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《求法用心集》より《四三 好人そで女》一、池内そで女は厚信なりき。毎年七昼夜二十一日には、午前二時頃より同行数人と共に、徒歩にて参詣するを常とせり。我等は直に京に向ふなれど、そで女は何時徒歩にて叡山に詣して京へ降るなりき。詰所にて同宿せしが、いかに熟睡すると云へども、其鼾は念佛なりき。御廻向の信なる故、自然とあらはるゝものならん。二、明治二十二年五月、村の十祖の溝より三寸ばかりの木佛地藏尊の現れ給ひたる時、其足にて自ら京へ供奉(ぐぶ)し、佛師によりて御修繕申上げ、余が寺に安置を乞ふ。されど宗意上、其如何なるものなるやを語りたる時。 「それでも、今日迄の御養育を思ひますれば」と、此一語実に味ふべきことゝ思ひぬ。三、そで女或年、村の池内善吉等と同道、真宗善光寺に詣でぬ。馬車の牽馬疲れ居るを見て、已一人馬車に乗らざりき。かくて發車の間際再び馬頭に現れ來りたるが、饅頭を購ひて其馬に喰わせ、之を勞ひたるなりき。其日一人遅く宿に着きたり」と。ありたきことなり。四、また本堂の御燈明用の油など、少しも人に知られぬ間に、油置場に供へらるゝなど常なりき。また、外來の聞法車などあらば、親切に我宿へ招じては聞法するを樂しみとせり。
2026.10.09
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《一蓮院秀存談合録》より六、たのめと云うはお助けを届けたい為じゃ。(一蓮院師仰せに、)たのめとあるも、雑行雑修自力をすてよとあるも、其のなりで助けると云うことを届けたいが為じゃ。・《一蓮院秀存談合録》より十三、たのむものをお助けと、助かるまじきもののお助けと。明信寺云く。帰むという事は、これが胸につかえるうちはまだ聴聞不足なり。帰む事の胸につかえるにあらで、反って楽しみになるが真実信心の得られた験(しるし)なり。 帰むという事を嫌うは、まだ帰まねばならぬ難儀が我が心に起こらぬが故なり。存云く。帰むばかりのお助けを心得たりとも、助かるまじきものを助け給う本願の尊さの知れざる人はなはだ多し。世上の学者多く然り。我もまたその一人なりき。・《一蓮院秀存談合録》より十五、信じ上手と助け上手。雲渓師いわく。私のたのみようや信じようは下手でも、助けてくださる方が上手なり。唯助かりさえすれば本望なり。今日より阿弥陀仏のまことをたのみたてまつりて弥陀に助けらるべしと気のつきたるも我が力かは。・《一蓮院秀存談合録》より二五、たのめと云うは助かれ助かると云うことじゃ香樹院師お言葉に、たのめとあるは助かれ、また我が身を助ける助けるの勅命にしたがえと云うことじゃ。
2026.10.08
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一昨日の記事でも触れました…最近のストーリーテリング用素材…天神ファーボB1Fのキャン★ドゥにて購入の、株式会社アクシス製ミニチュア1/100人間。ブリスターパックのブリスターをば、切った貼ったしました…が…どーもアソート式ぽいので、この商品はコレにて打ち止め!・さて、コレこそ本題の…白金のセリアにて購入の、松野工業株式会社製スケルトンファイターキット。早速、組み立てました!フル可動で、下顎も動くぞ!交換用の平手。付属の武器。左から…ドクロ杖、骨ヌンチャク、バトルアックス、ポール牧アックス。ドクロ杖は、裏から見たら御覧の有様だYo!!武器をば…持たせてみました。左は、輸入販売元:株式会社久野貿易商会の《戦闘フィギュア》…実は、このドチラも同じメーカーの中華な可動フィギュアをば、日本じゃそれぞれ別の会社が輸入販売とゆー!なので、お互いの武器をば交換できるぞ!!・最後に…新(左:コーン茶)旧(右:麦茶)ONICHAの…《鬼みくじ》ですが…麦茶の方では《小吉》!コーン茶の方だと、なんと!《華丸・大吉》ときたモンだ、みのもんた!!・
2026.10.07
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法友の一人が、山も山さんこと宮田秀成先生の許可をいただいた上で始められた、《【非公式】安心問答 YouTubeチャンネル》の動画をば、以前はお送りしてたのですが…・新たに宮田先生の最新の御法話動画をアップロードされてたチャンネル《にしのみや聞法会》をば最近、見つけまして!拙ブログ《ソクタッヘ王国物語》でも、今月の宮田先生の御法話動画を共有させていただきました。今年に入って、西宮市の会館が立て直ったそーで、サイト名も《にしのみや聞法会》に戻っとります。…てなワケで、《にしのみや聞法会》のHPにリンク貼っときます!!・以前までの宮田先生の動画をアップロードされてました(なんか手違いで全部消えちまってたがな!?)チャンネルでは、主に紅楳英顕和上様先生(浄土真宗本願寺派・司教輔教)の御法話をアップロードされております。)・【にしのみや聞法会】2026年 9月19日 宮田秀成師 西宮市勤労会館】・山も山さんこと宮田秀成先生は、ブログ《安心問答ー浄土真宗の信心についてー》や《親鸞会を脱会した人(脱会したい人)へ》、そして光顔寺(浄土真宗本願寺派)のスタッフとして仏教ブログも書かれております。加えまして、Peingでも《匿名で質問できるコーナー》もやっておられます。・…あ、そーそー!宮田秀成さんといったら!YouTubeチャンネル《ネットラジオ版安心問答podcast》も、ヨロシク!!・
2026.10.06
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・本日のおハナシは、法友の一人ukkaripapaさんのブログより、2026/10/3の記事《第二十願》をばベースに書きました!・…と、その前に!昨日(2026/10/4)の素材集めをば!白金のセリアにて購入の、松野工業株式会社製スケルトンファイターキット。天神ファーボB1Fのキャン★ドゥにて購入の、株式会社アクシス製ミニチュア1/100人間。・…てなトコで、本編ココから!↓↓↓(菊丸(左)のモノローグ)この日、(王立)ソク(タッヘ)高(等学校)の先輩(右)の一人が、当寺を訪ねてきまして…こんなコトだそーです!先輩「阿弥陀仏の救いが第18願(他力信心)なら、第19願(菩薩行)や第20願(称名念仏)は別に要らナッシングじゃナッシング???」菊丸「《生因三願(しょういんさんがん)》は、聞法者のヒト達がよく混乱するトコでして。深川倫雄和上(浄土真宗本願寺派・勧学)の《仏力を談ず》より《信心に入るカリキュラムはない》によりますと…」↓↓↓(一部抜粋)「如来さまの催促だから、思わんでも、努力せんでも出る」それなら屁です。努力するんです。私どもは堂々たる一人の生活者です。自分で判断をして自分で生きていく一人の生活者です。だから自分で努力をしてお称名する。時々聞かせて頂いたお味わいを取りだしては「こうまで申すもご恩の力なり」(『親鸞聖人御消息』西本願寺版聖典第13通)と慶信坊(きょうしんぼう)のように時どき取り出しては他力催促でありましたと喜ぶ。日常はそんなこと一々思うちゃおられんから、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えます。腹をたてちゃすまんぞよと、さまざまな心がけがあります。↑↑↑菊丸「《信心得るために努力する》と、《他力催促を喜ぶべく、自分で努力してお称名する》との違い…こんなコトだそーです!」先輩「なるほど!ザ・ワールド!時よ止まれ…違うか。念仏そのものには、自力(称名)も他力(称名)もナッシング。称える者の心掛け次第のココロ!」菊丸「そのためにも、《聴聞(ちょうもん)なる御恩報謝(ごおんほうしゃ)》が要りよう…第19願に第20願は、そのための道しるべ…こんなコトだそーです!」輔教様(下段左)&CRさん(下段右)「そして、時は動き出す!!」輔教様「《信心得るコトこそ大事》でな!?阿弥陀様は、念仏申せとか言わナッシング!!」CRさん「そもそも論だケド!阿弥陀様の救いは、十劫(+15億年)前に完成してるから、ソレをドタマに叩き込んどきゃ、別に求道は要らナッシング!強(し)いて言えば、称名念仏『南無阿弥陀仏』は《阿弥陀様へのお礼のコトバ》なの!!」菊丸「…念仏が、《お礼のコトバ》ですて…?《南無阿弥陀仏は、『阿弥陀さん、あざーす!』てな意味》と…???信心正因、称名は報恩にして正定行(しょうじょうぎょう)…こんなコトだそーです🎵」先輩「そーいや、ヤットデタマンはマタドールがモチーフなんだよな?」CRさん「💢どーでもイイケド!?林遊さん、カンケーナッシング!!💧」輔教様「💢鮎川(菊丸)め~!!毎度のコトながらも、ワシらをばコケにしおって~!?💧…てなワケで、CRさん!アレをやるのじゃ!!」CRさん「はいなぁ!!」輔教様「ロングホーントレインじゃ~~~!!」菊丸「お~礼(れぃ)🎵こんなコトだそーです!!」どかこ~んっっ!!輔教&CR「うぱ~💦」先輩「…てな感じに…↑コレこそ《念仏軽視の末路》なのでした!!」・・・
2026.10.05
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昨日(2026/10/3)は、家の近くのセブンイレブンにて…ヒカキンさんの出してる《ONICHA》2種、買ってきました!コチラ、以前からのONICHAで、麦茶。コチラは、今月から発売の新ONICHA、なんとコーン茶。鬼みくじもついてるよ?・
2026.10.04
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《貞信尼物語》より《二十一、邪見も驕慢も其まま佛法》或歳、一蓮院師が越後へ下向せられし時、御法話の終に、『わしが此国へ来たに就いては、御一同に頼みがあるで、どうか聞いて貰いたい。それは外ではない、どうか是からわしの帰ったあとも、銘々に手のまい足のふむ所を悉く佛法になってひぐらしをして貰いたい、これが今度わしが此国へ来て御一同へのたのみである』と懇ろに仰せられた。法話の果てて後に、貞信は直に御座敷へ罷り出て、御礼を申上げいかにも当惑の面持ちにて『只今の御聞かせ、手のまい足のふむ所を喜び喜び佛法三昧になりてひぐらしをせよとの仰せなれど、此貞信は日夜手のまい足のふむ所は、邪見と驕慢とばかりでござります。とても佛法三昧の生活など出来ませぬが如何に致しましょう』とお尋ね申した。其時一蓮院師の仰せに『邪見と驕慢とは善いものではなけれどもそれを止めてからなら聖道門じゃ、今は邪見も驕慢も止めてからではない、邪見が起こったら南無阿弥陀仏、驕慢が起こったら南無阿弥陀仏と喜んだら、直に佛法になろうがいの』と諭されたしと。・
2026.10.02
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《秀存語録》より《一 義なきを義とすと知るべし》京都の人、探幽(たんゆう)の書を藏したり。落款(らっかん)なかりし故に、ある名筆の人をたのんでその名をかかしめたり。書は之が為めに疵物(きずもの)となれり。他力は他力也。自己一分(じこいちぶん)の計(はから)ひを加へなば、遂に障(さわり)となりて往生を得ざる也。《歎異抄》より《第十条》一 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。 そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏申さるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人(親鸞)の仰せにあらざる異義どもを近来はおほく仰せられあうて候ふよし、伝へへうけたまはる。いはれなき条々の子細のこと。《正像末和讃》《第五十四首目》聖道門のひとはみな 自力の信をむねとして他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり《親鸞聖人血脈文集》より(一) かさまの念仏者のうたがいとわれたる事 それ、浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺の論家・浄土の祖師のおおせられたることなり。まず、自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがいて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、身・口・意のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり。また、他力と申すことは、弥陀如来の御ちかいの中に、選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを、他力と申すなり。如来の御ちかいなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)のおおせごとにてありき。義ということは、はからうことばなり。行者のはからいは自力なれば、義というなり。他力は、本願を信楽して往生必定なるゆえに、さらに義なしとなり。 しかれば、わがみのわるければ、いかでか如来むかえたまわんとおもうべからず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、わるきものとおもうべし。また、わがこころよければ往生すべしとおもうべからず。自力の御はからいにては真実の報土へうまるべからざるなり。「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ、往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまわりたりし。第十八の本願成就のゆえに、阿弥陀如来とならせたまいて、不可思議の利益きわまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらわしたまえり。このゆえに、よき、あしき、人をきらわず、煩悩のこころをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれば、恵心院の和尚(源信)は『往生要集』には、本願の念仏を信楽するありさまをあらわせるには、「行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらわず」とおおせられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにおさめとられまいらせたり」と、たしかにあらわせり。しかれば、「無明煩悩を具して安養浄土に往生すれば、かならずすなわち無上仏果にいたる」と、釈迦如来ときたまえり。 しかるに、「五濁悪世のわれら、釈迦一仏のみことを信受せんこと、ありがたかるべしとて、十方恒沙の諸仏、証人とならせたまう」(散善義)と、善導和尚は釈したまえり。「釈迦・弥陀・十方の諸仏、みなおなじ御こころにて、本願念仏の衆生には、かげのかたちにそえるがごとくして、はなれたまわず」とあかせり。しかれば、この信心の人を、釈迦如来は、「わがしたしきともなり」(大経)と、よろこびまします。この信心の人を「真の仏弟子」といえり。この人を正念に住する人とす。この人は、摂取してすてたまわざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を、「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とももうす」(散善義)なり。この人は正定聚のくらいにさだまれるなりとしるべし。しかれば、弥勒仏とひとしき人とのたまえり。これは真実信心をえたるゆえに、かならず真実の報土に往生するなりとしるべし。この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまわりたるとしるべし。 しかれば、「諸仏の御おしえをそしることなし。余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あわれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)はおおせごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。 仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかいのなかに第十九・第二十の願の御あわれみにてこそ、不可思議のたのしみにあうことにて候え。仏恩のふかきこと、そのきわもなし。いかにいわんや、真実の報土へ往生して、大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よくよく御安ども候うべし。これさらに、性信坊、親鸞がはからい申すにはあらず候う。ゆめゆめ。建長七歳 乙卯 十月三日 愚禿親鸞八十三歳書之(現代語訳)笠間の念仏者が疑問に思いお尋ねになったことについて。 浄土真宗の教えでは、往生を願うものについて他力のものと自力のものとがあります。このことはすでにインドの菩薩がたをはじめ、中国や日本の浄土の祖師がたが仰せになっていることです。 まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからいの心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。また他力ということは、阿弥陀仏の四十八願の中で、真実の願として選び取ってくださった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。それは阿弥陀仏がお誓いになられたことですから、「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」と、法然上人は仰せになりました。「義」というのは、はからうという言葉です。行者のはからいは自力ですから、「義」というのです。他力とは、本願を疑いなく信じることで間違いなく往生が定まるのですから、まったく「義」はないというのです。 ですから、この身が悪いから、阿弥陀仏が迎え取ってくださるはずがないと思ってはなりません。凡夫はもとより煩悩を身にそなえているのですから、自分は悪いものであると知るべきです。また、自らの心が善いから、往生することができるはずだと思ってはなりません。自力のはからいでは、真実の浄土に生れることはできないのです。「行者がそれぞれに起す自力の信心では、懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土にしか往生できないであろう」と、お聞きしました。第十八願を成就したことにより阿弥陀仏となられ、思いはかることのできない利益がきわまりないというそのおすがたを、天親菩薩は尽十方無礙光如来と表されています。ですから、善人や悪人を区別することなく、煩悩に汚れた心を分け隔てすることなく、必ず往生すると知らなければなりません。そこで、源信和尚は往生要集に、本願の念仏を疑いなく信じるすがたをあらわして、「歩いていても、立っていても、座っていても、臥していても、どのような時、どのようなところでも、分け隔てることがない」と仰せになっており、「真実の信心を得た人は、摂取の光明の中に摂め取られているのである」と明らかに示されています。ですから、「無明煩悩をそなえたままで、安養浄土に往生すれば、必ずただちにこの上ない仏のさとりに至る」と釈尊は説かれています。 ところで、「さまざまな濁りと悪に満ちた世界に生きるわたしたちは、釈尊お一人の言葉では信じることができないであろうから、すべての世界の数限りない仏がたが証人になってくださるのである」と、善導大師は観経疏に示されています。「釈尊や阿弥陀仏やすべての世界の仏がたは、みな同じお心で、本願を信じて念仏するものに、影がその姿に付き添うように離れないでいてくださる」と明らかにされているのです。ですから、この信心を得た人を釈尊は、「わが親しい友である」とよろこんでおられます。この信心を得た人を真の仏弟子というのであり、本願を疑いなく信じる人とするのです。阿弥陀仏が摂め取ってお捨てにならないので、金剛の信心を得た人というのです。また、すぐれた人、すばらしい人、美しい人、もっともすぐれた人、たぐいまれな人ともいうのです。この人は、正定聚の位に定まっていると知らなければなりません。ですから、弥勒菩薩と等しい人と説かれるのです。真実の信心を得たことにより、必ず真実の浄土に往生するのであると知らなければなりません。 この信心を得ることは、釈尊や阿弥陀仏やすべての世界の仏がたの巧みな手だてによるのであると知らなければなりません。ですから、「他の仏がたの教えを謗ってはならない。念仏以外の善を修める人を謗ってはならない。念仏する人を憎み謗る人であっても、その人を憎み謗ることがあってはならない。哀れみいとおしむ心を持ちなさい」と、法然上人は仰せになりました。謹んで申しあげます。 仏のご恩の深いことは、懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土に往生することでさえ、阿弥陀仏の四十八願の中に第十九願・第二十願として誓われているのです。そのはたらきがあるからこそ、思いはかることもできない楽しみにあうことができるのです。仏のご恩の深いことは、限りがありません。まして他力の信心を得たものは、真実の浄土に往生し、大いなる仏のさとりを開かせていただくのですから、仏のご恩をよくお考えになってください。これらのことは決して性信房や親鸞が自分勝手な考えから申しあげていることではありません。くれぐれもお疑いのないように。建長七年十月三日愚禿親鸞八十三歳、これを書く。
2026.10.01
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《香樹院語録》より《一五。あなたの御目に涙が泛ぶ》金持ちになろうと思うて働いてすら、金持ちになられぬ。まして心がけねば、なほなられぬ。難有うなりたいと願うてすら、中々なられぬ。まして心がけねば、なられる道理はない。故に先づ拝みようにもわけがある。つくづくと如来様の御姿を拝み上げて、頂上の肉髻より千輻輪相、御耳、御目、御唇、御胸と、つくづくと拝むと、あなたの御目に涙が泛ぶ。あなたの御胸が八つざきになるように、思召すであらうと拝み上ぐれば、ありがとうなる。
2026.09.30
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2026.09.29
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《秀存語録》より《五五 直航、廻航》三帖目第七通『御文』に云く、「あいかまえて自力執心のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞと、 かく信じて、弥陀を一心にたのまんひとは、たとへば十人は十人ながら、みな真実報土の往生をとぐべし。」執心はひっつひて離(はな)れぬことなり。海上の船は三十里五十里も真直(まっすぐ)にゆげは一日の間にも往かる。それが、諸所(ところどころ)の港(みなと)や島(しま)に立ちよると手間(てま)が入る如し。和讃に「久遠劫より此世まで、あはれみましますしるしには、仏智不思議につけしめて、善悪浄穢もなかりけり。」この就くと云が、自力につかずして不思議の仏智にひっつけよと仰せらるるなり。仏智不思議につきた上からは、信後の身のたしなみには、悪の方へつかぬやうに善の方へつくべし。故に大経に云く、「仏語弥勒、世間如是、仏皆哀之、以威神力、摧破衆悪、悉令就善、棄捐所思、奉持経戒、受行道法、無所違失、終得度世、泥?之道。」・《御文章三帖目》より《第七通・三業》そもそも、親鸞聖人のすすめたまふところの一義のこころは、ひとへにこれ末代濁世の在家無智の輩において、なにのわづらひもなく、すみやかに疾く浄土に往生すべき他力信心の一途ばかりをもつて本とをしへたまへり。しかれば、それ阿弥陀如来は、すでに十悪・五逆の愚人、五障・三従の女人にいたるまで、ことごとくすくひましますといへることをば、いかなる人もよくしりはんべりぬ。しかるにいまわれら凡夫は、阿弥陀仏をばいかやうに信じ、なにとやうにたのみまゐらせて、かの極楽世界へは往生すべきぞといふに、ただひとすぢに弥陀如来を信じたてまつりて、その余はなにごともうちすてて、一向に弥陀に帰し、一心に本願を信じて、阿弥陀如来においてふたごころなくは、かならず極楽に往生すべし。この道理をもつて、すなはち他力信心をえたるすがたとはいふなり。そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。されば一念帰命の信心決定せしめたらん人は、かならずみな報土に往生すべきこと、さらにもつてその疑あるべからず。あひかまへて自力執心のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心にたのまんひとは、たとへば十人は十人ながらみな真実報土の往生をとぐべし。このうへには、ひたすら弥陀如来の御恩のふかきことをのみおもひたてまつりて、つねに報謝の念仏を申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。[文明七年二月二十三日]・
2026.09.28
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・…茜(中)「今日は、志津川さん(=三郎太)とビンゴとの三人つーか、二人と一匹つーか、生物学的には三頭にて、沖釣り中なうっス!」ビンゴ(右)「茜?一体、誰に言ってるワン!?」三郎太(左)「管理人が、つい最近レゴブロックの小舟手に入れたからね?おっ…いっぱい釣っちゃうYo?」ビンゴ「三郎太?ドサクサに紛れて、《アレなコト》言い掛けてナッシング!?」三郎太「あは!気のせーとか!!」・茜「…時に、志津川さん(=三郎太)…💧どーやって、陸(おか)に戻るんスか~!?💧」三郎太「…そーいや、この小舟…阪神も巨人もナッシングだった、ダイバダッタ…💧」ビンゴ「三郎太…フツーに《オール》て言えナッシング!?…つか、そのオールすらナッシングで沖まで来れたコト自体、不思議、摩訶不思議、フーマだワン…!!」茜「うは~、ビンゴ~💦何、霊性…もとい💦冷静に言ってるんスか~!?このままじゃ、俺等💦海の真ん中なのに野垂れ死にとか、コレ蛸(たこ)に…もとい💦コレ烏賊(⇒如何)にっス~💦」…その時とか!!三郎太「あは!みんな、見て!?アレは、デビル、デビルマン!」茜「違うっス!アレは、ぼくらのライディーンっス!」ビンゴ「じゃナシに!アレは、ぼくらのマシンマンだワン!」三郎太「…(アレは、)ゼンダマンでも、(アレは、)オタスケマンでも、(アレは、何?アレは、)バイオマンでもナシに…ヤスムラさん(左奥の赤井秀和…いやもとい、そのまた娘・赤井沙希…またもとい、そのまた弟・赤井英五郎もヨロシク…もとい、もとい!赤い人形)達だ!!」ヤスムラの手下A(手前の青い人形)「お頭(=ヤスムラ)!三郎太達ですぜ!!」茜「うは!文字通りの、渡哲也…いやもとい!渡洋史…またもとい!《渡りに船》っス~!!」・・ソクタッヘ港三郎太「港まで送ってくれてありがと、ヤスムラさん!釣ったお魚、船のみんなで食ってね?」ヤスムラ船長(左)「気持ちは、嬉しいが…俺達《一応は船乗り》は、釣った魚をば食ったりはしナッシング!理由は、リンク先をば後でゆっくり読んでみるがイイさ!」・管理人ぶうぶのまあち「…てなワケで、当方ぶうぶのまあち!手持ちのナノブロックをば使いまして、こーゆーのツクってみました!コレは、《オール阪神・巨人》のツモリ!…透明パーツをば付けた理由ですか?こーやって小舟に付けた時に…しっかりと固定してくれるとゆー!コチラは、《スクリュー》のツモリ。小舟に付けたら、モーターボートに!透明パーツで、カッチリ固定。ナントカ《スクリュー》ぽくし…たツモリ…💧全部乗せだと、こんな感じに…ぅぁはははははwww」むにゅ~!!(腹肉攻撃)茜「💢そーゆーのは!最初にツクるモンだ、みのもんたっス!!💧」ヤスムラ「…てな感じに!投稿文字数10000字切ったのでした!!」・・・
2026.09.27
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2026/9/25。給料が入ったので、支払いや区役所への報告を済ませた後、大橋のMEGAドン・キホーテにて、Tシャツを買おうと思ったら既に冬物に差し替えられてたとゆー…💧ソレでも、帰りに寄った向新町のブックオフにて、前から狙ってたこの2品をばめでたく購入できたから、いっか~?・コチラ、レゴブロックの小舟。コレを使ったおハナシは、明日の記事にて!・コチラは、(レゴブロックの)武器立て。右から…バトルアックス、ハルバード、スピアーにスピアー。小太郎(右)「うぱ!井上亘(いのうえわたる)!!」ケン(左)「ソレわ、スピアー・タックル💦」菊丸(右)「ワン!ツー!スリー!こんなコトだそーです!!」カンカンカンカンカンカン🎵ケン「…コレにて、スピアー・オブ・ジャスティス…💧」…ハナシ、戻しませう!折角やから、土台のパーツをば外しまして…左の持っているレゴブロックのパーツと…付け替えまして、スッキリした武器立てになりましたとさ!・
2026.09.26
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《染人百話》より《香樹院師厳訓》香樹院師の随筆の中に、第一心得べきは、後生に少し志も出来、少し振り向くと、僧分から安心まえを教えて覚えさせ、もう何時死んでも案じはないほどにと往生の印可をなす。それゆへ喜んで早や往生は定まりたり。この上は報謝は他力より勤めさせて下さるるからは、此方から励ませば却って自力になると思い、後には称えもせず参りもせず、唯こういうものが浄土参りと心得るばかりにて、喜びもせずに居る信者が多い。もとが後生が大事ではない故に、唯死ぬ時の用心に聞いておこうというような聞き心の処へ、こうさえ思うて居れば一念の御約束で済んだとばかり心得て、嬉しくもなければ有り難くも思われぬ、それゆえ地獄ならで行方のない私を、たのむ一念の御たすけと疑いはれて喜んでをりますると云うた安心と、あとの報謝相続が木に竹接いだような不釣り合いなことになる。それを僧分や物知ったものはかざりたてて、ここかしこの御言葉を無理にまげて、信心をこしらえなす証文とし、剰え他の真実に喜ぶ報恩の称名起行作業までも、自力策励の執心などとおとしめあざけり、我も惑い人をも惑わすは無間の大罪にて、最も恐ろしきことなり。よくよく心得べし。
2026.09.25
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《秀存語録》より《三二 帰の三義》當流の信心は順(したが)ふのみなり。帰(き)の字に帰還(きげん)の義と帰投(きとう)の義と帰順(きじゅん)の義とあり。當流は第三義なり。また雑修十三失の初の三は三仏に随順せざるなり。また黒壑聖人は報恩(ほうおん)藏にて順彼仏願故の御ことばてうたがひを破したもうなり。二河のたとへには、信順二尊勅命せよとなり。仏の仰せにさからはずして、したがふを、帰するとも、たのむともいふなり。次に信後は善知識の御教化にしたがひ、御地頭の制札定目にしたがひ、六親眷属(しんけんぞく)したがひやふてくらすべし。殊に女人は三從(しやう)の身なり。したがふべし。男子たりとも、觸光(そつこう)の益のゆへに、こころやはらかになり、たとひ如何なる悪しき人たりとも、二三度も立腹(りっぷく)もなくしたがへは感心するなり。「したがへば、嵐もこまる柳かな。」したがふほどの徳はなきなり。
2026.09.24
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・…博麗霊夢「こんにちわ!(東方Project)ゆっくり(インテリアマスコットの博麗)霊夢です!」霧雨魔理沙「(東方Project)ゆっくり(インテリアマスコットの霧雨)魔理沙だぜ!…てなワケで!」「ゆっくりしていってね~🎵」×2・・・魔理沙「霊夢!管理人が、私達用の胴体をば《改良》したそーだ!」霊夢「…なんか以前のと、あんま変わんナッシングなんだケド???」魔理沙「良く見ろ!(千と586話:ゆっくり霊夢&ゆっくり魔理沙に、胴体をば…!)スカートのトコを1ブロック縦に伸ばすコトで、腕のトコもカッチリはまるよーになったぞ!更に、腕を輔教…もとい、補強するための透明フラットパーツも追加DA☆」ξ霊夢「専門的なコトとか、兎も角!」「胴体に乗っけてみました🎵」×2霊夢「おぉ!御札ぽいのも再現されてる!…一体何なの、↑このカタマリわ!?」魔理沙「なんか《ベントラー》のツモリらしー!」霊夢「そーいや私達、元々は弾幕シューティングゲームのキャラクターだった、ダイバダッタ!」魔理沙「スナッカッタ!コーカーリカ!てなトコで…」「ご視聴ありがとうございます🎵」×2アツキ(左端)「…てなコトばっかこだわってばっかな管理人は、ココんトコおハナシのネタが中々浮かばナッシングなのでした!」むにゅ~!!(腹肉攻撃)管理人「ぅぁはははははwww」・・・
2026.09.23
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《秀存語録》より洛陽の同行・喜助と三九郎・《秀存語録》より《三七 私一人の為めに》洛陽の喜助云く、浪華の天王寺邊に五劫思惟の法蔵菩薩の痩(や)せ衰へさせ給ひし御すがたあり。それをある信者が拝みて、「私一人の為めに、法蔵菩薩は痩(や)せ給ひしばかりでなく、御身のはれふくれさせ給ひし事もあるならむ」と申されたれば、その御すがた、俄にふくれさせたる事あり。その御すがたは、洛北妙心寺邊の椿寺(つばきでら)にもありと申しけり。これを思ふても、御思の程をよろこぶ可き也。・《秀存語録》より《八九 三九郎と庄松との問答》問云く、其許(そのもと)決定せられしかや。答云く、決定せり。問云く、如何が決定せられたるや。答云く、我は助からぬと決定いたしたれば、阿弥陀様は必ず助くると決定し給へり。問云く、若し間違はば如何なさるぞや。答云く、仏は親樣ぢやさかい、よき樣にして下さるであらう。こは洛陽(らくやう)の三九郎と讃(さん)州庄松との問答なりときけり。 ・
2026.09.22
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・…本日、2026/9/21は、敬老の日!…てなわけで、本日の舞台は…大変寺!菊丸「(南の島の)大婆(おおばば)様!」三郎太「ソクタッへ王国へ、ようこそようこは、田中陽子!えり子だったら、田村英里子!」大婆「お久(しぶり)じゃな、菊丸殿に、《三太郎》殿!」永沢のじいさん「《五郎太》じゃナッシング???」老婆「…《三郎太》な…💧」三郎太「僕の名前は、イッパイアッテナ?ルドルフ、カンケーナッシング!」・・・ルドルフ(トナカイ)「何か、こー…呼ばれてる気とか…」サンタクロース(左画像)&パッチ(右画像)「しナッシング!!」・・・御院さん「閑話休題!今回は、千と240話以来となります、《敬老会》のおハナシです!」(千と240話:敬老会に御用心)・・・この国…ソクタッヘ王国のお年寄り達。「あーとかでもナッシング!こーとかでもナッシング!」ジジ「(南の島の)大婆さんと会うのは、実に3年ぶりじゃな、ババよ~?」ババ「ホンに、ジジよ~?」(イオの)グランパ「…トコロで、王様…?」(イオの)グランマ「…今回《も》王妃様は、御一緒じゃナッシングでございますか???」王様「…王妃は、(敬老会の)招待状にオカンムリでな…💧」大臣「人手不足で私が校長先生やってる学校でも…例の先生が、コレまたオカンムリとゆー…はい。招待状のハナシです…💧」王妃様(左)「💢失礼とか!!💧」例の先生(右)「💢しちゃうわとか!!💧」御院さん「…あと、輔教様に、CRさんも…💧」↓↓↓CRさん(左)「💢失礼とか!!💧」輔教様(右)「💢しちゃうわとか!!💧」大婆「誰しも相応に年を取っていくモノなのに…認めたくナッシングなヒトも、ソレは多いモンでございますな…💧」…てな会話とか、やってるウチに…汚職事件…もとい、お食事会とか。御院さん「汚職事件…もとい、お食事が終わりましたら、午後から志津川さん(=三郎太のばあちゃん)の御墓参りに行きませう!」大婆「おぉ、志津川同行(=三郎太のばあちゃん)の!…てなワケで、案内頼みますぞ、《三太郎》殿!」永沢のじいさん「《五郎太》じゃナッシング???」老婆「…《三郎太》な…💧」三郎太「僕の名前は、イッパイアッテナ?ルドルフ、カンケーナッシング!」・・・ルドルフ(トナカイ)「何か、こー…呼ばれてる気とか…」サンタクロース(左画像)&パッチ(右画像)「しナッシング!!」・・・…てなワケで、舞台は…ロイ村へ!・…大婆「…お同行…3年ぶりですな…(千と240話:敬老会に御用心)この世においては、ついに御縁がナッシングじゃったが…ワシも、遅かれ早かれお浄土へ参るでな…そん時、色々と語らいたいですじゃ…!」「南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…」王様「時に、住職よ?3年前とか言ったら…」(千と240話:敬老会に御用心)御院さん「昨日のコトみたく覚えてますよ?当時は、《午後からの出し物》としまして…管理人が《ボディビル(ディング)》とか称して、《キッタナイハダカ》晒す気とか満々とかの予定とかでしたとか…💧」グランパ「…もしも、3年前とか…💧」グランマ「…《予定通り》とかだったら…💧」ジジ「…ワシら、寿命が縮んでたトコじゃったな、ババよ~💧」ババ「…ホンに、ジジよ~💧」大臣「3年前から、大婆殿には…!」「《感謝》極まりナッシング💖」×2三郎太「あは…《管理人のくだり》さえナッシングだったら、イイおハナシになってたのに…💧」むにゅ~!!(腹肉攻撃)夫婦ウサギ「💢こんなコトじゃそーじゃげな!!」管理人「ぅぁはははははwww」…てな感じに…ソクタッヘ王国は、今日も平和なのでした!むにゅ~!!(腹肉攻撃)夫婦ウサギ「💢あと!ほとんど《千と240話》の使い回しなのでした!!」管理人「ぅぁはははははwwwでもってw投稿文字数16000字切ったのでしたwww」・・・
2026.09.21
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《秀存語録》より《八 力味心を去るべし》一念のたのみこころは、自力の力味心(りきみごころ)のぬけたる処なり。一たび、たすけてもらひたひ衆生と、たすけたいの仏とが出会(であひ)たら立どころに浄土まゐりの相談はきまりさうなものなれども、そのきまりの出来ぬのはどういふものぞといへば、衆生のすこしの力味心がぬけぬからなり。人の家の娘でも、息子(むすこ)でも、この方へもらいたいなり、やりたいなり。が、身代(しんだい)は燈提(ちやうちん)につりかね、つりやはねども、あそこへならばやりたいのこころあり、あの子ならもらひたいのこころあるなり。先方(むかう)では何にも入らぬ、着(き)の身着のままとはいひながら、せめては長持(ながもち)一掉(さを)はやりたい、まんざら上着(うはぎ)一枚なしでもやられまいと云ふ、すこしの力味心があるからして、そんならば、やりませうの相談が出来ぬなり。そのままながらのことばにしたがひ、この方の力味心をさつぱりやめて、丸の裸のままで左やうならばと受てみよ、立所(たちどころ)に相談は出来るなり。今も、たすけたいの仏さまと、たすかりたいの我等と、氣はゆきあふれておれども、まんざらこれなりではあるまい、ちつとはどうぞならねばなるまいの力味心があるゆへに、おちつけぬ也。その力味心をやめて、とてもならうとてなられぬと、わか身に介性(かいしょ)のなきことがしれて、いよいよ左やふなれば、この儘でござりまする乎と、うけてみたれば、そのこころのありたけが、直に後生たすけたまへのたのみこころなり。・
2026.09.20
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《染人百話》より《枢(かなめ)》ある先徳の随筆の中に、夜に入って戸をしめて安心して寝るは枢一つがあてじゃ。その枢のよく落ちてあるかないかを吟味してみるところが、引きあけてみるとあかる。もう一度ひきしめてあけると又あかる。それを箸などで掻き出すと沢山に出る。充分さらえ出してしめると今度は枢が確かり落ち入ってしゃくってももうあからぬ。斯様に夜中安心して寝らるるは枢一つじゃが、その枢が油断がならぬから折々は吟味して用心せねばならぬ。我心得たと思い、信一つをあてに落ち付いて仕舞うてはならぬ。その信心を生涯よくよく吟味して往生を期すべし。○同(=ある先徳)曰く。精進増の機より他の懈怠増の人を見て、それに比べて己が勤めよしと思う一念あらば、即ち是大?慢と云うもので、仏祖の冥見には叶わぬと思うべし。 ・(AIモードより)「枢」という漢字は、物事の最も大切な部分や中心を意味する漢字です。扉の開閉を支える重要な部品(戸締りの軸)が語源となっています。基本情報画数8画部首: 木(き・きへん)構成: 木 + 区読み方音読みスウ(慣用音)、シュ(漢音)訓読み: かなめ、とぼそ、くるる主な意味かなめ・中心:物事の最も重要な部分。国家の政治や組織の中心を指すことが多いです。とぼそ・くるる昔の開き戸を回転させるために、上下の枠に設けた穴や軸のこと。ここが壊れると扉が動かなくなるため、転じて「重要な部分」を意味するようになりました。よく使われる熟語枢軸(すうじく)物事の中心、また政治などの中心となる重要な人物や国家。中枢(ちゅうすう)中心となる最も大切な部分(例:神経の中枢、組織の中枢)。枢密院(すうみついん)かつて日本(明治憲法下)やイギリスなどに置かれた、君主の重要な諮問機関。枢機卿(すうききょう)カトリック教会において、ローマ教皇に次ぐ最高位の聖職者(教皇の最高顧問)。次期教皇は、彼等の中から選出される。・
2026.09.19
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・…ケン(左端)「コイツら…中森明菜…いやもとい、南明奈て、みんな覚えてるかな~?…またもとい、飽きもしナッシングで、仏法談義かYo…?」菊丸「兎角に浄土真宗は、布教使によって食い違いが生じるワケですが…タコに…もとい、烏賊(⇒如何)に、お聖教(しょうぎょう)をば正確に理解してナッシングな布教使の多いコトか…こんなコトだそーです!💧」三郎太「《ミイラ》は、今でも御法座で『阿弥陀様は、念仏申せとか言わナッシング!』て言ってるし!」茜「《ネコバカ》に至っては、今でも『凡夫が信心決定できるワケナッシング!』の一点張りっス!」ケン「ヲヰヲヰ、オマエら?何、固いコト言ってんだYo!」三郎太「ケンさん?《固いコト》じゃナッシングに、浄土真宗が《そーゆー教え》なんだよ?」ケン「輔教様の主張も、桐生先生の主張だって、れっきとした浄土真宗の教えじゃん・バルジャン?…《多様性》だよ、《多様性》!浄土真宗だって、大乗仏教の多様性から生まれたワケだし!そもそも仏教自体、大乗仏教と小乗…ウップス!上座部仏教とに分かれたのだって(ry」菊丸「ほならね?《多様性を認めナッシングな多様性》も、有り有りのアリ・アスター、ほは~!こんなコトだそーです!!」ケン「ヲヰヲヰ、菊丸?イツまで《ミッドサマー》引っ張ってんDA!?せめて、《エディントンへようこそ》ぐらい易往而無人(いおうにむにん)…もとい!言おーぜ!?…オイラが言いたいのは、ナニゴトにも、オイラみたいな《型破り》が要りよーてコトさ!!」茜「《※型破り》てのは、基礎=型がキチンとできてこそ、成田蓮…もとい、成り立つっス!ケンさんのは、一事が万事、タダの《※形無し》っス!!」※芸事やビジネスの場における《型破り》と《形無し》との対比型破り: 基礎(型)を徹底的に身につけた人が、そこから新しい挑戦をして魅力を生み出すこと(良い評価)。形無し: 基礎(型)すら身につけていないのに、ただの自己流でやってしまい、結果としてメチャクチャになること(悪い評価)。ケン「バカにすな!《型》なら、あるぜ!!ガン《カタ》!!何てぇコトとか🎵」茜「うは~💦あぶねーっス~💦」ケン「安心して下さい!(安全装置は)掛けてますよ!!」茜「そーゆーモンダイじゃナッシングっス~💦」四郎「《ガンカタ》と《カンダタ》とは、似てるっス!!」ケン「キャハハハハハwwwケヒーーーッwwwケヒーーーッwwwヲヰヲヰw四郎wwwカンダタのコスプレてのはなァwww清水泰地さんぐらい鍛えてからやるもんだぜwwwそんな細(ほっせ)~カンダタwコワくも何ともナッシングwww」四郎「💢っしゃ~!!おカラダ、カンケーナッシング!!💢」ケン「そーいや一昨々年も💦カンダタのおハナシやってたの思い出した~💦」…てな感じに…ソクタッへ王国は、今日も平和なのでした!・・…この後、ケンは…桐生勉(右下)「💢何だって、《ネコバカ》とか聞いたら、俺とわかるんや!?💢」輔教様(中)「💢何だって、《ミイラ》とか聞いたら、ワシとわかるんじゃ!?💢」CRさん(左)「💢ギブ!?ノーノー!!💢」ケン「…てな感じに…💦コレにて💦投稿文字数12700字切ったのでした~💦」・
2026.09.18
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《求法用心集》より《五 緘口用心》今日より緘口用心々々。人の集まるは口を慎まざる故なれば、ほんに人を恐るゝならば、飽くまで口元の用心。念佛の仰せを常恒に聴くべし。「呼び詰めのお聲を聞きづめにすべし。きつと聞き付けさして下さるゝこと。」恐ろし恐ろし。百舌よもず 今日よりは口に錠おろせ 南無阿弥陀佛の 六字のほかは(AIモードより)「緘口用心(かんこうようじん)」は、口を閉ざして(秘密を漏らさず)、言葉を慎むことを指します。「緘口(かんこう)」は口を封じること、「用心(ようじん)」は気をつけることを意味します。一般的には「緘口令(かんこうれい)」という言葉で、組織などが情報の流出を禁じる命令としてよく使われます。 言葉の構成と意味緘口(かんこう): 口を閉じてものを言わないこと。用心(ようじん): 失敗や間違いのないように、あらかじめ注意を払うこと。 これらを組み合わせた「緘口用心」は、余計なことを言ってトラブルを招かないよう、あるいは秘密を外部に漏らさないように厳重に気をつける姿勢を表します。
2026.09.17
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法友の一人が、山も山さんこと宮田秀成先生の許可をいただいた上で始められた、《【非公式】安心問答 YouTubeチャンネル》の動画をば、以前はお送りしてたのですが…・新たに宮田先生の最新の御法話動画をアップロードされてたチャンネル《にしのみや聞法会》をば最近、見つけまして!拙ブログ《ソクタッヘ王国物語》でも、今月の宮田先生の御法話動画を共有させていただきました。今年に入って、西宮市の会館が立て直ったそーで、サイト名も《にしのみや聞法会》に戻っとります。…てなワケで、《にしのみや聞法会》のHPにリンク貼っときます!!・以前までの宮田先生の動画をアップロードされてました(なんか手違いで全部消えちまってたがな!?)チャンネルでは、主に紅楳英顕和上様先生(浄土真宗本願寺派・司教輔教)の御法話をアップロードされております。)・ 【にしのみや聞法会】2026年 8月22日 宮田秀成師 西宮市勤労会館】・山も山さんこと宮田秀成先生は、ブログ《安心問答ー浄土真宗の信心についてー》や《親鸞会を脱会した人(脱会したい人)へ》、そして光顔寺(浄土真宗本願寺派)のスタッフとして仏教ブログも書かれております。加えまして、Peingでも《匿名で質問できるコーナー》もやっておられます。・…あ、そーそー!宮田秀成さんといったら!YouTubeチャンネル《ネットラジオ版安心問答podcast》も、ヨロシク!!・
2026.09.16
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《求法用心集》より《四五 気が高い》獲られさうなものが獲られず、信じぜられさうなもおが信ぜられぬのは、まだ気が高いからぢや。「驕慢の頂きには法水は止らず」ぢや。気が高いとは、我は佛法者後世者気どりで、人よりはよけい心懸けてゐる、よけい参る、よけい念佛する、人のする事はせぬ、人のせぬ事はする、つまり我かしこしと思ふ気が高いにぢや。一蓮院師が、「新治郎よ、私もお前も手があがらぬのう、手が上ると云ふは、気の低うなる事ぢや」と仰せられた事。また、等覚寺さんの、御気の低く、何時も衣も召さず、数珠も持たれず、念佛の聲も人に聞こえなかつたこと。また大和丘誓堅師が、自ら瑾をあらはして、態と人に嫌はれ、蔑められるやうにして寺を出で、坊主でゐては信が得られぬからとて、自ら八兵衛となつて法を求められしこと。また西大路光圓寺の娘某が、「気が高い」と香樹院師に云はれて、草津のある宿屋女中になつて法を求めた事など思ひあはさるゝ。佛法で気の低いとは、殊勝振りせず、知つた顔せず、私ほどの阿呆はない、愚ものはないと、心底から思ひ知つて、些も誇る気のないが気が低いと云ふものぢや。・
2026.09.15
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《安心小話》より六六 徳母院良雄擬講師信後の心得一概すべからざるに就き、十二條を挙げて曰く。一。信を得たりと思う機に信を獲得したる人もあるべし、又未安心の人もあるべし。一。信ずる一念がたのむ一念、たのむ一念が信ずる一念なりと心得たるに正義有り、不正義あり。一。疑いなきは信なりと心得る機に正義あり、不正義あり、一。後生たすけ給えとたのむが信心なりと合点したる機に自力あり、他力あり。一。後生こそ一大事なりと思う心、信前にもあり、信後にもあり。一。かかる浅ましき機を御助けと信ぜられたる人にも歎く機あり、喜ぶ機あり。一。懈怠いかがと嘆く機に未安心あり、自力あり、他力あり。一。一念も歎く心なくよろこぶ機に邪見あり、自力あり、他力あり。一。かかる浅ましき機をたのむ一念に御助けと信ずる機に正義あり、不正義あり。一。信後の思いに住しながら慚愧懺悔する機に自力あり、他力あり。一。念仏は申さねばならぬと励む機に自力あり、他力あり。一。報謝の経営励み勤むれば快く、怠れば心地悪と云う機に自力あり、他力あり。
2026.09.14
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・第80あは忘れたコロに管理人制作の映画・以前手描きCGを描いてたヌタウナギ…よーやっと活用できました!・
2026.09.13
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《秀存語録》より《三二 帰の三義》當流の信心は順(したが)ふのみなり。帰(き)の字に帰還(きげん)の義と帰投(きとう)の義と帰順(きじゅん)の義とあり。當流は第三義なり。また雑修十三失の初の三は三仏に随順せざるなり。また黒壑聖人は報恩(ほうおん)藏にて順彼仏願故の御ことばてうたがひを破したもうなり。二河のたとへには、信順二尊勅命せよとなり。仏の仰せにさからはずして、したがふを、帰するとも、たのむともいふなり。次に信後は善知識の御教化にしたがひ、御地頭の制札定目にしたがひ、六親眷属(しんけんぞく)したがひやふてくらすべし。殊に女人は三從(しやう)の身なり。したがふべし。男子たりとも、觸光(そつこう)の益のゆへに、こころやはらかになり、たとひ如何なる悪しき人たりとも、二三度も立腹(りっぷく)もなくしたがへは感心するなり。「したがへば、嵐もこまる柳かな。」したがふほどの徳はなきなり。
2026.09.12
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《染人百話》より《本尊なり仏体なり》江州蛇溝の如説院惠劔講師の講述の中に、とかく名号を離れて生身の仏体に向うて往生を決定しようとするから、どこらあたりで弥陀の御慈悲にかなうものじゃやら程が知れぬ。それでは第十七の本願はいらぬものになる。当流のこころは専ら善知識の御教化たる名号の由をよく聞き得るを信心と云うのであるから、六字の名号が行なり本尊なり仏体なりである。・○当流のこゝろは、善知識の教を受けて信ずるの外はない。然るに訳を知りにかゝる人は御開山よりは賢い人と思はるる。※※御開山は知りにかかる事を止めさせられて、只法然上人の仰せを平信じに信ずると仰せられた。・○すかされようかと用心し、間違うかと分別してかかるなら信ずると云うものではない、知ると云うものじゃ。してみると弥陀の本願はいらぬものになる。又、信心の得られぬ訳は、仏の仰せを信ずる信心で、往生すべき道理を信ずるのではないと云うことを、よくよく合点せぬからの事じゃ。・※無量寿経は四十八願より第十七願(諸仏称揚の願)設我得佛。十方世界無量諸佛。不悉咨嗟稱我名者。不取正覺。(書き下し文)もし我、仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、悉く咨嗟して我が名を称せずんば、正覚をとらじ。(現代語訳)私が仏になるとき、あらゆる世界の数え切れないほどの仏たちが、みなこぞって私の名号(南無阿弥陀仏)をほめたたえ、称えるようにならないならば、私は決して悟りを開きません。・※※歎異抄(第二条)おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。(現代語訳)皆さんが遠い十数か国もの国境を越え、命がけでこの私を訪ねてくださったのは、ひとえに『どうすれば極楽浄土に生まれることができるのか』という道を尋ねるためでしょう。しかしもし、「親鸞は念仏以外の極楽へ行くための秘密の方法や、特別な経文の教えを知っているのではないか」と思って尋ねてきたのであれば、それはとんでもない大間違いです。そのようなことをお望みならば、比叡山や奈良には優れた学者がたくさんいらっしゃるので、その方々を訪ねて、成仏のための方法を納得いくまでお尋ねになるべきです。親鸞にとっては、ただ『念仏を称えれば阿弥陀仏が救ってくださる』という、師である法然聖人の教えのほかには何もありません。阿弥陀仏の誓願(本願)が真実であるならば、お釈迦さまの説法が嘘であるはずがありません。お釈迦さまの説法が真実なら、善導大師の教え(釈)も間違いではないはずです。善導大師の教えが真実ならば、法然聖人の教えが嘘であるはずがないでしょう。法然聖人の教えが真実であるなら、親鸞が申し上げていることも決して間違いではないはずです。つまるところ、私の信心はこのようなものです。この先は、念仏を信じて称え続けようと、あるいは捨てようと、それは皆さん各自の自由なのです。・
2026.09.11
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・…ロイ村は、三郎太の家。菊丸(上段中央)「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)」「南無不可思議光(なむふかしぎこう)」×10・(中略とか。)・「貪愛瞋憎之雲霧(とんないしんぞうしうんむ)常覆真実信心天(じょうぶしんじつしんじんてん)譬如日光覆雲霧(ひにょにっこうふうんむ)雲霧之下明無闇(うんむしげみょうむあん)」×10・(更に中略とか。)・菊丸「高僧説(こうそうせ)」・・…三郎太(左)「今日は僕んちにて、菊丸をば招いての御法話会だよ!」蘭丸(右)「三郎太、誰に言ってるんだい?」菊丸(中)「さて…本日、皆で《正信念仏偈》をば御令和…いやもとい、御平成…またもとい、明治も、大正も、また違う…御昭和(⇒唱和)しましたが…!《貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇》の箇所をば、読み下しますと…『貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆へり。たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。』」菊丸「このコトバは、『どれほど心が煩悩の霧でモヤモヤと曇っていよーとも、阿弥陀仏の救いを喜ぶ真実の信心(清浄の天)さえ満ちていれば、あなたはそのままの姿で照らされ、救われていくのだから安心しなさい。』なる、深く温かいメッセージだそーです。」三郎太「親鸞様は、『人間は、死ぬまで煩悩を消すコトできナッシングな《凡夫(ぼんぶ)》であると見つめておられたんだよ?」ケン「そーだよな~?完璧な人間とか、一人だっていナッシングだもんな!《人造人間キカイダー》だって、キカイダーの《良心回路が不完全》だからこその名作だもんな…特撮版にしても!漫画版、ひいてはアニメ版にしても!そのキカイダーをば、怪我した…もとい!汚したとしか思えナッシングな映画あったっけな!?『中途半端な良心とか、ナッシングな方がマシ!』とか言って、自分で良心回路ブッ壊したりとか!サイドカーも、よー乗らナッシングとか!《(劇場版)電人ザボーガー》マネしたエンドロールで、ヒンシュク買ったりとか!」茜「うは💦ケンさん💦ドサクサに紛れて、《キカイダーREBOOT》のワルグチ言ってるス~💦」ケン「キカイダーだけに!電磁エンド!!」茜「うは~💦」・蘭丸「当時の主演だった、入江甚儀さんに!ドタマが擦り切れる以上に、土下座しな!!」ケン「…てな感じに…ソクタッヘ王国は、今日も平和なのでした…💧」・そして今回より、エンディングのセルフ共有動画も一新なのでした!!↓↓↓・煩悩の雲霧に覆われども 信心の清浄の天(そら)に満ちぬれば(AIモードより)ご提示いただいた言葉は、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が著した『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』に記されている一節です。・正確な原文(書き下し文)の文脈では、以下のように表現されています。「貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからず、と[いふ]なり。信心の清浄の天に満ちぬれば、……」この言葉に込められた意味と仏教的な背景について、分かりやすく解説します。・核心的な意味:煩悩があっても、救いの光は妨げられない人間は誰しも、むさぼりの心(貪愛)や腹立ち・憎しみの心(瞋憎)という「煩悩の雲や霧」を常に抱えて生きています。しかし、阿弥陀仏(あみだぶつ)の救いを疑いなく信じる心(真実信心)が自分の心(天・空)に満ちていれば、その煩悩の雲霧は救いの妨げ(往生のさわり)にはならない、という意味です。・ 『正信偈』に見られる有名な「太陽」の比喩親鸞聖人は、代表作『教行信証』の「正信偈」の中でもまったく同じ思想を美しい比喩で表現しています。「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆へり。たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。)雲や霧 = 私たちの欲や怒り、ねたみなどの「煩悩」太陽(日光)=阿弥陀仏の「救いの光(慈悲)」天(空)= 仏を信じる私たちの「信心」・地上から見上げると、空が厚い雲や霧(煩悩)に覆われて太陽が見えない日もあります。しかし、雲の向こう側には確実に太陽が存在しており、その光は雲を突き抜けて地上を明るく照らしています(闇はありません)。・救われるために「きれいで清らかな人間」になる必要はない多くの宗教や修行では「心を清らかにし、煩悩を消し去る」ことを目指します。しかし親鸞聖人は、人間は死ぬまで煩悩を消すことができない「凡夫(ぼんぶ)」であると見つめました。この言葉は、「どれほど心が煩悩の霧でモヤモヤと曇っていようとも、阿弥陀仏の救いを喜ぶ真実の信心(清浄の天)さえ満ちていれば、あなたはそのままの姿で照らされ、救われていくのだから安心しなさい」という、深く温かいメッセージです。・
2026.09.10
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(AIによる概要より) 仏教には、「他者の苦しみや人生のカルマ(業)は、誰も代わりに背負ってあげることはできない」という厳しい、しかし自立を促す本質的な教えがあります。これを表す代表的な仏教の概念や言葉をご紹介します。・1. 独生独死 独去独来(どくしょうどくし どっこどくらい)『大無量寿経』というお経にある言葉です。意味: 人は一人で生まれ、一人で死に、一人で去り、一人で来ます。本質: どんなに愛する家族や友人がいても、死の旅路や人生の根本的な苦しみは、誰とも代わることはできません。・2. 自業自得(じごうじとく)現代では悪い意味で使われがちですが、本来は仏教の因果応報の法則です。意味: 自分の行為(業)の結果は、すべて自分自身が受け取ります。本質: 善いことも悪いことも、他人があなたの代わりにその結果(報い)を受けてあげることは不可能です。・3. 自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)ブッダが亡くなる直前、弟子たちに遺した最後の教えです。意味: 「他者に頼るのではなく、自分自身を灯火(拠りどころ)とし、ブッダの教え(法)を灯火としなさい」という意味です。本質: 苦しみから抜け出す道は、他人に代わってもらうのではなく、自分の足で歩むしかないと説いています。・仏教がこの冷徹な現実を説く理由一見すると冷たい突き放した教えに見えますが、仏教の目的は「絶望させること」ではなく「真の自立と慈悲」にあります。・執着を手放す: 「誰かが代わってくれる」「誰かのせいでこうなった」という依存や恨みの心をなくします。・今を生きる覚悟: 自分の人生の責任を引き受けることで、主体的に生きる強さが生まれます。・本当の共感: 「代わってあげられない」と知るからこそ、苦しんでいる人にそっと寄り添う「慈悲(じひ)」の心が生まれます。・(AIモードより)仏教において「誰も代わってあげられない」という真理は、『仏説無量寿経』に説かれる「身自ら之を当(う)け、代わる者あることなし(身自当之、無有代者)」という言葉に象徴されています。愛する人の病気、老い、死、そして人生の苦難や悲しみは、どんなに周りが肩代わりしたいと願っても、本人が自ら引き受けて歩むしかないという厳格な事実を指しています。・核心を表す言葉と教え無有代者(むうだいしゃ):お経に説かれる言葉で、「痛みを代わってくれる者はどこにもいない」という意味です。・独生独死 独去独来(どくしょうどくし どっきょどくらい):人は一人で生まれ、一人で死に、一人で去り、一人で来ます。人生の根底にある「孤独の真実」を表しています。・因果応報(縁起の道理):自分の人生や行いの結果は、良くも悪くも自分自身が受け取るものであり、仏様であってもそれを代わりに引き受けることはできないという道理です。・なぜこの厳しい事実を説くのか?一見すると冷たく突き放したような言葉ですが、仏教がこの真理を説くのには深い慈悲と目的があります。・「かけがえのなさ」への気づき「代わってもらえない」を裏返せば、あなたの人生は「あなたにしか生きられない、唯一無二の尊いものである」という肯定(かけがえのなさ)につながります。・覚悟と自立他人に依存したり、思い通りにならない現実(四苦八苦など)を誰かのせいにしたりせず、自分の人生を自ら引き受けて生きる強さを育みます。・他者への本当の共感「代わってあげられない」と痛感するからこそ、苦しんでいる人に優しく寄り添おうとする慈悲の心や、他者の痛みを我が事として受け止める「代受苦(だいじゅく)」の精神が生まれます。 ・「それでも一人にしない」という救い例えば浄土真宗では、「誰も代われない孤独な人生だからこそ、阿弥陀仏は『我が名(南無阿弥陀仏)を呼べ、決して見捨てず、常に共にいる』と寄り添い続ける」と説き、その孤独を包み込む大きな救いへとつなげています。「代わってあげられない」という限界を知ることは、私たちが自分の人生や大切な人と誠実に向き合うための、仏教における最も重要な出発点の一つです。・
2026.09.09
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《秀存語録》より《五五 直航、廻航》三帖目第七通『御文』に云く、「あいかまえて自力執心のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞと、 かく信じて、弥陀を一心にたのまんひとは、たとへば十人は十人ながら、みな真実報土の往生をとぐべし。」執心はひっつひて離(はな)れぬことなり。海上の船は三十里五十里も真直(まっすぐ)にゆげは一日の間にも往かる。それが、諸所(ところどころ)の港(みなと)や島(しま)に立ちよると手間(てま)が入る如し。和讃に「久遠劫より此世まで、あはれみましますしるしには、仏智不思議につけしめて、善悪浄穢もなかりけり。」この就くと云が、自力につかずして不思議の仏智にひっつけよと仰せらるるなり。仏智不思議につきた上からは、信後の身のたしなみには、悪の方へつかぬやうに善の方へつくべし。故に大経に云く、「仏語弥勒、世間如是、仏皆哀之、以威神力、摧破衆悪、悉令就善、棄捐所思、奉持経戒、受行道法、無所違失、終得度世、泥?之道。」・《御文章三帖目》より《第七通・三業》そもそも、親鸞聖人のすすめたまふところの一義のこころは、ひとへにこれ末代濁世の在家無智の輩において、なにのわづらひもなく、すみやかに疾く浄土に往生すべき他力信心の一途ばかりをもつて本とをしへたまへり。しかれば、それ阿弥陀如来は、すでに十悪・五逆の愚人、五障・三従の女人にいたるまで、ことごとくすくひましますといへることをば、いかなる人もよくしりはんべりぬ。しかるにいまわれら凡夫は、阿弥陀仏をばいかやうに信じ、なにとやうにたのみまゐらせて、かの極楽世界へは往生すべきぞといふに、ただひとすぢに弥陀如来を信じたてまつりて、その余はなにごともうちすてて、一向に弥陀に帰し、一心に本願を信じて、阿弥陀如来においてふたごころなくは、かならず極楽に往生すべし。この道理をもつて、すなはち他力信心をえたるすがたとはいふなり。そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。されば一念帰命の信心決定せしめたらん人は、かならずみな報土に往生すべきこと、さらにもつてその疑あるべからず。あひかまへて自力執心のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心にたのまんひとは、たとへば十人は十人ながらみな真実報土の往生をとぐべし。このうへには、ひたすら弥陀如来の御恩のふかきことをのみおもひたてまつりて、つねに報謝の念仏を申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。[文明七年二月二十三日]・
2026.09.08
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(AIモードより)「有無同然(うむどうぜん)」とは、仏教の経典『大無量寿経』などに説かれている言葉で、富んでいても貧しくても、財産があってもなくても、心が感じる苦しみや不安の本質は同じであるという意味です。 ・有無同然の意味と背景あってもなくても苦しみは同じ:物がなければ「ない」ことで苦しみ、手に入れば今度はそれを「維持・管理する」ことで苦しむという、人間の変わらない煩悩や悩みを指します。金の鎖と鉄の鎖:有る者は「金の鎖」、無い者は「鉄の鎖」に縛られているようなものであり、物質的な豊かさの違いがあっても、囚われている苦悩の重さは変わらないと例えられます。・(大無量寿経・三毒五悪段より)然るに世人、薄俗にして共に不急の事を諍う。この劇悪極苦の中において身の営務を勤めて、もって自ら給済す。尊もなく卑もなし。貧もなく富もなし。少長男女共に銭財を憂う。有無同然なり。憂思適に等し。屏営愁苦して、念いを累ね慮りを積みて、心のために走せ使いて、安き時あることなし。田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、また共にこれを憂う。思いを重ね息を累みて、憂念を愁怖す。横に非常の水火・盗賊・怨家・債主のために焚漂劫奪せられ消散し摩滅す。憂毒として解くる時あることなし。憤りを心中に結びて憂悩を離れず。心堅く意固く、適に縦捨することなし。あるいは摧砕に坐して、身亡び寿終われば、これを棄捐して去りぬ。誰も随う者なし。尊貴豪富もまたこの患えあり。憂懼万端にして勤苦かくのごとし。もろもろの寒熱を結びて痛みと共に居す。貧窮下劣にして困乏して常に無けたり。・田なければまた憂えて田あらんと欲う。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物なければ、また憂えてこれあらんと欲う。適一つあればまた一つ少けぬ。これあればこれ少けぬ。斉等にあらんことを思う。適具さにあらんと欲えば、すなわちまた糜散しぬ。かくのごとく憂苦して当にまた求索すれども、時に得ること能わず。思想して益なし。身心倶に労れて坐起安からず。憂念相随いて勤苦かくのごとし。またもろもろの寒熱を結びて痛みと共に居す。ある時はこれに坐して、身を終え命を夭ぼす。肯て善をなし道を行じ徳に進まず。寿終え身死して当に独り遠く去る。趣向するところあれども、善悪の道能く知る者なし。・(現代語訳)ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変りがなく、あれこれと歎き苦しみ、後先のことをいろいろ心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。・田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂え悩む。それらのものについてとにかく心配し、何度もため息をついて嘆き恐れるのである。思いがけない水害や火災や盗難などにあい、あるいは恨みを持つものや借りのある相手などに奪い取られ、たちまちそれらがなくなってしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ち着くときがない。怒りを胸にいだいていつまでも悩み続け、心を固く閉して気の晴れることがない。また災難にあって自分の命を失うようなことがあれば、すべてのものを残してただひとりこの世を去るのであって、何も持っていくことはできない。身分の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂いがある。その悩みや心配は実にさまざまである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。・また、貧しいものや身分の低いものは、いつも物がなくて苦しんでいる。田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、なければないでまたそれらが欲しいと悩むのである。たまたま一つが得られると他の一つが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりはすべてを取りそろえたいと思う。そうしてやっとこれらのものがみなそろったと思っても、すぐにまた消え失せてしまう。そこで嘆き悲しんでふたたびそれを求めるが、もうそのときには得ることができず、ただ思い悩むばかりで身も心も疲れはて、何をしていても安まることがない。いつも憂いに沈んで、このように苦しむのである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。またときには、そういう苦悩のために命を縮めて死んでしまうことさえある。善い行いをせず、修行して功徳を得ようともしないで、寿命が尽きて死んだなら、ただひとり遠く去っていく。行いに応じて行く先は決っているが、その善悪因果の道理をよく知るものはひとりもいないのである。・・
2026.09.07
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・第79あはメカアーツに御用心・今、話題のベル玩菓製《メカアーツ》!本来は、武装をゴテゴテつけていくのが醍醐味なんだケド…YouTube版《行け!ソクタッへ王国物語》では、敢えてステゴロでのロボットプロレスにしちゃいました!!・・作中の《迷惑》現代の意味では、《他の人の言動や行動によって、自分が嫌な思いをしたり、対応に困ったりすること。》なんですが…もともとは仏教用語で、《道に迷い、心が戸惑うこと。悟りの対極にある、煩悩や無知によって心が迷う状態。》を表していました。↓↓↓(AIによる概要より)出典: 『教行信証』信巻(末)原文: 「誠に知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを」・意味: なんと悲しいことか、この愚かで格好ばかりの親鸞は、果てしなく広がる愛欲の海に沈み、名誉や利益を求める心(名利)の大きな山に迷い惑って、仏の教えにしっかりと救われる定まり(定聚)に入ることさえ喜べず、真実の悟りに近づくことも快く思わない凡夫である、と自らの救い難い煩悩の姿を深く嘆き告白した言葉です。・
2026.09.06
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不浄説法の罪は山賊より重い(AIによる概要より)「不浄説法の罪は山賊より重い」とは、正しい仏法を伝えるべき僧侶が、個人の利益や欲望のために歪んだ教え(不浄説法)を広めることは、物理的に命や財産を奪う山賊よりも、人々の精神的・魂的な救いを破壊するため、罪が深いという教えです。不浄説法(ふじょうせっぽう): 僧侶が、名誉や金銭などの個人的な欲求のために、教えを都合よく変えたり、正しい仏法を隠して教えたりすること。山賊より重い理由: 山賊は目に見える財産や命を奪うが、不浄説法は人々の正しい心(善根)を損ない、来世の苦しみをもたらすため、より根本的で深い悪業となるとされます。教訓: この言葉は、教えを説く者(指導者、上師)に対して、私利私欲を捨て、正しい法を伝えることの重大さと責任の重さを戒めるものです。 仏教の教えにおいて、正しい法を正しく伝えることは、最も重要なこととされています。(AIモードより)不浄説法の罪は山賊より重い「不浄説法の罪は山賊より重い」という言葉は、仏教において名聞利養(名声や利益)を目的として教えを説くことの危うさを厳しく戒めたものです。この言葉の背景や意味を簡潔に解説します。不浄説法とは自分の名声を高めたり、お布施や供養を得たりといった個人的な欲望のために仏法を説くことを指します。清らかな菩提心(悟りを求める心)ではなく、煩悩にまみれた動機で行われるため「不浄」とされます。なぜ山賊より重いのか山賊は人々の財産や命を奪いますが、それは今世限りの被害にとどまります。一方で、不浄説法は誤った動機や教えによって人々の善根(正しい心)を失わせ、救済の道を閉ざしてしまうため、その罪ははるかに深く、未来永劫にわたる悪影響を及ぼすとされています。出典と文脈『摩訶止観』などの仏教書において、修行者が陥りやすい罠として説かれています。説法者が自らを省みず、仏法を金儲けや自己顕示の道具にすることを「仏法を売る」行為として強く批判する文脈で使われます。この考え方は、指導的な立場にある者が持つべき倫理観として、現代でも宗教者や教育者の戒めとして引用されることがあります。
2026.09.05
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2026/9/3。仕事帰りに、天神まで。イオンショッパース福岡4Fのボークスにて、コトブキヤ製プラユニットのモールド版&ミサイルセットが1個だけあったのを買ってきました!・コチラは、以前ヨドバシカメラ博多B1Fの模型コーナーで買ってた、ドリル2個にガトリング。少しづつパーツなり工具なり揃えて、メカアーツをば改造したい!!…何だケド…武器をいっぱいつけるよか…こんな風に…武器ナッシングにて…ロボットプロレスもいいな、にんげんっていいな、お尻を出した子、一等賞🎵・
2026.09.04
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(AI による概要より) 「南無釈迦じゃ、娑婆じゃ、地獄じゃ、苦じゃ、楽じゃ、どうじゃこうじゃ、というが愚かじゃ」は、室町時代の臨済宗の僧・一休宗純(一休さん)の言葉です。物事の善悪や苦楽にとらわれ、あれこれと理屈を言って騒ぐ人間の姿をユーモラスかつ鋭く突いた名言です。・言葉の意味南無釈迦じゃ:お釈迦様だ娑婆じゃ:この世だ地獄じゃ:地獄だ苦じゃ、楽じゃ:苦しい、楽しいだどうじゃこうじゃ、というが愚かじゃ:ああだこうだと言い立てるその心こそが愚かなのだ・(AIモードより)「南無釈迦(なむしゃか)じゃ、娑婆(しゃば)じゃ地獄じゃ、苦じゃ楽じゃ、どうじゃこうじゃというが愚かじゃ」 という、室町時代の臨済宗の僧・一休宗純(一休さん)が残した有名な言葉(狂歌・名言)ですね。Eテレの番組『にほんごであそぼ』で「うなりやベベン」さんらが歌ったことでも広く知られています。この言葉には、一休さんらしい深い仏教の教えと、人間味あふれるメッセージが込められています。・言葉の意味南無釈迦じゃ、娑婆じゃ地獄じゃ、苦じゃ楽じゃ「お釈迦様(仏教)を信じるだの、この世(現世)は生きづらいだの、死後は地獄に落ちるだの、人生は苦しいだの楽しいだの……」どうじゃこうじゃというが愚かじゃ「あれこれと理屈をこねたり、白黒つけようとしたり、思い悩んだりすること自体が、そもそも人間の愚かなところ(的外れなこと)なのだ」・一休さんが伝えたかったこと私たちは日々、「これは良い、あれは悪い」「あの人は好き、この人は嫌い」と物事を損得や善悪で区別し、一喜一憂して心をすり減らしがちです。一休さんはこの言葉を通じて、「人生なんてそんな割り切れるものではない。あれこれ理屈をこねて悩むのをやめて、目の前にある『いま、ここ』の現実をそのまま受け入れ、もっと肩の力を抜いて生きたらどうだい?」 と、私たちに語りかけてくれているのです。・
2026.09.03
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本日はネット上より、おその同行のエピソードをば集めてみました!・梯実圓著『妙好人のことば』より香月院師とおその様のエピソードその頃、東本願寺きっての学僧に香月院深励(こうがついんじんれい)という講師がおられました。おそのは上京したときは、よく香月院からお話をきいたそうですが、あるとき和上が三河の御坊へ一泊されたことがございました。それは西本願寺におこった三業惑乱(さんごうわくらん)という事件の決着がついたときのことだといいますから、弘化二年(一八四五)の夏だったとおもいます。香月院は、東本願寺を代表して、江戸へ行き、事件のなりゆきをみとどけておりましたが、寺社奉行の判決がくだると、すぐさま東本願のご門主に報告をしなければなりませんので、大急ぎで京都へ帰る途中、たまたま三河の御坊に一泊されることになったわけです。和上がお泊りになっていることを知った別院の世話方は、こんな機会はめったにないというので、せめて一座だけでも御法話をお聞かせいただきたいとお伺いをたてたところ、それでは明朝、お晨朝のあとで、一座だけお話をしようと承諾が出ました。よろこんだ世話方たちは、夜のうちに近郷近在にそのむねをつたえると、日本一の御講師さまの御法話が聞けるというので、夜のあけきらぬうちから、ぞくぞくと参詣してきて、さしも広い本堂も身動きのできぬほどになりました。やがてお勤めが終り、香月院は静かにお高座にあがられると、「此度は、急ぎの旅で、ゆっくりとお話しているひまはない。しかしせっかくの御法縁をめぐまれたのじゃから、ただいまから阿弥陀如来さまのお申しわたしを一言お伝えする。各々、心をとめて、聴聞せられよ」といいますと一座はしーんと静まりかえりました。「そのお申しわたしというのは、たとい十悪五逆の罪人であろうとも、われをたのめ、必ずたすくる・・・・・。これが如来さまのおおせじゃ。まず今日はこれにて失礼をする。」 これだけ云い終ると、サッサと高座をおりてしまいました。朝の暗いうちからつめかけ、いま天下をにぎわせている三業惑乱のはなしなどを、きかせてもらえると思って集まってきた聴衆は、一瞬あっけにとられていたが、和上の姿が本堂から消えると、「いくらご講師さまじゃとて、これじゃあんまりあっけなさすぎる。鶴の一声も、ものによりけりじゃ。もう一度お説教を願わにゃ帰れぬわい」というので、堂内が、ざわざわとさわぎはじめたとき、お高座のすぐ下で、身じろぎもせずにじーっと和上のお話をきいていた老婆がすーっと立ち上がると、「ありがたいことじゃのう。百のものを十につづめ、十のものを一つにして、ようこそ親さまのおおせをお知らせくだされた。こんなにうまいことは、ご講師さまでなけりゃ、聞かれぬことじゃ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」というなり、ガヤガヤさわぐお同行たちをしりめにさっさと帰っていったが、それがおそのでございました。本願のかなめを、たった一言で言い切った和上も立派ですが、その一言を打てばひびくようにあざやかに受けとめたおそのの領解もすばらしいものでございます。・《貞信尼物語》より九十、三州その女三州田原のおそのといえば其頃名高き厚信な女であって、今日までその名が人口に残っている、道を求めては千里をも遠しとせぬ貞信のことであれば、深くおそのを慕いて、その感化を受けしこと少なくなかった。それで貞信は常に他に対して、おそのより聞いた所を物語っては、自分も法味を愛楽した、その物語れる所は、貞信の心に深く感じて有難しと思える事柄で、是によって今日おそのの面影の知られるばかりでなく、同時に亦貞信の信念の程も窺われることであれば、ここにその三つ四つを記すこととする。・九十一、矢矧の月影或時越中の圓満寺(開悟院講師)が三河へ出張して、七日間の御法話をせられた時に、おそのは一座も欠かさずに聴聞していた。いよいよお訣れとなった日に、おそのは座敷へ罷り出て、御講師に向かい『永々御懇ろの御化導有難うござりましたが、此のそのは何もかも残らず忘れてしまいました。どうぞ御形見にタッタ一言お聴かせにあずかりとうございます』と申上げた。時に御講師やや暫らく黙っていさせられたが、何と思し召してか突然と仰せに『お園や、聴けば其頃矢矧の橋が流れたそうなのう。』おそのこたえて『ハイ左様でござります。』講師重ねて『あの橋は流れそうもない丈夫な橋であったがのう。』お園『さればでござります、この度は非常の洪水でありましてあの丈夫な橋もとうとう流れてしまいました。』講師、言をつよめて『そうか、非常の洪水で橋は流れたか、お園、それでも天上から映って下さる月影はヨモヤ流れはせぬであろうがや』と仰せになると、そのお詞の終わらぬ前に、お園はにっこりとして『御助けの月はまんまと写って下さりました』と申上げたれば、講師もうちほほえまれつつ『物には滓ののこるということがあるものじゃが、滓ものこさぬように聴聞したというは其の事じゃいのう』とお誉めになったとのことである。これは貞信から伝えられた話であるが、僧純師の『妙好人伝』四編下巻にもその女に就いて矢矧の橋の話が出ている。或時お園は矢矧の橋を通りし時に、いたく御恩に感じて言えるよう『摂取の橋に不捨の欄干、いかなるそのでも落ちようがない』というてよろこんだとある。矢矧といえば三河で名高い橋のことであれば、お園に就いて是等の話は矢矧の端とともに広く人口に膾炙して、法味愛楽の助縁となったことに相違ない。・九十二、法体の名号でお助けお園は無我に法を貴み喜ぶばかりにて、人々が随喜の余り所々へ招きておはなしをうけたまわりたいといえば『私は何も存じませぬが、此の堕ち行くものを必ず助けるぞよの仰せ一つを信じ奉りて、よきにつけてもあしきにつけても御報謝の称名を喜ぶばかり』と言うのみであった。其頃出羽の西光寺という僧が、池鯉鮒の正念寺へ御出でになり御化導ありし時にお園は御前にまかり出で、己が領解を申上げるよう『かかるいたずら者をもそのままのお助けでござりまするか』と。西光寺叱って曰く『それは法体というものじゃ』と。お園直に申上げるよう『左様なれば法体の名号でお助けくださいますか』と、西光寺更に叱って曰く『それは一方聴聞というものじゃ』と。それでもお園は厭な顔もせず『ああ一方ならぬ浅間しきそのじゃ故、其れならいよいよ一方聴聞でお助けくださりますか』と喜び喜び申上げたれば、さすがに西光寺もモウ叱ってみようもなかりしとぞ。・九十三、機体ならばどうしませうお園の歓びはいつもこうであった、何と言われても心底から法の尊さが仰がれるばかりであったと見える。或人が『お園さんお園さん、人がお前を法体じゃと申しますに』と咎むれば、お園は嬉しそうな顔をして『有難うございます、若しも私が機体ならばどうしましょう』とこたえたとのことである。よくよく実際に大悲の味われて御助け一つに疑いの晴れた身でないと、やれ法体やれ口称募り其れでは異安心ときかされると、直に心がぐらついてしまうものである。・九十五、滓になったらどうしようお園が平生念佛の称えぶりが、普通の人が傍から聴くに、何やら有難そうにもなく、味なさそうな念佛であった。或若者が之をあざけって『お園さんお園さん、お前の念佛はカスにもならぬぜ』といえば、お園は少しもさからわず『有難い、おらそれは初耳じゃ、わしの称うる念佛が若しやカスになったらどうしましょう、それがカスにならぬとは、有難や有難や南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と言えりしとぞ。・九十六、団子汁の談合お園の団子汁の談合というのが名高いものであった。若い女同行なぞがいつも談合の席にて『お園さんお園さんモ一度団子汁の話をきかして下されや』と乞うと、お園はいつも嬉しそうに語りだすのである。『あの夕方になりますと、女中がお汁拵えて、それへ団子を入れて下から焚き立てますね、すると団子に煮える気はないけれど、火の力でひとりでに煮えあがりますね、煮えあがったろ思う頃にはすくい上げてくださりますよ』と、自分がいかにも団子のようなもので、光明のお催しで救い上げられる姿をさとしたものであるが、これをお園の口から聴けばいかにも有難う聞かれて、いつも若い人々を歓ばせたことであった。・九十八、お園の詠んだ歌お園の詠んだ歌の中に疑いの歌とて、疑ひよここききわけていんでたも そちが居るゆえ信が得られぬ疑ひにここをのけとは無理なこと むねをはなれて何所に行きましょ疑ひよ是非行かぬならそこに居よ そちにかまはず信をとるべし疑いは何所に居るかと問ふたれば かわりに出て来る念佛の声というのがある。其れから又磯物で詠んだのに、わかめにて人のあらめは見ゆるなり 言はぬがひじきのりの友達という同行へ誡めの歌もある。其れから又、口の戸のあくたびごとに心せよ 病は入る禍は出るとある如き、いずれもお園の歌として貞信の語り伝えし所、何より尊き心得である。・九十九、藤川で或信者へ美濃の藤川で、お園が或信者の門前を通り過ぎしに、家内が之を見つけて、『ああ今田原のお園さんが通る』と言えば、平素お園を慕いおる其家の主人は走り出て見れば、モウ遥か向こうに行くお園の後姿が見える。それで後追いかけて、『お園さんお園さんどうか一言きかして下され』と声をかくれば、お園はふりかえって『モウ思うことも言うこともいりませぬゲナ、如来様が助けてやると仰って下さりますゲナ』と言い捨てて、後も顧みずにサッサと行ってしまうたということ。・一〇〇、お園の相続人お園はいつも同行の間を廻りて、無我なる歓びに多くの人々を佛法に引き入れ、又御本山へお取持などを進めていた。然るに嘉永年間七十余歳にて病にかかりたれば、自分が居なくともお取持の出来る相続人をと求めて、其れは貞信より外になしと見込み、貞信をつれてなじみの同行へ一々顔見せに歩いて、『わし同様にどうかたのみます』と言うて廻った。其れからは貞信はお園の顔を貰ろうて、同じように三州や江州辺りのご同行の間をお引き立てしつつ、本山のお取持ちをたのむに、同行も歓んで御本山へ納金の外に、貞信へも志を出すに、貞信は決して自ら受けず、次回に尋ぬる時は必ず其志に対する御本山の収票を渡すという風で、本山の出納係の松井外記も深く貞信を信用して初めから領収帳を渡しておくほどであった。されば諸国の同行も『貞信さんにおたのみすれば一番に安心じゃ』と上納金を托する事となり、お園の後をついで大いに御本山のお取持ちせしとぞ。・《一蓮院秀存談合録》より八三、その女の威信。田原のその女は、香月院面受の信者とて、僧俗間にもすこぶる威信ありて、同女が法話に招かれて、寺にいたるや本山使僧の着せるがごとく、鐘をついてその到着を報知したりしと。・八四、その女の領解。その女、赤羽御坊へ某講師の派出せられたる時、同行中、その女の領解は正意にあらずとて、ひそかに嗣講に告げたるものあり。嗣講も他の人ならば兎も角、人を化導しつつ歩く同行のことなれば、捨て置き難しとて、早速侍者をもって、その女を呼びよせられた。嗣講師、先ず口を開いて、「お前の領解は」といわれたその女、「私は今日御殿え参ろうとは夢にも存じませなんだが、貴方の仰せによりて、参りました次第でございます。これがその女の領解でござります」と。嗣講。唯々としてその厚信に感じられたりと。・八五、あなたが有り難うござりますと。赤羽御坊で、渡場の勘助士が、「おそのさんは有り難い人じゃげな。そのおそのさんはこの人じゃ」 と言うと、言わるるには、「あなたが有り難うござります」 と言われた。・《安心小話》より八二 参州のおその曰く。何もかも向うからじゃ向うからじゃというておるのは違いますげな。いうておらぬでも何もかも向うさまからじゃげな。・一一九 ある同行、三河のその女に、おまえの御信心を聞かせて下されと頼みしとき、その女いわく。 私は愚かな身の上、御信心の御安心のというて、確な領解が胸にあるような私ではないけれど、如来様が、おその、愚かで信心も得られぬか、その信心が得られねば淨土参りはならぬ、地獄へ落るより仕方がない、その仕方のないものを、おその、そのまま願力の不思議で助けてやる、と仰せ下さることが嬉しうござりまする。・《貞信尼物語》より九十四、一心一向とは或人、お園に『一心一向ということをきかして下され』と尋ねたれば、お園はこたえて『一心一向に弥陀をたのめとは仰せられますが園は存じませぬ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と称名して『こんなことじゃそうにござります』と言うていた。凡てお園が人に何か問われたときの答えには『じゃそうにござります』とか『こんなことじゃげな』と語尾を結びて、決して『こうじゃ』と断定的の言葉を用い、自身の言うたことにはせざりしという。是等もお園がひとえに法を仰いで私をまじえざる無我の心から出でしものなるべし。・日本妙好人協会は金言金行集より2020年6月23日それでも多くの人々は経典のことばにひっかかってものをいう。「私はたのむ一つでおたすけと決定(けつじょう)しています」「たのむものをお助けなら、たのまぬものは なおお助けじゃ、たのむを自分から出すせわのいらぬお助けがうれしい」ある人「一心一向をきかせて下さい」「一心一向にたのめと申されるが、私は存じませぬ。なむあみだぶっ、なむあみだぶっ。こんなことじゃそうにござります」おそのさん・2020年6月28日また、あるとき山の中をひとりで通っていると、おそろしい大犬にでくわした。くわれると かくごしてして、念珠をかけて犬に向って ねんぶつしていると、犬は行ってしまった。おそのは、あとで涙ぐんでいった。「私は、十方諸仏にも見すてられたと あるがもっともじゃ。犬にまで見すてられた、おそろしいばばじや」。深いさんげが、如来の御もよほしであろう。普通なら念仏したら犬がにげたと ご利益主義におちて自分をほこる、それを犬から助からぬ身をしらされて、それが念仏の母胎となるところに人並(ひとなみ)仏法をこえた おそのの、いのちがけの聞法の果がある。「『若不生者』の もし というおことばは、この そのがいわせました」といって泣いたのも、「親鸞一人がためなりけり」と同じ信境であろう。おそのさん 信者群像より。・2020年6月30日おそのの信歌〇法水で自力の化粧おとされて もとのすがたで まいる ごくらく〇あなたよりきかせてもらうた丸合羽(まるかっぱ) 手さえ出さねば ぬれるけもなし〇機を見ればどこをとらまへ正定聚法に向へばうれしはずかしも、とおとい。おそのは嘉永三年 八十歳で逝った。釋尼妙果。墓は田原町竜泉寺にある。信者群像・三河のおそのさん・2020年6月26日伊勢で、念仏しながら歩いていると青年が「おばあさんが、から念仏となえて行くわ」とあざわらった。おそのは ふりかえって「私のとなえる念仏がてがらになって助かるというなら何としょう。まるまる助けられたあとのカス念仏とは うれしい」おそのには行詰りがない。助からぬといわれても助かるといわれても、まようことがない。どうなってもこうなっても、にっこり、ありがとう、なむあみだぶつてすんでしまう。念仏者の風格というか、無位(むい)の真人(しんにん)というか、融通無碍である。三河のおそのさん(信者群像より)・2020年6月27日あるときたんぼ路を通っていて田の中にこけおちた。「おちるおちると、長々きいていたが、今こそおとしてまで見せておくれたか。なむあみだぶつ」おそのは そういっておきあがった。まったく泥ぼとけである。妙好人・三河のおそのさん・日本妙好人協会は金言金行集より2020年6月24日自分のことばを使わず、経典のことばも借りず、ただ仏のおおせを わが生命としているおそのの、切れば血の出る仏法の積極性自由性は、当時の保守的で封建的で、概念的に死骸をつつきまわすような宗学をやっていた僧侶仲間に、反感と誤解をうけたことは当然であろう。おそのが越前(福井県)の同行にまねかれて語っていたとき、僧侶仲間によびつけられた。同行が案ずると「来いとおっしゃるから行きますわいのう。なむあみだぶつー」と出席した。「お前の信心はちがう。 さんげしてとりやめよ」「ちがっていればこそ、なあもし」とよろこぶ。「ちがっていては浄土へ行けん。おちる」「おちればこそ すくわれるか、なあもし」とにこにこ。「それでは仏のご誓約にそむく」「そむけばこそ無有出離(むうしゅっり)の縁とおおせられるか、なあもし」とにっこり。「ご誓約にそむけば往生かなわぬ」「自分で往生できたらお助けは他人のものか、なあもし」「えい、このばばあ、気ちがいじゃ」「気ちがいとはうれしい。この地獄行の機(心)と極楽行きの機と、ちがえて下されたか、なあもし」「うかとしやべるな、奥の間で ご連枝(法主の一族)がお聞きとりぞ」「飯をたべて生きている人間にわかったら大へん、わからぬでこそ ふしぎというか、なあもし」完全に僧たちの敗北である。信者群像より・三河のおそのさん・2020年6月21日三河味浜の普元寺「田原は仏法繁昌の地とも思えぬが、お前のところは繁昌しているのか」「はい、大へん繁昌しております」「そないに繁昌しておるか」「はい、他人はしりませんが、この私一人はー」「そのお前一人の繁昌とは、どういう繁昌か」「はい、朝から晩まで、晩から朝まで、あるわ、ないわ、足るわ足らぬわと、三毒やら五欲やら、それはそれは繁昌しております」「それがお前の繁昌かや」「はい、これさへあったら、なあもし」妙好人 三河のおそのさん・2020年6月22日三河高棚の空林寺「わしは仏法がないので今困っている。入信の近道を教えてくれ」「私にも仏法はすこしもありませぬ。だから仏法さまに助けられるのがうれしい」「そんな薄情いわずきかせてくれ」「私にはみじんも仏法はない。ないから仏さまに助けられるがうれしい。それよりほかにありませぬ。今日は寒いで皈ります」おそのは、さっさと皈った。「僧はかなしいものだ、きかせてくれぬ」同行「こんなとおとい、うまい話をききながら、それが食われぬとはー。『仏法のないままで助けられる』。これほどの近道を教えてくれる人が、どこに居ましょう」信者群像・三河のおそのさん・2020年6月19日伊勢の婦人が、信ぜられぬなやみを うったえたとき、「安心できる方法を知らせるが、二三年やる気はないか」「やります」「では『おさしつかえなし、ご注文なし』と、二、三年いいずめにしなさい」婦人は承知して皈ったが、三日後にきて、「三日間、いいずめに言いましたが、なんともないが、これでよいのでしょうか」「おさしつかえなし、ご注文なし」「でも一向うれしくありませんがー」「おさしつかえなし、ご注文なし」婦人は、活然と目がさめた。禅問答そっくりの妙境である。信者群像より・おそのさん・2020年6月20日「この機(こころ)がどうも、いたし方がない」と なげいて うったえた人に「おまえさまも、助けてもらうものを、たくさんもってござるのう」といった。助からぬから、助けてもらうのである。そのほかにすくいは ない。それを助からぬから助かるようになろうとするのは、はからいである。自力のこころである。信者群像より・ おそのさん・2020年6月17日おそのの徹底した聞法と、そこからでてくる自然の法味は、多くの人人に光りをあたえた。越後の貞信尼も おそのにそだてられた一人である。おそのが美濃の藤川を通っていると、一人の婦人が「おそのさん、ひとこときかせて下さい」というと「もう思うことも、言うこともいりませぬげな。如来様が助けてやるとおっしゃって下さいますげな」そういって、さっさと行ってしまった。信者群像より 三河のおそのさん・2020年6月18日またある人が「私はいくらきいても、ぐずぐずしています。どうぞ一言きかせて下さい」というと「お前さまもぐずか、私もぐずじや。けれども ぐずのままでこいよとおおせられたら、まんざらいや気もないでのう」「でも信心肝要とききます。その信心が!」「信をうるとは『はい』というまでのことでありますげな」といった。三河のおそのさん・2019年10月19日或時三州へ御使僧を命ぜられ、高座の上より参詣者の顔を見廻しながら、「此度大善知識より、三州の同行を一人も残らず、極楽参りをやめさせて。地獄へ落として来いよの、重き役を蒙って参りました、皆様シツカリ聞いておくれ」のお口開きの一言に、一同がビツクリして顔見合わせて居た。其中にタツタ一人踊りあかつて喜ばれた、それは音にきこへし おそのさんであつた。昔も今も握つた信心で、お浄土へ行く心積りの人ばかり、實にかなしい事である。美濃佛照寺老師・2019年12月7日 とくに心をひかれるのは「いつも火事場の眞最中ぢやわいの」の一語である。自分の日日は全く火事場である。火と水とのゴタゴタより外にはない。御恩有難やの御慈悲尊やのといふ綺麗事はここにはありはしないのであって、貪欲、妄念、執着、などがうづまいてゐるのである。「とても地獄は一定すみかぞかし」といはれたお方も、きつと火事場のまつさいちうに御自分を見出されて驚き悲まれたのであらう。それ故にこそ「彌陀の五劫思惟の願をよくよ案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり」と信受し歓喜せられたのであらう。おそのは いつも火事場のまつさい中にをり、それ故いつもお慈悲のまん中にゐたのであらう。火事場のまつさい中にゐたればこそ「参らせてやらうの仰の外にあともさきも存ぜぬ」強い信味に徹することができたのであらう。おそのの念佛は、まさしく火事場の炎と泥の中からでてきたお念佛であつたにちがひない。念仏者のおもかげ・
2026.09.02
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先週ついに買えました…ベル玩菓製《メカアーツ》!・大した工具を持ってナッシングなんで、手持ち武器づくりから…!キッズブロックの車軸パーツを削ってツクったグリップに、食玩由来のジャンクパーツをば切った貼った、みのもんた…ごんちゃっくさん、カンケーナッシング!手持ちのブラスターに!同じよーにツクったグリップに、他の食玩由来のジャンクパーツ、それからキッズブロックのパーツそのままをくっつけて…!手持ちの突撃用兵器に!キッズブロックのポッチが2.5㍉径なので、腕に付けるコトもできるとゆー!・なかんずくキッズブロックのパーツ…画像のパーツから、赤丸部分のボッチをカット。メカアーツの腰の肉抜き穴にジャストフィット!腕の干渉にて腰には付けられなかった武器パーツをば、ある程度は腰にも装備できるようになりました!6個(3幾×2)ツクりまして…メカアーツ全3種にセット!武装てんこ盛りに!!・
2026.09.01
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(AIモードより)丹霞焼仏「丹霞焼仏(たんかしょうぶつ)」とは、中国・唐代の禅僧である丹霞天然(たんかてんねん)が、寒さをしのぐために木彫りの仏像を燃やして暖をとったという、禅宗の有名な逸話(公案)およびそれを描いた画題です。形や固定観念に囚われがちな人間の信仰心や主観を揺さぶり、「真の仏(本質)とは何か」を問いかける禅の教えとして、古くから多くの禅画に描かれてきました。逸話のあらすじある厳しい冬の日、洛陽の慧林寺を訪れた丹霞天然は、あまりの寒さに耐えかねて、お堂に安置されていた木造の仏像を引っ張り出して燃やし、暖をとり始めました。それを見た寺の住職(院主)は激怒し、こう咎めました。「何という罰当たりなことをするのだ!寺の不朽の名作である仏像をなぜ焼くのか!」すると丹霞は平然と火をいじりながら答えました。「いや、私はこれ(仏像)を焼いて、仏舎利(お釈迦様の遺骨)を採ろうとしているのです」住職はさらに怒って言いました。「ただの木像から仏舎利が出るわけがないだろう!」丹霞はすかさずこう言い放ちました。「舎利が出ないのであれば、これはただの薪(まき)にすぎません。それなら、もう2つほど持ってきて燃やしても構いませんね」それを聞いた住職は何も言い返せなくなり、逆に仏の形に執着した罪によって、眉毛が抜け落ちてしまったと伝えられています。禅における教え(本質)このエキセントリックな行動には、以下のような深い禅のメッセージが込められています。偶像崇拝の打破: 仏像という「形(物質)」を崇めるあまり、その奥にある「仏性(本質)」を見失ってはならないという戒めです。とらわれない心: 丹霞にとって仏像は単なる「木」であり、住職にとっては聖なる「仏」でした。住職は「仏像を燃やすと罰が当たる」という主観的な固定観念(妄執)に縛られていたのに対し、丹霞は一切の偏見から脱却した自由な境地にいました。即心是仏: 仏は外にある像ではなく、人間の内なる心にこそ宿っているという禅の根本思想(脚下照顧)を体現しています。美術品としての「丹霞焼仏図」このインパクトのある物語は、後世の絵師たちに好まれる格好のテーマとなりました。特に有名な作品は以下の通りです。国宝『禅機図断簡(丹霞焼仏図)』: 元時代の高僧・因陀羅(いんだら)が描き、楚石梵琦(そせきぼんき)が賛(詩)を寄せた水墨画です。日本のアーティゾン美術館(東京)に所蔵されており、ニヤリとしながら仏像を燃やす丹霞と、それを慌てて咎める僧の対比が生き生きと描かれています。仙厓義梵の『丹霞焼仏図』: 江戸時代のユーモラスな禅僧・仙厓(せんがい)も、この画題を親しみやすいタッチで描いており、出光美術館などにその書画が伝わっています。・眉鬚堕落「眉鬚堕落(びしゅだらく)」は、「言葉を弄して、みだりに(いい加減に)仏法を説くと、その罰で眉やひげが抜け落ちてしまう」という意味の禅語です。言葉で表せない究極の真理(不立文字・教外別伝)を重んじる禅の世界において、生半可な知識で悟りを語ることの恐ろしさを厳しく戒める言葉として使われます。由来と背景この言葉は、唐の時代の禅僧、丹霞天然(たんかてんねん)の「丹霞焼仏(たんかしょうぶつ)」という有名な逸話に由来します。仏像を燃やした逸話:ある大変寒い冬の日、丹霞が寺の木彫りの仏像を薪にして火をつけ、暖をとっていました。それを見た住職は激怒し、「何という罰当たりなことをするのか!」と責め立てました。丹霞の返し:丹霞は平然と「仏像を焼いて、骨から出る聖なる灰(舎利)を取ろうとしたのです」と答えました。住職が「木像から舎利が出るわけがないだろう」と言うと、丹霞は「それならただの木片ですから、残りの仏像も燃やして暖をとりましょう」と言い放ちました。眉鬚堕落の瞬間:住職は仏法の真理(形に囚われて本質を見失ってはいけないという教え)に気づかず、ただ形式的な怒りに任せて言葉を弄したため、その罰としてその場で眉毛とひげがすべて抜け落ちてしまったとされています。江戸時代の高僧であり画家の仙厓義梵も、この場面を「若言焼仏 堕落眉鬚(焼仏というがごとく、眉鬚堕落す)」という賛を添えてユーモラスな禅画に残しています。現代における教訓この言葉は、現代の私たちにとっても以下のような重要な教訓を含んでいます。知ったかぶりへの戒め: よく理解していないことを、さも知っているかのように語ることの危うさ。知行合一の重要性: 理屈や言葉だけを並べるのではなく、自らの体験や実践が伴っていなければ意味がないということ。・不惜眉毛「不惜眉毛(ふしゃくびもう・びもうをおしまず)」とは、「眉毛が抜け落ちるという罰を恐れることなく、人々のために真剣に仏法を説く」という意味の禅語(仏教用語)です。「自分の身や命を捧げて尽くす」という意味の「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」と似ていますが、こちらは「眉毛」を惜しまないという少しユニークな由来を持っています。由来と背景嘘を言うと眉毛が抜ける古くから仏教の教えでは、いい加減な言葉で間違った仏法を説いたり、嘘を言ったりすると、罰として「眉毛やひげが抜け落ちる(眉鬚堕落)」と信じられていました。リスクを恐れない姿勢「もし自分の説法が間違っていて、眉毛が抜けてしまったとしても構わない。それでも私は目の前の人を救うために、熱意を持って仏の教えを語り続ける」という、命がけの慈悲心と強い覚悟を表しています。現代における意味と使い方ビジネスや日常生活においては、以下のような熱意ある行動を表現する際に使えます。誤解や批判を恐れず、相手のために本音でアドバイスする。自分の評価が下がるリスクがあっても、本当に正しいことを周囲に伝える。「不惜眉毛の精神で、若手の育成に全力を注ぐ」といった決意表明。・
2026.08.31
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天上天下 唯我独尊 三界皆苦 吾当安此 (てんじょうてんげ ゆいがどくそん さんがいかいく がとうあんし)(AIによる概要より)「天上天下唯我独尊」は、仏教の開祖であるお釈迦様が誕生された時に発したとされる言葉です。この言葉に続く「三界皆苦 吾当安此」まで合わせることで、「すべての人の命は無条件で尊く、苦悩に満ちたこの世界に安らぎをもたらそう」という誓願が表されています。各フレーズの現代語訳と詳しい意味は以下の通りです。1. 天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)読み下し: 天上天下にただ我ひとり尊し意味: 天の上にも下にも、自分と同じ命は他にない。誰かと優劣を競うのではなく、誰もが「かけがえのない、ただ一つだけの尊い存在」であるという意味です。決して「自分だけが偉い」といううぬぼれや傲慢な意味ではありません。2. 三界皆苦 吾当安此(さんがいかいく がとうあんし)読み下し: 三界は皆苦なり、吾まさに此れを安んずべし意味: 私たちが住む迷いと欲望の世界(三界)は、どこに行っても苦しみに満ちている。だからこそ、自分がその苦しみの世界にいる人々を救い、本当の安らぎを与えようという、お釈迦様の強い慈悲の誓いを示しています。お釈迦様は「すべての人の命はかけがえのないもので尊い」と宣言し、苦しんでいる人々を救うためにこの世に現れたと伝えられています。(AIモードより)天上天下 唯我独尊 三界皆苦 吾当安此こちらは、お釈迦様がご誕生された際におっしゃったとされる伝説的な言葉(誕生偈)ですね。多くの人に知られる「天上天下 唯我独尊」のあとに続く、非常に慈悲深く力強いお言葉です。それぞれの句には、以下のような深い意味が込められています。天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)「この広い宇宙の中で、たった一つしかない『自分』という命は、何物にも代えがたい尊い存在である」という意味です。決して「自分だけが偉い」という傲慢な意味ではなく、すべての人が誰かと比較することのできない、かけがえのない命を授かっているという「命の尊厳」を説いています。三界 皆苦(さんがい かいく)「私たちが住むこの迷いや苦しみに満ちた世界(欲界・色界・無色界)は、どこを見渡しても苦悩に満ちている」という意味です。吾当安此(がとう あんし)「私がまさに、この苦しみにあえぐすべての人々を救い、安らぎを与えよう」という、お釈迦様の強い誓いと慈悲の心が表されています。人生の悩みや苦しみ(三界皆苦)に寄り添い、それを乗り越えるための救い(吾当安此)を約束する、仏教の精神が凝縮された非常に美しい言葉ですね。お釈迦様のご生涯お釈迦様は約2500年程前、ヒマーラヤの麓にあったカピラヴァストゥを居城とする、釈迦族の王家として誕生しました。お釈迦様が誕生した直後に東西南北にそれぞれ七歩進み、右手で天を指し、左手で地を指しながら次の言葉を発したと伝えられています。天上天下唯我独尊 (てんじょうてんげ ゆいがどくそん)三界皆苦吾当安之 (さんがいかいく ごとうあんし) (『修行本起経』)前半についてはどこかで聞いたことがある言葉ではないでしょうか?私たちがこの「天上天下唯我独尊」と聞くと真っ先にヤンキーや暴走族が旗に掲げるイメージが浮かびますが、実はこれ、お釈迦様のお言葉なのです。「天上天下唯我独尊」という言葉だけ聞きますと「自分が一番偉い!」というように、傲慢な言葉としてよく誤解されています。大事なのはその後に続く言葉「三界皆苦吾当安之」という言葉です。「天上天下唯我独尊 三界皆苦吾当安之」というのは「世界で唯一最も尊い生き方がある。それは、迷いの世界で苦しむ人々を安らかにしていくという生き方である(意訳)」というのが正しい解釈です。「自分を差し置いてでも、他者の幸せのために活動していく慈悲の心こそ、この世で最も尊い心なのですよ」と教えてくださるのがこの「誕生偈」と呼ばれる言葉です。お釈迦様が誕生したと伝えられる4月8日は現在「はなまつり」「灌仏会(かんぶつえ)」というお釈迦様の誕生を祝う行事が営まれています。「天上天下唯我独尊 三界皆苦吾当安之」というのは「世界で唯一最も尊い生き方がある。それは、迷いの世界で苦しむ人々を安らかにしていくという生き方である(意訳)」というのが正しい解釈です。「自分を差し置いてでも、他者の幸せのために活動していく慈悲の心こそ、この世で最も尊い心なのですよ」と教えてくださるのがこの「誕生偈」と呼ばれる言葉です。お釈迦様が誕生したと伝えられる4月8日は現在「はなまつり」「灌仏会(かんぶつえ)」というお釈迦様の誕生を祝う行事が営まれています。・「七歩」の意味お釈迦様が誕生した直後七歩あゆみを進めた、というのは「迷いの境涯である六道(六界)を超えた存在」という意味があります。※六道…地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という6つの迷いの境涯のこと。仏教では人間界だけでなく、天界も迷いの境涯に該当します。・「甘露の雨」お釈迦様が誕生した際、天が祝福をし甘露の雨を降らせた、と経典には説かれます。その甘露の雨が降ったという伝説にしたがって「はなまつり」ではお釈迦様の誕生仏に甘茶をかけてお祝いをします。実は誕生の時だけではなく、お悟りを開く時、涅槃に入る時など、お釈迦様の生涯において大事な場面は必ずこの甘露の雨が降ります。肝心な時はいつも祝福の雨。お釈迦様は今でいう「雨男」だったのかもしれませんね。摩耶(マーヤー)釈迦(シャーキャ)族の王・浄飯王(シュッドーダナ)の妃。右脇からお釈迦様が生まれ、その7日後に亡くなった。摩訶波闍波提(マハーパジャーパティー)摩耶(マーヤー)のそのまた妹。摩耶(マーヤー)が亡くなった後、浄飯王(シュッドーダナ)の妃に迎えられ、お釈迦様の養母となった。孫陀羅難陀(スンダラナンダ)の母でもあり、最初の比丘尼でもある。釈迦族釈迦族(シャーキヤ族)は、紀元前5世紀〜6世紀頃の古代北インドに存在した部族であり、仏教の開祖である「釈迦(ゴータマ・シッダールタ)」の出身部族として世界的に広く知られています。以下に、その歴史、社会、そして滅亡までの特徴を分かりやすくまとめました。釈迦族の基本概要人種・ルーツ:伝統的にはアーリア人のクシャトリヤ(王族・戦士)階級とされますが、農耕民族であった点などからチベット・ビルマ系などのモンゴル系種族であるとする説もあります。地理的場所:現在のネパール南部からインド国境付近に位置するカピラ城(カピラヴァットゥ)を中心とした地域。社会制度:強力な一人の王が支配する専制君主制ではなく、有力な貴族(クシャトリヤ階級)の代表が集まって政治を決める共和国制(ガナ・サハ)に近い形態だったとされています。経済基盤:当時としては珍しく米食中心の農耕民族であり、豊かな米の生産で生活が安定していました。釈迦(ブッダ)との関係仏教で使われる様々な呼び名は、この「釈迦族」という名前に由来しています。「釈迦(しゃか)」:釈迦族の名称そのものが省略された呼び名です。「釈尊(しゃくそん)」:「釈迦族出身の尊いお方」という意味の敬称です。「釈迦牟尼(しゃかむに)」:「釈迦族の聖者(ムニ)」を意味します。出自:釈迦は、この釈迦族の頭領(または王)であったスッドーダナ(浄飯王)の王子として生まれました。悲劇的な滅亡釈迦族は、釈迦が晩年を迎えた時期にコーサラ国のヴィドゥーダバ王(波瑠璃王)によって急襲され、非業の滅亡を遂げたと伝えられています。滅亡の原因:コーサラ国の前王が釈迦族から妃を娶ろうとした際、釈迦族はプライドの高さから「王女」と偽って「奴隷階級の女性」を嫁がせました。その間に生まれたヴィドゥーダバ王子が後に事実を知り、激しい怨みを抱いたことが原因とされています。ブッダの制止:ヴィドゥーダバ王が軍を率いて釈迦族を攻めようとした際、釈迦は道中に3度立ち塞がり、「親族の木陰は涼しい(身内を守りたい)」と無言で訴えて軍を撤退させました。しかし4回目は「宿業(カルマ)は避けられない」として静観し、釈迦族は虐殺され、カピラ城は焼き尽くされました。
2026.08.30
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《香樹院語録》より《五五。後生願わぬ四因》後生に心のふり向かぬは、四の因縁ありと仏説きたまえり。一には、放逸の故に。二には、大地獄あることを信ぜざるが故に。三には、業異熟を知らざるが故に。四には、まさに死すべき事を知らざるが故に。・《香樹院語録》より《五六。聞法の四時》法を聞く時を求むるに四あり。一に、小壮して勢力のある間にきけ。二に、三宝のまします間にきけ。三に、財宝物のある間にきけ。四に。万物の離散せざる間にきけ。・《香樹院語録》より《五九。喜びのかづかづ》此世の喜びは人々同じからず。浄土を願う身には誰もかれも同じ数多き喜びあり。一。三悪道をはなれて、人間に生れたる喜び。一。仏法に値いまいらせたる喜び。一。この弘願他力に値いまいらせたる喜び。一。六根具足の喜び。一。悪縁に障えられず、聴聞することの出来る喜び。一。信を得て念仏する喜び。 この喜びを知るならば、浮世の不足は云うては居られぬほどに、よくよく心得られよ。・《香樹院語録》より《七三。断見、常見》断見ーーー因果業報を知らず。 地獄極楽をなしと執ず。常見ーーー無常迅速を知らず。 他力の方便を知らず。・《香樹院語録》より《八八。南無阿弥陀仏》南無阿弥陀仏(一枚衣物)至心ーー大悲の心は、永く未とほるなり。信楽ーー出来あがったゆえに、くれんと思ふ。欲生ーー与へんとよびあるく。・《香樹院語録》より《一〇〇。選択摂取》選ーーさがし求めて、選ぶほどのこころ也。たとえば、我が子に嫁をもらうと思うと、親が色々と手をまわし、探し求めて、器量から年格好、身分のつりあいなどと、広い所から選びとり出すこころなり。択ーー多くの中よりよきものを取り出して、我がものにすること也。たとえば、母親が我が娘に着物を買うてやろうと思うて、呉服屋へ行って、いくらかの中より、我が娘に相応したものを選びて買うが如し。一枚の着物を買うにも、母はなかなかの心づかいじゃ。摂ーー取りとめて持って居ること。取ーー向いのものを我ものに取りいれること也。・《香樹院語録》より《一二〇。信と行》信ずることは易く行ずることは難し。ーーー聖道門行ずる事は易く信ずることは難し。 ーーー弘願他力門。聖道の機を以って弘願の法を行ずる。ーーー自余浄土門
2026.08.29
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2026/8/27。仕事帰りに、高宮のセリアにて…株式会社エイコー製《東方Projectゆっくりインテリアミニフィギュア》、残り4種をば購入しました!・表情違い1。表情違い2。コチラは、先月購入した分。・魔理沙3種。霊夢3種。全6種フルコンプ(リート)!・コチラは、先月ナノブロックでツクった胴体。先月の組み合わせ。同じよーに…組み合わせてみました!メカアーツもだケド、完全に諦めていた物が、後になって手に入る!ソレが当方、ぶうぶのまあち!!・
2026.08.28
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一昨日(2026/8/25)よーやっと手に入れました…ベル玩菓製《メカアーツ》!↓↓↓その日のうちに、3体とも組み立てました!・No.1:CROWクロウ・軽量近距離戦闘ユニット装備一覧。下段左から…ハンドガトリング、シールド、ビームライフル、ソードユニット、センサーユニット、ウェポンユニット。右手にはハンドガトリング。右腕にはパイルバンカーでも仕込んでそーなシールド。左手にはビームライフル。左腕にはスラスター付きのソードユニット。右肩部にはセンサーユニット+センサー。左肩部にはウェポンユニット+3連ミサイル。左肩部のウェポンユニットの穴の一つが、手の穴と同じ長方形。なので、手持ち武器を肩部武器として搭載できます。ハッチを開けると、パイロットのモールドが!No.2:ALLISNAアリスナ・重装中距離火力支援ユニット(アリスナ(ALLISNA)は、アリゲータースナッピングタートル(Alligator snapping turtle 英:ワニガメ)の略。)装備一覧。下段左から…バズーカ、リボルバーランチャー、ショルダーカノン+レドーム、ショルダーミサイル、ショルダービーム砲、4連装アームミサイル。特徴は、右手のバズーカ。左手にはリボルバーランチャー。左腕には4連装アームミサイル。左肩にはショルダービーム砲。右肩部にはショルダーカノン(+レドーム)。左肩部にはショルダーミサイル。ショルダーミサイルを前後逆につけて、更に右肩部のショルダーカノンを付けると、長距離用カノンに!バズーカに右肩部のショルダーノンを付ければ、長距離用バズーカに!ハッチを開けると、以下同文!No.3:HAYABUSAハヤブサ・標準型長距離精密打撃ユニット装備一覧。下段左から…スナイパーライフル、ハンドガン、2連装ミサイルユニット、2連装ミサイルユニット、背部スラスターユニット。右手のスナイパーライフルで、遠距離から狙撃!左手にはハンドガン。両肩の2連装ミサイルユニット+背部のスラスターユニットにて、一撃離脱戦法も!ハッチを開けると、以下同文!・一部パーツの噛み合わせが悪くて(特にコックピットハッチ部分の蝶番)、ヤスリにて少しづつ削りながらの組み立てと相成りました!・…あ、そーそー!武器用のジョイント穴が2.5ミリだから、ナノブロックなりキッズブロックなりを付けるコトもできるよ🎵・
2026.08.27
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2026/8/25。給料日+非番の日なので、朝から大橋まで行って、ペイペイカードの支払いや区役所での手続きをば済ませまして…大橋のセブンイレブンにて、《カレーみそきん》(ラーメンの方)をば購入!コレだけ先月買えなかったつーか、先月発売にも気付かなかったモンで…今回は、カレーみそきんだけにしときました!・ソレから、電車にて天神まで。イオンショッパーズ福岡4Fのダイソーにて、ついにベル玩菓製《メカアーツ》をば購入できました!組み立ては先になりますが…No.1:CROWクロウ・軽量近距離戦闘ユニットクロウは英語でカラス。ブランドン・リーの遺作(撮影中に亡くなったので、チャド・スタエルスキが代役を務め、顔が映りにくいアクションシーンやロングショット、当時の最先端CG技術(顔のデジタル合成)などを組み合わせて映画を完成させた。)は、クロウ/飛翔伝説。《第2次スーパーロボット大戦Z》の主人公は、クロウ・ブルースト。ドグマ首領テラー・マクロの正体は、カイザークロウ(右肩が弱点)。No.2:ALLISNAアリスナ・重装中距離火力支援ユニットアリスナは、《夏の甲子園で注目を集めた高校野球・仙台育英学園高等学校(宮城)の二塁手・有本豪琉選手と遊撃手・砂涼人選手の1年生(当時)コンビの愛称アリスナ》説が有力か?↓↓↓Xのポスト調べていったら、アリスナはアリゲータースナッピングタートル(英:ワニガメ)の略だった、ダイバダッタ!(14:23追記)No.3:HAYABUSAハヤブサ・標準型長距離精密打撃ユニットハヤブサつっても、マシンでも、プロレスラーでも、探査機でも、新幹線でもナッシング!ちなみにハヤブサは、ワシやタカに似てるケド、ワシやタカはタカ目、ハヤブサはハヤブサ目とゆー。・…よーやっとお目当ての品を買えた代償なのか、杖をドコカに置き忘れてそのまま帰ってきちゃったとゆー…💧・まーソレでも、発売日からずっと待ってた《メカアーツ》が手に入ったから、いっか~🎵・完全に諦めていた物が、後になって手に入る…だから世の中、そー捨てたモンじゃナッシング!また、何かを得たら何かを失うのが、自然(じねん)の理(ことわり)DA☆ξ・
2026.08.26
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《安心小話》より七三 如説院惠劔講師が記録に載せられたる自督帖。一。ここに愚老、当年満七十歳の懺悔あり。当年までも自分の信心の真偽は己を顧るほかなしと、謹みて相心得ておるおると思い暮せしが、近頃無始己来の初事に真の善知識の御実意がこの心中に徹入なし下されたるにや、創めて自ら己が不埒の心中が思いしらるる。二。幼年の昔、弥陀の本願は我をたのむものを必ず助けんとある御誓なりとききて、我が心に徹到して有難く、かかる浅ましきこの身が如来の御助けによりて極楽に往生するとは、さてさて有難や南無阿弥陀仏と喜び称えたるばかりなり。三。然るに大祖聖人板敷山の件、幼稚の時はこのこと聞くにつけても憎さも憎しと腹立て、或いは落涙に堪えかね、妄想ながらも我が一年分の報恩のために報償せんと思いしに、一年は一年その妄想も薄くなり、幼稚のすがたにもならばやと次第に昔恋しく思いしが、四十は四十、五十は五十、七十は七十、と年とるに随いて訳は委しくなれども内心の実情はうせはてたる有様、まことに浅ましくなり下りたると云うより外なし。四。獲信の一念より報謝相続して臨終一念の夕にはかならず往生せしめ下されなば不可思議に有難たかるべしと領解して喜びくらすゆえ身一杯心一杯と思えども、その身一杯心一杯が煩悩具足の凡夫ゆえ、まことに喜びもせねば称えもせぬといわれても、一言の申し訳もなき恥かしさは我が身なりと、七十歳の今日まで相続し来たれり。五。しかれどもこの心相続の相は千変万化、ある時は仏恩の忝なきことを存じ、師恩の深きことを思いては歡喜の涙に咽び、雨涙千行万行することもあり。ある時は口に称名すれどもとどまらず、妄念頻りに動きて仏恩も師恩も夢だにもしらざるもののごとくなる時もあり。またある時はかく前後転変する心何ぞ淳一相続の心ならんや、これぞ若存若亡の心なるべしと歎かるる時もあり。またある時は、かく前後転変すと云えども如来廻向の一心はこの中に歴然たりと聊か動することなく称名することもあり。種々無量にしてツイに七十歳を送れり。六。就中、踊躍歓喜の心相の起ることは甚だもって希に、後世者にはあらざるやと怪しまるるの心はつねに多し。ことに年老の長ずるに隨いては、ますます疎略の相となりはてたるに似たり。浅ましと云うもおろそかなり。七。かく心相は種々に転変すと云えども口称の念仏は転変するものにあらざれば、他力の往生は違うべきことなしと喜び存じて一生これまで送り来たれり、然れば有難いかなや他力の信と行とは幼年の昔よりすでに獲しめ給えり。この身なれば今にも臨終せば決定往生すべきこと何の疑いあらんや。その他力廻向の信行は如何にして得たるや。これひとえに真の善知識に逢い奉りし恩徳のあらわれなれば、その恩徳の深きことは、まことに弥陀の悲願にひとしきものかと常に厚く頂戴して、粉骨砕身すともなお足らぬと、尊慮に違わぬ様つつしみつつしみ年月を送れども、報謝の勤め勇ましきすがたもなく不冥加の心中と謝りはてて日を送り来たれり。・
2026.08.25
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《求法用心集》より《一一三 頓教毀滅》御和讃に、「頓教毀滅のともがらは、生死の大海きはもなし」と。今の後生を忘れ、これ迄に聞いたことを信じてゐる様なるは、頓教毀滅ぢや。また油斷の二種。一つには、未だ真のことはないとは思へども、油斷するなり。(ドコソコデハキコエルト云ウ心)二つには、吾はよく聞き得たと思ふからの油斷も頓教毀滅になるほどに、「生死の大海きはもなし。」可愧可恐。正像末和讃より(14)菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあだをなす頓教毀滅のしるしには 生死の大海きわもなし(現代語訳:悟りを得ることができないであろう人々は、皆ことごとく専修念仏を敵視する。このように速やかに悟りに至る教え(頓教)を誹謗し、滅ぼそうとする報いとして、迷いの世界(生死の大海)から抜け出すことができなくなる)(AI による概要より)親鸞聖人の『正像末和讃』にあるこの和讃は、真実の教え(専修念仏)を誹謗し、自力に執着する者はさとりを得られず、迷いの生死を彷徨い続けるという、末法における法難や人々の疑謗を悲嘆・戒めた歌です。 意味と解説菩提をうまじきひとはみな:さとり(菩提)を得る因縁がない(真実の教えを信じられない)人々は、専修念仏にあだをなす:ただ念仏のみを信じて称える教え(専修念仏)を憎み、邪魔をする。頓教毀滅のしるしには:瞬時に救われるという急進的で真実の教え(頓教)を破壊するよ()うな行為をする者は、生死の大海きはもなし:迷いの世界(生死の大海)をいつまでも抜け出せず、その岸にたどり着くことはない。 つまり、自力で悟りを得ようと執着し、他力(阿弥陀仏の救い)を否定する者は、真実の救いから遠ざかってしまうという厳しい警告です。頓教毀滅(とんぎょうきめつ)「頓教(速やかに悟りに至る教え、ここでは浄土真宗の専修念仏)」を「毀滅(そしり、ほろぼすこと)」するという意味です。可愧可恐(かきかきょう)恥ずかしく、かつ恐ろしいという意味を持つ表現です。可愧(かき): 恥ずべきこと、恥ずかしい。可恐(かきょう): 恐ろしいこと、恐るべき。
2026.08.24
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大きな信心十六ぺん チョコチョコ安心数知れず(AI による概要)ご提示いただいた「大きな信心十六ぺん チョコチョコ安心数知れず」という言葉は、主に浄土真宗本願寺派(西本願寺)の伝統的な信仰の様子を指す言葉として知られています。 北陸地方(特に越前など)の同行(信仰者)の間で使われていた、信心の熱心さや、その一方で人間が抱く安心の不安定さを皮肉ったり、戒めたりするフレーズです。 意味や背景は以下の通りです。大きな信心十六ぺん (おおきなしんじんじゅうろっぺん)大きな信心をいただいたつもりでいるが、それがずっと続くわけではなく、ふとした拍子に消えてしまうような不安定な信心のこと。一生に一度の強固な信心(真実信心)ではなく、コロコロと変わる「自力」的な信心を皮肉った表現。チョコチョコ安心数知れず (ちょこちょこあんしんかずしれず)その時々で、「これで安心だ」とちょこちょこと安心(信心)を作り出してしまうこと。自分の心に頼り、お手製の一夜漬けのような安心(信心)を何百、何千と作り出している様子。 まとめこの言葉は、自らの心の動き(信心)を絶対視するのではなく、阿弥陀仏の本願の働きにすべてを任せる(他力)という本来の信心に立ち返るよう、信心の熱心さを評価しつつも、その危うさを指摘する言葉として使われています。
2026.08.23
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《貞信尼物語》より《八十九、いろは四十八首》その他に貞信の遺詠としては、三州岡崎の鍋田奥瀬両氏の印施せられた『尊号要文』の付録に載せてあるいろは四十八首がある。いかに貞信が老後歌に寄せて法味を愛楽せられたかが知られることであれば、ここに録出する。いにしへにいかなる契りそめおきて、三世のほとけの誓いをぞきくろくろくに聞きわけてもせでいろいろと、物知り顔のさても見にくきはからはず南無阿弥陀仏と称ふ外、思ふも言ふも迷いなりけり西(にし)へ行く道としなくばなかなかに、老の寝覚めの淋しかるらんほのぼのと春の陽気に向かひなば、はや参らばや母の別院へだてなき深き御法の恵みにて、隔て心もうすらぎにけりとりつめて聞く気もあらぬ身なれども、無常の風は急げとぞふく千(ち)代八千代かけて祈るぞ大谷の、清き流れをにごさじものと理(り)屈にもはづれた弥陀の慈悲なれば、理屈離れてすがるばかりぞぬすびとの心の底を尋ぬれば、懈怠不沙汰の無慚無愧より流(る)転してまた値ひ難き御法をば、おろそかに聞く心にくさよおこたらず勤むる人も懈怠なる、我が身も共につれられてゆく我(われ)思ふ心のうちぞ有と無との、中を流るる南無阿弥陀仏かぎりある命も過ぎてほのぼのと、八十路が春を早迎へけり世(よ)を渡る橋も渡らで我はただ、六字の道に寝たり起きたりたらちねの深き恵みに育てられ、おさな心に南無阿弥陀仏蓮(れん)台に乗り得るまでは妄念の、心ながらに南無阿弥陀仏そろそろと歩み習ひし幼子の、老て八十路の歳を経にけりつらつらと過ぎし昔を数ふれば、危うき道の橋のかずかず念(ねん)佛の声もろともに妄念の、心ながらも南無阿弥陀仏歎(なげ)きつつ闇路をたどる賤の女に、我をたのめの弥陀の御頼みらちあかぬ心ながらもみなかみの、流の水の障りおそるる無(む)始よりの罪も障りもそのままに、救ふちかいのたのもしきかなうどん華の花のさかりに生まれ来て、花のうてなにつれられてゆく井(ゐ)の中の蛙とひとし老の身は、南無阿弥陀仏と啼くばかりなり法(のり)の道知らで空しく過ぐる身を、つれゆく母はここに居るぞよ老(お)いぬれば浮世もかろく渡りけり、重き御恩の袖にすがりて繰(く)り返しなほなほ励み称ふべし、出入りの息の通ふ限りは山(やま)よりは高き教の恵みにて、危き身ぞと思ひ知らるる待(ま)ちかねて歎くとまでのおなさけは、たれに聞けとの心ずくしぞけだいして歎く心の心のなき時も、只そのままに南無阿弥陀仏深(ふか)からん罪もおそれぬ弥陀なれば、深きお慈悲の底やなからん恋(こひ)しさは待ちかねたまふ母様の、お呼声なる南無阿弥陀仏円(えん)満の月のひかりに今ははや、濁れる身にも南無阿弥陀仏手(て)習いのほうびにもらふ硯箱、老の褒美は南無阿弥陀仏あら嬉し誓の船に乗りぬれば、むべあたたかき母の手枕さかりなる花の姿も人ごとに、憐れと思へ老のしらなみきく人もきかざる我も諸共に、摂取の網に救はれて行く夢(ゆめ)の世を夢と思ふも夢なれど、南無阿弥陀仏は実なりけり目(め)に見るも耳に聞くのも妄念の、心ながらに南無阿弥陀仏身(み)にしみて寒さは老のならひぞと、思はば急げ南無阿弥陀仏死(し)して後我身に添ふる宝には、南無阿弥陀仏にすぐるるはなし縁(ゑん)つきて花のうてなに生まれ出て、世々の迷ひの物語せん火(ひ)の中や水の中にも幾万の、心づくしの南無阿弥陀仏もろもろの神も佛も捨てし身を、助くる母の心ゆかしき精(せひ)出してつとむるにだにさもなくば、忘るる時ぞなほ憐れなりすなほなる柳の枝を見るにつけ、ゆがみながらに南無阿弥陀仏京田舎南無阿弥陀仏を称ふれば、国もゆたかに民も安かれ・
2026.08.22
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日本妙好人協会のHPは《金言金行集・2021年11月19日の記事》より馬鹿の至誠むかし、石州に馬鹿の至誠さむ(さん)と言はれた篤信の人が居つた。年を取つてから「阿彌陀経」を覚えやうと習つたが、三年かかつても讀むことが出来ぬほどの馬鹿であつた。しかしながら佛のお慈悲を感ずることは甚(はなは)だ深かつた。あるとき寺へ説教を聞きに参詣(さんけい)して居(お)つたが、高座の下にじつと聞いて居つた。やがて説教が終つてから、阿彌陀佛の前へ行つて、兩手を合せて 「馬鹿だ馬鹿だ」 と言ひ續(つづ)けて居る。これを見た他の同行達は「あのやうな馬鹿者でも、人から馬鹿だと言はれると腹が立つらしい」と話合つた。その内、一人の同行が至誠さむ(さん)の側へ寄つて 「至誠さむ、何が馬鹿だといふのですか」と尋ねた。さうすると、至誠さむは両眼に嬉し涙をたたへて「阿彌陀様だ。 馬鹿な阿彌陀様だ。このやうな馬鹿な私を助けなければ気のすまぬ阿彌陀様はよつぽど馬鹿だ」 と言つて泣いた。全く自力のはからひを捨てて佛の本願に信頼するところに、眞の佛の慈悲がありがたく感受せられるのである。知識の方面から見れば馬鹿ものと言はれた至誠さむでも、佛の慈悲を感受することは所謂(いわゆる)賢者よりも強かつたのである。あるとき、同じお寺に法要があつて客僧が見えた。至誠さむはお説教を聞いた後、座敷へ客僧を尋ねていろいろ法義のことを聞いて居つたが、そこへ寺の奥さむが来て、客僧に入浴の案内をなし、又至誠さむに客僧の背を流して上げて下さいと頼む(ん)だ。至誠さむは快く承諾して客僧の背を流した。その時 至誠さむは始終 念佛して居つたが客僧の方は一向 念佛が出ない。至誠さむは絞つた手拭(てぬぐい)でドスンと大きな客僧の背をたたいて、「御佛壇は立派だが、阿彌陀様はござらぬわい」と嘆息した。(たんそく:なげいてため息をつく・非常になげく)辛辣(しんらつ)なる皮肉の言に客僧も定めて自ら慚(はじい)つたことであらう。・
2026.08.21
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《秀存語録》より《一 義なきを義とすと知るべし》京都の人、探幽(たんゆう)の書を藏したり。落款(らっかん)なかりし故に、ある名筆の人をたのんでその名をかかしめたり。書は之が為めに疵物(きずもの)となれり。他力は他力也。自己一分(じこいちぶん)の計(はから)ひを加へなば、遂に障(さわり)となりて往生を得ざる也。《歎異抄》より《第十条》一 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。 そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏申さるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人(親鸞)の仰せにあらざる異義どもを近来はおほく仰せられあうて候ふよし、伝へへうけたまはる。いはれなき条々の子細のこと。《正像末和讃》《第五十四首目》聖道門のひとはみな 自力の信をむねとして他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり《親鸞聖人血脈文集》より(一) かさまの念仏者のうたがいとわれたる事 それ、浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺の論家・浄土の祖師のおおせられたることなり。まず、自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがいて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、身・口・意のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり。また、他力と申すことは、弥陀如来の御ちかいの中に、選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを、他力と申すなり。如来の御ちかいなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)のおおせごとにてありき。義ということは、はからうことばなり。行者のはからいは自力なれば、義というなり。他力は、本願を信楽して往生必定なるゆえに、さらに義なしとなり。 しかれば、わがみのわるければ、いかでか如来むかえたまわんとおもうべからず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、わるきものとおもうべし。また、わがこころよければ往生すべしとおもうべからず。自力の御はからいにては真実の報土へうまるべからざるなり。「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ、往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまわりたりし。第十八の本願成就のゆえに、阿弥陀如来とならせたまいて、不可思議の利益きわまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらわしたまえり。このゆえに、よき、あしき、人をきらわず、煩悩のこころをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれば、恵心院の和尚(源信)は『往生要集』には、本願の念仏を信楽するありさまをあらわせるには、「行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらわず」とおおせられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにおさめとられまいらせたり」と、たしかにあらわせり。しかれば、「無明煩悩を具して安養浄土に往生すれば、かならずすなわち無上仏果にいたる」と、釈迦如来ときたまえり。 しかるに、「五濁悪世のわれら、釈迦一仏のみことを信受せんこと、ありがたかるべしとて、十方恒沙の諸仏、証人とならせたまう」(散善義)と、善導和尚は釈したまえり。「釈迦・弥陀・十方の諸仏、みなおなじ御こころにて、本願念仏の衆生には、かげのかたちにそえるがごとくして、はなれたまわず」とあかせり。しかれば、この信心の人を、釈迦如来は、「わがしたしきともなり」(大経)と、よろこびまします。この信心の人を「真の仏弟子」といえり。この人を正念に住する人とす。この人は、摂取してすてたまわざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を、「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とももうす」(散善義)なり。この人は正定聚のくらいにさだまれるなりとしるべし。しかれば、弥勒仏とひとしき人とのたまえり。これは真実信心をえたるゆえに、かならず真実の報土に往生するなりとしるべし。この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまわりたるとしるべし。 しかれば、「諸仏の御おしえをそしることなし。余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あわれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)はおおせごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。 仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかいのなかに第十九・第二十の願の御あわれみにてこそ、不可思議のたのしみにあうことにて候え。仏恩のふかきこと、そのきわもなし。いかにいわんや、真実の報土へ往生して、大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よくよく御安ども候うべし。これさらに、性信坊、親鸞がはからい申すにはあらず候う。ゆめゆめ。建長七歳 乙卯 十月三日 愚禿親鸞八十三歳書之(現代語訳)笠間の念仏者が疑問に思いお尋ねになったことについて。 浄土真宗の教えでは、往生を願うものについて他力のものと自力のものとがあります。このことはすでにインドの菩薩がたをはじめ、中国や日本の浄土の祖師がたが仰せになっていることです。 まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからいの心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。また他力ということは、阿弥陀仏の四十八願の中で、真実の願として選び取ってくださった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。それは阿弥陀仏がお誓いになられたことですから、「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」と、法然上人は仰せになりました。「義」というのは、はからうという言葉です。行者のはからいは自力ですから、「義」というのです。他力とは、本願を疑いなく信じることで間違いなく往生が定まるのですから、まったく「義」はないというのです。 ですから、この身が悪いから、阿弥陀仏が迎え取ってくださるはずがないと思ってはなりません。凡夫はもとより煩悩を身にそなえているのですから、自分は悪いものであると知るべきです。また、自らの心が善いから、往生することができるはずだと思ってはなりません。自力のはからいでは、真実の浄土に生れることはできないのです。「行者がそれぞれに起す自力の信心では、懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土にしか往生できないであろう」と、お聞きしました。第十八願を成就したことにより阿弥陀仏となられ、思いはかることのできない利益がきわまりないというそのおすがたを、天親菩薩は尽十方無礙光如来と表されています。ですから、善人や悪人を区別することなく、煩悩に汚れた心を分け隔てすることなく、必ず往生すると知らなければなりません。そこで、源信和尚は往生要集に、本願の念仏を疑いなく信じるすがたをあらわして、「歩いていても、立っていても、座っていても、臥していても、どのような時、どのようなところでも、分け隔てることがない」と仰せになっており、「真実の信心を得た人は、摂取の光明の中に摂め取られているのである」と明らかに示されています。ですから、「無明煩悩をそなえたままで、安養浄土に往生すれば、必ずただちにこの上ない仏のさとりに至る」と釈尊は説かれています。 ところで、「さまざまな濁りと悪に満ちた世界に生きるわたしたちは、釈尊お一人の言葉では信じることができないであろうから、すべての世界の数限りない仏がたが証人になってくださるのである」と、善導大師は観経疏に示されています。「釈尊や阿弥陀仏やすべての世界の仏がたは、みな同じお心で、本願を信じて念仏するものに、影がその姿に付き添うように離れないでいてくださる」と明らかにされているのです。ですから、この信心を得た人を釈尊は、「わが親しい友である」とよろこんでおられます。この信心を得た人を真の仏弟子というのであり、本願を疑いなく信じる人とするのです。阿弥陀仏が摂め取ってお捨てにならないので、金剛の信心を得た人というのです。また、すぐれた人、すばらしい人、美しい人、もっともすぐれた人、たぐいまれな人ともいうのです。この人は、正定聚の位に定まっていると知らなければなりません。ですから、弥勒菩薩と等しい人と説かれるのです。真実の信心を得たことにより、必ず真実の浄土に往生するのであると知らなければなりません。 この信心を得ることは、釈尊や阿弥陀仏やすべての世界の仏がたの巧みな手だてによるのであると知らなければなりません。ですから、「他の仏がたの教えを謗ってはならない。念仏以外の善を修める人を謗ってはならない。念仏する人を憎み謗る人であっても、その人を憎み謗ることがあってはならない。哀れみいとおしむ心を持ちなさい」と、法然上人は仰せになりました。謹んで申しあげます。 仏のご恩の深いことは、懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土に往生することでさえ、阿弥陀仏の四十八願の中に第十九願・第二十願として誓われているのです。そのはたらきがあるからこそ、思いはかることもできない楽しみにあうことができるのです。仏のご恩の深いことは、限りがありません。まして他力の信心を得たものは、真実の浄土に往生し、大いなる仏のさとりを開かせていただくのですから、仏のご恩をよくお考えになってください。これらのことは決して性信房や親鸞が自分勝手な考えから申しあげていることではありません。くれぐれもお疑いのないように。建長七年十月三日愚禿親鸞八十三歳、これを書く。
2026.08.20
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