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(人生をどう生きますか?:p44:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)(一部変作)『模倣への欲望は、私たちの生活を左右します。 私たちは独立した思考や感情を、ほとんど持ちません。』
2009年01月29日
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(しなやかに生きるために:p3:クリシュナムルティ:大野純一(訳):コスモス・ライブラリー)より引用『生は不思議なもので、実に多くのことが不意に起こってくる』
2009年01月27日
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第二次大戦後、ベルリンはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって分割占領され、西側3か国占領地域はソ連占領地域(東ドイツ)の中に位置する「飛地」西ベルリンとなった。西ドイツ本土と西ベルリンは空路または直通専用道路で往来が可能だったが、形式的には西側3か国の管理下に置かれたため、西ベルリンの空港への乗り入れは、米・英・仏の航空会社のみが認められ、ルフトハンザの乗り入れは禁止されていた。
2009年01月27日
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ぼくらはどうして、ありもしないこころの穴を作り、その穴を埋めようとするのだろう?
2009年01月25日
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私のことをまったく知らない「もうひとりの私」を設定する。そして、私と「もうひとりの私」を入れ替える。すると、「もうひとりの私」としての私は、入れ替える前の「私」のことをまったく知らないので、「私」の思考についてまったくわからない。それどころか、どこの誰かも知らない「私」のことにまったく関心はない。
2009年01月25日
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(人生をどう生きますか?:p40/41:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)(一部変作)『まっ先になすべきことは、なぜあなたはある特定の方法で考えているのか、なぜある特定の仕方であなたは感じているのか、ということを見いだすことです。』
2009年01月25日
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私たちはつい、こころの穴のところに、「いい気分」であれ「いやな気分」であれ、放りこもうとしてしまう。 じつのところ、こころはひろがりで、穴なんてないというのに…
2009年01月25日
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(クリシュナムルティの教育・人生論:p43:大野純一(訳):コスモス・ライブラリー)より引用『もし二人の人間の間に真の関係があれば、つまり二人の間に共感があれば、そのときには孤立はなく、愛があり、責任も義務もありません。 義務や責任を口にするのは、自分の壁の奥に孤立している人々です。』
2009年01月25日
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質問者「だけど、長年にわたり深く悩んでいる人なら、いくらでもいると思いますけど」深く悩んでいるだけではだめなんだろうけど、深く悩んでいる最中か、そのあとにせよ、「考えない」試みをその人がやるなら、そのときには自覚していないにせよ、「頭に言葉が流れなければ悩みようがない」ということに、何とはなしに気づいているのかもしれない。こころの仕組みを理解しようという意図を持ってなくても、「心理的な悩みは言葉が紡ぎだしている」ということに気づいてゆくのかもしれない。結局のところ「目の変化」が起こったからといって、頭に言葉が流れなくなるわけでもないし、悩みがなくなるわけでもない。ただ、「目の変化」が起こる前には、その人は「考えない」試み、「悩まない」試み、なんかをためしていた可能性が高いと思う。「目の変化」が起こってしまえば、頭に言葉が流れていようと、悩んでいようと、見えるものはきれい。
2009年01月25日
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(クリシュナムルティの教育・人生論:p37:大野純一(訳):コスモス・ライブラリー)より引用『私たちのほとんどは頭で生きており、言葉を糧に生きており、そして言葉は精神のものなので、私たちのほとんどは創造的ではないのです。 私たちは言葉に囚われ、新しい言葉紡ぎと古い言葉の再整理にとらわれているのです。』
2009年01月24日
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(さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(The Power of NOW):エックハルト・トール(著):p16:徳間書店)より引用『ふだん見慣れているはずの部屋なのに、それまで、そのほんとうの姿を見ていなかったことに気づきました。目に映るすべてのものが新鮮で、生まれたばかりのようでした。手当たり次第に、そこら中のものを拾いあげてみました。えんぴつ、空っぽのビンなど、あらゆるものに息づく生命と、その美しさに、ただただ驚くばかりなのです。』
2009年01月24日
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しかしながら、いくらがんばって「考えない」試みをしても、「考えない」試みの最中に「目の変化」が起こるとは思えない。質問者「じゃあ、いつ「目の変化」は起こるんですか?」わからない。いったいどんな行為の組み合わせが「目の変化」を引き起こすのか、わからない。だけど、「考えない」試みは必要なように思える。質問者「ほかに必要な試みは?」これは試みじゃないけど、数年に渡る悩み、というのも必要だと思う。それは個人的な悩みかもしれないし、存在とは何か、みたいな悩みかもしれない。ただし、悩みといっても、知的なだけの悩みじゃだめで、身心の深いところでの悩みが必要だと思う。
2009年01月21日
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質問者「だけど、どうして「考えない」と「目の変化」が関係してるんですか?」簡単な説明はしたと思うけど、言葉も視覚も脳の働きだ。脳の働きと言っても、脳単独では働いたりはできないから、存在全体というか、世界全体があって、その中に脳があって、全体との関わりにおいて、言葉も視覚も働くんだけど…適当なこと言ってるけど、まあ言いたいことの感じが伝わればいいんだけど…言葉が脳に繁殖し過ぎると、感覚や体が鈍る。言葉が色メガネとなって、目が見えず耳が聞こえない状態になる。ほかの感覚も鈍る。質問者「じゃあ、こうしてしゃべってるのもだめですよね。黙るしかない」それはそうなんだろうけど、どうして黙るしかないのかを頭が理解しないと、なんというか、頭がどうしてもあきらめてくれないというか、手放し状態になってくれないんだと思う。
2009年01月21日
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質問者「何かれかまわず「考えない」を試すって、どういうことですか?」たとえば、道を歩いていて、人が近づいてくるのが見えたとき、「誰か近づいてくる」と考えたと気づいたら、ああ、考えてしまった、だめだだめだ、考えないでいよう、と考える。そして、「考えないようにしようと考えてしまった」と気づいたら…だめだめ、また考えたぞ、といった感じで、どこまで行っても切りのない…質問者「それで? どうなったんです?」どうにもならないけど、そこまで「考えない」にこだわっていると、脳の状態に少しずつではあれ、影響は与えたんだと思う。まあ、一日30分も「考えない」をやると、けっこう疲れたんだったと思うけど。それでも、自主的にというか、すごく興味を持って取り組んでたな。
2009年01月21日
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ぴのきお「「考えないこと」については私もめちゃくちゃ考えました。それは単なる興味からですが、「無心」て、なんだろうって。今考えていることはいつも心のなかにあるわけじゃなく、今あるだけで消えていくものなのに、今あるものを消すだけはできないのかな、って。新たな考えを入れずに消していけば、それでこころは空っぽになりそうじゃないか、とか。でも、消そうとすればするほど、新しい考えがどんどん増えていくようで、不思議なジレンマに襲われていました」「特定の考え」が問題ではなく、何であれ考えを取り込む、というか、考えを欲している「思考の場所」みたいなのが問題なんでしょうね。その「思考の場所」が恐れているのは、その場所が空っぽになること。そして気にならない考えというのはすみやかに消えてしまうので、しばらくは「思考の場所」にいついてくれそうな気になる考え、気がかりが、その場所に引っかかりやすいのでしょう。そうだな、どうせ気にするなら、気の重くなるような考えでなく、いま考えているような、思考をめぐる思考を「思考の場所」に放り込むのがいいのかも。質問者「じゃあ、考えることそのものでなく、何を考えるかが問題なんですか?」おお!ちがいますね!そうそう、あのころ、「考えない」を試みてたころ、何かれかまわず「考えない」を試してましたね。
2009年01月18日
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(瞑想:p67:クリシュナムルティ:星雲社)より引用思考によってつくられていない空間には他者は存在しませんなぜなら あなたが存在しないからです
2009年01月18日
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たったいま自分が消えても何ひとつ問題はない。生きていることをめぐって考えるのも死をめぐって考えるのも自分なので、自分が死んだなら考えることもない。考えなければ問題はない。自分はいずれ確実に死ぬのだから、生きている間に起こっていることは問題ではなく奇跡である。
2009年01月18日
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だけど、ぼくは、「目の変化」が起こる前、「目の変化」に関わるようなこととしては、どんなことをしてたんだろう?質問者「そうですよ、それを教えてください」結果から見て重要だったと推測できるのは、「考えなければ悩まないんだから、考えるのをやめよう」として、考えが浮かぶたびに、たとえばワイパーで排除するみたいに、くりかえしくりかえし考えないようにするんだけど、いくらがんばってもワイパーが通り過ぎたらあっけなく考えが浮かんでいた。質問者「それで、どうなったんです?」どうにもならなかったな。まあ、うまくいったような気がするときもたまにはあったけど、長つづきはしなかった。だから、結果から見て重要だったと推測できることは、うまくゆかなかったにせよ、「考えなければ悩まないんだから、考えるのをやめよう」と試みたことなんじゃないかな。
2009年01月17日
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「目の変化」に興味があったわけではない。そもそも「目の変化」という現象があるということを知らなかった。知らないことに興味を持ちはしない。ただ、「目の変化」が起こった人は、ほかの人にも「目の変化」が起こってほしいと思う。ほかの人に「目の変化」が起こるきっかけとなる、方法なり言葉なり行為なり、「目の変化」に関わりがありそうなことについて、しゃべりたくなる。質問者「目の変化を起こしたいと望んで目の変化が起こった人がいないなら、こうした対話はばかげたことのように思いますけど」うーん…「考えない試み」「無心とは何か?」とかだと、いわゆる瞑想を巡るあれこれになって、はっきりわかっていないことを扱うと収拾がつかなくなる。だから、たとえばかげたことにせよ、知ってることを扱おうと思う。質問者「とにかく、目玉を動かさずにじっと見る、というのを日に何回かやってみます」
2009年01月17日
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なんというか、どう生きればいいかとか、生きるとは何なのか、とか、そういうことについては、とりあえずは扱わず、とにかく「目の変化」を起こす手伝いをしたい。「目の変化」を望む人に、考えないとはどういうことなのかに興味のある人に、こんなふうに生きるのは嫌だと悩んでいる人に、目の変化が起こってほしい。目の変化が起こったあとどう生きるかにかかわらず、「目の変化」は善いことだ。質問者「なんだか高飛車な言い方に聞こえて、敬遠されそうな気もしますが」強い好奇心も必要なのかも。あなたは敬遠しないでしょ?質問者「目の変化だなんてインチキくさい気もしないではないですが、でも、なんとなく何かありそうな気がするものですから…直感ですけど。それに、あなたは本気でしゃべっているような気がする」もちろん本気ですよ。
2009年01月16日
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ぴのきお「私は「棚からぼた餅」的に目の変化が起こったのですが、もしも待ち構えて棚を見上げてたら、ぼた餅は落ちてこなかったと思います。それに、待ち構えててぼた餅が落ちてきたら、それはただのぼた餅です」おお、ぴのきおさんが参加してくれました。ぴのきおさんは、「目の変化」が起こった、ぼくの知ってるただひとりの知り合いです。たしかに、目の変化が起こるのを待ち構えて見つめていても、目の変化は起こらなかったんでしょう。だけど、じゃあどうして目の変化が起こったのかは、ぴのきおさんにもわからないでしょう。質問者「だいたい「棚からぼた餅」的に目の変化が起こっただなんて言われても、何のことかわかりませんよ」たとえば、ぼた餅が棚に乗っているのかどうかについてまったく考えもせずに棚を見上げ、「たなをみあげる」ということばと「棚を見上げる」という行為とは別で、とか考え、こんなこと考えたってしかたないから考えないでいよう、だけど考えないでいよう、も考えだし…それにしても考えないとは何事か、とかやってるうち、ふいに、棚からぼた餅が落ちてくる、という感じかな…質問者「もっとわかりやすく言ってください」
2009年01月16日
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「さみしい」ということばと「さみしい」ことそのものは別である。「さみしい」ということば抜きで「さみしい」ことそのものを見つめようとこころみたら、どこにその「さみしさ」があったのか、見つかりはしない。「さみしさ」が見つからないからには、「さみしい」なんて言わずに…そんなこと言ったって…わかってるよ、言ってるだけなんだから…
2009年01月15日
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質問者「それはそうと、「目の変化を起こしたいという望みは目の変化が起こる邪魔になるのかもしれない」のはなぜですか?」「目の変化」というのは「言葉をさしはさまずに見る」ということと深く関わっていると思うんだ。そして、望みというのは何であれ言葉でできている。「目の変化を起こしたい」という言葉が頭に流れると「言葉をさしはさんで見ている」状態になってしまう。つまり、きちんと見ていない。質問者「「目の変化を起こしたいと考えてはいけない」というのも言葉ですよね?」そうそう、「考えるのをやめよう」というのも言葉なので、「考えない」というのは頭で追求しただけではうまくはゆかないんだけど、にもかかわらず、考えないようにする試みは重要なんだ。しかも驚いたことに、いったん目の変化が起こってしまえば、頭に言葉が流れていたって目の変化は起こりつづけている。どうにもこうにも、頭だけでとらえようとすると数多くの矛盾をはらんでしまうんだ。
2009年01月15日
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(瞑想:p37:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用『生を まったく新しいものとして 見ることができないとしたら 人生は 決まりきった 退屈な 無意味なできごとになってしまいます』
2009年01月15日
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質問者「きちんと見たら「目の変化」が起こるんですか?」そこがねえ…「頭に言葉を流さずにじっと見る」というのが「目の変化」を起こすのに有効な方法だとしても、それだけでうまくゆくとは思えない。いろんな要素が組み合わさって「目の変化」は起こるんだろうけど、どんな要素があるのかは思いつくけど、どの要素とどの要素がどのように関係し合って「目の変化」が起こるのか、わからないんだ。質問者「ほとんどうまくゆかないんでしょうかねえ?」そうかもしれないけど、だめもと、というか、うまくゆかなくったってかまわないんだし、うまくゆく可能性がないわけじゃない。それに、たとえ「目の変化」が起こらなくったって、なんというか、「目の変化」への試みというのは、これまでとはちがう脳への働きかけなので、脳の状態がちょっとでも変化することで、生きること自体が変化して、意外な発見があるかもしれない。
2009年01月15日
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とにかく思いつくところではね、「息を止めて、目に映る物をじっと見る」というを、気が向いたら1日に何回かやってみる、だね。質問者「どうして息を止めるんですか?」ああ、それはね、見るときに頭に言葉を流さないためなんだ。やってみたらわかるけど、息を止めてたら頭に言葉が流れにくくなる。質問者「どうして頭に言葉が流れたらいけないんですか?」物を見るときに、たとえばその物の名前が頭に流れると、その物の色や、形の細部にたいして目が不注意になる。頭に言葉が流れていると、きちんと見ていないんだ。
2009年01月15日
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質問者「目の変化を起こしたいんですけど」うーん、ほかの人にも「目の変化」が起こってほしいんだけど、なかなか難しいというか、目の変化を望んだからといって目の変化が起こるわけじゃない、というか、もしかしたら目の変化を起こしたいという望みは目の変化が起こる邪魔になるのかもしれない、というところがあってね。質問者「じゃあ、無理なんですか?」いやいや、無理かどうかわからない。もちろんあなたに「目の変化」が起こってほしい。そして、あなたは「目の変化」を望んでいる。ということだから、とにかくはじめてみようか。質問者「おねがいします」
2009年01月14日
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目に映る物、すべては美しく、まるで繊細なガラス細工でできてるみたい。動物も植物も、雲も石も人も、触れれば、パリンと割れてしまいそう…
2009年01月14日
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(瞑想:p10:クリシュナムルティ:星雲社)より引用(一部変作)思考が何を追い求め思考が何を恐れ思考が何を楽しみとしているのかをたんねんに調べ 観察し頭がどのように働いているのかを見まもるようになると頭がおどろくほど静かになってゆくことに気づくでしょう
2009年01月13日
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メッセージを送ろうとする困難さ、意味不明さは、いったい何に向かってメッセージを送るのか、なんだけど、言葉で表現されたメッセージは、つかのま生存する人間に向かって送られる。人間を越えてメッセージが伝わることはない。
2009年01月10日
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「思考者が思考である」ので、「私」がAについて考えているとき、「私」=「Aについての考え」である。ところが、「私」がAについて考えるためには、「私」とAとが別でなくてはならない。「Aについての考え」とAとは別である。ところが、Aについて考えていないとき、Aが存在しているかどうかさえ考えない。Aについて考えていないとき、Aは問題になりようがない。思考の対象は、思考しなければ問題になりようがない。
2009年01月07日
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不注意な状態にいること、注意深くあろうとしていないこと、気づこうとしていない状態にいることに気づいたとしても、そこから脳のベクトルを回転させて、注意深くあろうとし、気づこうと試みることは、どういうわけか、けっこう、邪魔くさいことのようにも感じてしまう。がんばるとしたら、努力してはいけないと言われても、努力好きのひとががんばってもかまわないとしたら、そこのところのベクトルの舵取りなんだろう。
2009年01月07日
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見れば、空(くう)と気づく可能性が出てくる。空と気づくまで、観察する。言葉抜きで観察する。頭の中の映像抜きで、頭の中の音声抜きで、見る。
2009年01月06日
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「いま、この瞬間」というのは、時間ではない。もしかしたら、現象でもなく、存在でさえない。「いま、この瞬間」は言葉にするなら「奇跡」としか言いようがない。
2009年01月02日
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