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《香樹院語録》より《二六七。助けたまえ》
南無の二字は助け給えと思う心也。助け給えと云うことは、世間でも分別思案の出来ることには、助けて下されとは云わぬ。我が思案工夫の出来ぬことは、助けてくれと云うより外なし。然れば銘々弥陀をたのめたのめの勅命は、我が分別、我が力で行くことを助けるにあらず。汝等が知恵も力も及ばぬ一大事の後生、諸仏の捨てたまう悪人女人を助けるばかりに、この弥陀が五劫の間艱難したは、汝等を助くるばかりの思案也。兆載永劫の修行をしたも、その方が助からぬ未来の大事を、助けるためばかりの永劫の修行じゃほどに。 弥陀という正覚を取ったのは、悪人女人を助ける為ばかりである。助かるてだてがあるなれば、五劫永劫の思惟修行はせぬ。ただ汝等を助くるばかりの難行苦行。それじゃによりて、南無とたのむというも、汝等が思案工夫を廻らして、たのむこととは思うな。雑行雑修も力盡き果てて悪道え沈む徒者が、この名号の謂れを聞けば、造作なく弥陀の念力が届いた時、己を忘れて、やれありがたや弥陀の大願力の御不思議ぞと、おもいとる一念に、はや弥陀は摂取すると教え給うが六字の謂れ也。 こう聴聞して見られよ。浄土真宗の教は、道理々屈で云い、或いはなづみあらそう訳はない。助けるとある仰せに、凡夫の計らいはいらぬ、助け給えとすがるばかり。それなれば、我が覚えありて云わねばならぬのかと思えば、云うの云はぬの、おもうの思わぬのと、思案分別も入らぬ。地獄に堕つる、悪道に堕ちねばならぬものを、ありがたい御助と引受けられたならば、そのまま助けたまえとすがるばかり。それならば銘々聞くのに難儀なことはない。これでは助かろうか助けられまいかの、これほどありがたい故御助けにまちがいあるまいと思うたり、又かようなあさましい心では助かるまいと思うたり、弥陀の手元は慈悲深くとも、自分はこれに離れるようにも思うは、まちがい也。 泥の中え落ちた子を、抱きあげるのに、助けたならば、忝いと思うであらうと思うて、抱きあげる親はない。子は逃げんとしても、親は之を追うて助ける也。御慈悲の親様が、我々を助けたまうが此の通り也。
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