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「炎路を行く者ー守り人作品集ー」上橋菜穂子 新潮文庫 最後の外伝である。もうこれで終わりなのだろうか、と少し淋しくなった。ヒョウゴの青年期を描いた「炎路の旅人」は、その序章と終章で「天と地の守り人」の第二部最終盤の状況を見せ、15歳のバルサを描いた「十五の我には」では、「天と地の守り人」第三部の序盤の一シーンをも見せた。本篇は、これにより膨らみはしたが、未来は見せていない。未来を見通す眼を見せてくれたのかもしれない。 いまは亡きヨゴ国武人階級「帝の盾」の息子だったヒョウゴは、九死に一生を得て市中で暮らしている間も、自分の居場所がわからない。命を助けてもらった女性に商売人になったら?といわれて反発する。 「タルシュの枝国になっちまったこの国で、そんなふうに根を下ろすってことは、タルシュに征服されたことを納得したってことじゃねぇか!土足で踏み込んできた強盗に、のうのうと自分の家に居座られて、そいつらを食わせるために身を粉にして働くなんて冗談じゃねぇと、なんでだれも思わないんだ?なんで、そんなに簡単に納得しちまうんだ?」 守り人シリーズ通して現れる「異界」、それを見ることの出来る女性は、しかし病気の父親を抱えた貧しい市井の人だった。 ー降っても照っても‥‥ かすかな苦いものをふくんだ、しずかな思いが伝わってきた。 ーわたしらは、ここで生きてきたし、ここで生きていくんだもの。(215p) 枠の中にいる限り、枠の世界は見えてこない。飛び出さねばならない。しかし、それは枠の外のタルシュ帝国に入ることを意味するだろう。それが出来る人間と出来ない人間がいる。ヒョウゴは意を決してタルシュの武人になる道を選ぶ。それは確かに炎路を行くことになるだろう。むつかしい道だったと思うし、具体的にどんな困難があったのかは、本篇で少しは描かれているが、全体像はわからないし、本篇以降のことは更にわからない。ただ、「異界」を見ることの出来る女性のことがずっとヒョウゴの中にある限り、私たちは安心して彼のことを見ていられる。 ナユグといい、ノユークといい、バルサの世界の「異界」について、上橋菜穂子さんは「別の生態系を持った、人や神の意思とは全く関係のない世界です」とテレビシリーズの演出家に語ったらしい。バルサの世界も、我々地球上の現代風に科学が発達すれば、そろそろ「異界」を本格的に解明しているのかもしれないが、中世のこの頃では、むしろ「異界」とは、我々のいう「運命」と云われるものだったのかもしれない、とふと感想を持った。もしそうならば、21世紀になっても未だ我々に目に見えない「運命」は、微かに見える彼らを手本にして、乗り越えていくべきモノなのかもしれない。 2017年2月読了
2017年02月28日
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「弥生時代の集落」弥生文化博物館編集 学生社 平成7ー8年の弥生文化博物館の共同研究を基礎にした論文集。面白い論文が多かったのだが、そろそろ返却期限が近づいてきたので、1番の目的である、松木武彦氏の「吉備の弥生集落と社会」について、まとめと感想を書いて、私の感想としたい。私が考古学に目覚める直前の研究である。この頃から約10年間、弥生時代は重要発見が相次いだ。現代は、それらをキチンと評価すべき時なのかもしれない。 「吉備の弥生集落と社会」 松木氏は、吉備の環濠は、前期に小さなモノが現れるくらいで、「集落の一部を囲んだ施設にすぎなく」防御の機能はおそらく持っていなかっただろうと、推測している。その点で、北九州や近畿・伊勢湾沿岸とは大きな違いがある。なぜそうなのか。松木氏は、「それを要するほどの激しい武力抗争がなかったからだ」という説は大型石鏃や石剣の数からそれを退ける。「むしろ、大河川の三角州のただ中のわずかな高まりに集落がのり、いく筋もの自然流路が網の目のように周囲に広がるという自然条件が、環濠に代わる防御的な役割を果たしたとも想定できる。」(122p)という。 そしてその集落立地が、集落の流動化、そして周溝墓群が発達しない原因にもなったと推測する。その一方で、中期後葉から丘陵上や尾根上で墓がつくられ、「むしろこれが、集団成員による帰属感や一体性を意識させる視覚的・精神的な核となっていった可能性が高い」と見る。さらにはこれらが「青銅製祭祀の排除とほぼ軌を一にして」いるという。「この墓域が当初は首長墓では無く、集団墓として現れるのも重要である。」(みそのお遺跡、総社前山遺跡)つまり、青銅製祭祀の消滅が単純に共同体祭祀から首長墓祭祀へとの移行で始まったわけではないことを示している。つまり、松木氏は「墓の格差」は、社会組織や経済的な階層構造の変化から現れたというよりも、一族の中で傑出した個人が現れたことを記念するところから始まったとみるべきだ、と説く。吉備の地形条件によって墓域を分離する行為が古墳時代に通じるそれらの慣習を引き起こしたのだ、と松木氏は見るわけだ(もちろん、そう結論つけてはいない)。 20年前のこの考察は、しかし重要なのかもしれない。松木氏は述べてはいないが、この大雨によって流動化する集落の在り方が、吉備における龍神信仰を作り、それを止揚した楯築の被葬者という大王が産まれた契機になったのかもしれない。それを準備したののが墓域の分離だったわけだ。 中期から後期にかけて、吉備では、それ迄パッとしていなかった地域が突然輝き始めたという。例えばそれを鉄の交易路の開拓と見ればスッキリするかもしれないが、そう単純ではないのだろうな。 ともかく新たな視点を貰った。 2017年2月10日読了
2017年02月27日
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「私家版鳥類図譜」諸星大二郎 講談社 古本屋でふと手にとった一冊。2000年始めの頃の「鳥」をテーマにした短編集。特に50pの中編「本牟智和気(ホムチワケ)」が素晴らしかった。諸星大二郎の古代漫画は、いつも映画や小説では未だ描かれていない古代を描いているのだが、その描き方は、一旦紙に描かれてしまうと、たとえどんな奇異なことが起きようとも、それしかあり得ないような世界を創造してしまう。そもそも四世紀の日本など、今迄小説にはほとんど描かれない。文献がないからである。 ここで描かれていることは、もちろん「古事記」を下敷きにしているのだが、彼らの服装や巫女の立ち位置、神籬(ひもろぎ)の描写、伯耆の国の砂丘と森との関係などは、ちゃんと考古学的な知見に基づいて描かれているので、とっても説得力があるのだ。 考古学は、たった一つの真実(らしきもの)をいうために無数の事実を積み重ねて無数の小さな定説を築き上げてゆく。漫画や小説は、たった一つのウソを描くために無数の事実を散らばめてゆく。この場合のウソは、本牟智和気の幼児の頃の戦災のトラウマで、魂が鳥になっていたのが、出生の地の出雲に帰った時に魂を取り戻し呆けた純粋な青年が残酷で優秀な皇子に変身する話である。 最後の場面はこのように結んでいる。「古代、人の魂は鳥の形をしていると信じられていた。」(←これは考古学的な知見であり、数々の証拠がある。しかし、諸星大二郎が描いたような形の鳥かどうか、また位置付けもこれで正しいのかは心許ない)「本牟智和気は出雲へ進撃し、目的を果たした。その後大王は、本牟智和気のために、鳥を取ったことに因んで、鳥取(とっとり)部を定めた。伯耆の国(鳥取県)の古代の物語である」(←出典は記紀神話だと思うが、登場人物たちの性格付けはかなり変わっており、侵略者に成る前の本牟智和気を、私は好きである)
2017年02月26日
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「岳飛伝3」北方謙三 集英社文庫 しかし、金国と講和をするなら、梁山泊はどういう国の姿を求めているというのか。物流による支配は、金国も南宋も拒絶する。それでも、染み出す水の流れのように、物流はどこへでも入ってくるのか。 「楊令の理想が、そのまま生きるのか」 「それは、わかりません。自由市場は、闇市ということになるのですから。しかし自由市場は、物流のひとつのかたちに過ぎません。物流はどんなかたちをとることもできるのだ、と私は思います」 「ならば、梁山泊は国を見ていない。人を見ているだけだ。つまり民ではないか。そして民が、揃って豊かになるのか。民のほとんどは、今日のことしか考えていない。結局は、商人が勝手に支配する国ができあがる」 秦檜は、わずかだが酔いを感じた。 「梁山泊と金国との講和、というところまでにしておこうか、許礼。それ以上は、きわめて見えにくい」 「はい、私も見えません」(95p) 当代随一の知識人、秦檜にも見えるはずはなかった。誰も、楊令さえも、見えてはいなかったのだから。しかし流石に秦檜、一瞬とはいえ、現代世界の自由市場の問題点までも見透かしてしまった。ただ、大切なのは「替天行道」に導かれてこの時代にあって「帝を戴」かず「民が揃って豊かになる」道を、梁山泊の人々は夢を見て、未だそこから外れていない。ということだ。空想的社会主義と言えばそれ迄だが、そのためにこの大河物語の中では、何百人という英雄たちが死に、何万人という兵士たちが死んだのである。 黒旗兵の照夜玉は、危惧した通りに胡土児に討ち取られ、大水滸伝一話以来の登場人物九紋竜史進は生を拾う。已に水滸伝以来の英雄たちは11人を数えるばかりであるが、智多星も操刀鬼も退場の日は近い。宣凱、王貴、張朔の成長は著しいが、彼らに何処まで替天行道の志が貫徹するのか、あと14巻を愉しみに辿ってゆきたい。 2017年2月9日読了
2017年02月25日
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23日に「夢のある」ニュースが飛び込んできた。「地球に似た7惑星持つ恒星系、39光年先に発見 生命存在の可能性」というものだ。しかし、これで直ぐに「すわ!宇宙人に会える!」と思ってはいけない。私などは、「地球人のようなひどい星人は少ないのかもしれない。だとすると、出会えるまでに向こうが避けて会ってくれないだろう」などと思ってしまう。記事を読んでみよう。【AFP=時事】地球からわずか39光年離れた銀河系内に、地球に似た7つの惑星を持つ恒星系を発見したとの論文が22日、発表された。太陽系外生命体の探査において、これまでで最も有望な領域を提供する驚くべき発見だという。 英科学誌ネイチャー(Nature)に発表された論文によると、7惑星はすべて地球に近い大きさと質量を持ち、岩石惑星であることはほぼ確実とされる。さらにうち3つは、生命を育む海が存在可能な環境にあるという。今回の発見で最も重要とされるのは、7惑星が地球に近く、主星である赤色矮星「トラピスト1(Trappist-1)」の光も弱いため、個々の惑星の大気を観測して生命活動の化学的痕跡を探すことが可能な点だ。論文を共同執筆した英ケンブリッジ大学(University of Cambridge)のアモリ・トリオー(Amaury Triaud)氏は記者会見で「生命体の発見に向け極めて重要な前進となった」と言明。「これまでは、(生命体を)発見できるふさわしい惑星がなかった。ついに適切な目標を見つけた」と述べた。 1恒星を公転する地球サイズの惑星の数は、トラピスト1星系の7個が観測史上最多。さらに、水が液体のまま存在できる領域内にある惑星の数も観測史上最も多いという。【翻訳編集】 AFPBB Newsこの記事の主眼は、「遂に地球外生命体に出会える」ではなく、「地球外生命の発見を観察する条件が揃った」である。ましてや発見しても、彼らが地球に来る可能性は限りなく低い。それでも地球外生命体が発見される期待は否が応でも高まる。UFOとかいうマヤカシではなく、科学的にきちんとした生命体だ。見つかったならば、次は会うことを望むのはことの順序ではある。例えば、この惑星群のうち、(もしいち早く科学が発達するならば)惑星外へ旅立てる星は、おそらくひとつだけだろう。そしてその星人は、少しづつ少しづつ、隣人との付き合い方を学ぶ星人になるだろう。その星人が星間旅行する時に、果たして星人は「戦争」や「環境破壊」という過ちを引きずっているだろうか。星人は、長い間をかけて「共存」の道を学ぶのではないか。そして、それに成功した星人たちだけが恒星間旅行をも実現し、例えば光の速さの半分の宇宙船を開発したとして、地球にもやってくるのだ。彼らは頻繁に行き来出来ない者との付き合い方を知っている。「ビッグイシュー303号」で池内了氏の言っていたように、たった数十年の間に地球を滅ぼすような戦争や環境破壊を進めてしまった地球人の資質を、おそらく彼らは地球人が原始人の辺りで気がつくだろう。そして「呆れて」二度と地球には寄らない。宇宙は、それ程にも広いのである。害虫には寄らないのに限る。星人交信で、それはあまねく宇宙の知ることになるかもしれない。だとすれば、古代に頻繁に「見学」に来ていた星人たちは、この最も危険な(もしかしたら滅亡までのカウントダウンに入っている)時期には、「絶対渡航禁止」情報が行き渡るだろう。宇宙年表から見れば、ホントに地球の表面上が「アウト」になって来たのは、核兵器が開発され、人口爆発が目の前に迫り、原発が無数に作られ、温暖化ガスが充満して来た、このたった70年間ぐらいだ。人類史で見ても、ホモサピエンス20万年、文明化1万年のうち、ほんの一瞬である。まあともかく奇跡の自力更生があるのを祈りつつ、数百年は「君子近寄らず」を決め込むのが、賢いやり方だろう。
2017年02月24日
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「ゴールデンカムイ」野田サトル 集英社(1-9巻) 2016年マンガ大賞に選ばれたので、いつか紐解かなくてはならないと思っていた。今回9巻をまとめて読む。ホントは買ってから読むかかなり迷って、ここまで読書記録が遅れた。結局ネットカフェでまとめて読んだのだが、未だに買うべきか迷っている。かつてない本格時代劇であり、キチンとアイヌ文化を取材していたからである。 時代は日露戦争直後だから1900年前後と思われる。北海道という、いわば辺境の地である。アイヌの砂金から作った莫大な埋蔵金をめぐって、土方歳三(表紙の3巻)率いる囚人組、鶴見中尉(表紙の4巻)率いる陸軍第七師団、そして不死身の杉元(表紙の1巻)とヒロインでアイヌのアシリパ(表紙の2巻)と幾人かの仲間。三つ巴の冒険を描く。物欲や陰謀、野望にまみれ、終始血なまぐさい描写が続くのに、読み通してしまったのは、人を殺したヒグマはウエンカムイ(悪い神様)になるので食べないと決めているアシリパの存在と、様々なアイヌの知恵がいっぱいだからだ。 埋蔵金を見つけるカギは、アシリパの父親が24人の脱獄囚に施した刺青を解読することだ、という世の冒険物語の王道の設定が先ず描かれる。現在その半分近くが進んでいる。物語の構造はまるで「宝島」である。ジム少年の役割は杉元とアシリパに別れ、シルバーの役割は杉元と土方歳三と鶴見中尉に別れて、先が見えない展開である。それに、毎巻著者も試したというアイヌ料理が出て来て、「ヒンナ、ヒンナ(美味い、美味い)」と食べる描写がつく。一口ぐらいは食べてみたくなる。 自然との共存を目指すアイヌ文化と、近代文明が本格的に侵食して来た20世紀初頭の北海道との摩擦、殺人を禁じていたはずのアイヌ文化と、戦争で人を殺すことに慣れてしまった男たちとの摩擦、相反する二つの文化の衝突も、この作品の魅力であることには間違いないのだが、どう見ても物語はまだまだ佳境には程遠い。 おそらくあと5-8巻は続くだろう。終わった時に、もう一度論じたい。 2017年2月7日読了
2017年02月22日
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「ビッグイシュー304号」ゲット。今回の表紙はジョン・ボン・ジョヴィである。私は全然違うけど、彼のファンならば道端で売っていたならば、何がなんでも手に入れたく思うのではないか。と販売員さんに聞いたら、「そうでもないんです。やはりどんな中身の雑誌か、わからないのが大きなハードルになっているみたいです」とのこと。表紙になっても、ロングインタビューがあるのがわからなかったり、マスメディアに乗らないスターの意外な一面がビッグイシューだからこそ、載っていることになかなか気がつかないから、実数に結びつかないらしい。ジョンがホームレス問題にどういう気持ちで、取り組んでいるのか、この雑誌ならではの言葉があるのである。 特集は、図書館。「にぎやか、問題解決――いいね!図書館」 リード文は以下の通り。子どもからお年寄りまで誰もが無料で使える公共図書館。今、近隣社会の課題解決のための情報拠点や人々の居場所として、にぎやかな活気あふれる場所へと変身しつつある。 地元企業の商品開発の支援などで課題解決型図書館への先駆者「鳥取県立図書館」のやる気。「まちとしょテラソ」(長野県小布施町)は赤ちゃんからお年寄りまでリラックスできる居場所。青少年の専用スペースもあり、"ここに住みたい"といわせる「武蔵野プレイス」(東京)、市民が参加し年200回以上のイベントを開く「伊丹市立図書館 ことば蔵」(兵庫)。震災直後から6万人以上が利用した「走れ 東北! 移動図書館プロジェクト」(シャンティ国際ボランティア会)。そして、吉田右子さん(筑波大学大学院教授)と和気尚美さん(博士後期課程)には北欧の図書館の活躍について聞いた。温かい風が吹く公共図書館。真冬の一日、久しぶりに、あなたの街の図書館に出かけてみませんか? 日本の公立図書館で10数年来館者・貸し出し本数日本一を更新している岡山県立図書館が当然取り上げられるとかと思いきや、さにあらず、独特な取り組みをしている他の図書館にフォーカスが当てられていた。 岡山県でもやって欲しいな、と思ったのは、小布施町立図書館の「読本来福」。セレクトした本二冊の書名を伏せて包装し、共通するキーワード(例えは「古都の女の情念」)を記して「本の福袋」にする愉しみ。そうやって出会う本に、私も出会ってみたい。 デンマークでは、図書館が公民館みたいに「出会い」と「公論」を作る場にもなっているらしい。日本の図書館頑張れ! 2017年2月読了
2017年02月21日
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「DAYSJAPAN2月号」 表紙写真。漠に点在する泉。これらの泉で酸素を生み出すバクテリアは、地球が経験した2度の氷河期と5度に渡る生命の大量絶滅をも乗り越え、38億年前から生息し続けている。白い円形の跡は、泉が干上がってしまった場所だ。バクテリアの生存が危ぶまれている。コアウイラ州、メキシコ。2014年9月10日Photoby David JARAMILLO 今号で最も読ませたのは、福島・大熊町、津波で流された娘を捜して2123日、遂に娘の遺骨を発見した木村さんの記事だ。ホントにこんなに苦労をしてまで、絶対死んでいるはずの娘の痕を見つける意義はあるのか。と私は正直この人の行動を伝え聞いていて思っていた。単なる意地だけではないのか。 しかし、実際に見つかってみると、最後はおじいちゃんと一緒に流されたのだな、マフラーに包まれて冷たい濁流に流されたのだな、と素人他人事ながら推測できる。父親ならばもっともっといろんな情報が頭を駆け巡っているだろう。そして、原発避難地域だからこそ、見つけれなかった経緯がハッキリと確認出来ただろう。捜索に二週間しか与えられていなかった時に、捜索よりも瓦礫の移動が優先されたのだ。それによって夕凪さんの遺体はバラバラになり、その上に別の瓦礫が積み重なっていった。そのことの意味を、私たちは共に考えるべきだろう。 「ヨウ素剤を持とう」という記事も興味深かった。30キロ圏内で配布している所もあるそうだが、まだまだらしいこと。私が去年訪れた松江市では、30キロ圏内であるためか「ヨウ素剤は県庁に取りにきてください」という張り紙があった。しかしそれでも取りに行かなくてはならないのだ。実際事故が起これば、そんな範囲では済まない、事故後では品薄になって手に入れられないのは、明らかである。通販で手に入れる方法が詳しく書かれてあった。60錠入りのビンで約3000円。もしもの時のお守りとしては、適当な値段だと思う。 2017年2月読了
2017年02月20日
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「浜の甚兵衛」熊谷達也 講談社 久しぶりに熊谷達也を読み始めた理由は、仙台出身、仙台市在住の熊谷達也が、明治三陸沖津波を描いたらしい、と情報を得たので、6ー7年前にはかなり愛読していた彼の大震災に対する姿勢を確かめたくて、紐解いたのである。 ところが、先ずはがっかりした。別に三陸津波を正面から描く必要はない。しかし、主人公の人生にその経験は決定的な影響はもたらさなかったのである。これは津波から波及する物語ではなかった。むしろ最終章を読むと、一ヶ月前の大惨事のことを思い浮かべてしまった。もちろん著者とは無関係ではある。ただし、主人公は明るい。あらゆる厄災も乗り越える。これがこの作品の基底を作っている。 そして、最後の著者プロフィールを見て驚愕した。「近年は宮城県気仙沼市がモデルの三陸の架空の町を舞台とする「仙河海サーガ」を書き続けて」いるというではないか。本書は、その七作目ほどに当たっているらしい。 海の男たちの「サーガ」というと、真っ先に思いつくのは中上健次の「紀州サーガ」である。時代も少し被っている。しかし、読めばわかるが、ここには中上健次と対極の世界観が広がっている。登場人物たちに部落出身者は1人も見当たらない。子どもは、ウノコ竹の子のように産まれはせずに、複雑な家系図は必要ない。必然ドロドロした確執は、あまり描かれず、甚兵衛に至っては、あまりにも順調に成功してゆく。 どうもこの「浜の甚兵衛」は、仙河海サーガの始まり部分に当たるようだ。彼らの関係者がどのように絡んでいるのか。古事記から始まる日本のサーガの行く末を見守りたい気分に今、非常に思っている。 2017年2月読了
2017年02月19日
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毎月労働組合の機関誌に投稿している映画評の今月は、台湾旅の成果を活かして「KANO」にしました。記事の下に、投稿時には載せることのできなかった八田與一像の写真を付け足しました。「KANO 1931海の向こうの甲子園」 この年末年始に台湾を旅して来ました。同じ植民地だった韓国と比べて台湾に何故親日家が多いのか。それは政治上の問題だけでなく、他の理由があることをこの旅でつかんで来ました。そしてこの映画でもやはり同じことを描いていました。 私は、この作品では大沢たかおが演じている八田與一の墓と銅像がある鳥頭山ダムに行きました。嘉南平野の灌漑事業を指導して、台湾最大の穀倉地帯を作った立役者です。彼は台湾・日本人を差別なく待遇し、台湾で最も尊敬される日本人になっています。私の見た彼の銅像は1931年に完成し、戦中の金属供出の命令時には住民が隠し、国民党政権の破壊命令にさえ抗して、世に出たのは1990年代だったそうです。膝を崩して完成したダム湖を眺めているその像は、無名の作品ながらも傑作だと思いました。 この作品は、八田與一と同時代、日本からやって来た元松山商の野球部監督が、嘉義農林高校の草野球に出会って、たった二年で彼らを甲子園に連れてゆき準優勝を果たす物語です。 近藤監督(永瀬正敏)は、台湾人を侮蔑する日本人に言い放ちます。「混成チームの何処がいけんとよ。蛮人は足が速い。漢人は打撃が強い。日本人は守備に長けている。こんな理想的なチームは何処にもない」連戦連敗だった彼らが台湾で優勝し、海を渡ります。死力を尽くした三試合は、甲子園映画としてもかつてない見応えがありました。 当時の嘉義の町並みを再現したセットや、緑濃い台湾の農村部を俯瞰で撮った美しい映像の数々や、亜熱帯の泥んこの練習場で汗を流す生徒たちの姿を詩情豊かに描いています。 ー美しい心には、美しい心が応える。 それが、今回の旅とこの映画を観ての私の確信です。それが台湾に親日家が多い大きな理由です。この作品のプロデューサーや監督も同じ想いのはずです。何故ならば、球児が準優勝した1931年の実に一年前に、日本統治時代最大にして最後の反日抗争である霧社事件が起きています。実は、それを映画化し、私が二年前にここで紹介した「セデック・バレ」を監督したのが、この映画のプロデューサー、ウェイ・ダーションであり、出演していたのがこの映画の監督マー・ジーシアンなのです。つまり、彼らにとって、前作と今作は、一枚の台湾という絵の裏と表の関係であり、その二作で一つの表現だったのです。その二つとも台湾で主要映画賞を獲っていることが、現在の台湾の人たちの気持ちを代弁しているともいえるでしょう。(2015台湾作品、レンタル可能)鳥頭山ダムの八田與一像。
2017年02月18日
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「椋鳥通信 中」森鴎外 池内紀編注 岩波文庫一年半ぶりに二巻目を読み通した。興がのってこないと、なかなかこの本は読み始めれない。何しろ、殆どは詳しくない1910年代のヨーロッパの人々のゴシップなのだから。ところが、調子が付いてくると、俄然面白くなる。約100年前の世界の最新動向と、それを鳥の目で見渡そうとする新進作家で軍医総監の森鴎外の頭の中の一瞬一瞬が、垣間見えるからである。それにしても、100年前は、如何に現代と似ていて、現代と響き合っていることか。以下、心に引っかかったものをメモする。1910年(明治43年)。◯オーストリア=ハンガリーの皇后を殺したルケーニは、監獄でモンステキュー、ディドロ、ディケンズ、ルソーを読んでいる。◯ピサの斜塔が段々傾いて危険なので、いよいよ工事を要することになった。◯ハイド・パークでまた、婦人参政権運動の大示威運動があった。来会者は25万人である。(7月23日ロンドン通信)◯ポルトガルに革命が起こった。陸海軍が革命に加担した。軍艦が王城を砲撃している。(パリ10月5日通信)◯年末から新年にかけて、トルストイの家出とパリでの客死の事が、とても大きな情熱で逐次伝えられる。現代のワイドショーよりも詳しいくらい。何が森鴎外の琴線に触れたのか。トルストイは家族がトルストイの財産を巡って争っていたのに嫌気がさしたようだ。半年前にはノーベル賞の賞金も辞退している。それに対して、あたかも愛情を持ってその失踪に対応する家族たち。しかし、トルストイの死後、様々に財産分与される様が逐次書き留められた。これらの一連の出来事に、森鴎外の作家魂が刺激されたのに違いない。1911年(明治44年)。◯ベルリンでテディベアというおもちゃが大流行している。熊の前足をぐるぐる回して据わらせて置くとぴょこぴょこはねる。テディはルーズベルトのあだ名である。←これは、間違いなく、日本でテディベアが紹介された最初の記事だろう。◯死刑不可廃論者と書いて、15人の名前を載せる。←死刑論については、時々記事が載っている。いつか小説にしたい心持ちもあったのだろうか。◯パリの劇場でジョルジェット・ルブラン・メーテルリンク(Mの妻)が舞台監督をして、「青い鳥」を出すらしい。←詩人メーテルリンクの「青い鳥」が突然大ヒットした。しかし、結局作家本人の記事は出てこなかった。世の中は、いっときの流行に振り回されるが、本当の幸福は何処にあるのだろう。◯ドイツ皇帝から勲章を貰う候補になっていて落選したのは、ロダンとドビュッシーである。新聞記者がこのことに付いて訪ねるとロダン曰く。「皇帝が私を好まないからといって、それは当然のことであって、私は失望しない」(私の意訳)ということを言った。←このころ、なかなか完成しない「地獄の門」の事を、森鴎外は時々記事にしている。鴎外の短編「花子」は、ロダンが日本の芸人太田ひさをモデルにしてスケッチした事実を下に書いている。◯地球の古さは7億年以内である。これはラヂウムの研究に基づいた説である。←科学は年々旧説を塗り替えるのだなあ。◯ニューヨークのバッファローでは、博物館の裸体像に悉く腰巻をさせた。オハイオ州のコロンバスやペンシルバニアのハリスバーグの陋習を踏襲したものである。←森鴎外はこの時点でキチンと「陋習」と断定している。◯自然主義ということが、日本で一種の風潮を生じた時、あれは無遠慮主義だと云ったものがあったが、所謂現代文芸について独逸人が同じ事を言っている。「(池内訳)告白は現代の不文律によると、その羞恥心のなさによって、再び文学となる」(パウル・ブロック)←森鴎外がこれ程にはっきりと鋭く本質的に日本でその後大流行する自然主義文学を批判していたとはしらなった。◯5月18日午後11時5分、グスタフ・マーラーが51歳でウィインの病院内で死んだ。ミュンヘンで「第八交響曲」を発表したのは、去年の秋であった。マーラーは心弁膜症を持っていたところへ、急性腎炎を起こしたのだ。そして心臓衰弱に肺水腫が来て死んだ。葬る土地はグリンツィング墓地である。遺言に、葬式の時一切演説をしないでくれという一カ条がある。面白い。←関心の持ち方が正しく医者のそれ。ところが、最後の一言が作家のそれ。◯394pの小話は、短編材料として使えそうだ。◯イェーガー・シュミットという男が40日間に世界を一周する企てをして、7月18日午後1時に巴里を立つ。◯日本政府は、1917年博覧会の建物を国際的競技に附した。◯ルーヴル美術館の方形の間に懸けてあったレオナルド・ダ・ヴィンチ作「ジョコンダ」(「モナ・リザ」大きさ77×35cm)が、8月21日午後(掃除日)から見えなくなった。一説には22日午前7時20分に小使いプバルダンと左官ピケとが空壁に心付いたともいう。また一説には19日から無かったともいう。22日午後1時に枠が場内で発見された。23日正午に、パレ・ロワイヤルの美術部に届出られた。3時ごろ警視総監レピーヌが出張って取り調べした。旅行中のデュジャルダン・ボーメスは同日中に帰るはずである。ドラロッシュ・ヴェルネは議会へ質問書を出すはずである。ルーヴルはさしあたり3日間閉鎖される。(フィガロ・プレス)2017年1月24日読了
2017年02月17日
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「空海」高村薫 新潮社 文学者司馬遼太郎の空海本も、空海の伝記を書いているようで、実は司馬空海論を展開していたのだが、文学者高村薫の空海本も、評伝のようでいて、実は「新リア王」と同じように、宗教と現代との関係を問うものだった。 阪神大震災以降、著者は宗教に近づいた。知識が邪魔しているのか、まだ何処かの宗教に帰依している様子は見られないが、その理解度は、私如きの浅知恵では及ばない深さまで行っているのは明らか。その深さから見えてくる「現代」が裏テーマである。 よって、この評伝が東日本大震災の被災地から始まり、元オウム真理教信者へのインタビュー、ハンセン病療養施設で終わるのは必然である。特に空海とオウム信者との違いに言及して、その隔たりが、幾つかの決定的な点はあるものの、大きく離れていないことを書いていたのは重要である。 宗教とテロは、いつかこの作家のメインテーマになりそうな気がする。 2015年9月の刊行であるが、読了が今頃になってしまった。図書館に予約して、順番がくるまでナント1年近くかかったからである。とまれ、知識人高村薫に対する根強い人気は、衰えていないということだろう。(因みに、このように書いてAmazonやブクログの書評サイトに載せると、時々ネットから図書館利用のことを書くと本を売る邪魔をするので書かない方がいいですよ、と親切まがいの「助言」を頂くことがある。私はそういう助言は日本人の「根深い業」であり、「罪」だし、やめるべきだと思っている。もし書評サイトから警告が来たならば、私はそれに従う用意がある。しかし一度もそんなものは来たことがない。第三者がいかにも当事者のことを「忖度」しているかのようにして匿名で意見してくる。生活保護受給者を役人の代わりに意見したりするのと同じで、貴方の意見は当事者には迷惑でしかなし、ひいては日本をダメにしている、と言いたい。Amazonならば、本書に関係ないことをダラダラ書くと、そのことで掲載不可になりそうなので、付け足しておくと、本書は、空海評伝を書いているようで、裏のテーマは、実は宗教と日本人の土着精神との関係である。よって、私の「忖度」批判は本書と決して無関係ではないと信じている)
2017年02月15日
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1月に観た作品はたった四作品でした。よって紹介も数回に分けずに一回こっきりに(おそらく初めて)なります。でもそのうち三作は見事な作品でした。 「湯を沸かすほどの熱い愛」 泣かしのストーリーではない。むしろ、それを極力避けるように作られているのではあるが、ボロボロ泣いてしまった。 宮沢りえと杉咲花が絶品である。絶対逃げない双葉の教育方針は、時には反対効果を持つことはあるが、これは教育映画ではないのだ。双葉のやり方が賭けならば、双葉が選んだすべての行動が賭けだろう。しかし、人は一回こっきりの人生にこそ、感動するのである。 想えば、物語当初、双葉以外の登場人物は尽く「逃げ腰」だった(杉咲花、オダギリジョー、伊東蒼、松坂桃李)。彼らが最終場面で全員で逃げずにあることをやり遂げる。素晴らしいストーリーだったと思う。 【ストーリー】 1年前、あるじの一浩(オダギリジョー)が家を出て行って以来銭湯・幸の湯は閉まったままだったが、双葉(宮沢りえ)と安澄(杉咲花)母娘は二人で頑張ってきた。だがある日、いつも元気な双葉がパート先で急に倒れ、精密検査の結果末期ガンを告知される。気丈な彼女は残された時間を使い、生きているうちにやるべきことを着実にやり遂げようとする。 『紙の月』などの宮沢りえと、『愛を積むひと』などの杉咲花が母娘を演じ、余命宣告を受けた主人公の奮闘に迫る家族ドラマ。行方不明の夫を連れ戻すことをはじめ、最後の四つの願い事をかなえようと奔走するヒロインの姿を捉える。『チチを撮りに』などの中野量太が監督と脚本を担当し、物語を紡ぎ出す。母親と娘の強い絆はもとより、人生の喜怒哀楽を詰め込んだストーリーに夢中になる。 【監督・脚本】 中野量太 【出演】 宮沢りえ、杉咲花、伊東蒼、篠原ゆき子、駿河太郎、遥、松原菜野花、江藤修平、三浦景虎、田中壮太郎、リリィ、松坂桃李、安藤聖、泉光典、高木悠未、西田薫子、木村知貴、小澤雄志、新井郁、田中えみ、田中佐季、辻しのぶ、中谷仁美、佐藤真子、鈴木士、住田萌乃、鈴、関口智樹、オダギリジョー 2017年1月12日 イオンシネマ岡山 ★★★★☆ 「人間の値打ち」 四章からなる、視点が変わるサスペンス。謎解きは平凡で、あっと驚く仕掛けもない。最後の字幕説明の一言にすべてがあるのだろうけど、そんなに考える映画とも思えない。 (チェック) ひき逃げ事故をめぐって交錯する3組の家族の人間模様を描き、イタリアのアカデミー賞といわれるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の7部門で受賞したサスペンス。『見わたすかぎり人生』などのパオロ・ヴィルズィ監督が、登場人物の欲望が複雑に絡み合うさまを通して、金と人間の関係について問い掛ける。キャストには『ふたりの5つの分かれ路』などのヴァレリア・ブルーニ・テデスキ、『ブルーノのしあわせガイド』などのファブリッツィオ・ベンティヴォリオらが集結。 (ストーリー) 不動産店経営のディーノ(ファブリッツィオ・ベンティヴォリオ)は娘セレーナ(マティルデ・ジョリ)のボーイフレンドの父親である富豪のジョヴァンニ(ファブリツィオ・ジフーニ)に近づき、大金を得るために借金をしてジョヴァンニが手掛けるファンドに投資する。一方、ジョヴァンニの妻カルラ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)は裕福な生活を送りながら、心は満たされない日々を過ごしていた。ある日、町で唯一の劇場が老朽化のため取り壊される予定であることを知った彼女は、劇場再建のために奔走するが……。 2017年1月12日 シネマ・クレール ★★★ 「沈黙-サイレンス-」 いろんなことが頭に過ぎった。カムイ伝第一部最終巻において、巧妙に正助を裏切り者に演出した代官の錦丹波のことや、戦前では同じ治安維持法下の転向者であった、2人の哲学者。亀井勝一郎と古在由重との違い。 権力による思想統制は、我々が教科書で習った「踏み絵」以上に巧妙さで飴と鞭を使い分けていた。鞭は凄惨を極める。熱湯、波死、溺れ死、逆さ吊り、火あぶり、首切り等々。人物に合わせて最も効果的な殺し方が発明される。飴は、時には「形式だけでいいから」等々と、心に届くように転向するように誘導してゆく。イッセー尾形演じる外国人から見れば知識人の長崎奉行は、「日本のために、キリスト教はそもそも日本には合わないのだ」と分析する。確かにその部分はある。しかし、だからといって、日本人が1人もキリスト教の本質を自分のものにしなかった、というわけでは決してない。 亀井勝一郎は、転向してロマン派思想家になり、古寺などを研究して一生を終えた。古在由重は、後にわかるのだが、はっきりと偽装転向をした。しかし、2人の思想が判明したのは、たまたま日本が負けて思想の自由が保証されたからに他ならない。 神はいるのか。 それは「沈黙」のキモではあるが、無神論者の私には、そもそも心に響かない問題である。それでも、この作品は心に響いた。けだし、日本と世界に普遍的な問題が横たわっていて、現代にその問題は無関係ではない。からである。 原作ファンからほとんどクレームがついていないのもこの作品の特徴である。しかし原作をパラパラと読むと、すべてロドリゴ等の一人称視点で描かれていて、その点だけでも映画とは違う。キチジローの位置づけや、最後の十字架のエピソードなどは実際どうだったのかは、やはり原作を紐解く必要があると、今感じている。 総ては台湾ロケだった。見事に江戸時代地方の日本を描いていた。予算上で仕方なかったのかもしれないが、残念だった。 (解説) 信仰を追究した遠藤周作の代表作を、マーティン・スコセッシ監督が構想28年を経て映画化。師がキリシタン弾圧に屈したとの報を受けた司祭ロドリゴは長崎に潜入。幕府の厳しい取締りや裏切りに直面し囚われの身となり、信仰か信者たちの命か選択を迫られる。司祭ロドリゴ役の「アメイジング・スパイダーマン」のアンドリュー・ガーフィールド、棄教した宣教師フェレイラ役の「96時間」のリーアム・ニーソンに加え、窪塚洋介や浅野忠信らが参加。 (あらすじ ) 17世紀。江戸初期頃の日本では、幕府により厳しいキリシタン弾圧が行われていた。日本での布教活動に情熱を注いでいた高名な宣教師フェレイラが捕らえられ棄教したとの報に接した弟子ロドリゴとガルペは、日本人キチジローの手引きでマカオ経由で長崎に潜入。そこでは、想像を絶する光景が広がっていた。弾圧の目をかいくぐった隠れキリシタンたちの現状も目の当たりにする。幕府は一層取締りを強化、キチジローの裏切りに遭い、ロドリゴたちも捕らえられてしまう。頑なに信心を曲げないロドリゴに対し、長崎奉行は彼のために犠牲になる人々を突き付ける。信仰を貫くべきか、棄教し目の前の人々の命を守るべきか。追い詰められ自身の弱さを実感したロドリゴは、選択を迫られる。 ( 出演) アンドリュー・ガーフィールド (Rodrigues)、リーアム・ニーソン (Ferreira)、アダム・ドライバー (Garrpe)、キーラン・ハインズ (Father Valignano)、窪塚洋介 (キチジロー)、浅野忠信 (通辞)、イッセー尾形 (井上筑後守)、塚本晋也 (モキチ)、小松菜奈 (モニカ)、加瀬亮 (ジュアン)、笈田ヨシ (イチゾウ)、遠藤かおる 、井川哲也 、PANTA 、松永拓野 、播田美保 、片桐はいり 、美知枝 、伊佐山ひろ子 、三島ゆたか、竹嶋康成 、石坂友里 、佐藤玲、洞口依子 、藤原季節 、江藤漢斉、EXILE AKIRA 、田島俊弥 、北岡龍貴 、中村嘉葎雄 、高山善廣 、斎藤歩 、黒沢あすか 、累央 、山田将之 、菅田俊 、寺井文孝 、大島葉子 、西岡秀記 、青木崇高 、SABU 、渡辺哲 2017年1月24日 Movix倉敷 ★★★★ 「ヒッチコック/トリュフォー」 もしも、「ヒッチコック展」というものが企画されるとしたならば、その冒頭で流されるべき展示物であり、予算がなければ、その一本だけで充分であり、観覧者も一応満足して帰るべき内容。尤も本当の満足は、絶対出来ないようになっている。何故ならば、ヒッチコックの全作品をその展示会で全て「展示」しないと、観覧者は満足出来ない。それは、時間的にも権利上の問題からも不可能だろうから。 ずるい作品だ。ヒッチコックの作品、特に初期の作品、それから「めまい」をすぐにでも観たくなる。確かに、言葉でいくつかのヒッチコックマジックの秘密はわかった。しかし、それはあれだけの短い映像では正直よくわからなかった。 ヒッチコックがセリフよりも映像を重視し、様々な仕掛けを工夫し、工夫は最後まで続いたことが、素晴らしいと思う。それを引き出したトリュフォーの想いと映像も出ては来るが、基本的にヒッチコックの作品である。 (解説) 本作は、ヒッチコックとヌーベルバーグの名匠フランソワ・トリュフォーとの1962年インタビューから生まれ、世界中の映画人に影響を与えた書籍「定本 映画術」(晶文社)に基づいたドキュメンタリー。マーティン・スコセッシ、デヴィッド・フィンチャー、ウェス・アンダーソン、リチャード・リンクレイター、黒沢清ほか現代に生きる10人の映画監督へのインタビューをまじえながら、巨匠の映画術に迫る。 2017年1月28日 シネマ・クレール ★★★★
2017年02月14日
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現在法相さえ、内容を全然理解していない共謀罪について、わかりやすく紹介した漫画を見つけたので載せます。拡散希望だそうです。
2017年02月13日
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「東京タラレバ娘」(1ー6巻)東村アキコ 講談社コミックス 33歳アラサー三人娘が、毎夜居酒屋につるんでは「あーだったら」「こーしてれば」と恋愛話に右往左往する話。今日もYahooニュースでは、日本の晩婚化は進んだと配信し、わりといい女なのに、なぜか結婚出来ない彼女たちの悩みが、マンガ大賞の第9位になっていたりするわけだ。 というわけで、話題作ということで、既刊六巻をいっきに読んでみた。はっきり言って、これはアラサー草食系でなかなか彼女が出来ない男子こそ読むべき作品だと思う。彼女たちがいかに小心者で、独りよがりで、ガツガツしていて、臆病なのかを、しっかりわかった上で、君たちは、ある程度自信を持って一歩踏み出すべきだと思う。私のようにならないために。 巻の途中から始まった「タラレBAR」相談室は、本音の悩みが次々と寄せられていて、六巻までで、第11夜までいっているけど、全部読むことですね。アラサー女子がよくわからないまでも、秘密のベールが少し剥がれるかもしれない。 さて、キャストには不満はあるものの、ドラマは愉しみです。 2017年1月読了
2017年02月12日
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「首折り男のための協奏曲」伊坂幸太郎 新潮文庫 「そうですね」と佐藤亘が口を開く。「戦争や事件や事故や病気は絶えずどこかにあって、泣いている親たち、悲しんでいる子どもたち、こういった人でたぶん世の中は溢れているんですけど、僕たちは自分の時間を、自分の人生を、自分の仕事をちゃんとやることしかできないような気がします。もちろん、自分のことだけでいい、とか、よそのことなんて知らない、と開き直ってしまうのは違うと思うんですけど」「ねえ、不細工、じゃあどうすればいいのよ」と木嶋法子は相手を尊重するのか侮辱するのかわからない態度で訊ねたが、すると佐藤亘は嫌な顔一つせずに、「どうすればいいのかはわからないので、いろんなことにくよくよしていくしかないです」(418p) この少しづつ繋がっていて、離れている「伊坂節」短編集の構造に、読者の感想の多くは集中するだろうけど、文庫解説において、わりともれなくそれは「解説」されているので、私はそのことに言及しない。 その代わり、伊坂幸太郎の最初期から最近まで一つも変わらずある、はにかむような佐藤亘さんの呟きに代表されるような、伊坂幸太郎のスタンスだけは、またもや確認できた。 結局、彼の作品は、文庫本になったのは約9割は読んでいる。おそらく、このまま推移してゆくと思う。これほどの付き合いになるとは、10数年前の出会いの時には、思いもしなかった。 2017年1月読了
2017年02月11日
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「知の仕事術」池澤夏樹 インターナショナル新書 「はじめに あるいは反知性の時代の知性」 しばらく前から社会に大きな変化が目立ってきた。(略)議論はない。その代わりに罵倒の応酬があって、それでことが決まってゆく。社会を分断する力は強いのに、まとめる動きは弱い。分断はただ数だけの多数派をつくり、彼らが数に乗じてすべてを決める。少数意見は無視され、時には炎上の対象になる。 ものを知っている人間が、ものを知っているというだけでバカにされる。ある件について 過去の事例を引き、思想的背景を述べ、論理的な判断の材料を人々に提供しようとすると (これこそが知識人の役割なのだが)、それに対して「偉そうな顔しやがって」という 感情的な反発が返ってくる。(略)こういう人たちの思いに乗ってことは決まってゆく。この本はそういう世の流れに対する反抗である。反・反知性主義の勧めであり、あなたを知識人という少数派の側へ導くものだ。(8-10p) 「はじめに」で池澤夏樹は挑発している。私も全面的に同意する。カチンときたなら、この本をキチンと読んで反論して欲しい。ちゃんと事実を下に、思想的な背景を述べ、論理的な判断を下に、議論をしようじゃないか。出来るだけ目と目を突き合わせて。 技術的な部分は、実はあまりびっくりするようなことは書かれていない。と思うのは私だけで、情報を集めて、知識の整理だけで生きていて、思想を持とうとしていない人たちには、頭の痛い所が多分にあるのかもしれないとも思っている。 ノンフィクションの場合は、目次は丁寧に見るべきだと著者は言う。本の構成を頭に入れて読むべきらしい。本当の目次には小見出しも付いているのだが、めんどくさいので、章立てだけ載せる。これで、少なくとも技術的な問題はキチンと書いているだろうと予測できるだろう。<目次より> 1 新聞の活用 2 本の探しかた 3 書店の使いかた 4 本の読みかた 5 モノとしての本の扱いかた 6 本の手放しかた 7 時間管理法 8 取材の現場で 9 非社交的人間のコミュニケーション 10 アイディアの整理と書く技術 11 語学学習法 12 デジタル時代のツールとガジェット ところが、この本の評価が分かれるところだと思うのだが、ハウツーものかと思っていたならば、後半はたいてい脱線して文化エッセイになるのである。私はそういう「脱線」を通じて、知識人が基本的に持っている「思想」並びに「教養」の正体を示していると考えるので、評価するのである。 2017年2月読了
2017年02月10日
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「岳飛伝2」北方謙三 集英社文庫 「おい、泣くな」 李俊に言われて、宣凱は自分が涙を流していることに気がついた。 「俺らはな、振り返ると、何人も何人もの顔が浮かんじまうんだ。その全員が、死んじまってる。志なんてものを心に持つと、死んじまうんだよ。燕青など、ほとんど人間ではないな。生き延びているんだからな」 「私は、自分が自分であるために、何をやるべきかは、いつも見えていた。志があったからだ、と思っているよ。替天行道。盧俊義殿は、その言葉を口にするたびに、ほとんど涙を流されるのではないか、と思うほど心を打たれた表情をされた。父のような方だ。私は、あの顔だけは忘れられぬ」 「よせよ、燕青。今夜は、二人で宣凱という小僧を、奈落に突き落とそうと画策しただけじゃねえか」 「奈落に、落ちてくれたようだ」 「奈落にある光。それが、ほんとうの光かもしれないしよ」 「宣凱。苦しむだけ、苦しめ。この戦が終わった時に、自分の意思をはっきりさせろ」(358p) 替天行道。北方謙三は、遂に一行たりとも、それを我々の前に明らかにせずに、大水滸伝シリーズを終えたと聞いた。しかし、この第二巻において、最も語られたのは「志」という言い方の「替天行道」である。彼らの言葉から、旧宋を倒すための意義が書かれているということはわかった。どうやらその後の政権構想などは書かれていなかったらしい。童貫が死んで、旧宋が倒れた時に、楊令が選んだのは、梁山泊が政権を獲る道ではなくて、何処にも帝を戴かない、物流が世界を支配する、いわば自由資本主義革命だった。そのことの本当の意味を誰も知らなかったのだから、成功するはずもなかったのだが、綻びが出始める前に物流の道そのものが洪水で流されて、頭領楊令も暗殺されて仕舞う。しかし、そのおかげで、というか替天行道の志は残った。おそらく、帝を抱かないまま、梁山泊の英雄たちは一生を終えるのだろうと思った。 岳飛伝が始まって、登場人物たちに傑出した人物は現れず、皆思い悩んでいて、岳飛さえも冴えない。そう思って読み進めて来たのだけど、これはこれでいいのではないかと思い出した。このまま17巻も続けば気も変わるかもしれないが、今はこれでいい。 世界を生きるとは、戦いだけじゃない。明確な目的をもって生きることだけじゃない。 「人は、うまいものを求める。しかし、ほんとうは必要ではないのだ。生きるためだけなら、こんなに手間をかけることはない。羊を殺して、ただ食う。それでいい。王清、この肉は、香料と酒に十日漬け込み、一晩、風に当てて乾かしたものだ。うまい方がいい。うまい方が、生きている。人がうまいものを求めるのは、人として生きているからだぞ。無駄なものを求めるのが、人というものだ。王清、おまえの笛も同じだ。無駄なものだ。なくても、生きていける。しかし、人は笛の音を求める」 「梁興」 「なんだ、岳飛?」 「喋りすぎだ」 「そうだな」(302p) 金と梁山泊の戦いはまだ終わっていない。楊令の仇を討つためにウジュの首取りに執念を燃やしている照夜玉その先に、楊令の遺児・胡土児が居るのだ。心配でならない。 2017年1月8日読了
2017年02月08日
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「シネマ珍風土記 まぁ映画な、岡山じゃ県!」絵・いしいひさいち 文・世良利和 蜻(あきず)文庫 諸般の事情から、第二弾を読み終わって第一弾を読み始めたのだが、第二弾で感心した部分が、こちらではもっと徹底していたことがわかった。 すなわち、つまらない作品はキチンと徹底的につまらないと言い切っている。岡山がロケ地になった作品を、びっくりするほど見事に発掘している。どころか、ほんの少し「かすった」だけの作品を喜々として扱っている。そして、岡山玉野が産んだ偉大な漫画家いしいひさいちの四コママンガが最後に現れる。 このマンガがほとんど傑作なのだが、見事に超ローカルなのである。例えば、27pの四コマなどは、岡山の地理がわかっていれば爆笑間違いない。 今回も、ちょっとかすった超マイナーな作品を発掘していて、非常に驚いた。DVDで借りれるかもしれない作品としては、フランケンが岡山市内を暴れまくったのに、当の怪獣も登場しなければ建物も壊れなかったという「フランケンシュタイン対地底怪獣」、高橋英樹が○○○でピアノを弾いている「けんかえれじい」、志穂美悦子のお宝映像がある「瞳の中の訪問者」等々だろう。 また、岡山県人だからわかる、あまりにもご都合主義的なロケ地の使い方の作品の数々(あまりにも多く、例は割愛)も、こちらの方が例が徹底していた。 多くの作品をこけ落としていて、ちょっと心配したが、よく見ると、こちらは第二弾とは違って「新聞連載」ではなくて、書き下ろしと言っていい作品だったのである。納得。その中で唯一俳優も作品も褒めている作品がある。渥美清の一連の岡山関連作品である。「男はつらいよ 寅次郎恋歌」「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」「拝啓天皇陛下様」「馬鹿まるだし」である。大いに納得した。 2017年1月8日読了
2017年02月07日
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「まぁ映画な、岡山じゃ県2」文・世良利和 画・いしいひさいち 蜻文庫 岡山の映画ロケ地巡り本はかつて買って読んだことがあるが、これはそれとは一線を画する。副題にもあるとおり「シネマ珍風土記」になっているのだ。1がうまいこと手に入らなかったので、とりあえず2から読んだ。もちろん「ダラス・バイヤーズ・クラブ」のように最近岡山をフィーチャーした正統岡山映画風土記になっている話題もある。かなり古いがレンタル屋でも借りれるかもしれない岡山がロケ地になっている「獄門島(1977)」、「告訴せず(1975)」、「秋津温泉(1962)」などもある。レンタルは無理でも岡山ロケの穴場作品「ある日わたしは(1959)」、「極道罷り通る(1972)」、「ルパンの奇厳城(2011)」もある。少し岡山にかすっているというだけで話題にしている作品(「カムイ外伝」「シベリア超特急」「桃太郎の海鷲」「図々しい奴」「東海道四谷怪談」等々)までも、あるのである。特に上原美佐が美観地区に実家を持つお嬢様を演じている「ある日わたしは」は観たいが、レンタルに出る可能性は少ないので、見果てぬ夢なのだろう。 紹介の仕方が、酷い作品は酷い作品として一刀両断しているのが読んでいてとっても気持ちいい。あの世紀の駄作「晴れのち晴れ、ときどき晴れ(2013)」も見事に批判しているし、「釣りバカ」シリーズでは1番酷かった「瀬戸の約束(2007)」も、県の7千万円の支援事業費の中から使途不明金が発生した不祥事のことにちゃんと触れている。そして何よりも我が岡山が産んだ偉大な漫画家いしいひさいちのマンガがコラボされている。素晴らしい傑作ばかりだった。例えば「晴れのち晴れ、むりやり晴れ」(138p)のアレ。岡山県人じゃねえと、ぜってえわからんじゃろと思うで。「ちばけとる」って関東の人たち(特に千葉県の人)は間違わんように! 2016年12月読了
2017年02月06日
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地下鉄大安駅から台北駅に戻る。駅構内に、故宮の品が一部展示されていた。行くことはできなかったので、こんなものを見て楽しむ。これは清の乾隆帝の粉彩幡桃天球瓶である。 絵付けに技術があるのだと思う。 これは大福字軸。インドや清、ベトナムや日本などの美術品の模様を、文字の中にそれぞれ借りているらしい。金持ちの道楽ですね。 すっかり雨が止んだ。でも傘はなんか気に入って持って帰ってしまった。いつか捨てよう、として午前中一緒に歩いて、なんか情が移ったのかもしれない。ものすごく邪魔だった。さて、チェックアウトして、桃園飛行場行きのバス乗り場に行く。前回は、台北駅の西側だったけど、念のためにホテルスタッフに確認すると、なんと今は駅の東側に移っているという。確認して、ホントに良かった。 相変わらず、ものすごい行列になっていた。 バスに乗って感心したのは、事故の時の脱出の仕方を中のテレビで説明していたこと。窓ガラスを割るための「車衝撃波装置」や、天井から脱出するための脱出口を備えているのは、日本でも見習って欲しい。 チケット口は、やはり大きな行列。しかし案外すぐに順番が来た。 あと一時間少しあったので、昼食をとる。予約できないので、飛行機の中で食べれないからだ(と思ったら今回は食べれた。もう!こんなのは事前に知らせて欲しい!予定が立たない!)。美味しくはないけと、腹に入れる。 タピオカ入りのパパイヤミルクがあったので、食後の珈琲代わりに飲む。 その他、定番のお土産お菓子などを買っていたら、少し出発の10分前になった。 少し急いでいたら、放送がかかった。CAが待っていた。 「ラストですか?」「そうです」「えっ⁉まだ10分もあるのに‼」 ところが、タイガーエアラインはバスで移動だったのだ。皆さんをだいぶ待たしたようだ。ごめんなさい。 バタバタして、慌ただしく空を跳ぶ。比較的明るく窓側の出発は初めてなので、バチバチと写真を撮る。台湾の街並み。 こんな感じ。 因みに、この席は二列目でした。一人旅の者はいつも真ん中あたりに座らせると、ここに来る時に書いてごめんなさい。台湾の山並みも、少しだけ雲の上から顔を覗かせている。 二時間と少しで日本に着いた。これは見にくいかもしれないが、高知湾である。 四国の山並み。 遂に岡山空港に近づく。 これは私だからわかる、日本第四位造山古墳である。我が郷土は、やはり優しい。小さい空港なので、全てがコンパクト。荷物も手荷物だけなので、税関も最初の頃にすっと通って、空港の無料駐車場に着いたのが、到着してから約30分後だった。ともかく遅延もなく、無事に着いてホッとした。日本はやはりひんやりと寒いけど、思ったよりも凍れるほどではなかった。旅の間中、歩いている時はいつも少し暑かったが、それは荷物を少なくするために冬用の服と、時にはジャンバー付きで歩いたためである。日本に帰って、そのまま外に出てもそれ程寒くなかった。後で聞くと、暖冬の正月だったらしい。今年は、正月の雰囲気は一切感じないまま、年を越した気がする。タイムワープした気分。 台湾の旅で、掴んだことは三つ。 (1)台湾の古代文化は、ある時期までは日本を凌駕している。 (2)台湾人の日本に対する好感は、国民党政府への反発だけではなくて、ちゃんと歴史がある。 (3)台湾の食への理解は、まだまだ道半ばである。 また、来たい。台湾元も1200ほど残しちゃったし。 傘70 朝食110 お土産570 バス125 昼食245 お土産578 計 1698元 歩数 32822歩(←凄いでしょ?朝の散歩でこれだけ歩いたようです)
2017年02月05日
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中正区を永康街に向けて歩く。庶民の路地裏は、店が連なり、バイクや車がどんどん入ってくる。 保育園の玄関では「メリークリスマス」と「ハッピィ・ニュー・イヤー」が同時に飾られていた。 名前も知らない市場に突然入る。雨脚が強くなった。服や野菜や肉や魚が雑然と店を連ねる。地域の台所は、スーパーではなく、まだこのような市場が担っているのだろう。 実はそのあと、有名な永康街という夜市を通った。ところが、あとで見ると写真は一枚も撮ってなかった。あまりにも観光観光していて、興が削がれたのである。この地図の1番上が永康街。赤い点のところにこの地図があって、ここからは下に行くと、日本家屋を保存しているところがあるという。観光地化して居ないけど、地元の人が大事にしているのは、こういうところなのだ。 だから、路地もこんな楽しいペイントをする。近くに大きな図書館があるのである。 車が入っていこうとするところが、日式宿舎群である。 六軒保存している。 窓枠や意匠等に特徴があるらしい。 ちょっと手を入れただけで、材料含めてきちんと保存しているところに感心した。 しかも、人が住んでいる雰囲気がある。 雨が多く湿気が高い土地からか、基礎がかなり高いことに気がつく。 これはそこから向かいの大道を挟んだ現役のお店の木造家屋。昔の東京には、こんなタイプのお店はたくさんあったような気がする。 和平路の横断陸橋の上から撮影。台北でも、バイクと車の割合は、まだ7対3ぐらいではないか。あの狭い路地裏をみると、これ以上の車社会は無理なのではないか。 トイレを借りるために、大安森林公園に入る。そういえば、1番最初に台北を歩いた時も、何の拍子かこういう森林公園に迷い込んで、都会の中にこんな大きな森林公園があること、そしてリスが何匹もいたことに、大きく感動した覚えがある。あれはこの公園だったのだろうか。しかし、そういう大きな公園は、台北にも台南にもたくさんある。リスは今回出会わなかった。 その代わり、木にたくさんの鳥が止まっていた。 まるでスズメのような顔つきだった。 花も咲いている。 この公園から少し外れたところに、「歩き方」に「粥街」と書かれてあった。そろそろ朝食を食べて帰らないと、チェックアウト時間に間に合わない。人がたくさんいる店に入る。永和豆漿店。このメニューの右から三番目の豆漿を頼む。それと、この旅でまだ一回も食べていない小籠包を頼んだ。 小籠包は案外ボリュームがあった。さすが、80元もするだけはある。 豆漿は、1番右の10元安い豆漿を頼めば普通の豆乳になったということをこの時に気がつく。おぼろ豆腐みたいな汁になっていた。まあ、これはこれで初めて食したので、経験にはなった。豆乳よりも美味しくはない。 地下鉄大安駅から台北駅に戻る。
2017年02月04日
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1月3日(火) 台湾6日目(雨のち雲)最後の朝は雨だった(「七人の侍」の予告風に)。 6時半に外に出て、チェックアウトギリギリまで台北の街を、まったく当て所なく歩く。コンビニで急遽傘を買った。当て所はないけど、経験上「発見」があることは確信していた。ホテルを出て、駅の南側の道を東に向かって歩いてゆく。「青島東路」。 監察院。いかにも古そうな建物。 どうも「立ち退き反対運動」があるようだ。街と公園を壊して再開発するのではないか。感心したのは、右の文章。おそらく「市は商売の利益のために、市民の安全と健康を犠牲にしようとしている」と書いているように思える。どの時代、どの国でも、これは自治体と市民の関係の本質をついた言葉だ。 中正区の斎東街あたりをぶらぶら。ビルに囲まれてこんな木造家屋があった。幸福教室という文字に、この家の気概が見える。 廃屋になりそうな木造家屋があった。 しかし、よく見ると雨よけの屋根が作られている。 しかも、塀には再生計画の途中経過みたいなものが貼られてあった。もう少し歩くと判明するのだが、この辺りは日本人の役人が多く住んでいた高級住宅地だったようで、その関係で家屋を保存しようという動きが他の地域よりも多いようだ。 これは日本式の宿舎だったという。「大正及び昭和年間に築造」って、要はいつ建てたかよくわからないということ。 「斎東詩舎」という、修復家屋もあった。かつて有名な詩人が住んでいたらしい。 外からいくつか写真をとってみた。 この辺りが今でも高級住宅地なのは、こういうワインの瓶がたくさん並んでいる店を台湾で初めて観たことからもわかる。やれば出来るじゃないか。 これは1930年代築造。日本統治時代は、交通局の高級文官のお屋敷だったが、その後、李国鼎という有名な台湾政府の政治家が住んだ家だったらしい。開館時間ではないので、入れない。玄関の塀の上を花で飾るのは、金持ちの家のすることなのではないか。その証拠に隣の高級マンションも同じように塀に花があった。 そこから南側に歩いてゆく。少し高級住宅地から離れる。すると、こういう家が気取らずに残っている。 屋根をよく見ると、職人がきちんと仕事をしている。台風や地震があるので、ゆがんではいるが、風雪に耐えているのは、いい仕事をしているからに違いない。 その一方で、このように廃屋になって行く家もある。家は住む人が居なくなると、急速に崩れ始める。あれは不思議だ。どうしてなんだろう。 その廃屋のすぐ隣に公民館らしきものがあって、この辺りは「文化里」というらしく、様々な「公告」があった。 「寒冬送暖」というのは、お茶会なのだろうか。「農民暦・月暦」は地区民に無料で渡しているのだろうか。 桃園の角板山に遊び、小鳥の生態を見る会も企画している。 何かよくわからないけど、迎春準備の公告。 ここまでは、中流階級の家々だったが、ここからは更に庶民度が増して行く。金山南路と仁愛路の交差点。交差点の日本式の建物の店が廃屋になったあと、落書きで誤魔化している。
2017年02月03日
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台湾旅は最終日分が残っているけど、その前に先月のコレを紹介。 「ビッグイシュー303号」ゲット。今号も読み応えある記事が多かった。 先ず、連載268回になっている「私の分岐点」。今号は、女優・木村多江さん。知らなかったのだが、もう40代半ばだ。本当に遅咲きの花だったのだ。 演劇に魅力されてずっと女優人生。貞子女優というイメージを一新したのが、10年ほど前の子供の死を乗り越えてゆく夫婦を描いた「ぐるりのこと」。あの彼女はすごかった。そこからが役者としてもスタートラインだったらしい。しかもその直後結婚している。しかも、間もなく切迫流産したらしい。しかも、インタビューを読むと完全にそれを乗り越えている。いやあ、もう一度主演女優賞を獲るような作品に出させてやりたい。 表紙は、イギリス女優のキャリー・マリガン。この写真を見ると、なんか日本の女優・清水富美加そっくり。しかし、彼女とは似ても似つかない実力派俳優である。今回は1910年代戦闘的女性参政権運動を扱った「未来を花束にして」の宣伝インタビューである。私はたまたま森鴎外の「椋鳥通信」でこういう一文を読んだばかりだった。「ハイド・パークでまた、婦人参政権運動の大示威運動があった。来会者は25万人である。(7月23日ロンドン通信)」1910年のことである。この当時の25万人というのは、ものすごい数字だろうと思う。この映画はしかし、その二年後1912年より始まる。「50年続いた平和的な女性運動、実を結ばず、ついに過激な戦略「言葉より行動を」が始まった」らしい。いろんな市民運動が「曲がり角」を迎えている今、見るべき映画だと思う。 浜矩子さんは「貧困が若者を安倍支持に追いやる」と、分析している。悲しいけど、その認識から始めるべきだと、私も思う。 池内了さんが「宇宙人が地球にやってこないわけ」について、興味深い説を出している。たまたま私たちから5光年くらいのところに、光の速さの半分で飛べるロケットを発明した宇宙人がいるとしたならば、彼らは10年くらいで、やってくる可能性はあるらしい。しかし来ない。我々が戦争をしているので、とっくの昔にそれらを克服している彼らは、馬鹿馬鹿しくなって飛び去って行ってしまった、というわけらしい。うーむ説得力あるなあ。 「娘が反抗期でストレスが溜まっている」親に、枝元なほみさんのアドバイスが心にしみました。彼女提案の鶏の唐揚げ作ってみたい。 2017年1月31日読了
2017年02月01日
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