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実践に移す強い生き方
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頁)との法華経への「信」は、一切衆生を救済しゆく「行」へと表れていった。そして、経文通りの迫害に遭われる中で、いっそう「信」を輝かせていかれたのである。大聖人にとっての「信」は、「行」と双輪をなすものであったと思う。
私たちにとっても、確信を深めるためには、実践が欠かせないことを心に銘記したい。誤解を恐れずに言えば“「行」なくして「信」なし”と、あえて強く訴えたい。
「御義口伝」にも「帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり」(同 708 頁)とあるように、「帰命」には、色法と心法の両面がある。すなわち、信じること(心法)と、実践すること(色法)の両面があってこそ「帰命」となる、と拝することができよう w さらに大聖人は「白米一俵御書」で、「帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり」(同 1596 頁)とも仰せになり、過去の聖人・賢人が、身命を仏に捧げてきた例を挙げられている。そして、凡夫においては、「志ざしと申す文字を心へ(得)て仏になり候なり」(同頁)と述べられ、「着ているたった一つの衣服を法華経に供養するのが、身の皮をはぐことなのである。飢饉の世に、これを供養したら今日の命をつなぐ物もない時に、その唯一の食物を仏に供養することが、身命を仏に奉ることなのである」(同 1597 頁、通解)と、「帰命」の具体的実践を示されている。
帰命とは、志を持ち、苦難に負けずに広布のために行動すること————これは、供養の精神を讃えられた個所ではあるが、大変な中でも友のために奮闘する学会員の実践が、身命を仏に奉る姿であり、「帰命」の姿勢であることを示しているとも拝される。
友のため、広宣流布のために、何でもやろう————この学会員の心意気と行動の中に、真の帰命はある。ゆえに学会員は、わが可能性を十全に発揮することで、何でも乗り越えてしまうのだ。
さらに大聖人は、「法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず・心はよめども身によまず、色心の二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(同 1213 頁)と、色心の二法で法華経を受持していく重要性を述べられている。特に「心はよめども身によまず」の一節は、観念で受持していく(信じているだけで実践がない)のではなく、実践的に受持していくのだと示されている。そこにこそ本当の「信」があるのだと教えてくださっているように思えてならない。
以上、考察してきたが、結論として訴えたいことは、「自他共の可能性を信じ抜く学会員の覚悟こそ、人生を開く、尊く美しい不屈の生き方である」ということだ。世間から見れば、“祈ったところでどうなるのか”と思えるかもしれない。しかし、学会員は、環境がどうえれ、状況がどうあれ、“必ず乗り越えてみせる”と、自らの可能性を信じる。そして、敢然と行動に移していく。その姿に、人間としての強靭さ、崇高さを感じてならない。
最後に、アランの言葉を借りて、学会員の尊い生き方を友に語り抜く決意としたい。
「信仰のない 精神 たちはたくさんいる。それは外に支えをもとめる、弱いひとたちである」「確かに、信仰をもっていれば、道が拓けるとはいえない。しかし、どんな道も、君がまず、信仰を持たなければ、拓かれることはない。これは確実である。信仰をもたないのは、戦いながら敗れていることだ」(前掲書)
【論
RON
——日蓮仏法の視点から】創価新報
2016.10.5
(おわり)
出版事業で世界各地に散在する February 5, 2025
生命尊厳の確立 August 30, 2021
免疫学に学ぶ生き方 May 17, 2019
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