全20件 (20件中 1-20件目)
1

「健康で文化的な最低限度の生活(5)」柏木ハル子 小学館 前半の「世帯の章(2人世帯になると、支給基準に満たないために、対象者の思い通りにならないことが多い)」は、運用基準が自治体や担当者ごとにまちまちなことや、様々な思いが絡むことで、ハッキリしないままに切り上げた。けれども、これこそが「実態」というものなのだろう。義経の自分の仕事を越えた配慮に対する、おばあちゃんの手紙が、彼女の支えになるのが、実は今回のテーマだったのかもしれない。因みに私は生活保護を受けるために、離婚してバラックの借家の隣通しで住んでいたお年寄り夫婦を知っている。その生活は、一方のご主人が突然死することで終わりを告げた。最後の瞬間に立ち会えなかった、奥さんに悔いはなかったのかはわからない。 さて、今回後半は「福祉がアル中に酒飲む金与えて、どーすんの!」というテーマである。これは、「生活保護受給者がパチンコに行ってもいいのか!」と、よく言われる実態に関連するテーマだと思う。わりと詳しく描かれているので、次巻に期待したい。 2017年8月読了
2017年08月30日
コメント(0)

今めちゃくちゃ怒っている。今日朝礼で運転の仕事に出る前に、上司がJアラートの対処法を書いた本部通達を見せて、室内でも運転中でもその通りにするように言ってきた。そこまではいい。でも運転中はJアラートはわからないと言うと、 「ラジオを付けっ放しにしておいて」 「それはいつ迄ですか」 「ずっとよ」 私は嫌な顔をしたと思う。ラジオは運転集中が下がるので、今まで禁止だったのだ。そしたら、上司は 「この御時勢だから」 と言ったのだ。 「御時勢⁉︎」私はいろいろと抗議をしたかった。しかし、時間はなく上司の業務命令なので従った。 たった1日で、日本人は一色に染まった。御時勢などはない。 今回でも北朝鮮のスタンスや情勢は大きく変わってはいない。 北が少しでも理性があれば、開戦すれば即敗戦になるボタンは押さないだろう。 万が一、狂気が暴走したとしても、ミサイルの優先順位は米国基地、韓国基地、日本原発であり、こんな片田舎に落ちることはない。 百歩譲って、近くの原発にでも落ちたら、その時はアラートで一秒を争う段階ではないはずだ。 つまりは、典型的な「杞憂」であり、絶対落ちないとは言えないが、落ちた時は悲劇の始まりなのだから、アラートで命を落とす心配よりも、その後の1日或いは数ヶ月をどう過ごすか、「覚悟」する方がよっぽど大切だ(これは通達には書かれていない)。 少なくとも、私にとっては、仕事中のラジオは邪魔以外の何物でもない。 改めて疑問に思う。 「御時勢」って、いつからいつ迄なの? どうも、今日始めて、テレビがJアラートでジャックされて初めて御時勢と気がついた節がある。 いつ迄か? 常識で言うならば、あと1年はこの状態が続くと思われるが、上司の頭の中は、この数週間と思っている節がある。 日本人の「いま・ここ」主義が此処にも現れる。 テロが起きなくても、日本人はこんな反応をする。ホントに恐ろしい。
2017年08月29日
コメント(2)

27日の日曜日、映画鑑賞サークル「お話シネマ」の企画で、月一度の例会は、広島県福山市神辺にある福山エーガル8シネマズで、「ワンダーウーマン」を観て、福山市の居酒屋で映画談義をすることになりました。8シネマズは、2015年から中国地方で始めてIMAXデジタルシアターを導入したところであり、1度は来たかったのです。IMAXとは、一言で言えば、3D上映の究極進化系。従来より迫りくる3D、大迫力でクリアな音、超巨大スクリーン、鮮明な映像という特徴があります。そのため、料金も従来の倍以上2600円します。8シネマズは、フジグラン神辺という大型ショッピングモールの3階にあります。福山駅から無料シャトルバスが出ていて、30分もかけてやっとたどり着く典型的な郊外大型商業施設です。神辺に初めて来て気がつきましたが、町の中心にぽっかりお盆形の山がありました。もう絵に描いたような「神奈備山(神の舞い降りる山)」です。神辺(かんなべ)の名前通り、元は此処は本陣町でもあるし、福山市の街よりも古代はこちらの方が栄えていたのに違いありません。吉備の国で言えば、此処は備後の国となります。吉備王国の一つであり、キチンと検討はしておくべき地域だと思う。というようなことに、映画仲間の手前、こだわれるはずもなく、フジグラン2階で10数年ぶりにリンガーハットのチャンポンを食べた後に、念願のIMAXを観ました。詳しい感想は、また他でするとして、初のIMAXは、確かに映像もクリアであり、迫力もあるのだけど、「完全に映画の中に入ったような感覚」を持つまでは行きませんでした。映画作品であり、なおかつVRみたいな全方位3Dみたいな作品を作らない限り(風景ならばともかく、映画作品としては理論的にあり得ない)、私には無理な気がする。そもそも、真っ暗闇の中で集中して観れば、こんな施設機械を使わなくても、充分映画の中に「入っていける」し、そもそもそれこそが映画が良か否かの分かれ目であると思うのである。でも、そんなこんなも1度は体験しないと言いようがない。いい体験でした。例会は6時から、福山駅前の北海道料理の居酒屋。豪華な海鮮鍋、珍しい大根の天ぷらなど、北海道料理に舌鼓。特に食べて見たかったのは、ザンギ。佐藤浩市・本田翼出演の「起終点駅 ターミナル」で扱われたザンギが、北海道民のソウルフードとして何度も出ていたので、本土の鶏の唐揚げとどのように違うのか、確かめたかったのである。大きさや香辛料を多く使われた作りは、映画とは違う気がする。色の濃さは、映画と同じだ。居酒屋の数だけザンギの味があると聞いたことがあるので、結局よくわからなかった。でも、味が濃くてとっても美味しかった。居酒屋での例会は、何時もよりも話に花が咲いてとっても充実したものになった。
2017年08月28日
コメント(0)

「生活保護なめんな」ジャンパー事件から考えるー絶望から生まれつつある希望 生活保護問題対策全国会議(編) あけび書房 今年の1月、小田原市で発覚したジャンパー事件の顛末については、「ビッグイシュー」の雨宮処凛さんの報告である程度は聞いていた。7月にこの本が出たのは、つまり希望の持てる方向で展望が生まれつつあるというのは、極めて珍しい「素早い対応」があったということなのだろう。 小田原市は、単なるジャンパーやホームページやしおりの問題ではない、ことが話し合われ、2月末に対策検討会議が設置、市井の専門家だけではなく、元生活保護受給者も参加した。そこまでは私も聞いていたので、この本を紐解いた。 この本は、縦文字ではなく、横文字で文章が書かれている。つまり、読者の対象は主に自治体職員の専門職を想定しているのだと思われる。実際、ぜひ福祉事務所のケースワーカーには、またはそこに関係する自治体職員には、この本を読んでいただきたいと切望する。そして自分の仕事を振り返ってもらいたい。 しかし、一方で私のような一般市民も手に取るべきだと思う。ここでは、この問題の問題たる所以が「ジャンパーという明らかな形があるために問題が発覚しましたが、「目に見えないジャンパー」をまとっている職員は全国各地にいるのではないでしょうか」(81p)という問題意識で書かれている。そのために、ホームページやしおりのチエックの方法も詳細に書かれている。その程度は、一般市民も出来るのではないかと思うからである。 この事件を受けて市民の反応は、批判的なものと同時に担当職員を支持する人たちも相当数いたと言う。その人たちに関して言えば、3章の渡部潤氏と藤䉤貴治氏の対談がこの事件の概観を1番わかりやすく書いていると思われるので、その対談をキチンと批判できるかせめて確かめて欲しいと思う。生活保護パッシングしている人たちのほとんどは、私は「無知」だと思っている。 ただ一点だけ、この本で不足している部分がある。「パッシング」の人たちは、最後は子供が捨て台詞を吐くように一様にこう反論するからである。「それでも、福祉予算から生活保護で多大なお金が出ている。それを削るのは、役所の義務ではないか?」 それに対しては、全面的に展開していないが、雨宮処凛さんが根本的なことを書いている。それを最後に抜き出したい。 そうして困窮者に寄り添う支援が実現すれば、結果的には本人にとっても自治体にとってもいいことだらけなのである。 例えば、滋賀県野洲市の市長は、税金滞納を「貴重なSOS」と語り、「ようこそ滞納いただきました」と言う。 税金を滞納する人は、国保料や社会保険料も納めていないことが多い。生活に困っていると感じたら、野洲市ではそれぞれの課が連携して市民生活相談課に案内しているのだと言う。そうして生活を立て直す支援をする。水道料金や保育料、給食費の滞納があった場面も把握する。そんな風に市民の「困窮サイン」にいち早く気がついておけば、支援も早くできる。そうすることで、結果的にコストがかからない。早い支援が確実な納税につながる。(131p)
2017年08月26日
コメント(0)

「青春と読書 9月号」 集英社の広報誌の今月号はいろいろと面白かった。私は定期購読しているが、今ならば大きな本屋ならば無料で置いているかもしれない。 小特集「旅と本」では、この前「謎のアジア納豆」を読んだばかりの高野秀行氏と、「お伊勢ものがたり」が記憶に新しい梶よう子氏が書いている。そのうち、高野氏の主張に共感しまくりだった。 高野氏は、歳をとるほどに体感時間が短くなるのに、旅をすると、一日がまるで五歳に戻ったように長くなるという。ホントにその通りだ。私の旅レポートが、時には1日が5回に分けて書かれるようになったのもそこに関連する。 「謎のアジア納豆」で、高野氏は唯一行っていなかった韓国に行って納豆汁を食べたらしい。その時に韓国の人たちが噂と違い、全然反日ではない。みんな親切だということを発見する。 非常に興味深いのだが、韓国の人たちは「過去の歴史」と「領土問題」にはすごく神経を尖らせているが、それを目の前の日本人と結びつけようという発想はないらしい(29p) そうなんです。そうなんだよ!多くの日本人が、偏った報道のせいで勘違いしていることを、旅の達人高野氏は一発で喝破した。素晴らしい! この冊子の巻頭インタビューは、集英社新書「十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」」の宣伝として、ミステリー作家の西村京太郎が出ている。 私は、この人の作品はまるきりノンポリだと思っていたけど、安保法案が可決され「戦後」が「戦前」よ様相を示して来たのを受けて、最近3作は「戦争」をテーマにしたらしい。そしてこの新書である。 ここでは、要は付和雷同の日本人はいやいやながらも戦争に向かってしまう。「日本人は戦争に向いていない」ということを、彼らしくズルズルと書いているらしい。読む気は無いけど、彼のような人でさえ、危機感をもつ現代、若者はもっともっと危機感をもつべきだ!
2017年08月25日
コメント(2)

「鹿の王 3」上橋菜穂子 角川文庫 おかしいとは思っていたんだ。後追い狩人の中でも素晴らしい腕を持つというサエが、怪我をしていたとはいえ、なぜ2年の間ヴァンの前に現れず、ヨミダの森で偶然のように遭ったのか。しかし、その時から怒涛の展開が始まっていたのである。 「鹿の王」は書き下ろしだ。この書だけで、一つの世界を造ってしまったのだから、一つの書に「書かれていない」様々な思惑を入れ込むのは、当然かもしれない。以前の作品よりもかなり大人向きの書物になっている。ホッサルとミラルの大人の恋も描いているし。 敵対する大国の狭間に存在していた小国の、生き残り戦略、小さな部族の、しかし忘れらない恨み、その真髄を知ってもなお、「戦は、自らの手を汚してやるものだ。おのれの身の丈で、おのれの手が届くところで」と言い切るヴァンの強さ。複雑な国のパワーゲームのなかで、人の生きる道をさりげなく示す。これも、確かに大人の物語ではある。 2人の主人公がいるということでも、かなり異色の物語である。物語の終盤に入った3巻の最終章で、ついに出逢う2人。おそらく、これ以降、ラストに向けて突っ走るのだろう。 2017年8月22日読了
2017年08月23日
コメント(0)

「風流江戸雀」杉浦日向子 新潮文庫 時々思い出したように、杉浦日向子の絵を見たくなる。 ーそうそう、この風流を、まだ俺はわかるんだぜ などと、思いたいのかもしれない。 カバー裏の彼女の紹介文を見たり、あとがきの日付をみて、この本が月4Pの連載で、4年の月日で完成したことを知る。だとすると、これを描き始めたのは、25歳の頃だということになる。人生の粋も渋も枯も艶もわかったような絵を、どうして彼女は描くことが出来たのか? 田辺聖子が序文で、 ーこの本にえらび採られている古川柳は、すべて古川柳の代表作ともいえる佳句である。 と言っている。 「仲人を こよみでたたく お茶っぴい」などは、今はない暦やお茶っぴいという単語はあるが、何と無くわかる。「おちゃっぴい へそから出たと 思って居」となると、昔の近所に居た女の子のことを思い出した。 「細見を みてこいつだと 女房いい」となると、細見(さいけん)が何か、わからぬとお手上げだ。なんと遊女名鑑らしい。江戸にはそんなものまであったわけだ。杉浦日向子の女房は、その名にぎゅうっ‥と爪を立てる。おゝ怖。「火箸にて野暮め野暮めと書いて見せ」などは、言葉はわかるが、そんな状況は、現代では絶滅している。「雨宿り 惜しい娘に 傘が来る」もう絶滅はしているが、気持ちはまだ絶滅してはいない。 2017年8月16日読了
2017年08月22日
コメント(0)

「ヒストリエ」(1)-(10)岩明均 講談社コミックスずっと気になっていた手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞を既刊10巻まで読み終えた。アレクサンダー大王の生涯を、マンガという個人作業で雄大に描く「意義」ならば分かる。しかし何故、その書記官を勤めたエウメネスが主人公なのか。物語はまだアレクサンドロスが王位に着いてさえいない。作者の意図が、いつも最終巻で明らかになることを考えると、おそらく「真の意図」が明らかになるのは、十数年後と考えられる。 それでは、まだ面白味が出ていないかと言えば、当然左に非ず、紀元前4Cの激動の地中海世界、その華やかしいギリシャ文化を鳥瞰で見る視線とともに、また、マンガらしい驚きの展開も忘れずに、飽きずに見させてくれる。 スキタイという地中海世界では「蛮人」の血を持ち、奴隷から歴史の表舞台に立った青年。その目から、一国の「英雄伝」ではなく、もっと広い視点の「歴史」が綴られている気がする。 しかし、ホントに展開が遅い。十巻目にして、やっと5巻目で突然挿入されたアレクサンドロスと父マケドニア王のフィリッポスとの語らいの場面に繋がることになった。 エウメネスとアレクサンドロス王子とが同数の一万で戦うとどうなるか?マケドニア王は、3回のうち一回しかエウメネスが勝たないというが、アレクサンドロスは一回目で討ち死に、エウメネスは3回とも生き延びるというのである。 それがどういう意味を持つのか、いよいよ王の左腕としての生き方を求められ始めたエウメネス。「ヒストリエ」は佳境に入ろうとしているのかもしれない。 それにしても、この時期の武具の凄さ、街の大きさは世界随一、日本の奈良時代の水準だ。つまり、日本よりも1000年近く進んでいる。 2017年8月21読了
2017年08月21日
コメント(0)

「千の顔をもつ英雄(上)」ジョーゼフ・キャンベル ハヤカワ文庫 本書は、依然比較神話学の古典であり、「スターウォーズ」その他に多大な影響を与えた英雄伝の指標である。この度、新訳として手頃な価格で文庫本が出ていたので、とりあえず上巻を購入した。しかし、実際買ったのは今年の2月8日。なんとか読み終えたのは8月20日という、私としてはたいへんな遅読となった。内容が少し専門性がある、濃い、というのもあるが、いつか日本の弥生時代を舞台にした英雄譚をモノにしたいと目論んでいる身にとって、刺激があり過ぎたからである。 「指輪物語」を引き合いに出すまでもなく、英雄は日常から召喚され、旅立ちをし、死地に向かい、様々な試練に逢い、そして勝利或いは大きな恵みを与えられ、英雄は帰還してその物語を終えるのが一般だ。 キャンベルは、第一部において、それを更に細かく分類する。「出立」は、「冒険への召命」(英雄に下される合図)、「召命拒否」(神から逃避する愚挙)、「自然を超越した力の助け」(下された使命にとりかかった者に訪れる思いもよらない援助の手)、「最初の境界を越える」、「クジラの腹の中」(闇の王国への道)という具合である。次の舞台「イニシエーションの試練と勝利」では、「試練の道」(神々の危険な側面)、「女神との遭遇」(取り戻された幼児期の至福)、「誘惑する女」(オイディプスの自覚と苦悩)、「父親との一体化」、「神格化」、「究極の恵み」と移ると云う。「英雄の帰還」は更にこのように分類される。「帰還の拒絶」(拒絶された現世)、「魔術による逃走」(プロメテウスの逃走)、「外からの救出」、「帰還の境界越え」(日常の世界への帰還)、「二つの世界の導師」、「生きる自由」(究極の恵みの本質と役割)となっている。上巻では上記のうち「イニシエーション」までが書かれている。 すべての神話がすべての要素を持っているわけではない。しかし、確かに、ヤマトタケルから桃太郎まで、驚くほどにその構造をなぞっているのに、気がつくのである。 以下、上巻で面白かった部分の一部を記す。 ○クジラの腹の中というのは、子宮のイメージを持つ。英雄は、未知のものに「呑み込まれ」、1度死ぬ。そして再生する。 ○障害物や人食い鬼などすべてを乗り越えたあとの最後の冒険は、一般的には勝利を手にした英雄の魂と世界の女王女神との神秘的な結婚で表現される。 ○男でもあり女でもある神は、神話の世界では珍しくはない。 2017年8月読了
2017年08月20日
コメント(0)

岡山市立オリエント美術館の企画展「カミとヒトのものがたり」に行って来た。これは東京の古代オリエント博物館の企画展との共催で、東京は9月16日から、11月12日まで開催予定。 私の関心は、あくまで日本の弥生時代前後だから、見るべき遺物は中国までだとずっと思ってきた。しかし、岡山県には残念ながら、本格的な歴史博物館がない。それがずっと不満だったが、最近オリエント美術館も面白いのではないかと思うようになった。歴史の古いオリエントの考古学的遺物を見ることで、日本の遺物の価値や位置が見えるような気がするからである。比較考古学という視点で見れば、ここは隣県にはない非常に優れた考古学博物館になっている。今回の企画展は、とても参考になった。 世界中のヒトの歴史では、神話が先ず存在する。科学が発達する以前、世界の始まり、英雄列伝、女神、豊穣の神々、モンスター、死や来世などを、ヒトは神話によって説明してきた。 英雄列伝に関して言えば、いま読書中の「千の顔をもつ英雄」(ハヤカワ文庫/J・キャンベル)で詳しく展開したいが、それ以外の世界の概観を見るにはもってこいの企画展だった。もはや、私にとってここは美術館じゃない。博物館である。 実は私はひとつの仮説を持って、この企画展に臨んでいる。それは、 日本の神には、顔がないのではないか? 反対に言えば、世界の神々は顔を持っているのではないか? 今回の展示で、日本の最も古いそれは古墳時代の表情を持たない相撲力士の埴輪のみなので、参考にならないが、世界のBC3000年代からの神々の造形が展示されてあって、私はある程度の感触を得ることが出来た。 世界最初期の文明メソポタミアで、文字が発明されて、神話や叙事詩が記録されたのが4600年前。この頃の土偶は、メソポタミアも豊かな乳房と臀部が強調され、顔を持たない女性土偶だったり、眼だけが強調されたBC1600の眼の偶像だったり。 しかし、BC1800の円筒印章には、創造神の1人エアがハッキリ形作られている。個性のあるものがたりと共に、神もヒトとして登場する。顔の輪郭はまだハッキリ見えないが、明らかに人間だ。 BC1000のエジプトのシュウに至っては、顔に表情さえあるような気がする。 エジプトでは、BC3000ごろから既に、王は人の形をしている。ナルメル王は最初期の王であり、上端には牛の女神バトがいる。 アフロディーテは、ギリシャ含めて、人間の理想の姿がそのまま女神を体現している。 インドでは、BCの遺物を見つけることが出来なかったが、AD1-3にかけて、見事なハッキリした浮き彫りが何件も残っていた。もうこの頃には、明らかに神の姿は人間そのものだ。 中国では、なかなかBC前後で、神の姿が人間である証拠が探せなかった。これからの課題としたい。 そして、縄文から弥生にかけて、更には古墳時代も含んで、私は明らかな神の姿を描いた造形や絵を見たことがない。遮光土偶等々の縄文土偶は、何か。あれがもし、神々だとしたら、それこそあの顔形そのものが何故あそこまでハッキリ描かれたのか?が問題となるだろう。果たして、土偶は人間なのか?果たして土偶は神なのか? 弥生の明らかな神格「龍」は、決してハッキリ描かれることがない。縄文から弥生にかけての、人々の造形技術は証明されている。私は決して技術的に描けなかったわけではないと思っている。描かなかったのだ。 日本人の神の形がハッキリせずに、外国人の神の顔がハッキリするのは、何故か。 牧畜民族か、稲作かの違いではない。自然をある程度克服してコントロールしていたか、それともそのまま受け入れていたか、の違いではないか。コントロールする過程で、英雄は外国では生まれたが、弥生時代まで、日本では生まれなかった。しかし、豊穣と生殖の神様を敬う意識だけは生まれていた。ハッキリえがくと、災いが全国で起きたのかもしれない。縄文時代は、牧畜をしなくても一万年以上暮らしていける、豊穣の国で生まれた以上、英雄は必要なかったのでは。全ては、受け身の民族特有なのか。 或いは、文字を持っている民族の神は人間に似るという、仮説が立つかもしれない。文字が、つまり他人に言葉で明確に「説明する」という行為が、神を人間化する? 要検証。 現代の若者は、特有の神様の顔を思い浮かべなくても、「頂きます」「ご馳走さま」で、手を合わす。大多数の若者が、「幽霊はいる」「霊はいる」と現代でも思っている。しかし、テレビの特番を見ると分かるが、そこに明確な顔はない。日本の神々に顔がついたのは、仏像以降かもしれない。日本の神様には、顔がない。顔をつくることは、ウソをつくことだったのかもしれない。
2017年08月19日
コメント(4)

「コモリくん、ニホン語に出会う」小森陽一 角川文庫生の小森陽一さんに3度出会ったことがある。と言っても、3度とも講演会なので、一方的なのではあるが。何れも緊迫する情勢を受けての、時事問題を扱う会だったので、この本の趣旨(日本語論)とも、ホントの内容(小森さんの数少ない自伝)とも、かなり違っている。つまり、小森さんの全く新しい面を知れて、この本とても面白かった。小森さんの講演を1度聴いたことのある人はわかると思うが、同じ時間で、おそらく普通の講演会の内容の2倍の量を喋っていると思う(メモし難くてブロガー泣かせでもある)。つまり早口なのだ。そこから分かるのは、小森さんの頭の回転の速さ、そして早口でもなおかつ最後まで飽きさせない日本語の達人だったということだった。しかし、勘違いしていた。コモリさんは、対象の観客と場所によって、喋り方を工夫していただけであり、なおかつずっと日本語にコンプレックスを感じていたからこそ、あそこまで「達人」になれたということだったのだ。帰国子女の悩みに真正面からぶつかり、なおかつ、決してエリート畑だけを歩いて来ていないからこそわかる世界を見ていた、コモリくん。文庫本あとがきで、びっくり。在プラハソヴィエト学校の米原万里さんの2年後輩だったなんて。含蓄のある「あとがき」に、私はまだまだ小森さんを知らなかったのだなぁ、と思ったのでした。まさか、小森陽一の文学アプローチが、構造主義からだったなんて、全く知らなかった。もちろん、日本語論としてもたいへん優れている。私の「こころ」解釈は、小森氏とも、高校生のそれともかなり違うが、教科書とだいぶ違っていて良かったんだ、と改めて思ったのでした。2017年8月15日読了
2017年08月18日
コメント(0)

〆切よりも、二日遅れで投稿した労組機関紙連載の今月の映画評です。幸いにも、落とさずに済みました。ありがたや。「太陽の蓋」 原発事故にインスパイアされた「シン・ゴジラ」が、夏映画の話題をさらって暴れまくっていた頃に、ひっそりとシネマ・クレールで上映されて静かにフェイドアウトしていった、日本最初の本格的な原発事故映画がありました。この作品も頻繁に閣議や危機管理センターの場面が出て、現代ポリティカル映画になっています。フィクションだと謳ってはいますが、菅直人(三田村邦彦)や枝野幸男(菅原大吉)などの政治家の名前は全て実名で出ていていることに、事実に即して作っている製作者の自負を、私は感じました。私はゴジラと共にこれがコインの裏表の作品だったような気がしてなりません。 しかし、この作品は残念ながら、傑作とはなりませんでした。不要な台詞や場面があったり、テンポが悪い。なおかつ、製作者の想いかもしれないが、民主党(当時)の事情に時間を割きすぎている。しかも、最大の悲劇を免れたのは、たまたまだったのか、それとも何かあったのか、1番大事な場面が描かれていません。それでも私はこの作品を皆さんに紹介したい。民主党プロパガンダ映画ではない。「人はすぐに忘れるものだ」「まだ何も終わっていない」ウソは描かれてなく、誠実な作品だと思います。去年何故か、全てのテレビ局は一切宣伝しませんでした。これが日本人の民度なのかもしれません。私は、こういう作品を記憶することで、反原発運動も豊かに出来ると思います。 いま、国民のどれほどが、あと一歩のところで、第四号基がメルトダウンし、東京を含めた250キロ圏内が全滅するところだったと知っているだろうか。太陽の蓋をコントロール出来なくて、そして今もコントロール出来ていないことを知っているだろうか。 東京電力(映画の中では東日電力)の隠微体質は、この映画の中で幾つも幾つも出てきます。国民のどれだけの人が、電源車が到着してもプラグが合わなくて、冷却機が作動しなくかったことを知っているだろうか。その他、東電が情報を遮断して官邸対応が後手後手に回ったことを認知しているだろうか。 「シン・ゴジラ」のテンポで作れば、この2倍の情報量と緊密したドラマが作れるかもしれない。やがて作るべき本格的なエンタメ原発事故映画のために、今はこの貴重な作品を一人でも多くの人が見て欲しいとも思う。 実はDVDには、特典映像として3つの各数分のスピンオフドラマがついていました。これが下手をすると本編よりも少し良い。(佐藤太監督2016年作品レンタル可能)
2017年08月16日
コメント(0)

7月に観た映画の後半、4作である。「ジーサンズ 初めての強盗」上映期間ギリギリに観ました。飄々としたフリーマン、真面目で色男のアーキンという葛藤の少ないキャラと比べて、後数日で家を追い出されるケインが迫真の演技をしたと思う。基本はコメディだが、思ったよりもリアルな描写だった。ラストの葬式場面と見せかけて実は、というやり方は、なかなかいい場面だった。前半部分がリアルだからこそ生きる作品。リスクをキチンと説明しない間に個人ローンをつくる銀行、偽装倒産で会社年金の打ち切りを図る会社と銀行のタッグ。真面目に働いてきた老人たちのささやかな抵抗が、強盗だったというわけだ。80代になっても達者な彼らが、ずっと元気でいて欲しいと、つくづく思う。(解説)モーガン・フリーマン、マイケル・ケイン、アラン・アーキンというオスカー俳優たちが一堂に会して放つコメディー。ひたむきに働き権利を得た年金を打ち切られた高齢の男性3人が、銀行強盗に及ぶ姿を生き生きと描写する。メガホンを取るのは『WISH I WAS HERE/僕らのいる場所』で監督と脚本と主演をこなしたザック・ブラフ。主人公たちのぶっ飛んだ行動が見どころ。(あらすじ)ウィリー(モーガン・フリーマン)、ジョー(マイケル・ケイン)、アルバート(アラン・アーキン)は、平穏な余生を過ごしていた。ところが長年勤めた会社の合併により年金をカットされてしまい、平均年齢80歳以上の彼らの生活はお先真っ暗の状態に。追い詰められた彼らは、思いがけない行動に出る。2017年7月20日Movix倉敷★★★★「セールスマン」この話が「セールスマンの死」とどのように絡んでいるのか分かると、感想も変わるのかもしれない。イランの中で、進歩的な考えを持った夫婦だと思う。夫婦の立場は、徹底的に平等で、まるでアメリカ人。それでも、妻が乱暴されたとき、警察は信用できない。妻は、あらぬ噂の一人歩きの方を犯人逮捕よりも恐れる。また、それでも、妻は「復讐する」ことは、原理的に「してはいけない」ことにかぞえており、夫はそれに同意しつつも感情的に抑えられない。結果的に彼らは、人の「死」に関わることになる。イラン人の復讐感覚の葛藤を描くのと同時に、イスラム国と戦う西側諸国に対する批判精神を持った作品であるのは、確かだ。しかしイスラム諸国の宗教観も、わかった上で無いと正確な映画評は書けない。アカデミー外国語映画賞にはふさわしいとは、思う。(解説)『別離』『ある過去の行方』などのアスガー・ファルハディ監督がメガホンを取ったサスペンスドラマ。不幸な事件をきっかけに、平穏な日々を送っていた夫婦の人生が少しずつ狂い始める様子を丁寧に描写する。ファルハディ監督作『彼女が消えた浜辺』でも共演したシャハブ・ホセイニとタラネ・アリドゥスティが夫婦を熱演。思いがけないてん末に驚がくする。(あらすじ)共に小さな劇団に所属する夫婦(シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリドゥスティ)は、ちょうど劇作家アーサー・ミラーの戯曲「セールスマンの死」の舞台に出演していた。教師として教壇にも立つ夫が家を空けた隙に、転居したばかりの家で妻が何者かに乱暴されてしまう。その日を境に二人の生活は一変し……。2016年イラン・仏作品。2017年7月23日シネマ・クレール★★★★「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」「商売は弱肉強食だ。溺れている者の口にはホースを突っ込む。お前にそれが出来るか?」「出来ないし、しようとも思わない」私はマクドナルドのヘビーユーザーである。おそらく年間4万円以上は使っていると思うし、年間200回ぐらいは来店していると思う(この所感も映画が終わってマクドで書いている)。だからと言って、私は自分を恥じない。誇りもしない。私は私の自由意思で自律的に利用している。世界人口の約1%は毎日マクドナルドを利用しているらしい。なぜ、そこまで大きくなったのか。そこを描いて、アメリカという「帝国」が持つ「野心」と「貪欲」を、描いて面白かった。「供給があるから、需要が起きるんです。賢明な貴方はわかりますよね。」と売れないシェイクミキサーをセールスして、人生の後半を様々な商売に手を出してきたレイ・クロックは、マクドナルド兄弟の革新的なバーガー製造に商機を見出す。1954年に契約。1961年に、マクドナルド兄弟をマクドナルドから追い出すことに成功。堀江貴文は「マクドナルドがなぜ成功して高収益企業にできたのかの実話である。とにかく根気が大事であるというのはまさに同意できる。全ての企業経営者に見て欲しい名作」と持ち上げ気味に評価。町山智浩は、「マクドナルドを乗っ取った主人公が毎日聴くのは「パワー・オブ・ポジティブ・シンキング」の朗読。ドナルド・トランプの座右の書だ!ドナルドがなんで怖いのか、よくわかったぜ!」と1番皮肉を込めて評価。私はもちろん町山さんに同意するのですが、元NHKアナウンサーの堀尾正明も、ディープ・スペクターも絶讃しているのは、やっぱりという感じ。企業経営者がこれを見て、参考にしようとするならば、バカだとしか言いようがない。マイケル・キートンとは思えないくらい「嫌な奴」を演じていて、すごかった。マクドナルド兄弟がホースを口に突っ込むタイプの経営者でなくて、アメリカにまだ救われる部分があると感じられてホッとした。(解説)マクドナルド・コーポレーションの創業者、レイ・クロックの伝記ドラマ。1軒のレストランを世界最大規模のファストフード・チェーンにした彼の辣腕(らつわん)ぶりや苦悩を描く。監督は、『ウォルト・ディズニーの約束』などのジョン・リー・ハンコック。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』などのマイケル・キートン、『ロング・トレイル!』などのニック・オファーマン、『わたしに会うまでの1600キロ』などのローラ・ダーンらが出演。レイの並外れた経営術に注目。(あらすじ)1954年、アメリカ。シェイクミキサーのセールスマンである52歳のレイ・クロック(マイケル・キートン)は、8台もミキサーをオーダーしてきたマクドナルドというドライブインレストランに興味を覚え訪ねてみる。そこでレイは、経営者のディックとマック兄弟による、高品質、コスト削減、合理性、スピード性などを徹底させたビジネスコンセプトに感銘を受ける。契約を交わしてチェーン化を進めるが、ひたすら利益を求めるレイと兄弟の仲は険悪になっていき……。(キャスト)マイケル・キートン(レイ・クロック)ニック・オファーマン(ディック・マクドナルド)ジョン・キャロル・リンチ(マック・マクドナルド)ローラ・ダーン(エセル・クロック)リンダ・カーデリーニ(ジョーン・スミス)パトリック・ウィルソン(ロリー・スミス)B・J・ノヴァク(ハリー・ソナボーン)2017年7月30日シネマ・クレール★★★★「校庭に東風吹いて」声を出さず悲しみを抱える少女、貧困から問題を起こす少年、彼らとむきあ教師たちの情熱で〈涙〉は〈希望〉に変えられるのだろうか。映画のチケットを手に入れたので、倉敷の上映会場に行ってきました。先生たちの団体が1番熱心に来ていたみたいな印象がある。その人たちにどのように映ったのかは、とても興味がある。誠実な作品だと思う。沢口靖子は、時に情熱的に時に粘り強く、場面緘黙症と母子家庭貧困の子どもの問題を逃げることなく対応していく。どういうやり方が1番良かったかは、わからないが、映画は安易にハッピィエンドを作らずに、どちらかと言うと希望が持てるぐらいで終わらしていた。その作り方はよし。沢口靖子も子役の岩崎未来も向鈴鳥もたいへん良かったが、脚本か編集のせいか、もう少しきちんと決着つけて欲しかったなという所が散見したのと、役者の演技か演出かはわからないが、もう少し緊張感持って欲しかった場面もあった。エンクミ(遠藤久美子)は、こんな役をやれるようになったんだ、ショムニに出ていた頃とはえらい違いだと感慨。でもあともう一歩、場面緘黙症の直接原因らしき彼女に決定的な一言が欲しかったとは思う。最後に監督・金田敏が舞台あいさつをした。なんと地元(酒津・中庄)出身らしい。「昔は見えなかった場面緘黙症とか見えるようになった。一方、貧困は見えにくくなっている。大事なのは、もっと認知してもらうこと。見守ってもらうことが大切」と言っていた。その通りだと思う。2017年7月30日倉敷会場★★★
2017年08月15日
コメント(0)

7月に観た映画は8作品でした。二回に分けて紹介します。「ハクソー•リッジ」前宣伝で巧妙に隠されていたが、これは第二次世界大戦唯一の現在日本の領土内での米国対日本の地上戦を映画化した作品だった。しかも、沖縄の前田高地の戦いである。米国では、日本も知らない鋸断崖(ハクソー•リッジ)の戦いとして記憶されているようだ。この戦いで、日本軍はおそらく2000人の生き残り兵で戦い、米軍は艦砲射撃を使いながら豪に隠れていた日本軍と、1000人近く(?)の海兵隊で陣地奪取を試みている。資料を見ても、ドスの活躍したのは最終盤の戦いだとは思うが、結局何人戦死して、75人(?)助けたのかはわからなかった。そもそも映画では一晩と半日かけて1人で助けたことになっているが、かなり脚色しているのが目に見えるだけに一応疑ってかかっている。ともかく事実を基につくられた作品であることは確か。まるで朝鮮戦争映画並の戦闘場面であるが、少しは差し引く必要があるとは思うが、デスモンドの勇敢さは、信じていいと思う。問題は、映画を見ることによって、彼の「信念」をどう評価するか、ということだろう。銃を絶対に手に取らない。それは単なるプライドか、それとも宗教的信念か。訓練の場でさえ、手にとらないのは、隊にとっては士気を下げる行為であり、そこまで徹底する必要はない。と合理的に考えれば、そうなる。しかし宗教的信念としては、あり得る理屈であり、それを最終的に許容した米軍は、日本軍とは明らかに違い懐が深い。「汝、殺すなかれ」。しかし、目の前で1000人以上の日本軍へのジェノサイドを観た彼のなかで、それはどのように整理されていたのか、いまひとつわからなかった。おそらく、75人助けたことよりも、本人のインタビュー映像で喋っていた「その場で水をかけて顔を拭くと、目が見えると叫んだ。その時ほど、やってよかったと思ったことはない」と言ったことが大きいと思う。極限の状況の中では、目の前の助けれる人を助ける、それしかなかったのだろう。さて、もう一つ大きな問題がある。どんなに宗教的信念を英雄的行為で貫こうと、結局戦争とは国によるジェノサイドであることからは避けられない。それなのに何故、ドスはその現場に立とうとしたのか。彼は、パールハーバーが攻撃された時はニューポート・ニュース海軍造船場で働いており、徴兵猶予を要求することができた。しかし、彼は自由を守るために自ら前線で自分の命を危険に晒そうとした。彼は望んで陸軍衛生兵になり、また武器を持たなくてすむ良心的兵役拒否者として分類された。と言うのが歴史的事実らしい。つまり、「汝、殺すなかれ」よりも、「国を守れ」という本人が信じる情勢認識の方が優先されるのである。パールハーバーのあと、友人2人が丙種不合格になって自殺したのが、志願した動機だと言う。しかし、そのことと、愛国心が「殺すなかれ」よりも上に行く理屈が、やはりわからない。この辺りは、観た人と直接論議したいところです。(あらすじ)本年度アカデミー賞2部門受賞(編集賞、録音賞)第二次世界大戦中、デズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)は軍に志願したにも関わらず、上官の大尉(サム・ワーシントン)や軍曹(ヴィンス・ヴォーン)たちの命令に反して、銃を持つことを拒否する。子供時代の苦い経験から、人を殺めることを禁じる宗教の教えを固く信じていたのだ。さらに、毎週土曜の安息日を主張したこともあって、上官や同僚(ルーク・ブレイシー)は彼につらく当たり、遂には軍法会議にかけられてしまう。※PG12監督 メル・ギブソン出演 アンドリュー・ガーフィールド、サム・ワーシントン、ヴィンス・ヴォーン、ルーク・ブレイシー、テリーサ・パーマー、ヒューゴ・ウィーヴィング2017年7月6日TOHOシネマズ岡南★★★★「忍びの国」かなり好みは分かれるかもしれないが、原作者が言わなかったことで、監督が描こうとしたことは、「虎狼の族(ころうのやから)」とは何かを示したラストの1秒で全てを物語っていた。無門があまりにも変わり者過ぎて、共感が持てないという意見も当然あるだろう。中村義洋監督の主人公は、みんな変わり者なのだから、そこはある程度は慣れてもらうしかない。無門が、戦場で喜々として動き回るつくりは、映画的な面白さがあったが、最後の落とし所は「予告犯」ほどの鋭さはなかったと思う。(見どころ)「のぼうの城」「村上海賊の娘」などの作家・和田竜の小説を実写化したアクション時代劇。伊賀忍者最強とされる男・無門が、織田信長の息子・信雄の軍勢と伊賀の国との戦いに身を投じる姿を追う。メガホンを取るのは、『ジェネラル・ルージュの凱旋』『予告犯』などの中村義洋。中村監督作『映画 怪物くん』などの大野智が、怠け者ながら腕は確かな主人公の忍者を演じる。大野の体を張ったアクションや、武力だけに頼らず知略を駆使した戦いの行方に目を奪われる。(あらすじ)戦国時代、忍びの国として名高い伊賀。超人的な戦闘能力を誇り、虎狼の族と呼ばれる伊賀忍者の中でも特に腕の立つという無門(大野智)は、怠惰な日々を過ごしては妻・お国に稼ぎのなさを叱責されていた。ある日、織田信長の次男・信雄が父ですら手出しするのを恐れていた伊賀への侵攻を、独断で開始する。無門に弟を殺されて伊賀への復讐(ふくしゅう)を果たそうとする下山平兵衛、伊賀の重鎮・百地三太夫や下山甲斐をはじめとする忍者たちの思惑や野望も入り乱れる戦いに、いつしか無門ものみ込まれていくが……。2017年7月9日Movix倉敷★★★☆「メアリと魔女の花」10歳代の子供たちに安心して見せることの出来るアニメでした。ジブリアニメとは明確に違う。宮崎アニメが持っていた「制御出来ないとんでもないエネルギー」は無い代わりに、宮崎息子が見せたようなミスもない、画力、動画、静画、音楽共に合格点が持てるアニメだった。つまり、一言で言えば新鮮味がない作品だった。もちろん、魔女、千と千尋、ラピュタその他、いろんなジブリアニメのアイディアが随所に出てくるのは仕方ない。「もう魔法は必要ない」と高らかに宣言する時、ジブリアニメへの宣言だったのだという批評は、合っているかもしれない。しかし、テーマはそこではない。テーマは、ストレートなくらいに、使い古された、「暴走する科学技術或いは原子力への警告」である。為政者と科学者は、元は良き人だったけど、万能の種である魔女の花を手に入れた途端に暴走し始めて、一度の失敗に懲りずに、動物を犠牲にして準備し、再度の実験を始めて、やはり「力を制御出来ずに」失敗し、メルトダウンと同じ様相を示して、そこで始めて実験を止めようとして果たせず、最後はラピュタよろしく、男の子と女の子の共同の力で止める。大人は直ぐに原発事故と分かるが、子供たちにはその比喩にたどり着くのはもっと先かもしれない。奥行きがないアニメだけど、これぐらいが本来のアニメは良いのだというメッセージならば、そう受け取るしかない。ただし、私たちは二度と見ない。■ あらすじ無邪気で不器用な少女メアリは、森で7年に1度しか咲かない不思議な花“夜間飛行”を見つける。この花は、魔女の国から盗み出された禁断の花だった。一夜限りの不思議な力を得たメアリは、魔法大学“エンドア”への入学を許されるが、あるうそをついたことから大事件に発展してしまい……。■ 解説『借りぐらしのアリエッティ』などの米林宏昌監督がスタジオジブリ退社後、プロデューサーの西村義明が設立したスタジオポノックで制作したアニメ。メアリー・スチュアートの児童文学を基に、魔女の国から盗み出された禁断の花を見つけた少女の冒険を描く。少女メアリの声を務めるのは、『湯を沸かすほどの熱い愛』やNHKの連続テレビ小説「とと姉ちゃん」などの杉咲花。脚本を『かぐや姫の物語』などの坂口理子、音楽を『思い出のマーニー』などの村松崇継が手掛ける。■ キャスト(声の出演)、杉咲花、神木隆之介、天海祐希、小日向文世、満島ひかり、佐藤二朗、渡辺えり、大竹しのぶ■ スタッフ原作: メアリー・スチュアート脚本: 坂口理子脚本・監督: 米林宏昌音楽: 村松崇継2017年7月13日MOVIX倉敷★★★☆「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊」オーランド・ブルーム、キーラ・ナイトレイと共演したシリーズ第三弾が終わって(2007年)、10年経ったが、時代はなんとその19年後ということになっている。このシリーズは、そもそもジャック・スパロウの過去の因縁から物語が始まる。今回第5弾は、なんと第4弾はなかったのごとく、羅針盤やバルボッサやタコの呪いが再登場。しかも当時の主人公たちの子供の世代になっている。今迄の因縁をチャラにする作品として描かれていて、シリーズ好きには嬉しい場面がたくさん。序盤は、ハチャメチャな海賊振る舞いを堪能させ、中盤はメインの活劇、終盤に大団円という永遠の黄金比は健在。定番化した。私はもうこれで終わりにしたいのだけど、最後の要らないおまけを見ると、ディズニーは続きを見せる気満々。まあ、確かに新ヒーローのイケメン(ブレントン・スウェイツ)は、実際はあまり活躍しなかったし、新ヒロイン(カヤ・スコデラーリオ)はもっと見たいと思うほど魅力たっぷりでした。■ あらすじヘンリー(ブレントン・スウェイツ)は、過去に伝説の海賊ジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)と旅をした父のウィル・ターナー(オーランド・ブルーム)の呪われた運命を、何とかしたいと考えていた。そこで海にまつわる伝説を調査したところ、呪いを解くには伝説の秘宝“ポセイドンの槍”が必要なことがわかる。その後、英国軍の水兵になったヘンリーが船に乗っていたところ、“海の死神”サラザール(ハビエル・バルデム)の襲撃に遭い……。■ 解説ジョニー・デップが孤高の海賊ジャック・スパロウを演じる、大ヒットシリーズ第5弾となるアクションアドベンチャー。ジャック・スパロウが、全ての海賊の滅亡をもくろむ“海の死神”サラザールとの闘いを繰り広げる。過去のシリーズにも出演してきたオーランド・ブルームやジェフリー・ラッシュのほか、悪役に『ノーカントリー』などのハビエル・バルデムがふんし、カヤ・スコデラーリオやブレントン・スウェイツらが共演。監督を、『コン・ティキ』のヨアヒム・ローニングとエスペン・サンドベリが務める。壮大なスケールで描かれる冒険とバトルに注目。■ キャストジョニー・デップ、ハビエル・バルデム、ブレントン・スウェイツ、カヤ・スコデラーリオ、ケヴィン・R・マクナリー、ジェフリー・ラッシュ、オーランド・ブルーム、キーラ・ナイトレイ■ スタッフ監督: ヨアヒム・ローニング監督: エスペン・サンドベリ脚本・ストーリー: ジェフ・ナサンソン2017年7月16日Movix倉敷★★★★
2017年08月14日
コメント(0)

「ビッグイシュー316号」ゲット! イギリス映画で、ビッグイシュー販売者が主人公の作品が公開されるそうだ。 「ボブという名の猫 幸せのハイタッチ」。公開されたら必ず観に行く。と、表紙の猫は特集「ここに平和」用のモノかと思いきや、映画の中のヒーローでした。特集のリード文は、以下の通り。「ここに平和」。一人ひとり、私たちはさまざまな違いを生きている。言葉、慣習、人種、 国……。時にそれは偏見や差別となって社会を分断し、紛争や戦争にもつながりかねない。"平和"の源は、日常の中で共有できる生きる喜びや楽しさの中にあるのではないか。 「KitchHike(キッチハイク)」は"誰かの家でごはんを食べさせてもらう"ためのSNSサービス。ある人は「COOK」として料理を振る舞い、「HIKER」は「COOK」を訪ねてその料理を味わう。食事の場が小さな平和の素となる。 ファッションブランド「tenbo」の鶴田能史さんは「1945」「ハンセン病」などをテーマにショーを開催。「みんなが分け隔てなく楽しめるファッションで平和な世界」を目指す。 世界9ヵ国で活躍するNGO「国境なきミュージシャン」は、音楽を通して紛争地の中での和解を、人々のトラウマからの回復を応援する。合言葉は"戦争は分断し、音楽はつなぐ"だ。ともに食べ、おしゃれや、音を楽しむ"平和"の試みを紹介したい。 この中の「平和の源は、日常の中で共有できる生きる喜びや楽しさの中にあるのではないか」という問いかけに、共感する。 特に「キッチハイク」の山本雅也さんが言っていることが重要。 そんな時、ある文化人類学の本に「縄張りに入ってきた部外者と友好を深めるためには、一緒に食事をするのが1番だ。地球上のすべての民族が根源的にこの慣習を持っている」という一節を見つけた。 「ワンコインを出せば、それなりのものが食べれて、食といえば栄養摂取ばかり強調される現代にあって、人がつながる手段としての食もあったことに気づかされたんです。これが草の根から広まれば、世界はもっとよくなると思いました」 「岳飛伝」でも、かつて戦ったことのある大将同士が、食事の場で語らいある場面が二度出てくる。そうやって、岳飛と梁山泊の「連帯」は、出来上がった。もしかしたら、人類からだけではなく、原始人の昔から、平和を築くための生き物の知恵だったかもしれない。この人の本、読んでみようと思う。
2017年08月13日
コメント(0)

「DAYS JAPAN 8月号」 表紙写真。イラクに2回派兵され、PTSDになったスコット。首には、自殺を試みたときに自分で切った傷痕が残る。コロラド州ボルダー、アメリカ。2011年4月30日 Photo by Crang F.WALKER。 アメリカ兵士のPTSDの実態を、映画ではなく、ルポルタージュとして読んだのは初めて。 リード文「アメリカでは今、イラク戦争やアフガン戦争などをを体験した退役兵士が年間約8000人自殺しているという。「テロとの戦争」「正義のための戦争」と声高に叫ばれた戦場は、駆り出された多くの兵士の心を崩壊させた。」らしい。 私はわからない。スコットのPTSDは深刻である。しかし彼は兵役に就いたことをを誇りにしているという。一方で自分のしたこと、しなかったこと、その罪悪感で苦しんでいる。「正しい戦争なんて、もう金輪際信じない」 イラク戦争が正義の戦争でないことを肌感覚で知っているのに、どうして兵役を就いたことを、戦争そのものを肯定できるのか?「ハクソー・リッジ」で持ち上がった同じ疑問が私を混乱させる。 結局、戦争をしている国と、しない国との「感覚の違い」なのだろうか。だとしたら、日本の将来が恐ろしくてならない。 2017年8月10日読了
2017年08月12日
コメント(0)

〆切地獄が終わった。 終わってみれば、まるまる二週間何も手がつかなかった。14日間、約70時間以上、無為に過ごした。多くの用事は縮小され、又は取り止めになり、仕事や約束事だけはなんとかこなしたものの、一切運動をしなかったので体力は落ち、昼夜逆転の生活をしたので、体調を崩して、今なんとか回復しつつある。 その間、実質約束の原稿書きに費やした時間は、おそらく10数時間だろう。 他は何をしていたか、といえば、溜まっていた録画を観た。Yahooのニュースをかつてないほど、毎回チェックした。欅坂46について異様に詳しくなった。(このことについて書き始めると、一つの記事になるので又次回)初期には映画を二本観た。「楽しそうじゃない?」などとは言う勿れ。生活を破綻させてまで、私はそんなことはしたくない。 原因は、はっきりしている。二ヶ月前から、実質は四ヶ月前から、三ヶ月に一回だった映画サークル会報が、二ヶ月に一回となり、そして遂に毎月になったのだ。先月はなんとか乗り切ったが、今回はダメだった。 ホントに順調にやれば5時間ぐらいで済むものなのだ。それが60時間、机から離れて悶々とした時間を含めれば、13日間かかったことになる。ダメだ。なんとかしなくてはならない。展望は未だ無い。二週間以内にまた、あの地獄がやってくる。 以下は、〆切をともかくも終わらせた「ご褒美」に、イタリア料理のコースを食べに行った。やわらかいフィレ肉である。ワインはカベルネソーヴィニヨン。美味しかった。そうだ、今度〆切を守って脱稿したら、盛りを過ぎてすぐに入れるかもしれない美味しいうな重を食べに行こう。そうだ、そうしよう!
2017年08月11日
コメント(2)
いよいよ、ダメになりました。以前「乄切本」について書いた時に「私は連載を二本抱えていて、たいていは締め切りを守れないでいる」と書いた。井上ひさしは、締切守れないものには、第三段階がある。と書いていた。(1)締切が間近なのに、まだ大丈夫とたかをくくる段階。(2)他のことに夢中になる段階。(3)「私はだめな人間だ」「殺してくれ」と叫ぶ段階。井上ひさしは、それでも缶詰めになると症状は治ると書いていたが、素人もの書きの私に缶詰めは来るはずがなく、今までは、ブログ書きや、ネットサーフィンや、少なくななったが映画鑑賞などが(2)にあたっていたが、すでに締切は4日を過ぎ、しかも一日後には次の締切が来るに及んで、(3)のむ非常事態に移った。もはや、ブログ書きに逃避行している場合ではない。すでに自主缶詰は10日ぐらいに及び、50時間ほどは机を前に無為に過ごしているが、もはやブログ書きに逃避行している場合ではない。しばらくブログをお休みします。すみません。、
2017年08月04日
コメント(2)

欅坂46「月曜日の朝、スカートを切られた」が過激すぎ? ファンからは「サイレントマジョリティー」との関連性指摘も 詳しくは、読んでもらうとして、どうやら「物議をかもしているのは、「月曜日の朝、スカートを切られた 通学電車の誰かにやられたんだろう」という歌詞で、自身もスカートを切られる被害に遭ったことがあるという人を中心に約1900人が署名に賛同しています(8月1日時点)。」ということらしい。スカート切り魔の被害を助長するのではないか、ということらしい。物事を批評する時には、できるだけまた聞きは避ける。できるだけ、第一次資料に当たる、ということは「事実とは何か」を教科書にしながら新聞を作った時からの私のセオリである。幸いにも、今回は第一次資料がある。先ずは、問題の歌を聴くべきだ。というわけで聞いてみた。リンク先はユーチューブにつながっている。ぜひ聞いてみてほしい。月曜日の朝、スカートを切られたそのうえで、歌詞も一応検討してみたい。 Lyrics:秋元康Music:饗庭純Arrangement:若田部誠どうして学校へ 行かなきゃいけないんだ真実を教えないなら ネットで知るからいい友達を作りなさい スポーツをやりなさい作り笑いの教師が 見せかけの愛を謳う 反抗したいほど 熱いものも無く 受け入れてしまうほど 従順でもなくあと何年だろう? ここから出るには...大人になるため嘘に慣れろ! 月曜日の朝、スカートを切られた通学電車の誰かにやられたんだろうどこかの暗闇で ストレス溜め込んで憂さ晴らしか私は悲鳴なんか上げない(以上一番目の歌詞のみ)歌詞だけを読むと、「スカートを切られた」という「性暴力」をにおわすような、世の中の「理不尽」に対して、泣き寝入りを決め込んだのように聞こえる。ネットでは「そうではない。これは「サイレントマジョリティーの冒頭のビデオにつながっており、二曲で一つの世界なんだ」「彼女は物言わぬ大多数としてあきらめない」と言っている人たちもいて、その観点から、反対の署名集めも始まっているらしい。私は前半の意見も、後半の反対意見も違うと思う。 確かに、「サイレントマジョリティー」のユーチューブを見ると、見事に「スカート」のラストと、「マジョリティー」の冒頭が重なっているので、作り手はそれを意識していたのはわかる。しかし、曲はその一曲で世界観を持たなくてはならない。二曲で一曲というのは、詭弁である。しかし、もう一方で、曲は歌詞ではない。歌詞に曲が付き、なおかつ、歌手がそれを歌って初めて曲になる。当たりまえだ。その当たり前のことを思いながら、もう一回「スカート」を見てほしい。センターの女の子は「私は悲鳴なんか上げない」と歌うのではなく、強く宣言するのだ。そこには、泣き寝入りなんていう言葉はとうてい思いつかない、確固とした意志があるだろう。彼女の目的はおそらく犯人捜しではない。嘘っぽい世の中の常識、或いは今はやりの「忖度」してしまう社会にたいして、反抗しているのだ、ということが曲全体を見てわかるようになっている。そこまで、曲を聴いて読み取れなければ、この曲を作った意味がない。こういう曲を「問題が起きそうだから、抹殺しよう」という「忖度」する社会自体に、NOを突きつけている。この曲の方針を決めたのは、明らかに、作詞者の秋元康だ。彼は2015年から、意識的に「若者よ、抵抗しろ」「若者よ、自覚的であれ」というメッセージを出し続けている。私は彼をポピュリストと位置付けているので、これも、政府のためにAKB48を使ってきたりすることとのバランス造りだと思っていたが、それだけではないかもしれない、と今思い始めている。
2017年08月02日
コメント(2)

「岳飛伝 9」北方謙三 集英社文庫 いまはある肉も、市場ではもうなくなってくるだろう。肉が、麦と交換されはじめ、その麦も尽きると、市場には食物がなくなっていく。 民は怒り、その矛先は、金国の朝廷や丞相府にむかう。いくら兵糧を蓄えていようと、金軍は戦どころではなくなってしまうのだ。 宣凱が、数年前から考え、そして実行に移し始めたことが、いま生きようとしている。まるで、新しい命が生まれている、という感じがあった。 つまらない、と思う気持ちを、侯真は抑えこんだ。そういう情況をつまらないと感じるのは、戴宗そのままではないのか。 侯真は、思念を、蕭炫材と宣凱という、2人の男にむけた。 「まずいな。好きになっちまいそうだ」 呟いた。侯真は酒の瓶を空け、新しいものを註文した。 早く酔ってしまいたい。そう思うことが、時々ある。(382p) 宣凱の戦略は、当たりつつある。張朔は、南宋水軍との戦いに於いて、終生の友であり兄である狄成(てきせい)を死地に送り込む。今や、30歳そこそこの彼らが、決定的な梁山泊の戦いを指揮する。 岳飛伝も中盤を折り返した。佳境に入りつつある。それでも、私にとって最も印象深かったのは、王清の生き方だ。子午山の最後の子供たち、王進や燕青により鍛えられ、公母により育てられた彼が、燕青に笛を吹かされて、漫然とした生き方を言外に批判される。 「子午山に帰るには、資格が必要だ」。周り回って王清はやっと其処に辿り着く。おそらく王清は梁山泊から離れて、純粋に生きようとしたのだ。しかし結局その生き方はなんだったのか。梁紅玉という「恋」のためにただ笛を吹いていた数年間、漁師をしながら1組の夫婦を破滅に導いた数年間、その落とし前をつけるために夫婦の娘を養っている数年間、そしてその娘は大人になって王清に決断を迫る。王清や蔡豹が、梁山泊の一見戦とは関係ない仕事(米の買い付け)を手伝い始めたのは、やはり必然ではあるのだろう。人生には、まるでエアポケットのように、あと一歩間違えると、罪人のように暮らしていかねばならないようなことしかできなかった時期があるのかもしれない。あの頃の自分も今の自分も同じだけど、なぜあんなことまでしたのか、どうも理解出来ない頃が、人にはあるのかもしれない。王清のこれからの生き方を見守りたい。 2017年7月31日読了
2017年08月01日
コメント(0)
全20件 (20件中 1-20件目)
1