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第一節 釈尊の滅後に始まった権威主義化
初期の仏教教団を取り囲む社会は、相変わらずヒンドゥー的(バラモン教的)社会であった。釈尊が、「ダルマ(法)に基づいて男女の平等を説いたといっても、それが実現されていったのは、厳密には教団内に限ってのことであったのではないか。教団の外では、すでに前章で述べたようなヒンドゥー的女性観が根強く横行していたのである。
また、教団内の男性出家者を見ても、釈尊が生存していて当時のある時期には、約千二百五十人の男性出家者たちがいたとされているが、その構成はバラモン出身者が五〇%以上を占めていた(岩本裕著「仏教と女性」六頁)。こうした傾向は、その後もそれほど変わることはなかったであろう。
岩本裕博士は、このように男性出家者の教団内でバラモン出身者が高い占有率を占めていたということから、「仏教における女性間の根底に、あるいはその背後に、バラモン教やヒンドゥー教における『生』の問題のあることを見逃すことはできない」(同)と述べている。
そうしたヒンドゥー社会の女性観が、次第に仏教教団にも影響を及ぼすことは自然な成り行きであろう。それは、釈尊の滅後、とくに部派仏教、あるいは小乗仏教と呼ばれる時代に顕著になってくる。そのプロセスについては、本章でのちに述べることとする。
釈尊の滅後、仏教の教団には徐々にとはいえ、変化の兆しが現れた。その一つが、在家に対する出家の優位の強調であった。セイロン上座部が伝えた「スッタニパータ」は最古の経典と言われ、詩の部分はアショーカ(阿育)が王に即位した紀元前二六八年以前、すなわち部派分裂以前にまとめられたものである(中村元著『原始仏教の社会思想』六七二頁)。そこにすでに在家を低く見る出家優位の考えの萌芽が見られる。『スッタニパータ」におけるその変化のあらましをたどってみると、詩の中でも古いものには、
目覚めた人(ブッダ)を誇り、あるいはその〔ブッダの〕 遍歴行者や在家仏弟子 を誇る人、その人を賤しい人であるかと知りなさい。(第一三四偈)
といった釈尊の言葉が見られる。出家者を意味する言葉として paribaja (略歴行者)が用いられているということは、この詩がきわめて古いものであることを意味する。 bhikhu (食べ物を乞う人、比丘)が用いられるようになるのは、後のことである。
ここでは、略歴修行者という言葉で示された出家者と、在家者( gaharttha )が、ともに等しく「〔ブッダの〕教え(声)を聞く人」( savaka )、すなわち仏弟子と見なされていることが注目される。 savaka は、「聞く」という意味の動詞(√ su )に行為者名詞を作る接尾辞 aka を付けたもので、「声を聞く人」を意味する。すなわち、「仏の教えを聞く人」のことで、「声聞」と漢訳された。それは、「仏弟子」というほどの意味で用いられていた、当初は在家と出家を共に含んでいたのである。ところが、部派仏教の時代になると、出家者たちは savaka から在家者を排除してしまう。大乗仏教徒が「小乗」と呼んだのは、まさにそのような出家者たちのことであった。
gahattha (在家者)という語は、第九〇偈にも見られる。その直前の第八九偈において、釈尊はまず、ずうずうしくて、傲慢で、しかも偽りをたくらみ、自制心がなく、お喋りでありながら、いかにも誓戒を守っているかのごとく、真面目そうに振る舞う出家修行者のことを「道を汚す者」と述べた上で、次のように論じている。
智慧を備えた聖なる仏弟子である在家者 ( gahattho... ariyasavako sapanno )は、彼ら(道を汚す〔出家〕者たち)のことを洞察していて、「彼らは、すべてそのようなものだ」と知っているので、以上のように見ても、その人の信仰が亡くなることはないのだ。(第九〇偈)
ここにおいても、釈尊は在家者をしめすのに gahattha という語を用いている。しかも、「道を汚す」出家者の言動を見ても少しも紛動されることなく、信仰を見失うこともない在家者のことを、「智慧を具えた聖なる仏弟子」と言っている。この表現に在家者を軽んずる姿勢は全く感じられない。『スッタニパータ』では、このほか第四八七偈にも在家者を指すのみ gahattha が用いられている。これは、「家」を意味する gaha と、「居る」「在る」を意味する形容詞 tha との複合語で、文字通りに「家に居る人」を意味している。
ところが『スッタニパータ』の他の偈で、出家者を指すのに bhikkhu (食べ物を乞う人」という語がしばしば用いられている。それに対して、在家者を指すのに「そばに仕える人」を意味する upasaka (優婆塞の音写)という語の使用は、『スッタニパータ」では「グンミカ経」の第三七六偈と、第三八四偈の二カ所に限られている。その第三七六偈は、次のようになっている。
教えを聞く人 は、 家から出ない状態になる人 であれ、 在家の優婆塞 ( upasaka )であれ、どのように行うのが良いでしょうか?
ここでは、仏弟子を意味する「教えを聞く人」( savaka )という語が、在家を排除して出家のみに限定されるまでには至っていないが、在家のことを「優婆塞」という語で示すにいたっている。
また第三八四偈は、次のように表現されている。
これらのすべての比丘たちや、 優婆塞たち は、まさにこのように〔ブッダ〕の教えを聞くために共々に坐っている。
ここでは、出家者を指す。言葉として「遍歴行者」( psribbaja )ではなく「比丘」( bhikkhu )が用いられ、さらには在家者を指す言葉が「家にいる人」( gahattha )から「優婆塞」( upasaka )に取って代わられている。ここに在家者との関係の若干の変化が見られえる。ただし、この二つの偈は、釈尊によって語られたものではなく、在家の男性信者であるダンミカが諳んじたものであるということを考慮しなければならないであろう。
以上のように見てくると、最も古く編纂されたといわれる『スッパニパータ』において、在家者と出家者を表現するのに、何段階かの変化を経ていることに気づく。もっとも古い表現は、出家者を「遍歴行者」や「仙人」、在家者を「家に居る人」と呼んでいた。ところが、出家者についての表現が先に変化し、「食べ物を乞う人」( dhikkhu )が用いられるようになった。ところが、在家者についての表現は、『スッタニパータ」に限ってみれば、「家に居る人」が用いられていて、釈尊が「そばに仕える人」( upasaka )を使った形跡はまったく見られない。それが用いられているのは、ダンミカという在家が自分たちのことを指して用いた二カ所だけである。
ということは、「スッパニパータ」成立の段階では、まだ出家者の側で「優婆塞」( upasuka )という語が用いられていなかった可能性が高い。ただ、在家の信者が仏教以外、すなわちバラモン教における伝統的な呼び方にならって用いたということは確実である。「スッタニパータ」も含めて経典を編纂したのは出家者であるから、在家者にそれを言わせる形をとった、あるいは言わせることを容認したとも考えられる。
比丘は、 bhikkuhu を音写した者であり、「食べモノを乞う人」を意味する。優婆塞は、「そばに坐る」という意味の動詞ウパ・アース( upa √ as )に行為者名刺を作る接尾語 aka を付けた upasuka の音写語で、「そばに仕える人」を意味する。だれに仕えるとかといえば、比丘に対してである。後世には、男性出家者を「食べ物を乞う男」( bhikkhu 、比丘)、男性在家者を「食べ物を乞う女」( bhikkhuni 、比丘尼)、「そばに仕える女」( upasika 、優婆夷)を加えて、「四衆」と言い、それが仏教徒の総称とされるにいたるのである。当初は、男女の別なく出家も、在家もともに「仏の教えを聞く人」という関係であったけれども、次第に「食べ物を乞う人」「そばに仕える人」という意味が加味され始める。この『スッタニパータ』のの「ダンミカ経」の段階では、そこまでは至っていないが、すでに僧俗の分裂と、優劣を規定する前兆がここにうかがわれる。
『アングラッタ・ニカーヤ』には、第二章第十節でも論じたように多数の仏弟子の中から代表的な人物を四衆ごとに列挙した箇所があった。そこでは、
わが男性の仏弟子( savakanm )にして比丘なるものたち
わが女性の仏弟子( savukanam )にして比丘になるもの
わが男性の仏弟子( savakanam )にして優婆塞なるもの
わが女性に仏弟子( savikanam )にして優婆夷なるもの
と前置きして、それぞれの勝れた点と人命が列挙されていた。出家者と在家者を示す言葉が、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、すなわち「食べ物を乞う男/女」「そば近く仕える男/女」という言い方に変わっているものの、いずれの場合にも、『仏弟子』を意味する savaka ‘、あるいはその女性型の savika という語が四衆のそれぞれの後の前に付されている。ここには『テーラ・ガータ』『テーリー・ガーター』にみられない女性修行者の名前が挙げられていることから、この良書よりも知胡氏時代を経てまとめられたと考えられるが、在家も出家も、男性も女性も差別なく仏弟子と見なされている点は、まだ変わっていない。
こうした在家と出家の関係の変化は、釈尊滅後、漸次に進行したと思われる。それは、紀元前三世紀末の部派分裂を経て顕著になった。原始仏教において「仏弟子」を意味していた savaka と savika という語が、男性のみに限られ、その上、在家を排除して出家にのみ限定されてしまうのである。その代表が西北インドで最も有力であった説一切有部(略して有部)であった。彼らは、他に先駆けてサンスクリット語を用いたが、パーリ語の savaka に対応するサンスリット語の sravaka という語を用いるのみで、その女性形 savaka に対応するサンスクリット語を用いた形跡は見られない。サンスクリット文法の造語法では、 sravaka の女性形は sravaka という語に相当するが、「女性の仏弟子」を意味するこの後は辞典にも仏典にも見当たらない。すなわち、小乗仏教において「仏弟子」は、[表2]のように男性出家者に限られてしまったのである。こうした事情によって、大乗仏典において批判の対象とされた sravaka (声聞)も、当然のように小乗仏教の男性出家者を意味している。
|男 性 女 性
|出家 在家 出家 在家
原始仏教(パーリ語) | savakasavakasavikasavika
小乗仏教(サンスクリット語) | sravaka ——— ——— ———
表2
部派分裂が起こったのは、釈尊の入滅から百年余りを経過したころのことだと言われている。ヴァイシャリーにおける会議(結集)において、形式的な保守派に対して、現実的な核心は画、時代や地方によって異なる風俗・習慣・気候・風土に応じて十項目の戒律(十事)を緩和するように要求した。この問題を巡って保守派と革新派との間に激しい論争がおこり、ついには教団は上座部と大衆部に分裂する(根本分裂)。その時期を仏滅五百四年とすることは、セイロン上座部(分別説部)の『島史』( Dipauamsa )と『大史』( Mahauamsa )、それに説一切有部によっているので、その確実性は高いと言えよう。
釈尊の生存時代については、中村元博士の綿密な生産の結果、紀元前四六三~同三八三年と推定されている(『インド史Ⅱ』五八一~六一九頁)。それによると釈尊滅五百四年というのは、紀元前三世紀ということになる。それ以後も、さらに部派分裂は繰り返され、約百年の間(紀元前三~同二世紀)に大衆部系統が細かく分裂し、次の約百年の間(紀元前二~同一世紀)に上座部系統が細かく分裂した。最終的に紀元前一世紀ごろまでに約二十の部派に分裂していった(枝末分裂)。これらは、紀元前後に起こる大乗仏教運動の担い手たちから、「小乗二十部」と呼ばれ、「小乗仏教」という言い方で貶称された。上座部系はインドの西方と北方に、大衆部慶は中インドから南方に主に発展したようである。
[『異部宗輪論』による部派分裂の形態]
大衆部——本末九部(詳細は略)
|本上座部(雪山部)
| |—法上部
上座部— |買子部 |—賢冑部
|—正量部
|—密林山住部
説一切有部——|化地部——法蔵部
|飲光部
|経量部
これらの諸部派は、分裂・独立して後、自派の教説の正当性を権威付けるために聖典を集大成し直すこととなる。それには、自説に都合の悪い箇所を削除し、都合のよいユリな言葉を付加増広するということも行われたようだ。(中村元著『原始仏教から大乗仏教へ』八五頁)。ブッダの教法と戒律を集大成したものをそれぞれ経蔵、律蔵といい、その教法について弟子たちが研究・解説した著作などを論蔵といった。各部派は、それぞれ経・律・論からなる三蔵を所有していたようだが、たいていは散失してしまっていて、現存するのは、主にセイロン上座部のパーリ三蔵と、西北インドを中心として有力であった上座部系の説一切有部の論蔵である。
説一切有部は、西北インドのカシュミールやガンダーラを中心に繫栄した。物質豊かなカシュミールに拠点を置いていたことが、法(ダルマ)の研究であるアビダルマ教学の精緻な体系を確立することを可能にしたと言えよう。諸部派の中でも、説一切有部に対立した学派として有名な経量部のように、名前は知られているがその論書がほとんど伝えられておらず、教義の内容の詳細はよくわからない部派が多い。大衆部系は、上座部に比べて勢力はそれほど大きくなかったようで、大衆部以外の名前の知られた部派は少ない。
マウリヤ王朝(紀元前三一七~同一八〇年ごろ)以降には、西北インドを支配したインド・ギリシア王朝、サカ王朝、クシャーナ王朝(特にカニシカ王)による仏教保護によって、ガンダーラからカシュミール、マトゥラーにわたって説一切有部、正量部、飲光部、法蔵部、化地部、大衆部などの部派が栄え、あとには大乗仏教も興起することになる。
上座部系統の各部派は、教理の面においても実践の面においても保守的であり、伝統的であった。それを支持していたのは、インドの上層部であった。それに比べて、大衆部系統の部派は、広く一般大衆に支持されていて、現実社会と密接な接触を保っていて、時代の趨勢に分間で進歩的で改革的態度を持っていた。そうした傾向が、時代の変遷とともに大乗仏教を成立させる温床ともなったと言える(同、八三頁)。
部派分裂を経て、とくに上座部系は権威主義的傾向を強めていったようだ。それは、出家中心主義、隠遁的な僧院仏教という特徴として表面化してくる。出家して比丘となり、戒律を守り、厳しい修行をする。在家と出家の違いを厳しくして、出家を前提とした教理体系や修行形態を築き上げ、僧院の奥深くにこもって、禁欲生活に専念し、煩瑣な郷里の研究と、修行に明け暮れた。その修行も、他人の九歳( parartha 、利他)よりも自己の修業の完成( savartha 、自利)を目指したものであった。それは、ややもすると利己的・独善的な態度に陥る傾向があった。
こうした傾向を助長する要因の一つとして、教団自体の富裕化が挙げられよう。教団は、王侯たちから広大な土地を寄進された。それは寺院の荘園となり、王の官吏たちも立ち入ることができなかった。また、莫大な金銭の寄進を受け、教団はそれを商人の組合に貸し付けて利子を取った。こうして西暦紀元前後には、教団自体が大地主・大資本家と化していた(中村元著『インド史Ⅲ』一八九~一九〇頁)。出家者たちが大寺院の中に住んで瞑想に明け暮れ、煩瑣な教理の研究に没頭して、悩める民主のことを考えられなくなってしまった背景にはこうした事情もあったのである。紀元前後に登場する大乗仏教から、「小乗」と呼ばれるにいたる理由はこうした点にあった。
小乗は、サンスクリット語の「ヒーナヤーナ」( hinayana )を訳したものだが、これは「劣った乗り物」「粗末な乗り物」「打ち捨てられた乗り物」という意味である。「小乗」と呼ばれた人たちが、自分たちのことをこのような言い方で呼ぶはずはなく、ん「マハーヤーナ」( mahayana 、偉大な乗り物)と自分たちのことを呼んだ大乗仏教の徒によってつけられた貶称であった。生々と大乗の大きな違いは、前者の自利のみを探求するのに対して、後者が利他業に徹し、「他者の救済が自己の救済に通じ、自己の完成が他者の救済の言動力炉なる」という自利利他円満を指す——という点にある。
大乗仏教によって「小乗」と呼ばれたのは、部派仏教全体なのかどうかは明らかではない。『大品般若経』の注釈書で、ナーガルジュナ(龍樹)の著だとされる『大智度論』によれば、そこで批判されているのは「毘婆沙師」、すなわち『大毘婆沙論』を信奉する説一切有部であったようだ。有部は、その論究方法の精微さにおいて群を抜いており、理論仏教として勢力をふるい、他の部派(後には大乗仏教)にも理論的に大きな影響を与えた。そのため、有部は上座部系の有力なる代表者と見られていた(平川彰『インド仏教史』上巻、二二六頁。木村泰賢著『大乗仏教思想論』五三頁)。
スリランカや、東南アジアの仏教の場合、小乗仏教と呼ぶのは適当ではなく、上座部仏教( thera-vada
)、あるいは、長老仏教と呼ばれている。
【差別の超克「原始仏教と法華経の人間観」】植木雅俊著/講談社学術文庫
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