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牧口先生「創価教育体系」〈第 2 篇〉( 1930 年 11 月) ㊤
現在における教育の目的は、果たして確立していると考えられるのか。また、確立しているとすれば、その目的は万人が等しく賛成し、承認するものであるのかどうか。それは、数々の疑問が残されているところであり、実に日本の教育界の重大事である。
目的が確立していなければ、方法の設定が不可能であることは、目的なしに射た矢が的に命中するとは考えられないことから察することができよう。(中略)
ある論者は(教育の目的は)国家のためと言い、またある人は父母のためという。しかし、それは果たして子どもを愛する父母の純真で率直な希望なのであろうか。真に子供を愛する父母であるならば、決して子どもを自分たちの幸福の手段とは考えないだろう。(中略)
(江戸時代の町奉行の)大岡忠相による裁きで、実母と養母が一人の子どもの取り合いをした話はその好例である。一方は、子どもを奪うことが第一義で子どもの生命を顧みなかったのに対し、他方は、子どもの生存を第一義に考えて取り戻すのは第二義だった。教育を受ける子どもたちに社会が捕るべき態度は、まさに父母がこのように子どもにたいしたのと同じ関係であるべきだ。一方の利益だけを重視して、子どもたちをそのための手段とみなすことは、結局のところ、(社会と子どもたちの)双方を共に破滅の縁に追いやることになる。
◇
教育を受ける子どもたちが、幸福な生活を遂げられるように(生き方を)教え導くのが教育である。
教育者や教育を望む父兄などが、自分の生活面での欲望を満たすために子どもたちを手段とするのではなく、子どもたち自身の生活(に関わるもの)を教育活動の対象としながら、子どもたちの幸福を図ることをもって、教育の目的とするのである。言い換えれば、子どもたちの成長と発展が、幸福な生活の中で終始できるようにするものであらねばならない。(哲学者の)ジョン・デューイ氏が、(教育の在り方に関して)「生活のために、生活において、生活によって」と言ったのは、教育者である我々にとって味わうべき言葉である。
(『牧口常三郎全集』第 6 巻、趣意)
校長として日夜書きためた思想の結晶
弟子の奮闘で成就した大著の発刊
1930 年 11 月 18 日に発刊された、牧口先生の『創価教育学体型』第 1 巻——。
より多くの人々に読んでほしいと思いから、当時の教育書としては廉価に抑えられていたにもかかわらず、装丁には金箔で刻印された文字があった。
表紙と背表紙に記された書名と、著者である「牧口常三郎」の名前である。
当時の日本は、前年( 1929 年 10 月)に起きたニューヨーク株式市場の大暴落の影響で、(昭和恐慌)と呼ばれる経済危機が深刻化していた。
そうした時勢の中で、採算を顧慮しないような価格での発刊を目指すこと自体、牧口先生も「無謀」と感じた程だった。その上で、あえて費用がかかる金箔の文字が使われたのは、発行の全責任を担った戸田先生の〝師の大著を何としても荘厳したい〟との一念があったからではないかと思えてならない。
そもそも『創価教育体系』の発刊は、戸田先生の陰の苦労亡くして、成就を見ることができないものだった。
牧口先生が書きためた膨大な草稿の整理を一手に引き受けたのも、発刊を支援するための資金を捻出したのも、戸田先生にほかならなかった。 1930 年 6 月に戸田先生が出版してバストセラーとなった参考書の『推理式指導算術』の収益なども、「創価教育体系」の発刊資金に充てたとみられている。
戸田先生はなぜ全てをなげうって、牧口先生の大著の発刊を成し遂げようとしたのか。師恩に応えたいとの一心に加えて、牧口先生と同様に、子どもたちを取り巻く厳しい状況を改善しなければならないと痛感していたことも、大きかったのではないだろうか。
経済危機をはじめ、社会が不安定になった時に荒波に容赦なくさらされ、翻弄されるのは常に子どもたちである。その現実を、教育者である牧口先生と戸田先生は肌身で感じていた。
牧口先生が『創価教育学体系』の緒言に記した、「一千万の児童や生徒が修羅の巷に喘いでいる現代の悩みを、次代に持ち越させたくないと思ふと、心は狂せんばかりで、区々たる毀誉褒貶のご時は余の眼中にはない」との思いを、戸田先生は誰よりも深く知っていたのだ。
この『創価教育学体系』第 1 巻において、牧口先生が京菊の目的を論じる際の大前提として強調したのは、子どもたちを国家や社会といった何かのための手段にすることはあってはならないとの一点だった。
江戸時代の町奉行・大岡忠相の名裁きとして伝えられていた〝子どもを巡って争う話〟に触れ、牧口先生はこう述べた。
「一方は、子どもを奪うことが第一義で子どもの生命を顧みなかったのに対し、他方は、子どもの生存を第一義に考えて取り戻すのは第二義だった。教育を受ける子どもたちに社会がとるべき態度は、まさに父母がこのように子どもにたいしたのと同じ関係であるべきだ」(趣意)と。
長年にわたって抄育現場で子どもたちと接し、一人残らず幸福な人生を築いてほしいと名がって教育に情熱をすすいできた牧口先生にとって、子どもたちを手段化するようなことは、断じて許せないことだった。
しかし、そうした牧口先生の存在を疎ましく思う人によって、『創価教育学体系』を発刊する前から、牧口先生を白金尋常小学校の校長職から追い落とそうとする動きが起きていた。
1930 年の 2 月ごろ、戸田先生が経営する時習学館で行われた深夜に及ぶ師弟の語らいの中で「創価教育」という名称が誕生した折に、牧口先生は戸田先生にこう語ったという。
「戸田君、商学校長として教育学説を発表した人は、いまだ一人もいない。わたくしは白金小学校長を退職させられるのを、自分のために困るのではない。小学校長としての現職のまま、この教育学説を、今後の学校長に残してやりたいのだ」
『創価教育学体系』の草稿の多くは、牧口先生が「日常生活の間に往来する思想の涓滴(けんてき)の散逸を恐れて、書き採って置いた」と述べているように、子どもたちに接する日々の中で体験しては反省し、煩悶しては思索してきた〝思想の滴〟を、多忙に流されることなく、反故紙などにメモ書きしたものだった。
一つ一つの紙片に記した言葉が子どもたちの幸福への道を開く礎となり、後進の教育者にとっての道標になることを願い、ひたすら書きためたのだ。
戸田先生が草稿の整理を引き受け、メモ書きの一つ一つに何年に目を通したときに胸に迫ってきたのは、教育思想の先見性もさることながら、子どもたちや後進の教育者に対する牧口先生の想いの深さではなかっただろうか。
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