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大伴家持と万葉集
高岡市万葉歴史館長 藤原 茂樹
波乱の生涯で、没後、光り輝く
大伴氏は、祖先神が天孫の伴をしてきた誇り高き一族である。五世紀後半の雄略天皇の代から政治の中枢を担っていたが、六世紀半ば、大伴金村の対外政策失敗以降、力を落とした。六七二年、壬申の乱での活躍により息を吹き返したが、奈良時代になると藤原氏の権勢におされていく。大伴家持(七一八~七八五)の代になり、頼みにしていた橘諸兄も亡くなり(七五七年)、諸兄の子の奈良麻呂の謀反(七五七年、同族の大伴古麿も加担)は、家持の心をいよいよ空虚なものにした。大伴氏は段々に衰えて十世紀半ばに歴史から姿を消す。家持の空虚感は、一族の遠い先の末路の予感にみえるのであった。七五八年、家持は因幡守に任じられ、翌年元旦に、
新しき年のはじめの初春の今日降る雪のいやしけよごと(『万葉集』巻二十・四千五百十六)
と詠んだが、『万葉集』終焉歌となっている。当日は朔旦立春(元日と立春が約三〇年目に重なるめでたい日)で、加えて雪が祝福するように降る。元旦、立春、雪の要素が合わさりすばらしいことが起きている。こんな風にめでたいことが重なるようにと慶びと希望をこめた至上の歌である。新年の起点である元日の歌を歌集の終結に用いている。
早くに契沖(一六四〇~一七〇一)は、「万葉集」の編纂者を大伴家持とし、その構成は二部に分かれていると説き、巻一~十六は部立(雑歌、相聞、挽歌、寄物陳思、正述心著など)により整理されている(巻十五を除く)が、十四巻は家持の歌日誌の姿であり、歌集全体は同一視点で作られてはいない。編纂の痕跡が多様性を持ち、家持に至ってはほぼ完結したとするのが現在の説である(他説もある)。
因幡から帰京した家持は信部大輔(中務大輔)の地位に衝き、六十三年頃、藤原良継、・石上宅嗣らと藤原仲麻呂暗殺を謀るが未遂に終わり、七百六十四年、薩摩守に左降される。その後、参議に復帰。七百八十二年、氷上川嗣(母は聖武天皇の娘)の変に連座し、京外に移される。七八五年、中納言従三位兼春宮大夫陸奥或按祭使鎮守府荘厳として、同八月没(六八歳)。死後二十日過ぎ、藤原種継暗殺事件に早良皇太子(桓武天皇の弟)とともに連座し、屍を葬られぬまま官位剝奪除籍される。子の永主は配流。不幸な死後である。手元にあった『万葉集』は没収され、官蔵に眠ることになる。乙訓寺(京都府長岡京市)に幽閉された早良は飲食を絶つこと十余日、淡路島配流途次で憤死する。亡骸は淡路の塚に収められた。それからである。餓死の親王霊は怨霊となり、天皇と新皇太子(後の平城天皇)父子に祟るようになる。周囲の女性たちが次々に命を失い、皇太子の体に異変が生じる。七九二年、卜占の結果、早良の祟りと判明し、朝廷は淡路の墓に使者を遣り慰撫するが祟りはやまず、桓武は早良に崇道天皇の号を与え、淡路墓を山陵とした。早良の春宮大夫であり官位正明を剥奪された家持は八〇六年復位された。
この時、官庫に眠っていた『万葉集』が家持の名誉とともに目覚めのときを迎えた。家持没後二十一年、万葉集終焉歌から四十七年後の音量蠢く時代の底から宝石のような価値を現ずる事になる。
ふじわら・しげき 1951 年、東京まれ。 81 年、慶應義塾大学大学院文学研究課程単位取得退学。神戸山手女子短期大学教授、大谷女子大学教授、慶應義塾大学教授等を経て現在、慶應義塾大学名誉教授。
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