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神奈川近代文学館学芸員 長谷川 櫂
若くして結核にかかり、しばしば喀血した。日常的に微熱が続き、残酷な言い方だが、永遠に恋をしているような状態に陥る。効果的な治療法がまだなく安静にして退職するしか打つ手がなかった。最晩年には結核菌が骨まで入り、肉体を芯から腐らせた。体にいくつもの巨大な穴があき、大量の膿が流れ出る。毎日、包帯を取り替えるたびに、こびりついた血と膿が激痛を走らせ、うめき声を上げずにはいられない。
正岡子規(一八六七~一九〇二)は三十五年の苦痛の生涯を送った。有名な横顔の写真が残っているが、体が歪んで正面を向けないのだった。それも弟子に支えられて、どうにか姿勢を保っていた。想像を絶する苦しみの中でも快活な精神を失わず、俳句と短歌の革新、日本語の文章の改革という大仕事をなしとげた。子規の情熱の源はどこにあったのだろうか。
生誕百五十年の今年、神奈川近代文学館の「正岡子規展——
病牀
六尺
の宇宙
江戸が明治に変わった十九世紀は、欧米列強が植民地を奪いあう帝国主義の時代だった。日本ではこの東洋の小さな島国を守るために天皇から庶民まで国の役に立つ「有為の人」になることを求められ、なろうとした。子規も例外ではない。少年時代は政治家を志したが、賊軍松山藩の子弟であり、病身であるため叶わない。そこでその情熱を文学へ向けた。これが子規の真実である。
俳句、短歌、文章に西洋絵画のゼッサン「写生」という方法を持ちこむが、それは明治政府の西洋化策とみごとに一致していた。また平安時代の『古今集』をけなし、奈良時代の『万葉集』をほめたたえるのだが、これは新政府が藤原氏の牛耳った平安朝を否定し、天皇親政の奈良朝を手本にした基本方針を文学に応用したものだった。子規の活動は文学で新国家建設に役立ちたいという情熱の発露だったのであり、文学における政治活動だった。明治は政治と文学が蜜月を送った時代だったのである。
次に日本の近代は明治にはじまったと思われているが、これは誤りである。大衆化こそ近代の最大の特徴であり、これに照らせば日本の近代も欧米と同じころ、江戸時代後半、十一代将軍家斉の大御所時代(一七八七~一八四一)に始まっていた。明治維新は遅れてきた政治の近代化にすぎない。
この「江戸時代近代」を代表する俳人が一茶である。子規は一茶から現代へとつづく近代大衆俳句の中継者だった。そして子規が唱えた「写生」も眼前のものを描けば誰でも俳句ができるという大衆は俳句の方法だった。
第三に、子規は男の友人や弟子たちに取り巻かれている印象が強いが、子規を根底で支えていたのは女たちだった。子規は満四歳で父を失って以来、母八重と妹の律、母の実家の大原家に守られていた。母と妹はみずからを犠牲にして子規に尽くした。この二人の女の外側を弟子や支援者や読者が取り囲んでいた。そして身内の女たちに無条件に愛されてるという自信が、子規の楽天的な性格をはぐくみ、生涯、人間子規の魅力を発散させて行くことになる。
生誕から百五十年の歳月は、あまりに近すぎて見えなかった子規の実像を洗い出すのに十分な時間である。
(はせがわ・かい)
【文化】公明新聞
2017.4.2
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