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茶人・織田有楽斎の生き方
サントリー美術館 主任学芸員 安河内 幸絵
伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康……
茶会で人と人をつなぐ
「このたび尾崎坊の後継者が下向することについて、お手紙を拝見しました。先代の尾崎坊が茶にとりわけ念を入れていたこともあり、やはり茶壷を送り、茶を詰めてもらうことにしましたので、有楽様からもとびきりよい茶を、とお口添えをお願したく存じます。今年はすべて蒸し茶でお願いしようと思っています。またお便りいたします」
松平陸奥守(伊達政宗、 1567 ~ 1636 )から織田有楽斎( 1547 ~ 1621 )へ宛てた 3 月 19 日付の書状である。伊達政宗は、かねて尾崎坊が作る高品質な茶のことを知っていたので、その後継者にもやはり茶壷を送って茶葉を詰めてもらうことにした。そこで、よい茶を詰めてもらえるように有楽斎に口添えを頼んでいるのだろう。
「尾崎坊」とは、京都宇治の茶師・尾崎坊永教ではないかと考えられる。尾崎坊は有楽斎と親しく、有楽斎の名前の一部を与えられ、以後代々「有庵」と名乗ったと伝わる。
伊達政宗と有楽斎もまた、親しい茶人仲間だったようだ。有楽斎は元和3年( 1617 )、京都・建仁寺の塔頭寺院であった正伝院を再興する契約を結んだ。翌年には正伝院内に書院と茶室「如庵」を建て、ここを最晩年の隠棲の場としたが、如庵で開かれた有楽斎の茶会にも伊達政宗は招かれたという。伊達政宗と尾崎坊家と有楽斎、茶の湯を通じた者のつながりが分かる書状である。本状の外にも、有楽斎がしたためた書状や有楽斎宛ての書状が複数伝世しているが、その内容からは、有楽斎が武将たちのみならず豪商茶人、千家の人々、高僧、公家、京都宇治の御用茶師などと幅広く有鈎氏、茶の湯を通して親交を深めていたことがうかがえる。
有楽斎の生きた時代、茶の湯は政治のツールとして活用され、茶会は武家社会に不可欠なコミュニケーションの場として頻繁に開催された。有楽斎は、豊臣秀吉に御伽衆として仕え、大茶会の運営では中心的役割をになった一方、たびたび秀吉や徳川家康の相伴(客としてお供する人)として茶会に出席した。また、自らも多くの茶会を開催した。慶長の頃の有楽斎の茶会には、徳川陣営と豊臣陣営の人物が入り乱れて招かれていたという指摘もある。
さらに、大坂の前田利家邸が文禄3年( 1594 )に秀吉の御成(訪問)を受けたときは、その座敷飾りを有楽斎が指揮・監修している。慶長3年(1598)には有楽斎が自邸に豊臣秀吉の御成を受け、慶長 17 年( 1612 )には自邸に豊臣秀頼の御成を受けている。
このように、茶の湯の関連した有楽斎の活動を概観してみると、織田家の嫡流・織田信長の 13 歳年下の弟であったことに加え、茶の湯の素養をいかんなく発揮し、茶会で人と人をつなぐ能力に長け、広い人脈を持つという人物像が浮かび上がってくる。有楽斎が豊臣家、徳川家をはじめ、多くの人々から頼りにされたことが想像される。
(やすこうち・ゆきえ)
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