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9月10日にアメリカに戻ることにして、今日は、名古屋のセントレア空港に直結したホテルに泊まった。理由は、名古屋近辺を旅行したかったから。 JRの名古屋駅について、駅に直結した高島屋のイッセイ・ミヤケのお店に顔を出した。9日からフェアーが始まるので、ほしい服をまずは予約。最近は、名古屋に来ると、ここで、イッセイ・ミヤケの服を買うことを楽しみにしている。イッセイ・ミヤケの服はしわにならないので、旅行用に最適。 というわけで、9日からフェアーが始まると、お店からダイレクトメールをもらっていた。店員さんたちも、アメリカから買い物にくる客ということで、私の名前を覚えていて、「katiebooksさん、わざわざ、来ていただいて、嬉しい」とか言われた。日本の接客業の方々は、アメリカより接客上手。 ホテルにチェックインした後、ホテルのタオルをもって、空港内の銭湯に行った。この銭湯は、飛行機の見える噂のスーパー銭湯とのことなので楽しみにしていた。 女湯の客は、私を含めて3人。一時は、行列のできる銭湯ということだったらしいが、今は静かな銭湯。お風呂の後は、空港のショップでビール。 私にとっては、至福の時でした。お風呂上りのビール、最高。湯冷めもしないしね。
2006年09月07日
今日は、東京2日目。ホテル コンラッド東京の側にある「電通四季劇場 海」に、「オペラ座の怪人」の当日券を買いに行った。10時15分から1時間待ちで、当日5時半開演の前から10列、横から16番の席が買えた。「いいお席」と思った。 5時開場なので、時間つぶしに、まずは、原宿。原宿は若い時から好きだったが、今でも好き。お目当ては表参道ヒルズ。意外とこじんまりした建物だと思った。買いたいものが数点あったが、荷物になるのでやめた。最近、収納スペースがないので、買い物のテンションも下がり気味。 原宿の次は銀座に出て、ランチ。歩行者天国の銀座は原宿に比べるとガラガラ。ホテルに戻って、4時50分に劇場に向かった。 オペラ座の怪人は、トリプルキャストで、高井治、村俊英、佐野正幸の3人。私が観たのは、佐野正幸主演の日。アメリカでは、オペラには英語の字幕がつくので、オペラの主要演目の半分くらいは観たが、これからは、日本で劇団四季のミュージカルに通うのもいいなあ、と思った。早速、劇団四季の「異国の丘」のティケットに予約を入れた。というわけで、日本に行く楽しみが増えた。 「オンディーヌ」の公演も近々、あるそうなので楽しみにしている。劇団四季の「オンディーヌ」は、子供の頃、テレビで観て、大好きで台詞まで覚えてしまった。今では、もう、ストーリーも忘れてしまったのだが、悲しいラブロマンスだったことだけは覚えている。主演は加賀まり子だった。 私の従兄弟が、劇団四季の元劇団員で、当日券なら手に入りやすいと言っていたので、並んでみたが、本当だった。いいお席で、予約の「異国の丘」より、ずっと、いい席だった。 従兄弟は、バレリーナー(男性)だったが、怪我のために挫折。でも、バレーが好きで、自分の夢を追いかけたのだから、幸せだったのではないかと思っている。元バレリーナーだけあって、スラリとして立ち姿も美しい。
2006年08月26日
成田空港に到着。United.com で検索すると、サンフランシスコからロサンゼルス経由成田行きというこの便しかなかったので、仕方がない。 今回は、航空マイルを使って、サンフランシスコー成田間をファーストクラスにしたのだが、マイルを使わないと、お値段は、な・なんと1万8百ドル(約120万円)。やはり、ファーストクラスは高いと実感。120万円払ってまで、乗りたいとは思わない。120万円あれば、どちらかというと、ホテルで長期ステイしたい。 今回は、コンラッド東京に2泊することにしたのだが、これも、ヒルトンポイントで宿泊。ポイントを使わないと、1泊4万8千円からなので、4万8千円払ってまで泊まりたいかどうか、ウーン、悩む。泊まりたいような、泊まりたくないような。 以前、ヒルトン東京に、ヒルトン・ポイントで宿泊した時は、朝食は自腹だったが、コンラッド東京は、ゴールドメンバーのアップグレードとのことで、エクゼクティブ・ラウンジも使えて、朝食もフリー。こんなに待遇がいいと、また、ポイントでコンラッド宿泊と思ってしまいそう。ついでに、ゴールドメンバーには、プールもジャクージも無料。というわけで、東京での2日間は、リッチ&ゴージャスを満喫。 コンラッド東京はお部屋もゴージャス。ヒルトンより、ワンランク・アップというのも納得。ブラインドも、電動スイッチで上下する高級品。これは、シドニーのインターコンチネンタル・ホテルにもあったが、高級ホテルの必需品(?) バスルームも広々として、バスタブなんかピカピカ光っていた。朝食も、エクゼクティブ・ラウンジに専任シェフがいて、オムレツを作ってくれるし、冷蔵庫の飲み物、飲み放題。 と、満足、満足だったが、ジムのお風呂とプールだけ難あり。私は、コンラッドのジャクージより、ヒルトンの日本風のお風呂のほうが好きでなんで・す。それに、ロッカー室からプールに直通できないのも、不便。 翌日は、劇団四季の「オペラ座の怪人」をS席で観劇。コンラッド東京から、徒歩10分なので、これは便利と思った。行列に並んで、当日券をゲット。でも、並んだ価値あり。ああ~。頭の中はミュージカル。ラララララ~。
2006年08月25日
今日は、10時30分にシーズーちゃんのfollow-up-visitのために、バッカビルまで行ってきた。8月16日(水)に、シーズーちゃんが眼の手術をしたからだ。今日は、診察料がゼロ。1600ドルの手術代金に含まれているとのことだ。 経過は良好とのことで安心した。自宅に帰ると、隣町のMちゃんからの留守電メッセージ。Mちゃんに電話を掛けると、フランス旅行から帰ってきたとの”かえるコール”。 Mちゃんは、2001年の9月11日に、イタリア旅行のためにサンフランシスコの空港に向けて、車を運転していると、あのニューヨークでのテロ事件が起こり、イタリア旅行をキャンセルしたという不幸せな人。 今回また、サンフランシスコ発でイギリス着フランス旅行の日に、イギリスでテロ未遂事件が起こった。今回は旅行がキャンセルにならなかったので、イギリス着のフランス旅行を楽しんだそうだ。 私が、今朝は犬の眼病のために獣医さんのところに行っていたので電話に出れなかったというと、「バッカビルのvetでしょう」というので、どうして知っているのか尋ねると、Mちゃんの犬も17歳の大往生の前に眼病の手術をドクターキャントンにしてもらったそうだ。 「あの獣医さんは、北米にたった一人の犬の眼のスペシャリストなのよ。だから、遠いところから、患者さんが沢山来るのよ」とMちゃん。 先週の水曜日に、獣医さんのオフィスの待合室で会った人は、片道4時間かけて、北カリフォルニアのレディングから来ているとのことだった。Mちゃんからは、「私たち、これでも近いから、まだ、いいのよ」と言われた。私の家からは、獣医さんのオフィスまで高速道路で30分、Mちゃんの家からは45分かかる。 Mちゃんは、この獣医さんに3500ドル支払ったそうだ。でも、半額は、ペット・ホテルがワンちゃんを病気にしたので払ってくれたそうだ。ペットは家族だから、みんな大変、大変。 犬の手術の日に、私は、歯のクリーニングに行ったのだが、歯科衛生士とデンティストに犬の眼の手術の話をすると、いくら払ったのかと訊かれた。「手術代金に1600ドル」というと、やれやれ、といった様子で、「Katieはママだものね」とデンティストに言われた。 アメリカでは、犬の飼い主のことを「ママ」といって、犬に「ママのところに行きなさい」と言ったりするが、ママだから、わが子(?)が病気になるとお金は問題ではなくなる。 デンティストからは、「虫歯はないし、Katieの歯はパーフェクト」と言われた。「あ~あ、私、保険あるのにね。ワンちゃんは保険ないんだけれど、病気」と溜息まじりのサム~いジョークがでた。 (以前に、この日記で、この歯科衛生士とデンティストのデートの話を書きましたが、この二人、結婚していました。まずは、後報告。)
2006年08月21日
今日は、シーズーちゃんの散歩で、スティーブに会った。お互いにしばらく会わなかったね、と言い合った。 スティーブは私が日本に帰っているのだと思っていて、私は、彼がサンタクルーズに戻ったと思っていた。お互いの散歩の時間がずれていたことと、シーズーちゃんが病気だったので、散歩が5分。私の散歩が短かかったので、会わなかったようだ。 シーズーちゃんが、イーカラーをしているので、スティーブから、どうしたのかと早速、尋ねられた。昨日、シーズーちゃんが目の手術をしたことを言うと、”I am so sorry”と言われた。(こういう時も、I am sorryなんだけど、私は、他人の悲しい話を聞いた時に、どうも、この表現が言えない。) スティーブからは、”I have a bad news for you”と言われたので、ミッシェルに何かあったのかと思った。が、犬のセサミが癌に罹ったとのことだった。”Not curable, but treatable”なので、キーモ・セラピーを始めるそうだ。 ミッシェルは、大分、落ち着いてきたので、あと、数日で散歩に出れるとのことだった。 「ああ、ここ数日、お互いに大変だったのね。シーズーちゃんの手術をする前は、私は気が落ち込んで大変だったのよ。(英語でね)」と言うと、「人生って、チョコレートのようなものなんだよ」と、スティーブが言った。 頭の中にチョコレートを思い浮かべたが理解できなかった。不思議な顔をして、スティーブの目と覗き込むと次のような説明だった。 チョコレートには、スイート・チョコレートとビター・チョコレートの2種類ある。美味しいのはスイート・チョコレートだが、身体にいいのは、ビター・チョコレート。だから、ビターな経験はつらいことだけど、それが、人間を成長させる。お互いに、愛犬が病気になって、つらいけれど、健康がいかに大切か学ぶいい機会なんだ、ということだ。 お金よりも健康、とも言っていた。家族や自分の愛するものが健康でいることが一番、大切なことだ、とも言っていた。 私とスティーブとは親子ほど年齢が違う。日本人同士では、特に、これだけの年齢差があると、目上の人に人生論を語るということはないのではないか。特に、「人生はチョコレート」といったようなことを言って、慰めるといったことは、日本人同士だと、お互いに恥ずかしくてできない。 しかし、「人生はチョコレートのようなもの」と言うところが、彼の母親と似ていると思った。彼の母親のミッシェルは、人生論を語るのが好きだった。私は、そうした彼女の人生論を聞くのが好きだった。 スティーブによると、あと2,3日で、ミッシェルは散歩に出れるそうだ。早く元気になって、昔のミッシェルになって、人生論を語ってほしい。
2006年08月17日
あと10日ほどで、また、日本行。日米隔月往復も疲れたので、今月は夏休みと思っていたのだけど、日本の弁護士さんから、「8月31日の裁判にでれますか?」というメールが来たので、急遽、日本行きのティケットを取った。 夏の航空券は取りにくいので、マイレッジのaward travelで、ファーストクラスのティケットを取った。ビジネス・ティケットは、すべて売り切れ。 ファーストクラスも、サンフランシスコからロスに行って、ロスから成田に行くという乗り換え便。あと、サンフランシスコから、シカゴ経由の関空行という、片道17時間というティケットもあったが、これは、パス。 今回は、東京での宿泊にヒルトン・ポイントも使うことにした。以前から東京のコンラッドホテルに泊まりたかったのだが、宿泊料が、ななな~んと、4万8千円から。「高~い」。でも、ヒルトンポイントなら、1泊4万ポイントなので、2泊することにした。 アメリカに戻る便は、セントレア空港からサンフランシスコへの直行便が取れた。というわけで、夏休みついでに、空港近くの日間島の旅館と空港内のホテルに予約を取った。 私は、島の暮らしっていうのに、憧れるんだよね。ま、日本も広~い意味で島なんだけど・・・。海のザザザザ~という波の音を聞いて寝るのが好きなんだよね。以前、フロリダに行った時に、サラソタの隣町だったかで、海のまん前のホテルに泊まったのだけど、田舎田舎していて、よかったので、それ以来、島をイメージした海のまん前のホテルというのが好き。 ちなみに、ハワイのオアフ島にあるヒルトンも海のまん前にあるのだけれど、これは、あまりにも観光地化されていて、クリーンなイメージが強くて、逆に海辺の雰囲気がなかった。というわけで、あまり記憶に残っていない。それに、高層階だったので、海を間近に感じることができなかったしね。 あと、1泊、名古屋近辺で泊まりたいのだが、いいホテルあるかな?
2006年08月11日
今日、ジェリーの愛犬だったテリーに久しぶりに会った。愛犬だった、と過去形で書いているのは、2年前にジェリーが亡くなったからだ。 ジェリーは、年はとっていたが、銀髪の美しい女性だった。若い時は、かなり魅力的な女性だったのだろう、と思った。 ジェリーとは、グリーンベルトでの犬の散歩で出会った。彼女はテリーをリーシュにつながずに、自由にさせていたので、競馬の馬のようにグリーンベルトを全速力で走っていた。そして、散歩にでてきた犬を見かけると、これまた、全速力で、犬のそばにきて、臭いをかいでいた。 私が愛犬のシーズーちゃんを連れて散歩に出ると、シーズーちゃんの臭いをかぎにやってくるので、テリーの飼い主のジェリーと話をするようになった。ジェリーは、バークレイから引っ越してきたばかりだったので、犬だけが彼女のお友達だった。しかし、それからの数年か間で、彼女はグリーンベルトで多くの友達を作ったようだ。 グリーンベルトに散歩にでる多くの人がジェリーの死を悼んでいたからだ。ジェリーが亡くなってから、彼女の娘が、ジェリーのメモリアルとして、新品のベンチをグリーンベルトに寄付したので、私は彼女のフルネームと青年月日を始めて知った。アメリカでは、ファーストネームやら、ニックネームやらで呼ぶので、フルネームを知る機会というのが、なかなかない。 彼女の名前の入ったベンチは、私の家のすぐ横に置かれたので、私のためのベンチでは思えるほど、私は、このベンチに利用することになった。ベンチには、ジェリーがいかに、このグリーンベルトで歩くことを楽しんでいたか書いてあった。 今日、久しぶりにテリーに会ったので、ジェリーのベンチのinscriptionをしみじみと読んでみたのだが、彼女が2004年8月4日に亡くなったと書いてあった。ジェリーが亡くなって、もう2年になるのかと思った。 私は、このグリーンベルトでいろいろな人とお友達になったが、一人、二人とグリーンベルトからいなくなっていくことがせつない。 最近は、ミッシェルの姿も、彼女の息子のスティーブ、そして、犬のセサミの姿もみかけない。彼女は、また、入院なのかな。スティーブはサンタクルーズにアパートを借りているので、お母さんを入院させるとセサミをサンタクルーズに連れて行くので、グリーンベルトに姿をみせなくなる。ミッシェルの病状が一日も早く回復することを祈っている。
2006年08月07日
今朝、愛犬のシーズーちゃんと散歩をしていると、アメリカ人男性から声を掛けられた。年頃は60代というところかな。 ”Is your dog a young lady or a young man?”と訊かれたことから会話が始まった。 これは、アメリカでsmall talkといわれる会話で、アメリカ人は、誰、彼なく見知らぬ他人にちょこちょこと話しかける。日本では、見知らぬ他人に話しかけることもないし、話しかけられることもない。が、日本人の私でも、アメリカ生活が長くなると、見知らぬ他人に平気で話しかけたりする。 というわけで、アーサーから話しかけられた私は、しばし、話し相手になった。 アーサーは、コーベルガーデンという有料老人ホームに住んでいるということだ。それで、「ああ、じゃあ~、そこに田村さんという日本人が住んでいるでしょう(英語でね)」と言うと、アーサーの方が「何で知っているの?(英語でね)」と不思議な顔をした。 アーサーは、奥さんがオープン・ハート・サージャリーをした後、ブラインドになったので、”I left her”で、コーベルガーデンに一人で住んでいる、と言っていた。コーベルガーデンはお食事つきの施設なので、食事を作るのが嫌いな元気な老人にはうってつけの場所。友達もできるしね。 私がアーサーとの会話で気になったのは、leftという単語。「ええ、じゃあ、奥さんを捨てちゃったの?」と思ったからだ。「それって、冷たいのでは」 「奥さんはどうしているのだろう」と思ったが、たった今、会った人のプライバシーに踏み込むのもイヤだったので、それ以上は訊かなかった。 会話も最後の頃に、アーサーが、”I don’t miss talking to a pretty lady”とスイートなことを言ってくれた。この辺がアメリカ人というか、日本人の男性は、こんなことを言っておばちゃんをヨイショしてくれないんだよね。 かれやこれやで話をしていると、アーサーは一人暮らしなのでガールフレンドを募集中のようだ。そこで、思いついたのが、昨日、散歩で会ったナオミ。アーサーは、東部の新聞社で38年新聞記者をしていて世話好きそう。ナオミは、娘が東部の大学に行くので、一人暮らしになるし・・・。 昨日、たまたま、私は、ナオミに”Why don't you find a new boyfreind?"と言っていた。私が、アメリカで感心するのは、70歳でも結婚する人たちがいることだ。確かに、老後、一人で暮らすのは淋しいけれど、70歳になっても結婚したいかな? 私は70代で結婚したカップル(夫は白人、妻は日本人)を知っているが、アメリカ人のご主人がとても、ヤキモチ焼きだそうだ。それって、息苦しくないのかな?
2006年08月01日
犬の散歩をしているとナオミさんに会った。彼女は、私の家の裏のグリーンベルトを挟んで、歩いて2分という近さに住んでいるのだが、この数ヶ月、彼女に会っていなかった。ひょっとすると、1年以上、会っていなかったのかもしれない。 これが、アメリカ生活というか、回覧板や町内会などないので、近所に住んでいても、会おうとしないと、全く会わない。 今の家に引っ越してきてまもなく、日本人の友人から、「katieboosさんの家の近くに、日本語を話す台湾人が住んでいるでしょ。その日本人は、味の素の駐在のXXさんと仲がいいのよ」と噂には聞いていたのだが、私は、知り合う機会がなかったので、それが、一体、誰なのかということも分からなかった。それから13年ほどしてから、ナオミさんと知り合った。 彼女がスノーボールというマルチーズを飼っていて、そのマルチーズと私のシーズーがお友達になったのがきっかけだ。犬同士が遊ぶので、飼い主同士も会話を始めるという暇つぶしで話すようになった。 彼女は、台湾生まれで、テキサスの大学に入学して修士号を獲得。ご主人とは気が合わなくて離婚。娘と姉と住んでいるということだった。 彼女は変な中国人というか、中国人は嫌いで、日本人が好きだということだった。 しかしながら、私は彼女の電話の相手にチトくたびれて、あまり、相手をしなくなった。彼女もまた、精神を病んでいて、悩み多かったのだ。 離婚した御主人のこと、娘のこと、貸家のこと、彼女はいろいろと悩んでいた。 一緒に住んでいたお姉さんも仕事をしていなかった。アメリカは夫婦共稼ぎをしないと中流の生活がしにくい国。そんな国で、彼女が、どうして食べているのか不思議でたまらなかった。私には、「あなたの収入源は?」などと聞く勇気というか、厚かましさがなかったので、今も不思議のまま。 彼女は1週間前に台湾からアメリカに帰ってきたが、8月にまた台湾に行くという。昨今、航空運賃も、ガソリンの値上がりによって高価。どうやって、食べているのだろう。娘は、8月からコーネル大学に入学したというし、私立大学の学費も高い。不思議だ~。 彼女は数年前に貸家を売ったので、「それで、食べているのかな?」とも思ったりしている。私も、5月に貸家を売ったが、家賃より、お金を銀行に入れておくほうが収入増。「何もしないほうがいい」という変な時代。いや、良き時代?
2006年07月31日
ミッシェルと知り合ったのは、犬の散歩。私の犬とミッシェルが仲がいいので、一緒に、散歩をするようになった。 私の家の裏庭が、グリーンベルトと呼ばれる公園に面しているので、ミッシェルの姿が見えると、私もは犬の散歩に出て、二人で、いろいろなことを話した。 私の犬が、今年の11月に7歳になるので、ミッシェルとは、6年半のおつきあいだ。しかし、ここ、2、3年、彼女の様子がおかしい。鬱病ではないかと思われる。 私が、今年の5月に日本からアメリカに戻った時に、ミッシェルの犬のセサミの散歩を彼女の息子(昨年、大学卒業、現在サンタバーバラ在住)のスティーブがしていたので、「お母さんは」と訊くと、「She is in the hospital. She is depressed」という返事が返ってきた。 病院といわれて、精神科と思ったので、それ以上、訊くのをやめた。スティーブを傷つけるような気がしたからだ。お見舞いに行こうかとも思ったが、精神病だったら、彼女も喜んでくれるかどうか分からないと思ったので、やめた。 6年半前、私がミッシェルと出会った時、彼女は、とても苦しんでいた。彼女のボーイフレンドのジーンが猟銃自殺をして間もない頃だったからだ。 彼女は、ジーンとの思い出を、あれやこれや、私に話してくれた。私との会話が、彼女にとって、一種のセラピーになっていたのではないかと思う。私が外人であるので、いろいろと話しやすかったのだろう。 当時、ミッシェルは、我が町の大学のインターナショナル・スチューデント・センターで働いていた。ボーイフレンドのジーンは、かなりのインテリのようなので、大学の先生だったのではと思っている。 自殺した人の話を好奇心から訊くのもイヤだったので、彼のことは、あまり訊かなかった。しかし、ジーンが末期がんに罹っていて、人生の清算するために死を選んだのだということを、ミッシェルが言っていた。彼女にとっては、「何故?」という気持ちだったのだろう。 バツイチだったミッシェルにとって、ジーンは彼女の心を支える柱のような存在だった。ジーンとは事実婚で、彼女の家にジーンが住んでいたようだ。 ジーンには結婚歴もなく、子供もいなかった。だから、癌が転移したと知った時、彼女に迷惑をかけたくないので、死を選んだようだ。しかし、ジーンの死は、彼女に大きな衝撃を与えたらしく、彼の死と共に、彼女の苦しみは始まった。 彼女は、数年前に職場を辞めさせられた。組合運動にクビを突っ込んだからだ。それからだ、彼女が、本格的に塞ぎこむようになったのは。だんだん、話をしなくなっていった。最近は、廃人のようで、視線の定まらない。 スティーブに会っても、「お母さん、元気。よくなるといいね」としか言えない。スティーブからは、「You are a good friend」と言われたが、私は、ミッシェルとの散歩が好きであった。私も、苦しい時、彼女との会話に助けられていたからだ。彼女も私を必要としていたのかもしれないが、私も彼女を必要としていた。それが、友人というものではないかと思う。
2006年07月20日
アメリカに戻ってから、相変わらずの時差ぼけで、ぐったりしておりました。日米往復にも、チト、疲れてきました。 我が町の東大出身の大学教授の方は、2週間おきの日米往復を数年続けられた後、心筋梗塞で亡くなられました。48歳でした。肉体には限界があるのですよね。他人事ではないと、最近では思っております。 ということを言い訳に、楽天もアップせずに、のんびり生活を送っておりました。 日本では、大阪、名古屋とヒルトンに泊まり、ヒルトンポイントのゲット。もう、ポイントが40万ポイント以上たまったので、3週間ぐらい、ヒルトンに無料で宿泊できそうです。ハワイでのんびり、と思っているのですが、時間がないというか、のんびりする心の準備というか、余裕がないのですよね。 今回は、大阪から帰国したので、大阪、実家、名古屋、京都、実家、大阪というスケジュールでした。日本にいる時から、身体の調子が悪くなり、アメリカに戻ってからも、医者に行こうかどうしようか、迷っておりました。でも、体調回復。 インターネットで、お買い物をいろいろしていたので、遂に、楽天のプラチナ会員に。ああ~、楽天に攻略されてしまいました。
2006年07月17日
今日も、戦争花嫁のスミさんの備忘録。 スミさんは、4人の子供のお母さんなのですが、末っ子が小学4年生の時に、新聞広告を見て、給食のカウンターで働くことにしたそうです。 ご主人に新聞を見せて、「この仕事をやってみようかな」とご主人に給食の仕事のことを言うと、「自分でできると思うのなら、やってみたら」という返事が返ってきたので、働くことにしたそうだ。 小学校の給食の仕事を定年になるまで勤めたスミさんは、今では、その年金(social security)と最初のご主人の寡婦年金(widow's pention)で暮らしている。自分で稼いで貯めた年金なので、誰に遠慮をすることもない。また、最初のご主人がベトナム戦争で戦死した事によって受け取る年金なので、スミさんに正当な権利のある年金だ。これも、誰に遠慮をすることもない。 というわけで、70歳代のスミさん(1933年生まれ)には、毎月、きちんと決まった金額が政府より送られてくる。スミさんは自宅に住んでいるので、家賃を払う必要もない。光熱費と食費を払えば、残ったお金で旅行に行くことを楽しみにしている。 シアトルの日系国際結婚親睦会の会員のスミさんは、タコマのたんぽぽ会にも属している。「たんぽぽ会には、会員が300人もいるんだよ。今年は、10月に日本の温泉旅行に行くし、昨年はアラスカ・クルーズにも行ったよ」。カリフォルニアの息子の家にも行かなくてはならないので、結構、忙しい。 「毎日、忙しい」というスミさんは、ワシントン州の戦争花嫁の会に属して、いろいろと旅行に行くのを楽しみにしている。 お金は、旅行と子供と孫のために使う。でも、化粧品はランコムを使うお洒落さんだ。「katiebooksさんは、化粧品は何を使っているの?」と聞かれて、私は、旅行に行っては化粧品を買うので、いろんな化粧品」と言うと、「私は、ランコム。カミソリー(基地内のお店)で、ランコムを買うと安く買えるからね」ということだ。 先月は、子供や孫の誕生日が5回もあったので、お祝いが大変だったと言っていた。最近のおもちゃの変化が早くてついていけないので、「グランマーじゃ何を買っていいかわからない」。だから、今は、プレゼントではなく、お金をあげるそうだ。 スミさんの次男夫婦はサクラメントに住んでいる。私がサクラメントの隣町のデイビスに住んでいると言うと、そこで、また、二人の話が弾んだ。 「サクラメントには、今年の3月に行ったけど、雨が多かったねえ。本当に、雨ばっかり、降っていた」と言って、スミさんが見せてくれたのは、次男のお嫁さんに、クリスマスにプレゼントしてもらったというリバーシブルのジャケット。 「これは、リバーシブルだから、いいんだよ」と嫁自慢。「あっ、スミさん、お嫁さんと仲がいいんだ」と思った。 それは、やっぱり、スミさんの人格と思った。というのは、今回、私も、スミさんのお陰で楽しい4泊5日であったからだ。ほのぼのとしたスミさんの人格にとても温かい感じがあるからだ。そうした温かさが伝わるんだろうね、と思った。
2006年06月10日
取材をした後、なるべく早くメモを取っておかないと、何を聞いたのか、何があったのか、忘れてしまうので、戦争花嫁スミさんことの備忘録。後で、本を書くときのためにです。 スミさんは、毎朝、4時半に目が覚めるいそうだ。だから、ホテルで私と同室の4泊5日の間、朝、いつものように、朝早く目が覚めていた。 隣のベッドに私が寝ているので、朝、目が覚めても、起き上がるのを遠慮していたようで、寝返りをバタン、バタンとうっていた。でも、ついに我慢ができなくなると、隣の部屋に行って(スイートなので2部屋)、ソファーに座って、テレビを見ていた。彼女が毎朝、見ていた番組は、「モーニング・アメリカ」だった。 私は、旅行中は、いつも、耳栓をして寝るので、8時半(7時半の日も)まで、ぐっすり寝ていた。私が起き上がってくると、「あ、ゴメン。起こした」と毎朝、私に言っていました。でも、8時半なのだから、私にとって、起きなくてはいけない時間。私がのんびりしすぎているのだ。 スミさんは、コロラド州で38歳の息子(4人の末っ子)と一緒に住んでいる。スミさんの心配事は、この息子にガールフレンドがいないこと。 「ガールフレンドをみつける甲斐性がない」とぼやく。息子がスミさんと一緒に住んでいる最大の理由は、レントを払わなくてもいいことらしい。自分でアパートを借りると、レントを払わなくてはならなくなるからだ。 息子は、スミさんのおかげで生活費を節約しているのだが、スミさんにはお金を払わないそうだ。日本では当たり前(今でもそうかな?)だが、アメリカでは親子であっても、大人になると、支払いをする人が多いのではないかな、と思う。 私は、火曜日にホテルをチェックアウトをしたが、スミさんは水曜日にチェックアウトをすというロング・ステイ。理由は、息子のお休みの日なので、空港まで迎えに来てもらえるからということ。でも、スミさんは、息子に、ガソリン代を含めたお小遣いを渡すそうだ。 スミさんは、いろいろと気遣いをする人のようで、私に、ワシントン州のりんご1個と水のボトルを1個くれた。スミさんからは、「初めて会ったとは思えない」と言われたが、私にとっても、取材というより、楽しい旅行となった。スミさん、ありがとね。
2006年06月08日
4泊5日の日程を終えて、カリフォルニアの自宅に戻ってきました。日系国際結婚親睦会のミニ大会(6月3日と4日)への出席のためです。今回の参加者は、約170名ということでした。ミニ大会にしては、大勢の人たちが集まりました。 私も、彼女達の大会への出席も、1997年、2000年、2002年、2003年、2004年、2006年と6回目になりました。会場では、たくさんの懐かしい人たちにお会いしました。戦争花嫁さんたちは、アメリカナイズしているので、どんなことでも、口に出して、はっきりと言う人が多いのですが、気持ちは温かい人たちです。というわけで、最初は、仕事だったのですが、最近は、彼女たちとの再会を楽しみにしている私です。 今回、ルームメートになった戦争花嫁さんは、コロラドに住むスミさんという女性なのですが、彼女がまた、人間的に温かみのある人で、とても楽しい5日間を過ごすことができました。スミさん、ありがとうね。 「ミステリーを読むのが好き」というスミさんに、「他人の本を読むより、自分のことが書いてある本を読むほうが楽しいよ」とヘンな説得をして、インタビューをお願いしました。時間があれば、スミさんの住んでいるコロラドにも行きたいと思っています。 最初は、「イヤだよ。私のことを書くなんて、ダメダメ」と言っていたスミさんですが、5日も一緒に住んでいると、最後には、「いいよ」という返事。「やったー」と思いました。 私も人間なので、取材をしても、書きたいと思う人と書きたくない人がいます。彼女は、人間として、しみじみとしたところがあっていいなあ、と思いました。その彼女の良さをどこまで文章に表すことができるか、ということが私のチャレンジなのです。 スミさんの最初のご主人のジミーさんは、ドイツ系の二世で、グッドルッキング。お孫さんの写真をみせてもらいましたが、みんな可愛い。スミさんも、「可愛いでしょう」と言って、孫自慢。 スミさんのお孫さんの写真を見て、とっても驚いたことは、日本人の孫でも金髪、ブルーアイになるんですね。メンデルの法則は、どんだったんだっけ、と中学時代の生物の授業を思いました。 日本人と白人の子供は、ブラウンアイで、金髪にはならないということは知っていましたが、孫になると、青い目で金髪もでてくるんだ、と初めて知りました。 日系国際結婚親睦会のハワイ大会(2004年)では、リタさんというコロラドに住む戦争花嫁さんとも知り合いました。リタさんも、取材OKとのことでしたので、今度は、コロラドの戦争花嫁さんのお話を書きたいと思っています。 最近、楽天でお買い物をするようになったことは以前、書いたと思いますが、今月、楽天のゴールド会員になりました。最初は、日記だけ、と思っていたのに、日記から買い物へ。こうして、ヒトは、楽天にはまっていくのだな、と思いました。
2006年06月06日
「国際結婚第一号」は、1995年に発行されたのだが、長年書店で品切れになっていた本。楽天フリマで見つけて購入。わくわくしながら、読んだ。 著者がケンブリッジ大学ライブラリアンということもあり、一般通俗書というよりも、研究書といったほうがいい本。 この本を読んで分かったことは、明治初期の国際結婚は、日本人男性とドイツ人女性のカップルが結構多かったこと。森鴎外の「舞姫」の世界が、当時のインテリ明治人にとっては、身近な世界だったのだ。 また、長州人が明治政府の重鎮となったこともあり、明治の国際結婚には、山口県出身者が多いということにも、「なるほど」と思った。 4月に萩に旅行に行ったのだが、萩の博物館には、日本の国際結婚第一号の南貞助の資料などあるのかも、と思った。「本邦嚆矢の国際人」とのことなのだから。 萩では、吉田松陰や高杉晋作のお墓を見てきました。観光ルートになっていて、東京の小学生が修学旅行に来ていました。この本を読んでから、萩に行ったほうが、萩をもっと、楽しめたと思った。
2006年05月25日
アメリカに帰っていたのですが、雑用に追われて、日記をサボっていました。日本滞在中は、4月14日から4月21日まで、名古屋、大阪、広島、呉、萩、神戸と旅行をしていました。 今回、最も印象に残ったホテルは、神戸メリケンパークオリエンタルホテル。まず、建物がオシャレ、従業員さんの印象のよし、お部屋も清潔感があふれている。それに加えて、朝食バイキングも美味。 私は、ヒルトンホテルの朝食バイキングを結構、気に入っているのですが(私はヒルトンホテルのゴールドメンバーなので、朝食無料)、ヒルトンの朝食より、このホテルの朝食のほうが、品数も多くて、ゴージャスでした。 私は、予約の時に、「眺めのよいお部屋」を希望したので、眺めもとても”ステキ”でした。眺めのよいお部屋に泊まって、ぼっ~としながら、昼から夜に、夜から朝に変わる風景を見るのが好きなのです。お部屋からは、神戸空港も見えました。 というわけで、楽しい旅行を終えて、アメリカに戻ってきたのですが、風邪をひいてしまって、「ウンウン」うなりながら、ここ数日寝ておりました。 日記を書くほど元気もなかったので、楽天でお買い物をしておりました。買い物に励んだ甲斐あり、楽天様が私をシルバー会員にしてくださいました。
2006年05月22日
昨年12月26日に、『私は戦争花嫁です』を出版したが、出版社の在庫が完売したためにプレミア価格がついた。インターネット書店アマゾンで、3700円で販売している。定価は1890円なので、驚いた。 (出版社の在庫はなくなりましたが、書店の店頭在庫があるところでは、1890円で売っていますよ。) また、2000年に出版した『アメリカの女 日本の女』は、アマゾンで中古本を4500円で販売している。この本の定価は1470円なのだが、数年前に出版社で在庫切れになり、現在、書店からの返品待ちになっている。でも、返品がないので、プレミア価格になっているようだ。 私は、自分の興味のもてるトピックをじっくりと追いかける地味な作家なので、ベストセラーとは縁遠い本を書いている。しかし、自分の本に興味をもってくれる人がいて、完売して、プレミア価格がついたことをとても、喜んでいる。 みなさま、ありがとうございました。
2006年04月12日
日本に帰国する日が近づいてきた。今回は、取材旅行にも出掛けることにした。拙著『私は戦争花嫁です』が、好評だったので、編集者の人のご機嫌もイイ。 「私の本、また、出版してくれる?」と編集者の方に尋ねると、よい返事が返ってきたので、ご機嫌をよくしているワ・タ・シ。 今度は、呉に取材旅行に行くことにした。どうして、呉なのかというと、第二次世界大戦に、英連邦軍として参戦したオーストラリア軍が、呉に駐留していたので、とにかく、自分の目で呉の町を見たかったのだ。オーストラリアの戦争花嫁さんたちからも、呉や広島の話をたくさん、聞いたしね。 それに、数年前に、呉は市制100周年記念だったかで記念本を出版しているのだが、その中にオーストラリア在住の戦争花嫁さん(確か、ハウス・あいこさん)の終戦後の思い出といった文章を載せているとのことなので、それも読みたいと思ったのだ。 というわけで、呉に行くことにしたのだが、北米エスニシティ研究会の例会が大阪で開催されるので、それにも出席することにした。この会は、名古屋、関西地区の女性研究者の研究会で、私は、2年前から入会しているのだが、なかなか、出席する機会がなかった。この研究会には、学級肌のまじめな人が多い。だから、私も入会しました。(笑) 萩に行くのは、戦争花嫁には、山口県出身の方々も多いので、山口県を訪れ、温泉にも入ってくることにした。(なんのコッチャ) 神戸に行くのは、戦争花嫁さんを乗せた船が、神戸からもでていたのか、確認したかったし、写真も撮りたいので。 インターネットで宿の手配も済んで、準備万端。国際結婚、戦争花嫁の本を、また、書くことにしようかな。ちょっと、迷っている。今は、執筆空白期で、息抜きをしているところ。 今回の出版、とりあえず好評だったので、ほっとしている。某(名前がAで始まる)インターネット書店では、2度目の「在庫切れ」のサインがでた。楽天ブックスでも、もちろん販売してますよ、とちょっとコマーシャルも書きました。でも、取り寄せ(メーカーに在庫確認)のマークがでています。出版社で、在庫がなくなってきたのです。
2006年04月08日
昨年末の日記に、貸家を売る決心をしたことを書きましたが、その家、”売れそう”です。 しかし、喜んでいいのか、悲しんでいいのか、分からない。買い手が、その貸家の薄気味悪い入居者だからだ。(悲) 私は、その貸家に入っている人達が、一種のビョウキではないかと思っている。(恐)彼等から逃げる方法として、貸家を売ることにしたのに、彼等と売買交渉をしなければならなくなった。(トホホ) 「あなたがたが住んでいる家を売ります」と3月末にメールを送ると(まあ、礼儀だからね)、入居者からメールが来て、「家を売るのなら、不動産業者を入れないで、弁護士を通して、あなたから直接買いたい。そうすれば、不動産屋の手数料(数万ドル)を節約できる」と言ってきた。 私は、この人達を薄気味の悪い人達と思っていたので、正直いって、お金より、私の心の問題のほうが重要。この人達とつきあいたくないので、家を売る決心をしたのだから、交渉ごとなどしたくなかった。 この家は、カスタム・ハウスで、私の大好きな家なので、本当は、売りたくなかったのだが、借りている人達がイヤなので、売ることにした、という訳。(涙) 私が、「あなたに売ります」と言わないので、今度は、私が馴染みの不動産業者Aと家を売る契約を交わす前に、不動産屋Bを通して、不動産屋Aに、貸家を買いたいと、勝手に値段をつけて申し込んできた。私は、この人達と関わりあいたくないので、とりあえず、無視。 家が正式に売りに出されると、イの一番にfull offerを入れてきたので、私も、売らないわけにいかないので、売買交渉が始まったトコロ。 そんなに、その家が好きだったのね。(唖然) 彼等は、30万ドル(3600万円)頭金を入れて、ウン十万ドルの銀行ローンで、この家を買うと言っているのだが、イヤ~な予感がして、しかたがない。だって、この人たちのクレジット・レイティングはいいとはいえないからだ。(不思議) まず、30万ドルの頭金をもっているという話から、胡散臭いな~。銀行強盗でもしたのだろうか。(笑) 不動産業者Aにも”It is fishy”というと、不動産業者Aが、”You can not trust them”という返事が返ってきた。その通り。トラブルに巻き込まれそうで、イヤ~な予感がしているのだ。
2006年04月04日
昨年は、実家のゴタゴタやら裁判やらで、原稿は書けないし、本は読めないというturbulent year(嵐のような一年)を送った。今年は、また、新しいトピックを探して、本を書き始めようと、new yearでもないのに、new year resolutionsもどきの発言。まあ、いろいろと吹っ切れた、ということです。 昨年末に、単著で本を出版し、今春、共著本を出版の予定なので、今は、ちょっとした空白期。そこで、アメリカに戻る時に、空港の書店で買いためた本を読み始めたというわけです。 海外に住んでいると、ある日、突然、日本語を読みたいという日本語渇望状態になることがある。そんな時のために、空港の書店で、面白そうな本を買ってきては、ツンドクをしておく。 そのツンドクの本を読み始めた。 「アッコちゃんの時代」(林真理子著、新潮社)ーーー林真理子の本を、本棚が壊れそうなほど持っている私が言うのもおかしいが、私は、林真理子の小説が何故、売れるのか分からない。彼女の小説を読んでも、「あ~、本を読了した」という読後感を味わえないからだ。それなら、何で、林真理子の本を読むのかと訊かれれば、彼女に対する好奇心としかいえない。今度は、何を書いたのか、覗いてみたい、という気持ちで彼女の本を買っている。 林真理子は、有吉佐和子のような小説家になりたいそうだが、「まだまだ」というか、力量が違うと思ってしまう。どちらも、女の心の暗闇を描き出そうとしているが、林真理子はシャーベット、有吉佐和子はトルコアイスクリームといった違いがある。 この本「アッコちゃんの時代」は、週刊新潮に連載されていたバブルの時代、金と力を持つ男たちを次々と虜にし、伝説となった女の話を単行本にしたものなのだが、彼女の小説の中に登場する男性には、生きている実体感がないのである。 林真理子の小説を読んで、いつも思うことなのだが、生きている男が描けていないのである。でも、彼女は、ストーリー・テラーなので、ヒロインが、どうなるのかという興味で最後まで読んだ。しかし、読んでも、何も残らない。 「女の仕事じまん」(酒井順子、角川文庫)---この本は、退屈なので、最後まで読むのが馬鹿馬鹿しくなって、ページだけ、めくった。「負け犬の遠吠え」の著者の本なので、期待したのだが、期待はずれ。でも、彼女の観察力というか、小さなことをチューインガムのように、ぐにゃ~、っと引き伸ばす能力には脱帽。でも、引き伸ばしただけで、内容がないので退屈。褒めたような、けなしたような。 と、今回は、収穫ナシの読書。トホホ。
2006年03月29日
2月26日から3月19日まで、日本に帰国していました。その前は、12月29日から2月6日まで帰国していたので、今年は、アメリカでの生活より日本での生活のほうが長くなっています。 最近、私の楽天日記は、旅行日記になってきました。というわけで、忘れた頃に、沖縄旅行の備忘録。 沖縄に行ったのは、1月22日から24日の2泊3日。小松空港から飛び立つので、1月21日は、小松の温泉に泊まった。空港から、タクシーで10分なので、便利。 小松から福岡に到着。沖縄便に乗り換え。福岡の空港に来たのは、中学3年生の時以来。ということは、ウン十年ぶり。新幹線では、博多に何回か来たことがあります。 ツアーに入っての旅行なので、バスで観光。1日目は琉球ガラス村とひめゆり記念館の見学後、リザンシーパークホテル茶谷ベイに。 このホテルは、海のまん前のゴージャスなホテルなのに、ナ・ナント、修学旅行生の団体が。今や、修学旅行も豪華になったものと、ビックリ。 2日目は、名護パイナップル辺戸岬と海洋博公園と免税品店に。免税品店では、プラダのお財布とL'Occitaneのボディー用品を買った。 このプラダの皮製のお財布は、かなりのお気に入り。プラダにしては珍しく、ゴージャスな漢字がいい。 この日は、那覇の日航ホテルに宿泊。このホテルにも、修学旅行生が・・・。このホテルは、ちょっとフル~イ感じ。 3日目は、ホテルのすぐ側にある首里城に。私は、歴史建造物を見るのが好きなので、感想は「よかった」。その後は、おきなわワールドへ行って、空港到着。オキナワワールドの太鼓演奏と踊りも「よかった」。 という旅でした。 今度は、ぶらりと一人旅。アメリカ兵と結婚した日本人女性の取材もしたいと思いました。
2006年03月26日
「『チャングムの誓い』のすべて」を読んだ。これは、NHK放映の韓国の時代ドラマの解説本。著者は、この番組に出演している俳優の李京源。 日本に帰国中、実家の近くの本屋で平積みになっているので、この本を手に取った。ページをパラパラとめくると、韓国の文化や歴史について書いてあるので読んでみようと思った。 この本により、16世紀の韓国に儒教の文化が色濃いことを知った。日本でも江戸時代に士農工商という身分制度があったが、韓国の身分制度は、もっと厳しかったらしい。チャングムも現在は、番組の中で奴婢にされてしまっている。 過去に身分制度のない国(奴隷制度はあったが)アメリカには、敬語がない。私は、敬語が、韓国人や日本人の英会話を妨げているのではないかと常々、思っている。アメリカの英会話のクラスで、試験の点数はいいが、英語が話せないのが、韓国人と日本人。 メキシコ人やイラン人は、文法の点数は悪いが、ぺらぺらと英語を話す。私は、常々、不思議に思っていた。これは、母国語の敬語が原因ではないか?相手を敬って話をしようとすると頭が混乱するのでは。 と、話は関係のないところに飛んでしまった。 これから、チャングムとミン・ジョンホの恋も進展していくらしい。今日、放映された第33話で、ミン・ジョンホがチャングムのために新しいオンドルをしつらえるのだが、それが身分制度を飛び越えた行為であることをこの本を読んで初めて知った。 というわけで、この本を読んで、「チャングムの誓い」が2倍は面白くなった。 この主役のイ・ヨンエさんは美しい女性なのだが、私は彼女が檀ふみに見えて、仕方がないのだが、私だけでしょうか。
2006年02月18日
今日も、思い出し日記。12月31日&1月1日 26年ぶりで迎える日本のお正月を近江八幡で迎えた。近江八幡は、小京都のイメージがあるので、以前からマークしていた土地だ。 私が訪れた12月31日、1月1日は、寒~い日だったが、暖かい日なら、まるやま水郷めぐり観光というのも、よさそう。貸切船は年中無休だそうだが、12月31日の寒さは、耳がちぎれるのではないかと思うほどの寒さだったので、水郷めぐりのパンフレットを持つ手も震えた。なにしろ、26年ぶりの日本のお正月なので、日本の寒さに慣れていない。 12月31日~1月1日は、観光案内所などもお休み。が、親切な婦人に池田町洋館街の説明をしてもらった。この婦人の説明により、近江八幡は明治のお雇い外人により近代化された町であることを知った。明治期にアメリカ文化を取り入れたハイカラな町であったのだ。NHKドラマ「はっさい先生」の舞台であることも、買い物袋をもったこの婦人に教えてもらった。 やさしいお姉さま、ありがとうございました。(最敬礼) お雑煮は日牟禮八幡宮の隣のたねやの日牟禮の舎(ひむれのや)で食べた。たねやというお菓子屋さんは、有名店らしく、すごい賑わいであった。お雑煮に次には抹茶も飲み、生菓子を実家へのお土産にかった。 それから、近江八幡名物の丁稚羊羹も、元祖、本家、初代の3店巡って買った。(ものずき!)味も大きさも、店によって微妙に違っていた。 日牟禮八幡宮の側からでているケーブルカーに乗って、八幡山(鶴翼山)に登った。山の上には、秀次の菩提寺があった。 400年前に豊臣秀次によって作られたこの町は、江戸時代には幕府直轄地(天領)になったので、この地に住む商人は、各地を自由に商いできたので、近江商人発祥の地であることを知った。旅行をすると、その土地の名物に出会い、その土地の歴史にふれることが楽しみ、というわけです。
2006年02月16日
今日の日記は、日本帰国の備忘録です。 昨年の12月30日、中部国際空港着。 当日は、名古屋マリオットアソシアホテルに宿泊。フロントで、マリオット会員カード、アソシア会員カード、UAマイリッジプラスカードを見せて、ポイントをアソシアカードに入れることにした。 私のマリオットカードは、アメリカで登録したカードで、ホテルポイントではなく、自動的に、UAのマイルにトランスファーされる。そこで、アソシアカードでポイントをためて、このホテルで、ポイントでケーキとお茶をご馳走になることを楽しみにして、ポイントを貯めることにした。 このホテルはインターネットで予約したのだが、予約時に、「眺めのいい部屋をお願いします」と書いていたので、フロントの人から、「できる限り、眺めのいいお部屋にしました」と言われた。 お部屋に入ると、名古屋城も見える部屋。が、やはり、名古屋城の眺めは11月に宿泊したウエスティン名古屋キャッスルの眺めの方がよかった。今回、このホテルにした理由は、ショッピングの便利がいいから。 翌日は、高島屋、松坂屋、名鉄百貨店、近鉄百貨店など、デパート巡りをした。高島屋では、イッセイ・ミヤケのコーナーを見るのが楽しみ。イッセイ・ミヤケのアコーディオンのような洋服は太っても着れるので好き。最近、太って困っている。まじめに、エクササイズをしなければ!
2006年02月13日
今日、北國新聞社からメールが来ました。 私の本「私は戦争花嫁です」が刷り上ったそうです。書店に並ぶのは、1月中旬すぎでしょうか。 終戦60周年記念の年に出版しましょうということで、今日、印刷ができました。日本時間では、あと3日で2006年なのですが、とにかく、終戦60周年の記念の年に出版できたわけです。 まずは、ほっとしました。
2005年12月28日
クリスマスから新年にかけては、アメリカで、家が最も売れない時期ではないだろうか。 みんな、クリスマスのプレゼントを買うのに忙しいので、家を買うお金などない。だから、不動産エージェントが、一年中で、一番、暇な時期ではないだろうか?そんな暇な時期に、エージェントに、「借家を売りたい」と電話をした。 エージェントからは、11月に売れ残った家が、再び、リストされるのが1月だから、1月の売れ残り状況を見極めてから売りに出したら、と言われた。 とにかく、明日、貸家をエージェントに見せることにした。この家は、1991年に買って、私はもう、14年も、この家を貸してきた。でも、私も、ちと、くたびれたので、この家を売りに出したくなった。 そのうち、また、楽天で愚痴ると思うが、入居者がちょっと変わった人達なので、あまり関わりたくないと思うようになったことが一番の理由かな。ーーー 11月の帰国の時に、名古屋のウエスティン・ホテルに泊まりましたが、部屋のまん前にライトアップされた名古屋条が見えて、とても素敵でした。このホテルのことも書かなくてはと思いながら、時差ボケの回復に時間が掛かってしましました。
2005年12月22日
楽天日記を楽天真弓さんに教えてもらって書き始めた。 最初は、アンティークやおもちゃコレクションの写真を撮って、コレクションの整理をするのにいいのではないかと思った。というわけで、コレクションの写真と説明のページになるはずだった。 静かに、こっそりと日記を書いているつもりだったのに、私の日記に検索エンジンがつた。検索エンジンがつくと、これは、本のPRになるのではないかと、略歴に、本のタイトルと出版年月日などを付け加えた。 私の本を、「読みました」、または、「読みます」、というコメントも戴いた。ありがとうございます。 アメリカ在住者なので、近くに、日本語を話す人が近所にいない。アメリカでは、女性の多くも働いているので、お茶を飲んで、ダベリング、ということがあまりない。 しかし、楽天では、日本どころか、全世界の人たちが訪れるようになって、今度は、そうした交友が楽しくなった。いろいろな人の日記を読み、いろいろな人が私の日記を読みにきてくれた。 そうこうしていると、実家が詐欺にあって、婿養子の離縁や、不動産管理会社の横領などで、原告として、父のために、裁判をいくつも始めた。 裁判を始めると、ものすごい、ストレスに襲われた。私も、ただの人なので、疲れると、愚痴をこぼしたくなる。 まあ、愚痴をこぼすと、とりあえず、すっきり、さっぱりする。それは、みな同じというか、楽天では、みんな、自分の失敗談をよく書いている。 しかし、裁判が進行中なので、被告らに、愚痴を読まれても困ると思った。日記に検索エンジンがついているので、「老人福祉詐欺」などで、検索すると、一番最初のページに、私の日記がでてきたりした。「これは、困る」と思った。それで、自分のアイデンティティーに関する情報を消すことにして、とりあえず、anonymous。 というわけで、今は、楽天は私にとって、愚痴をこぼす場になってきた。私の愚痴を読んでくださる皆様、ありがとうございます。
2005年11月11日
来年の4月に、共著本、『小さな博物館(仮題)』を出版予定なのだが、今日、原稿をT教授にメールで送った。というわけで、この本が、私が書き上げた本日の1冊。 この本は、昨年、日本で出版された北米エスニシティー関係の研究書の第2弾。北米マイノリティーに関する小さな博物館を31特集する予定。 私は、日系アメリカ人の研究に20年近く携わってきたので、サンノゼにある日系人の博物館に関して書いた。そのために、9月7日に、サンノゼ日系人博物館に行ってきた。 この研究会の会員の多くは名古屋近辺の大学教員で、年に6回、名古屋と京都で研究会を開催している。最近、隔月で日米を往復している私としては、この会にできるだけ出席したいと思っている。 海外生活者の常として、日本語でお話ができるお友達は大好き。しかし、日本を離れて、26年ともなると、日本の友達とも、だんだんと、疎遠になっていく。(淋しい) 私がこの研究会に入会してよかった、と思うのは、新しい友達ができたことだ。研究会は5時に修了するので、その後、西洋居酒屋で、お食事会(飲み会)が始まる。 みんな気さくで、研究熱心な人たちなので、私にとっては新しい出会いの場となった。これからも、新しいお友達を開拓したい。10月には、高校の同窓会に出席したのだが、これも楽しかった。 日本のペンクラブにも、入会しようか、ちょっと迷っている。ペンクラブに問い合わせると、出版物があるので、入会はできそう、とのことなのだが。裁判が、一段落しないと、ちょっと、忙しいなあ~。
2005年10月30日
隔月、日米往復の生活をしているので、今日、サンフランシスコー名古屋間の航空券を買った。 航空券を買ったので、今度はホテルの予約。いろいろと考えた末、今回は、ホテル ナゴヤ キャッスル(ウェスティン系列)に予約を入れた。 今年、1月に、ヒルトン・ホテルのゴールドメンバーになれたので、また、ヒルトンに宿泊しようとも思ったのだが、ホテル ナゴヤ キャッスルのエクゼクティブ・ルームが、ヒルトンの普通ルームより低料金でネットで出でていた。あ~あ、そこで、浮気心を出してしまった。 ホテル ナゴヤ キャッスル ホテルでは、エクゼクティブ・ルームでの朝食無料、飲み物無料、ジムとプールも無料とのことなので、「これ」っと決めた。名古屋万博が終わった後だから、ホテルも経営が大変なのかな。 このホテルは、名古屋城に面していて、お城に面したお部屋は3500円、シティー・ビューのお部屋より料金が高くなっているが、お城側のお部屋にした。なにしろ、一人旅。お部屋でぼーっとしながら、良い景色を見ることぐらいしか、部屋の中ですることがない。でも、それを今から楽しみにしている。いいお部屋なら、いいなあ~。 私が最初に、ホテル会員になったホテルは、ウェスティン・ホテルだった。 ワシントン D.C.のウェスティン・ホテル(現在のホテルとは違う)に宿泊した時、そのホテルが、あまりにステキだったので、すぐに会員登録をした。 1年に4回、宿泊すれば、アップグレード会員になることができて、アップグレード会員になれば、部屋を必ずアップグレードしてくれて、朝食無料のサービスがついていたので、年に4回は、ウェスティン・ホテルに宿泊して、アップグレード会員の資格を維持した。(せっせとね。) ところが、ところが、ウェスティン・ホテルがシェラトン・ホテルに吸収・合併されると朝食サービスもお部屋のアップグレード・サービスもなくなってしまった。 そうしたあれやこれやで、定宿をヒルトンに変えてしまった。ヒルトンの会員になったのは1996年なので、10年近く前のことになる。 ヒルトンでは、某クレジット・カード会社のヒルトン・カードを維持すれば、シルバー会員でいることができた。今では、40万ポイント以上のポイントがたまった。40万ポイントあれば、ハワイ(ホノルル)のホテルに2週間以上、無料宿泊ができるのだが、現在は、その時間がない。トホホ・・・。(涙) 早く、リタイアーして、のんびり生活を送りたい。(ため息)
2005年10月21日
昨日、出版社の編集者から、今度、出版する本の表紙とカバーと扉の見本が送られてきた。訂正箇所を指示してメールをすぐに送り返した。 翌日の今日、「今月中に出版するようにします」とのメールがきた。 「やっとね」と思った。 この本は、昨年の4月に原稿を書き上げたので、昨年の8月に出版の予定だった。それが、何故か、ここまで、出版が遅れてしまった。 8月に出版されるはずだったので、同出版社の季刊誌の秋の号(10月1日発行)に、「国際結婚のさきがけ:米・豪に渡った日本人女性、戦争花嫁」という原稿(20枚)まで書いた。本が8月に出版されると思っていたからね。 8月に出版されるはずだったので、10月に、出版サイン会を日本とハワイでするつもりだったが、これもキャンセル。10月の富山での講演会とハワイでの日系国際結婚親睦会には本の出版が間に合わなかった。 どうして、出版がここまで遅れたか? どうも、編集者の人が超忙しかったようだ。月刊誌と季刊誌の発行があるので、そうした〆切仕事をしていると、私の本の出版がズズズズ~と、来月、来月にと、ずれ込んでいったようだ。(私の本は急ぎの仕事じゃないからね。涙) 編集者をpushしてみると、編集作業が進む。「やっぱり」。こうして、やっと、今月末に、私の7冊目の本が出版されることになった。(でも、また、遅れるかも。) 本のタイトルは『私は戦争花嫁です:アメリカ・オーストラリアで生きる日系国際結婚親睦会の女たち』。正直言って、この本に何を書いたのか忘れてしまった。最近、お年なので、物忘れが始まっている。(サビシ~) 私は、『戦争花嫁から国際結婚へ』というタイトルにしたかったのだが、編集者の方が、『私は戦争花嫁です』を強く押した。 このあたりも、出版が遅れた理由。私は、戦後の国際結婚の歴史を書いたつもりだったので、このタイトルにしたかったのだが、編集者の人は、『私は戦争花嫁です』のほうが、インパクトが強いと思ったようだ。 価格は、1800円から2300円の間、と言われていたのだが、1800円に決まった。ノンフィクションの場合、2000円を超えると、売れにくい。。でも、この価格なら、「売れそう~、ヤレヤレ」。 というわけで、まもなく、出版。やっとね。ホッ。
2005年10月20日
中部国際空港に、お洒落な陶磁器のお店がある。常滑焼の店らしい。このお店がステキなので、常滑焼に興味をもった私。窯元をめぐる旅というのも、私は結構、好き。 名古屋近辺には、瀬戸や多治見、常滑といった窯元の町があるので、中部国際空港で出入国する楽しみができた。 名古屋のガイドブックで、常滑のページをめくると、登り窯や土管を埋め込んだ土管坂の写真があったので、「これは、よさそう」と興味をもった。日本に入国した翌朝(9月15日)、荷物をホテルに預けて、のんびりと常滑散策に出掛けた。 ガイドブックによると、常滑やきもの散歩道という散歩コースが2種類もあるので、期待感も高まっていた。長浜も、川越も、観光客用の散歩道があって、結構、楽しかったので、またまた、”日本に浸ろう”と思って、散歩に出掛けた。 が、実際に散歩道を歩いてみると、お土産物屋もなく、散歩道に雑草が生えていたりして、ガッカリしてしまった。 長浜や川越には、レトロっぽいお土産屋さんやお菓子屋さんがあるので、あっちで買い物、こっちで買い物というのが楽しいのだが、常滑には、そのお土産物屋がない。観光地の要素は、バッチリとあるので、「残念」と思った。 常滑焼のPRセンターとして、常滑市陶磁器会館というのがあるのだが、ここも寂れた感じ。ガイドブックに掲載されていた土管坂には雑草が生えていて、これまた寂れた感じ。私のほかに、観光客がいないのも、淋しい。平日なので、しかたがないか・・・。 というわけで、今回は、珍しく、常滑で何も買わなかった。私は、おみやげジャーナリズムを標榜(?)していて、旅先でおみやげ物を買うのが好きなんだけど、今回は、淋しい観光になってしました。 お土産、買うのが好きなのにな~。残念。
2005年10月05日
10月3日の飛行機で、中部国際空港を出発して、アメリカに到着したのが、またまた、10月3日。日付変更線を通過するからだ。 自宅に着くと、ドクターからのお手紙が待っていた。アメリカ出発の数日前に、コレステロールの血液検査に行ったので、その結果だ。 一瞬、ドキドキ。 日本女性の半分以上は、お年になるとコレステロールが高くなるといわれているが、私も、その一人。ここ数年、コレステロールが高くて困っていた。 まず、美味しいものが食べれなくなった。天ぷらとか、とんかつとか、好きなんだけど、我慢の毎日。 最初の頃は、コレステロール値268で、「このくらいなら、いいや」と思っていたのだけど、遂に284に。 「これは、いかん」と思って、ダイエット。油もの、肉類をやめて、うさぎちゃん生活に突入。ウサギちゃん生活を半年、続けると、264に下がったので、「嬉しい」と思って油断したのが悪かった。あっという間に、また、286に戻った。 「これでは、イカン」と、スポーツジムに通って、週に3回は水泳。これで少し下がったが、それほど効果なし。 「もう、いいよ。いつ死んでもいいよ。心臓病で死ぬと楽だから」と、一時、自暴自棄。 ところが、ところが、今年の4月の健康診断で遂に、コレステロール値、308になってしまった。これでは、血液、ドロドロ。脳梗塞および心筋梗塞予備軍となってしまった。 母からは、「死なれると困る」と言われた。なにしろ、裁判を5件、抱えている身だから。私が死ぬと、被告達が喜ぶ。姉と母は、昔のお嬢様なので、事務処理能力がない。私は、アメリカの大学院(ジャーナリズム学部)で、毎日、毎日、ペーパーを書いていたのと、新聞社で働いていたので、とにかく、書類が書ける。 「被告を喜ばせてなるものか」との固い(?)決意で、コレステロールを下げる薬を飲み始めたのが、今年の8月。そして、9月に血液検査をして、日本に帰国。 ジャジャーン。結果は、206。こんなに簡単に薬で下げることができるのなら、無駄な(?)努力をせずに、早く、薬をもらえばよかった。トホホ・・・。
2005年10月03日
名古屋万博が終わったので、やっと、名古屋市内に宿泊できた。 「名古屋から、出入国するので、名古屋万博でも見てこよう」と、7月あたりには、カル~く考えたものだが、名古屋市内には、ホテルの空きもないということを知ってから、万博はアッサリと諦めた。人ごみは嫌いなので・・・。 子供の頃、家族と大阪万博に行ったことがあるのだが、人ごみ以外、何も覚えていない。私、行列がキライなのです。 というわけで、今回、やっと、ヒルトンにも泊まれた。なんで、ヒルトンに拘るかとういば、今年、1月から、晴れて(?)、ヒルトンのゴールドメンバーになったから。 ゴールドメンバーになると、お部屋はエクゼクティブ・フロアにアップグレード、エクゼクティブ・フロアのエクゼクティブ・ルームで、朝食が無料。 カクテルアワーなどに、飲み物無料。昼でも、エクゼクティブ・フロアに行けば、なんでも飲める。果物、クッキー、新聞、雑誌もあるしね。 ついでに、チェックイン・チェックアウトも、エクゼクティブ・フロアで、できる。 ゴールドメンバーには、チェックインをして、お部屋に入ると、果物やクッキーが待っててくれるといったサービスもある。 とうわけで、今回のkatiebooksの宿泊には、ホテル・クッキーが、katiebooksを待ちうけておりました。 夜は、クッキーを食べながら、名古屋のテレビ塔などをぼんやりと眺めて時間を過ごす。 私は、名古屋のヒルトンホテルには、スポーツジムがないと思い込んでいて、今まで、名古屋を避けていたのですが、今回、ホテルを探検(?)して、スポーツジムを見つけました。スポーツジムがないと思っていたのは、私の勘違い。 朝に、ジムで、サウナのお隣のお風呂に入ってきました。湯加減は、ちょっと熱くて、私好み。 アメリカに戻るために、空港まで、シャトルバスで行こうと思っていたのですが、都合のよい時間がないので、駅までタクシー。 「近いところで、すいませんねえ~」と言うと、「いいえ、乗っていただけるだけでいいですよ」と。名古屋万博が終わった後、タクシーのお客さんがガクンと減ったとか。 「万博期間中は、どのホテルもいっぱいで、普通、ホテルは95%で満室というらしいですが、お客さんの泊まられたヒルトンは、100%、満室だったそうです」とか。 「家族で宿泊しても、同じホテルに泊まれないので、いくつものホテルに分かれて、朝食の時に、ホテルで合流ということも多かったようですですよ」。 「安いホテルと高いホテルに分宿した場合、お父さんは、安いホテルですか、それとも高いホテルに泊まるのですか?」と訊くと。 「お父さんは安いホテルに泊まって、高いホテルで、家族が合流するようですよ」という返事。 「やっぱり」と思った。 ちょっと洒落たレストランのランチアワー、女性専用食堂かと思えるほど、女性客しかいないのが、ニ・ホ・ンという国だから。
2005年10月02日
7月に続いて、また、和倉温泉に行った。和倉温泉に行った理由は、七尾に仕事で出掛けることと、七尾に別荘(マンション)があることだ。 七尾のマンションから、和倉温泉まで、車で10分。国際免許証のおかげで、日本で運転をできるようになったので、和倉にも気楽に行けるようになった。 7月に訪れた「のと楽」は、お部屋、お料理、サービス、仲居さん、お値段のすべての点で大満足の宿泊だった。どの部屋からも、七尾湾と能登大橋が見えるのもよかった。また、6種類のお風呂も楽しかった。 「のと楽」で大満足だったので、お一人様あたり、「のと楽」より、1万円高い「あえの風」では、どのくらいの満足感が得られるのかという期待感を胸に、今回は、「のと楽」の隣の隣だったかにある「あえの風」に泊まった。 本館と新館では、お値段が5000円違うとのことであったが、迷わず、新館にした。というのは、昨年11月、氷見の「ホテルマイアミ」に泊まった時、両親は貴賓室、私と姉は本館に泊まったのだが、御殿と布団部屋ではないかというほどの違いがあったからだ。両親の部屋から自分の部屋に戻るとガッカリした。さっさと目とつぶって寝た。(当たり前か?) 私は、我が家よりも、ボロ家には泊まりたくないのだ。我が家も、築17年と、かなり、ボロ家になってきたが・・・。 「あえの風」の新館は、築7年のことだが、かなり、痛みがきていた。全室七尾湾に面して、私の部屋も七尾湾に面していて眺めがよかった。 今回は、両親は隣の部屋で、私は一人で一室に泊まったので、夜にのんびりと、七尾湾を眺めて時間を過ごした。向かいに見える能登島と右手にみえる能登大橋の眺めがよかった。「のと楽」でも同じ眺めだった。 お部屋は「のと楽」も、「あえの風」も、同じ感じ。お風呂は、「のと楽」のほうが、種類が多いので楽しめた。 「あえの風」のよいところは、美術館のようなところというか、旅館のあちこちに、名画や名陶が飾ってあるところかな?女風呂の入り口に掛かっている絵は、上村松園の美人画だった。 フロントで、「上村松園」の絵は本物なのですか?」と訊くと、当館では、本物しか掛けてないとの返事だった。「防犯対策はダイジョウブ?」と思ってしまった。 「のと楽」と「あえの風」の宿泊料金1万円の違いはどこか、と一生懸命に考えた。お食事の時の、ショーと展示してある美術品ぐらいしか思いつかない。私的には、お値段の面からも、「あえの風」より、7月に宿泊した「のと楽」の方がお得な気がした。
2005年09月25日
中部国際空港ができたので、7月に次いで、今回も、中部国際空港で日本着。 名古屋での出入国の理由は、名古屋で開催されるエスニック研究会への出席のため。私は、昨年の10月に、この女性研究者の会に入会したので、機会があれば、できる限り、研究会に参加しようと思っている。この研究会の方々と、来年、4月に共著で世界の小さな博物館(仮題)の出版を予定している。 (この研究会の原稿のために、9月7日(水)にサンノゼの日系博物館に取材に行った。このことも、日記に書こうと思っていたのに忙しくてチャンスがなかった。) ところが、名古屋万博のために、7月に次いで、今回も、空港内のホテルも名古屋市内のホテルも、すべて、満室。楽天、ヤフー、じゃらん、ライブドアーとネット検索をしたが、どこも満室。 7月には、名古屋市内どころか、常滑のホテルも全部、満室だったのだが、今回は、常滑(空港から電車で二駅)に空室があったので宿泊することにした。ちなみに、7月は、名古屋の研究会に出席するために、豊橋と長浜に宿泊した。名古屋市内にはお宿がなかった。 常滑のこのホテルに決めた理由は、鉱泉がでるところ。私、日本に行けば、温泉に入ることを楽しみにしている人間。 ところが、ところが、鉱泉でのんびり、と思っていたのに、浴室内も定員オーバーに近い状態だった。名古屋万博、オソロシ。 比較的小さな浴室に、八名。もう、混んでる銭湯のようだった。翌朝になって、名古屋万博行きの団体さんと分かった。名古屋のホテルに泊まれないので、こんなところにまで万博客が溢れ出ているのだ。 ちなみに、アメリカに帰る日は、万博が終わっているので、名古屋のヒルトンに予約が取れた。 万博で、名古屋は経済的に、かなり活性化したのでは?
2005年09月15日
私の知人に、わが町でテニス・コーチをしている青年Mがいる。彼は、子供の頃から、テニスが好きで、テニスコーチになったのだが、30歳近くになっても、テニスコーチの収入だけでは食べていけない。 そんな彼は、常々、「人生には、自分の好きな仕事と、食べていくための仕事がある」と言っていた。裕福な家庭に生まれたMであるが、彼の乗っている車は、ガタガタと音を立てて走るポンコツ車。「その車で、高速道路を走れるの?」と、心配しなければならないほどのオンボロ車だ。マフラーが路上で、ポトンと落ちたこともあったかな。(笑) アメリカ生活には、高速道路を軽やかに走る車が必需品。しかし、彼には、その車を買うお金がない。好きな仕事をして生きていくということには、大変な”勇気”がいる。 ウン十年前に渡米した私には、ジャーナリストになりたいという夢があった。アメリカの大学、大学院でジャーナリズムを専攻した私は、キャンパスで、多くのジャーナリスト志望の学生に出会った。 しかし、卒業が近くなると、ほとんどの学生は、専門をジャーナリズムから、パブリック・リレーションズ(public relations)に変えた。print journalismを専攻し続けた私は、「ブルータス、お前もか」と、ちょっと、裏切られたような気持ちがした。(大学の専門は、newspapers,magazines and public relationsの3種類。) 当時のアメリカのジャーナリストの初任給は、2200ドル前後。しかし、企業の広報課に勤務すれば、3000ドルは貰えた。 アメリカの大新聞の『ロサンゼルス・タイムズ』でも、初任給は3000ドル。アメリカの大新聞は、大学新卒を雇わず、大学卒業後、小さな新聞社で数年の経験を積んだ有能な記者しか雇おうとしない。そんな涙ぐましい2200ドルの記者生活を続けて、大新聞に就職しても、3000ドルの収入しか貰えないのだ。 「好きな仕事より、お金になる仕事」。 しかし、私は、「お金より、好きな仕事」と思った。しかし、それでは、私も、ポンコツ車しか買えない。 1990年に、私は、アメリカで、不動産賃貸業(投資)を始めた。俗にいう大家の仕事。私の実家は、曽祖父の代から、大家をしていて、祖父も父親も副業に大家をしていたので、子供の頃から、父のすることを見ていて、大家のノウハウを知っていた。 1985年前後のロサンゼルスで、学生をしながら、ロスの土地バブルを見ていて、「カリフォルニアの土地は上がる」と妄信したことも、私の土地信仰につながった。 不動産賃貸業を始めて、今年で15年。最初の5年間は、冬の時代というか、当てが外れたというか、土地の値段が下がり続けた。しかし、私は、成金をめざして、不動産を買い続けた。(今思うと、恐ろしいほどのバカ。運が悪かったら、大借金もちになっていた。) 2000年から2005年に、カリフォルニアで土地バブルが起こった。バブルの恩恵をもろに被った私は、アメリカン・ミリオネアーになった。価格が4倍になった物件もある 現在の私は、とりあえず、食べることを心配せずに、writerの仕事をのんびりと続けていける。 alex99さんから、「執筆業は副業ですか?」と訊かれたが、私は本業と答えた。”道楽ものの本業”を”ケナゲな副業”が支えているというのが、今の私の生活。私も、テニスコーチMと同じ匂いのする人間。(Mより、ちょっと、運がよかったけれどね。)ワイン備忘録:Mia's Playground,Chardonnay, 2002, Russian River Valley(8月下旬から9月初旬にかけて、私の大家業の繁忙期なのですが、今日、最後の入居者さんが、入居してくださいました。これで、空室率0%になりました。一年契約なので、これで、また、のんびりと暮らせそうです。今日は、祝杯代わりに、シャドネーを水代わりに飲みました。ああ~、飲みすぎだ~。でも、明日から、これで、早起きもしなくてすむので、貧乏作家の生活に戻りま~す。ビジネス・スーツを脱ぎ捨て、また、Tシャツ、短パンの生活の始まりです。)
2005年09月10日
私は、市原悦子おばさんが好きだ。彼女主演の『家政婦は見た』というシリーズを1ドル50セントのビデオ料金を払ってまで、アメリカで見ている。アメリカでは、日本のテレビドラマのビデオは有料。 私の家には、家政婦さんがいないので、私が家政婦。(と、ナント、こじつけ。) そこで、今日は、katiebooks家の家政婦Katieの見たヒ・ミ・ツについて書きたい。(なんのこっちゃ) 今日、わが町のダウウンタウンを忙しそうに歩いていると(私の場合、小走り)、誰かが「Katie」と呼び止めた。 声のするほうを見ると、デンティスト(歯科医)Sだった。その時、何かがさっと動いたので、「なに、なに」と見ると、デンティストSと手をつないでいた女性が、さっと、手を離したのだ。 『だ~れ?』と思ってみると、それは、歯科衛生士のKだった。 歯科衛生士のKは、私の担当で、年齢が近いことと、二人とも、コレステロールが高いので、よく世間話をする。 コレステロールを下げるために、医師から菜食生活を強いられているので、「マクドナルドに行っても、お店の前で、ハンバーガーのにおいを嗅ぐだけよね」とKが言ったジョークに、二人で、大笑いをしたことがある。 離婚したKには、25歳前後の子供が二人いる。数年前に、お母さんの財産を相続したKは大金持ちになった。それを私に話してくれたのは、デンティストSだった。 Kは、結婚、離婚でつらい経験をしたらしく、「男は、こりごり」とか言っていたのに、ドクターSと手をつないで、人口6万5千人の町を仲良く歩いていたので、これは、私にとっては、ちょっとしたゴシップ。 「不倫?」と思ったが、私は、デンティストーSが、独身かどうか知らない。ドクターSを男性として、意識したことがなかったので、彼が結婚しているかどうかなんて、気にしたこともなかった。(松田聖子とは、違うからね。) デンティストSとKと短い立ち話しをして別れて、5歩ほど歩いた後で、私は振り返った。二人は、磁石のSとKのように、イヤ、SとNのように、再び、手を握り合っていた。「はは~ん」と思った。 しかしながら、不倫にしては、あまりにも明るい不倫だ。なにも、わざわざ、私を呼び止めて、みせつけなくてもいいのに・・・。 デンティストSは、独身だったのだろうか? 今度の歯科検診の日に、デンティストSの左手の薬指に指輪があるか、しっかりと、チェックしようっと。(私も物好きだ。笑) 誰かに話したくてしかたがないのだが、悲しいかな、このゴシップを話す相手がいないので、日記に書くことにした。ワイン備忘録:Folie a Deux,2000, Napa Valley, Cabernet Sauvignon 口当たりのよいVelvety tasteでした。
2005年09月08日
有吉佐和子が、『悪女について』という興味深い本を書いている。 この本を読んだ時、私は、黒澤明の『羅生門』を思い出した。それぞれの立場によって、同じ事象、同じ人物を描写しても、語り手の主観(時に自己弁護)によって、同じ事象、同じ人物の描写が異なってくるということだ。 楽天真弓さんが、「katiebooksさんとミニオフ会」という日記を書いてくださったので、私も「楽天真弓さんとミニオフ会」という日記を書くことにした。 8月31日に、真弓さんからランチに行こうとお誘いの電話が掛かった。しかし、8月下旬と9月下旬は、私にとって一年で一番忙しい時期。大家の仕事でね。 「来週なら時間ができるから」と言うと、「それじゃ、Binchanが帰ってしまう」と言うので、出掛けることにした。Binchanは、ドイツに住んでいて、たまたま、サクラメントの真弓さんの家に遊びに来ているのだ。 Binchanと真弓さんは35年も友人だということなので、私も、Binchanに会いたかった。私と真弓さんは、知り合って15年ほどかな。 いつもの時間にいつもの場所で待ち合わせた。 いつものレストランに行くと、顔を覚えられていて、お馴染みさん扱い。「いつもの友達が後で来るのね」と言われた。 しばらくすると、真弓さんとBinchanがやって来て、初対面の私とBinchanは自己紹介。Binchanから、ドイツ人の性格、ドイツの結婚、離婚、年金、賃貸住宅、ドレスデンとマイセンの陶磁器、アンティークの話など、ドイツ関連の話を色々聞いて、面白かった。 私は、ヨーロッパでは、イギリス、スコットランド、フランス、イタリア、バチカン、スイス、スペインに行ったことはあるのだが、何故か、ドイツには行ったことがない。ドイツには温泉もあることだし、一度は行ってみたいと常々、思っている。 数年前に、私の借家を、ドイツからの女性研究者(博士)が借りたことがあるのだが、その女性は、「私は、これまで、いつも敷金を全額返してもらってきました。私は、何も壊さないし、引っ越す時には、入居時よりも、きれいにして出て行きます」といつも、言っていた。 ところが、彼女の退去後、家をチェックすると、ガーべッジ・ディスポーザルが壊れていた。カリフォルニアの州法に基づいて、修理費用を敷金から引き落としたいと請求すると、大変、大変。registered mailを送ってくるは、苦情の電話を掛けてくるは、と胃の痛くなるような思いをさせられた。 「もう、いい加減にせい」(ああ~、私としたことがなんというお言葉遣い)と思うほど大変な思いをさせられた。彼女のルームメートは、スペイン人の男性二人だったのだが、交渉は、いつも、この博士殿だった。 アメリカに来て最初に友達になったのがドイツ人女性だったので、私は、それ以後、ドイツ人に対して、友好的感情をもっていたのだが、この時は、このドイツ人女性の相手をするのに、かなり疲れた。 日独同盟時、和の国、日本の方々は、ドイツ人に振り回されたのではないか、とまで日独の歴史を遡ったりまでした。(笑) Binchanによると、ドイツでは、大家が絶対的に強いので、ドイツで敷金を全額、返してもらうなんてことは不可能に近い、とのことであった。「ああ~、そうだったのか~。嘘つき、博士のばか~ん」と今頃言っても遅いか。(笑) さて、Binchanは、私の楽天日記を読んていたので、父の会社の福祉詐欺まがい事件(まだ、立証されていないので、”まがい”といっておかないと、アブナイ、アブナイ)の事も話題になった。二人とも、私の日記を読んでいるので、会話がスムースに運ぶ。(これは、日記の効用か?) 本当にひどい話、と、お二人から、暖かいお言葉を戴いた。本当に、馬鹿みたいな話だよね。見積もりも、設計図も見ずに、相手を信用して、お金を支払うなんて、信じられない。 本当は、この日も、かなり、忙しい日だったのであるが、浦島太郎の如く、あまりの楽しさに、時を忘れてお喋りに興じてしまった。(この後、私は、午後8時まで、シ・ゴ・ト。) おしゃべりをし尽くしたと思うほど、三人で喋って、喋って解散。外国に住んでいると、日本語で話せる友人がいることは本当に楽しい。ワイン備忘録:Ferrari-Carano Siena, 2000, Sonoma County, California(このワインは、サンジオベーゼとキャベルネ・ソービニオンとマーローをブレンドしたワインで、私はキャベルネ・ソービニオンが好きなので、ちょっと軽いなあ~と感じました。でも、味は複雑。)
2005年09月02日
『諜報員たちの戦後』(斉藤允功著、角川書店)は、読んだ本ではなく、これから読みたいと思っている本。アメリカに住んでいる私は、読みたい本があっても、すぐには入手できない。帰国が近いので、日本に帰ってから、この本を買いたいと思っている。 この本のことは、『週刊文春』の「私の読書日記」(立花隆)で知った。 「陸軍中野学校の卒業生たちが戦後60年にしてようやく語りだした戦後の生き方である」と立花氏は書いている。 私がこの本を読みたいと思った理由は、父の青年時代の手がかりを得られるのではないかと思ったからだ。 私の父は、数年前から老人の記憶障害に陥って、短期記憶が薄れている。私の名前を思い出せない父であるが、私のことが娘だということは分かる。だから、日常生活には、とりあえずの不自由はない。 この父が、数年前から、第二次世界大戦の特務機関の話をしだしたのだ。父を訪れる来客たちに、昔の思い出として語りだした。 『諜報員たちの戦後』は、陸軍中野学校の卒業生が、「本土決戦後、国内遊撃戦に転じる計画を立てていた。(中略)一人一人、校長から秘密指令を受け、秘密通信法が伝授され、秘密の工作資金も渡されていたという」と書いてある。 私は、この「秘密の工作資金」というフレーズに、引っかかった。 戦中、戦後の思い出話をしていた父が、マッカーサー暗殺計画の密命を受けていた、と言っていたからだ。工作資金として、仲間が、当時のお金で300万円(現在のお金で3億円)も預かっていたと言っていた。 しかし、戦後まもなく実行された新円切り替えの時に、300万円の工作資金を新円と交換することができずに、300万円を紙切れにしてしまったも、と言っていた。(高額のお金の出所を尋ねられると困るし、両替の金額の上限もあったらしい。) 当時、新円に切り替えるためには、戸籍謄本を見せなくてはならなかったらしい。だから、300万円を両替して、マッカーサー暗殺計画を実行すると、その戸籍謄本から身元が分かるなどの様々の理由で、実行できなかったとのことだ。 戦争中、父は、工学部の学生だった。飛行機の整備のために必要とされたので、徴兵されなかったと、幼い頃、私は聞いていた。飛行機の前で、ポーズを取っている父の写真というのもあった。 しかし、最近の父の発言から、父は、実は特務機関の工作員だったのではないのだろうか、と思い始めた。 学生時代を東京で過ごした父が、祖父の家に戻ってからも、進駐軍兵士が調査(監視?)のために訪れていたらしい、ということも、母から聞いたことがある。「私が結婚する前の話だから、詳しくは知らないけれど」とも、母は言っていた。 『諜報員たちの戦後』は、小野田寛郎さんのように、日本にも残置秘密工作員が「沢山いたということではないのか」と書いているのであるが、そこに、私の父の青春を知る手がかりがあるのではないか。 (註 陸軍中野学校は群馬県富岡にあったそうですが、父は、学生時代、東京の成城に住んでいました。だから、陸軍中野学校の卒業生ではないと思うのですが、成城の近辺に、どのような特務機関があったのか興味をもっています。)
2005年08月30日
日本では、猫の額のような土地をめぐって、境界線争いをすることが多いが、ここアメリカにも、境界線争いは、ある。 私の家(Aとする)は、東側がグリーンベルトと呼ばれる公園に接している。私の北隣の隣人(Bとする)も、東側が、グリーンベルトと呼ばれる公園と接している。 隣人Bは、東側の境界線をはみ出して、公園の敷地内に、木や花を植えだした。 すると、そのまた隣人(Cとする)もまた、公園にはみ出して、木や花を植えだした。 隣人BとCにとっては、正しい境界線を守っている私の家が目障りだった。 北側の隣人(B)は、私に、公園にはみ出して、木や花を植えてはどうか、と言ってきた。(私に土地泥棒の仲間に入れというのか、と思った。) 断った! 隣人Bとそのまた隣人Cは、市の公園管理課から、「木はもう、動かすことができないけど、花は市の敷地内から取り除いてください」という手紙を受け取った。 しかし、この隣人BとCは、市の要求を無視し続けて、市の土地の無断使用を続けた。 今日、近所の集まりで、隣人Cが、市の土地(公園)にはみ出して、草木を植えていることを、ポリスマンから文句を言われたと憤慨していた。 「私が、私のお金をだして、やっていることに対して、なんでポリスマンに文句を言われなくてはいけないの」と。 すると、隣人Cの隣りの隣人Dが、「だって、あなたは、普通の人がしないことをしているからよ」と、咎めるような口調で言った。 「そ、そうなんですよ」と私は思った。 隣人Cは黙って、何も言えないようだった。 私(A)と隣人B,C,Dは、東側の境界線をグリーンベルト(公園)に接している。一直線のはずの境界線なのに、隣人BとCが、はみ出しているのだ。 私も、隣人BとCのしていることを快く思っていなかったのだが、隣人Dも快く思っていなかったのだと今日、気がついた。 が、私には、隣人Dのように、はっきりと口に出して、言う勇気がなかった。それも、本人を前にして。 やっぱり、アメリカのおばちゃんは、「スゴイ!なあ」と本当に、感心してしまった。正しいことを正しいという勇気だよね。 ちなみに、隣人Bは、私の庭にも、はみ出して入ってきたことがある。彼等は、イラクからの移民。こうして、中東戦争は始まったのだろうか?ーーーワイン備忘録:今日は、隣人Bの家で飲んだ赤ワイン
2005年08月25日
red1さんの日記を読んでいて、嬉しくなってしまった。 ふ・ふ・ふ (笑)。 彼は、私の後輩(ここで、ダダダ・・・っと顔文字がほしいところなのだが、まだ、よく知らないので残念)。 オダギリ・ジョーは、わが母校の演技のクラスで、演技というものに目覚めたとか。もし、わが母校に留学していなかったら、俳優オダギリ・ジョーは生まれていなかったのかもしれない。彼、最近、陰のある男の不思議な雰囲気をだしているよね。 アメリカには、ドラマ・デパートメントのある大学がかなりある。教養のために(選択科目)、演技のクラスを取っている人もかなりいる。 トム・ハンクスは、隣町のサクラメント、カリフォルニア州立大学で演技を勉強していたらしいし、ジョージ・タケイは、まあ、かなりご近所(バークレー)のカリフォルニア大学の卒業生。確か、修士だったような気がする。ご近所ゴシップとして、こういう話は耳に入ってくる。(私は、ジョージ・タケイのお母さんと話をしたことがある。山梨生まれの日本人。) 私が、ジャーナリズム専攻の学生だった時、このドラマ・デパートメントの舞台レビューを宿題で、よく書かされた。テネシー・ウイリアムズの「欲望という名の電車」を初めてみたのは、ジャーナリズムのクラスの宿題のためだった。シューレス・ジョーの舞台をみたのも、宿題のためだった。 わが母校の思い出として、今でも、よく覚えていることは、車を貸してほしいと言われたことだ。なんで、そんな思い出が、と思うでしょ。 カフェテリアでコーヒーを飲んでいると、 「日本人?」と訊かれたので、「そう、日本人」と答えると、「車もってる?」と訊かれて、「もってる」と答えると、「これから、DMV(陸運局)に車の免許をとるために行くのだけど、車を貸してくれない」といわれたことだ。 「それはないよ」と「ノー」といえる日本人の私は断った。だって、見ず知らず、初めて会った人(女性)だよ。ロサンゼルスでは、車は命の次にダ・イ・ジ。 私は、この学校に入学した時に、新車を買った。通学に山越えをしなければならなかったからだ。エンジンのよい車でないと、山越えの途中で、車が故障ということも起こるからだ。 でも、オダギリ・ジョーに頼まれていたら、フ・フ・フ・フ・フ。 デビュー当時は、わが母校のことを話していたオダギリ・ジョーであるが、最近、わが母校のことを、あまり語らなくなった。古河潤一郎元衆議院議員の学歴詐称事件以来、アメリカの留学生というのは、「かなり、アヤシイ」と思われているからだろうか。 だって、アメリカの学校を卒業(留学)したかどうかということを、確かめるのはかなり難しい。私が、唯一、オダギリー・ジョーの留学した学校を卒業したという証明は、「卒業生のみなさまへ」という寄付のお願いが大学から来るときぐらい。トホホホホ・・・。---ワイン備忘録:Napa Valley Vinyards,Cabernet Sauvignon, Napa Valley 2002
2005年08月23日
ウエストロサンゼルスに住んでいた頃、お寿司屋さんの板前さんが、「日本人のお客は、不倫か夫婦かすぐ分かるよ」と言った。 「どこで?」と聞くと、 「日本人の夫婦は、黙黙と食べるだけでしょ。でも、それが不倫だと、お喋りをしながら、楽しそうに食べるんだよね。ところが、アメリカ人だと、夫婦でも、よく喋る」とか。 「ウーム」と、この板さんのお言葉にどこか納得してしまった。私が日本に住んでいた頃(もう、ウン十年前の話だ)、日本では、「理想の夫婦は空気のような夫婦」とか言われていた。 「一緒にいても邪魔にもならず、でも、生存に必要不可欠な存在」とか。時代は、高度成長期。妻は夫に尽くすもの、とか言われていた。(ホントウカ?) 懐かしい「夫唱婦随」なんていう言葉もあったよね~。『釣った魚に餌はやらない」という言葉もあったような。 あれから、ウン十年の月日が流れ、今や、熟年離婚が大流行(おおはやり)。妻にとって必要だったのは、給料袋だけだったようだ。 そういえば、「亭主元気で留守がいい」という流行語もあったな~。 今日、ベトナム料理店へ行ったのだが、レストランの中に、アジア系の40代のカップルがいた。私は、このカップルのことが気になってしかたがなかった。(席が離れていたので、二人の声は聞こえなかった。) 二人は、まったくお話をしない。ただ、ただ、二人で黙黙と食べているだけ。板前さんに教えてもらった法則に則って、「日本人なのか?」とも思ったが、雰囲気がイマイチ違う。どこか、アジアでも、日本以外の雰囲気なのだ。 黙黙と食べているところや、男性の無頓着な態度から、夫婦に見えるのだが、女性の着ている服装がちょっとフォーマル。 この男性とのお出掛けのために、ちょっと、いい服を着てきました、という雰囲気があるのだ。 「どんな関係なのだろう?」と気になって、この二人の関係が、不倫か夫婦かという疑問を、ここまで持ち越してしまった。 もちろん、解答がでるはずもない。 「不倫ですか、夫婦ですか?」と聞くわけにもいかないし。そういえば、韓国には、姦通罪があるとかいう話を聞いたことがあるが、今でも本当にあるのだろうか? 私が、大学院の学生だった頃、韓国人のジャーナリストの一団が、聴講生としてやってきた。その中の一人の男性が、私に話しかけたのだが、見ず知らずのこの男性が、最初に言った言葉が、”Are you married ?" 今になって考えれば、姦通罪の存在する国に住む男性の発想なのだな~と。 あの男性、ヨンさまくらいにいい男だったら、私も、「うっふん」とでもお答えしたのだが・・・。 今や韓流ブームとかで、テレビには、韓流のいい男がいっぱいでているのだが、私は、ハンサムな韓国人というのに、出会ったことがない。 私が出会った韓国人は、みんな、ゴンさまという方々だった。だから、「冬のソナタ」がブームになるまで、私は、韓国にいい男というのは存在しないのだと思っていた。マジで。
2005年08月20日
林真理子の『トーキョー偏差値』と『美女に幸あり』を読んだ。どちらも、雑誌『アンアン』に掲載されていた彼女のエッセイをまとめたものだ。 『トーキョー偏差値』は5月の帰国の折に、『美女に幸あり』は、7月の帰国の折に買い求めた。今まで、本を買っても本を読む時間もなかった。というか、気持ちの余裕がなかったのだ。 最近は、この楽天日記も再開して、読書の時間もできた。出版のための原稿も書き始めた。次回の原稿締め切りは、10月30日。(共著で、世界の博物館についての本を書く。) 私が林真理子を好きな理由の一つは、そこに、私の好きな女の贅沢があるからだ。私は、デビ夫人のように年下の恋人を作りたいとも思わないし、叶姉妹のように豊満な整形ボディを誇りたいとも思わない。 お洒落な宿(ホテル)に泊まり、美味しいものを食べて、自分の好きな本を書くことが、私の贅沢。それがまた、林真理子のエッセイにでてくる彼女の贅沢でもある。 私は、こんなによく仕事をするのに、母親からは、”遊び人”と言われている。が、最近は、両親お気に入りの”遊び人”になっている。 というのは、旅行のアレンジが手馴れているからだ。「旅行に行くよ」と言ったかと思うと、JRのティケットの手配から、宿の手配まで、さっさとしてしまう。良好会社、いや、旅行会社にお勤めしようかと思うほどだ。 それに加えて、今年の春に、アメリカで、international driver's licenseを取って、日本でも運転をするようになった。 アメリカと日本では、ハンドルの位置が違うので、日米ごちゃごちゃになり、日本でもアメリカでも、ウインカーとワイパーを間違えてしまう。しかし、今のところ、安全運転、無事故、無違反。 車の免許をアメリカで取ったので、日本で運転するのは、まったく初めて。日本の道路は狭くてこわい。高速料金を払ってでもいい、高速道路を運転するほうが好きだ。 ヨン様のファンの姉からは、韓国に行こう、と誘われているので、韓国にも行きたい。富山空港や小松空港から、韓国便がでている。しかしながら、私の日本滞在は、2週間半なので、そこまで、時間がとれないのが実情だ。 残りの人生、楽しく生きたい。美味しいものを食べ、よい宿に泊まり、自分の好きな本を書き・・・。 ついでながら、林真理子の周りには、いい男たち(彼女のいうところの)がウヨウヨしている。私は、男の人は、どうも疲れる。それに、彼女が、いい男というのが、どうも私の好きなタイプの男たちではない。男の趣味だけは彼女と違うようだ。
2005年08月18日
噂には聞いていたが、フィッシング詐欺からのメールが届いた。 私は、今年の6月に、アメリカのネットオークションのeBayで、一年ぶりに買い物をした。 eBayには、Paypalという金融決済機関があって、このPaypalを通して、お金のやりとりをすることが多い。 8月上旬、Paypalから、「7月27日に、第三者があなたの口座に侵入しようとしたので、あなたの口座は、現在、limitedにしかaccessできません。もし、fullにaccessをしたかったら、以下の指示に従ってください」と、ご丁寧にケースナンバーまでついたメールが届いた。 どこから見ても”アヤシイ~。”まったくご丁寧なことに同じメールが2通も届いた。 そのままにしておこうとも思ったが、アヤシイ・メールかどうか、確かめたくなった。お化けはこわいけど、お化け屋敷に入りたいという心理と同じだ。 そこで、そのアヤシイ・メールをeBayの正規のアドレスに転送して、「これは、アヤシイ・メール(fishy)では?」というメッセージもつけておいた。 翌日、eBayから、Thank you mailが届いていた。転送されたメールは、phising mailで、フィッシングメール撲滅へのご協力ありがとう、と書いてあった。「やっぱり、フィッシングメールだったのだ」と思った。 私は、ここ1年近く、実家の福祉詐欺騒ぎおために、eBayお買い物をする心の余裕がなく、今年の6月に、一年ぶりくらいにeBayで買い物をしたのだった。(楽天日記も、休んでいましたが、最近、復活してきました。) 6月のお買い物の中に、どうして、こんなに安いのだろう、と思う商品があった。私が買った商品は、ペコちゃん、ポコちゃんのペアーの携帯ストラップで、そのsellerの商品は、どの商品にも破格の価格がついている。香港のsellerなのに、郵送料も、アメリカ国内郵便より安いのだ。 「不思議だ、不思議だ」が、今では、「アヤシイ、アヤシイ」に変わって、どうしても、その香港のセラーがフィッシング・メールの送り主ではないかと疑ってしまう。 数年前に、通訳兼観光ガイドを連れて、香港で、お買い物をした時のことだが、通訳に、一番高いウーロンティーを2ダース、買うことを告げると、その通訳が、「商品はこっちのほうがいいよ」とか言って、目の前で、違った商品を渡そうとした。 高いほうの商品の金額を既に支払っていたので、「これって、商品のすり替えでは?」と思った。しかし、目の前で、これほどあからさまに、商品のすり替えが起きたことも初めてだった。(ガイドは、私の買い物のコミッションが収入となるシステム。) 日本人の観光客は、こうやっていつも、騙されているのだろうか、と思った。(私は、日本人だが、アメリカ生活が長いので、日本在住の日本人より、物事をはっきり言ってしまうので、商品がすりかえられたとはっきり、言ってしまった。) この時、香港の商法は、「こわ~い」と思った。だから、今回も、eBayの香港のsellerを疑ってしまった。 Paypalは、ネットバンキングだから、アメリカのネット口座のお金を香港にtransferされてしまって、それをまた、他国にtransferされてしまうと、取り戻しようがない。 とにもかくにも、今回は、フィッシング詐欺が未遂で終わったので、めでたし、めでたし。
2005年08月08日
今日は、アメリカに戻った日。サンフランシスコー名古屋間の往復ファーストクラスのチケットを予約したので、帰りもファーストクラス。 ファーストクラスは、寝心地がいいこともあり、私は、機内食の最中に眠ってしまったようだ。その原因は、ワイン。 名古屋のセントエア空港にあるユナイティッドのファースト専用のVIPルームで、ホワイトワインを2杯。機内で、食事の前にレッドワインを1杯飲んだからだ。(ファーストクラスのVIPルームには、私と30歳前後の日本人男性2名。IT長者なのかな?) 機内でお食事を終えて、”Do you want to have anythingelse?”とフライトアテンダント(男性)に訊かれ、”Deseert, please”と答えて、”Sure”とフライトアテンダントから返事が返ってきたまでは覚えているのだが、その後、ぐっすり眠ってしまったようだ。だから、楽しみにしていたデザートもミスってしまった。 目がさめた時には、あたりは暗く、誰もが寝ていた。座席の角度を75度から水平にして、もう一度、ぐっすり眠ることにした。寝返りをうつこともできるので、気持ちいい。 機内で2度目に目が覚めた時には、「あと30分でサンフランシスコです」というアナウンス。フライトアテンダント(女性)から、「朝食はどうされますか?」と訊かれたので、「フルーツ」と答えると、私だけに朝食をもってきた。私は、朝食時にも、ぐっすりと眠っていたようだ。 「私は、ぐっすりと眠っていたのでしょうか?」とフライトアテンダントに尋ねると、「はい、ぐっすりと眠っていらっしゃいました」と言われた。映画も見ないで、ただただ、眠っていたようだ。 ファーストクラスも、いいような悪いような。 ちなみに、機内のレッドワインは、Baron de Brane 2001 Margaux。 今回の往復でマイルを10万マイル使った。残りのマイルが18万マイル。あと、1回は、ファーストクラスで日本を往復できそうだ。ファーストクラスの往復は、ディスカウント・ティケットでも13,000ドル(150万円)なので、自腹では、ちょっと乗る気がしない。ちょっとどころか、まったく乗る気がしない。 ファーストクラスには、通訳を兼ねたお世話係りの女性がいて、彼女とは、サンフランシスコー名古屋間の行きも帰りも乗り合わせた。彼女から、「これもご縁ですから」と名詞をもらった。もし、私が男性だったら、こうして、恋が始まるのだろうか?
2005年08月02日
七尾まで仕事で出掛けたので、和倉温泉で一泊することにした。宿は、のと楽。 和倉の町を車で通るたびに、一度、泊まってみたいと思っていた宿だ。豪壮な和風の門を通って、車寄せに車を止めて、旅館の内部へ。フロントロビーの感じは、同じ和倉の温泉の加賀屋に似ている。でも、和風の門にリッチ感があって、入り口は、加賀屋より感じがいい。お部屋も清潔で、数寄屋造りの和風。クーラーは埋め込み式で、音も静か。窓からは、能登大橋と七男湾の風景が。 お風呂は6種類あって、私のお気に入りは、七尾湾を見渡せる寝湯。お風呂につかって、ぼーっとしていと、ストレスもなくなり、頭もすっきりしてくる。姉が気に入ったのは、ラベンダーのハーブ風呂。今回は、姉と両親と4人の家族旅行。 お食事は、お部屋でとることができるし、お部屋づきのともこさんは、いかにもプロといった感じで好印象。きりっとしたしたところが、いい。 この日は、北陸に台風が来た日で海は荒れていたが、荒れた海というのも一興。日本での楽しい思い出となった。
2005年07月26日
昨年の9月から、隔月に日本に帰国することになった。今回の帰国は、ファーストクラスで帰国することにした。サンフランシスコー名古屋便のチケットを買おうとると、すべて満席。ビジネスクラス、ファーストクラスも含めて、すべて満室だったからだ。 昨年から隔月で日本に帰国していたので、マイルがかなり、たまっていた。そこで、マイルのフリーティケットで帰ることにした。しかし、それも、エコノミーも、ビジネスも満席。ファーストクラスの1席のみ空いていた。もう、これしか空席がないので、すぐに予約。 ビジネス、ファーストクラスでは、フライトアテンダントが、乗客に「・・・様」と言って、名前を呼んでサービスしてくれるのだが、私は、「タカラダ様」と呼ばれた。どうやら、タカラダさんがキャンセルをしたので空席があったようだ。 タカラダさんは、かなりリッチなのか、お席は、A1のよいお席だ。「タカラダさん、ありがとう」というべきか。私は、7月18日に名古屋で開催される、日系エスニシティー研究会の研究会に出席したかったので、7月15日のサンフランシスコー名古屋便にどうしても乗りたかったからだ。 しかし、名古屋に着いてからも大変。3連休の初日ということもあり、名古屋のホテルはすべて満室。私は、ヒルトンホテルのゴールドメンバーなので、24時間以内の予約にも優先があるので、名古屋のヒルトンホテルに泊まろうとしたのだが、"flatly refused"されてしまった。名古屋近辺でホテルを探して豊橋のホテルにやっと泊まれた。 この三連休は、名古屋で開催されている万博、愛・地球博も、今年、最高の人手だったそうだ。そういう事情で、名古屋のホテルは、男性のみのカプセル・インを除いてすべて満室。この楽天のインターネットの予約サービスもチェックしたが、それも満室。愛・地球博で、名古屋は、地域経済がかなり、アップしているのでは?
2005年07月15日
作家の丹羽文雄が4月20日に亡くなった。彼の死亡記事を読んで、お姉さんが、アメリカと縁があったことを知った。 丹羽文雄の長男が、昭和30年代に、アメリカ人と結婚したことは知っていたが、お姉さんまで、アメリカと関係があったことは知らなかった。 サンフランシスコの「北米毎日」紙の中の随筆で、乗本恵三氏が、丹羽文雄のお姉さん(伊藤幸子)にロサンゼルスで会われたことがあるという記述があった。 丹羽文雄が活躍した時代、私は、まだ、子供だったことと、ドロドロとした小説が嫌いなので、彼の小説を読む機会がなかった。しかし、瀬戸内寂聴のエッセイの中で何度か、丹羽文雄の名前を目にしていた。確か、瀬戸内寂聴が、小説『田村俊子』を、丹羽文雄主催の文芸誌に発表したからだ。田村俊子も、アメリカに関係のある作家だ。 大正時代に田村俊子は、サンフランシスコの「北米毎日」紙から、彼の夫の鈴木悦と一緒に、新聞社で働かないかと声をかけられている。私は、この新聞社の前を通るたびに、明治の女流作家、田村俊子のことを思い出す。 アメリカに暮らした日本人のことを調べることが好きなので、今度は、丹羽文雄の本も、読んでみようかな。でも、ドロドロとした愛欲というのは、はやり苦手な気がする。 丹羽文雄は家族に見守られて亡くなったと書いてあったが、その家族とは、誰、青い目のお嫁さんなのであろうか?
2005年05月04日
しばらく、日本に帰っていました。 日本では、毎日、毎日、人に会う生活をしていて、楽天日記を読む時間もありませんでした。ということは、アメリカでの生活は、”ヒマ”な毎日ということなのか・・・? 今日は、”ヒマ”な毎日の一日として、愛犬ちゃんを美容院に連れて行きました。 近所のペットショップに電話をして、まず、アポイントメント。 電話で、愛犬ちゃんの狂犬病の予防接種記録を持ってくるように言われていたので、ファイルを探して、予防接種記録を発見。 日本では、狂犬病は、”絶滅”しているが、アメリカでは、ハワイを除いて、狂犬病には、要注意。 犬の美容師さんも、狂犬病の犬に咬まれて死亡ということになると困るようだ。数ヶ月前に、ミッドウェストで、狂犬病の犬に咬まれて死亡という記事を目にしたような気がすする。 午前11時30分に愛犬ちゃんを連れて、ペットショップのPetocoに。普通コースは31ドル。フェイシャルと耳のクリーニングと爪切りを含んだ特別コースで41ドルとか。 愛犬ちゃんの耳がちょっと臭うので、特別コースにした。私のヘアカットより料金が高い。ブツブツ・・・。 お店での愛犬ちゃんは、すでに恐怖モードでブルブルと震えていた。可愛そうと思ったが愛犬ちゃんを残して、ペットショップを後にした。 午後4時にペットショップにお迎えにいくと、」愛犬ちゃんは、可愛い系のシーズーちゃんに変身。 いい匂いがするので、ギュッと愛犬ちゃんを抱きしめた。というアメリカ的”ヒマ”な一日でした。 ああ~、アメリカ生活は長閑でいいなあ~。
2005年02月07日
今日は、いつものところで、真弓さんとランチ。 いつも、二人で、行くので、お店の人も私たちの顔を覚えていて、私の顔を見るや否や、"Your friend has already here"と言われてしまった。 真弓さんと知り合って、もう、14年ほどだろうか。人生、長く続くお友達というのは、貴重だと思っております。「はい」。 ランチの後は、パビリオンズのスタバでカプチーノを飲んだ。スタバのお隣に、サクラメント一ともいえる宝石店があるのだが、そのお店のショウウインドウに飾ってあるドロップのように大きいカナリー・ダイアモンドを眺めた。 お値段がついていないのだが、0の数を考えただけでも頭の痛くなるほどの値段なのは想像できる。世の中には、訳の分からないようなお金持ちがいるのだな、と思った。 その後は、Williams Sonomaで、ランチョンマットとイングリッシュ・プッディングを買ったのだが、イングリッシュ・プディングの賞味期限が2006年の6月になっているので、「マジッ」と思った。 昨年は、ユナイティッド航空で、日本に4回、ハワイに1回、飛んだので、ユナイティッドからマイリッジ・プラスのゴールドカードが届いた。 ゴールドカードをもらって嬉しいことは、マイリッジのボーナスが100%つくことと、機内の免税品がディスカウントで買えること。一体、何%のディスカウントなのだろう? 私は、機内で化粧品を買うのを楽しみにしている人間なので、今からワクワクしてま~す。
2005年01月06日
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