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外来の神格が仏・菩薩として仏教に取り込まれた
『法華経』の序品を読むと、弥勒菩薩は過去世において、「求名」(名声を追い求めるもの)という名前で呼ばれ、怠け者で、利得を貪り、自分のために説かれたブッダの教えもすぐ忘れるといった不名誉な人物として描かれている。
弥勒菩薩は、イランのミトラ( mitra )神がマイトレーヤ( maitreya 、弥勒)菩薩として仏教に取り込まれて考え出されたものであったが、釈尊に代わるブッダとして人々に待望されていた。「第六章 人間離れした諸仏・菩薩への批判)でも触れたように、『法華経』は、当時の弥勒菩薩待望論に対して痛烈な皮肉を盛り込んでいたのである。
久遠実成による諸仏の統一
大乗仏典が編纂される一世紀以降には、このように外来の神格が仏・菩薩として仏教に取り込まれることが起こった。それに伴い、西洋の一神教的絶対者のような宇宙大で永遠だが抽象的な如来(法身仏)が考え出され、本来の仏教の人間観・ブッダ観とは異なるものになる傾向が出てきた。その代表が、ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーに起源をもつとされる毘盧遮那( nairocana )仏である。
『法華経』が編纂される頃(紀元一世紀末~三世紀初頭)には、このほか過去・未来・現在の三世にわたり、また四方・八方・十方の全空間において多くの仏・菩薩の存在が想定されるようになった。
それに対して、歴史的に実在した人物は釈尊のみであった。釈尊以外の仏・菩薩は、「神が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったのだ」という西洋の言葉と同様に、人間が考え出した架空の人物である。極端に言えば、コミックや映画などで活躍する「スーパーマン」や、「スパイダーマン」「鉄腕アトム」などの架空のスーパーヒーローと同じである。
こうした傾向に対して、『法華経』は「それらは、いずれも実在しない架空の存在にすぎない。架空の人物にどうして人が救えるのか?」とむげに否定することなく、「それらの仏・菩薩は、久遠以来成仏していた私(釈尊)が、名前を変えて種々の国土に出現していたのであり、それらはすべて私であったのだ』と説くことによって歴史上の人物である釈尊に収束させ、統一した。
仏の統一ということでは、化城喩品第七で釈尊を中心としてその八方に、東方の阿閦仏、西方の阿弥陀仏をはじめとする十五仏を配することによって、また見宝塔品第十一で十方のあらゆる世界から諸仏を釈尊の下に参集させることによって、諸仏を空間的に釈尊に統一した。それに対して如来寿量品第十六は、諸仏を時系列の中で釈尊に統一したと言える。
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