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自分の親友に、ほとんど働かずにすごい収入を稼いでいるごつい知り合いがいます。前から聞いてはいたんですが、今回、その彼が本を出した、ということで、本格的に彼のことを知りました。http://kawashima.tk/すごいですね。すごい学び方と稼ぎ方・・・。学ぶスキルは、仕事だろうが健康だろうが、何に置いても一生ものの財産ですから。自分も買って読みましたが、異様なほど具体的で、使いやすいノウハウがつまってます。話題の本でもあるみたいなので、紹介してみました。個人的には、相当おすすめです。
2009年06月18日
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『ダメなヒトの10パターン』という なかなか興味深い記事を日経ビジネスで見つけました。 「あ~、いるなぁ、そういうヒト」と、異様に共感するところと、 「やべっ・・・」っと思うところがそれぞれ(笑)。 そこで改めて思い直しました。 健康でも、仕事でも、人間関係においても ものすごく重要だと思う原則として、 ★『プラスをがむしゃらに作るよりも、重要なマイナスを 取り除くほうが、成果への影響力は大きい』 というものがあります。 そして、この原則からはずれて失敗するケースって、 本当に多いと思います。 例えば・・・ (続きはこちらから▼)http://hannarishef.blog68.fc2.com/blog-entry-24.html
2009年05月26日
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突然ですが。【Q】 部屋が臭いな・・・と感じたら、まずどうしますか?ファ○リーズ?それとも・・・。●便利さが脳の成長を止める:その選択には、とても重要な、『脳の成長のストッパー』となる、罠が隠れています・・・。▼続きはこちらから▼http://hannarishef.blog68.fc2.com/blog-entry-23.html
2009年05月24日
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新しい試みとして、コツコツと、 ●無視できない脳の性格というのを、まとめていこうと思います。仕事でも、プライベートでも、自己管理(健康含む)でも、こんなに便利な知識はなかなかないな・・・と。というのも・・・ 脳について詳しくなる大きなメリットとは?: ●もともとは、中学のときから心理学に「すんげえ興味」がありました。 (臆病な子どもだったので、色々と怖かったんでしょうね(笑)) ●本を買いあさって色々調べてきました。 ●でも、座学の限界をすぐ感じました。(超、「その人ごとのこと」なので) ●「現場」を持たないと使える技術にならないと思い ●営業をしたり、教育の事業に関わったりしてきました。 ●そこで学んだ心理学の現場への応用は もちろん効果的になのですが、もう一歩、便利なものに気づきました。 それが、「脳の性格を知ること」でした。 なぜかというと・・・ ●心理学を考えていくと、どうしても『個別』になっていくんです。 (10人10色の性格、状況、環境にあわせて多種多様) ●でも、『脳』は誰でも持っていて、常に使っています。 ●かつ、『個別でなく』、『多くの人に共通する傾向、法則、反応パターン』 がたくさん出てきます。(脳という環境にある程度支配されてますから) ●この『脳というシステム』を土台に、感じたり考えたりしていることが 多いので、 ●心理の土台にも、この脳があると言ってもいい部分が大きい。 ●ということで、『脳の性格』をおさえておけば、かなりの部分の 人間の行動、心理、その傾向と対策を考えやすくなる。というロジックです。長くなりましたが、新しいことなので動機をはっきりさせてみました。 ●自分への理解と、自分のコントロール(思考、感情、行動、健康) ●ロジカルな思考力の強化と、その障害物への対応 ●感覚的な能力の自覚と、その活用、コントロール ●他人の気持ちの理解、コミュニケーションの円滑化、質の向上 ●効率化 (個人、チーム、組織および、それぞれの環境)というあたりに、「効く」ものとして、脳学者さんの本と事例を材料に、まとめて行こうと思います。 無視できない脳の性格(1) 『リズムを愛する』:脳は、かなりリズムのよさを愛します。(抽象的ですが)言い方を変えると、「リズムに左右されます」。じゃあ、そのリズムはどんなものが良くて、どう作るのか?をまとめると・・・●良いリズムは、「一定」であること、「規則性」があること。 (要は、心地よいこと。太陽も海も心臓も、大事なものはけっこう、 一定のリズム・サイクルを持ってます)●「脳への入力=色々な刺激」によって作られます。●刺激の種類は、 ・外部からの情報 (視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚) ・自分の行動 (話す、動く、などの発信) など→これを、日々使いやすい応用案を考えると、●できるだけ、起きる時間、メシを食う時間を一定にする●朝、五感を使う →一日の脳のパフォーマンスが良くなります。 ・一日の予定を、五感全部使ってイメージする(メリット超多いです)、とか、 ・新しいことを学ぶ (本でも何でも良い) ・朝ごはんをプチしっかり作るのも、かなり良いです ※料理は意識的にやれば、5感を全部使える、究極の脳トレです。 (味わう、嗅ぐ、見る、触る、聴く、プランをする、編集する、修正する ・・・などの、脳の高いレベルでの活動がほとんど含まれます)●足、手、口、目をよく動かす。(エコノミー症候群の逆ですね(笑)) ※脳って実は、「考える」よりも、「身体を動かす」ことのほうに 活性化される部分が大きいです。ボケ防止にも、手(身体)を動かす動作が 入っていることが多いのも、この理由からです。 (参考:「脳の中のこびと-ホムンクルス http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/brain/brain/32/index-32.html)●自分のためだけの時間割(習慣)を作る ※相当大事です。以下は例。 ・朝は、脳にいいことをする (ちょっとした体操、五感を使うものなど) ・午前は想像力を使うことに時間を使う ・ヒトと会うのは昼~夕方に固める ・○時以降は、モノを食べない ・週に1度は、自分の今目指しているものと現在地とルートを見直す ・2日に1度は、身体を動かす など。 ※脳は、そのための準備をして、内臓の機能も含めて、 「ベストな状態」をそのタイミングで用意するように学習してくれます。●「一気に変化」しようとしない。「その目標に向かって少しずつ 『脳を慣れさせる』」というやり方を覚える。といったことを、無理のない範囲で、意識してみましょう。かなり、パフォーマンスも、身体の健康度合いも、よくなってくると思います。 雑記:他のこともそうだと思いますが、人間は特に、「性能の良い・悪い」があるわけではなく、「使い方、活かし方の良い・悪い」があるだけ、だと本当に思います。ただ、その「最高な活かし方」を考えて実行してくるのは、絶対に他人ではなく、自分ですよね。(言わずもがなですが)上司でも家族でもなく、絶対に、自分です。(これを、他人だと思ってると、ニートになります(笑))かなり長くなりましたが、第一回目はこれぐらいで・・・。(シリーズ的に、まとめていこうと思います)-というわけで、勝手に新シリーズを始めましたが、この作業自体が、相当自分の脳トレになるな・・・(笑)。
2009年05月23日
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5月。急にあったかくなりましたね。こういうときは注意です。花々と一緒に、骨盤が自然に開きます(一般的に)。気候の変化に合わせて、体も変化しますから。いいことではあるのですが、不安定を経て安定に向かうので、風邪~腰痛まで、体調の変化もおきやすい時期です。治療院にくる患者さんも、連休明けからドバっと増えてます。いつもどおり、旬の食材で体の健康づくりを補助するとともに、カンタンにできる、骨盤、体のゆがみケアを紹介します。(この効能は、疲労予防・回復~ダイエット支援まで、かなり広範囲かつ大きいです)------------------------------------------------------------【カンタン 骨盤・体の歪みケア】ユーチューブに、試しやすくて効果も高いものがあったので、そのまんま(笑)紹介します。これ、かなりいいですね。全身を柔軟に保つのに役立ちます。そうすれば、多少の体調の変化も、「うまく、さらなる健康になるためのきっかけとして経過」できます。http://www.youtube.com/v/YbRFhnAjPdU&hl=ja&fs=1------------------------------------------------------------【5月の旬】うど、かぼちゃ、アスパラ、グリーンピース、クレソン、ごぼう、さやえんどう、そらまめ、たけのこ、たまねぎ、にら、ふき、じゃがいも、しいたけ、マッシュルーム(実は、いちご)いさき、かつお、カレイ、きびなご、たこ、ひじき、ホタテ、わかめ------------------------------------------------------------「未病」という言葉もはやってますが、大事なのは日ごろのケア、ですね。誰よりも、自分自身が、「もっとも影響力の強い、自分の主治医」です。からだケアを楽しむ健康習慣を、身に着けていきたいですね。(無理や義務感でやると、効果も小さいので・・・)皆さんも、それぞれ楽しい健康法を試してますか?もしよかったら、ぜひ教えてください。マイナスでさえなければ、小麦粉でガンが治ることもある僕らのカラダですから(笑)、自分にあったものが一番ですね。
2009年05月23日
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日本の中の、世界一。 いくつかありますが、寿命 はけっこう興味深い世界一ですね。 (今朝のニュースより) 『平均寿命83歳 日本首位守る WHO統計、07年時点』 学者さんの中には、 『人間は本来、150歳まで生きるようなカラダに作られている!』 と、豪語するヒトもいます。 健康に生きるうえで、けっこう面白いヒントになりそうなので、 日本の何が良いのか、健康レシピの一環として、 いったん情報収集・整理してみました。 要点のみ集約: 1)和食がやっぱりむっちゃカラダにいい 2)独特の生活文化 (過ぎたるは及ばざるがごとし的な・・・) 3)四季がある(自然からの恵みも、食も豊富になる) 4)治安もずいぶん良いほうだし、戦死者がいない 5)医療技術が高い(そのため、病死率、乳児死亡率が低い) 自分として、強調したいのは1)、2)ですが、 カンタンに影響力が強いのは、ほぼ、 1)、4)、5)、でしょうね。 ※90歳まで生きた人がいても、生まれてすぐ死んだ人がいたら、 平均寿命って、一気に45歳になりますもんね。 そういう条件を抜きにして、調べていくうちに改めて感動したのは、 『日本食の素晴らしさ』でした。 日本食って、何がそんなに素晴らしいのか: カラダにいい食べ物、って何でしょうか? ▼条件面でいけば・・・ ○消化に良い、それどころか消化を助ける ○栄養価が豊富である ○エネルギー効率が良い(パワーになりやすい) ○自然に近い(加工度が低い。ただし、発酵食品は別) ○過度な調味料、添加物など、余計なものが少ない といったところ。(マクロビや、薬膳などの情報より) ▼これに当てはまる要素、相当日本の食の中に多いんですよね。 □海、山の幸が豊富 (山だらけ、海だらけ) □基本、薄味 (カナダ留学とか、外国を旅すると、本当に実感) □優秀なたべものが、通常食の中に入り込んでる (しょうゆ、大豆、味噌、豆腐、納豆、刺身、野菜、おから・・・etc) □手をしっかり加えた、消化にいいものが多い (煮物、発酵食品、などなど) □よく噛む習慣 □「腹八分に医者いらず」という思想 ・・・と思ってみたら、逆にショック。 これって、一部では見直されつつあるものの (それこそ、マクロビオティックの復刻とかありますけど・・・) 日本からどんどん失われつつある食習慣ですよね。 うーん、だからこそ、余計に大事にしたい。 もちろん、自分の健康のためにも。 改めて、見直してみましょうか: アメリカの食文化が入ってきて、かなり 日本人の健康が壊れた、といいます。 別にアメリカ食を否定するとかそういうのはおいといて、 『日本人のカラダに合ってない』のは明らかですよね。 上記の、 日本の食の良い傾向・・・ どれぐらい、今の自分の食に当てはまりますか? けっこう、 「食習慣」って、祖先が残してきた、 本当に「国民性、DNA、体質」にベストな財産だと思ったりするんですよね。 こんなに毎日毎日 「多くの人数が実験を繰り返してきて」 「犠牲もたまに出たりして」 「特に意識しなくても、効果検証が繰り返されて」 「常にベストを探られてきた」 「名前のない研究テーマ」 って、他にないと思うんですよね。 というわけで、今日の健康レシピとしては、 単純に、「日本の食」を ちょっと見直してみましょうよ、というお話でした。
2009年05月22日
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ブログを引越ししました。一歩踏み込んで、また健康フェチな内容で書いてます(笑)。自宅でできる健康のコツ、面白ネタなど、興味があれば、ご覧になってみてください。自宅で整体・心身健康レシピ by はんなりシェフhttp://hannarishef.blog68.fc2.com/
2009年05月22日
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ゴールデンウィーク。たまらないほど、蒸し料理がうまい。ゆで料理も、うまい。休みのたびにおもう。食の好みが、おじさんを通り越して、坊主のようになっている。いや、食だけじゃなく、このところ花やら季節の香りやら野良猫の表情やらが、やたらと氣にかかる。なんでだろう。ロハスの中身は知らないけれど、『不自然なもの』に敏感になり、『自然なもの』への静かな愛着が沸いてくるようになった。(ちなみに、ロハス、ということにギンギンして流行のように なって消費を促す水路になっているのは、不自然な矛盾だと感じる)そして話しは戻って、たまらないほど、蒸し料理がうまい。塩かポンズだけでいい。または、何もつけずに食べてもいい。野菜とか肉って、別に何も味付けしなくてもこんなにうまいのね。と、なぜか「毎回飽きもせず」おもう。(立派な「持続可能」のキーワードかもしれない)味付けって、本当は「ついで」だったんじゃないか・・・。(ただの仮説)だって、本当の味は、味付けをやめてみないと、味わえなかった。そしてそれは料理だけじゃないのだろう、とふとおもう。ずっと自分は、「足し算」ばかり考えていた。(スキルだとか、ツールだとかグッズだとか)今、世の中にも、「足し算」をススメルものは多い、とおもう。「幸せになる」手段として提示されるものは、ほとんどが足し算でできている。何かを買いましょう、とか、何かを始めましょう、とか。どこかへ行きましょう、とか、身に着けましょう、とか。(ものを作って売る、というサイクルをまわすために必要なのは差し引いても)本当はそうじゃないかもしれない。少なくとも、それ「だけ」ではないだろう。蒸しただけの野菜みたいに。いちど、調味料やらデコレーションやらで見えなくなった本質を、かきだしてみる。幸せになるために何をしたらいいか、なんて足し算前提じゃなくて。そもそも、そんなものを手に入れて、本当に満たされるか?って疑いたいし、何があれば、じゃなくて、どんな状態に喜びを感じるか、って考えたい。幸せの定義も、借り物じゃないか、って見直したい。余計なものや、借り物ばかりがたまったら、心のメタボリックシンドロームになるかもしれない。足し算より、引き算。買い物より、大掃除。癒し旅行より、紙とペン。「そうなの?」より、「ほんとに?」。同じぐらいか、より大事かもしれない。ゴールデンウィーク。僕らは所詮、アニマル。シンプルな生活に、つれづれな散歩を繰り返し、「土台は動物としてのよろこびだろうな」と改めておもう。引き算。個人の充実にも、環境問題にも、意外に大切なんじゃなかろうか。すべてのものごとに本質があるとしたら。絵として考えても、あきらかに、何かを足すより、余計なものを引いたほうが見やすくはなりそうだもんな。草々。
2007年05月05日
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また、近所に新しいマンションができた。 近所に大型の建築工事が始まると、 つねに『東急ハンズ』を期待してしまう、 という夢見がちな癖がある。 ただ、西新宿五丁目、という立地もあって、できるのは ほとんどがマンション。 (今まで一番嬉しかった新しい建造物が、 松屋、という目標達成度ぶり) よく、古い建物が壊されて、跡形もなくなって、 更地になって、びっくりするスピードで雑草が生えて、 地盤作りが始まって、あっという間に建物ができる。 よく、そんな風景を、定期的に見る。 最近ふと、『地盤作りが一番長いな』と気づく。 目に見えない部分だけど、とても大事なんだろう。 目に見える部分で基本的な生活を『する』。 でも、目に見えない部分が、生活を深いところで『守る』。 色んな人にも。色んなアウトプット(モノ、サービス)にも。 同じように、地盤とタテモノ、を想像してみると なんだか面白い。 本当にすごい人や、すごいものは、地盤がすごい、 という感覚がある。 それは、どんな地盤に建ったものか。 モノゴトの本質を見るときに、考えやすい 『メガネ』かもしれない。 【今日の仮説】 ▼人間の身体の地盤は、骨盤じゃないか。 ▼歴史を知る価値は、地盤を知ることかもしれない ▼新宿地区にはこれ以上ハンズは必要ないのかもしれない
2006年10月21日
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■子どもの頃の自分が教えてくれることアルバムを丁寧に眺めるように、小さい頃のことを思い出すと、ふと、大切なことに気づいたりする。最近、すごく参考になるのが、『自分自身の小さい頃の悩みと、その乗り越え方』だ。今の僕の悩み。それが、小学校に柔道をやっていた頃の悩みととても似ていたりする。『理想形と現実とのギャップ』『自分自身の強みと弱みを知る』『そもそもの心の置き所を修正する』などなど・・・。それらの対策としてやってきたこと。「鏡をよくみて、違いを探して、繰り返し反復練習」「他のメンバーと比べて得意なことを探して伸ばす」「何のために柔道をするかを考え直す」などなど・・・。僕ははっとした。↑の中で、ビジネスの成長と関係がない部分が一つとして、ない。すべてが、今の自分に応用ができることだ。■武道とビジネスと、そんなこともあって、気づいてしまった。実は、武道に大切なことは、ビジネスに大切なことと、面白いほどよく似ている。武道の基礎って何だったか。うろ覚えではあるけれど。最初に、礼儀、姿勢、気合、構え、型、呼吸、声、基礎の反復、手本があって(他にもあるだろうけれど)、それを『土台』とした経験の中で、体力、知識、技術、知恵なんかがついてきて、真剣勝負を繰り返すうちに、いつしか、自分との闘いが始まり、独自性、が現れてくる。最近、よく考える。↑のプロセスは、ビジネスと全く同じじゃないだろうか。何十年も脈々と受け継がれてきているものには大先輩たちの財産がたくさんつまっている。そして、そう考えるのはとても嬉しいし、有益でもある。武道をビジネスに応用する。まずは、心構えと基礎体力から、見直してみよう、と思う。■自分が背負っている『優しい遺産』。そして、今回の体験のように。子どもの頃の自分の弱さ。その子どもの自分が教えてくれること。それは、今の自分を大きく支えてくれることがある。そして、今回の武道の例でいうなら、昔の人たちの弱さと強さ・・・。それは、今の自分をとても大きな力で支えてくれる。僕らは、歴史の中で生きている。僕らはきっと、多くの財産を、『すでにこの手とカラダに持っている』。そして、感謝できる気持ちさえ持って見つめるならば、その財産は、いつだって自由に力を貸してくれる。そんな発想で、見直してみたい。自分自身や、両親、上司、先人たち、会社、文化、日本、環境・・・etcなんだか、とても優しいらせんの中に、自分がいることを知る。さて。新しいものばかり求める前に。すでにその手にあるものの『内側に隠れている宝物』。それを見つめ直してみることは、きっと、素晴らしい。ささやかな、提案です。
2006年07月30日
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大きな男と、小さな男の子。二人が親子なのかどうなのかは、わからないが、真剣な声が聞こえてくる。何か、大切なことを伝えられる最後の時のような・・・。------------------------------------------------- お前がこれから、どう生きるか。それともさっさと死ぬか。そのために大事なことはそんなに多くねえ。だから、一つだけ教えてやる。他のことなんて、自分の頭で考えろ。まず言っておくが、俺はごたくならべるやつは、嫌いだね。いいか、本当に成功したかったら、何が必要だ?これだけは教えてやる。信と食と武器が必要だ。それぞれ、何のことか、わかるか? 食ってのは、金だ。武器は、そのまま、誰にも負けない武器だ。信は、人の信頼だ。これだけは、大昔から、何も変わらない。ただのごたくは、その3つともを、お前から遠ざける。だから、ごたくを言うのはやめろ。まずはそれだ。じゃあ、この3つで、一番大事なものがどれか、お前にわかるか? 金じゃねえよ?武器があれば、金は作れるだろ?逆に、武器がなくなれば、金がいくら入ろうが、お前の手元には残らない。じゃあ、武器か、ってえと、武器でもねえ。いくらお前がすごい武器持ってても、信頼がなければ、誰もお前のもとに集まらない。そこに成功なんて絶対にない。そうだ。信だよ。信が一番大事だ。信があれば、武器なんて人が与えてくれる。人がお前を鍛えてくれる。人が武器を貸してくれる。信と武器があれば、人が集まる。金だっていくらでも集まるさ。そしたら、何だってできるだろ?面白いに決まってるさ。 じゃあ、一番大切な信を集めるためには、何をしたらいいと思う?ごたくを言うのをやめることさ。それとな、死ぬほどシンプルだが、一番大切な成功の原則を教えてやるよ。「やれ!」ともう一つ。「やりまくれ」これだ。もう、これしかねえんだよ。色々やるしかねえんだよ。成功者を見てみろ。「たくさんやった奴」しかいねえんだよ。チョロっとやって本当に成功した奴なんていねえよ。勝率なんて凡人と変わらねえぜ?たくさんやっただけだ。お前が10回、やってる間に、成功者は、100回やってんだよ。そしたら、10倍、信が集まるだろ。そしたら、100倍、人が集まるだろ?そしたら、1000倍の武器が集まるんだよ。そしたら、金なんて10000倍集まるぜ?負けた数も10倍だが、勝った数も10倍なんだよ。そのうち、勝率があがってくだけだ。戦いの経験が多いからな。当たり前だろ?どれだけ行動するか、なんだ。成功法則なんて、色んな種類のことが、いくらでも本に書いてあるだろ?じゃあ、なんでこんなに成功者が少ないんだ?誰も、「やってねえ」んだよ。ちゃんとやってねえだけ。行動が足りねえんだよ。わかるか?だから、ごたくなんかいらねえよ。やれよ。やってたら伝わるよ。 ちなみに、ヤル気とか関係ねえよ?ヤル気なんてやりだすまで出ねえから。ヤル気がないなら、「やれ」だよ。余計やれ、だ。もひとつちなみに、「何をやるべきかわからねえ」なんて言い訳にもならねえよ?そんなわけねえ。逃げてるときにしか出てこねえよ、そんなセリフ。やれることなんて、目の前にいくらでもある。『目の前のこと』から逃げてるから、そんなセリフが出て来るんだよ。『やれ』よ。やったら、次に何をするべきかも、何をしちゃいけないかも、自分でわかるよ。自分でわからないと、いつまでも変われねんだよ。目の前のことから逃げるやつに、「本当にやりたいこと」なんて絶対できねえからな。当たり前のことだけど。やりきれよ。どんどん次のことをやりきれ。そしたら、次の場所に着くこともあるよ。本当のやりたいこと、とか言う前に、500回、目の前のこと『やって』みろ。そしたら、本当のやりたいことに、『連れてかれる』ぜ。まぁ、これはそのうちわかるよ。とにかく、やれ。たくさんやれ。やればやるほど、信は集まる。武器も集まる。金がついてくる。それだけでいいんだよ。それだけでいい。さあ、お前は何をやって、生きるんだ?
2006年07月20日
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●中田選手のコトバと、本質。中田選手が、『自分探しの旅』と言った。ありきたりなコトバだ、と思った。ただ、社会や現実との対峙を避けた人が言う『自分探しの旅』とは、含まれている意味が全然違うのだろう、とも思った。ー『本質』。ものごと、コトバ、出来事。目に見えるものの奥に、本当の意味が隠れている。簡単な例で言えば、「ちょっと喉かわかない?」と聞かれたときに、「ああ、俺は大丈夫」と素で応えるなら、本質はまだ見えてないかもしれない(笑)。だって、その子は、喉が渇いているから。その『気持ち』、何か飲みたい、という気持ちが、「ちょっと喉かわかない?」ってセリフの、本質だと思う。そして、こんなことは、カップルの間だけじゃなくて、仕事でも、遊びでも、色んな場所で起こる。ーなぜ?なぜ、自分がこの仕事を任されたのか。なぜ、この人は自分にこういう態度をとるのか。なぜ、この会社が存在するのか。なぜ?・・・なぜ。この本質を見る目がないと、僕らは本当のコミュニケーションができない。人と、つながれない。信長、秀吉、家康を知れば知るほど、彼らの『本質を見る目』の正確さ、早さに感動する。実は、人と、だけではなくて、ものごと(企画などもそう)、出来事(大きく言えば時代)、時間(大げさに言えば自分の命)とも、コミュニケートできない。そういう怖さを、強く感じるようになった。●自分探し、って何だ?自分探し。キーワードのようによく耳にするようになったけれど、あなたが探している『自分』とは、なんだろうか。それが言えなければ、しばらく終わらない探し物かもしれない。探そう、と思うのをやめたときに見つかるものかもしれない。探しものにはコツがある。それは、探し物のことを詳しくしっていることだ。もっと言えば、『定義付け』ができていることだ。例えば、名前を知っていることは、大きい。友達に探し物を手伝うときに、『透明で、小指の先ぐらいの大きさの、 もろくてガラスみたいなものを探して欲しい・・・』というよりも、『ハードのコンタクトを探して!』というほうが、自他共にわかりやすい。見つかるのも、早いだろう。これは物理的なものの例だけど、心の中のものだろうとなんだろうと、原則は変わらない。●『自分』ってなんだ?もう一度戻って、あなたが探している『自分』とは、なんだろうか。そうすると、コンタクトレンズの例と同じように、そもそも、『自分』と(いう名前の意味)は何か。ってことが、大切なヒントになってくる。ものすごく面倒臭そうな問いに聞こえるかもしれない(笑)けど、シンプルに辞書をひくと、『おのが分』、と書いてある。僕の解釈にはなるけれど、この『分』は、『分際』だと思う。つまり自分、という言葉の単純な意味は、『自分自身の分際、身のほど』ということだと思う。さて、今の↑で、ある程度自分が見つかったりしないだろうか(笑)。●『自分探しの苦しみ』の終わり。僕はずっと、『自分探し』が苦しかった。『探さなければならない』と思っていた。今の自分が、自分らしいのか、わからなかった。なんだか、今の時間、今やっていること、今の自分自身が空しいかもしれない、と、ずっと不安だった。でもそれは、ただの妄想だった、と今になって思う。僕は、自分自身を試すことで、自分を知ろうとした。そして、今のNCAで2年ほど修行をさせてもらったとき、自分探しの第一幕は終わった。『自分』が見つかったからだ。見つかった自分、とはなんだったか、というと、『俺は、ただの学生だ』ということ(笑)。それだけ。ものすごくシンプルだけど、それは真実だった。自分の身のほど、を知った。 まだ何もすごくなんかない。 でも、たった今、すごくなんかなくていい。と、ハラの底から思った。 じゃあ、これからすごくなれるように、誰にでも やれることから、やりまくって、早くすごくなろう。と、決意した。そうして、『自分探しの苦しみ』が終わった。なぜか僕は、心の底から安心した。多分、『たった今、すごくなんかなくていい』と思えたからだろう。それは、自分自身が、自分の存在を許した瞬間だった。●自分探しをしている人が空しくなるのはなぜか。自分探し、をしている間、僕はずっと『今の自分ではない自分』を探していた。実はそれは、『今の自分自身』を否定する心の動きになってしまう。多くの人も、同じ仕打ちを自分自身にしてしまっているんじゃないだろうか。自分探しをすればするほど、知らず知らずのうちに、『今の自分』を嫌いになっていく。だから、自分探しは、途中から空しくなり、いつか、苦しくなってくる。僕は不安となぞが大きくなるのを感じたまま、働いていた。でも、あるとき、そんな不安を見て取った人が、僕に大切なことを教えてくれた。「あなたがまだ何もできないのもドジなのもわかってる。 でもウチのスタッフがあたなを好きかどうか決めるのは、 そんな基準じゃない」僕は、一生忘れないだろう。だから僕は、自分の身のほどを知って、「自分なんて大したことねえな(笑)」って笑えた。初めて、自分自身の存在を許すことができた。それは、絶望じゃなくて、希望だった。『今の自分で、まずはOK』と思ったら、これから、いくらでも頑張っていける、と思った。それは、スーパーマリオで言えば、スターを取った状態だ。無敵。だって傷つけられるような立派な自分なんて、『まだいない』から。ゼロ。ゼロになるカラダ、だ。(@千と千尋の歌)そうして僕は自分の結論を得た。『自分を探すんじゃなくて、作っていけばいいんだ。』 ●探しもののコツ2(蛇足)あとは蛇足の余談。僕は今、自分作りにいそしんでいる。でも、『すげー自分』を作る覚悟を決めて働く中で、見えてくる自分の強さや弱さがある。覚悟があるから、見えてくる。本気でやるから、自分のごまかしようのない本質が現れてくる。それは、『自分発見』だ。それが、『成りたい自分』を教えてくれる。それに向かって自分を作っていく覚悟をまた決める。必死で『自分を賭けて』働いてみる。そしたら、また、自分発見。あれ?自分探しが、少しずつ成功していく。というわけで、探しもののコツ。●『何』を探すのか、がはっきりしていること。●そのものを探すよりも、やがてそれが必要に なること、に全力を尽くすこと。 (多くは、目の前の仕事や与えられている環境の中にある)というのは、原則かもしれない。逆に、気をつけたい本当に怖いこと。『疑われなくなったものは、その本質を失いつつある』世の中に垂れ流しの流行っちゃっているものやコトバ。本質が少しずつ死んでいる、と感じる。自己実現、成功、幸せ、成功法則、スピリチュアル・・などなど。ちゃんと自分の頭で疑って、今回のように考えていきたいな、と思う。さっきのコトバの逆に言えば、『本質をつかみ続けるためには、そのことの本当の意味を 見つめ続ける継続的な意思が必要である』ということだと思う。なんだか、子育てに通じるものがありそうだ(笑)。
2006年07月16日
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できれば悩みなんかに苦しまずに生きたい。と思っていたら、一つの応えが見つかった。INGで生きる。OPENで生きる。キーワードを一つもらった。僕は、INGで生きる。そしてもう一つ、自分で見つけたキーワードが、オープン。まずは、とても大切なINGの体勢について、考えをまとめてみたい。●INGって何?INGの意味は、『今~し続けていること』。止まらないこと。止めないこと。流れを意識すること。なぜそんなことが大事か。僕らが悩んだり、落ち込んだり、つまらなくなったり、事態が悪化したりするのは、『流れを止めるから』という大きなパターンしかない、という気がしているからだ。要は、その『パターン』を抜ける方法があれば、ムダに悩んだりしなくなる、という発見だ。-------------------------------------------------この前、急に家のガスコンロがつかなくなった。あー嫌だ。って思った。なんどもカチカチして、ストレスをためつつ『やっぱりダメなこと』を確認して、また、あー嫌だ、って思って、ちょっと悩んだ。そのあと、仕方なくガス会社の資料を探して問い合わせをした。直しに来てくれることになった。そうすると、なんだかホッとして、いやな気持ちが解消した。なんてサイクル、色んな人にあるんじゃないか。そこで、仮説。【この『あー嫌だ』は、省略できるんじゃないか】嫌だと感じるのは、『自分が止まっている』から、嫌だ、という感情に収束するだけなんじゃないか。要は、ガスコンロが消えた、で「止まらなければ」いい。ガスコンロが消えた、『じゃあ』、そのままガス会社に連絡をして、整備に来るのを待つ、って状態にできれば、あとは整備会社が『動いている』。つまり、流れている。そうすると、物事は解決に向かって進み続けるから、悩まない。悩む必要がないから。そうしたら、自分はINGでいられる。前を向いて、進み続けられる。そしたら心は、『晴れ』だ。-------------------------------------------------人間のカラダと心にもきっと、『慣性の法則』がある。だから、『頑張り始める』ことはつらいけど、『ちょっとずつ努力を続ける』ことは、実は楽だ。だって散歩するのに、5歩ごとに1回足をそろえて立ち止まっていたら、ものすごく面倒くさいはずで。歩き続けた方が、リズムよく、楽しい。思考も進むし、脂肪燃焼も進む(笑)。半分は冗談でも、この事実は、『命が進む』のは、INGのときなんだ、っていう仮説を、心身両面で裏付けてくれている気がする。-------------------------------------------------だから、悩みも嫌なことも放置しない。打ち手を何かしら打つ。下手でもいいから、『流れを止めないこと』。一番早くて、本当は、とても気持ちがいい。余計なことに悩まなくて済む。逆に、悩み続けているときは、INGでいられていないサインだ。イライラも同じ。誰だって、嫌に思っていた掃除が、途中から面白くなってきて、気づいたら徹底的にキレイにしちゃってて、気持ちよかった・・・という感覚を持ったことがあるんじゃないか。やる気は、やり出さない限り、出ないなんて真実もある。INGになり出したら、そんな風に、スポーツ感覚で、命が充実して進む。そしてきっと、INGで生きる人は、魅力的だ。安っぽい『プラス思考』じゃなくて。『プラス志向の行動』の中にいられるから。『答え』を決め付けず、『応え続ける』。ING。僕は進行系でいよう。よく考えたら、いつ死ぬかわからない人間は、『完了形』にはなれない。本当は最後までずっと、『現在進行形』を生きるしかない。『答え』を求める幻想はきっと、『現在停滞形』であり、それは多分、『現在手痛い系』だ。(ゴロがあるのも、偶然じゃない気がする)生きる、って、もしかしたら、単純に、そういうことかもしれない。プロセスカットの、反対。進行形でプロセスを全力で生きる。可能性をつくり続ける。成果は、途中、ただの『結果として』出て『来る』もの。(もちろん、成功と呼ばれるものも、失敗と呼ばれるものも)ゴールも、『途中の乗り換え駅』みたいなもの。すべては、実は、『命という大きな進行形』の中の、プロセスなのかもしれない。プロセスと結果の重要性を比較する議論があるけれど、本当は、対立概念じゃない、んじゃないか。(これは新しい仮説だけど)結果は、プロセスに『含まれる』とか。まぁ、難しいことはいいんだけれど。そんな風に考えたら、なんだか色んなことが楽になるんじゃないだろうか。進行形で、生きてみよう。
2006年07月09日
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(ぼやき) 『答え』はまだない。なぜなら、 用意されたものは、『自分にとっての答え』ではありえないから。 あるのは、『応え』だけ。自分に起こるすべてのことへの、『応え』だけ。 そのメッセンジャーに対して、自分は何を見て、何を聴くのか。 何を得て、何を味わうのか。 そして、『メッセージ』はない。『メッセンジャー』だけがある。 だから、表層にある文字や言葉は、象徴でしかない。浮き草のようなもの。 水面下に、音色や本質、根っこを探すから、意味が自分の中で命を持つ。 応えは無限。無幻、とも言いたい。 答えは、幻。誰かにとっての答えは、自分にとっては、まぼろし。 固定された唯一解が存在するほど、命は退屈にできていない、と思う。 すべて『未完成』を含む『かりそめ』。 だから、その未完成部分に、自分の可能性が結合する。 時代。コントロールしにくい感情。苦手な人。意外なショック。溢れる情報。 どう応えるか。 答えを忘れたら、自由に応えられる。 そんな風に、思う。 自分の将来も、やるべきことも、会うべき人も、戦うべき場所も、 答えとして簡単に見つかるほど、命は退屈じゃない、と思う。
2006年07月04日
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僕は、小学校に入るまで、ずっと泳げなかった。言葉を変えると、「泳いでみることさえ、しなかった」。初めて泳げるようになったのは、水泳大会の1週間前。あまりに泳ぎ方も知らなかったので、息継ぎができなかった。でも、泳ぎなれている友達をおしのけて、僕は学年で1番はやかった。トップで表彰されて驚いた。面白いもので、その理由は、「息継ぎをしなかった」から。息継ぎのたびに時間がかかって減速していた友達は、技術も知識もはるかに上だった。でも、息継ぎができなくてがむしゃらに泳ぐ僕に負けて、ものすごく不本意な顔をしていた(笑)。その顔と、不思議な嬉しさの感覚は、あの独特のプールのにおいとセットになって、今でもよく覚えている。意外にこれは、大切な真理に関わるエピソードだったかもしれない。宗教的な意味はいっさい無視したとして。本当に必要なものは、「すでに与えられている」ことが意外に多いと、最近ますます思うようになった。才能も、資源も。実は、手元、足元にきちんと転がっているものが、まず一番つかえるものだったりする。それを愚直にでも、一生懸命やっていると、「自分の道」の手ごたえが、拓けてきたりするんだろう。それは、いわゆる華やかな道ではないかもしれないが、きっと、自分の足跡が残る、自分にとってはベストな道だ。どうして僕が小学校に入るまで泳げなかったか。それは、泳いでみなかったから。でも僕は、「準備」は割りとよくしていた。水が怖かったから。「泳ぎ方」や、「水の中の怖さ」、「息ができなくなったらどうしたらいいのか」など、根掘り葉掘り、母親や友達に聞いていた。でも、泳げなかった。色んな知識を取り入れたけれど、恐怖や不安はますます増えるばかりだった。理由は、「水の中に入ったらやらなきゃいけないこと、 してはいけないこと、泳ぐための体の動かし方」などなどで、頭がいっぱいだったからだ。水の中で、そんなにたくさんのことを同時に考えていたら、死んでしまうかもしれない。でも、水泳大会が1週間後に迫ったときに、さらに大きな恐怖があった。それは、泳げないという理由での欠場や、歩いてゴールをきる、ということへの恥ずかしさだった。プライドの高いガキである。最後の練習の日。ものすごい不安を持ちながらも、僕は大海原に投げ出された(実際は、足がつく子どもプール)。泳ぐ前に色々と考えていたことは、ほとんど役に立たなかった。頭に浮かんでさえ来なくて、僕はシンプルに、周りの人の真似をした。よくわからないまま、じたばたを繰り返して、また回りをみて、またじたばたした。そしたら、そらが赤らんで来る頃、なぜだか知らないけれど、泳げるようになっていた。ほんとに、なぜだか知らないけれど、という感じだった。でも、それはやっぱり、「水の中」で起こった。机上の空論は、ジャマにしかならなかった。そして、息継ぎもできなかった僕は、「せめてできること」であるバタ足を集中して訓練し、ひとつの成果を出した。これはきっと、自分にとって、とても大切な学びの出来事だった。そしてそれは、やっぱり「水の中」で起こったのだ。体験を含まない準備には、本当の価値はない。きっと、本当の脳力トレーニングは、仕事場で起こる。自分にある選択肢(資源)をきちんと把握して、最大限に活用する。隣の芝生は、隣のものだ。絵に描いた餅は、絵として楽しめばいい。そして、水の中に、真剣に身をおく。そこで、目を凝らし、耳を澄まし、体をゆだねる。そうやって生まれる経験は本物で、きっと自分だけの筋肉になる。それは自分に、少しずつ、自由を与えてくれる。ゴールデンウィーク。「お勉強」をいったんやめて、自分の仕事の振り返りをしてみていたら、昔の自分が、こんなことを教えてくれた。
2006年05月04日
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なんとなく、今朝、プレステ2を片付けてみた。この年にもなって、仮想の中の信長相手にムキになっていていいのか、という疑問が、ちょくちょくあったこともあり・・・。それはそれで意味があったのだろうけど、いつからか、ゲーム自体も「形式化」していた感じがある。気休め、と自分の中で「位置づけて」いたけど、ふと見直すと、どうも、気休めになってない。意外にそういうことは多い気がする。自分の中で「一度決めてしまった位置づけ」がまるで『ラベル』のように貼りついてしまう。そうすると、中身が変質していても、気づかないでいる。自分や環境が変わっていくにつれて、昔は自分にとってプラスだったものも、その効果を薄めてしまったり、いつか体に合わなくなってしまうことがある。中には、そのものに「賞味期限」があるものもある。たとえば、ストレス解消のための運動が「義務化」してしまい、できてないことにイライラや焦りを感じる、とか。「これは俺の夢だから」と思い続けて、そのためにお金と時間と労力をつぎこんできたものが、ふと見直すと、今の自分にとっては、何の魅力もなかったり、とか。僕なりの結論。「ラベル貼り」は危険だ。考え方を固定化して、下手をすれば、人生を狭くする。たぶん、そんなに大げさではなく。あの人はいい人。とか、いつも嫌なことを言う人、というのも、同じかもしれない。ラベルを貼ると、その先を考えなくなる。思考停止がおこる。「でも、まてよ?」「そもそもは・・・」「だったら、こうしてみようか?」みたいな柔軟性や、可動性、可変性が死んでしまう。それは、毎日を、つまんないものにしてしまう。「俺は忙しい」もそうかもしれない。「飲まなきゃやってられない」も、同じかも。「自分じゃなきゃだめなんだ」も、ありがち。『俺ってこうだから』も、相当危ない気がする。「ラベル貼り」になりやすい、典型だ。本当にそうなんだろうか?本当にそれは、「自由な感じで、満足があるんだろうか」?ひとつひとつ、自分のラベルをはがしてみると、中身が変質していたり、ドキドキするのと同時に、ひょっこり自分の成長が見えたりして、とてもスリリングな楽しみがある。そんな「自分の思い込みのたな卸し」が、自分の「ムリのない歩み」を作るんじゃないか。自分らしく生きる、という理想も、ラベル貼りというワナがたくさん待っている場所だとつくづく思う。「ムリのない歩み」にしか、自分らしさはない気がする。それが一番速かったりもする。これは登山で、体感的に教わったことでもある。ムリのなさは、努力や頑張りをしない、ってわけではない。努力や頑張りにムリを感じない精神状態でいられる、ということで、納得しながら、そんな努力や頑張り自体に「ちゃんと満足しながら、必死になれること」。それはプロセスなんだけど、きっと、結果自体を変えてしまう、大切なプロセスだ。というわけで、プレステ2を片付けてみた。というか、プレステ2を片付けるときの決意が前回と違っていたので、こんなことを考えた(笑)。「禁止」という強いものではない。本当にやりたくなったら、またやるかもしれない。または、その時点で何か代替案を出すかもしれない。固定しない。そもそも、自由の反対は、「固定」かもしれないな。結論は妙にシンプルだけれど、けっこういろんなシーンで、「自分を固定すること」で苦しんでいたりするんだろうなぁ。
2006年04月02日
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「人生はいつもQ&Aだ 永遠に続いて行く禅問答」ミスターチルドレンの、「I'll be」という曲に、そんな歌詞がある。その意味が、ようやく少しわかった気がする。すべてのコミュニケーションに、QとAがあるとしたら、人生が僕に投げかけてくるメッセージは、「A」だと、僕はずっと思っていた。それは答えであり、変えられるものでも、応えるべきものでもなく、「結果」だと思っていた。不運なできごとも、生まれ育った環境も、持って生まれた才能も、すべて、動かせない結果としての、メッセージだと思っていた。せいぜい、何かしらを「読み取れるかどうか」といったような・・・。でも、そうじゃなくて、それらはすべて、「Q」だったのかもしれない。それは仮定でしかないけれど、僕には確信があって、それは信じて試して行く価値のある、魅力的な仮定だと思う。創造性も、思考力も、実行力も、ほんとは、「Q」を見つけてから始まるものだ。それに対して、僕らは、いろいろな「A」を作る。自分が人生や他人や課題に対して「Q」を出していたとしたら、そこにはあまり創造性はない。命が船のようなものだとしたら、その船長を自分から降りてしまっていることになる。●こんな人生に何が期待できるのか●この先、どんないいことがあるっていうんだろう●あの人は自分のことをどう思っているのか。何をしてくれる人なのか●やっかり問題だ、こんなものどうやって解決しろっていうんだろうそうじゃなくて。人生や他人や課題が、僕らに「Q」を出している。「A」を出すのは、彼らではなく、常にこっちの仕事だ。だから、同じことでも、●この人生の中で、自分は何を問われ、何を期待されているのか(使命)●この先、どんなことを作っていきなさい、と言われているのか(先見性)●あの人に、どんな風に思ってもらいたいか。何を引き出せるだろう(戦略性)●この問題のおかげで見えてくるものは何か。どんなプラスを生めるだろう (創造性)という風に、自分側に舵がある。自分がこの命の、舵取り船長でいられる。そうしてはじめて生まれるものが、たくさんある。人生のQは、自分に対して投げられるもので、Aを作って行くのは、自分自身だ。それはただの悩みを、自分を成長させる課題に変えるかもしれない。深刻な問題を、飛躍するためのハードルに映してくれるかもしれない。どんなことがあっても、それは「A」ではない。どこかに必ず、可変性を残している。どんなに不幸に見えても、思えても、そいつをよく眺めてみたら、「Q」が見つかる。その問題は、その人は、この会社は、この国は、この世界は、この時代は。僕に、どんな「Q」を投げているんだろう。僕は、どんな「A」を返していけるだろう。そしたら、次にはどんな「Q」が返ってくるんだろう。そしたら、そしたら・・・。人生との、キャッチボールだ。受け取るだけじゃ、つまらないから。人生とのQ&Aを続けて行きたい。そしたら、自分が生み出すAの中に、きっと「本当の自分らしきもの」が、おぼろげに、浮かび上がってくるのかもしれない。きっとそれは、とても「結果的」なこととして。誰かに問うでもなく、探そうとして探すでもなく。生きる意味とか、そういう大きなことも。巡りあったすべてのものから送られるサイン。それは、「Q」だ。僕の胃袋よ、もっと強靭たれ。もっと貪欲たれ。なんだって飲み込んで、なんだって消化して。全部筋肉に変えてしまおう。ミスチルからのメッセージが、心地よく響く。風邪で寝込んだついでに、自分にQしてみて、出てきた、なんとなくのAだけれど。僕は、あらゆるものと、キャッチボールをしていこう。へたくそでも、なんでも。そんなことを考えていたら、面白いことを思い出した。「アシタカに目的はない」宮崎駿の言葉だ。アシタカは、ただ真剣なキャッチボールの果てに、ただ結果的として、あれだけのドラマを生んだのだろう。きっと、それでいいのだ。
2006年03月09日
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■グチから出るマコト なんでこんなに疲れるんだろう・・・ 自分はなんて無力なんだろう・・・ 思い通りに行かないことが多すぎる・・・ いろいろな愚痴がある。 疲れたとき、悩んでいるとき、 ふっと力が抜けてしまうようなとき。 ・・・と、思っていたけど、順番は逆だった。 自分の頭に浮かぶ言葉。愚痴。 それが、疲れを生み、悩みを作り、 体の力を奪っていた。 そんなことに気がついた。■僕らのこころの癖:テーマ 「ああ、自分はまた間違っていた」 僕がよく落ち込み始めるときに、 頭の中に浮かぶ言葉。 小さなミスや、他人の言葉、指摘、ときには アドバイスに対してでさえも。 こんな言葉が浮かんで、 嫌な思いにとらわれることがある。 でもあるとき僕は、きっかけがあって、そんな 自分の心の流れを、「うざったい」と思った。 いつも、同じサイクルを繰り返すこと。 実は、どこかで自分は知っていたのだろう。 じっくり考えてみる。 間違っていることに落ち込むのはどうしてか? って考えてみると、 「自分は間違いなんて犯さないはずだったのに」 という気持ちがあって、じゃあその奥にあるココロには、 「間違いを起こすのは、能力がないからだ」 なんていう思い込みがある。そしてその奥にある基準として、 「能力がない人には、価値がない」 という、強烈な不安が、じっとこっちを見ている。 監視に近いほど、強い目で、もうなんだか、こっちを見張っている。 だから、あらゆるシーンで、 『自分は正しいのかどうか』なんていうテーマを、 僕は無意識に、自分の頭の中に持っていたのだ。■自分のパターンを疑うと、抜け出せる。 これは実は、単なる僕のココロの『癖』だ。 同じパターンに、いつも入ってしまう、というだけ。 考え方や理念、価値観。 こういってしまうと、なかなか変わらないものに思える。 でも、その中には、もう考えることは昔に やめていて、ただ『癖』になっているだけのものが、 実はたくさんあるんじゃないか。 そんな『癖』を疑ってみると、テレくさくなってしまうほど、 色んなことが見えてくる。 自分の心の癖を改めて疑ってみと・・・ ・自分が正しいかどうか、って、24の若造が、アホじゃなかろうか。 経験も智恵も上手な大人の周りで、思い上がりも甚だしい。 正しいかどうかにこだわってても、回りは敵だらけになるだけだ・・・。 ・能力がない人には価値がない? じゃあ、赤ちゃんには価値がないのか? 何もまだできない新人でも、ものすごく好かれて大事にされている 同僚には、価値がないのか? 何か特別な能力があっても一人でムスっとしている人より、 よっぽど周りの人を楽しい気持ちにしているな・・・ という風に、恥ずかしくなるような、 幼い価値基準を、いつからか『癖』として、 強烈に持ち続けてきてしまっていた。■小さい頃からずっとつけてきた、足かせ。 その幼い価値基準は、ずっと僕の足かせになって来たのだろう。 だって、間違ってる物差しで、自分の価値をはかってきたんだから。 でもそれを「バカらしい」とか「恥ずかしい」とか、 「もったいない」って思えたとき、僕は少し、変わった。 一瞬で治るものではないけれど。 落ち込み出す前に、「このパターンか、アホらしい」って、 ナイスな距離をおけたりして。 今の自分(24歳のおっさん臭い男)が、 小さい頃のおもちゃを大真面目な顔で いまだに大切に抱えているようなもので。 そんなアンバランスな景色が、可笑しく思えたりして。 そうやって、一つ一つ、『ココロの癖』を ほどいていけたら。 いろいろと、気持ちのジャマをするものが減っていく。 『失敗には意味があるんだ!』なんて、頭で覚えた意味付けを するよりも、「そもそも失敗を嫌がっていたこと自体が思い上がりか」 なんて、自分を笑えた方が、 どこにも無理がないんだから。 落ち込みを止める、というより、 落ち込まなくなる、っていうふうに。 でもきっと、そんな『ココロの癖』は、 まだたくさんあるんだろう。 それは僕だけではなく、色んな人に 透明な鎖の足かせとして、くっついているんだろう。■子どもの頃の傷を、今回復しているのかもしれない。 子どもの頃に言われてきたこと。 「そんな点数とってたら、全然ダメだ」 「お前の兄貴はそんなことでヘコたれなかったぞ」 「そんなこともできないの?」 それは傷となって残る。 幼い僕らはバンソーコーを用意することしか知らない。 だって子どもの自分は価値を作る側じゃなくて、 大人に価値を決めてもらう立場にいたから。 (思い込みだったとしても) 『テストでいい点数を取らないと、嫌われる』 『兄ちゃんと同じようにやれないと、認められない』 『できないことやミスがあると、バカにされる』・・・ 僕らは、 「テストでいい点数を取る!」とか 「兄ちゃんと同じがコトがやれるようになる!」だとか、 「失敗は絶対にしちゃいけないっ」などと、 無理なバンソーコーをはって、傷をうめようとする。 もう傷を見ないように、ひねくれる子もいるだろう。 でも、それがうまくいくことは、 そんなに多くはない。そして、そのバンソーコーが はがれるときには、傷はさらに膿を増していたりする。 ―ほとんど、恐怖だ。 それぞれに程度はありそうだけど、 僕はその恐怖が、とても強かった。 その恐怖から、僕の中にテーマができあがる。 『自分は正しいのかどうか』 『自分は周りに評価されているかどうか』 狭い視野の中で、自分のことばかり考えるようになる。 それが、ココロの癖になっていた。 中には、コンプレックスのように、むき出しの膿みたいに なってしまったものも、あるのかもしれない。 ココロの癖をほどいていくことは、 そんな、子どもの頃の傷から、 自分を自由にしてくれる作用があるかもしれない。 ■テーマを、設定しなおす。 意識はしていなくても、日々、 どんなテーマで生活をしているだろうか。 「自分は間違っていないか」 「誰か自分を嫌ってやしないか」 「どうしてこんなにつまらないのか」 ふと、探し物はなんですか? と、思ったりしてみる。 それを探していたら、見つかるのは当たり前のことで。 そんな良くないココロの癖に気付いたら、 一つ一つ、ほどいてみる。 そしたら、はじめて、新しいテーマを設定できるはず。 「場を最大限に楽しむためには、何ができるか」 「目の前の出来事から、何を学び取れるか」 なんて個人的なこともあるし、 「この人を喜ばすには、どうしたらいいだろう」 「この場が盛り上がるように、なんかやってみようかな」 って、他の人にプラスの影響を与えることもできる。 ものは言い様だ。 もう、ほんとにその通りだ。 ココロの言い様によって、カラダも ものごもと、他の人も変わってくる。 いいテーマは、ココロにいい癖をつける。 それはきっと、「センス」と呼んでもいいもの。 生きるセンス。 さぁ今日はどんなテーマで、自分を自由にしようか。
2006年01月15日
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雪明り(ゆきあかり)の中を走る。寒さの厳しい北国に生まれた。そのことに感謝するほど美しいものがいくつかある。その一つが、今電車の外を神秘の青に染めている、雪明りだ。だだっぴろい田んぼだらけの平野。ふくよかにつもり、汚れの気配さえ見せない雪。誰にもさえぎられることのない、やわらかな月光。そんな大自然の優しい掛け算が、あたり一面の世界を、きれいな青にする。こんなにも、青にする。日本の東から西に渡る境界線。電源の切り替えのアナウンスがあり、電車は一時、社内のライトを落とす。一瞬、社内のざわめきが消えた。外の青色が、車内までを染めたからだろうか。本当は冷たく、未も凍えさせるようなものが、とても優しい色を湛えて、静かな時間を見守っている。一瞬の中にしか永遠はない。そんなことを、誰かが言った。これから、祖母を訪ねて、ほくほく線。僕は、そんな土地で生まれた。
2006年01月03日
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ぴあの。 最近ぴあのを始めた。 少しずつ教えてもらいながら。 色々とやりたいことがある中で、 つい、何かのスキマにいじりたくなったりする。 歯ブラシなんかくわえながらも。 鍋の水が沸騰するまでの間だけでも。 ぽろぽろ、がぁ、にょん。 といった具合で、まだぜんぜん音楽だとは 呼べない。 でも、どうしてだろう。 自由に歌えるギターよりも、 よっぽど、自分の手から出ている音が リアルだ。 ちょっとだけ、バイエルの練習曲が 曲っぽく聴こえるだけでも、 体がくすぐったくなるほど、嬉しい。 初めて逆上がりができた、坊主頭の頃みたいに。 そんな夜に、 不思議なことが起こった。 どうしてだろう。 そのあとに弾いてみたギターは、 ぴあのと同じように、 本当に自分が作った音として、響いた気がした。 いつもより身近で、 あったかいのに、どこか透明な音・・・。 正直な音。 ぴあのを弾きながら、 かよわくても、頼りなくても、 自分から生まれるものを、なんだか全力で大切に思った。 それが、いちばんの理由かもしれない。 当たり前ではなくて、本当に大切なものを、 改めて大切に思えたら、 それは、もっともっと大切になったりする。 ピアノを、小生意気にぴあの、と呼びたくなるような、 静かな感動。 そんな夜に、久しぶりに日記を書いてみる。 原始的な、感動の夜。
2005年11月29日
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■凡人への自覚とその恥。 僕は凡人だ。 このところ、そんなことをよく思う。 そして、そんなこと思うこと自体、 なんて今まで思い上がり男だったんだろう、 と恥ずかしく思う(笑)。 自分は何かしら特別だ、と思っていたのだから。 小さな世界で生きてきた証だ。 『もともと特別なオンリーワン』と歌う人がいて、 それは決して否定しないけれど、 【オンリーワンとして凡人】、という素敵な位置づけがある、 と最近思うようになった。■自分から自分への、メッセージを疑う。 自分はこんな人間になりたい。とか、 こんなミスは自分らしくない。とか、 そんなことで悩んでどうするんだ。とか。 凡人でいたくない、という無意識から、 僕が自分自身に投げつけていたのは、 そんな風なメッセージだった。 もしもー 誰か僕の周りの友達が、 その子どもに同じことを言っていたら、 僕は腹を立てて怒鳴りつけるだろう。『あんた、その子のこと、愛してないよね? 本当に大切な存在に対して使う言葉じゃないでしょ。』 僕は、同じことを、自分自身に言ってきたのだ。 きっと、もう15年以上も。 特別でありたい、と思うあまり、 自分自身をワクにはめてしまう。もしかしたら、 そんな人は、意外にたくさんいるのかも知れない。■自分の価値の引き算をやめる。 自分を嫌いになる、という表現がある。 なぜ、そんな気持ちになるのか。 きっと、期待ハズレだから、という理由が半分を 超えるんじゃないだろうか。 理想とするイメージ、今の自分とは実は 関係のない、『魅力的なモデル』との比較。 その『何やらすごいもの』との 引き算で、自分自身を苦しめたりしている。 でも、その『魅力的なモデル』は、 自分の身の丈にあっているんだろうか。 性格的には、そのモデルを目指すべき タイプなんだろうか。 自分の特性、性格、ゆずれないもの、 コンプレックス、歴史、喜び、モチベーション。 どれだけ深く知った上で、そんなこと決めたんだろう。 周りから見た自分、気づいていない癖、 つい出てしまうエゴ、実は一目置かれている特徴。 どれだけちゃんと聞いた上で、そんなこと決めたんだろう。 身の丈に合わないもの。 そもそも別に目指す必要なんてないもの。 そんなものとの引き算のために、 どれだけ必要のない苦しみを感じてきたんだろう。 自分自身という子どもを育てる、という 視点で考えると、そんなことを、反省することが多い。 (きっといつか子育てを始めたら、同じことを反省するんだろう・・・) ■価値を決めるのは、誰だ? 仕事を始めたばかりの頃。 自分の作るチンケな企画に酔っていた頃。 ショックなことがあった。 『自分はこの企画、絶対に面白いと思う』 『人は喜ぶと思う』 『だから必ず、売れると思う』 アホか!と、今だったら、思う。 「お前じゃなくて、誰かが喜ばない限り、 その仕事には価値なんてないんだ」 ありがたいお言葉・・・。 あまりにショックで、もうなんだか、驚いた。 僕は、誰かに渡すための企画を、 【自分だけのため】に、作っていたんだ・・・。 価値を決めるのは、僕じゃない。 僕が『いい!』と思うことと、他の人が『いい!』と 感じることは、全然別のことだ。 『だって俺が欲しいもん』は、説得材料にはならない。 じゃあ価値を決めるのは、他人か? というと、実はそうでもない。 価値を決めるのは、『依頼主』だ、と 最近思うようになった。 99人の常識人が笑ってバカにするものでも、 1人の依頼主が本当に喜び、お金を払って感謝してくれる ものがあるなら。 その何かには、価値がある。 依頼主だけが、『評価』をする判断力を持っている。■自分の価値を決めるのは、誰だ? 商品やサービス、企画といった『仕事』の価値を 決めるのは、依頼主でしかない。 それはとてもシンプルな原則だと思う。 同じように、 じゃあ、『自分自身』の価値を決めるのは誰だ? 僕はやっぱり、思う。 『依頼主だ』と。 自分自身、という存在を考えたときに 何を依頼されているか、というと、 「この命を持って、生きること」だ。 何億分の1以下の確率をぬって、 僕は、生まれた。 それはメッセージかもしれない。 何かへの投石かもしれない。 誰かの心の支えに、なれるのかもしれない。 命の依頼主が、僕自身の価値を決める。 決して、僕が僕の価値を決めるわけじゃない。 きっと、他人が決めるわけでもない。 だから、気にしてるヒマがあったら、 もう一生懸命、生きたらいいのかもしれない。 そんなことを考えていたら、 一生懸命生きるために、とても大切なことに気づく。 『人生に何を期待できるか』ということを横に置いて、 『この命の依頼主に、何を求められているか』を自分に聞く。 そういえば、そうやってユダヤ人の強制収容所での 虐殺と虐待の中を、生き延びた人がいた。■凡人だけれども。 悩んでばかりでニキビも直らずドジも多く集中力は散漫。 愚痴のプレゼンは3人前だが、人の話は半分しか聞いていない。 僕は凡人だ。 ただ、それはメッセージだと思う。思ってみる、だけでもいい。 依頼主は、なぜ僕に、凡人としての命を預けたのか。 ひとつの答えとしては、 きっと非凡な人よりたくさんいる平凡な人の気持ちは、 凡人にしか理解できない、という意味があるだろう。 『所与』。すでに与えられているもの。数学でよく出てくる、 それに文句を言っても意味がないもの。はじめからの条件。 でも、数学は、その『所与』がない限り、問題を解けない。 ウザギもカメもいなければ、どっちが早いかなんて、 わからない。 僕らの環境、才能、体つき。それらはみんな、所与のものだ。 そしてそれは、メッセージだ。 何かを与えられることを、期待する相手ではない。 何を自分に求めているかを、読み取るべき、依頼だ。 『巡り合ったすべてのものから送られるサイン』 ミスチルは、歌う。 僕はきっとそんな歌に合わせて、自分の足で覚えたステップで、 へたくそなダンスを一生懸命踊っていたらいい。 そんな大げさなことを、考えてみた。 僕に起こるサインは、僕に何を求めているだろう。 僕に与えられた音楽のような時間は、何を考えさせてくれるだろう。 ダンス・ダンス・ダンス。
2005年10月15日
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■仕事って何だ? ー何のために働いているんだろう。 そんなことを、考えるときがある。 あまり、楽しくない夜などにー 仕事って、そもそも何だろうか。 原始的に思う。 『仕事は、誰かへのプレゼントだ。』 僕の持論です。 誰かへのプレゼントは仕事か、というと、 それは別なんだけれど。 価値ある仕事の条件として、 それが誰かを確かに喜ばせている、ということ。 その誰かのために、大切に用意されたものであること。 それがなければ、もう僕は、 マシーンに勝てないな、と極論さえしてしまう。 じゃあ、何をプレゼントしているのか? その箱の中身は、いったい何だろうか。■消費ではない、何か。生産とマーケティングを、乱暴に定義する(笑)。 仕事は、生産をすること、だとしたら。 その反対にある、消費って、何だろうか。 消費を定義してみる。とてもシンプルに。 『誰かが作ったプレゼントを買うこと』。 ただ、中にはプレゼントに見えただけで、 本当は、あなたのために作られたものではないものもある。 あなたにとって必要ではない、偽者もある。 大げさな話をするつもりはないのだけれど、 マーケティングは、 『プレゼントを受け取ってもらうためにできること』ではないだろうか。 そんな風に考えると、僕にはとてもわかりやすかった。 お客さんの本当の気持ち、何を基準に商品を選ぶのか。 いくらくらいが安いのか、どこから高いのか。 何に困ったときに、どんなものを買うのか。 年齢は?性別は?生まれ育った環境は? そんなことを調べたり、他にもいろんなことがあるんだけれど、 どうしたいかって言ったら。 『できるだけあなたのことを理解したうえで、 ちゃんと僕のことも信頼してもらったうえで、 あなたにとって価値のあるプレゼントをするから、 受け取ってほしい』 のではないだろうか。 少なくとも、僕が仕事で触れているマーケティングは、 そういうことだ。■僕が楽しいものと、あなたが楽しいものの違い。 僕は最近、きゅうりを塩もみすることが、 なぜだかものすごく楽しい。 なぜあんなにワクワクするのか、自分でもよくわからない。 これを読んでくれる人の中に、数人でも、共感してくれる人は いるかもしれない。 でも、きっと楽しくないどころか、それを今ここに 書く意味にも(?)な人が、きっといる。 だって、僕が楽しいものと、あなたが楽しいものは 別物だから。 趣味と仕事の違いとして、大きいのは、 ここじゃなかろうか。 僕のためにあるものではなく、 あなたのためにあるもの。 僕のための味付けではない。 あなたのための味付けであるもの。 自分のこだわりがあるとしても、 そのこだわり自体が、あなたのためであるもの。 なんだか宗教の勧誘のような文章になってきたけれど。 価値のある仕事は、特定の相手のために、 その人のことを考え抜いて作られていると思うことが多い。 特定の商品だろうと、心を打つ曲だろうと、一杯のかけそばであろうと。 (アートには、自分のために作ったもので、価値の高いものも 存在している気がする。ただ、それはもう少し考えたい別の話) そもそも、『自分のためだぜ、これは!』って 思わないと、お金、払いたくないものなぁ。■何をプレンゼントしているのか。 さて、論点は戻って、プレゼントの中身。 僕はこの前思った。 もしかしたら、多くの人にとっては、わかりきったことかもしれない。 仕事、という名前のプレゼントの中身。 顧客満足だとか、アイディアだとか、イノベーションだとか、 情報だとか、確かな技術だとか、新しい体験だとか、 いろいろ聞くけれど。 ものすごく単純に言うならば、それは、 『可能性』だと思った。 価値ある仕事は、可能性を提供しているのだと、思った。 それを買うことで、広がるイメージ。 それがあることで、つながるコミュニケーション。 それを知ることで、つぼみを太らせる夢。 僕は、そんな可能性に、お金を出したいと思う。 一時的な娯楽にだって、そうだ。■仕事の価値。失敗でさえも。 仕事の価値をどうはかるか。 僕は、『それが、どれだけの可能性を作ったか』だと思う。 たくさんの可能性を、わかりやすく生むならば、 自然とそれは売れる。お金はついてくることもあるだろう。 もしそんなに売れなかったとしても。 お金にならなかったとしても。 誰かの可能性を確かに作ったのなら、 その仕事にはすでに、とてつもない価値がある。 そんな風に、思うようになった。 それが例えば、自分自身が大きく成長することによって、 自分の会社の可能性を作った、ってことだって、 僕はアリだと思う。 だったら、失敗だって、見た目の悪い、プレゼントにできる。 価値のある仕事に、絶対にしていける。 結果として、誰かのためにしていけるなら、必ず。 僕はとても多くの失敗をしているんだけれど、 そんなことを思って、自分を落ち着かせることもあるし(笑)、 本気で糧にするための目印にすることもある。 ■一生、という作品が、プレゼントになる。 以前も書いたことだけど。 岡本太郎氏の言葉に感動して、改めて思った。 僕は一生を生きる中で、生き様という作品を作っている。 これも仕事だ。 それこそ、一生ものの、仕事だ。 これは、誰へのプレゼントだろうか。 それは、大切な人をはじめとして、名前も知らないすべての人への、 プレゼントだろうと思う。 どこかで誰かが勇気付けられるかもしれない。 何かを参考にしてくれる人が、いるかもしれない。 そんな失敗をしたやつもいて、でも元気に生きて死んだのか、って 開き直ってもらえたら、それだけでものすごい価値がある。 うん。 なんだかいつもの癖で、 話が大げさになった。■僕の仕事。僕の生活。 気楽にはんなり生きていく中で、 日々けっこう気にしていきたいとこと。 気にしていると、楽しいこと。 これは、僕のどんな可能性を作るだろうか。 さて、僕は、どんな可能性を作ろうか。 誰のために? 誰への、プレゼントとして? 僕らは、可能性を生み出しながら生きていく。 可能性を、殺しながら生きていたら、 それは、死だけにむかっていってしまう悲しみだ。 これは、僕のどんな可能性を作るだろうか。 いつだって、自分に聞いていきたい。 くだらないものも、まずいハンバーガーも。 好きではない人も、けっこう落ち込む体験も。 僕の、どんな可能性を作るだろうか。 ほんとは、何だって、僕の作品にしていける。 誰かへの可能性として、プレゼントしていける。 そもそも、目の前にあるもの・起こることはすべて、 誰かのプレゼントだしなぁ、って、 今、改めて気づいたりして。
2005年08月14日
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■一番傷つけるのに、その傷を癒すもの。 伝わらない。 すれ違い。 理解できない。 わかってくれない・・・ 怒らせるつもりじゃないのに・・・ あの人のことがわからない・・・ 人を一番傷つけるのは、きっと人だ。 逆に、その傷にそっと手をあてるのも、 きっと人だ。 (自分も、含む、人) 僕は毎日、仕事のミスからプライベートの すれ違いまで、無数のツタワラナイコトバに 悩まされる。 どうしてだろう。 人間は、人の間、って書く。 人の間に生きるんだから、大切なことは、 『つながり』だ。 どうしたら、つながれるのだろうか。 僕が最近見つけたもの。 それは、『相手と同じ質問で考えること』。■小さな小さな、自分。ナルシストみたいだけれど。 大きなミスをした。 色んな人の時間を奪ってしまった。 会社の信頼を傷つけてしまう・・・。 亀のように、僕は自分を守りたくなった。 上司が教えてくれる言葉が痛い。 自分が自分を責める言葉が頭の中でこだまする。 自分はどうしてこうまで何もできないのか。 なぜあんな見過ごしをしてしまったのか。 なぜ・・・なぜ・・。 自分を責める気持ちで、頭がまっくろになる。 でも、それが最近、少しずつだけど、変わってきた。 そんなことを繰り返し、なかなか減らないミスの中で、 僕は、人に助けられないとひとつの仕事も達成できない 自分を知った。 それ自体はとても当たり前のことなのだけれど、 僕ははじめてこんなにも自分をとても小さく思い、 チームとしてではなく、 自分を守ってくれる存在として、上司や会社を想った。■守られて、23年。 ミス発覚。 一度は頭を抱えるが、そこでは何もいわずに段取りを考えて 一緒に解決を見届けてくれる人がいる。 すぐに電話をとって、頭をさげながら誠意ある声で 僕の代わりに謝っている人がいる。 夜遅くまで、フォローのためのメールや今後の計画作りを 手伝ってくれる人がいる。 自分の仕事は、そっちのけで・・・。 僕は、誰かをそんな風に助けたことがあっただろうか。 少し変な表現だけれど、 『自分は、こんなにも守られている』と思った。 自分のミスのために考え、頭を下げ、また考える背中に、 申し訳なさと感謝の入り混じった、 泣きそうな感情をもよおした。胸のあたりが、痛かった。 ー支えられていた。 僕はずっと。 今まで知らないところで、この背中がいつも 小さな自分を守ってきていた。 知らなかっただけで。 自分の責任を本気で考えたときに、 僕はミスの現場を逃げることなく見つめ、 支えてくれる背中に、恥ずかしいほど、出会った。 今までずっと、その背中を、知らなかった。 そのことだって、僕は、情けないと思った。■頭の中の質問が、変わる瞬間。 今までの自分。 なぜ僕はこんなにアホなのか。 どうして同じ失敗を繰り返すのか。 また自分が悪いのだろうか。 自分へ向かう質問だらけ。 敵前逃亡。 自分を責めて責任を感じているような つもりでいたけれど。 僕の頭の中の質問は、変わった。 自分を守ってくれる背中や、 許してくれる人を見て。 『今、誰のどんな気持ちを考え、何を どう埋め合わせたらいいだろう』 『本当に二度と同じ過ちを犯さないために、今すぐ 何ができるだろうか』 『自分を支えてくれる人たちに、何を返せるだろうか』 そう。 何を、返せるだろうか。 やっぱり当たり前のことなのだけれど、 僕は初めて本気でそう思った。 きっと僕は、ずっと自分の力で生きてきたつもりだった。 恥ずかしいほど、本気で。 23年間、本当に、盲目だった。 自分を支える背中に、ずっと、盲目だった。 ■伝わる言葉に出会う 不思議なことが起こる。 ミスのあと、上司が教えてくれる内容が、 本当に本当に、ありがたく思えた。 亀のように自分を守っていたときは、 『わかっていたことなのに・・・』とか、 『ごめんなさい、もうそんなに言わないで・・・』とか、 『どうしてそんなこともできないんだろう』とか、 ウジウジして、ちゃんと聞いていなかった(ようですごめんなさい)。 僕は、これだけのミスを繰り返す中ではじめて、 自分を本当に守ってくれた人が放つ教えを、その意味を、 まっすぐに受け止めるようになれた気がする。 自分を責めるでもなく。 誰かや何かののせいにするでもなく。 ただシンプルに、 こんな迷惑を、二度とかけないために。 僕は静かな気持ちで、説教とは感じなくなった教えを 受け止めるようになってきた。 小さな自分を、少しだけでも、知ったからだろう。 そして僕の頭を変えた質問は、自分を責め、自分に向かうものから、 問題に向かい、解決や改善を強く願うものに、変わった。 じゃあ、どうしようか。 どうやって、解決しようか。 どうしたら、次から予防できるかな。 この質問は、上司がずっと持っていた質問と、一緒だったのだ。 僕が持っていた質問は、自分だけのためのもので、 自分を守ろうとしたり、逃げる気持ちがあった。 だから、コミュニケーションが、つながらなかった。 そして、もうひとつ。 『この人に、何を返せるだろうか』。 その申し訳なさと感謝とが入り混じった思いが、 自分の感情やらショックのことを『今はどうでもいい』って、 思わせてくれた。それよりも今は、解決しなきゃ、と。 この感謝は、僕の心と耳を、 はじめて外に向けて、開いてくれたのかもしれない。 ■同じ質問で、考えてみること。同じ質問を持ってから、伝えること。 誰かの話を聞いているときに、 何のために、そのコトバを受け止めていただろうか。 もっとうまいことを言うため? 面白いボケを考えながら? その人を論破しようとしいた? 自分は悪くないのに、って思っていた? まったく別のことを考えていた? 会話の退屈さをその人のせいにしていた? 僕は自分に問う。 相手は、何のために話しているんだろう。 相手が持っている質問は何だろう。 問題を解決するためには? 僕に何かを本当にわかってもらうためには? etc、etc。 論点。 何を目指して、僕らは会話をするのか。 それがズレていたなら、伝わるほうが、おかしい。 その人に感謝して、その人に何かを返したいと 思ったとき。 僕は初めて、自分の持っていた論点を捨てた。 僕は初めて、その人の論点から、ものごとを見た。 それは感動的に、いろいろなものを変えた。 痛みも、恥も、自責の念も。 協力と、反省と、解決の意思へ。 僕らは何のために、その人と会話をしているだろう。 論点でまず、手をつないでみること。 それはきっと美しい表現の、70倍ほど、 大切なことだなぁ。
2005年07月31日
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■楽しい仕事、って何だ? ノウハウの10倍大切なこと。 仕事のやり方。 その前に、きっとある、『仕事の楽しみ方』 仕事の面白がり方。 仕事を、ゲーム化する。 仕事の中で遊びを作る力。 やり方は、楽しみ方の中にある一つの方法論でしかない。■トランプの楽しみ方から、考える。 トランプは、楽しいだろうか。 『一緒にやる人と、自分の取り組み方次第』 僕はそう思う。 誰とやるか、どんな姿勢でやるかで、 まったく楽しさが変わってしまう。 だからこそ、仕事のことを考えるのには、 トランプで考えるとわかりやすいな、と思う。 いつくか前提があるのだけれど、 トランプを楽しむためには。1)ルールを知っている→仕事で言っても、ルール2)やり方を知っている→仕事で言えば、ノウハウ ここまでは、トランプで言えば、基礎ではある。 けれど、一番大切なことではない。3)仲のいいメンバーでやる4)協力的に、『楽しもう』というスタンスでやる5)最低限のルールはお互いに守る6)トランプに関係ない話も飛び出す7)罰ゲームなどがあったり賞品があったりと、全員で 楽しめるモチベーションが設定されている8)自分たちだけのルールを作ってみる9)お互いのキャラをわかりあいながら、コミュニケーションの 道具としてのトランプを楽しみだす などなど。3)~9)も、仕事でものすごく大切なこと。 どんなスタイルで、僕たちは働いているだろうか。 何をするか?よりも、 どんなスタイル(姿勢)でそれをするか? そして、誰とするか。 その相手とどんな関係性を作るか。 一人じゃない限り、 とても大切なことには、 やっぱり相手が参加してくる。 ターゲッティング、なんてカッコいい呼び名じゃなくても 良くて。 そんなことを、最近よく、考える。■結論 楽しい仕事、なんてものはない。 楽しめる自分であるかどうか。 楽しめる関係性を作れるかどうか。 そんなことを、自分自身に、こまめに質問していきたい。
2005年06月26日
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■ 大量生産される、成功。『あなたは、本当に成功したいですか?』 本屋さんにいくと、色んな本の表紙から こんな質問をされる。 という気になる。 一時期、そういうものをとても面白く感じていた。 僕の場合は、自己成長欲を満たすためのものだった。 能力を高めることが、人からみとめられる 一番の手段だとおもっていたから。 (今は、そんな誤解は溶けましたが(笑)) でも今は、形の違うものを、同じ枠にはめようと するイビツな入れ物をイメージしてしまう。 どの価値観ではかった、成功だろうか。 とても当たり前なことだけど、ものさし(価値観)が 違えば、ものの価値は変わるのに。 と、考えたら、自分の『ものさし』をよく知ることが きっとセイコウのための第一条件なのだろう。■ 個々の内側にあるモノサシ。『何が、自分にとって一番の喜びでしょうか。』 よくある質問だけれど、本当に、自分の言葉で 答えられるだろうか。 だって、この質問を外で見るときは、そのあとに、 必ず宣伝としての答えが出ているから(笑)。 『20代で年収3000万円を突破した山田さんの例を見てみましょう』 そして、その問いは命を失ってしまう。 真剣にそんなことを考える人は、どんどん減ってしまう。■ 原始的な、セイコウ。 大昔、『成功』なんていう概念はあったんだろうか。 今回も、原始的に考えてみたい。 石斧でイノシシを追い掛け回していた頃、 成功者がいるとしたら、どんなやつだろうか。 獲物をガンガンとってきて、尊敬される奴? 新しい土地や食べ物などを発見してきて栄える人? 村の中の発明でつぼやら土器やらを作ってもてはやされる人? 宗教的な力をえて、神の声をまわりに伝えた人? ・・・どれも面白そうだ。 と、ここまで書いて、再確認。 原始的に考えたって、やっぱりセイコウかどうか、 喜びかどうかは、その人の『ものさし次第』だ。 と、ここまで書いて、再発見。 どれも面白そう。 これはきっと、キーワードだ。■形は違っても。 面白いもの、は人それぞれだ。 面白いもの、の代表は僕にとってはアイディアを形にすること だったり、ギターを歌うことだったり、何かを本気で聞いたり、 何かを本気で伝えたりすることだ。 (こうして、文章を書くことも、面白いことだ) ただ、それは『楽しいこと』ではないときがある。 登山と一緒だ。プロセスは楽じゃない。 アイディアを形にするためには前例を破壊するか、 それを守る人を味方にするか、というプロセスがある。 ギターを歌うためには、指先がめくれそうになってでも 何度も練習した『Fコード』が必要だった。 本気で聞き、伝えるためには、色んなケンカをしたり、痛みを 知ってきたからこそわかってきた心があった。 全部、楽なものではない。 でも、とても面白い。 充実、がある。 無理やりに成功というものに共通項を見つけるなら、 『何かを通して充実している』ということじゃなかろうか。 僕のものさしではかった、結論だ。 つぼを作る奴も、狩りに燃える人も、探検する人も。 寝てばかりのやつも、よく働く人も、ドラッグに手を出す人も。 それを通してきっと、『充実』を得ている。 無意識に、だとしても。■ それを乗り越えるためになら本気で取り組める、困難。 結論がどんどん当たり前な話になってきた(笑)。 僕が自分なりに考えた成功は、こんな、 『状態』だ。 ちょっと失敗しようと、努力が必要であろうと、 今の自分を超えるハードルがあろうと、どうしても 取り組みたい、達成したいことに、 『全力で取り組んでいる状態』。 僕の成功は、きっとこれだ。 そこに親しい仲間や喜ぶ人の顔があれば超成功だ。 いや、きっと正確に言うなら、親しい仲間や喜ぶ人の 顔がないところで、『全力で取り組む状態』を 維持するのは、難しいのだろう。 好きなこと、を探しすぎるのは、人を夢想的にする。 達成ばかりを求めて、本当に大切な部分を置き忘れる。 『全力で可能性を生み出す作業』と言ってもいい。 セイコウ、という漢字を検索していて、 すばらしい発見があった。 『生興』というコトバに、出会った。 命が、興(おこ)る。 それは結果の果てにあるものではない。 そこに向かっている過程で、脈動を始めるものだ。 僕にとってのセイコウは、 生興だ。 そんな瞬間を、毎日1つだけでも見つけたくて、 なんだかんだと、あれこれと。 必死で毎日、地道に生きているなぁ。
2005年06月04日
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■戦友仲間って、何だ?原始的に、考えてみる。 僕がたどり着いた応えは、 『戦友』。 きっともともとは、一人でも良かった。 ただ、どうしてもシカを確実に仕留めたいとき。 水や食料の確保を確実にしたいとき。 唯一の火をたやさないように見張りが必要なとき。 人は、誰かに助けを求めたのではないか。 -*-*-*-*-*-*-*-*-*-* ■優しさのある風景 昨日、奥多摩に行ってきた。 ちょっと前に、僕の戦友とも言える男に 紹介されたこともあって。 ログハウスを建てる土地の下見にもなるな、と 思って出かけた先で、僕は驚いた。 あまりにも、そこにある時間が優しかったから。 とても、不思議な感じがする。 車なんて通れないほどの、小さな路地。 ひっそり並ぶ家々には、名前もわからない草花の行列。 網戸を残して開け放たれている、生活。 時代を感じる黒塗りの蔵。 ずっと耳を涼ませる、遠い川の流れ。 やわらかな風。 2時間だけ、新宿から離れた場所なのに、 ちがう時間が、ここにはある。 まったく別の風が、ここにはある。 誰のためでもないのに、なんだか 惜しげもなく、美しいものが転がっている。 なんだろう。この惜しげも無さが、 たまらく大切なものに思える。 惜しげも無いものの代表が、自然だけれど、 奥多摩に生きる生活の美しさは、それに近いのだろうか。 適当に竹を割った花壇に、ほっこりと土が 盛ってあり、曲がりくねった野花がこちらを見ている。-*-*-*-*-*-*-*-*-*-* ■風と、時間。 ふと、時間と風はとても似ているな、と感じる。 音楽も、そう考えると、そっくりだ。 意識をしなければ、ただ通り過ぎていくもの。 つかみどころが無いのに、とても大切なもの。 知らないところで、人と人をつなぐもの。 とても抽象的なのに、身体で触れられるもの。 奥多摩の裏道。 少しだけ観光MAPからはずれてみる。 地元のお肉屋さんで、愛想の悪いおばちゃんから、 コロッケとハムカツを買う。 仲良く、得たいの知れないベンチで食べる。 なんとも、『うまずい』。 おいしくないのに、食べたくなる味。 これが欲しかったんだ、と笑う。 そのすべてに、とても優しい感じがした。-*-*-*-*-*-*-*-*-*-* ■風に乗って、トンビ。 大きな影が、頭を横切ったと思った。 トンビだ。 驚いた。 トンビが鷹を産む、なんて言うけれど、 なんて優雅に空を泳ぐのだろう。 あんなに青い空を、ただの背景に変える。 ほとんどはばたくこともせず、川から吹き上げる 風を上手につかんで、高みにのぼる。 フワフワと、らせんを描く。 目の前を飛ぶカラスは、わさわさと黒い羽を ばたつかせ、風を殺しているようにさえ見えるのに。 大したことではないけれど、 トンビのその姿の大きさに、何か僕はメッセージを感じた。 その場所にあった優しさを大切に集めながら、 空にのぼっていくイメージ。 どこまでそれを、届けるのか。 時流に乗らない限り、誰も本当の成功はしない。 とても時間と似ているところが多い風を見て、 僕はあらためて、思った。-*-*-*-*-*-*-*-*-*-* ■トンビが友を呼ぶとき そんなトンビは、一匹で、背景の濃緑を ふわふわと泳いでいたのだけれど、 彼も友を呼ぶときがある。 それは、狩りのとき、だ。 一方から小鳥を追い詰め、他方からもう一羽の トンビが挟み撃ちにする。 いわば、彼らは、戦友である。 僕がとても心地よく思ったのは、 『馴れ合いではない』ということ。 彼らはそれぞれが自立している。 一人でも誇りと優しさを持って、 風を捕まえることができる。 ただ、狩りに向かうときには、 誇りと激しさに持ちかえて、戦友とともに、闘う。 これにロマンを感じるのは、僕も彼らと同じ、 オスだからだろうか。-*-*-*-*-*-*-*-*-*-* ■本当に大切な、仲間。 死ぬまで何かしらでつながっていたい。 そう思える仲間が、何人かいる。 ものすごく幸せなことに。 ただ、彼らとこまめに連絡を取るようなこともなければ、 顔を合わせるのも、年に1・2度だったりする。 それでも、会ったときに、お互いが本気で ぶつかっている何かや、その何かへの戦いの姿勢なんかを 共有する。ぶつかることもありながら、 絆や誇りを深めていく。 もちろん、基本的にはアホ話が多いのだけれど。 愛想も良くないし、気も遣わない。 優しいとは少し違うけれど、何かがあったときには きっと全力で守るもの。 男にとって、という限定はあるかもしれない。 僕にとって、本当の仲間は、 自分の戦いを持っている。自分の風を掴んでいる。 そんな人間同士だけが、リアルに色々な感性や 価値観やセンスを持ち寄ってぶつけあう。 時間や風や音楽の中で。 戦友。 東京で。 フロリダで。 愛知で。 富山で。 チベットで。 彼らはきっと、闘っている。 風に乗って、自分の鼓動のような音楽の中で。
2005年05月06日
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■ 受け取れるものの量 僕らの感性はバリ3だろうか。 本質って、なんだろうか。 見極める、ってなんだろうか。 最近よく考える。 情報がこんなにもあふれている時代。 持っている情報の質で差をつけるのは、とても難しい。 きっと、僕と同じ情報を、インドの人も、ブラジルの人も、 見ている。持っている、と言ってもいい。 だったら。 同じ情報の山から、どの情報を選び取るのか、 そしてその情報からどれだけ価値のある背景、 心理や真理を読み取るか。 そこに個性がまず発揮されるはず。 そこで問われるものは何か。 それは、本質を見る力だ。 情報の一番大切な部分。 その情報が生まれた理由。 そこに託されたメッセージを、 正確に取り出す力だ。 では、それは、どう身に付けるのか。 僕が思うのは、『原始的』という 思考モデル。 道具として、言葉の力は確かに便利だけれど、 原始的にやっているウチに、言葉の力は 飛躍的に進化をとげる。■ 理由のないものは、生まれない 原始的。 それは何だ?といわれたら、 とても単純な答えがある。 『由来を考えること』 『起源を想像すること』 これだけだ。これをすべてに当てはめて、考える。 想像する。あとは慣れの問題です。 このごろ、ロジカルにものごとを考えたいことが多いし、 感性の発露にこだわることも多いが、 右脳・左脳、どちらを利用したいときにも、 この思考モデルはとても便利だ。本質に導いてくれる。 なぜなら、理由のないものは、生まれないからだ。 由来や起源が、そのものが生まれる、一番強力な理由で、 もっとも本質的な、モチベーションだからだ。■ 使い方として。 例えば、料理って何だろう、と考える。 材料は、インターネットにも、本屋にも、テレビにも ラジオにも、一生かかっても見切れないほどあるだろう。 でもその前に。 料理の由来って、何だろうか。 料理の起源を想像すると、どんなものだろうか。 イメージしてみる。 思い浮かぶのは、原始人と聞いてイメージするような人たちの村。 焚き火を囲む面々が深刻な顔をしている。 古くなった肉がかたすぎて食べられなかったり、 それで体を壊し、死んでいくものが出てきている。 動物は減り、食は細り、村は飢えている。 やっと獣をとってきた戦士が、あせる手つきで 肉を切り裂くはずみ。 肉片が思わぬ方向に飛んでいく。 『ジュー・・・。』 焚き火に入った肉は、なぜだろう、 経験のないほどの、魅惑的な匂いを発する。 (そう言えば、焼くことで香りがよくなる、というヒントを 神さんは、与えてくれている。) 一つの仮説として、答えが出る。 『料理は、火と肉の格闘から始まったのではないか』 異論もあるかもしれないが、 こうして自分で導いた仮説には、価値がある。 その想像力そのものにも、きっと価値がある。 僕は、このイメージを得てからずっと、 一番その料理に合った火加減、 野菜が味をベストの状態に引き出す火の通し加減、 そして、火の魔力を一番引き出す油の使い方、 といったことを考えて、キッチンで戦っている。 とても楽しい。料理の味はどんどん変わっていく。 そして、生意気だけれど、自分なりの料理ができる。 オリジナルが生まれていく。 そもそも、オリジナルって、オリジン(起源)が 派生した言葉だなぁ。面白い、今つながった(笑)。 もし、本やインターネットを使うなら、 そのイメージを実現するのに必要なものを『探す』。 そのときの情報吸収力は、半端じゃない。 砂漠が水を飲み込む。 探し物をするときは、見つけたいものを可能な限り、 目標とするものを具体的にイメージすることだと思う。 そうしないと本当に価値のある宝には、たどり着けない。 視界に入ったときにさえ、見過ごしてしまうからだ。 だから、多くの『自分探し』は失敗に終わる。■ そもそも、を大切にする 原始的な起源を考える。 もし、原始時代だったら、それは? 議論に入る前に、そもそもどうしてそれは生まれたのか? その質問は、僕を本質に導いてくれる。 実は、ロジカルシンキングを研究した結果、一番大切な エッセンスをわかりやすくしたら、こうなった。 問題解決、企画、目標達成、営業、 芸術、料理、睡眠、ダンス、などなど。色んなこと。 きっと、ほとんどに応用が利く。 すべて、理由があって生まれている。 今まで生き残っていることには、さらに深い理由がある。 その理由には、本質が含まれている。 他のあらゆることよりも先に知るべき、本質が。 だから、今、歴史を学ぶ人が増えているのだと思う。 本質を探す動きが、由来や起源を求めている。 今の日本を考えるために、 今の世界を考えるために、 由来や起源を求めている。 商売ってそもそも何だろう? いつどうやって生まれたんだろう? 男と女ってそもそも何で別なんだろう? いつどうやって別れたんだろう? 記録に残っていないものもある。 しかし人は、研究を重ねるか、神話を作るかして、 想像力で本質を補っている。 その『補い』そのものが、創造だったりもする。 と、ややこしい話は抜きにして、 マーケティングを知りたかったら、『マーケティングを調べる』前に、 原始的に、その由来や起源をイメージすること。 自分や誰かのことを知りたかったら、 その人の行動や作品を知るだけでなく、幼いころのこと、 育ってきた環境のことを、知ること。 そういう、原始的。 そもそも、どうやって生まれたのか。 僕らはそもそも、どうやってここまで来たのか。 旅行ガイドを片手に50カ国を回る前に。 速読法を勉強して本を100冊読む前に。 研究のために海外留学をする前に。 一度、イメージしてみる価値は、きっとある。 それは、余計で雑多で押しかけてくるような情報から、 僕たちを守ってくれる、コンパスになる。 本当に必要な情報へと、僕らを導く、コンパスに。【原始的】 そもそもなぜそれが生まれたか、を知ること。 本当に自分にとって大切な情報だけを選び、 それを大切に考えていくために。 創造は一度壊すことから始まる、というけれど、 そういう、『うろついている情報を一度拒絶する』 という意味も、そう言えば、あるのかもしれない(笑)。
2005年03月30日
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太陽は、大要。月は、ツキ(運) 面白いくらい毎日行ったりきたり 1日、という単位はとても不思議だ 毎日、光が生まれては、死んでいく ツキの光に気づくのは夜だけだが、 外に出て見上げた者しか照らさない 1日の生き方に、一生のスタイルを見る 今日の生き方は、一生の活き方 天が与えた教材が、この日だった。
2005年03月24日
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■芸術って、なんだ? 芸術はきれいではいけない。 うまくてはいけない。 心地よくてはいけない。 岡本太郎の言葉です。 本当に美しいものは、きれいでもうまくも 心地よくもない、とのこと・・・。 僕は、ものすごく力強いエールを受け取った気がした。 彼の言葉や感性は、すごく、動物的だ。 僕はよく感じる。 人間だって、もともとは動物だ。 食欲もあれば、性欲もあって、眠たくなれば、眠る。 喜び、怒り、悲しみ、楽しみ。 全部ごった煮にして消化しながら、生きる。 それは、ものすごいパワーだ。 そんな営みすべてが、実は芸術なのかもしれない。■命が、作品になる 僕は読書がものすごく好きだ。 どれくらいか、というと、あまりうまく説明ができない(笑) そんな僕が、このところ読み始めたのが、 歴史小説だ。なかでも、坂本龍馬や、 織田信長の生涯を描いたものには、 体の仲の芯にせまるような感動を覚える。 ひとりの人間が、喜怒哀楽を尽くして、 命を燃やし尽くして、死んでいく…。 どうして、あんなにも、こっちが苦しくなるような、 たまらない気持ちになるのだろう。 そのたまらなさといったら、涙が出るような こともあれば、強い嫌悪感をおぼえることもあったり、 終わったあとに、大切な人たちの顔を すべてきちんと思い出したくなるようなこともある。 きっと、僕の命が、彼らの命に、出会っている。 僕の器いっぱいにまで、彼らの命を受け止めようと している。ぶつかっている。だから、 ものすごく苦しいこともあれば、 叫びたいほど涙が出ることも、あるんだろう。 彼らの自伝は、命の記録。 それは、どんな映画よりも素敵な、 なまなましい動物の、芸術。 きっと、一つの作品となった、命なのだと思う。■感動の、底にあるもの 自分の周りにいる本当に素敵だと思う人たち。 そう言えば、色々な過去や傷、痛みを ひきずってきている。 小さな頃の虐待、不治の病による失明の危機。 親の離婚、学校に隠れてのバイトでなんとか食いつなぐ時代、 圧倒的でもう笑うしかないほどの失恋。 なんて大きさは様々だけれど、共通して、 そこに垣間見えるのは、 『前向きのもがき、うめき』だという気がする。 痛めつけられようと、何があろうと、 燃えようとした命がある。 きれいなものじゃない、『そのおかげで』なんてなかなか言えない、 思い出すのも辛いようなことだってある。 それでも、その『もがき』や『うめき』を 死ぬ気で背負って、彼らはそれを乗り越えて、 今、生きている。 そんな、死にたいほどの痛みまでも抱きしめながら 生きてきた人が、目の前で顔中をしわくちゃにして笑ったり、 鬼の形相で仕事をしたり、静かに泣いたりしている。 それは、圧倒的なことだと思う。 命の叫びだと思う。 その戦いの歴史と傷、燃えさかる命に、 僕は心臓をたたかれる。 お前は生きてるか、って聞かれてる気がする。■作品としての、命を。 僕らの一生が芸術作品なら、 僕らの一日は、小作品として、とても 大切な下書きだ。 毎日僕たちは、一生を生きる練習として、 実は、毎日を過ごしている。 やり残しをいつも明日に伸ばす人は、 一生でも、やり残しを置いて逝ってしまう。 毎日を自分の力で充実させられないなら、 目標を達成することだって、本当に生きた実感を 持って死ぬことだって、できないだろう。 自伝を書くつもりで生きろ、と誰かが言った。 僕らの生き様そのものをデザインすることで、 それが素晴らしい作品となるように。 そして、その作品は、実は、 きれいでなくてもいいし、 上手ではいけないし、 心地よくなんてなくて当たり前なんだ。 今、さかんに伝わるメッセージ。 『効率よく、スタイリッシュに生きよう』だなんて、 僕は信じない。そんなツルリとしたものじゃない。 そこには本モノの感動も、美しさもない。 下手にかっこつけるのも。 怒られまいと、守ってばかりいるのも。 うまくやろうと、ノウハウや裏技ばかり探すのも。 怖い挑戦をさけて、心地よい安定の毎日に逃げるのも。 もう、いい加減、やめてしまおう。 僕の命が、大切な作品が、痩せていってしまう。 不器用でいいし、嘆いても、もがいてもいいし、 弱くても情けなくてもいい。 ただ、真剣であれば、それで…。 この命のデザインは、僕にしかできないのだから。 【命を、デザインする】 人間の残す一番の芸術派、生き様や死に様。 どんな作品も、きれいな色や形だけでは 名作にならないし、濃淡や明暗が、いつだって いっしょにいる。 不器用でもクサくても、僕は、『必死で生きたい』。 ああ、書いてみると当たり前だ(笑) 生きるから、必死(必ず死ぬ)なんだ。 やっぱり必死じゃないってことは、どこかで 生き切ってない証拠なのか。
2005年03月13日
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■ あなたを、一番わかってくれている人 思い浮かべてみて欲しい。 あなたのことを、一番わかってくれている人は、 誰だろう。 僕は、きっと幸せなことに、たった一人が思い浮かぶ。 あなたにとって、その人は、あなたの何を わかってくれている人だろうか。 個人情報?(笑) 生い立ち? 嫌なところも含めた性格? それとも、そういったものの、トータル? もしかしたら、なんだけれど、 意外と、その『知っていることの量』では、 1位ではなかったりしないだろうか。 僕が、一番の理解者でいてくれている、と思う人は、 僕の情報を一番持っている人、ではない。 どうしてだろう? 理解って、よく使われる言葉だけど、難しい。 月の表面が映像になって茶の間で見れるような現代なのに、 理解のなさによるトラブルって、絶えない。 人の心って、月より遠いのか? どうしてだろう?■ 理解者って、どんな人だろう? 別の角度から考えてみる。『理解者』というときに、 僕は、最近よくちまたで耳にする、「わかるよ」という 言葉を思い出して、なんだかムカムカしてしまう。 僕は、簡単に「わかるよ」という言葉を使う人が 信用できない。ひねくれている、ということもある(笑)。 でも、きっとそれだけじゃない。 ■ 心理学的コトバなんて、気軽に使いまわすんじゃねえ。 小学校のとき、僕の大事な仲間の母親が亡くなった。 かけてあげるコトバもなくて、僕はいたたまれないものの、 何もしてあげられない気まずい気持ちで、ただ近くにいて 迷っていた。 (当時の僕は、何かしてあげなきゃ、と思っていた) そんなときだ。人がけむたがるのも無視しておせっかいを するのが大好きなYがすごい勢いで近づいてきて、彼に言った。 「かわいそうにね、気持ちわかるよ」 ――ええ?何言ってんの?何がわかる、って言ってんの? 何が起こってるの? Yは自信たっぷりに、続ける。 「大丈夫?はなし聞こうか?」 Yは、表情を変えもせず、「いい、大丈夫」とだけ言った。 彼は、そのあとうつむいて、Yとのコミュニケーションを 避けたように見えた。泣いていたのかもしれない。 よくは、見なかったけれど。 僕は、なぜかは当時わからなかったけど、非常識なくらいの 怒りを、Yに対しておぼえた。それと同時に、 本当の気持ちへの理解の姿勢のないやつのおせっかいは、 暴力的になる、ということを思う。 『優しさ』という偽造のパスポートを持って、 人の心の傷に、土足で入ってきたりする。 僕は、彼のことを、まだ心のどこかで、許せないでいるの かもしれない。いやもしかしたら、同じことをしてしまう 恐れがあった、自分のこと、だろうか。 ■ 理解って、何だろう。 大切なことは、どれだけ相手のことを知っているか、でも、 経験が豊富かどうか、ということでも、心理学の知識が あるか、ということでもない。 きっとそうじゃないと思う。 『どれだけその人のことを、本気でわかろうとしているか。』 これだと思う。 ぼくは、これだけだと思う。 ちなみに、僕が、『僕のことを一番わかってくていると思う人』は、 こういう人だ。強いところも弱いところも、なんだか全力で 受け止めようとしてくる人だ。言葉も聞き方も、不器用だけど、 コミュニケーションが、暖かい人だ。 その姿勢があるか。その真剣さがあるか。 それだけ本当に『相手の心』に向かっている、心があるか。 それは、絶対に伝わる。その心は、どんなコトバよりも先に、 絶対に、伝わる。プラスであっても、マイナスで、あっても。 心理学の知識でも、質問力でも、経験の豊かさでもない。まして、 自分の知識のひけらかしでもなく、いい人だと思われたい 見栄や打算でもない。 胸を打つのは、もはや『相手への理解力』を超えて、 『相手を真剣に理解したいという気持ちや誠意』だと思う。 誠意なんて、古臭いように聞こえて、 ぼくは、堂々と、一番大事なものだと思うことがよくある。 だからこそ、 よく知りもせず、詳しい話も聞こうとしないくせに、 「わかるよ」って簡単に判断するやつが許せないんだろう。 知ろうとする誠意が、感じられないから。■ 落とし穴に気をつけながら。 たくさんのことを知っていたい。 色んな価値観や、考え方を理解し、受け入れられる人に なりたい。 僕は毎日のように思う。 でもだからこそ、 「簡単にはわからないだろう」っていうスタンスが、 大事なんだろうな。 これはカナダに行ったときにも思ったんだけど、 そのスタンスがなかったら、 『俺はデービッド。日本に超くわしいぜ?刀も持ってるし、 忍者の知り合いもいるんだ!ところでユーは どうして今日、チョンマゲじゃないんだ?』 という落ちぶれ方になってしまう。 僕はこんなことを言われて、頼むから日本通だと 今後いっさい言わないで欲しい、と願った。 それは、理解じゃない。 理解を放棄してる。 もしかしたら、冒頭に書いた、 『月が見えるようになっても、理解不足でトラブルが起こる原因』は、 人の気持ちなんて簡単に理解できる、って勘違いしちゃってる、 僕たちの過剰な自信かもしれない。 「何を知らないのかを知ることが、勉強だ」 なんて偉い人が言った。それも関係しそうだ。 知ってるよ。とか、わかるよ。って言いたくはなる。 けれど、そうじゃなくて。 『僕は同じ経験や性格を持たないから、完全に 理解することは難しいかもしれない。でも、だからこそ、 全力で、あなたの話を聞きたいと思う』 ホンモノの理解へとたどり着く作業が階段だとしたら。 そのスタンスは、不確かな足取りを支える、 唯一の手すりなのかもしれない。 - - - - - - - - - - - - - - - 【『理解』って、なんだ?】 わかったフリを絶対にしないこと。 理解することの難しさをきちんと知った上で、 全力で理解しようとする、相手への誠意。
2005年03月07日
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■体の心が、じーん、とくるような、感動。 このところ、一番感動したのはどんなときだろう。 映画や漫画、音楽や芸能などもいい。 それはそれで大切。 ただ、ここで僕が考えたいのは、 『自分で掴み取った感動』です。 充実や困難、失敗や成長の果てにあるものとして。 小さなことでも構いません。 僕で言えば、ずーっと研究してきた 『腰痛・肩こり解消運動』が、ついに確立したことです。 アホらしいし、オッサンくさいのですが(笑)、 同時に、他の人の健康面でのアドバイスもできるように なり、肩こりや腰痛に悩む子羊さんに、 お役に立てるようになったんです。■人はどうして感動するのか。 例えば、僕がどうしてそんなことに感動したか? 理由をかきなぐってみると、 ・中学生の頃から、もう10年近くも腰痛に悩んでいた ・9年くらいかけて色々な医者や技術を試したが、結局なおらなかった (接骨院、整体、ハリ、お灸、カイロプラクティック、気功・・・) ・かさむ医療費、こごえる財布(笑) ・受験勉強に湿布が欠かせない。僕の周りが湿布くさい、センター試験(笑)。 ・救いを求めれば、インチキな医者に何度も騙される(T^T) ・悔しくて、自分で少しずつ、体のことや解剖学を学び出す。 (いっちょ前に、医者に絶望している(笑)) ・色々な体操やストレッチ、健康法や食事療法を取り入れる (でも駄目ですね、なかなか難しい・・・) ・アロマテラピーも、相方が一緒に研究してくれる(T^T) ・一時的によくなっても、また襲ってくるヤツ(腰痛め) □そんな中―――あるHPで伝説の人物を見つける。 『虫歯とハゲと癌以外は、すべて治せます』 と言い張るその医者は、なんとご自分がハゲてらっしゃる!(笑) これは只者ではない、と思いました。 ・『魔法の手』と冗談じゃなく呼ばれている爺さんに 腰をなおされる。本当に治って、びっくらこく。 ・頑固で気難しい爺さんから、色々な知識や治療法を少しずつ 習い、ついに自分で治せるようになる・・・。 ・その感動を伝えたくて、他の人にも感動してもらい たくて、おせっかいに治療法を伝え出す (爺さん、ごめんなさい) ★ついに腰痛から自分の力で自由になっただけじゃなくて、 それが他の人の喜びにまでつながるようになった!!! という風に、思い出すことの大半は、この苦節10年間の、 嫌だったこと、頑張ったこと、それでも駄目だったこと。 こんなことばっかりです(笑)。■そっだらことになったら、感動できねえだよ。 もし、ロッキーが最初から無敗だったら。 もし、柔道のヤワラちゃんが、何の挫折(ケガ)もなく金メダルを とってばかりいたら。 もし、ウルトラマンが苦戦することもなく、最初から 必殺技(スペシウム光線)をかまし、1分で敵を倒したら。 感動は、きっと大幅に減ってしまうんじゃないか。 僕だって、最初から腰痛という苦しみがなかったら、 こんな10年越しの感動を味わったりはできなかった。 その過程で、騙されないために学んだことや(笑)、 体のことに人はどれだけ真剣になるか、それがどんなに 心に強く影響を与えるか、といった知識は、 10年間なおらなかったからこそ、身についたものだ。 治った今になると、おかげさまで、という気持ちがある。 不思議だけど、本当に。■『感動という小さな映画』を繰り返すために。 人を成長させ、命を実感させてくれるような感動。 きっと、ものすごく大切な、命の充実感。 そのためには、実は、プロセスこそが、大事なんだなぁ。 エベレストの山頂にヘリコプターで行っても、歩いて 上った人の圧倒的な感動は味わえない。 それと同じことで。 たくさんの神話や映画や小説が、基本的にたどるのは、 □始まり(挑戦)→□挫折→□成長(工夫)→□勝利(成功) というプロセスであり、その進化をささえてくれるのが、 友情だったり、愛だったりする。 ―想像してみる。 このパターンから完全にはずれる映画って、あるだろうか。 そして、映画として考えても、一つとしてはずせる 要素はないんじゃないか。すべてが必要なんじゃないか。■『人生という映画』に、感動と歓喜を。 人生は、劇場のようなものだ、と誰かが言った。 そして僕たちは、主演男優(女優)賞を受賞する予定だ(笑)。 ひとはそれぞれ違うから、それぞれが本当に、 愛しいくらいに、大切な映画だ。クサいの承知で、言いたい。 ただ、本当に価値のある、感動の映画、 僕たちだけの物語にするためには。 やっぱり、 □始まり(挑戦)→□挫折→□成長(工夫)→□勝利(成功) という、 【一つひとつ、すべてのプロセス】が、それぞれに大切だ。 正直に告白するけれど、 僕は、挑戦はすこし苦手だ。挫折はもっと苦手だ(笑)。 でも、その価値が、少しずつわかってきた。 だって、心でも忘れたくないって僕が思う記憶には、 必ず挑戦や挫折が顔を出すから。 (みなさんは、どうでしょうか。) ■映画は、小作品でも、美しい。 最後に。 あまり有名ではなくても、映画には30分のものもあって、 それは十分に美しかったりする。 挑戦や挫折、といっても、意外に小さなことで いいんだろうな、と思う。ちょっと自分でほっとする(笑)。 例えば。 □はじめて挑戦してみた豚の角煮、一回目は焦げて自分で 全部泣く泣く食べた。でも2回目は友達も大喜び!とか、 □今まで言ったことのない街までサイクリングしてみる。 初めての場所だから迷子になりながらも、すっごい 安いスーパーを発見!とか、 □何か自身の持てるものが欲しくて、字がうまくなるという 本を買ってみて、あまりの自分の字の汚さに泣いていたのが いつの間にか笑いに変わって、字も少し変わった!とか。 すべて僕の実話なんだけども(笑)、 そういうことで、充分な気がする。 小さな成功で構わない。価値は充分にあって、 小さいほど、自分にしか味わえないドラマだったりして、 きっとその意味や、自分への静かな自信は重なっていく。雪みたいに。 その中に、感動がある。必ず、喜びがある。 そうやって、自分ならではと、その感動を重ねながら・・・。 僕は素敵に年をとっていきたいなぁ。【途上にいる、という価値】 人生はある意味で、映画のようなもの。 成功だけではなく、挑戦や挫折までをふくめて初めて、 感動の物語になる。 小さな挑戦、小さな挫折をこわがらないで、 自分という世界一大事な映画の一部として、 感動の一部として、大切にしていきたい。 あなたは今日、どんな【小さな挑戦】をしてみますか?
2005年03月06日
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■一番人をまどわす価値基準、『正しい』 高い、安い、うまい。素晴らしい、美しい、泣ける。 色んな表現はあるけれど、それぞれ その価値を計ってる、基準みたいなものがある。 お金だったり、味覚だったり、感性だったり。 そんな中、ほとんど罠のように思えるほど、 怖い価値基準がある。 『正しい』 僕はこの基準が怖い。どうしてかというと、 人が何かに取り付かれるように頑固になったり、 周りへの迷惑を考えられなくなったり、 最終的にケンカになったり。 『正しい』にこだわることで、いろんな被害が出てしまうから。 そして、一番被害をうけるのは、実は自分自身。 これが間違いなくて、とっても怖い。■『正しい』が作ってしまう争い。 夫婦喧嘩や口げんか、はたまた組織破綻から戦争まで。 自分の正しさだけを追求していると、あらゆる戦いが起こる。 そして悲しいことに、自分の正しさにしがみつけばつくほど、 『わかりあえる』という感動と成長が、遠のいて行ってしまう。 だって、わかりあうことをやめてしまったときに、 人は暴力に出てしまうものだから。逆に言えば、暴力って、 きっと相手への理解の気持ちが伝わらないからこそ、暴力。 正しさの怖さ。 それは、信じる心が強くなればなるほど、 他の正しさを認められなくなることだ。 その上、自分のこと、自分の正しさしか考えられなくなる。■例えば・・・ 自分の仕事の価値と辛さだけを信じていると、妻の家事への 配慮がなくなる(もちろんその逆も)。 自分の神様だけを正しいと信じていると、宗教戦争が起こる。 相手の言い分も聞いてみようかな、という 理解への努力、できれば工夫が【どちらか一方にでも】あれば、 半分の争いは解決できるのに。 『自分が正しいかどうかは、別に問題じゃない。』 と【どちらか一方が】思うことができれば、 ほとんどの争いは解消するのに。 ■うっかり出てしまう、こんなセリフ。 「自分が正しいのに、あいつらには理解できてないんだ!」 「自分の言っていることの方が合っているのに、相手が認めない!」 「あいつのためにやっていることなのに、どうしてあんな態度を…」 そんなセリフに心当たりがあれば、要注意。 僕たちは、すでに、『正しい』という独りよがりな おしつけに向かってしまっている。 それが行き過ぎたものが、怪しい宗教だったり、戦争にまで 発展していく…つまり、他の人間の言い分を一部も認めない活動である。 大切な認識として、絶対に忘れたくはないことがある。 それは、『誰もが自分を正しいと思いたい』ということ。 自分が正しいのに、と思うとき、きっと相手も 同じことを同じくらいの強さかそれ以上で、カタく、思っている。 そのカタさは、譲歩と理解、信頼と成長を犠牲にする。 その上2人を、妄信と執着、疑念と憎悪に染めてしまう。 相手の正しさを全く認められない時点で、実はすでに、 どちらも正しくなんかないのに。 ■無意識にやっちゃってる、さらに怖い『正しさ』 僕はずっと、自分がどれだけ『自分の正しさ』に こだわって生きてきたか、知らなかった。 「今のうちから、英会話の勉強をしておいた方がいいぞ!」 『そんなに好きなら、さっさと告白すりゃいいんだ!』 「体によくないしお金もかかるんだから、タバコなんかやめろ!」 etc、etc・・・ 僕は、『相手のために』という言い訳をふりかざして、 正しさという暴力をふるっていた。証拠が2つある。 【相手が喜ばなかったこと】と、 【自分が相手の気持ちや立場なんてほとんど理解してなかったこと】。 「どうして今、あんなに好きだった英会話の勉強をやめてるのか」 『好きでしょうがないくせに、告白しようとしない理由はなんだろう』 「タバコ以外に、ストレス解消の手段がないのかもしれない」 なんてことを、僕は一切考えてなかった。 ただ、『相手のため』なんだから、『正しいに決まっている』と 思っていた。 彼らの事情に注目して、理解しようとしていたら… 色々なことは、違っていただろう、と思う。 楽しさも、信頼関係も、思い出も。■もっと大切な、価値基準。 『正しさ』を外に主張することで僕らが得るものは、 そんなに多くない。そして失うものは、たくさんある。 もっともっと大切なこと。 それは、 その人がそれを、必要としているかどうか。 『理解』という価値基準。 だと思う。相手のためにも。 そして、自分のためにも。 そして、『理解』ということは、 【相手の言っていることを正確にわかること】をこえて、 【相手がなぜそう言っているか、その気持ちや事情までを わかってあげる努力をすること】である。 この違いは、とても大きい。■『正しい』って何だろう? それは、独りよがりな押し付け。 自分の視野と心をせまくして、人を遠ざけてしまう呪いだ。 食欲のない相手には、 どんなにおいしいフランス料理も喜ばれない。 食欲があってフランス料理が大好きでも、 信用できない相手が押し付けるものは、食べたくない。 正しさに包むと、あらゆる思いやりが、 暴力という名札と一緒に相手に届いてしまう。 僕たちは、理解し、信用している相手からしか 何も受け取りたくない。そしてそれは、多くの人が 同じように願っていること。 だからこそ。 理解と信用を作ることから、 コミュニケーションを始めたい。 理解と信用がないところで、『相手のために』を 持ち出すのは、暴力になりうることを、知っておきたい。 その人が、求めていることは何だろう。 どんな気持ちでいるんだろう。 その人が、必要としているものは… 正しさの種類は、人間の数だけ無数にある。 けれど、 目の前のその人が、求めていることは1つ。 『正しいかどうか』を離れて、 その1つを、一緒になって抱きしめようとすること。 きっとそこから、 本当の理解あるコミュニケーションがはじまる。 感動と成長が、はじまる。 【正しい、って何だろう】 『正しい』は、仲間との関係をじゃまするトゲトゲ。 今、自分が正しいかどうか、を伝えるために 聞いているなら、話しているなら。 一度、言葉を休めよう。 相手は、何を求めているだろう。 それに注目していたら、 相手も同じことを考えてくれる・・・ことが多い(笑)。
2005年03月03日
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(文末に、懐かしのお料理レシピがあります(笑)) オリーブ油は、偉い。 最近『ごいすー』という表現に出会い、 それこそスゴイな、と思ったんだけども、 オリーブ油の威力は、同じくらい、ごいすー、だ。 香りもさることながら、適度な甘みを含み、 野菜の食感をゆたかにしてくれる。 タダモノではない。 なんとも優しい調味料なのである。 『料理は火との格闘であり、共演だ。』 といったのは、他でもない僕ですが、 最近本当にそう思う。 料理の歴史は、火の歴史と、すっごく 身近に行き来しているはずだ。 原始時代。焚き火の周り。 多くの料理と、その楽しみ方が生まれてきた。 火をうまく扱えることは、 おいしい料理を作るためには、他の何よりも 根源的な条件なんだろう。 さて。 その料理の源となる火と、僕たちをつなぐものは何か。 というと、面白いことにそれは、 水と金具と空気、そして、『油』である。 油を使いこなせたら、料理は飛躍的においしくなる。 中華料理がそれを証明してくれている。 あれは、圧倒的な火力と、それによる油の優しい ふくらみの、共演作品だと思う。 そこで、提案。 オリーブ油。 数ある油の中でも、使いやすく、味に癖も弱く、 幅広い料理に応用しやすい。 ドレッシングにもなれば、シーズニングにもなる。 油は、縁の下の調味料だ。いぶし銀の渋さだ。 というわけで、サンプルレシピ。 オリーブオイルをたらすだけで、一気に 本格が香る、野菜スープです。─────────────────────【はんなり優しさ香る野菜スープ】※題名は意外に大切なので、ご家族に食べてもらう前に、 できれば発表して下さい(笑)【材料・調味料】きゃべつ、もやし、卵。(あれば大根)塩、コンソメ、こしょう、料理酒(あれば)。そして、オリーブ油。(1) きゃべつを大きめにぶつ切りにする。 一口サイズになっていればOK。(2) お湯を沸かし、下味を先につける。 料理酒、塩、コンソメ、こしょう、オリーブ油を 加える。オリーブ油の料は、小さじ2杯程度で十分。 (これで、野菜の湯であがりに芯がうまれ、 歯ごたえ・食感がよくなります。味も絡みやすくなります)(3) 味見をして、おいしいか確認。 おいしかったら、大きな声で『うまい!』と宣言しておく(笑)。(4) 鼻歌が始まると同時に、もやし投入。半分火が通った くらいで、きゃべつを入れる。 (大根を入れる場合は、一口サイズにしたものを、 野菜の中で一番最初に入れます) ※お好みにもよりますが、野菜は特に火を通し過ぎないこと。 キャベツもそうですが、甘みが抜けてしまいます。 歯ごたえがしっかり残る程度にして下さい。 目安は、1分半。(5) 卵を落とし、このみのかたさにして、混ぜる。 (スープ全体に、ふんわりした甘みが広がるように、 できれば、半熟のうちに混ぜて、混ざった状態で 火を通しきって下さい)(6) 火を止めて、オリーブ油をこさじ1杯分くらいかける。 『つもり』でも構わないので、愛情もふりかけてみる(笑)。 ※最初のオリーブ油は、ゆで加減と、味の絡み加減を良くする もので、仕上げのオリーブ油は、味と香りにやさしさを添える ためのものです。(味と香りは、火を通すと減るので)───────────────────── いかがでしょうか? 常備野菜で簡単にできますが、 体のあったまり具合といい、栄養価といい、 なかなかの一品です。そして、安い(笑)。 隠し味に、ほんだしを少し入れてやると、 日本人にはたまらないほど、コンソメの味が 身近になって、ひきたちます。 スープに一滴たらすだけで、偉大な効果。 オリーブ油は便利です。 他に使いやすい例として、ごま油などもありますが、 まずは、イタリアの風をお届けしてみました。 火との共演、第一幕でした。【今日の人生レシピ】 原始時代の役割を想像してみると、 本質が見えたりすることもある。 料理はなぜ・・・?音楽はいつ・・・? 友達のはじまりは・・・? などなど。
2005年03月02日
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きょう、腹に染み込んだこと。 余裕があるから思いやるんじゃない。 思いやるから余裕が生まれるんだ ヤル気があるからやるんじゃない。 本気でやりだしたら、生まれるのがヤル気。 そしたら、ついてくるのが、楽しみ。 本気でやる前から楽しいことは、一瞬で、軽い。続かない。 理解しやすいから仲良くなれるんじゃない。 本気で理解しようとしてたら、いつの間にか 仲良くなってる。 ただ息をしているから、生きてるんじゃない。 命と時間と責任を引き受けて戦うから、 初めて生きることができる。 逆にしがちな、順番。 結果として生まれるものだけを 僕たちは、いますぐ欲しがったりしてる。 それで手に入らなくて、カラ周りする。 でも、自分の気持ちや心の芯のところ。 ホンモノの感動が生まれるのは、 カラダと心を自分の意思で動かしたあと。 自分の足で歩かない限り、 次の景色は現れない。それと同じこと。 僕が何かを起こすから、感動がついてくる。 行動を起こす。心動を起こす。 命が、起きる。目を覚ます。 うん、きっと、この順番だ。 【そのまま死んでしまう前に】 感動や、充実を、待たない。 人生を、待たない。 それは僕が迎えに行くものだから。 手を広げて。泥にまみれて、走ったりして…。
2005年02月28日
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魅力、というときに、 僕が思い出す顔には、なぜだろう。 どこか、子どもらしさが香る。 それは、どんなトゲも柔らかくしてしまいそうな笑顔だったり、 ちょっと頼りない優しさに包まれた照れだったり、 大切なものを純粋に信じる強い意志だったりする。 あ、それと、いたずらが楽しくてしょうがない、っていう 愛情に満ちた悪だくみも。 幼いころ、 きっとみんなが自然に持っていたものだ。 僕たちは、その『純粋体』のようなものに、 たくさんの服や鎧を着せ、あるいは薬を飲ませて、 今の形になってきた。 社会性、しつけ、敬語、スキル、学歴、職歴、 それにプライド、いろんなもの。 大切なものとして、身にまとってきた。 でも一方で。 その社会的に必要な条件をきれいに着こなして、 完璧でいる人がいたとして。 僕は惹かれるだろうか? 遠くあこがれることはあっても、もしかしたら、 近づこうとはしないかもしれない。 完璧なものを目指そうとする【癖】を持ちながらも、 完璧に到達したものに、僕は魅力を感じない。 不思議だ。 いや、そうでもないのかな。 赤ちゃんや子どもから学べることは多い。 彼らはまだ、魅力と可能性以外に、何も持っていない。 それでも、多くの人をひきつける。 そして僕たちの中にも、彼らは、まだ、いる。 眠っていることもあれば、うすく目をあけて、 鎧の隙間から外(社会)を見ていることもある。 素直だったり、怒りっぽかったり、わがままだったり。 すぐに笑ったり、好奇心に正直だったり、思い切り泣いたり。 それはそれでいいなぁ、と。 扱いづらかったり、ちょっと人に迷惑をかけたりする。 でも、本当に大切な、原始的な魅力が、そこ宿る。 そういう、一見大人気ないもの、欠点とも呼ばれそうなものを、 もう少し、大切にしてもいいのかもしれない。 僕が思い出す、魅力ある人々は、みんなその純粋体を、 しっかり抱きしめて、生きている感じがする。 隠すこともせず、子どもをあやすように、 うまく導きながら。 それが、笑顔に、言葉に、叫び声に、涙に。 表情として、顔を出すんだろうなぁ。 たまらなく、魅力的に。 なんだか取りとめもないけれど。 怒りも弱さも、恥ずかしくなるほどの感情も。 興奮も増長も、馬鹿にされそうなほどの熱意も。 どんな技術よりも、大切なんじゃなかろうか。 どんな一流の仕事や素敵な趣味よりも、 自分らしさ、なのではなかろうか。 神がいるとして。 僕たちが最初に与えられたものでもある。 生きるのに、大切なものであって、 当たり前なのかな。 【魅力について】 自分の中の【子ども】を大切にしなおして、 認めて、導いてやる。自分らしさも、たまらない魅力も、 その自分自身から、出てくる香りのようなもの。 着飾り過ぎても、遠ざかる、原始的なもの。 自分と、その命への、ヒタムキさのようなもの。
2005年02月27日
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嫌なところ。汚いもの。醜い性質。 やりかけの仕事、もらったままの手紙。 僕らの中には、たくさんの未完了がある。 気のない返答、もらえない告白の返事、 忘れたままになっているケンカ。 コミュニケーションの中にも、 本当に多くの未完了がある。 実は、未完了は体にも心にも、相当なダメージを与える。 ゆっくりと、確実に、深刻に。 忘れたつもりでも、実際は、心や内臓が記憶していて、 体の奥深くで、不安や憂鬱をつねに醸造する。 時間をかけて、ゆっくりと、確実に。 僕の高校時代の友人で、ニキビが恥ずかしくて ファンデーションを塗り固めて隠していた男がいた。 いつも、気持ちが悪かった。妙に白かった。 『ケント(デリカット)』と呼んでもまだ足りなかった。 しかし、気を遣って洗顔~アフターケアまでをしてた 彼のニキビは、ニキビ面丸出しで野球にいそしんでいた Kくんのものよりも、はるかに治りが遅かった。 それどころか、今、治り切らないにきびが、クレーターのように なって残っている。 隠したから、だと思う。 隠す、忘れようとする、という行為は、マイナスのエネルギーで 自分の何かを包みこむ、ということだ。 その何か(例えばニキビ)は、自分にとっての『悪』とされ、 片付けられる。 だけど。自分の意思によって封印した記憶は、心が 必ず覚えている。 その心は、悪を封印しつつ内包している 『自分自身も悪だ』という認識を持つ。 それが、多くのコンプレックスの原因。 繰り返せば、 自分で自分を許せない体質になる。 他人のことも許せない人間になる。 『自分だって許されていないのに…』。 怖い。 未完了を方っておくことの本質には、この危うさがある。 正体不明のうつ病や、コンプレックス、不安体質の 原因には、当たり前のように、多くの深刻な未完了が 関わってくるそうだ。 隠してしまっているニキビはないだろうか。 忘れようとしている、隠そうとしている、自分の中の 醜さはないだろうか。弱さはないだろうか。 それが膿になる前に。 存在を認めた上で、自分の心としての扱い方を決意してやる。 そしたら今からでも遅くはない。完了できるものは、完了させる。 お礼と謝罪は、新鮮さが命だけど、賞味期限はない。 お礼と謝罪は、感謝と救済、と言い換えても良い。 自分自身に対しての、お礼と謝罪。そして感謝と救済。 大切な人に対しての、同じ両輪。 今日、たった一つでいいから、自分とあの人を、許そう。 そして、未完了を毎日1つだけ、完了させていこう。 醜いもの、見にくいもの。 そのどちらも、あなたがもし思い出せるなら。 必ずその子は、救済を求めている。 あなたの心と価値観が、深化を求めているのと、 ちょうど同じくらいの強さで…。
2005年02月24日
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人間は、どんなときに、『楽しいと感じるか』。実は、楽しいことをしている間ではない、という。楽しい、というのは、冷静に外から見た客観だ。楽しさを実感するとき、実はちょっとそのできごとから自分は距離をとっている。では、どの状態を経たときに、楽しさを感じるか、というと、夢中、という状態だと思う。他のすべてを忘れて、一つのことに夢中になっているときだ。内容は問わない。ただ、本気がある。きっとマンモスを追いかけていた頃、すべての作業に対して、人は夢中だった。武器を作る、火をおこす、飯を喰らう。集中によって、脳の働きは、2倍~10倍にまで跳ね上がるという。そしてそのとき、大量の脳内麻薬が出る。ランナーズ・ハイはいい例だ。ってことは。楽しくない、というボヤキは何千とあるが、大切な原則はあまり多くないのではないだろうか。自分を【夢中】に追い込めるか。導けるか。楽しさは、後から勝手についてくる。期待しなくても。何を選ぶかよりも、よっぽど大切なこと。文字通り、夢の中に入り込んでいけるかどうかは、すべて自分の意思にかかっている。今、その一瞬に、僕たちはどれだけの集中、どれだけの本気をつぎ込んだだろうか。一瞬にかけるものはきっと、人生にかけるものとイコールだ。今、この一瞬を本気で楽しもうと、決める。今、この一瞬に本気で集中しようと、決める。花火のように。
2005年02月23日
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時間とは、どう扱うべきものだろうか。 節約しつつ、大切に使うもの? おかまいなしに、使いまくるもの? この2つの選択肢で、けっこう納得いってしまい そうだけど、僕は最近、どちらでもないなぁ、と 思う。つくづく、思う。 時間は味わうもの。今の僕のハンナリした答え。 節約しようとも、豪快に使おうとも、 川をとめどなく運ぶ水のように、 時間は手をこぼれていく。 かと思えば、空から絶えず降り注いでいる。 手の大きさが決まっているのだから、 僕ができる最大の敬意は、 その時間を心から味わうことだ。 時間の量よりも、濃さに注目したい。 どれだけたくさんの時間を注いだかよりも、 どれだけ自分の【夢中】を注いだか。 もしかしたら。 時間を、命に置き換えたとしても、同じかもしれない。 何歳で死ぬかはわからないけれど、命の水は 一定のスピードで、生まれ、こぼれ続けている。 今僕ができるのは、手のひらにある命を 味わうことである。急いで爆発させることでも なく、将来の準備のために貯めるでもなく。 人生を浪費するのも嫌だけれど、 将来の準備のために今の楽しみを捨てることも、 実は浪費なのではないだろうか。 時間はお金と違って、貯蓄することができないのだから。 そのときそのときにしか、味わえない味が きっと命にはある。それぞれの季節の花の色が 違うように。 アホみたいに今だけ楽しい時間と、 ちょっとだけ将来にも役に立ちそうな時間。 その隙間を、河のように漂って 生きていけたら、素敵なんじゃなかろうか。 なんだかものすごい抽象的な話になった・・・。 【今日の人生レシピ】 時間の使い方は、命の使い方。 いかにためるか、いかに使うか、それよりも、 いかに深く味わうか。 何をしてたって、楽しめる人は楽しい。 外側にあるモノやコト・時間そのものよりも、 それを自分なりに味わえる心が、豊かさなのかな。
2005年02月22日
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『癒し』が疑いようもなくブームだ。でも僕は、癒し系といわれる商品群を、ななめから疑ったみたい(笑)。僕も癒されたい、と思う時期があった。正確に言えば、解消できない不安が溜まって心身の疲労との区別があいまいになるようなときで、考えることを放棄したくなるようなときのことです。でも、外側から持ち込める解決策には、見事なほど癒されやしなかった。個性の時代、ってマジックワードでごまかしながら、日本全国に共通の成功や癒しの法則があることを前提に商品が売れている。あれは、大衆的なものをオーダーメイドと偽って売りやすくするための一種の洗脳のように思えてきた(笑)。子どもが、魚の全体像を知らずに、パックで売られている形状が魚だと思ってしまっている、『プロセスカット』ということが問題になったことがあった。今、知識のプロセスカットだけでなくて、精神面でのプロセスカットが進んでいる感覚がある。3時間で成功体質になる、とか、CD聞くだけで癒される、とか。『あなたは考える必要なんてない』『もう悩まなくてもいい』『あれこれと努力なんてしなくてもいい』っていう、プロセスカット。ヘリコプターでエベレストの山頂に連れて行きますよ、というのと似ていて、そんなもの偽物な上に、たとえ本当のエベレストだったとしても、何の価値もないんだと思う。魚ばっかりもらっても、釣り(狩り)の仕方を知らない限り、奴隷でい続けるか、いつかは飢えるしかないのと同じで・・・。今、無自覚に癒しや暇つぶしカルチャーの奴隷になっている人がたくさんいる気がする。(癒し系の商品や、漫画喫茶、その他もろもろ)象徴的なのは、癒し系の商品が、『売れ続けていること』で、これは誰も癒されていない証拠だ(笑)。なんて上質なジョークだろう。プロセスカットの本質は、ゴールを切ることしか頭にない障害物競走。これは、目の前の障害物には無自覚なまま心身ともに切り刻まれている、という悲惨なものだから、なんだか悲しいほど滑稽だ・・・。それって、できるだけ早く死のうとして生きるのと、あんまり変わらないのにね。【今日の人生レシピ】何かを手に入れる前に、それを自ら生み出せる力こそを、手に入れたい。それが、本物の血肉になるから。
2005年02月21日
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頭がいい。頭の回転が早い。自分がそうなれたら、ってよく思います。でもテストの点数とは、直接結びつかない。なぜって、頭の良さは、教科書に載っていない答えを、自分の頭で探し・作り出す力だから。というのは、僕の定義だけれど、少なくとも、生活や仕事で役に立つ力は、『覚える力』よりも、『考えられる力』。(自分が暗記が大嫌い、という勝手な後押しもあるんだけど(笑))だって、何を覚えるかっていったら、『誰かが考えた結果』だもんね。だったら、自分も考えてその結果が出せる人になった方が、楽で早い(笑)。九九を覚えてなくても、1+1~9+9まで計算すれば答えが出る、ってことを知ってたらいい。それと同じ。九九を作れるようになればいい。そしたら、考える力ってなんだ?その前に、人間は何があったときに、考える?答えは、『質問』。何か感動したことについて、どうしてだろう?悲しいことがあったときに、何を探せばいいんだろう?だいたい歯磨き粉をいつも使いすぎるのは、誰だ?分析が始まる。リサーチが始まる。推理が始まる。そう、僕たちは、考える前には必ず、『質問』をゲットしている。考える装置。それが質問だ。質問のプロは誰か?第一人者の権威は、赤ちゃん。なぜ?なに?のオン・パレード。どうして?どこ?のカーニバルである。だから、実はすっごく色々と考えている。答えはわからなくても、考えているから、発見がある。発見があるから、時間の味わいが深く、1年を長く感じるのだ、という学説もある。質問を、見つけよう。質問を発見する能力は、考える力だ。考える力は、すべてを生み出す自家発電装置だ。誰かの面白いスピーチ。急に売れ出した商品。なぜか人気のあるあいつ。炉端でいつも目を惹く広告。忘れられないほどキレイだった花。日本の歴史。自分の歴史。なぜ?どうして?ぶつけてみたい。すべての目の前にあるものは、メッセージだ。いろんな偉い人が言う。僕たちは、質問を使って、それを翻訳したらいい。論理的思考とか、直観力とか、プロジェクトマネジメントとか。難しく聞こえることだって、質問から出発してる。さて。僕は、今日一日、何個の質問を見つけられるだろうか。それに、きちんと真剣に取り組めるだろうか。あなたは、今日一日、いくつの質問(アンテナ)をはりめぐらせるだろうか。例えば、この文章に、でもいい。質問は、考える装置。それに、人とのコミュニケーションの起爆剤にもなる。なぜ?どうして?生まれたばかりの赤ちゃんが、何より大切にしているこの魔法。それなりの、理由があったんだなぁ。【今日の人生レシピ】あなたにとって本当に大切な質問を知らない限り、どんな答えも力を持たない。答えよりまず、あなただけの質問を、探そう。
2005年02月20日
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僕は、バーベキューがなぜあんなに楽しいのかの秘密を知っている。そこには、忘れていた『スローの価値』がすべて含まれているからだ。いつもはコンビに弁当で調理済みの肉を買っているような僕たちが、ものすごい手間隙をかけて、あるときは炭まで買い込んで、火と格闘し、鉄を暖める。仲間が一緒に汗を流しながら、なれない手つきで野菜を切る。そこには協力として必然的なコミュニケーションが発生し、一つ一つの肉を、(ときに生の状態での豚肉と牛肉の区別の仕方を初めて知りながら)自分の手で焼いていく。役割分担があり、食物の分配があり、協力と対話がある。そしてそれを、自然の中で行っているのだ。楽しくないはずがない。おいしくないはずがない。それは、肉の味だけではないからだ。そこにしか存在しない場所で、その仲間とでしかできないコミュニケーションを取りながら、自分たちの手で、時間を、食を、自然を、文化を、ぜんぶ一緒に食べているのだ。楽しくないはずがない。おいしくないはずがない。僕は、最近注目されている『スロー』という価値観の一番大切な本質が、この中に込められているように感じる。バーベキューに効率性は全くない。時間的にも金額的にも、コンビに弁当と比べたコストは莫大なものだ。しかし、私たちが感じる豊かさは、節約生活の末に手にする小金や隙間時間の、何十倍と心を潤してくれることだろうか。スローライフという言葉自体も、実はもともと『スローフード』という食を見直すイタリアでの活動を由来とするもの。これは北イタリアの小さな村から始まった運動で、ハンバーガーのようにすぐ食べられ、どこにでもあるファーストフードに対し、その土地しかない材料を使った料理を大切にし、家族や友だちと話しながらゆっくりと味わおうというものだ。そしてそこに、心や文化を味わう姿勢を見出す動きだ。私たちは日々、何を食べているだろうか?何のために、誰と食べているだろうか?もちろん、毎日をバーベキューにする必要はない。ただ、見直してみる価値はある。平凡な一日一日を、きちんと味わって生きる方法は、探せばきっとあるはずなのだ。【今日の人生レシピ】食も人生も、誰とどう味わうか。食材よりも、ひょっとしたら、大切なことかもしれない。
2005年01月19日
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デイヴィッド。日本通を自称するアメリカ人が、とんでもないことを言ったのを覚えている。無知であることのリスクと、海外の日本人への認識の低さ、また逆に、日本人の海外への発信の弱さ。いたいほどに、僕が感じた事件だった。ホームステイの受け入れをしてくれたデイヴィッドはとてもナイスガイで、会社を経営している。家がまたでかい。プール、卓球台(むこうでは、ピンポン)、芝生の庭、芝刈り機(これがお約束(笑))、でかい車2台、どでかい暴れ犬1匹。それに、金髪ブルーアイズの、見たその場で溶けそうになるような、かわいいお子さんがいた。羨ましい。誘拐する人の気持ちが、ほんのすこしわかる(笑)。(割とみなさん、外国人お子どもには感じるそうです(笑))『俺は、この辺じゃあ、有名な日本通だよ?』デイヴィッドは上品なひげをさすりながら、話す。ヒマさえあれば、たくさんの、日本コレクションの自慢をしてくれた。『ジャパーニーズ扇子もあるしぃ、キモォノも見たトキあるしぃ、 ゲイシャの本も読みました上に、ジャパニーズカタナも持てます。 30万円でシタ。ここまでニホン詳しい、僕だけでありマスござる』。そんな感じなのだ。「ははぁ、お金もあるし、すっごい詳しいんだなぁ。 戦争のことも知ってる上に、日本にも少し同情的だし、 なんだかここまで詳しいと、嬉しいもんだなぁ」と僕が思っていた矢先、デイヴィッドは、禁断のセリフを言ったのだ。『ところで、タカァシ?(タカハシ、に聞こえる) 君は今、旅行にいて大変だとは思うけど、でも 君たちの誇りであるチョンマゲを、なぜここ3日間も していないんだい?』えええええええええええええぇぇぇえぇえ???ちょ、ちょんまげ? chonmage? 彼は、何度聞き返しても、本気そのものだった。日本は、まだ何も伝えてないんだな、外国に。僕はいろんないみで面白いショックを受けた。それは、はっきり言って、西部劇でしかアメリカを知らない僕が、『ヘイ、デイヴィッド、今日はどうしてウェスタンブーツで 白馬にのって迎えに来てくれないんだい?』というようなものなのに(笑)。そして、知らない、ということは、けっこう危険にもなりうるな、ということも感じた。今回はギャグですむものの、これが宗教に触れるような内容であれば、ただではすまない。日本人、総サムライ化計画・・・仲良くなりたいなら、相手のことをきちんと知っておきたい。そして、知らないことは、きちんと知らないと言い、知りたい、ということを伝えたい。文化も歴史も違う相手に対して、それはきっと一番大切なマナーだと僕は思った。相手が外国人に、限らず。【今日の人生レシピ】僕たちは、知らないことのほうが多い。ただその知らなさへの誠意だけが、コミュニケーションの温かい架け橋になってくれる。
2004年11月17日
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バスケをしてきた。ストリートコート。桜ヶ丘、というだけあって、豊かな木々が見下ろすフリースペース。普段見過ごしている紅葉がなんだかまぶしく見える。開き忘れた故郷からの便りのように。バカで最高な仲間と、アホみたいにはしゃいで。走る、飛ぶ、投げる、笑う。へたりこむ、飲む、倒れこむ、空と目が合う。汗の匂い。肺の痛み。なつかしい心地。かきたいときにかく汗は、なんだか思い出ごと出てくる。僕はサッカーと、一緒にサッカーをしてきた仲間が本当に好きだった。みんなを引っ張れるほど優秀なキャプテンじゃなかったけど、ピエロのように、チームを盛り上げることに命をかけていた(笑)。思えば、自分よりうまい奴がわんさといたなぁ。さて、バスケット。僕はこのスポーツも、サッカーと同じくらい好きだ。そして、サッカーよりも、なぜか【人並み以上】だ。僕はどうして、サッカーを9年以上もやってきたのか。もしかしたら、下手くそだったから、かもしれない。そうだ、思い起こせば、最初はサッカーなんか大嫌いだった(笑)小さな頃は、嫌で嫌でしょうがなかった。週に3日ある練習なのに、一度もいかないことばかり。ただ、たま~に参加するときには、必ずお礼を言っていた。コーチは無償でやってくれていたから。(そんなことに気を遣うような、変な子どもでした(笑))夕焼けがびっくりするくらいの、『ありがとうございましたっ』。そんなある日、コーチが言った。『次も来いよ~』って。僕はもう、そうとうパニックになった。でも、コーチが怖くて、もちろん反抗はできない。「(o;TωT)o" ビクッ! は、、、はいっ」と僕。怖くて約束をやぶれない僕は、ほんとうにほんとうに珍しく、2回連続で、クラブに行ったのだ。(快挙だ・・・)そしたら、恐れていたことは起こった。『また次回も来いよ~』である。僕は正直言って、練習がつらかった。体力的にもきついが、何より、下手くそだからだ。学校ではガキ大将で威張っていた分だけ、居場所のなさにはとても敏感だった。いつも僕のことを『師匠』と呼ぶ友達が、(それはそれで十分異常だけど(笑))僕よりよっぽど華麗にボールをあやつる。彼らは、蝶のようだ。僕は自分を、芋虫みたいだ、と思っていた。本当に。その僕が、辛いような後ろめたいような恥ずかしいような思いを引きずって、2回連続でクラブに行ったのである(ああ、なんかあの頃の想いが・・・)そして、そのサイクルは、繰り返された。ただ僕は、辛いこともあったものの、やっぱりちょっと嬉しかったのだ。『次回も来いよ』って、言ってもらえることが。そうこうするうちに、僕は毎回通うようになった。そして、なぜか、誰よりも早くグラウンドにいた。なぜか。誰もいないなら、サッカーをしていたって、自分の居場所が確保できたからだ。怖いコーチもいなければ、下手くそなところを隠したい同級生もいない。大した練習なんてしていない。ただ思い切り、一人でボールを蹴っていた。1時間も、2時間も。でも、それはほんの少し、楽しかった。そんなある日。『お前、最近なんかえらい頑張っとるなぁ』コーチが、この僕に、言った。明らかに一番下手だった、僕に。最初は信じられなかった。いや、言われてからもずっと、信じられなかった。そんな戸惑い顔の僕を見て、コーチは続けた。『家具を運ぶときに(コーチは家具屋の経営者だった)、 グラウンドの横を通ったら、いつもお前がおったわ。 先生、嬉しかったぞ。』・・・・・・・・小さな僕は、必死で涙をこらえた。いつも厳しくて怖いコーチが、褒めてくれたのは初めてだった。想像したことだってなかった。きっと死ぬまで忘れないだろう。体中で叫びたいほど、嬉しかった。グラウンドが真っ赤に染まるくらい、夕焼けのうるさい夏の日だった。僕はあの日、本当にサッカーが好きになったのだ。毎回かかさず、練習に通う。毎日隠れるように繰り返していた練習は、このときとても役に立った。一番下手くそだった僕は、意外にも、誰よりも強いシュートを打てるようになっていた。それは、本当に本当に、嬉しかった。僕は自分の居場所を、なんとかかんとか、獲得した。これが、今の僕のサッカーの、そして性格の、土台になっている気がする。中学・高校と、ずっと続けてきた。才能のあるやつには、勝てないものも多かった。ただ、僕ははげましや声だしを一生懸命やったり、練習を楽しくやれるように工夫したりピエロをやったり・・・(笑)実力的には、影でもやっぱり練習したけど(笑)、特別にはなれなかった。でも、それはそれで受け止めて、僕なりに、『自分ができること』を、ずっと探してきた。それはいつしか、僕にしかやれないこと、になった。ピエロはピエロで、一流のピエロになればいい。花形は別にいる。そして彼には、ピエロはできない。そしてピエロな僕には、大切で最高な仲間がたくさんできた。そんなこんなで、僕はサッカーがものすごく好きになった。好きになれた、と言った方がいいかもしれない。サッカーが教えてくれたものは、とても多くて、大きい。僕は、本当に何もできなかった。居場所もなかった。だから、多くを学んだ。下手くそじゃなかったら、ずっと知らなかった。誰よりも自分が劣っている、という辛さ。居場所のないことの辛さや後ろめたさ。それでも頑張れる可能性が必ずあるってこと。そして、嬉しいことも。優しい声をかけてもらえることがあんなにも嬉しいなんて。仲間に入れてもらえることが、あそこまで自信になるなんて。自分の居場所を作るということが、子どもにとって、きっと大人にとっても、命が揺れるほど大切だってこと。『お前、明日も練習に来いよ』って、本当に嫌で嫌で逃げ出したかった、友達のセリフ。それがいつからか、『明日も練習一緒に行こうね~』に変わった。そしたら、僕が、変わった。変わることができた。性格が変わったわけではないけれど、うつむいていた顔が、たしかに上がった。会社でも同じ。カナダでも同じ。これからの日本についても同じ。僕は、『自分にできること』を必死で探すんだと思う。基本的にはピエロでいい(笑)。楽しい仲間と、それを探せたらいい。幸福なことに今の会社には、そういう仲間がいる。僕は最高のピエロになりたい。泣いてる大人が、笑ってしまうような。バスケに疲れ果てて寝転びながら。そんなことまで、思い出して、改めて思い直した(笑)。スポーツの秋である。空想の、秋である。ふと、僕の中の少年が、フリーコートを横切っていった。【今日の人生レシピ】僕が何かを期待する前に、僕が何を期待されているか、何ができるか。それを考えて生きたい。
2004年11月09日
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風邪がなおった。なぜか。それはおいしくて、体にいいものを食べたから。そして、材料費も安くて、サイフを心配する心の負担がないからである(笑)。何を隠そう、そのメニューは、『ハルサメラーメン』。レストラン『みねうち(仮)』の秘蔵メニューである。何を隠そう、というと、昔からどうしても、『隠すとしたら何かな?』に聞こえてしまうけれど、本当においしいから、ちゃんと惜しげもなく公開したい。ラーメン好きだけど高いし、ダイエットだって大切。風邪ひいてるけど、暖かくて体にも消化にもよいものがいいんだけど、おかゆはもう飽きた(笑)だからって言っても、体に良くてうまくて安いものがいい。というあなたに。とてもオススメであります。思い切りはんなりして、ヤサシイ味。─────────────────────【今日のはんなりレシピ】1オリーブオイルで、にんにくをいためる。 好みでタカの爪も入れる。ゆっくり弱火で火を通し、 油に味付けをする。2そろそろにんにくも懲りたかな?というくらいのときに、 好みのサイズに切ったベーコンを挿入。弱火のまま こげるまで焼くのがポイント。いい味が出る。3キャベツの千切りを大量に投入。麺類への千切り投入は、 一緒に食べやすくてオススメ。好きな人は、以前のレシピのように、 ぶつ切りも入れて、歯ごたえ2重奏を楽しむのも◎。4この時点で塩こしょう、日本酒を入れ、味を調える。5水(急いでるならお湯)を投入。 ※余裕があれば、ここで『油とアクとりシート』を入れる。 より透明度の高いやさしさへのプロローグ。6沸騰したら、もやしを入れる。7味付けの仕上げ。鶏がらスープの素(なければ味の素少々)、 コンソメを投入。塩こしょうで最終調整。8ハルサメを最後に投入。好みの硬さになるほんの直前 (くしゃみ4回分くらい前)に、卵を入れ、かる~くだけ 火を通す。 ※ハルサメは食べる分だけ入れること。伸びると歯ごたえが減り、味が落ちるよって。9お好みで、トウバンジャンを入れる(辛党)─────────────────────ほいで、ボナペティ、です。ヤサシイ鳥だしのスープに、ベーコンのカリカリうまみ。そして、2色キャベツともやしのしゃっきり歯ごたえ。寒い日にこの味は、心と体に、おいしいです。【今日の人生レシピ】健康には、欲張ろう。体は心の肥やし。心は体の癒し。
2004年10月30日
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『一日が25時間だったら、すごくその1時間は有効に使える気がする。』いつか、友だちがぼやいてた。当時からひねくれていた僕は思った。―それは嘘だ、と(笑)。残りの時間はきっと、長さの問題よりも、濃さの問題が大きい。24時間をうまく使えなかったら、25時間でも32時間でも、きっと同じこと。中学生のときから、ずっと思ってきたことがある。誰かと同じものを見たときに、僕は誰よりも深く、多くのことを感じられる感性を持っていたい。今、日本人は80年ほど生きる。その中で、『僕だけが見る景色、僕だけが聴く音』は、きっとそんなには多くない。だから。だからきっと、自分が特別な場所に行きたかったら、特別なものを探すことよりも、特別なものを感じられる自分でいなきゃいけない。今よりさらに若造だった僕は、誓ったのである。思えば、昔からずっと右脳派だった。-右脳が鍛えられるから、という理由で左利きに 変更したあたりは、とても左脳っぽいけれど(笑)-風の詩を聴け、という村上春樹の小説があるけれど。耳をすばせば、というジブリの大傑作があるけれど。僕は耳をすませて、風の詩を聴きながら、色んな寄り道をして生きていく。雨の日には、カッパを着てハシャいだりしながら。時間はきっと多くも少なくもない。川みたいに流れるなかで、くるくる踊ればそれでいい。死ぬまで忘れられない。フランクルという、ナチスドイツの強制収容所から生き延びた人が言った。『人生に何が期待できるかは問題じゃない。 自分が、人生から、何を期待されているか。これが重要だ』あの悪夢をサバイバルしたのは、そんな人たちだった。僕は、僕の人生から何を期待されているんだろうか。きっと、生き抜くことは、その一つだ。何をして、生き抜くか。何をやり抜くか。僕は自分という人間をやり抜く。耳をすませて、自分にとって大切なことを、本当に大切にして。それを、コンパスにして。久しぶりにユニクロで下着を買った夜、そんなことを考えた(笑)。
2004年10月28日
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はんなりする絶好のチャンスである。グッタリと溶けるようにふとんにくるまり、頭が勝手に考えることを見ていた。ふと『風邪』という文字に注目している。風のいたずら?そう思うと、なんだか少し、心がほぐれる。「風は太古から行き続ける、何よりも柔らかな化石である。」僕が大好きな、写真家の言葉。強さを変え、あたたかさも変えながら、何万年も吹き続ける。いたずらくらいしたくなるのもわからないではない。そういえば、ビューンといって、風とすれ違う。あれは吹いてるというより、すれ違ってる。風はそのあと、どこに行くんだろう。どこまで行くんだろう。あ、壁だ。新宿にはたくさん壁がある。風にとって新宿は、なんとも住みにくい。風はところで、どこから来るのか。もしかしたら、どこかへ行った風は、ずっとずっとあとで、僕のところに来ている。もしかしたら。目が覚めたら、静かな夜だった。一日ははまわる。命もどんどんまわる。僕も少しずつまわる。色んなもののサイクルが、風だ。何かを運んでいるんじゃなくて、何かが移動するあとさきを包む、優しいいたずらだ。もう、次の季節が冷たい風に包まれている。・・・その夜、新しく、台湾風しみこみ卵という料理を考案するも、撃沈(笑)。現在第二段を研究中です。成功し次第、レシピ公開予定。こうご期待!(笑)
2004年10月24日
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何か、自分より大きかったものが、小さくなってしまうのは、どこか悲しい。妖怪みたいに育ったヘチマが枯れたとき。カツオ君の年齢を追い越したとき。腕相撲ではじめておじいちゃんを負かしたとき。久しぶりに会ったオヤジは、とても小さかった。博物館の館長として、文化をときに守り、ときに発掘する。解明されてない古文書を解読し、愛する故郷や自らの歴史を紐解く。誇りがある。古風なところもあるけど、義理人情にあつくて、自分の生き方をつきつめてきた人。仕事の話をした。僕の就職先について、オヤジはオヤジの夢を見ていた。もっと日本を救うような職場があるんじゃないか?国際社会に貢献するような舞台が・・・少し、腹が立った。僕の仕事を詳しく知ろうともしなかったから。僕は初めて、NCAのことを父親に話した。ものすごく冷静に、言葉を選んで、オヤジが僕に見ている夢に応える形で。気持ちをありったけ込めた。NCAにはその夢を見るだけの価値とポテンシャルがあり、仲間がいる。どこまで伝わったかは、わからない。ただ、親父はとても嬉しそうだった。たった1杯のビールに酔いつぶれながら、真っ赤な顔をこっくりこっくりさせていた。小さな飲み屋を出て、僕たちはラーメン屋へ。オヤジが行ってきた、アラスカのオーロラの話。唯一心から共感できる夢である、ログハウスの話。ただ、オヤジは『自分の生涯を考えると、ログハウスは難しそうだ』と言った。とてもさみしそうな、小さな笑顔で、言った。「なんとか、俺が金持ちになれたら」とボヤイても、取り合わなかった。新宿駅まで、夜道を歩く。歌舞伎町は、いつまでもどこまでも、うるさい。その中で、僕ははじめて、あんなにゆっくりと歩いた。いつもの半分のスピードだ。腰痛もあり、長旅に疲れたオヤジが、ひょこひょこと後ろを歩いている。親子は、いつかこうして、バトンタッチをするんだろう。駅で別れたオヤジは、とても嬉しそうにして、僕の手に小遣いを無理やりにぎらせて、帰っていった。仕事のことは、伝わったんだろうか。僕の生き方は。ただ、気持ちだけは受け取ったんだろう。妙な小遣いの渡し方は、不器用なあの人の、昔からの癖だ。きっと、何かは伝わった。改札でひとことだけ交わし、別れる。僕は人を見送るのが好きだ。ゆっくり歩くオヤジを、どれだけの間、見送ってやれるだろう。期待は、小さく消えた。少しだけ振り返って、手を振ったあと、オヤジの背中は、本当に、本当に小さくなっていった。人ごみの中に、驚くほど簡単にまぎれて、そして、消えて行った。小さな小さな、背中だった。意識しなくたって、僕はあの背中を見て育った。いやでも何でも、似ているところはたくさんある。オヤジはオヤジの歴史を振り返りながら、今は歩を緩めて、ゆっくりと歩いている。僕は、オヤジの背中の後ろを歩くことを、きっと、もうずっと前に、終えてしまった。自分の目で前を見て、これから歩いていくんだろう。小さな背中は、とても寂しかった。たくさんのことを、これ以上背負わせるわけにはいかない。守ることまではできなくても、僕は自分の船を出そう。バトンタッチまで、あと4年。あのゆっくり歩く小さな背中を、僕は大切に見送ろう。駅を出たら、新宿は霧雨に濡れていた。
2004年10月13日
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友達と集まって、12時間ほど、飲んできた。自分が一番アホでいられる場所。それは、どこでしょうか?僕には二つある。マイホームがまずひとつ。もうひとつは、高校時代からのアホ仲間との集い。久しぶりに会っても、なんの気兼ねもない。相変わらずアホで楽しくて、色々と変わってて刺激もあるけれど、やっぱりカラーは変わらず、愛すべきアホ(笑)。アホ、というと言葉は悪いけれど、変わっているんだけど、野草みたいに自然でやさしい連中です。人は、誰と一緒にいるかで、違った顔になる。それは2重人格なわけではなく、ただ、関係性の中で生きている動物だから。色んな自分があるけれど、僕はこうして、真剣な自分からアホな自分までが同じように許される場所が、本当に大切だと思う。何も気にしなくても、がんばらなくても、気取らなくても演じなくてもいい場所。ただそこにいるだけで。そういう、仲間でありたい。そういう、恋人でありたい。そういう、家族でありたい。そういうレストランでありたい。そういう、人間でいたい。あなたが、一番アホでいられる相手が僕だったら。はんなりの、極みです。【今日の人生レシピ】『あなたと一緒にいるときの自分が一番好きです』というほめ言葉を、目指そう。
2004年10月11日
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雨があがった。雨に濡れるのは好きじゃない。けど、雨が濡らす色と、少しほどけたようなキンモクセイの香り。四季の移ろいに、一番感謝する恵みです。何か、小さいころの本当に楽しかった思い出だけをパックしたような匂い。子分にしてたカマキリや、夜になってもやめなかったサッカー。いたずら花火で燃やしたヨモギに、夕方過ぎまで教えてやっと逆上がりができた友達の顔。そういうもの、ひとつひとつが、雨の中に蘇るような。(ちょっと白昼夢ぎみですね(笑))表通り。歩みを休めて、ふと懐かしい憧れにとらわれて、花に近づいてみると、匂いを、あまり感じなかった。どこかに隠れてしまったみたいに。少しさみしくなって歩き出したら、背中の方から、かすかな香りがゆっくりと追いかけてきて、やがて、溶けた。雨がきれいな夜。
2004年10月06日
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悩んでたことを、忘れてしまう料理。僕が目指す、極上の『はんなりズム』です。このところ雨続きで、腰痛がひどい。というわけで、今日は逆に、元気を出してみる(笑)。いいものですね。暗い顔は空気を湿らせるけど、元気坊主は『仕方ねえなぁお前は』っていわれたって、他の誰かを癒すことまである。そしたら、元気が返ってくる。このところ、単純な答えに戻ってくる。明るさは誰かのためにある。それが他の人を照らしたら、他の人は鑑。あたりが明るくなる。元気はあるとかないとかじゃなくて、出すものなんだなぁ。さてさて、僕が作りたい料理は、そんな『うっかり元気が出せちゃう料理』。グチグチ悩んでるときに、ひとくち料理を食べただけで、『あれ・・・うまい』って言葉で、脳からイライラが消えたことがあった。これです。僕が目指すもう一つは、『死ぬ前にあいつの料理を食べておこうかな』と思える料理。まぁこれはおいおい追求するとして。今日のメニューは早春お花見がゆ。またタイトル過剰ですが(笑)、単品でも最高、お酒のあとの胃にもOK。安くて簡単なくせに、本当にホッとする、はんなりと優しい一品です。─────────────────────【今日のレシピ】1大根を適当に切って鍋の水に入れ、火をつける (水の4分の1がうまるくらい。歯ごたえが好きな人は 大きめに入れます)2大根が透明感を出すくらいにまで煮込み、塩と こんぶだしで下味をつけます。3ご飯をザルなどに入れて、水洗いをします (簡単で構いません。ヌメリを減らしておきます。これが さっぱりのコツその1)4ごはんを投入すると同時に、鍋の火を弱火に。 このまま、ごはんが少しトロっとするまで、できるだけ 混ぜたりしないようにしましょう。(つぶを守るため)5ごはんが好みのやわらかさになったら、塩・こんぶだしで 味の最終チェック。6ここで、桜を咲かせます。カラクリは簡単。 鍋の表面がちょうどピンク色に染まる程度に、 『ゆかり』を投入します。やわらかい香りが広がります。(^-^)7卵を入れ、すぐに火をとめ、ゆっっくりと混ぜます。 ※卵は火をできるだけ通さない方が、うまみとコクを 残します。これがアラ不思議、サクラ色で、あじもまろやかで優しい。早春のようなおかゆの完成です(1人前30円ほど(笑))─────────────────────簡単でおいしく、安いくせにプロっぽい。見栄っ張りな男いっぴき、こよなく愛する料理です(笑)。ぜひ、お試しあれ。【今日の人生レシピ】材料で勝負するのは、才能だけで戦うのと似ている。素朴なもの同士の重なりにこそ、はんなりとした優しさがある。
2004年10月04日
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