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もう40年も経つのか、という気持ちです。
あの日のことは、今でもよく憶えています。
私は大学生で、サイクリングクラブの夏合宿に向けて、東京から何日もかけて集合地である鳥取県を目指して、自転車で移動している頃でした。
まだ出発してから数日で、その日は群馬県から長野県に向けて走っている時でした。
その日、どこに泊まったのかは憶えていませんが、宿泊先でテレビがついていて、事故のニュースが流れていました。
後でわかったことですが、事故当初は情報が錯綜していて、事実が判明しなかったようです。
ただ、私は群馬から長野に向かっていたので、方向としては同じような方向だと思ったことを憶えています。
翌日からも鳥取を目指して、まずは日本海側に出るべく、新潟県のが直江津を目指して走っていました。
当時は携帯電話などは当然ない時代でしたが、携帯ラジオを持っていて、休憩の時などに聴いていました。
ラジオの情報を聞いているうちに、大変な状況になっていることがわかりました。
お昼を食べるために入ったお店のテレビや、たまに買うスポーツ新聞などで、状況を把握していました。
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500人以上の方が亡くなるという大惨事の中で、奇跡的に4人の方の生存がわかったというニュースには、とても驚きました。
自衛隊のヘリコプターでしょうか、中学生ぐらいの女の子を救出していく映像は、今でもよく憶えています。
このジャンボ機に搭乗していた方の中には、歌手の坂本九さんなどの著名人の方もいらっしゃいました。
小さい子もたくさん乗っていたということでした。
後に、この事故は多くのドラマや書籍にて描かれました。
あまりの悲惨さに、目を背けたくなるようなこともありました。
日本航空では、すでにこの事故後に入社した方が大半で、事故当時から在籍している方は0.1%ほどということです。
それでも、事故のことを忘れずにという意味で、社内では研修や展示などで継承されているようです。
当時、大学生だった私も、還暦が近くなりました。
40年の時間が経っても、決して忘れてはいけないことを胸に刻み、改めてお亡くなりになった方のご冥福をお祈りいたします。
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