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【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】 瞬間ごとの「脳の知覚/認識」は何かを所有することはない。「私」は何かを所有することはない。
2006年09月29日
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「瞑想状態」とは、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】に気づいている状態である。
2006年09月28日
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【「私」とは、瞬間ごとの「脳の知覚/認識」】という表現を、ある意味、雑なまま使っているわけですが、「私」「瞬間」「脳」「知覚」「認識」といったことを細かく正確に把握(もちろん、そんなことは不可能なのですが)してゆこうとすると、僕にとって、この表現の持つ「実感」がなくなってしまうので、このまま「雑なまま」使ってゆこうと思っています。
2006年09月27日
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【「私」とは、瞬間ごとの「脳の知覚/認識」である。】を使って、クリシュナムルティのいくつかの言葉を解釈してみます。「たえず観察する」というのは、【瞬間ごとの「脳の知覚/認識」に気づいている。】になります。「不注意でない」というのは、「ああ、不注意だったな」と「脳が知覚/認識」した瞬間、【「ああ、不注意だったな」という「脳の知覚/認識」】に気づいているわけですから、不注意でなくなっています。 しかも、【「私」とは、瞬間ごとの「脳の知覚/認識」】ですから、「気づいている私」がいるわけではなく、瞬間ごとの「脳の知覚/認識」だけがたんにあります。 そこには、葛藤の原因となる「分離」がありません。「あるがまま」は、【瞬間ごとの「脳の知覚/認識」】です。
2006年09月27日
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【「私」とは、瞬間ごとの「脳の知覚/認識」である。】というのは、「ぼくの部屋」の「鍵」なんだと思う。 だけど、この「鍵」は「ぼくの部屋」の「鍵」なので、「あなたの部屋」がこの「鍵」で開くわけではない。 だから、ぼくがこの「鍵」で「あなたの部屋」をこじあけようとするなら、それはまちがった行為になるだろう。 それぞれの人が、「自分の部屋」の「鍵」を見つけなくてはならないのだろう。 そしてそれは、【「私」とは、瞬間ごとの「脳の知覚/認識」である。】のように、言葉で表現された「鍵」ではないかもしれない。 だけど、ありがたいことに、「自分の部屋」の「鍵」を見つける「方法」は、クリシュナムルティがしつこいくらいに書いてくれている。
2006年09月27日
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【「私」とは、瞬間ごとの「脳の知覚/認識」である。】を実感すれば、なんと、「過去を振り返って後悔」したって、「後悔」が問題にならないのである。 なぜなら、【「私」とは、瞬間ごとの「脳の知覚/認識」である。】を実感すれば、「過去を振り返って後悔」している瞬間、「後悔=私」だけなので、後悔している私、つまり、「後悔=私」を観察している「主体としての私」はいないのである。 後悔している人なしの「後悔」は、なんというか、それはもはや「後悔」と呼べるようなものではなくなっており、そこには問題は何もないのである。
2006年09月26日
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「私」とは「脳の知覚/認識」である。「誰かある人」とは「脳の知覚/認識」である。 よって、「私」は「誰かある人」である。 人は皆、私である。 誰かが誰かをほめるだとか、誰かが誰かをけなすだとか、人が皆、私なら、私が私をほめたって、私が私をけなしたって、(私が私をほめたりけなしたりすることもあるけれども、そのときには、「ほめる/けなす私」と「ほめられる/けなされる私」とに分離してしまっている)まったく意味を成さない。
2006年09月24日
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「私」とは「脳の知覚/認識」である。「苦しみ」を知覚/認識するとき、「苦しみ」が「私」である。「苦しみ」が「私」であると心の底から実感すれば、苦しみはありえない。 瞬間ごとの「脳の知覚/認識」は一元的であり、そこには、「私」と「私の知覚/認識」という二元化はない。「苦しみ=私」を知覚/認識する瞬間、そこには、「苦しみ=私」と「私」という二元化はない。「苦しみ」による葛藤は、「苦しみの観察者としての私」と、「観察されるものとしての苦しみ」との間の葛藤であるから、「私=苦しみ」すなわち、「観察者=観察されるもの」であるとき、「苦しみ」による葛藤はありえない。
2006年09月24日
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数日前から、「脳の知覚/認識」をめぐって夢中になって書いています。「脳の知覚/認識」というのもまた、言葉にすぎないのだけれど、僕にとっては、この表現を使うことによって、これまでうまく落ちなかったいくつかの葛藤が落ちてゆくという、僕自身の知覚/認識の変化を感じているところなので、僕にとっては、ものすごく役に立つ表現です。 僕にとってこんなに役に立つなら、「誰か」にとっても役に立つ表現なんだろうと思って、「脳の知覚/認識」をめぐって書いています。
2006年09月24日
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「私」は「脳の知覚/認識」である。「観察者」は「観察されるもの」である。 瞬間ごとの「脳の知覚/認識」が「私」である。 瞬間ごとに「観察されるもの」が「私」である。 瞬間ごとの「脳の知覚/認識」のほかに「私」がいるわけではない。 瞬間ごとに「観察されるもの」のほかに「観察者」がいるわけではない。 瞬間ごとの「脳の知覚/認識」は一元的であり、そこには、「私」と「私の知覚/認識」という二元化はない。
2006年09月24日
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「脳の知覚/認識」という表現を使うことで、さまざまなことが、僕にとっては実感でき、腑に落ちてゆく。 瞬間ごとに「脳の知覚/認識」は出現し、消滅する。 世界とは「脳の知覚/認識」である。 よって、【瞬間ごとに世界は出現し、消滅する】 瞬間ごとに「脳の知覚/認識」は出現し、消滅する。 私とは「脳の知覚/認識」である。 よって、【瞬間ごとに私は出現し、消滅する】 瞬間ごとの「脳の知覚/認識」が私である。「中心となる私」「大文字の私」「この私」「私自身」というのもまた、瞬間ごとの「脳の知覚/認識」である。 よって、【すべてが私なので、「中心となる私」はいない】 脳が「A」を知覚/認識する瞬間、「A=私」なのだが、一瞬後には、「A」は「A'」に変化し、脳自体も変化しているので、「A=私」の持続は起こらない。 瞬間ごとの「脳の知覚/認識」は平等なので、すべては平等である。
2006年09月23日
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僕にはこれまで、いくつかの衝撃的な発見がありました。『物が美しいと実感したとき。』『すべての言葉は「作り物」だと気づいたとき。』『目に見えるものにはすべて色があると実感したとき。』『言葉は過去だと気づいたとき。』 そして、今回の衝撃は、『「世界」は「私」である、と言っている人たちの実感に気づいたこと。』です。 クリシュナムルティも、「あなたは世界だ」「世界はあなただ」と、何度も何度も、ときには情熱をこめて、ときには淡々と、事実として、真実として語るわけですが、頭では何となくわかるような気はするものの、どうしても違和感があり、実感を伴いませんでした。 ところが今回、あることに気づいたのです。『「私」とは、「脳の知覚/認識」である。』というのは、僕にとっては、実感があります。すんなり心身が納得します。『「世界」とは、「脳の知覚/認識」である。』というのは、僕にとっては、実感があります。すんなり心身が納得します。 で、このふたつを組み合わせると、『「世界」は「私」である。』『「私」は「世界」である。』になります。『「私」とは、「脳の知覚/認識」である。』というのと、『「世界」とは、「脳の知覚/認識」である。』というのを、同時に実感すれば、『「世界」は「私」である。』というのも実感されます。■「私」とは「脳の知覚/認識」である。「世界」とは「脳の知覚/認識」である。「世界」は「私」である。「あなたがしゃべっている(書いている)こと」を「脳が知覚/認識」するとき、「あなたがしゃべっている(書いている)こと」が「私」である。「あなたの考え」を「脳が知覚/認識」するとき、「あなたの考え」が「私」である。「あなた」を「脳が知覚/認識」するとき、「あなた」が「私」である。「あなた」は「私」であり、「私」は「あなた」である。「地震」が起こった、と「脳が知覚/認識」すれば、「私」は「地震」であり、「地震」は「私」である。 驚いたことに、「自然現象」も「私」である。「知覚/認識されたすべての物事」は「私」である。
2006年09月21日
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(生と出会う:p266:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用『思考者が思考なのです。もしも思考がなければ、そこに思考者は存在しません。 このことは非常に重要です。なぜなら、これが完全に、深く理解されるとき、言葉としてでも理論としてでもなく実際に理解されるとき、そのとき葛藤は終わるからです。』
2006年09月20日
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「脳の知覚/認識」を「私」とみなせば、脳が「世界」を知覚/認識しているわけだから、「世界」が「私」である。
2006年09月20日
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相手が怒っているとき、「私」に何が起こっているのか?「私」というのを、「脳の知覚/認識」とみなせば、脳が「相手の怒り」を知覚/認識しているわけだから、「相手の怒り」もまた、「私」である。
2006年09月20日
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たった今、目に見える色形を見て、たった今、耳に聞こえる音を聞くこと。 思考については、思考が事務的に物事を処理してゆくのを観察すること。
2006年09月19日
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(原文対照現代語訳 道元禅師全集 第一巻 正法眼蔵1:p154春秋社)より引用(原文)『かならず学道の時節なる進歩退歩学道なり。 しばらくの間断(けんだん)あらず。 暦日は短促なりといへども学道は幽遠(いうをん)なり。』(原文対照現代語訳 道元禅師全集 第一巻 正法眼蔵1:p154:春秋社)より引用『(いつでも、)必ず学道(しゅぎょう)の時節(とき)としての進歩であり、退歩である学道(しゅぎょう)である。 少しの間もとだえることがない。 暦の上の日数は短く、さし迫っているが、学道(しゅぎょう)ははるかに奥深いのである。』(現代文/正法眼蔵1:p78:道元:河出書房新社)より引用『かならず学道の時には、進歩あり退歩あり、それが学道である。 学道にはしばらくの間断もない。 暦の日々は短く過ぎ去りやすいが、学道は幽遠である。』
2006年09月17日
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「マントラ」という言葉があるけれども、いわゆるマントラを否定したところで、じつのところ日常くりかえし使う言葉はすべて「マントラ」である。
2006年09月17日
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雨あがり風呂あがり、夜明け前の散歩に行ってきました。 ほんとうに、『この世界は美しいものだし、人の命は甘美なものだ。 人がこの世に生まれたならば、生きているのが楽しいことだ。』 ですね。
2006年09月17日
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(クリシュナムルティの瞑想録/自由への飛翔:p249:クリシュナムルティ:サンマーク文庫)より引用(一部変作)『意図的に何かに関与しようとするのは、断片の中で思考する精神の分別行為であり、そのような思慮分別は思考過程の一部である。 思考は常に分離的なものであって、常に断片の中で機能するものであるから、あなたは全体にたいして、意図的に関係することはできないのである。』
2006年09月15日
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(生と出会う:p208:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用(一部変作)『「無垢(innocency)」とは、傷つくことのなさを意味します。「無垢」をシンボルや観念として捉えては、意味がありません。「無垢」はあなたの精神がどんな出来事によっても傷つかないことを意味します。どんな心理的な緊張、圧力、影響によっても傷つかないことを意味します。』 すごいなあ。だけど、いくらなんでも、そんなの・・・
2006年09月14日
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(生と出会う:p218:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用『世界を、外部の世界をあるがままに、その惨めさ、貧困、堕落、下品さ、野蛮さ、科学の世界、テクノロジーの世界、宗教組織の世界で進行しているぞっとするようなこと、不正、野心、お金と権力も一緒に観察すること、このすべてを個人的な非難の対象にすることも、受け入れたり否認したりすることもなく、それを言語化することもなく、美しいものを見たいと願うこともなく、ただ観察するのです。 そして同じように、内部で進行していること、あなたが考えること、あなたの野心、貪欲さ、あなたの暴力、下品さ、性的なありようも観察するのです。 ただ観察する。そうすれば、そのようにして観察すれば、あなたは自分の貪欲さその他すべてが花開き、死ぬのを見るでしょう。そしてそれは終わるのです。』
2006年09月13日
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(大乗仏典1:善勇猛般若経:p108:中公文庫)より引用(一部変作)『あらゆるものは、欠けることもなく、満ちることもないという、このことばは、あるがままに、妄想もなく、真実を見るということをあらわしている。そこでは、何かを捨てることもできないし、とりいれることもできない。』
2006年09月13日
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(生と出会う:p175:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用(一部変作)『生きた現実(actuality)は、概念とはまったく異なったものなのです。 生きた現実とは、何であれ概念とは何の関係も持たない日常の生活なのです。』
2006年09月13日
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(生と出会う:p194:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用(一部変作)『瞑想とは、「不変のもの」が生の絶えず変化する運動に触れるのを「見る」ことです。 思考は静まっていなければなりません。思考の静まりにおいてのみ、「不変のもの」は思考に触れることができるのです。』
2006年09月13日
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「トラウマ」という言葉があるけれども、過去のどんな出来事であっても、必要もないのに思い出しているときには、それは「トラウマ」になるだろう。 たとえば、どんなに楽しかった思い出でも、「今は楽しくないし、これからもあのときほど楽しいことは起こらないだろう」といったストレスや、「もう一度あんなふうに楽しんでみたい」といった、(現在は満たされていない)願望によるストレスを生み出す。「トラウマ」とは、必要でもないのに過去の出来事を思い出すことによって起こるストレスのことだろう。
2006年09月12日
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物を見るとき、音を聞くとき、「おまえはこれまで、まさにこれを見たことがあるか? まさにこれを聞いたことがあるか?」と心の底から問いかけてみると、驚いたことに、何もかもが、はじめて見る物、はじめて聞く音である。
2006年09月11日
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(原文対照現代語訳 道元禅師全集 第一巻 正法眼蔵1:p153:春秋社)より引用『(自己のほかに天地自然の運行があり、その中の一つとして自己があると考える)自然見、天然見の邪見(間違った考え)を習ってはならない。』
2006年09月10日
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(クリシュナムルティの瞑想録/自由への飛翔:p249/p250:クリシュナムルティ:サンマーク文庫)より引用(一部変作)『「われわれは名づけることなく、何かに自らを委ねたりはできません。そして名づけることは制限を加えることにほかならないのです」 あなたの今言われたことは、たんなる言葉の羅列なのか、それともたった今、あなたが本当に発見したことであろうか? もしそれが言葉の羅列にすぎないのであれば、それは信念にすぎず、それゆえまったく無意味である。 しかしもしもそれが、あなたがたった今発見したところの、まがいもない真理なのであれば、あなたは自由であり、否定のなかにおられるはずである。 虚偽を否定することは言葉のうえの事柄ではない。あらゆるプロパガンダは虚偽であり、人間はシャボンの類から神に至るまで、さまざまなプロパガンダで生きてきたのである。』
2006年09月08日
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(原文対照現代語訳 道元禅師全集 第一巻 正法眼蔵1:p155:春秋社)より引用(一部変作)『究め尽くしてみると、凡も聖もそれぞれ実態は、生死の中のことであるのだから、おそれるべきでない。 そのわけはどういうことかというと、生きていることを捨てたと思わなくても、死はすでに目の前にある。死を捨てたと思わなくとも、今すでに生きている。 生は死をじゃまするのでもないし、死は生をじゃまするのでもない。 生は(生だけであって)死にじゃまされることがないから、(いつも生きている)学道である。』
2006年09月07日
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言葉は「便利な伝達の道具」として使えばいい。「言葉は不便だ」と感じたら、その言葉をやめるか、別の便利な使い方に変えるか、すればいい。 言葉を使う必要のないところでは、使わなくていいのだが、これがもっとも難しい。
2006年09月07日
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暴力的な場面や事故の場面を見て、「暴力には美がある」と言う人がいる。 どういうことだろう? ふだんの日常生活においては無心に観察するということをしていない人でも、暴力的な場面は印象的で人の心を捉えやすいので、無意識的に、「暴力」という言葉抜きに無心でその場面を「観察する」ので、そこに「美しさ」を発見するのだろう。 暴力的な場面が美しいのではなく、何であれ、無心で観察すれば、そこに美しさを発見するのである。 本来すべての場面は無心に見れば「美しい」わけで、ふだんぼんやりして物事を「見て」いないと、暴力的な場面のような刺激によってしか、無心で観察する能力が働かなくなるのだろう。
2006年09月06日
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瞑想に呼吸法というのがあるけれども、呼吸から入るのではなく、「観察」から入るのが自然だろう。 クリシュナムルティが言うように、内側を観察し、外側を観察しているうち(じつのところ内側=外側なのだが)、呼吸のことなどまったく意識していないのに、いつのまにやら呼吸が深くゆったりしたものになっているのに気づいて、不思議に思う。 坐禅についても同じで、坐禅から入るのではなく、「観察」から入るのが自然だろう。 観察しているうち心が静まり、そのとき静かなまま坐れば、そのまま「禅定を楽しむ」状態に入っている。
2006年09月05日
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(原文対照現代語訳 道元禅師全集 第一巻 正法眼蔵1:p152:春秋社)より引用『この人間としての身体は、よしんば自分と他人と別の存在としてあるとしても、尽十方(どこまでいってもはてしない自己である)とはっきり観念し、絶対にそれだけとするのである。 方面は十方面ともに平等の真実であるからであり、世界もまたすべて平等の真実であるからである。』
2006年09月04日
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(クリシュナムルティの瞑想録/自由への飛翔:p247:クリシュナムルティ:サンマーク文庫)より引用(一部変作)『信念と真実とは互いに別々のものであり、信念は束縛に至り、真実は自由においてのみ可能となる。両者はまったく無関係である。それゆえ信念を放棄すれば自由になれるというものではない。 信念からは決して真実は生まれない。信念は恐怖や伝統から生まれる。』
2006年09月03日
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人生とは、寿命という限られた時間内に、「時間のない世界」を理解(知覚)するゲームだとも言える。
2006年09月03日
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いろんな意味で僕はこのブログに、ついつい依存してしまいそうになるのですが、そこのところはあくまでgaMeさんのブログとして、好奇心を持って、新鮮な目で、楽しんでいこうと思います。 これからもよろしくね、gaMeさん。
2006年09月03日
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クリシュナムルティを読む緊張感と恍惚感は、日常生活におけるひとつひとつの行為に、緊張感と恍惚感をもたらす。 もっと正確に言うと、クリシュナムルティが伝えようとしている事実(真実)に気づくことによって、日常生活におけるひとつひとつの行為が至福であることに気づかされる。
2006年09月03日
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(クリシュナムルティの瞑想録/自由への飛翔:p243/p244:クリシュナムルティ:サンマーク文庫)より引用(一部変作)『質問者「依存というのは避けられないもののように思われるのですが。」 おそらくは死を除いて、ほかに避けがたいものなどあるであろうか? 質問者「もし依存が避けがたいものでなければ、私が自分の行動を指示できることになり、それゆえ機械的なものになってしまいます。」 避けがたい過程を「見る」ことは決して機械的ではない。機械的になるのはあるがままのものを見ようとしない精神である。「見る」ことは思考過程ではなく、それは常に新たであり、新鮮で、活動的である。それに対して思考は常に古く、決して新鮮ではない。「見る」ことと思考とはまったく異なった次元にあり、両者は決してひとつになりえない。』
2006年09月01日
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