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2014.09.24
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カテゴリ: 小説
鶴の湯.jpg


咲かせてならぬ草もある、
陰に隠れて、忍草、

 皐月、明け六つ(朝6時)。鯉兵衛はまだ眠っている裏長屋から、竹魚籠を腰にぶらさげ、木戸を通らずに、厠(かわや)の横をすり抜けて、掘割に繋いである小船に乗る。
 ただの老人のように見える、いくらか腰が曲がっていて、動作もゆっくりとしている。だが、今朝の鯉兵衛の赤ら顔には、いつものにこにこした笑顔をどこかに忘れてきたようだ。皺の間から覗く視線が、鋭く辺りを睥睨しているのを隠せなかった。

 鯉兵衛は草と呼ばれる忍者である。忍者でも下層の下忍である。忍者としての素性を隠し通し、女房のお鮒までを騙し、庶民の顔をしてもう、長い間裏長屋の暮らしの中に自然に溶け込んでいた。
 いつ『秘命』が下るかわからない。明日、下ることもあれば、十年も二十年も『秘命』が下らない場合もある。『秘命』が下るまでは、忍者であることを悟られないよう、ごく普通の暮らしをしていた。
 お鮒との裏長屋の暮らしは、鯉兵衛にとっては、ただの老人の穏やかな時間でもあった。だが、十日前の子ノ刻、寝入っていた鯉兵衛の耳に、梟が、ほおぉほおぉほおぉと、三回啼いた。
 『秘命』が下る合図だった。十六年振りの命であった。忍びの運命(さだめ)なのか、ゆっくりとした動きの鯉兵衛の背筋にピンと、芯が通った。


 水遁の術では、腹に当身をうち、仮死様態のまま、一日中水の中に潜っていることもできたし、魚のように、敏捷に泳ぎ、葉や藻のなかに、姿を隠す隠形の術は誰にも見破れなかった。水の上を走る水蜘蛛の術では、あめんぼのように、、音を立てずに自由に水面を移動できた。
 そして、なにより、魚語が理解できる術は誰にも真似ができなかった。唇の動きだけで読み取る、読唇術という忍法は、忍者なら誰にもできるが、鯉兵衛は魚と会話ができた。

 仕事は、鰻捕りだった。大川、日本橋川、神田川から、堀割りにまで、夕方、鰻筒を仕掛け、朝、縄上げして、日本橋から、花川戸辺りまでの、料理茶屋や船宿に届ける。
 二尺程度の鰻が多い中、鯉兵衛の捕る鰻は、十分に育った二尺五寸以上の大きな鰻だったので、蒲焼自慢の料理屋からは人気があった。
だが、鯉兵衛の鰻からは肝が抜かれていた。肝は鮒兵衛が生のまま吸いこんでしまうのだった。

 船を器用に昨夜仕掛けた鰻筒に寄せると、縄上げした鰻を素早く、竹魚籠に入れる。手慣れた手つきだった。小舟は、掘割から、神田川に出て、大川を下っていく。新大橋、両国橋を潜る。鯉兵衛の小舟はまるでみずすましのように川面をすいっすいっと走った。

「鯉さん、今朝のもご立派ね、元気がいいこと、うっふふっ」花川戸の船宿『蓮水亭』のおかみ、お桃は、鰻を見て、意味ありげな視線を鯉兵衛に向けたが、
「ちょいと野暮用があってね、午ノ刻までには、帰ってくるよ、お楽しみはそれまでお預けだよ」
 船宿『蓮水亭』に鰻を届けた日には、大抵一杯飲って、朝っぱらからお桃と戯れることもあった。だが、今日、花川戸まで船を運んだのは、鰻を届けるだけではなかった。『秘命』を実行しなければならない日だったのだ。

 南町奉行鳥居耀蔵の配下、黒田九流斎を暗殺し、死体が見つからないように始末することだった。鯉兵衛は船宿に小舟を残して、田原町、両側が寺ばかりの、新寺町を、風のように疾走し、半刻もかからずに、下忍の池(しのばすのいけ)に着く。池の端仲町をやり過ごして、池の西岸に手配しておいた小舟で、弁天島まで、水の上を静かに滑る。

 町人姿の着物を脱ぎ、褌をぎゅっと締めなおしてから、ゆっくりと、水の中に体を沈めた。水遁の術と隠形の術を使って、蓮の葉陰に潜む。蓮の葉の陰から、鯉兵衛の黒い眼だけが光る。誰が見ても蛙が潜んでいるようにしか見えない。黒田九鬼流斎が現れるのををじいっと待った。




作:朽木一空

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最終更新日  2014.09.24 11:01:29
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