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《求法用心集》より《四三 好人そで女》一、池内そで女は厚信なりき。毎年七昼夜二十一日には、午前二時頃より同行数人と共に、徒歩にて参詣するを常とせり。我等は直に京に向ふなれど、そで女は何時徒歩にて叡山に詣して京へ降るなりき。詰所にて同宿せしが、いかに熟睡すると云へども、其鼾は念佛なりき。御廻向の信なる故、自然とあらはるゝものならん。二、明治二十二年五月、村の十祖の溝より三寸ばかりの木佛地藏尊の現れ給ひたる時、其足にて自ら京へ供奉(ぐぶ)し、佛師によりて御修繕申上げ、余が寺に安置を乞ふ。されど宗意上、其如何なるものなるやを語りたる時。 「それでも、今日迄の御養育を思ひますれば」と、此一語実に味ふべきことゝ思ひぬ。三、そで女或年、村の池内善吉等と同道、真宗善光寺に詣でぬ。馬車の牽馬疲れ居るを見て、已一人馬車に乗らざりき。かくて發車の間際再び馬頭に現れ來りたるが、饅頭を購ひて其馬に喰わせ、之を勞ひたるなりき。其日一人遅く宿に着きたり」と。ありたきことなり。四、また本堂の御燈明用の油など、少しも人に知られぬ間に、油置場に供へらるゝなど常なりき。また、外來の聞法車などあらば、親切に我宿へ招じては聞法するを樂しみとせり。
2026.10.09
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《一蓮院秀存談合録》より六、たのめと云うはお助けを届けたい為じゃ。(一蓮院師仰せに、)たのめとあるも、雑行雑修自力をすてよとあるも、其のなりで助けると云うことを届けたいが為じゃ。・《一蓮院秀存談合録》より十三、たのむものをお助けと、助かるまじきもののお助けと。明信寺云く。帰むという事は、これが胸につかえるうちはまだ聴聞不足なり。帰む事の胸につかえるにあらで、反って楽しみになるが真実信心の得られた験(しるし)なり。 帰むという事を嫌うは、まだ帰まねばならぬ難儀が我が心に起こらぬが故なり。存云く。帰むばかりのお助けを心得たりとも、助かるまじきものを助け給う本願の尊さの知れざる人はなはだ多し。世上の学者多く然り。我もまたその一人なりき。・《一蓮院秀存談合録》より十五、信じ上手と助け上手。雲渓師いわく。私のたのみようや信じようは下手でも、助けてくださる方が上手なり。唯助かりさえすれば本望なり。今日より阿弥陀仏のまことをたのみたてまつりて弥陀に助けらるべしと気のつきたるも我が力かは。・《一蓮院秀存談合録》より二五、たのめと云うは助かれ助かると云うことじゃ香樹院師お言葉に、たのめとあるは助かれ、また我が身を助ける助けるの勅命にしたがえと云うことじゃ。
2026.10.08
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一昨日の記事でも触れました…最近のストーリーテリング用素材…天神ファーボB1Fのキャン★ドゥにて購入の、株式会社アクシス製ミニチュア1/100人間。ブリスターパックのブリスターをば、切った貼ったしました…が…どーもアソート式ぽいので、この商品はコレにて打ち止め!・さて、コレこそ本題の…白金のセリアにて購入の、松野工業株式会社製スケルトンファイターキット。早速、組み立てました!フル可動で、下顎も動くぞ!交換用の平手。付属の武器。左から…ドクロ杖、骨ヌンチャク、バトルアックス、ポール牧アックス。ドクロ杖は、裏から見たら御覧の有様だYo!!武器をば…持たせてみました。左は、輸入販売元:株式会社久野貿易商会の《戦闘フィギュア》…実は、このドチラも同じメーカーの中華な可動フィギュアをば、日本じゃそれぞれ別の会社が輸入販売とゆー!なので、お互いの武器をば交換できるぞ!!・最後に…新(左:コーン茶)旧(右:麦茶)ONICHAの…《鬼みくじ》ですが…麦茶の方では《小吉》!コーン茶の方だと、なんと!《華丸・大吉》ときたモンだ、みのもんた!!・
2026.10.07
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法友の一人が、山も山さんこと宮田秀成先生の許可をいただいた上で始められた、《【非公式】安心問答 YouTubeチャンネル》の動画をば、以前はお送りしてたのですが…・新たに宮田先生の最新の御法話動画をアップロードされてたチャンネル《にしのみや聞法会》をば最近、見つけまして!拙ブログ《ソクタッヘ王国物語》でも、今月の宮田先生の御法話動画を共有させていただきました。今年に入って、西宮市の会館が立て直ったそーで、サイト名も《にしのみや聞法会》に戻っとります。…てなワケで、《にしのみや聞法会》のHPにリンク貼っときます!!・以前までの宮田先生の動画をアップロードされてました(なんか手違いで全部消えちまってたがな!?)チャンネルでは、主に紅楳英顕和上様先生(浄土真宗本願寺派・司教輔教)の御法話をアップロードされております。)・【にしのみや聞法会】2026年 9月19日 宮田秀成師 西宮市勤労会館】・山も山さんこと宮田秀成先生は、ブログ《安心問答ー浄土真宗の信心についてー》や《親鸞会を脱会した人(脱会したい人)へ》、そして光顔寺(浄土真宗本願寺派)のスタッフとして仏教ブログも書かれております。加えまして、Peingでも《匿名で質問できるコーナー》もやっておられます。・…あ、そーそー!宮田秀成さんといったら!YouTubeチャンネル《ネットラジオ版安心問答podcast》も、ヨロシク!!・
2026.10.06
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・本日のおハナシは、法友の一人ukkaripapaさんのブログより、2026/10/3の記事《第二十願》をばベースに書きました!・…と、その前に!昨日(2026/10/4)の素材集めをば!白金のセリアにて購入の、松野工業株式会社製スケルトンファイターキット。天神ファーボB1Fのキャン★ドゥにて購入の、株式会社アクシス製ミニチュア1/100人間。・…てなトコで、本編ココから!↓↓↓(菊丸(左)のモノローグ)この日、(王立)ソク(タッヘ)高(等学校)の先輩(右)の一人が、当寺を訪ねてきまして…こんなコトだそーです!先輩「阿弥陀仏の救いが第18願(他力信心)なら、第19願(菩薩行)や第20願(称名念仏)は別に要らナッシングじゃナッシング???」菊丸「《生因三願(しょういんさんがん)》は、聞法者のヒト達がよく混乱するトコでして。深川倫雄和上(浄土真宗本願寺派・勧学)の《仏力を談ず》より《信心に入るカリキュラムはない》によりますと…」↓↓↓(一部抜粋)「如来さまの催促だから、思わんでも、努力せんでも出る」それなら屁です。努力するんです。私どもは堂々たる一人の生活者です。自分で判断をして自分で生きていく一人の生活者です。だから自分で努力をしてお称名する。時々聞かせて頂いたお味わいを取りだしては「こうまで申すもご恩の力なり」(『親鸞聖人御消息』西本願寺版聖典第13通)と慶信坊(きょうしんぼう)のように時どき取り出しては他力催促でありましたと喜ぶ。日常はそんなこと一々思うちゃおられんから、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えます。腹をたてちゃすまんぞよと、さまざまな心がけがあります。↑↑↑菊丸「《信心得るために努力する》と、《他力催促を喜ぶべく、自分で努力してお称名する》との違い…こんなコトだそーです!」先輩「なるほど!ザ・ワールド!時よ止まれ…違うか。念仏そのものには、自力(称名)も他力(称名)もナッシング。称える者の心掛け次第のココロ!」菊丸「そのためにも、《聴聞(ちょうもん)なる御恩報謝(ごおんほうしゃ)》が要りよう…第19願に第20願は、そのための道しるべ…こんなコトだそーです!」輔教様(下段左)&CRさん(下段右)「そして、時は動き出す!!」輔教様「《信心得るコトこそ大事》でな!?阿弥陀様は、念仏申せとか言わナッシング!!」CRさん「そもそも論だケド!阿弥陀様の救いは、十劫(+15億年)前に完成してるから、ソレをドタマに叩き込んどきゃ、別に求道は要らナッシング!強(し)いて言えば、称名念仏『南無阿弥陀仏』は《阿弥陀様へのお礼のコトバ》なの!!」菊丸「…念仏が、《お礼のコトバ》ですて…?《南無阿弥陀仏は、『阿弥陀さん、あざーす!』てな意味》と…???信心正因、称名は報恩にして正定行(しょうじょうぎょう)…こんなコトだそーです🎵」先輩「そーいや、ヤットデタマンはマタドールがモチーフなんだよな?」CRさん「💢どーでもイイケド!?林遊さん、カンケーナッシング!!💧」輔教様「💢鮎川(菊丸)め~!!毎度のコトながらも、ワシらをばコケにしおって~!?💧…てなワケで、CRさん!アレをやるのじゃ!!」CRさん「はいなぁ!!」輔教様「ロングホーントレインじゃ~~~!!」菊丸「お~礼(れぃ)🎵こんなコトだそーです!!」どかこ~んっっ!!輔教&CR「うぱ~💦」先輩「…てな感じに…↑コレこそ《念仏軽視の末路》なのでした!!」・・・
2026.10.05
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昨日(2026/10/3)は、家の近くのセブンイレブンにて…ヒカキンさんの出してる《ONICHA》2種、買ってきました!コチラ、以前からのONICHAで、麦茶。コチラは、今月から発売の新ONICHA、なんとコーン茶。鬼みくじもついてるよ?・
2026.10.04
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《貞信尼物語》より《二十一、邪見も驕慢も其まま佛法》或歳、一蓮院師が越後へ下向せられし時、御法話の終に、『わしが此国へ来たに就いては、御一同に頼みがあるで、どうか聞いて貰いたい。それは外ではない、どうか是からわしの帰ったあとも、銘々に手のまい足のふむ所を悉く佛法になってひぐらしをして貰いたい、これが今度わしが此国へ来て御一同へのたのみである』と懇ろに仰せられた。法話の果てて後に、貞信は直に御座敷へ罷り出て、御礼を申上げいかにも当惑の面持ちにて『只今の御聞かせ、手のまい足のふむ所を喜び喜び佛法三昧になりてひぐらしをせよとの仰せなれど、此貞信は日夜手のまい足のふむ所は、邪見と驕慢とばかりでござります。とても佛法三昧の生活など出来ませぬが如何に致しましょう』とお尋ね申した。其時一蓮院師の仰せに『邪見と驕慢とは善いものではなけれどもそれを止めてからなら聖道門じゃ、今は邪見も驕慢も止めてからではない、邪見が起こったら南無阿弥陀仏、驕慢が起こったら南無阿弥陀仏と喜んだら、直に佛法になろうがいの』と諭されたしと。・
2026.10.02
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《秀存語録》より《一 義なきを義とすと知るべし》京都の人、探幽(たんゆう)の書を藏したり。落款(らっかん)なかりし故に、ある名筆の人をたのんでその名をかかしめたり。書は之が為めに疵物(きずもの)となれり。他力は他力也。自己一分(じこいちぶん)の計(はから)ひを加へなば、遂に障(さわり)となりて往生を得ざる也。《歎異抄》より《第十条》一 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。 そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏申さるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人(親鸞)の仰せにあらざる異義どもを近来はおほく仰せられあうて候ふよし、伝へへうけたまはる。いはれなき条々の子細のこと。《正像末和讃》《第五十四首目》聖道門のひとはみな 自力の信をむねとして他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり《親鸞聖人血脈文集》より(一) かさまの念仏者のうたがいとわれたる事 それ、浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺の論家・浄土の祖師のおおせられたることなり。まず、自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがいて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、身・口・意のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり。また、他力と申すことは、弥陀如来の御ちかいの中に、選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを、他力と申すなり。如来の御ちかいなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)のおおせごとにてありき。義ということは、はからうことばなり。行者のはからいは自力なれば、義というなり。他力は、本願を信楽して往生必定なるゆえに、さらに義なしとなり。 しかれば、わがみのわるければ、いかでか如来むかえたまわんとおもうべからず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、わるきものとおもうべし。また、わがこころよければ往生すべしとおもうべからず。自力の御はからいにては真実の報土へうまるべからざるなり。「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ、往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまわりたりし。第十八の本願成就のゆえに、阿弥陀如来とならせたまいて、不可思議の利益きわまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらわしたまえり。このゆえに、よき、あしき、人をきらわず、煩悩のこころをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれば、恵心院の和尚(源信)は『往生要集』には、本願の念仏を信楽するありさまをあらわせるには、「行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらわず」とおおせられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにおさめとられまいらせたり」と、たしかにあらわせり。しかれば、「無明煩悩を具して安養浄土に往生すれば、かならずすなわち無上仏果にいたる」と、釈迦如来ときたまえり。 しかるに、「五濁悪世のわれら、釈迦一仏のみことを信受せんこと、ありがたかるべしとて、十方恒沙の諸仏、証人とならせたまう」(散善義)と、善導和尚は釈したまえり。「釈迦・弥陀・十方の諸仏、みなおなじ御こころにて、本願念仏の衆生には、かげのかたちにそえるがごとくして、はなれたまわず」とあかせり。しかれば、この信心の人を、釈迦如来は、「わがしたしきともなり」(大経)と、よろこびまします。この信心の人を「真の仏弟子」といえり。この人を正念に住する人とす。この人は、摂取してすてたまわざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を、「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とももうす」(散善義)なり。この人は正定聚のくらいにさだまれるなりとしるべし。しかれば、弥勒仏とひとしき人とのたまえり。これは真実信心をえたるゆえに、かならず真実の報土に往生するなりとしるべし。この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまわりたるとしるべし。 しかれば、「諸仏の御おしえをそしることなし。余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あわれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)はおおせごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。 仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかいのなかに第十九・第二十の願の御あわれみにてこそ、不可思議のたのしみにあうことにて候え。仏恩のふかきこと、そのきわもなし。いかにいわんや、真実の報土へ往生して、大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よくよく御安ども候うべし。これさらに、性信坊、親鸞がはからい申すにはあらず候う。ゆめゆめ。建長七歳 乙卯 十月三日 愚禿親鸞八十三歳書之(現代語訳)笠間の念仏者が疑問に思いお尋ねになったことについて。 浄土真宗の教えでは、往生を願うものについて他力のものと自力のものとがあります。このことはすでにインドの菩薩がたをはじめ、中国や日本の浄土の祖師がたが仰せになっていることです。 まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからいの心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。また他力ということは、阿弥陀仏の四十八願の中で、真実の願として選び取ってくださった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。それは阿弥陀仏がお誓いになられたことですから、「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」と、法然上人は仰せになりました。「義」というのは、はからうという言葉です。行者のはからいは自力ですから、「義」というのです。他力とは、本願を疑いなく信じることで間違いなく往生が定まるのですから、まったく「義」はないというのです。 ですから、この身が悪いから、阿弥陀仏が迎え取ってくださるはずがないと思ってはなりません。凡夫はもとより煩悩を身にそなえているのですから、自分は悪いものであると知るべきです。また、自らの心が善いから、往生することができるはずだと思ってはなりません。自力のはからいでは、真実の浄土に生れることはできないのです。「行者がそれぞれに起す自力の信心では、懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土にしか往生できないであろう」と、お聞きしました。第十八願を成就したことにより阿弥陀仏となられ、思いはかることのできない利益がきわまりないというそのおすがたを、天親菩薩は尽十方無礙光如来と表されています。ですから、善人や悪人を区別することなく、煩悩に汚れた心を分け隔てすることなく、必ず往生すると知らなければなりません。そこで、源信和尚は往生要集に、本願の念仏を疑いなく信じるすがたをあらわして、「歩いていても、立っていても、座っていても、臥していても、どのような時、どのようなところでも、分け隔てることがない」と仰せになっており、「真実の信心を得た人は、摂取の光明の中に摂め取られているのである」と明らかに示されています。ですから、「無明煩悩をそなえたままで、安養浄土に往生すれば、必ずただちにこの上ない仏のさとりに至る」と釈尊は説かれています。 ところで、「さまざまな濁りと悪に満ちた世界に生きるわたしたちは、釈尊お一人の言葉では信じることができないであろうから、すべての世界の数限りない仏がたが証人になってくださるのである」と、善導大師は観経疏に示されています。「釈尊や阿弥陀仏やすべての世界の仏がたは、みな同じお心で、本願を信じて念仏するものに、影がその姿に付き添うように離れないでいてくださる」と明らかにされているのです。ですから、この信心を得た人を釈尊は、「わが親しい友である」とよろこんでおられます。この信心を得た人を真の仏弟子というのであり、本願を疑いなく信じる人とするのです。阿弥陀仏が摂め取ってお捨てにならないので、金剛の信心を得た人というのです。また、すぐれた人、すばらしい人、美しい人、もっともすぐれた人、たぐいまれな人ともいうのです。この人は、正定聚の位に定まっていると知らなければなりません。ですから、弥勒菩薩と等しい人と説かれるのです。真実の信心を得たことにより、必ず真実の浄土に往生するのであると知らなければなりません。 この信心を得ることは、釈尊や阿弥陀仏やすべての世界の仏がたの巧みな手だてによるのであると知らなければなりません。ですから、「他の仏がたの教えを謗ってはならない。念仏以外の善を修める人を謗ってはならない。念仏する人を憎み謗る人であっても、その人を憎み謗ることがあってはならない。哀れみいとおしむ心を持ちなさい」と、法然上人は仰せになりました。謹んで申しあげます。 仏のご恩の深いことは、懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土に往生することでさえ、阿弥陀仏の四十八願の中に第十九願・第二十願として誓われているのです。そのはたらきがあるからこそ、思いはかることもできない楽しみにあうことができるのです。仏のご恩の深いことは、限りがありません。まして他力の信心を得たものは、真実の浄土に往生し、大いなる仏のさとりを開かせていただくのですから、仏のご恩をよくお考えになってください。これらのことは決して性信房や親鸞が自分勝手な考えから申しあげていることではありません。くれぐれもお疑いのないように。建長七年十月三日愚禿親鸞八十三歳、これを書く。
2026.10.01
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