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《染人百話》より《大量師》
(楽心院)大量師は美濃の人、後江州八幡町順応寺に住職となる、道心もあり学問もあった。いつものお話に、他力の御法を聞く心得は、親様と云うことを忘るると益がない。嘆きに沈んで広大不思議の御助けを聞き洩らすことになる。「もろともに語り合わさん法の友、機のつたなさと法のとうとさ」
○我等はこの世を夢と知っても、この心が夢と云うことを知らぬ。聞いて堅めにかかるから、御喚声が聞こえて下さらぬ。世は夢なれど、求める心は本性と思うのが誤りである。
○このままとは悪心だけのこと、信心ばかりは本真物にならねばならぬと思うが、よくよく聞けば本真物とて何があろう。このうそいつわりのゴマノハイぞと聞き開かれたら一心帰命の外はない。今曰く。これについて思い出すは、秀存師の、「我心は虚仮雑毒なれば、何時にぎってみてもにせものなり。そのうそがうそと知られた一念が弥陀の利他真実に助けられた真実の一念なり」。又、龍温師の「子供が泥鰌をつかむに、こそこそ泥鰌ぢやとつかむと泥じゃ。今度は確かにつかんだそうなと思うとやはり泥じゃ。みなみなが今度こそと押えたものは邪見?慢じゃ。何返握りてもうそばかり」との御示しである。
○我仏恩を知る身となったと思うが早や我機を見失うたのじゃ。その本心をおして見ると更にその実がない。たまにはその心が起こったのは全く御加えの仏智である。その下にあるのは固有の迷心じゃ。「我が心をみなとりかえて御助けにてはなく候。仏智を加え候うて凡心を繕いて御助け候」。古歌に「この機をば地獄なりとてとりすてて 御助けの機はいづくにかある」
○「自力の願生心が他力信心の接木台の如し。遂にそれをすてて他力をたのむ信を得るなり」とある香樹院師のお言をひかれて、同師のお手帳の中に、世人の公事をするのに、年月かかる中に訴人が却って受け手となることがある。右と同じ訳で、実に大悲に徹したお言である。その求め心は御回向かと云うに、御回向は帰命の一心である。求め心は宿善力で、それが台木である。これが願心じゃ。願心おこさせて往生の因を接いで下さるる。台は願心、木は満願の大悲である。聞き得て振りかえっててみると、台木からが弥陀の宿縁である。よって蓮如上人は、「宿善ありがたし」と仰せられた。始終丸々の他力仕立てである。
○同師自督帖に、盲人の道を失うときは、ただ連れて行ってくれる人を求めるより外なし。何ぞ目を開くことを求めん。然るに、父の迎いを得て、この手にすがれと聞きたる時喜び々々縋るなり。その縋る心は眼を開くに非ず、やはり暗いのなり。暗いながら我が家に連れられて行くことが明らかになるばかり。我等法を聞きて明らかにならんとかかるは盲人の明を求むるが如し。ただたのみさきを求むべきこそ他力の聞きようなり。
○六字の仰せの聞こえぬわけに二つあり。一は独り立ちしてゆく心ゆえたのめの仰せにこまるなり。連れてゆく人をただ道を教えてくれる人と思う。聞こえてみれば、わからぬながら連れられてゆくことを喜ぶなり。二は眼をあけて行く心ゆえ喜びたのむ心なし。眼病と生盲と心得ちがいしているゆえなり。今は生盲の先の暗いながら引かれてゆくことを喜ぶなり、と。今曰く。先徳の御歌に、「知識より迷いのやみに手をひかれ、今にかがやく花にこそすめ」と。盲目のなり暗いなりで連れてゆき、さとりの眼は極楽の花のうてなであけてやるぞとの仰せか。
○同『御手帳』の中に、南浜のかる女、老耄して我が子さえ忘れていたが、予、念善寺へ参った時人に連れられて予に逢いに来たから、予云く、我を知ってるか。かる女曰く、知らいでかいな順応寺様じゃ。逢いたかったで来ました。又曰く。もうちかかろうねい。予曰く。今夜も知れぬぞ。女曰く。うれしいねい。これが聞きたかった、と。予の側にいたみつ女に、おまえさんお供して来てくれたのか、この方を大事に御世話して下されねい、と云うて去った。
○弥陀法は機と法とに二つの実がある。実に死ぬと、実に活きるとで、一往ではわからぬことじゃ。あの人は何日に死んで葬ったと云う。それが又実に活きたと云わばわからぬ。少しでも息があって活き上がったと云うはわかる。冷えたが活きたと云わばわからぬ。今弥陀の本願は、まことに死んで冷えきったものを活かし給うゆえ智慧光仏と云う。諸仏みな不思議不思議と讃嘆し給い、然も例のないこと故、六方の証誠があるのじゃ。十方諸仏の母が北枕にした兒を活き上がらせ給うゆえ不可思議光と名づける。実に極難信の法とは六ヶ敷いと云うことでない。不思議のこと故希有難信である。「あいがたき法とはしれどこの法を 極難信としるはまれなり」「おもうてもみる人もなし御仏の 御舌の証は何ゆえぞとも」
◎死にたればこそ 『沙石集』に「癲狂人川へ流れ、州崎に推しあげられ、独り言に、死にたればこそ活きたれ、活きたらば死なましと云う。河深く流れ疾し。活きたらば沈みて死なん。息絶えたればこそ浮かぶことゆえ右申したるなり」と。今曰く。とかく死にきらずして活くるつもり。堕ちきらずして助かる了見しておるが誤りで、当流は助かりそうな機は助からぬ機、助からぬ機が助かる機じゃ。
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