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《香樹院語録》より《二五九。しみじみ御慈悲を味え》
己が病は、人の呑んだ薬ではなおらぬ。薬を目に前に並べておいて、見たばかりでも病はなおらぬ。その薬の効能はかようかうように勝れてあると、薬の効能を知りわけても、呑まぬ薬で病は治らぬ。 ややもすると、僧分にも同行にも、仏法と云えばただ法義の道理理屈ばかり知りわけて、己が胸に我が後生の大事が思われて、真実南無阿弥陀仏の薬をば、我が胸え呑みこまぬたぐいが多き故、口に云わすれば皆悉く法の道理、安心の道理は明かなれど、呑まぬ印には我が胸の病がなおらぬ。 其の病とは、第一の病が胸の内の疑いの病、其の疑いというが直ちに無明の病、この無明の業障によりて我々が流転する故、『御文』には、無明業障の恐ろしき病じゃと仰せらるる。その無明業障の恐ろしき病が根本となりて、我々が身口意何もかも、実に仏法の道理とは相違することになりゆくは、源みな無明業障のなしわざ也。 喩えば、腹の中に恐ろしき病あるゆえ、それゆえ、目がかすみ、耳はきこえず、手足も用きかねる。末で云えば、耳目手足の病なようなれども、しかと医者が脈見て、考えた所では、みな腹中の病の所為也。自ら気もうつうついたし、どうにも勇ましうなきが病の印也。かかる病をば、その病に応ずる薬を與えられて、よくよく薬を呑んで、正しく病のよくなった所では、手前の心持が病気の時と快気の時と、同じ心持ではない。目のかすみも晴れ、手足も達者になり、気もすこやかに、晴々しくなったは、病のなおりた印なり。何も身も心も昔にかわらねば、病のなおりたに非ず。 思うて見るべし。銘々が、無明業障の病によりて、浄土まいりがしかしかとおもわれぬ。たのむいわれも信ずるいわれも、随分きいて、わけはわかり、如来の御慈悲の趣きも何から何まできけば尊いというまでは、残らず呑みこんで居れども、畢竟いえば、薬の能書覚えた心持也。往生一定御助け治定と口では云えども、心中は今死んでもよいとは思われぬ。いかさま今少しありがとうならねばならぬことなれども、死ぬるまでの間には、ありがとうなられよう。もはや如来の慈悲あるからは、よもや捨てたまいはせまいと、手前から唯おしつけるばかりで、いろいろと思うて居る分斉。善知識の信心決定せよと教えて下されたとは、大違いな我が胸になって居るのは、皆これ銘々おいわれを聞けども、ただ人並みにきいて居る故に、人の呑んだ薬で自分の病の治らぬ如く、薬を見たばかりでは病の治らぬ如く、ほんに一大事の後生と聞いて、南無とたのむ衆生が御助けにあづかりて、やれ嬉しや往生一定と思う心になられぬのは、みな無明業障の病の根がきれぬ故也。
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