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気づく試みをしているうち、気づきの仕組みにも、いっそう気づいていく。 気づきの仕組みといっても、「たんに気づいている」というだけ(もちろんこの単純さを把握するのが難しいのだけれども)のことである。 気づきの仕組みがそれなりに身にしみてくると、やがて、気づいているうち恍惚感がやってくる。 体調がよければ、気づきと恍惚感は同時である。 そのためにも、充分な睡眠、適度な運動、暴飲暴食をしないこと、といった生活が必要なんだろう。 恍惚感が目的ではないにせよ、恍惚感は、日常生活を元気に生きるエネルギーを与えてくれる。
2006年10月31日
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近所の流行っていないうどん屋さんを通りかかったら、閉店していて、段ボール紙の切れ端のようなのにマジックで書かれた「近日 新装開店」の広告がほよほよと揺れていて、そこには、なんと「ドッグカフェ」と書かれていたのでした。 内容を読むと、「犬もいっしょに入れます。うどんを食べながら、愛犬と共に楽しいひとときを」と書いてありました。 うどんなのにどうしてカフェなんだろう? ああ、それにしても、うどん屋さんに犬が入ったら「ドッグカフェ」になるのはすごいな、と感心しました。 でも、このうどん屋さん、またたぶん・・・ドッグカフェ2につづきます。
2006年10月30日
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僕たちは、ほとんどの場合、相手が目の前にいる瞬間、目の前にいる相手に気づいていない。 相手の過去の言動やイメージを持ちこんで相手を判断してしまい、目の前の相手に気づいていない。 反省するに、僕自身、その瞬間目の前にいる相手に、いかに気づいていないかは、ひどいものである。
2006年10月30日
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ある泥棒がいて、ナーガールジュナ/龍樹に、「自分は泥棒なのだが、真理を教えてほしい」と頼んだところ、「ずっと気づいていなさい。泥棒をしているときも、そうでないときもずっと、心の動きや外で起こっていることを観察し、気づいていなさい」と教えてくれて、泥棒は半信半疑ながら試してみたところ、いつのまにやら泥棒することができなくなってしまい、そのかわり、ある種の法悦を得てナーガールジュナに弟子入りした、というような話を読んだことがあるのですが、読んだときには、何だかとても面白い話ではあるけれども、いったい何が言いたいのか、不思議な気がしたものでした。 今考えてみると、ナーガールジュナは泥棒に瞑想を教えていたわけで、それに、その泥棒もまたすごい泥棒で、というより、ナーガールジュナに話を聞きに行った時点でもうすでに生き方の変化を求めていたわけでしょう。 僕たちもまた、ナーガールジュナに、「自分は何々なのですが、真理を教えてほしい」と頼んだなら、「何をしていてもいいけれども、ずっと気づいていなさい」と教えてくれるのでしょう。
2006年10月29日
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(自己の変容:p218:クリシュナムルティ:めるくまーる)より引用『あなたにできることは、ただ見ることだけです。 見るための英知を育むことはできません。 見ることは英知の育成ではありません。 見ることは英知や幸福や不幸よりも重要なのです。 見るか見ないかのどちらかです。 そのほかのものは、幸福であろうと、不幸や英知であろうと、ただの言葉にすぎません。』
2006年10月27日
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引き続き、きょうは、ulandさんの詩を紹介します。 初めて見る僕の顔街を歩いていると 皆初めて見る同じ顔初めて見る顔なのに 見覚えがあるのだ気がつくと 初めて見る僕の顔
2006年10月26日
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(しなやかに生きるために/若い女性への手紙:p50:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用『適度に体操し、熟睡し、有意義な一日を過ごすこともまた重要です。が、人はいともたやすく日課にはまり、安易な自己満足のパターン、みずから課した正しい行動のパターンに則(のっと)って行動するようになります。こうしたすべてのパターンは必ずなしくずしの死に行き着くのです。 これに反して、なんの強制も恐怖も比較も葛藤もなく、単に気づいている状態で充実した一日を過ごすことは創造的に生きることです。』
2006年10月25日
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きょうはすてきな詩の収穫日です。Eiliさんもまた、光の中で広がる世界というすてきな詩を書かれていますので、紹介します。 『光の中で広がる世界』 都会のビルの森の中で 一人だけのひっそりとした 空間を見つけ出し 軽く瞼を閉じ 息を静かに吐き 脳内に落ちてくる 水滴のような光の粒子の音を聴いていると 僕は気付かされる… 僕自身が周囲に溶け込んでゆくのを 魂がむしろそれを望むかのようにして 浸透してゆく世界を そして…満ちるのだ 何度か訪れる この奇妙な感覚に 僕は漂う 静かな空間の微細な音や息吹さえも 自分の中に浸透し 充満してゆく 僕のなかに世界が入り かわりに 僕自身は世界に溶け出してゆく すると解るのだ 僕があなたと違わない理由を 君も僕も同じであることを その差異に 視点の違いが生じている意味は 観察…という触手 つまりすべてが自分自身であり 同時に全体の一部である 大いなる全体の小さな触手の宿り主が 僕たちなのだと
2006年10月25日
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天使さんが僕の書いた詩のようなものにたいしてコメント欄に書いてくれたすてきな詩がありますので、あらためて紹介します。 大きな木何年も 何十年も 何百年も同じ場所にいる 大きな木その木には 鳥たちが ひと休みしたり人や動物が日差しから避けるために集まったり虫たちが巣を作ったりするそして 時には何も言わなくて ただ聞いてくれるだけの木そんな 木を見ていると優しい気持ちになれる。知覚するのでもなく認識するのでもなく自我もないあるのは自分と木が一つになった瞬間だけ
2006年10月25日
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【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】 見ているわけではない。 色形が私である。 見ている私はいない。 聞いているわけではない。 音が私である。 聞いている私はいない。 考えているわけではない。 言葉が私である。 考えている私はいない。
2006年10月24日
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【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】 死について考えているときもまた、その瞬間、「死について考えている」という「知覚/認識」だけがあるわけで、ようするに、「Aについて考えている」瞬間、その「A」がその瞬間、「死」だということだ。「死」も「机」も「水」も「青」も「無」も「すべて」も平等である。
2006年10月23日
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脳は「知覚/認識」をもとにした「実感」を作り出す。 そこには、瞑想的でない「実感」があり、瞑想的な「実感」がある。 瞑想的な「実感」というのは、「気づき」によって作り出せる。 人生を楽しむため、どちらの「実感」も使えばいい。 ただ、「実感」を変えれるという「実感」は、自分で実験して確認してみないことには納得できない。
2006年10月21日
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【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】「ぼくの人生の目的は何だろう?」と思う瞬間、「ぼくの人生の目的は何だろう?、という思い=ぼく」であって、それとは別に「思っているぼく」がいるわけではない。 そして、「意識のひろがり」だけになったとき、そこには「ぼく」「人生」「目的」「瞬間」「脳」「知覚」「認識」といった言葉の入りこむ場所はどこにもなくて、たんにここが極楽というのが、ありありとしている。
2006年10月21日
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【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】をわかりやすい表現にすると、こんな表現にもなるのではなかろうか。『見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。』(ブッダの真理のことば・感興のことば:p242/p243:岩波文庫)より引用
2006年10月19日
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(生と覚醒(めざめ)のコメンタリー1:p94:クリシュナムルティ:春秋社)より引用『見る者と見られるものの現象は、二元的過程ではなく、単一のものである。そしてこの一元的過程の事実の刻々の体験においてのみ、願望、葛藤からの自由がある。』
2006年10月19日
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クリシュナムルティが「愛」について語る(語りえないものとして語る)とき、そこには「真なるもの」を感じます。 ところが、和尚/OSHOが「愛」について語るときには、どことはなしに(気のせいかもしれませんが)、ある「攻撃性」のようなものを感じます。 それは、和尚/OSHOを批判している本(半分くらいは嘘らしいのですが、半分くらいは実際にあったことらしいのです)で書かれている和尚/OSHOの(非難すべき)姿とも関連しているのだと思います。 ちなみに、クリシュナムルティは和尚/OSHOのことを「犯罪者」と言っていた(たぶん)とのことです。 かといって、和尚/OSHOの本の「ある種のすばらしさ」には変わりはないのですが。
2006年10月19日
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「神の啓示」というのは、言葉を認識としてではなく、知覚として感じたとき、そう表現されるのだろう。 人は、認識は自分の内側の出来事であると感じやすく、知覚は自分の外側からやってくるように感じやすいので、ある言葉を知覚として感じるとき、その言葉は外側からやってきたかのように感じるのだろう。 外側から降ってきたかのように感じる言葉にたいして、それは「神の啓示」であると、内側の自分が認識するのだろう。
2006年10月18日
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僕は根本的にまちがっているのかもしれない。「言葉」と「言葉ではないもの」に分けること自体が、根本的なまちがいかもしれない・・・
2006年10月16日
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子供の晩御飯を買いに出かけていて、風が心地よく、空を見上げたら、ふと、「風と光と二十の私と」という、坂口安吾の小説の題名が浮かびました。 で、どうして「空」や「雲」が入ってないんだろうなあ、と思いましたが、「風と光と二十の私と」という3つの並び方は、あまりにも美しいので、残念ながら、「空」や「雲」は入ることができないのだと、いや、もうすでに、「風と光と二十の私と」のなかに、「空」も「雲」も「月」も「星」も、すべて入っているのだと気づいて、うっとりしました。
2006年10月16日
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(自己の変容:p144:クリシュナムルティ:めるくまーる)より引用『生の全体は一瞬一瞬にあります。一瞬一瞬が挑戦なのです。』
2006年10月16日
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喜怒哀楽の「怒哀」と「喜楽」とは質が異なるような気がします。 言葉と、言葉で表そうとしているものとは、つねに異なるわけですが、ぼくの感じとしては、怒りや哀しみは「感情」で、喜びや楽しみは「感覚」のような気がします。「感情」は「認識」のような気がします。 喜びや楽しみも、「認識」の要素が大きくなると、「感情」になってしまうのだと思います。
2006年10月15日
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せきらんうんさんへ。 生きているのだけれども、何らかの事情で、このブログに書きこむのはやめよう、と決められたのでしたら、もちろん、それはそれでまったく問題はないのですが、できましたら、生きておられるのであれば、このブログのどこでもかまいませんから、生きていますよ、とだけ、書きこんでいただければありがたいのですが・・・よろしくお願いします。
2006年10月15日
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「瞬間ごとの知覚/認識」は無限なので、全部(部分の全て)に気づくことはできない。 ただ、部分は全体とつながっているので、というより、部分と全体の区別なんて、じつのところないのだから、「あるひとつの知覚/認識」に気づくことは、全体に気づくことになる。
2006年10月15日
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どうしたら幸福感がやってくるか? 幸福感は感じであって、理屈ではない。 幸福感は「知覚」であって、「認識」ではない。「認識」はその根に「知覚」がある。「認識」が単独で存在することはない。【私=瞬間ごとの知覚/認識】「認識」に気づくことによって、「認識」が、その根である「知覚」へと置き換えられてゆく。【私=瞬間ごとの知覚】 そのとき、ふいに、幸福感がひろがっている。
2006年10月14日
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たった今の「知覚/認識」に気づけば、そこには恍惚感がある。
2006年10月14日
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「瞬間ごとの認識=私」と気づく作業は、「認識」を「知覚」に近づける行為になっている。「すべてはひとつ」「ワンネス」というのは、「認識」がすっかり「知覚」に置き換えられて、「認識」の落ちた状態と思われる。
2006年10月13日
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以下のことが、ほとんど無意識に自動的に起こるようになればいいわけですが、それはほとんど不可能なので、まずは、ひとつひとつ確認してゆくしかないのでしょう。 Aが起こる。 Aが起こっていることを知覚/認識している「私」がいる。(この時点では、「Aが起こっていることの知覚/認識」と、それを観察している「私」とは別であるかのように考えています) まあ、ここで、僕の場合は【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】を使うわけです。「私」とは何か?「私」とは、「瞬間ごとの脳の知覚/認識」である。 Aが起こっていることを知覚/認識している瞬間、「Aが起こっていることの知覚/認識」が「私」です。 その瞬間、じつのところ、「Aが起こっていることの知覚/認識=私」だけがあるわけで、それを観察している「私」はいません。 すると、「Aが起こっている」ばかりで、それにたいしては、物理的な、事務的な対処のほか、心理的には何ひとつ「問題」はありません。 心理的に「問題」がないとなると、心理的な「葛藤」もありません。 心理的に「問題」「葛藤」がないとどうなるか? 心理的に空っぽになって、そこには「無」があるのか? ふいに、驚いたことに、そこには「喜び」「祝福」があります。 それは「奇跡」です。 Aは何であってもかまわないわけですから、すべては「祝福」「奇跡」です。 とまあ、こういった機序が、ほとんど思考抜きで、ほとんど言葉抜きで、ほとんど自動的に行われればいいのですが、そんなことはほとんど無理なので、これらの機序が、できるだけ速やかに行われるよう、まずは「Aが起こっている」と気づくことが大切なのでしょう。
2006年10月12日
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【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】「Aという思い」を持つ瞬間、「Aという思い=私」なので、それとは別に、「Aという思い」を持っている「私」はいない。 すると、そこには葛藤や問題はない。 じゃあ、そこには何もないのか? そこは空っぽなのか? いや、ある。 なんと、驚いたことに、そこには、「奇跡」「祝福」がある。
2006年10月11日
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「見る自由」「聞く自由」というのは、見たいのに見れない、聞きたいのに聞けない、といった状態とはまったく別のことである。「見る自由」「聞く自由」というのは、「たった今、見えているものを見る自由」「たった今、聞こえているものを聞く自由」である。
2006年10月11日
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「すべてはひとつ」というのは、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】が全開して、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】から思考が落ちて、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】の全体を、言葉抜きでいっきょに感じれたときの、至福の状態だと思われる。
2006年10月11日
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僕はこれまで、クリシュナムルティの言う「気づいている主体なしの気づき」というのが、頭では何となくわかるような気がするものの、まったく実感はありませんでした。 ところが、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】を使ったとたん、納得しました。「脳の知覚/認識」とは、「気づき」です。「瞬間ごとの脳の知覚/認識」とは、「瞬間ごとの気づき」です。「私=瞬間ごとの気づき」があるだけで、そこには「気づいている私(気づいている主体)」はいません。 これでは、ただ、言葉を置き換えているだけの屁理屈に見えるかもしれませんが、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】は実感できるので、言葉を置き換えることによって、「気づいている主体なしの(瞬間ごとの)気づき」を理解することができます。【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】より、【私=瞬間ごとの気づき】のほうがシンプルでいいかもしれませんね。 ああ、でも、やっぱり、「瞬間ごとの気づき」というのでは、どうしても僕にとっては抽象的で捉えにくいですね。 僕の場合は、「瞬間ごとの脳の知覚/認識」なら、具体的でリアルな物として実感できます。 これでは、言葉に囚われているだけのようにも見えますが、「これでは、言葉に囚われているだけのようだ、という思い=私」と実感するには、今のところ【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】が、僕にとっては便利です。 いつの日にか、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】という言葉抜きでたんに「実感」できるときが来るかもしれませんね。楽しみにしています。
2006年10月09日
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「Aさん」とは何か?「私」が「瞬間ごとの脳の知覚/認識」であるばかりでなく、「Aさん」もまた「瞬間ごとの脳(A)の知覚/認識」である。 ああ・・・まったく・・・
2006年10月08日
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空を見る人
2006年10月08日
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【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】「思考者」を想定した瞬間、「思考者を想定した思考」が「その瞬間の思考=私」である。 そこには、その瞬間、「思考者を想定した思考」があるだけで、「思考者を想定した思考」のほかに「思考者」がいるわけではない。「瞬間ごとの知覚/認識」は「者」ではない。
2006年10月07日
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「願うことなかれ、厭うことなかれ」(道元)だなんて、そんなの一時的にしかできないよ、と思うのです。 でも、気にかかる。 そこで、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】の登場です。「願うことなかれ、厭うことなかれ、だなんて、無理だ」と思う瞬間、「願うことなかれ、厭うことなかれ、だなんて、無理だ、という思い=私」だと気づくこと。 すると、そこには「願うことなかれ、厭うことなかれ、だなんて、無理だ、という思い」だけがあって、それについてあれこれ考える「主体としての私」はいません。 すると、もう、そこには問題は見つかりません。
2006年10月05日
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クイズです。 Aさんが、Bさんに送りたい情報を箱に入れ、南京錠をかけて、Bさんに送ります。 そして、その情報を知りたいCさんがいます。 送る途中、Cさんが箱を手に入れる可能性はありますが、南京錠や箱は壊れないこととします。 南京錠の鍵を送ると、Cさんが途中で手に入れてしまう可能性があります。 では、AさんとBさんは、どうすればいいでしょう? AさんとBさんが直接会って手渡す、というような方法ではありません。箱は送ります。 問題文を、もっとわかりやすく、整理(変更)してみます。 Aさんが鍵屋に行って、南京錠を買ってきます。Aさんは箱に南京錠をかけ、Bさんに送ります。ただし、南京錠の鍵は送りません。 箱を受けとったBさんは、どうすれば箱を開けることができるでしょう? AさんとBさんが直接会う、とか、ほかの人に鍵を運んでもらう、といった「なぞなぞ」ではありません。
2006年10月04日
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【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】「不必要な思考を落とすなんて無理」と考えたとき、「不必要な思考を落とすなんて無理、という考え=私」だと気づけば、「不必要な思考を落とすなんて無理」という表現にさほど影響されなくなる。うまくゆけば、「不必要な思考を落とすなんて無理」という表現が意味を失う。
2006年10月04日
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もちろん、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】も言葉による表現にすぎないのだけれど、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】というのが指し示している「事実」は、「ありのままを見る」「考えるな、在れ」「たった今ここ」「これ、これ、まさにこれ」等と同じ「事実」だと思っています。「ありのままを見る」「考えるな、在れ」「たった今ここ」「これ、これ、まさにこれ」等とくらべて、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】は見劣りのする、いかにも「知的」というか、「偉そう」な、「単純じゃない」「いやらしい」表現だとは思いますけれど。 これまで僕は、「たった今ここ」なんかを、いかにもわかったつもりで使ってきましたが、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】が僕にもたらしてくれた「切実な感触」を与えてはくれませんでした。 いや、ちがいますね、与えてはくれたのだけれども、与えてくれるときと与えてくれないときがありました。いや、それもちがいますね、いつも与えてくれてはいるのでしょうけど、僕にはそれを感じとることができるときとできないときがありました。 今のところの僕にとって、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】はものすごく有効です。 そして、「事実の表現」として、僕の役に立っているからには、「誰か」の役にも立ちうると思っています。
2006年10月03日
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個々の行為や認識に問題があるのではなく、「行為/認識」に気づいていないことが不具合をもたらす。「行為/認識」に気づいておれば、行為や認識の複雑なところ(自分で勝手に複雑にしてしまったところ)が落ちていって、単純になる。もしくは終わる。
2006年10月02日
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なんでこんなブログなんてやってるんだろう?(現代文/正法眼蔵5:p168:道元:河出書房新社)より引用『知らねばならぬ、この世のあらゆるものや事象はみな珍らかな宝である、それらはことごとくお前に任ねられているところから、お前自身がそれを仮にも実にも用いるのだ。』 そうだよね、これはもう、生きてることの、お祭りだよね。
2006年10月01日
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ぼくにとって【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】という表現を使う「今のところの目的?」は、葛藤をなくすこと(これは個人的には、今のところかなり有効です)ですが、ときには、それにともない、それを「目的」としているわけではないのですが、いつのまにやら「世界全体が無意味に色めく」という「知覚の変化」が起こりやすくなっています。
2006年10月01日
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