( 7 月 7 日「福島第一原子力発電所事故『事故調査・検討委員会』の調査における個人の責任追及に偏らない調査を求める声明」)。
本来、組織の問題として取り上げられるべきことまでが個人の責任に帰せられることを恐れて、関係者の正確な証言が得られない。そうなれば、「事故原因の徹底的解明」ができないというのが、その理由であった。
しかし、学術学会は組織としての責任を問われるべき対象であった。が、科学の立場・中立の立場から関与した学術学会に責任はないとして、もっぱら他の組織の責任に焦点を当て、自らの責任を不問にしようとした。そう理解され、また、関与した学術会員個人の責任の減免を求めるものだと理解され、自己免疫だと批判された。
ここでも、学術学会の立場、それが誰に貢献しているのかが問われることはなかった。
忘れてはならない事
第 3 に、信頼できる科学情報を、学術学会が独立した自律的な研究者コミュニティーとして、住民・国民や政府へ発信していくとする対応も多かった。やはり、ここでも、学術学会が前提とする立場は十分に問われなかった
その結果、情報が誰のためにどう作られているかは問わず、作られた情報の発信の仕方の良しあしに、もっぱら対策の焦点が集まることになった。しかし、情報発信の良い在り方を実現するには、良い情報が発信されているか、情報がどう作られているかを問わざるを得ない。しかし、そこを問わない議論が大勢を占め続けていたのである。
結局こうして、いくつかの学術学会の初動対応を検討して分かるのは、学術界は、独立した第三者の立場に立っていることを前提、出発点にしてはいけないということである。独立した第三者の立場、公共の利益の立場とは、出発点ではなく、学術界が到達すべき不断の目標点なのである。学術界はそれを忘れてはならないだろう。
(国士舘大学教授)
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