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2014.10.02
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カテゴリ: 小説
鯉.jpg



 忍者、水猿こと、鯉兵衛は、黒田九鬼流斎を十日間尾行してもなかなか隙が見つからなかった。神道無念流の使い手で、常に手下を十人以上は連れている。密偵、忍者も忍ばせている。
 用意周到な警備に守られ、とても、手が出せるような相手ではなかった。もし、悟られたり、しくじったり、捕えられたりしたら、奥歯に詰めた毒薬を噛み砕いて死ななければならぬのが忍者の掟である。『秘命』は死とともに消えるのだ。失敗は許されない。ことは慎重に運ばなければ死につながる、それが忍者の宿命である。

 だが、黒田九鬼流斎が魚釣り好きで、非番の日には、下忍の池(しにばすのいけ)に、子分を連れず、一人で、棹を差すことを突き止めた。下忍池には、4尺(120センチ)を越える下忍池の主と呼ばれている大鯉がいる。もう、200年も生きていると言われている。その大鯉を九鬼流斎は狙っていた。

 今日は黒田九鬼流斎の非番の日だった。九鬼流斎は必ずやってくる。奴は、取り締まりのるつぼにはまり、苦しんでいる。どこかに逃げ道が必要なのだ。鯉兵衛は確信していた。人間、どこかに空気の抜け穴がなければ、窒息してしまう。
 神田の料理茶屋『極楽里』で子分共と、酒食肉淋の宴会をしている時にも、黒田九鬼流斎はほとんど酒を口にしない、女も近づけない。宴会は配下の者の志気を高めるためだけの戦術だったのかもしれない。ある意味、九鬼流斎は純粋な剣客なのかもしれない、と、すれば、剣客、黒田九鬼流斎が鬱憤を晴らすのは、この下忍の池の大鯉しかいないのではないだろうか。
 まだ、陽が頭のてっぺんに昇るまでには時間があった。水猿は水の中にじぃっと潜んでいた。巳の刻を過ぎた頃、案の定、黒田九鬼流斎は釣竿を肩に担いで、下谷広小路から、たった一人で、三橋を渡ってやってきた。池の端の蕎麦屋の屋台に腰を降ろし、かけ蕎麦を注文する。
「おやじ、今日こそは、下忍の主の大鯉を釣り上げるぞ!」
「旦那、昨日の雨で、水が濁ってまさぁ、綺麗な水じゃぁ掛かりません。こういう日には大物が掛かるでさぁ」

「釣り落とす魚は噺にひれがあり」と、蕎麦屋の親爺がちゃちゃをいれる。
「そうではない、本当にかかったのだ」だが、その言葉は飲み込んだ。
 市中取締りで鬱屈が溜まっていた。やらねばならず、やればうらまれ、それでもやるさ、やらねばなるまい、だが、下級武士、商人庶民には窮屈を押し付けながら、幕府内には相変わらず、腐敗臭は蔓延っていたし、大御所の徳川家斎は大奥に入りびたり、日がな、女を物色しては淫蕩にふけり、すでに、判明しているだけで、妾を25人、子も、55人儲けていた。それでも飽きずに大奥をふらついている。
 将軍家慶は老中首座の水野忠邦に天保の改革を押し付け、評定の場では、何かにつけ「そうせい、そうせい」と、任せっきり。家臣たちは裏では「そうせいさま」と、呼んでいたが、柳に風のていたらく、家慶もまた、親爺の家斉に負けずと、大奥で淫蕩三昧の生活を送っている。すでに、25人の子供を儲けていた。

 九鬼流斎は矛盾を感じていた。上司である老中首座水野忠邦や南町奉行鳥居耀蔵は自分の出世しか頭にない。「徹底して、厳しく取り締まれ!」と言う命令を出すだけである。やるのは、自分や与力、同心だった。北町奉行の、遠山影元はその矛盾に気が付いていて、取り締まりを緩めているから、賢い。
『水清ければ魚棲まず』というが、人間社会も同じなのか?
 色々考えると嫌になる。嫌になるがやらねばならない。損な役回りを押し付けられているのじゃないだろうか?そんな、鬱屈を晴らすのには釣りが一番だった。その時だけは嫌なことから解放される。
 いや、忘れていられるというのが正直な気持ちだった。忘れたくて釣り糸を垂れるのかもしれなかった。皮肉にも、九鬼流斎の子分が立てた「魚釣りならず、立ち入り禁止」という取り締まりの触れ看板を足蹴にして、池の繁みに九鬼流斎は足を踏み入れた。もう、心は魚釣りでうきうきしていた。至福の時間が訪れていた。

(次回につづく)

作:朽木一空

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最終更新日  2014.10.02 10:51:23
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