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(生と出会う:p144/p145:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用(一部変作)『人間についての書物は、あなた自身です。あなたという書物には、人間についてのすべてが書かれています。 なのにあなたはその本を読みたがらないのです。あなたは誰かに、その本について話してもらいたいと思っています。またはその本を(直接読むのではなく)分析することが、その本を理解する助けになると思っています。 あなたはその本を注意深く、一語一語、それを歪めることなく、一つの章だけ読んで他の章は無視するということはせず、その本全体を読むことができますか? その本を読むのにあなたは一章ずつ、ページを一つ一つめくりながら、長い時間をかけて、生涯かけて読みますか? それとも、それを一瞥にして、即座に読み切る方法があるでしょうか? あなたは鏡に、本に、あなた自身であるその本に映った自分自身を、完全に、即座に、「見る」ことができますか? そのときあなたはその本が「無(nothing)」であることを「見る」でしょう。あなたはこのことを理解されるでしょうか? あなたはその本を最初のページから最後のページまで読み、そこには何も無いことを発見するでしょう。私が言っていることがおわかりになりますか? それが意味するのは、「無(nothing)」であるとは「ならない(don't become)」ということです。 その本は「なる(become)」ことです。「なる(become)」ことの歴史なのです。だから、もしもあなたが自分自身を深く調べるなら、あなたとは「なる(become)」という運動であることを発見するでしょう。 だからあなたは、一目でその本を読み、それは絶対的に「無(nothing)」であることを「見て」、この世界において、何者でもない者として、真に生き生きと、生きることができるのです。』 この文章がわかりにくいのは、「あなた=本」というのを、「なる(become)」という運動として捉えるとともに、「無(nothing)」「ならない(don't become)」としても捉えているからだと思います。 僕としては、「あなた=本=なる(become)という運動」という「あるがまま」を「一目で見る」ことによって、「あなた=本=無(nothing)=ならない(don't become)」という事実があらわになる、という解釈をしています。 それにしても、「真理」の、なんと、とんでもなく見事な表現なんでしょう。
2006年08月31日
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(クリシュナムルティの瞑想録/自由への飛翔:p231:クリシュナムルティ:サンマーク文庫)より引用(一部変作)『見ることが即、行うことであり、見ることと行うこととは、別々ではない。 そして見ることはつねに新たであり、したがって行うこともつねに新たである。 それゆえにすべての反応について見ることは、たえず新たなものをもたらす。それが自発性である。』
2006年08月30日
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1か月ほど断酒していたのですが、きのうついに飲んでしまいました。なんというか、「快楽」でした。 で、これまで長年にわたり、何度も何度も失敗してきた「適度な飲酒」をもういちど試みることにします。 とりあえず「適度な飲酒」の定義を決めておいて、失敗するか、「適度な飲酒」の定義を変更する場合には、このブログで報告します。 ここでひとこと言いますと、はっきり言って、こんなのは「反クリシュナムルティ」「反道元」「反ブッダ」ですね。 だから? だからどうのって言われてもね、言い訳ですね。 とりあえず「適度な飲酒」の定義を「日本酒に換算して1合程度、週に2日は連続して飲まない日を作る」にします。
2006年08月29日
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(生と出会う:p120/p121:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用(一部変作)『自己の運動を、他者から得た知識や、過去の自己分析による知識抜きに観察するにはどうしたらいいのでしょう? 言葉抜きで自己の運動を観察するにはどうしたらいいのでしょう? それはつねに自己について、新たなものとして学ぶことです。 それは認知が起こる瞬間、自分自身について、心理的に何も知らないでいる、という状態です。 これを行うにはとてつもない注意力を必要とします。』
2006年08月28日
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(クリシュナムルティの瞑想録/自由への飛翔:p229:クリシュナムルティ:サンマーク文庫)より引用(一部変作)『学ぶという運動は、知識の中に腰を据えていては不可能である。もし何かに頼っているとすれば、それは学ぶという運動ではない。 学ぶとは何ものにもとらわれることなくものを観察し、見ることである。もしも蓄積された知識からものを見れば、そのような観察は限られており、そこには何ひとつ新しいものはない。』
2006年08月27日
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(クリシュナムルティの瞑想録/自由への飛翔:p228:クリシュナムルティ:サンマーク文庫)より引用『肝要なことはただひとつ、学ぶことだけであり、学ぶことのうちに即行為がある。学ぶことは行為と別に離れてあるものではない。もしも両者が別々になっていれば、学ぶことは行為の基盤としてのある観念、または一連の理想にすぎない。けれども学ぶことがすなわち行うことであれば、そこには何の矛盾もない。 このことさえ理解されていれば、何が問題になるであろうか。学ぶことは抽象でも観念でもなく、具体的にあることについて実際に学ぶことである。現に行為がなければ学んでいるとはいえないのであって、あなたは行為のただなかにおいて以外自分について学ぶことはできない。 まず自分について学び、しかる後にその知識に基づいて行為に移るというのであれば、その行為はあなたが蓄積した知識に従った模倣に陥ってしまうのである。』
2006年08月25日
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(現代文/正法眼蔵1:道元:p62:河出書房新社)より引用『虎を陥れ、虎を手なずけるとは、異類の中の行である。仏性を自由に見るとき、眼の活らきは開閉自在となる。仏性の言葉はどこにもどこまでも通じて現われるのだ。仏性を見る処にあって、人は成長するのである。』(原文対照現代語訳 道元禅師全集 第一巻 正法眼蔵1:p126:春秋社)より引用『虎をおとしいれ、虎の頭をひねる、相手の中へどんどん入ってゆく。 仏性を明見して一隻眼(ひとつのめ)を開く。 仏性の明見で一隻眼(ひとつのめ)を失う。 速く道(い)いなさい、速く道(い)いなさい。 仏性の見処はこんなに長(すぐ)れている。』「上記二つの訳の、原文」(道元禅師全集 第一巻 正法眼蔵1:p126:春秋社)より引用『陥虎■虎、異類中行。 明見仏性也、開一隻眼。 仏性明見也、失一隻眼。 速道速道。 仏性見処、得恁麼長。 虎を陥れ虎を■(と)る、異類中に行く。 仏性を明見しては一隻眼を開く。 仏性が明見すれば一隻眼を失す。 速やかに道(い)へ、速やかに道(い)へ。 仏性の見処、恁麼(いんも)に長ずることを得たり。』 ■のところには、「将」の、「しょうへん」を「てへん」に置き換えた文字が入ります。
2006年08月24日
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(生と出会う:p65:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用(一部変作)『質問者:瞑想とは何なのでしょう? クリシュナムルティ:まず第一に、瞑想とは、精神が知っているあらゆるものから、精神を空っぽにすることです。 第二に、瞑想とは、条件づけされていない、何ものにもコントロールされないエネルギーです。』
2006年08月24日
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gaMeというニックネームについて。 はじめはgameで登録しようとしたのですが、すでに登録済みでしたので、mをMにして登録しました。 では、なぜ「ゲーム」にしたのかというと、ブログというのは物語を作ることであり、人生という物語を楽しむゲームのひとつとしてブログをはじめたからです。
2006年08月24日
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(生と出会う:p51/52:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用(一部変作)『思考は意識を支え、それに栄養を与える。意識の中身は思考の決して終わることのない運動であり、欲望、葛藤、恐怖、快楽の追求、苦痛、寂しさである。 思考を、低級な思考と高級な思考に分けることはできない。高次であれ低次であれ、それはなおも意識であり、いつも騒がしく、おしゃべりしているからである。 思考はどんな状況にあっても「全体」ではありえない。思考は「全体」について考察し、言語化にふけり、その経験にひたるかもしれない。しかし、思考は「全体」の美を、広大さを知覚できない。 それはなぜかというと、思考が経験と知識の不毛な子だからで、思考は決して「全体」ではありえない。思考はつねに限定されており、断片的なものである。思考が人間にもたらした心理的な問題を、思考は空しく解決しようと骨折り、そのためなおさらそれは解決しがたいものとなるのである。 思考が、自ら生み出した心理的な問題や心理的な葛藤を解決することの、思考自身のまったくの無能を理解するときにのみ、(思考抜きの)知覚が、(思考抜きの)洞察が可能になり、心理的な思考を終わらせることができるのである。』 ああ、でも、あなたの言われていることは、頭ではわからなくもないのですが、現実には不可能ですよ。 すると、あなたはこんなふうに答えるのでしょうね。「なぜ不可能だと決めつけるのですか? あなたはこのことを真剣に試みたことがないのです。不可能だとか可能だとかの先入観を持たず、ただやってみるのです。」
2006年08月23日
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(しなやかに生きるために/若い女性への手紙:p16:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用(一部変作)『ものごとは容易ではないかもしれませんが、より多くを人生に求めれば求めるほど、それだけ人生は恐ろしい、苦痛を与えるものになるのです。 単純に、影響を受けないように、気をつけて生きなさい。 あらゆるもの、あらゆる人が影響を与えようとしていますが。変わりやすい気分を持たずにいることや、要求を持たずにいることは容易ではありませんが、深い静かな生活なしには、すべては虚しいのです。』
2006年08月21日
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(生と出会う:p35:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用『人の世界は群居である。それは影響の、意見の相互関係であり、伝統の重みである。それは思考の慰みであり、自己陶酔の活動である。これは避けがたく寂しさと、自己を孤立させる惨めさに行き着く。 独りあることは精神が社会の影響の外に出ているときにだけ可能である。そのとき内部に、社会の無秩序からの自由がある。』
2006年08月21日
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(生と出会う:p46:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用『真に根本的な重要性をもつ「見る」という行為を理解できるなら、そのときそこには「私」や「私のもの」といった蓄積はない。』
2006年08月21日
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(生と出会う:p12:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用『恐怖は思考によって克服されることはない。なぜなら、思考は恐怖を育むからである。 思考が静まるときにだけ、恐怖が終わる可能性がある。』
2006年08月20日
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(生と覚醒(めざめ)のコメンタリー1:p83:クリシュナムルティ:春秋社)より引用(一部変作)『「私」というものがじつは無であるという、その虚無に直面し、そのうずくような孤独とともにあることができれば、そのときには恐怖はことごとく消え失せ、そしてある「根源的な変容」が起こる。 この「根源的な変容」が起こるためには、「私」というものがじつは無であるという、その虚無の状態の刻々の体験がなければならない。けれども、その刻々の体験において、体験者がいれば、刻々の体験は妨げられる。「あるがまま」からの自由をもたらすのは、「あるがまま」を名づける体験者なしに、「あるがまま」を刻々と体験することである。』
2006年08月20日
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(生と出会う:p38:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用『探し求めることはあなたの目の前にある真理を否認することである。 あなたの目は一番近くにあるものを見なければならない。そしてそれを見ることは終わりのない運動である。自分が求めている対象を探し回り、幻想の中に生きている人は、いつも自分自身の影の限界の中で悪戦苦闘している。 探さないことが見出すことである。そしてその発見は未来にはない。それはそこにある、あなたの見ないそこに。見ることはつねに今である。そこからすべての生と行為が起きる。 瞑想はその行為の祝福である。』
2006年08月20日
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あらゆる物事は、脳が刻々と生成している出来事である。 だからこそ、瞑想によって、まさに物事が誕生しているところを体験できるのである。まさに色が誕生しているところを、まさに形が誕生しているところを、まさに世界が誕生しているところを、まさにあらゆる物事が誕生しているところを体験できるのである。 生きているかぎり、私たちは、世界の生成を、世界の生き死にを体験している。 瞑想によって、瞬間ごとに世界が生成されていく事実を、ありありと体験できる。
2006年08月20日
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(和尚タイムズ アジア版 vol.9:p50:和尚/OSHO:市民出版社)より引用『瞑想は冒険だ。 人のマインドが引き受けることのできる、もっとも偉大な冒険だ。』
2006年08月18日
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クリシュナムルティを読めば読むほどに、クリシュナムルティが言葉にして表現していることと、クリシュナムルティが伝えようとしている、言葉ではない「本当のこと」との関係、というか、関係の無さ/関係の遠さ/関係の近さ、も含めての「関係」にうっとりしてしまいます。
2006年08月17日
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(クリシュナムルティの瞑想録/自由への飛翔:p231/p232:クリシュナムルティ:サンマーク文庫)より引用(一部変作)『自分を目覚めさせておくために、外からの働きかけに依存する必要があるだろうか? 精神がたえず変化し、依存や休息、安息の場といったものをいっさい持たず、さらに既得権益や利害にいっさいかかわりあいがないときにはじめて、外からの働きかけなしに自分を目覚めさせておくことが可能となる。 目覚めた精神、内から燃えあがる精神にとっては、どんな種類の働きかけも不要である。』 精神が休息や安息の場を持たないだって? 何ということを言ってるんだろう! すごいな。 でも、いくらなんでも、「精神が休息を持たない」だけでは生きてゆけないので、「精神を休ませることが必要不可欠」になります。(しなやかに生きるために/若い女性への手紙:p16:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用(一部変作)『私たちは一人きりでいることがめったにありません。つねに人々といっしょにいるか、たとえ物理的には一人でも、押し寄せてくる思考や想念、あるいはかなえられずにきた、またはかなえられつつある希望、さらには思い出とともにあるのです。 一人きりでいることは、人が影響を受けないようにし、けがれなきことが起こるために不可欠です。このように一人きりでいるための時間が私たちにはないような気がします。あまりにも多くの仕事があり、あまりにも多くの責任等々があるからです。 静かにしていることを覚え、日に数時間は一人でいること、精神を休ませることが必要不可欠になってくるのです。』
2006年08月17日
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(子供たちとの対話:p341/p342:クリシュナムルティ:平河出版社)より引用『どの描写も起源を描写できません。起源には名がありません。起源は絶対的に静かです。音を立てて動き回っていないのです。創造はたいへんに神聖なもので、それは生の最も聖なるものです。あなたが生をめちゃくちゃにしたのなら、それを改めなさい。明日にではなく、今日それを改めなさい。あなたが不安であるなら、なぜかを見いだし、安心しなさい。あなたの思考がまっすぐでないのなら、まっすぐに、論理的に考えなさい。そのすべてが定まり、すべてが整わなければ、この世界、創造の世界には入れません。』
2006年08月17日
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(しなやかに生きるために/若い女性への手紙:p15:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用(一部変作)『書くというのは奇妙なことに思われます。そうせずに済みそうに思われるので。 書かずに済みそうに思われる重要なこと、「本当のこと」はここにあり、そしてあなたはそこにいる。 ここにある「本当のこと」と、あなたのいるそこにある「本当のこと」は、互いによく似ています。「本当のこと」は常に互いによく似ており、それらについて書いたり話したりする必要もないほどです。 で、まさに書いたり話したりする行為のさなかに、それをゆがめたり、けがしたりする何かが起こるのです。じつに多くのことが、「本当のこと」とは別に書かれたり言われたりしてしまうのです。』
2006年08月16日
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瞑想も脳の機能のひとつであり、本来脳には瞑想できる機能が備わっている。 脳は生きているかぎり、さまざまな分野に配分されて機能しており、言葉(伝達)の機能を使用するのをほとんどやめたときには、脳の他の機能が大きく働きだし、瞑想という機能が発揮される。
2006年08月16日
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(大乗仏典1:金剛般若経:p71/p72:中公文庫)より引用『自我にせよ、法にせよ、それらを否定したからといって、さとりが得られるのではない。なぜならば、もともと、この両者は実在性のない、したがって否定の対象にはならないものだからである。否定されるべきものは、両者についての見解である。』
2006年08月15日
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(しなやかに生きるために/若い女性への手紙:p5:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用『率直でありなさい。過去に生きなさい、もし必要なら。が、過去に抗わないようにしなさい。過去がよみがえるときは、それを覗き込むようにしなさい。それを脇へ押しやったり、それにすがりつきすぎたりせず。 これらすべての年月の経験、苦悶と喜び、うんざりさせるような打撃、離別への一瞥、夢見るような感覚。これらすべてが過去の豊かさと美しさをさらにつのらせるでしょう。』 これは、ぼくがクリシュナムルティが大好きな、もうひとつの理由です。 ひとつは、「過去に生きてはいけない」ですし、もうひとつが、この、「過去に生きなさい、もし必要なら」です。
2006年08月14日
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20060814(和尚タイムズ アジア版 vol.9:p40:和尚/OSHO:市民出版社)より引用(一部変作)『この瞬間にいると、この微妙な瞬間が光を発するようになる。』
2006年08月14日
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Eiliさんがクリシュナムルティをめぐって、gaMeさんに詩を書いてくれました。Eiliさんの書いてくれた詩です すてきな詩でしょう? これまでブログの中で、クリシュナムルティの引用や、クリシュナムルティに触発された言葉なんかを、ずいぶん書いてきて、コメントもいろいろもらいましたが(もちろん、それはそれで楽しませてもらってます)、詩を書いてもらえるだなんて、思ってもみなかったな。光栄だな。 詩の中では、gaMeさんの真剣な面だけが強調されていて、ちょっと照れてしまいます。じっさいのgaMeさんは、かなりいいかげんに暮らしています。 ただ、この詩を読むにあたって、たまたま「gaMeさん」という人物が登場しますが、この詩はあきらかに、Eiliという詩人の詩です。 Eiliさん、ありがとうございました。
2006年08月13日
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(クリシュナムルティの瞑想録/自由への飛翔:p230/p231:クリシュナムルティ:サンマーク文庫)より引用(一部変作)『自分の反応の全構造を見るという行為は、生きたものであり、それは動いている。そこにはなんら矛盾はない。 けれどもその「見ること」が、かえって構造を増大させることになれば、見ること即生きることよりも、構造の方がずっと重要になってしまう。「見ること」の方が構造の性質よりもずっと大切である。 見るという行為ではなく、構造について学び知ったことの方を重視すれば、そこにこそ矛盾が生まれるのである。そんなことをすれば、見ることと構造について学ぶこととは互いに離れた別々のものになってしまうからである。』
2006年08月11日
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(正法眼蔵随聞記:p190:道元/懐奘:ちくま学芸文庫)より引用(一部変作)『仏の教えを読むときも、文章の技術的な面は知らないで、はじめから道理を理解していけば、それでよいのである。 自分で法語などを書くにも、文章の法に合うように書こうとし、文章の響きをととのえようと考えこんだりするのは、よけいなことを知っている罪である。 言葉や文章はどうであっても、考えているとおりの道理をくわしく書いてあれば、道理さえよく通じていれば、仏道のためには重要なことである。』
2006年08月10日
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(ブッダの言葉/スッタニパータ:p17/p18岩波文庫)より引用(一部変作)『子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。 子や妻に対する愛着は、枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。タケノコが他のものにまつわりつくことがないように、犀の角のようにただ独り歩め。 仲間の中におれば、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。』 これはまあ、ある特定の状況で、ある特定の人たちに向けて語られた言葉なんでしょうけれど、伝えたいことはわかりますが、まあ、伝わりにくい言葉だと思います。 もちろん、核心に触れているとは思いますが。
2006年08月10日
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(現代文/正法眼蔵1:道元:p74:河出書房新社)より引用『心が融ける日がある、砕ける時がある、微妙を極める時がある。 ただ己の脚にまかせて学ぶのみである。それは誰も見ることがない。 全力を奮って学ぶのである、次第にその力はついてくるのだ。このとき、十方にあると見えた壁は落ち、四方にあると見えた門は姿を消す。』(原文対照現代語訳 道元禅師全集 第一巻 正法眼蔵1:p146/147:春秋社)より引用『溶けて万物と一体となる日もあり、くだけて一つ一つすべて真実となる時もあり、極微(ごくみ)という人間が区別しうる最小の単位にまでゆきつく時もある。 赤脚(はだし)で走りまわって、(自己の精一杯を)学道するのであり、(その様子を)誰が眼をつけて看るであろう(見物人なしである)。 翻筋斗(とんぼがえり)して、学道するのであり、その修業のそれぞれに、他(自己の真実と万法の真実)に随ってゆくのである。この時、さえぎる壁はすべてなくなり、東西南北四維上下の真実を今ここに学ばさせることになり、四面を隔てる門はなく、全体真実にあることを学ばさせるのである。』「上記二つの訳の、原文」(道元禅師全集 第一巻 正法眼蔵1:p146:春秋社)より引用『とくる日あり、くだくるときあり、極微(ごくみ)にきはまる時あり。 赤脚走(シチきゃそう)して学道するなり、たれか著眼看(ぢゃげんかん)せん。 翻筋斗(ハンきんテウ)して学道するなり。おのおの随他去(ずいたこ)あり。このとき、壁落(へきらく)これ十方を学せしむ、無門これ四面を学せしむ。』
2006年08月09日
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(生と覚醒(めざめ)のコメンタリー1:p79:クリシュナムルティ:春秋社)より引用(一部変作)『現在が、明日ではなく今が、至高の重要性を持っている。「あるがまま」は、明日が消え去ることによって、初めて理解(知覚)されうる。「あるがまま」を理解(知覚)することが、現在に直接、変容をもたらす。』 明日とは、過去である。
2006年08月09日
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(和尚タイムズ アジア版 vol.9:p40:和尚/OSHO:市民出版社)より引用(一部変作)『過去からも未来からも重荷を負わされてはいけない。 もはや過ぎてしまった物事やまだ訪れていない物事に思いをめぐらすことで、この瞬間を浪費してはいけない。』
2006年08月08日
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これはとても奇妙な表現だし、勘違いされるだろう表現なのだけれども、瞑想にきれいに入ったときには、「たった今ここで死んだって、まったくかまわない」と理解(実感)します。「たった今ここで死んだって、まったくかまわない」というのは考えであって、考えが頭に流れるのは瞑想ではない、と言われれば、それはそうなんでしょうけれど、瞑想にきれいに入ったとき、これはいったいどういう状態なんだろうと、考えるともなく考えてみる、というか、まあ、実感しているのは、言葉にすると、「たった今ここで死んだって、まったくかまわない」ですね。 日常生活に瞑想を持ちこむことで、「たった今ここで死んだって、まったくかまわない」とはとても考えられない時間を、大幅に、もしくはほんの少し、減らせると(瞑想がうまくいったときの感触を通して)考えて(感じて)います。
2006年08月07日
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瞑想という立場から見れば、日常生活における体のひとつひとつの動きは、ダンスです。 瞑想にきれいに入っているとき、この見事な夢の中では祭りが起こりつづけていて、体は軽やかに踊っています。
2006年08月06日
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(和尚タイムズ アジア版 vol.9:p6:和尚/OSHO:市民出版社)より引用『深刻さは病気だ。深刻である必要は少しもない。』
2006年08月04日
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僕は長い間、人生において、深く関わる価値があるのは芸術だと思いこんで過ごしてきました。 ところがあるときから、生きているからには関わらなくてはならないのは芸術ではなく、瞑想だと思うようになりました。 そして今思っているのは、美術としては、瞑想が最高の芸術だし、音楽としては、いわゆる「音楽」とは音の捉え方がまったくちがうのだけれど、瞑想が最高の音楽だろうし、文学としては、これまたいわゆる「文学」とはまったくちがって、「言葉の無い文学」ということになってしまう(意味を成さない定義ではありますが)のだけれど、瞑想が最高の文学だということです。 ということで、長い道のりの末、結局のところある意味では始めに戻ったわけで、深く関わる価値があるのは「瞑想という芸術」だということになりました。
2006年08月03日
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(和尚タイムズ アジア版 vol.9:p5:和尚/OSHO:市民出版社)より引用『どうしてそんなに、考えることにエネルギーを注ぎこむのだろう? これまでの長い人生で、それが何を生み出したというのだろう? まさに時間の無駄ではないだろうか。』
2006年08月02日
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瞑想は、色や形を直接体験できるので、美術的な面から見れば、その最高の形式だろう。
2006年08月01日
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