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江州蛇溝の如説院惠劔講師の講述の中に、とかく名号を離れて生身の仏体に向うて往生を決定
しようとするから、どこらあたりで弥陀の御慈悲にかなうものじゃやら程が知れぬ。
それでは 第十七の本願
はいらぬものになる。当流のこころは専ら善知識の御教化たる名号の
由をよく聞き得るを信心と云うのであるから、六字の名号が行なり本尊なり仏体なりである。
・
○当流のこゝろは、善知識の教を受けて信ずるの外はない。
然るに訳を知りにかゝる人は御開山よりは賢い人と思はるる。
※※御開山は知りにかかる事を止めさせられて、
只法然上人の仰せを平信じに信ずると仰せられた。
・
○すかされようかと用心し、間違うかと分別してかかるなら信ずると云うものではない、
知ると云うものじゃ。してみると弥陀の本願はいらぬものになる。
又、信心の得られぬ訳は、仏の仰せを信ずる信心で、往生すべき道理を信ずるのではない
と云うことを、よくよく合点せぬからの事じゃ。
・
※無量寿経は四十八願より第十七願(諸仏称揚の願)
設我得佛。十方世界無量諸佛。不悉咨嗟稱我名者。不取正覺。
(書き下し文)
もし我、仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、
悉く咨嗟して我が名を称せずんば、正覚をとらじ。
(現代語訳)
私が仏になるとき、あらゆる世界の数え切れないほどの仏たちが、
みなこぞって私の名号(南無阿弥陀仏)をほめたたえ、称えるようにならないならば、
私は決して悟りを開きません。
・
※※歎異抄(第二条)
おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ
御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。
しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、
こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。
もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たちおほく座せられて候ふなれば、
かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、
よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、
また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
総じてもつて存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからず候ふ。
そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、
念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。
仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。
善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。
法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。
詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。
このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、
面々の御はからひなりと云々。
(現代語訳)
皆さんが遠い十数か国もの国境を越え、命がけでこの私を訪ねてくださったのは、
ひとえに『どうすれば極楽浄土に生まれることができるのか』という道を尋ねるためでしょう。
しかしもし、「親鸞は念仏以外の極楽へ行くための秘密の方法や、特別な経文の教えを知って
いるのではないか」と思って尋ねてきたのであれば、それはとんでもない大間違いです。
そのようなことをお望みならば、比叡山や奈良には優れた学者がたくさんいらっしゃるので、
その方々を訪ねて、成仏のための方法を納得いくまでお尋ねになるべきです。
親鸞にとっては、ただ『念仏を称えれば阿弥陀仏が救ってくださる』という、師である
法然聖人の教えのほかには何もありません。
阿弥陀仏の誓願(本願)が真実であるならば、お釈迦さまの説法が嘘であるはずがありません。
お釈迦さまの説法が真実なら、善導大師の教え(釈)も間違いではないはずです。
善導大師の教えが真実ならば、法然聖人の教えが嘘であるはずがないでしょう。
法然聖人の教えが真実であるなら、親鸞が申し上げていることも決して間違いではないはずです。
つまるところ、私の信心はこのようなものです。
この先は、念仏を信じて称え続けようと、あるいは捨てようと、それは皆さん各自の
自由なのです。
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