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もの言わぬ従弟にサイダー渡す駅 色褪せしフリーペーパー秋浅し 「これください」訛り通じぬ秋さびし 夏の駅冷えた茶の露本濡らす 夏の果母のキャラメル旅行鞄 「箸鉄」を選ぶ子らの目鰯雲 涼風至る駅弁の木箱の香 キオスクの夕刊フジに秋茜プレバト俳句。お題は「駅の売店」。◇本上まなみ。もの言わぬ従弟にサイダー渡す駅これが今週の1位。本上まなみは出演回数を増やせば特待生になれますね。◇千原ジュニア。キオスクの夕刊フジに秋茜固有名詞を2つ入れるという俗っぽい手法。キヨスクでなく「キオスク」という表記に疑問をもったのですが、調べてみたら2種類あるらしい。2007年までは全国的に「キヨスク」だったものの、それ以降はJR東日本にかぎって「キオスク」になったそうです。西より東のほうが一足先に秋が来たって感じ?◇キスマイ千賀。涼風至る 駅弁の木箱の香千賀の場合は、句の内容が身の丈に合っていないから、つねにゴースト疑惑がつきまとうのだけど、この句の場合も、窓を開けて駅弁を買ってた一昔前の句と考えれば、そもそも「車内か車外か」という議論にもならないのですよね。昔の列車には窓から涼風が吹き込んでいたのだし。作品そのものは良いと思いますが、要するに、これも年配の人の句に見えてしまう。MBSは、ゴースト疑惑みたいなものをちゃんと払拭したり、不都合なサイトのGoogle八分みたいなことをやめなければ、いずれ深刻な形で墓穴を掘ることになると思います。◇新納慎也。「これください」 訛り通じぬ秋さびし訛り通じず 売店の秋さびし(添削後)読んだだけでは、場所も状況もよく見えない。しかも、方言が通じなくて標準語で求めたのかと思いきや、作者いわく「これください」のイントネーションが通じなかった、とのこと。…べつにイントネーションが通じなくても、意味が通じればよいのでは?いまひとつ分かりにくいエピソードでした。(^^;◇中田喜子。「箸鉄」を選ぶ子らの目 鰯雲鰯雲はるか 「箸鉄」選ぶ子ら(添削後a)鰯雲はろばろ 「箸鉄」選ぶ子ら(添削後b)一般名詞の「乗り鉄」や「撮り鉄」とは違って、この「ハシ鉄」というのは商品名のようです。その表記を漢字に直したわけでしょう。たしかに俳句の場合は、カタカナよりも漢字のほうがいいだろうし、そのほうが意味も明瞭になるのだろうけど、はたして商品名の表記まで変えてよいのかどうか。実際、「夕刊フジ」を「夕刊富士」とは書かないだろうし。季語の扱いについては、さほど悪くないと思ったけど、まあ、…難しいところです。◇小池美波。色褪せしフリーペーパー 秋浅しこれが2位でしたけど、季語の選択が適切だったかどうかはやや疑問。たとえば、「もう夏が終わってフリーペーパーも色褪せた」とか、「だいぶ秋が深まってフリーペーパーも色褪せた」というのなら、季語との関係が、(因果関係とまではいわずとも)順接的に響き合うはずですが、「まだ秋が浅く夏も残ってるのに、フリーペーパーは色褪せた」というのは、やや逆接的な印象になります。わたしなら「夏の果」や「秋深し」を選ぶだろうし、あえて季節の深浅をいわずとも、率直に「秋の駅」などでもよかったかなと思います。◇大久保佳代子。夏の果 母のキャラメル 旅行鞄あの夏の母よ キャラメル鞄に溶け(添削後)三段切れで、必要な助詞も不足しているために、「夏の終わりに/母からのキャラメルを握って/旅に出掛ける」という場面に見える。作者が意図したとおりの光景を描写するためには、7・7・5の語順に入れ替えて、旅行鞄に母のキャラメル 夏の果とするか、さもなくば、旅行鞄の母のキャラメル溶けし夏とすれば、わりとあっさり解決したのでは?◇おいでやす小田。夏の駅 冷えた茶の露本濡らす冷えた茶に濡らす台本 夏の駅(添削後)この句の季語は「夏」ですが、秋の季語「露」や「冷ゆ」も入っていてまぎらわしい。ちゃんと結露と書かなければ、「茶の露」は玉露や甘露のことだと誤解されかねないし、「露本」はロシアの本だと誤解されかねません。かたや、お茶は熱いのが普通だから、「冷えた茶」は「冷めた茶」と混同されやすく、この場合はむしろ「冷茶」と書いたほうが誤解が少ない。そして、歳時記に記載があるかは分からないけど、「冷えた茶/冷茶」はそれ自体が季語になりうる言葉です。ためしに「冷茶」を夏の季語と見なし、(列車や売店などの情報はいったん諦めて)台本に冷茶の結露したたれりと直してみました。…ところで、添削句のほうは「濡らす」という他動詞にも違和感がある。原句では主語が「(冷えた茶の)露」だったのだけど、添削句のほうでは使役形っぽくなっていて、主語が別にあります。原句: 露が台本を濡らす添削句:○○が台本を露に濡らすこの場合、誤まって「濡らしてしまった」と書かないかぎりは、意図的に濡らしたようにも見えるので、ちょっと読みを迷わせる。それを避けるためには、ふつうに自動詞で「濡れる」と書くべきです。
2022.08.30
アクセルを開くや鉄馬月に吠え 妻を待ち静かな月のサンルーフ 涼風に猫も招かれEXPASA 夢のあと打ち水跨ぎ追う背中 上腕たくまし蜻蛉の休憩す 蜩の駅にひぐらし辿り着く 炎天やドットの粗き標識車プレバト俳句。お題は「サービスエリア」。今回も不可解な句が多かった…(--;◇的場浩司。アクセルを開くや 鉄馬月に吠えこれが今週の1位。ちなみに「月」は秋の季語ですね。なにやらバイクを詠んだ句とのことですが…いやいや、 Iron Horseと言ったら機関車のことでしょ!…と思ったら、戦車の意味もあるらしい。そのほか「鉄馬」は色んな比喩になるらしくて、なかでも謎なのは風鈴!どうして風鈴のことを「鉄馬」と呼ぶのか、調べても分からなかった。(木馬みたいに揺れるから?)それはともかく、アクセルを「踏む」のは四輪で、アクセルを「開く」のは二輪なのだ、…という分かったような分からないような理屈。さらに、本来ならカットを割るべきじゃないところで「や」を用いたため、詠嘆というよりも「開くや否や」の意味に見えます。最後の「吠え」の連用形も、それっぽく余韻を残してみただけ。実際のところ、前段と後段は明らかな因果関係にあるのだから、カットを割らず、最後を終止形に直し、さらに「開く」などという変な動詞を排除すると、アクセルを握れば鉄馬月に吠ゆと書ける内容です。そうしてみると、案外つまらない句ですよね。要するに、「アクセルをふかしたらエンジンが唸った」というだけのことを、比喩と擬人化と連用形を用いて、いかにも俳句っぽく書いてみただけにすぎない。追記:あらためて考えてみたのですが、「や」を切れ字の詠嘆として捉えるのではなく、むしろ「開くや否や」の意味で解釈したほうが、(すなわち「カットが切れていない」と見なす)かえって、この句は評価できるのかもしれません。アクセルを開いて、エンジンにガソリンが流れ込むや否や、(実際は電気で発火するのだろうけど)鉄の馬が月にむかって吠えたのだ、と、オートバイのメカニズムに対する驚きを、微視的に描写した …ようにも見えてきます。◇とろサーモン村田。妻を待ち静かな月のサンルーフこれが今週の2位。まあ、才能アリでもいいと思うけど、なぜ「待つ」が連用形なのかは大いに疑問。後ろに用言があるのでも省略されてるのでもないなら、ふつうに「待つ」と連体形にすべきです。◇キスマイ宮田。涼風に猫も招かれEXPASA野良猫もいて涼風のEXPASA(添削後)中七「猫が招かれる」の擬人化も問題だけど、いちばんの問題は、夏の季語「涼風」がエアコンの冷風であること。本質的な季語の解釈としておかしいでしょ。かたや添削句の「涼風」は、屋外を吹く自然な涼風に見えるのですけど、だとすれば「野良猫」も屋外にいることになります。何故「いて」が連用形なのかも気になります。◇福原愛。夢のあと打ち水跨ぎ追う背中打水を跨ぎ売店へと走る(添削後)「打水」は夏の季語。作者いわく、車内で眠っていて、目が覚めて、車を出て、両親の背中を追って、打ち水を飛び越えてサービスエリアへ走った、…とのこと。これを無理やり17音におさめるなら、打水や サービスエリアへ寝覚めの子みたいな感じでしょうか。◇ミッツ・マングローブ上腕たくまし 蜻蛉とんぼの休憩すドライバーの上腕とんぼ来てとまる(添削後)「蜻蛉」は秋の季語。下五「休憩」の擬人化の問題もありますけれど、そもそも、なぜカットを割るのですか?たとえば、逞しき腕に蜻蛉の止まりたりでいいのでは?逞しい「腕」と、か弱い「蜻蛉」の対比にもなるし。一方、添削句の「来てとまる」は才能ナシだと思います。◇立川志らく。蜩ひぐらしの駅にひぐらし辿り着く蜩の駅 ひっそりとひぐらし来(添削後)「蜩」は秋の季語。なぜヒグラシが二度出てくるのかと言うと、聴覚的に捉えられた「ヒグラシの鳴き声」と、視覚的に捉えられた「一匹のヒグラシ」を区別したらしい。しかし、それ自体が読み手には伝わりづらい。とりあえずそれを描写するとしたら、蜩の鳴ける駅舎に一匹来く蜩の夕べ 駅舎には一匹とでも書くしかないと思う。◇フルポン村上。炎天や ドットの粗き標識車これはさすがでした。炎天のアスファルト。排気や騒音。車体やガスやカー用品のにおい。そして、「工事」だの「渋滞」だの「事故」だのと、芸のないビカビカした電光で表示する車。すなわち、ひたすら機能だけで成立している、繊細さや優しさや美しさとは無縁な世界。それを「ドットの粗さ」だけで想起させる名人芸。
2022.08.23
完全保存版「絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」。第2回のテーマは「人生の岐路」。今回も型破りな俳句が多く、とりわけ無季の句については、「川柳との違いは何か」を考えさせられました…。◇松尾芭蕉。荒海や 佐渡によこたふ天河あまのがわ(江戸時代)季語は「天の川」で秋。芭蕉らしからぬ雄々しい壮大さ。前段は視線が下にあるのに対して、後段は視線が上にあるというのだけど…どうしても「横たわる=寝る」のイメージがあるので、何故この動詞を使ったのか疑問にも思う。湖ならばともかく、荒海に星空が映るはずもないし…。天の川が佐渡ケ島を布団にしているように見えたとか?あるいは、自分が寝そべっていたせいで星空が「眼下」に見えたとか?もしかしたら「横たふ」という動詞は、たんに《水平に伸びる》というだけの意味で、かならずしも《床に寝る》という意味ではないのかも。◇正岡子規。糸瓜へちま咲て痰のつまりし仏かな(明治時代)思わずプッと笑ってしまう内容だけど、肺結核で死ぬ直前に詠まれたらしい。ものすごいユーモア。糸瓜は結核の薬だったそうで、「いまごろ咲いても間に合わない」という皮肉な恨み節ととれなくもありません。本来なら、季語は「糸瓜の花」で晩夏なのだけど、この句は秋に読まれたため、季語は「糸瓜」と見なすとのこと。しかし、そういう解釈はちょっとおかしい。つまり、晩夏に咲いていれば間に合ったのに、秋の「糸瓜の花」では遅すぎた、ということだろうと思います。季語の概念を逆手に取っているのでしょう。◇石田波郷。七夕竹たなばただけ 惜命しゃくみょうの文字隠れなし(昭和戦後)季語は「七夕竹」で初秋。これも肺結核がらみの句。竹の葉や短冊が重なる中に「惜命」の文字だけは隠れていなかった。…というより、そこだけがはっきり見えてしまった。ユーモアなのか、それとも抑えきれない切実な願いなのか。◇日野草城。見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く(昭和戦後)無季の句。こちらは緑内障による失明の句。自分の習性を笑ったユーモアのように見えるし、無季なだけに、川柳にも見えないことはない。しかし、ある種の哀れみを感じることも出来るし、人生の春夏秋冬でいえば「秋」の俳句なのでしょうか?◇林田紀音夫。鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ(昭和戦後)5・5・8の破調。無季の句。孤独への自嘲とも、あるいは侘しさともとれる。これも川柳にも見えないことはない。でも、人生の春夏秋冬でいうならば「冬」の俳句かな。◇久保田万太郎。湯豆腐や いのちのはてのうすあかり(昭和戦後)季語は「湯豆腐」で冬。一年の春夏秋冬においても、人生の春夏秋冬においても、まごうことなき冬の句。ーー人生関連の句はここまでです。◇永田耕衣。泥鰌どじょう浮いて鯰なまずも居るというて沈む(昭和戦後)6・7・6の破調。季語は「泥鰌」と「鯰」で、夏の季重なり。ドジョウが出てきて「こんにちは」と言うのかと思いきや、ぶしつけに「ナマズもいるぞ」と言って沈んでいったという、客観写生でもなければ心情表現でもない、まったくのフィクション。得体の知れない底なし沼を写生してると言えなくもないけど…もしかして柳川鍋ばかり食べる人間への恨み節?(作者は関西の人ですが)どうみても主役は「泥鰌」だと思うのだけど、一般に、この句の季語は「鯰」だとされているようです。…なぜ?◇波多野爽波。チューリップ花びら外れかけてをり(平成)季語は「チューリップ」で晩春。なんとなくフルポン村上的な作風ですよね。「落ちる」ではなく「外れる」という動詞の面白さ。チューリップが日本で栽培されはじめたのは大正以降だそうです。俳句そのものは平成になって詠まれたようですが、大正生まれの作者にとって、いまだ外来植物への物珍しさもあったでしょうか?
2022.08.22
できるかなの「のっぽさん」とか、リトル・リチャードの「のっぽのサリー」とか、ヘンリー・クレイ・ワークの「大きなのっぽの古時計」とかがありますが、この「のっぽ」という俗語は、もともと東京の言葉だったらしくて、夏目漱石の『三四郎』にも出てくるんですね。◇先日のNHKの「究極の短歌・俳句100選」に、によつぽりと秋の空なる不尽ふじの山という江戸中期の俳句が出てきたものだから、この「にょっぽり」は、一方では、井上ひさしの「ひょっこり」にも似てるけど、他方では「のっぽ」にも関係してるんじゃないかと思ったわけ。(ただし、俳句を詠んだ上島鬼貫は江戸じゃなくて伊丹~大坂の人です)ちなみに「にょっぽり」は、"平らな所から物がとび出る様子""抜きん出て高い様子"を意味する副詞で、同義のものとしては「にょっこり」や「にょっきり」などもあり、いずれも江戸時代に使われていたらしい。俳諧・鸚鵡集(1658)「花の真によつこりと出るや玉椿」俳諧・信徳十百韻(1675)「朝夕の嵐を送る松の坊 やぶれし甍峯にによつきり」俳諧・大悟物狂(1690)「によつぽりと秋の空なる不尽の山」浄瑠璃・本朝二十四孝(1766)「椽がはにまたによつほりと石燈籠」現在の日本語にも「にょきっと」のような形で残っていますね。◇井上ひさしも使った「ひょっこり」は、鎌倉初期に使われていた「ひょくり」からの転といわれていて、その「ひょくり」は鴨長明の『続無名抄』に出てくるのだそうです。これと似た意味の言葉として「ひょっと」という副詞もありますが、こちらは江戸の初期に生まれたものだそうです。つまり「ひょっと」よりも「ひょくりと」のほうが古いわけですね。平安時代には使われていた「ふと」という古い副詞から、江戸になって「ひょっと」という副詞が派生したとの説も見受けますが、むしろ「ひょくりと」から「ひょっと」が派生したと考えるほうが分かりやすい。もっとも、平安時代の「ふと」という言葉が、現在と同じように「huto」と発音されていたとはいえず、どちらかといえば「pyutto」みたいな発音だったのかもしれませんが。◇かたや「のっぽ」の語源を調べてみたところ、なにやら韓国語由来だなんて学説もあるのだけど、…まあ、ふつうなら、「とんぼ(飛ん棒)」や「あめんぼ(雨ん棒/飴ん棒)」と同じように、あるいは、「赤ん坊」や「暴れん坊」や「食いしん坊」などと同じように、「伸っ棒/伸っ坊」だと考えるのが自然です。そこから派生して、「のっぽり」だとか「にょっぽり」のような擬態語が出てきたとしても、それほど不自然ではない。…ただし、「のっぽ」が近代の東京で生まれた俗語だとすれば、発生の順序が逆なので、この説は成り立ちません。実際、「のっぺり」や「のっぺらぼう」などの言葉は、すでに江戸時代には存在したようなのですが、「のっぽ」の用例が江戸に遡るという情報は見当たらない。「ひょっと」より「ひょくりと」のほうが古いのと同じで、「のっぽ」よりも「のっぺり」や「にょっぽり」のほうが古いのかも。いずれにしろ語源俗解の域を出ませんが!◇ついでながら、まったくの余談ですけど…東京の「日暮里」(にっぽり)の語源は、新しい開拓地を意味する「新堀」(にいぼり)だそうです (^^)
2022.08.16
次こそはと捲る浴衣にはぜる水 琉金の絵はがき二枚かき氷 夏祭り金魚に心すくわれて 秋ちかし予期せぬ家族赤い君 私のいない部屋長生きの金魚 浄水場の金魚懐メロのサビ 金魚鉢金魚のいなくなる屈折プレバト俳句。お題は「金魚すくい」。今回は理解不能な句が多かった!!わたしの頭が悪いだけ??◇犬山紙子。私のいない部屋 長生きの金魚唯一、理解できたのはこの句だけ!…ただし、作者自身は「別れた恋人の部屋の金魚」を描いたらしいのですが、わたしは「長期出張中でも元気に生きている自室の金魚」かと思いました。あるいは、重い病気で「長期入院中」とも読めます。前後を逆にして、長生きの金魚 私のいない部屋とすれば(句またがりながら)定型のリズムになるし、冒頭を「わたくし」と読むか「わたし」と読むかも迷わずに済むのだけど、あえて破調にしたのは、たぶん「金魚だけが残っている」という余韻を狙ったのでしょうね。いつもながらモノローグ的な作風です。◇植田紫帆。次こそはと捲まくる浴衣にはぜる水これが今週の1位でした。…しかし、はたして字面だけで「金魚すくい」だと分かるんでしょうか??わたしには、水溜まりをジャンプしようと裾まくりをしてるようにも見えるし、腕まくりをして石切りなどの川遊びをしてるようにも見えるし、腕相撲に興じる人物へ横から水鉄砲を浴びせたようにも見えます。金魚じゃなく、水風船を釣っているのかもしれない。そういう「誤読込み」での高評価なら容認できますが。◇キスマイ横尾。浄水場の金魚 懐メロのサビこれも1ランク昇格でしたが、やはり読んだだけでは理解しがたい内容。作者によれば、「浄水場の金魚」が《水の安全性》の描写、「懐メロのサビ」が《平和》の描写だというのですが、読んだだけではどちらの意図も理解できないし、その観念どうしを取り合わせる効果もまったく伝わらない。たしかにネットで調べれば、「浄水場の金魚」が《金魚を犠牲にした水の安全性》を意味するのだと理解は出来ます。映像を思い浮かべるのも困難だけど、つまり《浄水場に有線放送が流れてた》みたいな解釈でいいんでしょうか?◇フジモン。金魚鉢 金魚のいなくなる屈折これも1ランク昇格でしたが、やっぱり字面だけでは理解しがたい。この「屈折」とは、はたして心の屈折なのか?光の屈折なのか?わたしはてっきり金魚が死んだのかと勘違いして、つい「フジモンらしからぬ句だなー」と思ってしまいました。あえて2カットに分けてるのも解せないし、なぜ「金魚」の語を反復させてるのかも分かりません。わたしが思うに、鉢の屈折に消え出る金魚かなとか、屈折に魚影が消ゆる金魚鉢とでも書かなければ伝わらない内容じゃないかしら?◇望月理恵。秋ちかし 予期せぬ家族 赤い君あっさりと家族となりぬ 出目金魚(添削後)これもまったく理解不能。横尾が言ったとおり「ホラー」に見えます(笑)。三段切れなのも欠点ですね。ちなみに添削は中七で切れています。(連体形ではなく終止形なので)倒置法だと解釈すれば容認はできますが、これはたぶん先生のミスだろうと思います。◇石塚英彦。夏祭り 金魚に心すくわれて生き難き時代 金魚はいきいきと(添削後)「夏祭り」と「金魚」の季重なり。内容はまあ理解できますが、「掬う」と「救う」のダジャレ、「金魚が心を救う」という擬人化&心情表現、などに溺れた結果、映像の客観性に乏しい。◇鈴木絢音。琉金の絵はがき二枚 かき氷絵はがきを買う 琉金とかき氷(添削後)これも「琉金」と「かき氷」の季重なり。なぜ「琉金の絵葉書」が2枚なのか?同じ絵柄の葉書が偶然2枚届くことはないだろうから、これから2人の誰かに葉書を出すのだろうな…幼い兄弟(or姉妹)がお揃いの葉書を買ってきたのかな…などと解釈しました。しかし!!作者いわく、「琉金の葉書2枚と、かき氷の葉書1枚(合計3枚)を買った」とのこと!この不可解な説明のせいで、まれにみる大幅減点を喰らったものの、字面だけ見ると、なぜか悪くない句なのですよね(笑)。まぐれ当たりにもほどがあります。なお、先生のこの添削はだいぶデタラメ(投げやり?)だと思います…。
2022.08.15
今年の3月にBSプレミアムで放送された、完全保存版「絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」。Eテレでは現在、テーマ別に再構成した「ベストセレクション」が放送中です。全6回のシリーズ。初回のテーマは「時代と戦争」。ほとんどすべてが型破りな句でした。NHKプラスで8/17(水) 午後10:59 まで配信。出演:風間俊介、ヤマザキマリ選者:岸本尚毅、宇多喜代子、復本一郎ナレーター:梶裕貴、茅野愛衣◇中村草田男。降る雪や 明治は遠くなりにけり(昭和戦前)切れ字「や」と「けり」を重複させている。もとをただせば、獺祭忌だっさいき 明治は遠くなりにけりという素人作品の剽窃ではないかと疑われており、一種の戯句ざれくとも評されてるようです。つまり、中七・下五のフレーズは、一種のパロディというか、出来合いのコピーライトみたいなものであって、そこに中村が「降る雪や」を取り合わせたようにも思える。だとすると、二つ目の「けり」の切れ字は相対的に弱いのかもしれません。ちなみに選者の岸本尚毅は、「徹底的にポピュラリティを追求したのかな」と話していましたが、たしかに素人の原句以上に通俗的なのですね。◇渡邊白泉。戦争が廊下の奥に立つてゐた(昭和戦前)無季の句。非常に不気味なのですが、いわゆる客観写生とは対極にあるような、比喩的で観念的なイメージです。ある種の幻視体験とか予知体験のようにも思えます。◇松尾あつゆき。すべなし 地に置けば子にむらがる蝿(昭和戦後)破調句。風間俊介も話していましたが、冒頭を「すべもなし」と5音にするのではなく、あえて4音にすることで、読み手を突き放すようです。絶句するしかありません。◇金子兜太。彎曲し火傷し爆心地のマラソン(昭和戦後)無季の句。5・4・6・4の破調。これも客観写生ではなく、作者の幻視なのですね。一種のフラッシュバックなのかもしれませんが、広島・長崎の句には、そのようなものが多い気がします。岸本尚毅は、「実景は爆心地のみ。それ以外はすべて暗喩」との説を述べました。やはり比喩的で観念的なイメージなのでしょう。幻視といえば、「兵どもが夢の跡」とか「夢は枯野をかけ廻る」…などの芭蕉句も思い出されます。ーー戦争関連の句はここまでです。◇上島鬼貫。によつぽりと秋の空なる不尽ふじの山(江戸時代)冒頭の変なオノマトペ。江戸っ子らしい人を喰ったような俳諧味。中七の「~なる」は「~にある」の意味ですね。「富士」や「不二」でなく「不尽」としたところにも、秋空の高さを軽く凌ぐような「にょっぽり感」が出ています。≫追記:これとあわせて「のっぽ」の語源 についても書きました。◇河東碧梧桐。赤い椿白い椿と落ちにけり(明治時代)6・7・5の破調で、動画的な場面を綴っています。まずは赤、つぎに白、…と落ちて、最後の「けり」は《詠嘆》ともいえるけど、「に+けり」の形から考えても、落ちてしまった…、という《完了》の意味合いが強い。動画のエンディングで沈黙しているような余韻。◇阿部完市。木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど(昭和戦後)5・8・6の変な破調。これも実景ではなく、「アフリカでも眺めた気分になっている」という主観の句。あるいは「ごっこ遊びをしているときの台詞」かもしれない。戦前から戦後にかけて、「のらくろ」とか「冒険ダン吉」とか「少年ケニア」とか、南洋やアフリカを探検するような漫画がたくさん流行ったし、現在では差別表現と言われてしまうけど、当時はアフリカの黒人を「くろんぼ」などと呼んだりして、60年代になると、腕にダッコちゃん人形をつけるファッションも流行りました。※わたしが生まれる前の話です!テレビもなかった時代だとすると、見知らぬ「異世界」への憧れや好奇心をもって、子供も、大人も、いろんな《ごっこ遊び》をしていたんでしょう。めいっぱいに原色的な想像力をはたらかせていたのでしょうね。これを日本の帝国主義時代の「外地」のイメージの残響と考えれば、まったく戦争と無関係な句だとも言いきれません。追記:1974年の句集(にもつは絵馬)に収められた作品らしいので、むしろ《テレビ時代の俳句》というべきですね。
2022.08.14
夏の空シャチの耳骨に響く笛 炎天や最前列のイルカショー さらば夏イルカも君も泡と消え 黄金色はずむ岬に秋近し 旱星水槽のグッピー揺れる 油照りナポレオンフィッシュの旦那 吠えたけるアシカのミリア夏の雲プレバト俳句。お題は「水族館」。◇アインシュタイン河井。夏の空 シャチの耳骨に響く笛夏空や シャチの耳骨に響く笛(添削後)うまく言えないけど、湿気のない「カーン!」とした夏の空気感がありますね。音を伝導する夏の空気そのものを詠んだような句。◇フルポン村上。吠えたけるアシカのミリア 夏の雲これも、うまく言えないけど、生命力が内側にこもらず、夏の空へ「カーン!」と抜けていくような感じ。◇ゆうちゃみ。炎天や 最前列のイルカショーシンプルな構成が上手くいきました。ショーの臨場感のなかへ没入している間の、盛夏らしい熱気、そして興奮。◇キスマイ千賀。旱星ひでりぼし 水槽のグッピー揺れる上の3句はカラッとした夏の句でしたが、こちらは、あまりに乾ききってしまった不穏な夏。わたしは動詞「揺れる」の是非かなと思いました。ゆらゆら泳ぐことを「揺れる」とは言わないだろうし、これは、描写というよりむしろ、「旱星の下で作者の気持ちが揺れている」…という主観的な印象を表現しているように見えます。◇立川志らく。油照り ナポレオンフィッシュの旦那我が汗の鼻先にナポレオンフィッシュ(添削後)こちらは一転して、ギトギトした蒸し暑さ。わたしは、この「油照り」という季語を知らなかったので、てっきり顔面の描写かと思いました(笑)。あるいは料理方法とか?実際には「風が無く汗ばむような日和」のことだそうです。読んだ瞬間、「ナポレオンフィッシュのような旦那」 (脂ぎったナポレオンフィッシュみたいな顔の夫)のことかと思ったわけですが、作者の話を聞くと、逆に、「旦那のようなナポレオンフィッシュ」 (金持ち旦那みたいな表情のナポレオンフィッシュ)のことだそうです。しかし、この直喩では誤読するなといわれても無理。◇武田真治。黄金色はずむ岬に秋近し秋近き美国黄金岬びくにおうごんみさきにて(添削後)これはほとんど秋ですね。黄金色の魚が海に跳ねているのかと思いました。それならそれで成立しそうな気もするけど、内容的に、豊漁の秋の句って感じです。◇平野ノラ。さらば夏 イルカも君も泡と消えさらば夏の恋よイルカよ 泡と消ゆ(添削後)全体に比喩的で映像が乏しい。80年代の歌謡曲の世界?山下達郎に感化されすぎ?バブル経済とともに終わっちゃったって話?なお、歳時記によって違いはあるものの、「金魚/鯉/熱帯魚」や「クラゲ/エイ」は夏の季語、「アザラシ」は春、「クジラ/サメ/イルカ」は冬の季語らしいのですが、これを厳密にやると観賞用生物の俳句が詠みにくいし、そこらへんは不問にしていくしかないのだと思います。
2022.08.01
メール産声送信ドバイは大夕焼 恋を終わらせ平日の海月見る メールぴこんぴこんシャワー中だってば 羽蟻わく今宵ロマンス詐欺メール アルパカを返す手配り雲の峰 白雨受くネットショップの段ボール 緋ダリアや「メール不達」のメール来る 社食から花火原稿音読す 月見草文箱の底に出さぬ文 夏の雲逝くな逝くなと文字叩く 夕涼の竹富未読メール百 晩涼のRe:Re:Re:セットリストの見せ場 故人との弾みしメール夜の秋 真夏来てサブスクのtrf 風鈴鳴る千の躊躇を弔ってプレバト俳句。お題は「メール」。今回は女性が上位を独占しました。水彩画などのアート系査定では、もともと女性が男性を上回ってましたが、俳句査定では、以前は男性ばかりが上位を占めていた。しかし、最近は、女性の特待生もだんだん増えてきて、ついに今回は女性陣が男性を圧倒した形です。そういえば芥川賞も直木賞も女性だらけ!◇順不同で、2位の犬山紙子から。恋を終わらせ平日の海月くらげ見る唯一の映像であるはずの「平日の海月」が、ある種の心情描写になっていて、最後の「見る」が主人公を浮かび上がらせる。2つの動詞「終わらせ」「見る」を重ねていますが、前回の、喪服着てメロンソーダの列に居るにおける「着て」「居る」と同じ構造で、動詞の使い方が、描写というよりモノローグ的なのですよね。◇1位の中田喜子。産声送信 ドバイは大夕焼おめでたい!景気がいい!そして壮大なスケール感!これは「ドバイ」という地名の勝利でもある。◇11位のかたせ梨乃。夕涼の竹富 未読メール百これも「ドバイ」と同様に、場所の具体性が功を奏してると思います。都会の喧騒から切り離された、ゆったりした時間の流れがおのずと対比される。◇3位の森口瑤子。メールぴこんぴこん シャワー中だってば本人はネガティブな意図で詠んだらしいけれど、ミッツが言うように、ちょっと嬉しそうですよね(笑)。よくもわるくも森口瑤子らしくなくて、なんだかアニメ声優みたいな俳句だなと思いました。◇以下も順不同で。安藤和津。白雨はくう受くネットショップの段ボール玄関先の「人気ひとけの無さ」にこそ詩情を感じます。段ボールが白雨を「受く」という動詞は擬人化した用法だけど、これも無人の状況のなかで功を奏してると思います。◇キスマイ千賀。緋ダリアや 「メール不達」のメール来るダリアは緋 「メール不達」のメール来る(添削後)原句は良く出来ている。かたや、「ダリアは緋」とする添削の論理はちょっと難しくて、これには賛否両論があるんじゃでしょうか。客観写生というよりも、ダリアへの「意味づけ」があまりに強調されすぎなのでは?◇勝村政信。夏の雲 逝くな逝くなと文字叩く夏雲や 逝くな逝くなと文字叩く(添削後)わたしも先生と同様に、かなり痛切な衝迫を詠んだ句かと思ったのだけど、本人の説明を聞くと、意外にそうでもなくて、「参列者たちのメールを打つ様子がそのように見えた」という作者のファンタジーだったのですね。◇梅沢富美男。月見草 文箱ふばこの底に出さぬ文悪くないと思ったけど、凡と言われてしまった…(笑)。ちなみに「ふばこ」という読み方をはじめて知りました。◇ミッツ・マングローブ。真夏来てサブスクのtrf先生からは「奥行きに乏しい」との評。たしかに薄っぺらいとも言えるし、いつものミッツらしい妖艶さは足りなかったですね。たぶん、本人的には、夏の歌謡曲にもじゅうぶん色気を感じてるのだろうけど(笑)。◇5位のフジモン。アルパカを返す手配り 雲の峰そもそも、「アルパカを返す」という状況が一般的ではないので、何のことを描いてるのか、まったく分かりませんでした。しかも、「手配てはい」ではなく「手配り」としたことで、手で何か配ってるのかな?と誤読してしまう。テレビやイベントなどの業界で働く人でなければ、ちょっと分からない言い回しじゃないでしょうか?かりに、「アルパカを返す手配や」とか、「アルパカの返却手配」なら、だいぶ誤読は少ないかもしれません。◇久代萌美。社食から花火 原稿音読す原稿を下読み 社食から花火(添削後)一瞬、「花火原稿」と誤読してしまいました。花火大会に行けない人のもとへ、花火の様子を伝える原稿が届いたのかな、と。説明を聞かないと、何の原稿なのかも分からないのですよね。添削句では、そういう読みの迷いや誤読の余地はなくなっています。◇4位の東国原英夫。羽蟻わく今宵 ロマンス詐欺メール切れがどこにあるのか迷いました。強いていえば、それが欠点かなと思う。「羽蟻わく / 今宵ロマンス詐欺メール」だと、古びた家屋と、なにやら「コンフィデンスマンJP」みたいな状況が、ちょっと不釣り合いになるけれど、「羽蟻わく今宵 / ロマンス詐欺メール」だと、2種類の《望まない害悪》が同等に響き合って、「古びた家屋」と「ロマンス詐欺」という不釣り合いが、かえって風刺や哀れみや滑稽味を生むのですね。◇キスマイ横尾。晩涼のRe:Re:Re: セットリストの見せ場本人いわく、「Re:」はメンバー同士のメールのやり取りとのことらしい。わたしは、てっきり歌詞のリフレイン(繰り返し)のことかと思いました。ライブが盛り上がって、リフレインが止まらないのかと。そもそも、読んだだけでは、ソロ歌手なのかグループなのかも判断できないわけですし。これも、ちょっと分かりにくいです。◇千原ジュニア。故人との弾みしメール 夜の秋中七「弾みし」の是非かなあ…。弾んでいたのはすでに過去のことだから、この動詞の躍動感が浮いてしまっている気がする。ちなみに「夜の秋」という夏の季語ははじめて知りました。◇最下位のフルポン村上。風鈴鳴る 千の躊躇を弔って秋川雅史の「千の風になって」のパロディに見えるけど、実際は、死者とは何の関係もなくて、「躊躇を弔う(=送信しなかった文言を消す)」という比喩であり、しかも「弔うのは風鈴である」という擬人化。詩情には優れてると思うけど、ちょっと分かりにくいです。
2022.07.24
髪結待つ客へ氷菓を出す母よ 在りし夏選ばなかったフレイバー 稽古後のピノは星形星涼し 風呂上がり火照るばあばとアイスの実 座席五度倒しアイスの蓋剥がす 青い氷菓を海に翳す放課後 ディッシャーを持って無敵な素足の子プレバト俳句。お題は「アイス売り場」。ちなみに、「アイスクリーム」と「氷菓」は一般に別物だと思うけど、俳句の世界では、後者が前者の訳語として使われるようです。両者を同義で用いるのは違和感もありますが、その場合の「氷菓」とは「氷の菓子」ではなく、いわば「凍ったミルク菓子」みたいな意味なのでしょうか?◇皆藤愛子。座席五度倒しアイスの蓋剥がす今週はこれがいちばん良かった。2つの動詞を連ねた動画的な描写。ゆっくりした動きと、主人公の表情が見えます。ささやかな自分だけの時間と空間ですよね。◇IKKO。髪結待つ客へ氷菓を出す母よ氷菓出す母よ 髪結待つ客へ(添削後)前回の「ケーキの苺」の句に続いて、生活感とリアリティのある内容。なかなか安定した才能を見せている。添削は、上六の字余りを解消する意味はあるだろうけど、倒置にする効果はそれほど感じられない。字余りについては、わざわざ「待つ」と書かなくても、髪結の客へ氷菓を出す母よで十分だろうと思うし、いっそ「母」という凡人ワードも除いて、髪結の客へ差し出す氷菓子としただけでも十分に情景は成立すると思う。◇伊集院光。在りし夏 選ばなかったフレイバーあの夏の選ばなかったフレイバー(添削後)この句の高評価はちょっと意外…。全体的に映像喚起力が弱いと思います。そもそも「フレイバー」と言っただけで、アイスクリームのことだと理解できるのかが微妙。おそらく紅茶のことだと考える人が多いだろうし、料理人なら、さらに多義的な解釈をするだろうと思う。ちなみに「フレイバーを選ぶ」とGoogleで検索すると、圧倒的に紅茶の情報のほうが多く出てきます。まあ、添削句のほうは、キャッチコピー的な意味でオシャレかもしれませんが…(笑)。◇酒井藍。稽古後のピノは星形 星涼し星形のピノ 稽古後の星涼し(添削後)てっきり「稽古後のピノ」って、ピナ・バウシュの愛称か何かかと思いましたが、同じ固有名でも、アイスの商品名なのよね。人名やアイスだけでなく、自動車とか、ロボットとか、アニメキャラとか、いろいろ誤読の危険性が多い固有名だと思います。型としては出来ているけれど、「星型」と「星」との取り合わせも面白味が薄いし、せいぜい、中の上ぐらいの句でしょうか。◇高城れに。風呂上がり 火照るばあばとアイスの実風呂上がり ばあばと私とアイスの実(添削後a)風呂上がり ばあばとれにとアイスの実(添削後b)型としてはしっかりまとまっていて、中七の「火照る」以外はとくに直すべき点も無いし、最下位とはいえ50点台は取れてるし、通常回なら2位か3位くらいの凡人句なのでしょうが…やっぱりねえ…これも商品名が引っ掛かる。てっきり「アイス」と呼ばれる植物があるのかなと思ってしまう。さらに添削後bは、「れに」と「アイスの実」って、さすがに固有名を2つも入れたら意味不明でしょ。…すでに一般名詞と化している商品名を、 "季語相当" と見なすのも悪くはないと思うけど、句の主役を商品にするわけでもあるし、たんなるCMコピーみたいになりかねません。そして、今回の「ピノ」とか「アイスの実」ってのは、かりに読み手がジジババじゃなくても、いろいろと誤読の可能性が高いかなと懸念します。◇キスマイ千賀。青い氷菓を海に翳す放課後なにやら嘘っぽくて作為的で嫌いな句だけれど!(笑)まあ、出来としてはとくに異論もありません。◇フルポン村上。ディッシャーを持って無敵な素足の子ディッシャーを手に無敵なる日焼の子(添削後)中七の「持って」は説明臭いので「手に」が正解ですね。家の中で裸足なのか、店内でサンダル履きなのか、…みたいな解釈論争については、正直なところどっちでもいいし、原句の「素足」のままでもいいような気はするけど、たしかに「日焼」のほうが「無敵」と釣り合いがいい、という先生の理屈も、まあ分かります。いずれにせよ、傑出した内容とは思えないのでボツで異論なし!比喩的表現としての「無敵」も、近ごろはいろいろと誤解されかねない語彙になってるし、なかなか積極的な評価がしにくい。
2022.07.18
屑かごにある七夕竹の死骸 またござれ七夕さんの人の和よ 病室の七夕竹に一礼すプレバト俳句。お題は「七夕」。今回は名人のみの査定でした。◇森口瑤子。屑かごにある七夕竹の死骸屑かごにある七夕かざり乾きをり(添削後)え??なぜ添削は字余りなの?上五は「屑かごの」でいいと思いますが?あえて「ある」と「をり」を重ねる意図が分からない。わたしは最初、屑かごに七夕竹の死骸ありに直せばいいかと思いましたが、中七下五の「死骸」という比喩を用いた大仰な描写についても、添削のように直したほうがいいでしょうね。◇中田喜子。またござれ 七夕さんの人の和よまたござれ 七夕さんのこの町へ(添削後a)またござれ 七夕さんのみちのくへ(添削後b)上五・中七は、地元の言葉を用いていて、人々の会話が見えます。しかし、下五でとたんに観念的になった感じ。かたや、添削の「○○へ」ってのも、親しみのある人々への視線から、いきなり俯瞰になって、なにやら第三者的な視点になってるように思える。もうすこし親しみのある映像にしたいので、やや比喩的ですが、またござれ 七夕さんの町懐ゆかしとしてみました。◇千原ジュニア。病室の七夕竹に一礼す先生は、「病院・病棟」ではなく「病室」と書いた点や、「一礼」した人物を読み手に想像させた点を評価しました。しかし、むしろわたしが気になるのは、「そこに病人がいるのかいないのか」という点です。すでに患者は死亡していて、虚しく短冊だけが残っているように見えるのです。はたして作者は、そのような誤読を望むでしょうか?その意味で、やはり「人」の描写こそ必要だと思う。「病室」だけの描写は無味乾燥で、ともすれば冷たすぎます。かりに「病床の」とすれば、その冷たさはだいぶ緩和されるはずです。
2022.07.13
万緑や多様性なる人の色 梅雨寒しロケの暇に鯛の汁 梅雨曇早朝ロケのカップ麺 焼きそばを啜る孤独な祭り笛 喪服着てメロンソーダの列に居る 雲の峰 ぱんっと乾いたピザの薪 祭果て開くや風の通り道プレバト俳句。お題は「キッチンカー」。◇篠田麻里子。万緑や 多様性なる人の色万緑や 百の国旗の色いくつ(添削後)まずは「多様性なる」という言い方が間違いですよね。たんに「多様なる」と書けばいいわけだから。もし、どうしても「多様性」という語を使いたいのなら、ふつうに「多様性(の)ある」と書くしかありません。さらに、内容的には、「万緑」と「多様な色」の二句一章なのですが、この取り合わせは、はたして「単色」と「多色」の対比(コントラスト)なのか?それとも「万」と「多」の類比(アナロジー)なのか?その意図もどっちつかずです。ちなみに、添削のほうは類比になってると思います。観念的な表現に挑んだ結果がかえって仇になりました。◇小手伸也。梅雨寒し ロケの暇いとまに鯛の汁梅雨寒し ロケの暇の鯛の汁(添削後)助詞の「に」が時間の説明になってるので、これを描写的に書くなら「の」とするのが正解ですね。◇キスマイ二階堂。梅雨曇 早朝ロケのカップ麺梅雨冷や 早朝ロケのカップ麺(添削後)小手伸也と似たような句。セオリーどおりに書けています。すでに世間は猛暑だというのに、どちらも寒さのなかで暖をとってるみたいな句でしたが…(^^;◇三四郎・小宮。焼きそばを啜すする孤独な祭り笛焼きそばを啜る祭りの夜よを一人(添削後)孤独なのは「主人公」なのか?「笛吹き」なのか?そこに誤読の可能性があります。作者自身が言ったように、焼きそばを啜る孤独な夏祭りと書けば、そういう誤読はなかったし、かりに「祭り笛」を使うとしても、焼きそばを啜る孤独や 祭り笛と、二句一章にすれば誤読の余地はありませんでした。ただし、「孤独」という語は実景じゃなく心象というべきなので、あまり俳句にはふさわしくないし、事実、添削句ではこれを排除しています。とはいえ、先生の添削は語順が変ですし、(「啜る」の主体と「一人」の人物は同じなのに、何故わざわざ切り離すの?)ワンフレーズに「を」を二度使ってるのも気に入らない。(「カエルを食べる鳥を食べる猫」みたいに目的語が入れ子状態になってる)一般的な語順なら、焼きそばを独り啜れる祭りの夜のように書くのが妥当じゃないでしょうか。※「啜れる」は《啜る+存続の助動詞「り」》の連体形です。そのうえで、原句の「祭り笛」を活かすなら、焼きそばを独り啜れば祭り笛とすることも出来るし、焼きそばを独り啜るや 祭り笛のように二句一章にも出来ます。◇犬山紙子。喪服着てメロンソーダの列に居るこれは「着て」「居る」という動詞の是非。本来の客観写生なら、こうした動詞は必要なく、メロンソーダの列に喪服の女のように名詞だけで成立するはずですが、この句では、あえて動詞を使ったことで、「客観写生」ではなく「作者の内言(心の台詞)」なのだと分かります。これも、ひとつの技法だろうと思う。内容もさることながら、文体の面でも功を奏して75点という高得点でした。◇フジモン。雲の峰 ぱんっと乾いたピザの薪厳密にいうなら、乾いているのは「ピザ」なのか?「薪」なのか?…という誤読の可能性がないとは言いきれないし、そもそも「ピザの薪」という言い方がやや唐突なので、地名の「ピサ」などと混同する人もいるかもしれません。けれど、それを差し置いても、あえて中八にしてまで、「ぱんっ」という予想外の擬態語を強調して、冬の薪ならぬ夏の薪という変わり種の素材を描写した独創性が、積極的に評価されたのだろうと思います。下手するとボツかなと思ったので、2ランクの昇格はちょっと驚きでしたが…。◇梅沢富美男。祭果て開くや 風の通り道二句一章に見えますが、実際は「祭果て風の通り道開く」を倒置したものなので、内容的にいえばワンカットの句です。議論になるとすれば、「果つ」「開く」「通る」と動詞が3つ並んでいて、しかも「開く」と「通る」に重複の疑いがある点でしょう。実際、「風が通る」といえば「道開く」は不要じゃないか?「風の道開く」といえば「通る」は不要じゃないか?そういう意見はありえると思います。ただし、あえて「通り道」と言わなければ、縁日の参道のイメージが見えにくいのは確かだし、さらに「開く」という動詞を使ったのは、たんに「道が開ひらく」という意味だけでなく、人混みが消えて「空間が空あく/開ひらける」みたいな含意とか、あるいは「人の祭り」が閉じて「風の祭り」が開く、…みたいな比喩的な対比があったからかもしれません。なお、「祭り」は夏の季語ですが、祈願の「春祭り」、感謝の「秋祭り」に対して、夏の「祭り」には悪疫退散の意味があるとのこと。いわばお祓い、浄化なのですね。…まあ、それでも、わたしなら、やはり動詞をひとつ減らして、祭果てふたたび風の通り道とするか、あるいは「閉ず」と「開あく」の対比で、祭閉じふたたび風の道の開くのようにしたいです。
2022.07.03
夏いよよサンドバッグは歪みけり 延長の末に引き分け夏の月 バーディで上がるホールや青葉木菟プレバト俳句。お題は「ガッツポーズ」。今回は名人3人のみ。いろいろ難解な要素をはらんでいて、どう評価すべきか悩まされました。◇千原ジュニア。夏いよよ サンドバッグは歪みけりセオリー通りの型なので、切れ字の「けり」は何の問題もありません。他方、助詞の「は」は、通常ならば「の」にとどめるべきですが、まあ、この場合は、あえて「は」を用いて、サンドバッグの異様さを際立たせるのが正解かもしれません。どちらかというと、俳句よりも、 ↓冗談ポパイのほうれん草 ↓あっさり村上チンゲン菜 ↓冗談富美男の空心菜の七五調のほうがお見事でしたが(笑)◇フルポン村上。延長の末に引き分け 夏の月ボツでした。原句も、試合の《熱狂》と試合後の《涼しさ》が対比されてるので、その意味では、ちゃんと詩情が季語に乗っています。しかし、先生は、観戦した人物の心情まで季語に託せ、とのダメ出し。すなわち、「負けずに済んだ」という安堵ならば、延長の末に引き分け 月涼し(添削後a)のようにすべきだし、「勝てなかった」という悔しさならば、延長は引き分け 夏の月赤し(添削後b)のようにすべきだというわけです。…たしかに、原句は、中七の「末に」という一語に、熱戦にのめりこんだ心情が乗ってると思うのだけど、季語のほうが淡白にすぎて、その心情に釣り合わない気もします。しかしながら、かりに、どちらのチームを応援するでもなく、第三者的な立場で観戦していたのならば、引き分けた両者の奮闘を褒め称えるような心情でしょうから、原句のように、月の涼やかさや清々しさを描写すれば十分だとも思う。なので、わたしなら、原句のままで掲載決定にします。…なお、(添削後b)にかんしては、本来なら「延長 戦 が引き分け」と書くのが正確であり、省略とはいえ「延長が引き分け」ってのは、ちょっと雑です。この「延長」という主語に、助詞の「は」を使ったことで、「延長は(勝負が)引き分け」という提示語に見えなくもないのだけど、(いわゆる「象は鼻が長い」的な用法)…まあ、それはさすがに考えすぎでしょう。むしろ、「延長するも勝負は引き分け」という意味で、「延長も引き分け」と書くほうが文法的には許容しやすい。◇梅沢富美男。バーディで上がるホールや 青葉木菟あおばずくバーディで上がる青葉木菟のホール(添削後)これもボツ。バーディで上がったことを詠嘆するのは幼稚にはしゃいでるのに等しい、とのダメ出しです。とはいえ、添削句のほうも、なんだかパッとしません…。助詞の「で」が説明くさいってのもあるけど、(「バーディという結果をもって上がった」という意味なので、手段の助詞というより結果の助詞ですね)わたしは、そもそも「ホール」という語が不要なのだと思う。かりに「ホール」というのが、最終18番の「グリーン」のことであるならば、それはすでに「バーディ」の一語によって見えている映像です。というよりも…たぶん梅沢自身は、コース全体を回り終えることを、慣用的な言い方で「ホールをあがる」と書いてるだけで、じつは「ホール」という語そのものには映像がなく、たんなる説明でしかないんだろうと思う。実際、たとえば句またがりですが、最後はバーディ 愉快なる青葉木菟のように書いただけでも意味は通ります。わざわざ「ホール」なんて書かなくてもいい。ホールのないバーディがあったら持って来い!…って話です。さらに、わたしとしては、青葉木菟の「姿(視覚)」か「声(聴覚)」かを明示すべきだと思うので、字余りですが、バーディの十八番 青葉木菟鳴けりとしてみました。
2022.06.25
虫食いのクーポン埋める梅雨の星 夏休み余ったお金で氷菓子 嵩を増し藻の花飾る井戸の水 白南風や郷里へ急ぐ乗車券 夕虹のA席タイムラプスの街 帰省してゐる周遊のついでかな 赤札のプードルを抱く帰路夕焼プレバト俳句。お題は「クーポン」。◇ミキ亜生。夏休み 余ったお金で氷菓子クーポンや 浮いたお金で買うアイス(添削後)これが最下位でしたが…たしかに、季重なりであり、手段の助詞「で」が説明的ではあるものの、「夏休みの最後の小遣いでアイスを買った」という句材そのものは率直で悪くない。むしろ1位の句よりも材料は良いと思います。ためしに、(助詞の「も」は安易に使いたくありませんが)季重なりを回避するための苦肉の策として、「夏休みも小遣いも残りわずか」という意味を込め、小遣いも尽きた今年の氷菓子小遣いもこれにて終わり 氷菓子小遣いも残りわずかや 氷菓子などとやってみました。◇本髙克樹。虫食いのクーポン埋める梅雨の星虫食いのクーポン 梅雨の星ふえて(添削後a)虫食いのクーポン 梅雨の星ふゆる(添削後b)これが今週の1位だったのだけど…ミキ亜生の句材の率直さに比べて、「虫食いクーポンの隙間から梅雨の星を見た」という場面は、かなり芝居じみていて嘘くさい。とくに「埋める」という比喩・擬人化がウソっぽいのです。とはいえ、添削句のように、この「埋める」という動詞を排除して、「クーポン」と「梅雨の星」の取り合わせにすれば、原句のようなウソっぽさは回避できます。わたし自身は、「梅雨の星ふえて」と動的に描写するより、「梅雨星の満ちて」と静的に描写すべきだと思いますが。もしくは、ことさら増減の対比(クーポンが減り、星が増えた)にこだわらずとも、クーポンに虫食い数多あまた 梅雨の星虫食いのクーポン券や 梅雨の星でもいいんじゃないでしょうか?◇高島礼子。嵩かさを増し藻の花飾る井戸の水嵩を増す井戸水 藻の花の白し(添削後)え??井戸のなかで藻の花が咲いたってこと?…番組の映像は、井戸じゃなく池の藻のようでしたが??だとすれば「井戸水」でなく「湧き水」なのでは?…それはともかく、本髙克樹の句の「埋める」と同様に、高島礼子の句も「飾る」というクサい擬人化が難点です。ためしに、「井戸」を「池」にあらためて、水嵩を増す池の藻の花白しとしてみました。なお、この句の季語は「藻の花」ですが、もし「藻」と「花」のカットを分けることが許されるなら、水嵩を増す池の藻や 花白しのようにも出来ます。◇音月桂。白南風しろはえや 郷里へ急ぐ乗車券郷里ふるさとへ 音楽学校夏休み(添削後)原句はセオリーどおりに作っているものの、中七の「急ぐ」という動詞が、主人公の走る描写なのか、あるいは心理描写なのか、はたまた乗車券の擬人化なのか、焦点が絞りきれず、あまり映像が鮮明ではない。いっそ取り合わせはやめて、ワンカットにしたほうがいい。ためしに、郷里への切符をはたく南風なんぷうよとしてみました。なお、添削句のほうも、ほとんど状況説明的で映像が見えにくいし、上五で切ったつもりでしょうけど、まるで中七で切れるように見えるので誤読を招きます。◇キスマイ横尾。夕虹のA席 タイムラプスの街これは、いろんな解釈ができる句。まずは「A席」ですが、野外劇場なのか、列車なのか、飛行機なのか分かりません。かりに列車や飛行機の窓際の席だとしても、その景色が「タイムラプスのようだ」という比喩なのか、それともスマホなどでタイムラプス動画を見ているのか分からない。番組でもハッキリした解釈は示されませんでした。まあ、スマホで動画を見ているなら窓際の席である必然性がないし、やはりこれは「タイムラプスのようだ」という比喩なのでしょう。わたしも、あくまで「比喩の句」として面白いと思いました。ちなみに野外劇場の「A席」だと解釈しても、周囲の夜景や人や星の動きをタイムラプスに見立てることは出来ます。◇東国原英夫。帰省してゐる 周遊のついでかな掲載決定だそうですが、ずいぶんと変な句です。…まずは切れ字の「かな」について。先生は、売り言葉に買い言葉で、梅沢の過去の句がすべて間違いであるかのように言いましたが、あきらかに今回の東国原のほうが議論を呼ぶ用法だと思う。一般に「かな」を使う場合、途中で切れを入れるべきではないのだから。意味のうえでも、この切れ字は、はたして「詠嘆(…だなあ)」なのか、それとも「自問(…かなあ)」なのか、はたまた「同意要求(…だよね)」なのか、よく分かりません。さらに、内容全体でいうと、この句にはどこにも実景描写がなく、たんに「周遊ついでに帰省している」という状況説明があるだけ。強いて描写らしきものがあるとすれば、それは「後ろめたい」という心理描写でしかない。何故この句が評価されたのか、ちょっと理解できません。まあ、ボソッとした呟きのなかに、ある種の味わいがあるといえば、そうかもしれませんが…。◇梅沢富美男。赤札のプードルを抱く帰路 夕焼ゆやけこれも掲載決定。あがた森魚の「赤色エレジー」みたいで、なにやら妙にセンチメンタルな世界…。あまり好きな句じゃないし、とくに優れているとも思わないけど(笑)まあ、欠点というほどの欠点もないし、掲載決定でも、とくに異議はありません。
2022.06.19
梅雨夕焼タイムセールへ駆ける父 鼻に汗最後のグミを舐める吾子 母老ひて濡れ傘杖に苺買ふ 前の人頼む!頼むな!ラス苺 雷声や絶島のロンサムジョージ 清貧の菓子屋青簾に忌中 言の葉や追えば消えゆく夏の蝶プレバト俳句。お題は「最後の一個」。◇高橋克実。梅雨夕焼ゆやけ タイムセールへ駆ける父しっかりとセオリーにのっとった句です。水溜りを避けて清々しい夕暮れの町を走る父の姿には、どこかホッとするよう懐かしさや安心感もあります。◇小籔千豊。前の人頼む!頼むな!ラス苺苺ケーキ残り一つの列にゐる(添削後)原句はまったく意味不明!わたしなりに、列の客 苺のケーキあとひとつと直してみました。◇藤真利子。母老ひて濡れ傘杖に苺買ふ苺買ふ母よ 濡れ傘杖として(添削後)原句に問題があるとすれば、・上五「老ひて」の是非・洋菓子屋ではなく果物屋に見えてしまう…ってことでしょうか?※ちなみに「老ひ」という仮名遣いは誤用で、旧仮名遣いであっても「老い」と書くのが正しいそうです。上五は、「母老いて」にすべきか「老いた母」にすべきか迷いますが、梅沢や先生が言ったように、老いの描写を「傘杖に」に託してしまうのが正解かもしれません。ただし、あえて「濡れ傘」とまで書いてしまうと、雨が降っていたときにはちゃんと傘を差していたことになるので、そのぶん「老い」の印象が弱まる気もします。倒置法を用いた添削で異論はないのだけど、やはり果物屋に見えてしまうという問題が残るので、わたしなりに、傘杖に苺のケーキ買ふ母よと直してみました。◇平井理央。鼻に汗 最後のグミを舐める吾子子の鼻の汗よ 最後のグミを舐め(添削後a)子の鼻の汗よ 最後のグミは舐め(添削後b)これは本来ワンカットの場面なので、途中で切れを入れるべきではありません。添削句も、倒置法なのかどうか不明瞭であり、やはりカットは割れているように見える。ためしに、おしまいのグミ舐める子の鼻の汗とワンカットに収めてみました。かりに季語だけ分離するとしても、おしまいのグミを舐める子 鼻の汗と下五でクローズアップにするほうが自然です。◇立川志らく。清貧の菓子屋 青簾に忌中先生の評価は「ワンランク昇格」でしたが、わたしならボツかなあ…。かなり微妙。たしかにストーリー性には優れている。しかし「忌中」はもちろん「清貧」などの語の印象が強く、結果的には季語が脇役になってる気がする。すくなくとも「清貧の」といった抽象語を使わずに、たとえば「粗末なる」「質素なる」「素朴なる」などの描写でも済むはずです。また、これも本来はワンカットの場面なので、途中に切れを入れるべきではありません。このままワンカットに収めるならば、清貧の菓子屋の青簾に忌中のようになります(破調の18音ですが)。かりに、そこから季語だけを分離するのなら、質素なる菓子屋は忌中 青簾のような型に収めることもできるし、そのほうが季語は立つかもしれません。もちろん助詞の「は」を用いず、質素なる菓子屋の忌中 青簾でも成立するだろうと思います。◇キスマイ千賀。雷声や 絶島のロンサムジョージいやあ、なかなか難しい句…。フジモンや横尾の、マンモスの滅んだ理由 ソーダ水遠雷の夜汽車 カカオの奴隷史などを思い出させます。つまり、この句も、失われた歴史への想像に、実景の季語を取り合わせているのですね。この取り合わせの距離感、そして季語のリアリティが評価の是非になる。先生の評価は「ワンランク昇格」でしたが、わたしの評価はどっちつかずです。季語から連想する歴史としては唐突すぎるし、逆に、歴史から季語を引き寄せたのだとすれば、むしろ季語のリアリティがちょっと嘘くさいと思う。◇梅沢富美男。言の葉や 追えば消えゆく夏の蝶言の葉や 追えば夏蝶風に消ゆ(添削後a)言の葉や 追えば揚羽蝶は風に(添削後b)言の葉や 追えば黒揚羽は風に(添削後c)ボツ。もともとは、「言の葉は、追えば消えゆく夏の蝶(のようだ)」という散文の形だったのでしょうね。その散文の主語と述語をわざわざ切り離し、そのうえで季語でもない主語を「や」で詠嘆し、むりやり俳句の形に仕立てたにすぎません。その結果、かえって本来の意図すら伝わりにくくなっている。たとえ散文から韻文へ変換するとしても、主語と述語を切り離したりすべきではなく、むしろ俳句にするためには、季語のほうを比喩から分離して映像化すべきです。ためしに、言の葉は追うほど遠し 夏の蝶としてみました。助詞の「は」を安易に用いず、言の葉の追うほど遠し 夏の蝶でも十分に成立するだろうと思います。
2022.06.12
夕立にすれ違いしか同級生 過雨あがり歩道橋より虹の端 夏服の肩擦れ合う傘底に 相合いに照れしまう傘梅雨はじまる 浮葉の雫止めるシャッターボタン 夕立や楽譜にカンマ書き入れる まず眼鏡次に手のひらすぐ夕立プレバト俳句。お題は「突然の雨」。◇フルポン村上。夕立や 楽譜にカンマ書き入れる雨の冷たさと、室温の暖かさ。外の雨音と、防音部屋の静けさ。天空の自然現象と、人間の知的で芸術的な営為。それらが対比され、さらには雨の切れ目ない「持続音」に対して、楽譜には「息継ぎ」の指示記号が書き込まれる。すぐに、サイフォンに潰れる炎 花の雨を思い出しました。それと同じくらいに好きかも。上質でオシャレ。お見事。◇新妻聖子。夕立にすれ違いしか 同級生級友か 夕立にすれ違いしは(添削後)意味の切れ目はないけれど、中七が「切れ」に見えてしまうのが唯一の欠点かな。添削のほうは、これを倒置法で解決しています。◇田中要次。過雨かうあがり歩道橋より虹の端虹の端はや 過雨あがりたる歩道橋(添削後)そもそも、すぐにあがるのが「過雨」なのだから、わざわざ「過雨あがる」などと書く必要はありません。あがらない過雨があったら持って来い!また、「雨があがったら虹が出た」ってのも当然すぎるし、わざわざ時間経過を説明するほどの情報ではない。さらに、中七の「より」について言うと、「歩道橋より虹が出る」のか、「歩道橋より虹を見る」のか、それによって作者の立ち位置が変わってきます。かりに前者であるのなら、虹の根元が歩道橋にあるのは自明なのだから、わざわざ「端」などと書く必要はありません。作者は「端」と「橋」を掛けたかったらしいけど、素直に「虹の橋」と書いて2つの橋を掛けるほうがマシでしょう。添削句には、とくに異論というほどのことはないけど、ためしに、薄墨の歩道橋より虹の出るとやってみました。◇大園玲。夏服の肩擦こすれ合う傘底に夏服の肩のふれ合う相合傘(添削後)下五の「傘底に」が意味不明。本人いわく、「相手の傘を使ったので、自分の傘は鞄の底に仕舞った」との意味だそうですが、さすがにそれは伝わらないし、17音では描き切れない。とりあえず、相手の傘か自分の傘かの話はいったん脇に措いて、夏服の肩擦れあう傘の下とすれば、(凡人句ではあるものの)意味は通ります。一方、先生と梅沢は、「擦れ合う」を「触れ合う」に直すべきと主張しましたが、わたしはべつに「擦れ合う」のままでも問題ないと思うし、むしろ、そのほうが、傘のなかに窮屈におさまってる2人の様子と、爽やかな夏服らしい素材感が出ると思いますし、いわゆる「衣擦れきぬずれ」を描写する美的観念は、日本人には伝統的なものじゃないでしょうか。◇相席スタート山﨑。相合いに照れしまう傘 梅雨はじまる走り梅雨 相合い傘はまだ早い(添削後)これまた意味不明でした。てっきり「相合傘をしたから照れた」と思いきや、本人いわく「恥ずかしさから相合を躊躇して傘を仕舞った」とのこと。それなら「相合を躊躇ためらう」「相合を後込しりごむ」とでも書くしかない。また、「照れしまう」ってのが、一瞬「照れ(て)しまう」の省略なのかなと思ってしまいます。せめて「相合いに照れしまう傘」を「相合いを照れ傘仕舞う」と書けば、そうした迷いは生じないのですが。添削には異論ないけれど、ためしに、相合をためらひ傘を仕舞ふ梅雨としてみました。◇キスマイ北山。浮葉の雫止めるシャッターボタンシャッターボタン 浮葉の雫ふくらみ来く(添削後)中七の「止める」が、前に掛かるのか、後ろに掛かるのかが分からない。つまり、「シャッターボタンが雫を止める」なのか。「わたしがシャッターボタンを止める」なのか。かりに後者と解釈したら、「浮葉の雫を見つけて、ガレージの電動シャッターのボタンを止める」みたいな誤読になりかねません。高度な破調などに挑んではいるものの、動詞の処理に対する意識がまったく欠けている。先生の評価はかろうじて「現状維持」でしたが、わたしから見ると「降格」レベルだと思います。なお、添削はなかなかアクロバティックな描写ですが、ためしに「フィルム」を4音にして、ふいるむに浮葉の雫とどめたりとしてみました。◇梅沢富美男。まず眼鏡 次に手のひら すぐ夕立ゆだちまず眼鏡 おでこ手の平 あら夕立(添削後)この三段切れは許容の範囲内だとしても、やはり「まず/次に/すぐ」という時間経過の説明が目につく。なかでも、ポツポツ来たあとに「すぐ夕立」になるのは当たり前なので、下五の「すぐ」はまったく不要な2音だろうと思います。添削では、「描写」の文体を「台詞」の文体に変更しています。そのほうが三段切れも自然な味わいになる。わたしなら、「あら」じゃなくて「ほら」にするかもしれませんが。
2022.06.06
老犬や腹見せ眠る薄暑光 五月晴れ肉球あつし初散歩 ソーダ水結露が染みる珪藻土 初口上頭垂れ見る若楓 帰省して貼られたままの犬シール 夕立晴モップのごと微睡む まろび来る仔犬に夏の陽の香りプレバト俳句。お題は「待て」。◇三田寛子。初口上 頭垂れ見る若楓わかかえで若楓 初口上の健気な手(添削後)原句は「子役」だけを描写しているので、本来なら切れを入れずに、ワンカットにすべき内容です。添削では、「子供の手が若楓のようだ」という比喩を排除して、あえて「若楓」と「子役」のツーカットにしています。はたして「若楓」と「初口上」の二語だけで、子供が座っている姿を想像させられるかは微妙ですが、たとえば、座礼にて初口上や 若楓のようなやり方もあるかもしれません。◇蛙亭イワクラ。ソーダ水 結露が染みる珪藻土待てできぬ仔犬とソーダ水の結露(添削後)原句が「ソーダ水の結露」の描写であれば、やはり本来はワンカットにまとめるべき内容です。かりに、ソーダ水 結露に湿る珪藻土とすれば、コップの「内側」と「外側」でカットを分けられる気もするけど、取り合わせとしては近すぎますね。むしろ添削のほうが、待てできぬ仔犬 ソーダ水の結露と17音のツーカットにすべきかもしれません。◇的場浩司。老犬や 腹見せ眠る薄暑光老犬は眠る 薄暑の腹さらし(添削後)内容的には「老犬」と「薄暑光」のツーカットなので、原句のままでは、切れの位置がおかしい。たとえば、腹を見せ眠る老犬 薄暑光としてツーカットに分けるか、それとも、いっそ、老犬が腹見せ眠る薄暑光とワンカットにまとめてしまうか。添削では倒置法のワンカットにしていますね。ちなみに、なぜ添削では助詞の「は」を使ったのでしょうか?それについての説明がありませんでした。本来、比較するものがなければ「が」or「の」にすべきですが。◇梅沢富美男。まろび来る仔犬に夏の陽の香りまろび来る仔犬は夏の藁の香よ(添削後)内容がやや平凡でしたね。添削句は「藁」を用いてオリジナリティを加えています。なお、この添削でも助詞の「は」を使っていますが、やはり比較するものが無いのなら、原句のまま「に」を用いるべきだろうと思います。◇小池美波。五月晴れ 肉球あつし 初散歩肉球のあつし 五月晴れの散歩(添削後)三段切れ。中七の「あつし」が「厚し/熱し」の二通りに読める。一方、添削句でも漢字を使っていないので、やっぱり「あつし」が二通りに読めてしまうし、そもそも散歩してるのが犬か猫か人間か分かりません。「散歩から帰ってきた猫」とも誤読できるし、「猫を抱きながら散歩してる人間」とも誤読できます。ためしに、飼い犬の肉球ほてる五月晴れとしてみました。◇千原ジュニア。帰省して貼られたままの犬シール(「犬」は〇で囲んだマーク)本来なら、季語を肯定的に用いて、上五で「帰省せり」と切るべきところを、あえて季語にマイナスの気分を込めた点が評価されました。なかなか難しい議論でしたが、たしかに詩情のある句だと思います。◇キスマイ横尾。夕立晴ゆだちばれ モップのごと微睡まどろむ犬夕立晴 モップのような犬微睡む(添削後)夕立晴 モップのように犬微睡む(添削後)添削では、原句の比喩を認めたうえで、その比喩対象が名詞なのか動詞なのかを明示していますが、わたしは、そもそも、モフモフした犬をモップに見立てる比喩が、さほど詩情に優れているとも思えないし、むしろ、比喩を排除して、夕立晴 微睡む犬とモップの柄としたほうが、かえって詩情が増すように思う。
2022.05.30
こどもの日ロボット削る刀削麵 二度見かな嫗の盛り飯扇風機 暖簾越し胃袋つかむ夏座敷 青山河シビレ驚き走り出す 夏めくや これより打ち出す中華鍋 空焼きの中華鍋背に胡瓜噛む 舌先を花山椒に噛まれけりプレバト俳句。お題は「町中華」。◇大友康平。暖簾越し 胃袋つかむ夏座敷夏きたる 町飯店のスープの香(添削後a)夏きたる 町飯店の醤油の香(添削後b)暖簾をくぐって、夏の座敷があって、美味しいものが出てくる… って、どこの食堂でも当たり前みたいな話。ごく一般的な説明をしただけの句ですね。なお、夏座敷という涼しげな季語は、兼題の「町中華」の座敷のイメージではない、とのこと。添削句のほうは、「町中華の香によって夏来る」というニュアンスになっていて、なかなか臨場感があります。◇久代萌美。こどもの日 ロボット削る刀削麵とうしょうめんこれが今週の1位。ただし、削らない刀削麵があったら持って来いっ!!…という意味では「削る」の動詞が重複にも見えます。◇篠原ゆき子。二度見かな 嫗おうなの盛り飯 扇風機嫗食う山盛りの飯 扇風機(添削後)中八と三段切れ。一般に「かな」は下五に置くべき。そして「嫗が飯を盛る」のか「嫗が盛り飯を食う」のか、そこに誤読の可能性があります。添削句は、山盛りの飯食う嫗 扇風機としたほうが主語と目的語の関係が明瞭だと思う。◇坂東龍汰。青山河 シビレ驚き走り出す山椒さんしょの実噛んでシビレて走り出す(添削後)実際は山椒の実にシビレたらしいのだけど、まるで風景にシビれちゃったように誤読されますね。しかも動詞が「シビレる」「驚く」「走る」「出す」の4つ。添削のほうも、「驚く」の感情語を「噛む」に置き換えて、動詞を4つのまま投げやりに放置しています。なお、原句が夏の季語として使った「青山河」は、まだ歳時記には未掲載の新しいものだそうです。かたや、「山椒」はそれだけでは季語にならないけれど、添削句の「山椒の実」は秋の季語になるそうです。ためしに、山椒に痺れる舌と青山河山椒の実噛んだ舌先 青山河などとしてみました。◇フジモン。夏めくや これより打ち出す中華鍋これよりの夏や 打ち出す中華鍋(添削後)映像をもたない時候の季語の詠嘆、やや格式ばった言い方「これより」を用いて、あえて中八にしたことの是非。良いのか悪いのかよく分からない…ちょっと評価が難しいです。◇フルポン村上。空焼きの中華鍋背に胡瓜きゅうり噛む中華鍋空焼き 蒜にんにくを剥きつつ(添削後)忙しさのなかの、ほんの一息。暑さのなかの、一瞬の涼しさ。黒い鍋と赤い炎に対して、青い胡瓜。シャキシャキした歯ごたえと音、野菜の味覚。さすがに対比の手法が手練れていますし、季語が脇役になっているわけでもないけれど、先生いわく、もうすこし季語を際立たせる質量が欲しい、とのこと。かなり高度なダメ出しです。かたや、添削句は、たしかに季語は立っているけれど、対比の鮮やかさでは原句に劣るかもしれない。◇梅沢富美男。舌先を花山椒に噛まれけり舌先を噛まれ花山椒ぴりり(添削後a)舌先を噛まれ花山椒かおる(添削後b)村上いわく、さほど鮮やかともいえない比喩&擬人化の是非wそして、切れ字の「けり」は、瞬間の驚きではなく、継続的状況への詠嘆として使うべき、とのこと。…ってことで、ボツです。一方、添削句は、はたして擬人化だと分かるでしょうか?わたしは "エロい場面" に見えてしまうと思いますが…。
2022.05.20
蝉時雨時もかき消すアスファルト 蝦蛄の山拓きし祖母の指の反り 初夏や白球と母の握り飯 夏の灯に子を眺めいる時計台 午後も片乳出したまま窓は初夏 夏蒲団 軸足のミサンガの跡 公園の夕焼煮詰まれば帰るプレバト俳句。お題は「時計」。◇郷ひろみ。初夏はつなつや 白球と母の握り飯初夏の白球 母の握り飯(添削後)これぞ王道的な添削!時候の季語は映像をもたないので、名詞と組み合わせて映像化する、ってことですね。◇貴島明日香。夏の灯に子を眺めいる時計台夏の灯や 子ら帰りゆく時計台(添削後)これは逆。すでに「夏の灯」は映像化できているので、そのまま「や」で詠嘆すればOK!そして「時計台が子を眺めいる」ってのは、初心者にありがちなクサい擬人化でした(笑)。◇YOU。蝉時雨 時もかき消すアスファルト蝉時雨 時をかき消すアスファルト(添削後)これが今週の1位。たしかに詩情にすぐれた句だとは思う。添削は「も」を「を」に直しただけ。しかし、本来ならば、ここでも、「アスファルトの熱が時をかき消す」という比喩と擬人化こそが問題になるはず。はたして「時をかき消す」という比喩が、すべての読み手に《アスファルトの熱》を感じさせるかどうか。正直、ちょっと微妙なところだと思います。たとえば、ですけれど、「人工的なアスファルトが自然の歴史を消している」みたいな誤読もありえるだろうから。さらに、意味ありげに「時」の字を2つ重ねてもいるのですが、とりたてて意味はなく、たんなる思わせぶりなのですよね。◇ZAZY。蝦蛄しゃこの山拓きし祖母の指の反り蝦蛄の山剥く祖母の指反り歪む(添削後)開拓を意味する「拓く」という動詞が、大袈裟すぎる、との理由で添削されましたが、おそらく、察するに、「山」の比喩に「拓く」の比喩を呼応させたのでしょうね。これもやはり「比喩に溺れた」がゆえの失敗だといえる。ちなみに、添削句のほうでは、「剥く」「反る」「歪む」と動詞が3つ並んでますが、指が「反り歪む」ってのも、これまた大袈裟でしょ!ためしに、大漁の蝦蛄剥く祖母の曲がり指としてみました。◇キスマイ北山。夏蒲団 軸足のミサンガの跡夕涼や 軸足のミサンガの跡(添削後)原句もソツがなくて悪くないかと思ったけど、先生いわく、「ミサンガのほうが主役で、季語が小道具になっている」とのダメ出し。たしかにそうですね。まあ、これは添削のほうが上でしょうか。◇梅沢富美男。公園の夕焼煮詰まれば帰る夕焼が煮詰まるまではまだ遊ぶ(添削後)先週に続いて破調句ですね。わたしも、先生と同じような読みで、てっきり「公園の夕焼」で切れるのだと思ったし、たとえば公園に句材などを探しに来て、夕方にアイディアが煮詰まった…みたいな話かと思いました。まさか「夕焼が煮詰まる」の意味だとは。最大の問題は、この「夕焼が煮詰まる」という比喩表現の是非。なぜ焼けてるものが煮詰まるわけ?日本語の感覚としておかしいでしょ。("焼けつく"のなら分かるけど)これは、添削もあわせてボツです。ためしに、夕空が焼けつくまでの夏遊びとしてみました。◇犬山紙子。午後も片乳出したまま 窓は初夏窓は初夏 寝ぬ子と授乳の片乳と(添削後)先生と梅沢は、「爺さんの片乳」みたいな誤読がありえるというけど、そんな誤読ってありえますか?ふつうは、人間であれ、動物であれ、母の乳房以外の「乳」なんて句材にしないでしょ?…わたしは、あくまで、助詞の「も」と「は」の是非が問題だろうと思います。上五の「午後も片乳」は、いわずもがな「午前も午後も」の含意ですよね。たんに「午後の片乳(片乳の午後)」と書いただけでは、作者の描きたい状況が表現できなかったでしょうから、あえて「も」を使った気持ちは理解できるけど、やはり映像描写というより説明になってるのは否めない。下五の「窓は初夏」は、映像描写に徹すれば「窓の初夏(初夏の窓)」とすべきところだけど、作者の意図としては、「窓の外は初夏なのに、屋内の子育ては季節を感じる余裕もない」との思いだったわけですね。これも気持ちは理解できるけど、やはり説明になってるのは否めない。…ちなみに、こちらも添削とあわせてボツです!「寝ぬ子」と「片乳」があれば、わざわざ中八にして「授乳」とまで書く必要はないし、かりに「は」と「も」を許容するのなら、窓は初夏 午後も寝ぬ子と片乳とでいいと思います。もしも「は」と「も」を排除するのなら、初夏の窓 片乳のまま子を寝かすのようになるかと思います。
2022.05.16
夏近し書肆の森ゆく子象かな 胸躍る図鑑に百獣春の宵 ノスタルジー鱒あてに読む魚図鑑 懐かしやタケノコ掘りを兄たちと 夏近し恐竜図鑑踏むチワワ 開き癖図鑑の虎に春夕焼 桜蘂降るハシビロコウ瞬くプレバト俳句。お題は「動物図鑑」。今回も、ちょこちょこと添削を添削しています。◇ファーストサマーウイカ。夏近し 書肆しょしの森ゆく子象かな暗喩が評価された稀有な俳句。本屋の図鑑コーナーよりも、むしろ絵本・童話コーナーが見えてきます。なんとなく宮沢賢治の「オツベルと象」っぽく見える。主観的な比喩には違いないのだけど、なぜか客観的なリアリティを感じさせるのは、たぶん実際の場面が、ちょっとファンタジックだからなのだと思う。上五で切ってるのに「かな」で締めるのは、一般的なセオリーに反してるけど、あまり気にならない。◇研ナオコ。懐かしや タケノコ掘りを兄たちと筍を掘りしかの日や 兄二人(添削後)夏井先生の《楽しいな俳句》では、最後に「楽しいな」を消去して季語に置き換えるのですが、いかにも初心者らしく感情語をそのまま詠嘆しちゃったと。ちゃんと消せよ(笑)。梅沢はほんとに指導してるの?…ところで、添削句は、中七を「や」で切ってます。本来、中七を「や」で切る場合は、下五に季語を置くのがセオリーだろうと思う。そうしないと、前段と後段のバランスが取れず、下五がたんなる付け足しみたいになってしまうから。先生はこのセオリーをあえて破ってますが、それについての解説もとくにありませんでした。ふつうに考えれば、カットを割る必要もないのだし、筍を掘りしかの日の兄ふたりでいいと思う。◇おいでやす小田。胸躍る図鑑に百獣 春の宵百獣の図鑑や 春の夕焼ゆやけはや(添削後)これも感情語を上五に置いちゃったのね(笑)。添削では、下五を「夕焼はや」としていますが、映像でなく時間の経過をいうのなら、むしろ「日暮はや」のほうが適当かな、と思います。ちなみに「春の暮」という季語は、本来は《春の日暮れ》でなく《晩春》の意味なので、作者はそれを使わなかったそうです。なるほど勉強になった!◇キスマイ宮田。ノスタルジー 鱒ますあてに読む魚うお図鑑鱒あてに子どもの頃の魚図鑑(添削後)これも感情語を上五に置いてしまった。添削句では、大人になった自分を主人公にしてます。しかし、作者自身は父を詠んだらしいので、その意図を活かすなら、鱒あてに魚さかな図鑑をめくる父のようになるかと思います。◇皆藤愛子。夏近し 恐竜図鑑踏むチワワかりに、「チワワ」の代わりに「赤子」だったら、ほのぼのとした情景に見えるだろうけど、最強のハチュウ類と、最弱のホニュウ類を対比したことで、なにやら、わたしには、進化の歴史を壮大に皮肉ってるように見えます。驕れる者も久しからず。苛酷な生物淘汰の句。◇千原ジュニア。開き癖 図鑑の虎に春夕焼春夕焼 図鑑の虎に開き癖(添削後)描かれた場面は、「図鑑」と「春夕焼」の2カットで構成されるのだから、原句は、切れの位置がおかしい。その意味で、添削が正解。なお、先生の解説では、《季語の「春夕焼」は差し込む光ではない》とのことで、助詞の「に」の役割に疑問を呈していました。…もっとも、助詞の「に」には《並置》の用法もあるので、(たとえば「月に雁」のような言い方)原句の用法が間違いだとまでは言えません。◇梅沢富美男。桜蘂さくらしべ降る ハシビロコウ瞬くえ、何これ?ほんとに梅沢が作ったの?2つの動詞を並置して、まるでスローモーション動画みたいに仕立てた破調の句。そもそも「ハシビロコウ」って、どっから出てきたの?あ、そっか。動物図鑑か…。ともかく、内容的にも、形式的にも、今までとはだいぶ作風のちがう驚きの一句。よくいえば型破りで放胆だけど、悪くいえば奇を衒ってるようにも見えます。ちょっと梅沢らしからぬ作品!それほど好きじゃないけど!(笑)
2022.05.09
亀鳴くやお辞儀が深いグラウンド 抱きしめた子の髪ふわり菖蒲の香 尾を張って猫も眺める鯉のぼり 飛び石の蛙声静まる靴の音 竹割つて垂直線のこどもの日 函嶺のスイッチバック朝燕 暁光や桜隠しの五稜郭プレバト俳句。お題は「ゴールデンウィーク」。なかなか勉強になりましたが…勝村政信が出場する回は、彼に対する評価の是非にかかわらず、いつも内容がハイレベルになりがちですよね。解説も、ちょっと難しいことが多い。「昭和の日」「憲法記念日」「みどりの日」までが春の季語、「こどもの日」からは夏の季語だそうです!知りませんでした…。◇キスマイ横尾。函嶺かんれいのスイッチバック 朝燕函嶺とは箱根山の別称だそうです。※「箱(はこ)の山」=「函(はこ)の山」ですね。スイッチバックするほど急峻だってことですが、なんとなく字面からも、北海道の「函館」のイメージなどが相俟って、いかにも寒冷・峻厳な山のように見えてくるし、それがまた朝燕の清々しい映像と響き合ってます。◇高橋真麻。抱きしめた子の髪ふわり 菖蒲しょうぶの香抱きしめる子に菖蒲湯の香のほのか(添削後)中七の「ふわり」は、下五の「香」と重複した無駄な音数合わせの感がある。まあ、添削の「ほのか」も音数合わせには違いないけど、原句よりは意味のあるものになってるし、やはり風呂上がりだと明示したほうがいいですね。◇ぼる塾田辺。亀鳴くや お辞儀が深いグラウンド亀鳴くや お辞儀の深きグラウンド(添削後a)亀鳴くや 一礼深きグラウンド(添削後b)口語で「お辞儀が深いグラウンド」と言うと、え?どゆこと?グラウンドさんがお辞儀してるの??…みたいになりがちだけど、なぜか文語で「一礼深きグラウンド」と言うと、情景も見えてきて不思議と成立してしまう感じはある。季語の「亀鳴く」は知りませんでしたが、のどかな春の昼、あるいは朧の夜の描写だそうです。◇勝村政信。飛び石の蛙声あせい静まる靴の音飛び石をゆけば蛙の声やみぬ(添削後)出ましたっ、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」のパクリ判定っ!…まあ、勝村に対する評価が、一般の出場者よりも厳しめってのはあると思います。一読したときには、とくにパクリだとは感じなかったのですけど、たしかに、添削句と比べてみると、原句がつまらないパロディに見えてきますねw…それはそうと、芭蕉の原句も原句で、「水のない池があったら持って来いっ!!」とか、「音のしない飛び込みがあったら持って来い!!」とか、総じて「水の音のしない池の飛び込みがあったら持って来い!!」とか、下五の必要性に疑問を感じるところはありますし…本当に《名句》と呼びうるのか怪しい面がありますwわたしなら芭蕉の句にボツッ!!◇梅沢富美男。暁光や 桜隠しの五稜郭桜隠しや 暁の五稜郭(添削後)季語ではない「暁光」を上五で切って強調し、下五にも重みのある「五稜郭」を置いた結果、中七の季語「桜隠し」が埋没してしまった、とのこと。これまた、なかなか高度なダメ出しです。その理屈は分かるのですが、あらためて原句と添削句を見比べてみても、ちょっと甲乙つけがたい気はします…。◇中田喜子。竹割つて垂直線のこどもの日竹を割る垂直線や こどもの日(添削後)これも、原句と添削句の優劣を判断するのは、正直、なかなか難しいと思うのですけど、ワンカットで穏当にまとめるよりも、ツーカットに分けることによって、あえて二物の衝撃性を強調すべきってことでしょうね。◇中川翔子。尾を張って猫も眺める鯉のぼり尾を立てる猫よ 鯉のぼりは風に(添削後)才能ナシの35点って、ちょっと厳しめの評価だとは思うけど、たしかに、いろいろ欠点はあるのですよね。上五の助詞「て」は、経緯の説明っぽいし、動詞の主語も曖昧なので、まずは「尾を張った猫」として動作主体を明確にすべき。また、中七の助詞は「も」である必要性がないので、ふつうならな「猫の眺める」とすべきですね。尾を張った猫の眺める鯉のぼりただし、「張った」と過去形にするよりも、「張る」と現在形にしたほうがいいし、そもそも「尾を張る」という独特な表現の是非も問われますし、「張る」「眺める」「のぼる」と動詞が多いのも欠点かもしれない。さらにいえば、猫の低い視界から考えると、高所にある鯉のぼりに関心を示すのは不自然に思えるし、かりに関心をもったとしても、大きくゆらめく鯉のぼりに警戒こそすれ、尻尾を立ててゴキゲンになるとは考えにくいのですよね。つまり、ここで詠まれてる情景ってのは、作者が頭のなかで空想しただけの、現実味の乏しいファンタジーじゃないかと思います。…ってことで、先生の添削では、この嘘っぽい因果関係を断ち切って、2カットの取り合わせに直しています。ちなみに、作者自身は、猫と鯉の両方に掛けて「尾を張る」としたらしいので、※助詞の「も」を使ったのは、たぶん「猫も鯉も尾を張る」の含意だったのでしょうね。添削句では、動詞を用いずに、風を吹かせることで鯉のぼりの尾を張らせています。
2022.05.02
菜の花を切って美容院に電話 春セーター息を潜めて白髪染め 初虹や隣で見てた夢の道 けふ母に梳かし洗うは春の虹 付け睫毛のやや剝がれたる春更けし 春の色絵本の並ぶ美容院 髭あたる泡の甘やか目借り時プレバト俳句。お題は「美容院」。今回は、わりと納得感のある内容でした。◇犬山紙子。菜の花を切って美容院に電話これが今週の1位。特待生に昇格だそうです。描いてる場面はなかなか魅力的ですね。シンコペーションっぽい破調を用いた叙述が、評価の分かれ目になるかもしれませんが。◇大久保佳代子。春セーター息を潜めて白髪染め白髪染め クロスの下の春セーター(添削後)中七は、本人じゃなくて、セーターが息を潜めている…とのこと。その分かりにくい擬人化が減点対象に。◇ミッツ・マングローブ。付け睫毛のやや剝がれたる春更けし春更くや 剥がれかけたる付け睫毛(添削後)・上六の字余り・中七に「やや」を用いた音数合わせ・下五の主役が映像をもたない時候の季語…ってところが減点対象ですね。あとは、助詞の時制の問題ですが、これが古語で詠むときの最大の難関だと思うので、なるべくなら手を出したくありません(笑)。◇藤本隆宏。けふ母に梳かし洗うは春の虹けふ母の髪を洗はん 春の虹(添削後)これも文語的な助詞が裏目に出て減点。字義どおりに読むと、「春の虹を梳いて洗って母に贈った」…みたいなファンタジーに見えますよね。ちなみに「髪洗ふ」は夏の季語だそうです!昔の人って、夏にしか髪を洗わなかったの?たしかに、冬に水をかぶったら寒いしねえ…(^^;以下、Wikipediaより。日本では、洗髪の習慣は過去に遡るほど頻度が少なく、日本髪が結われていた時代は1ヶ月に一度程度というのが一般的。1950年頃までの洗髪の頻度は平均月1-2回であった。家に風呂を設置した「内風呂」の普及と、1965年の瞬間湯沸かし器の発売以降、洗髪の頻度が高くなる。昭和30年代の洗髪頻度は5日に一回、1980年代には週2-3回となる。ほぼ毎日洗髪するようになったのは1990年代半ばである。 昔は、家の浴室にシャワーなんてなかったし、やっぱり毎日髪を洗うようになったのは、1980年代以降だろうなと思う。斉藤由貴のモーニングフレッシュが販売されて、そこから「朝シャン」が普及したのです!◇キスマイ二階堂。初虹や 隣で見てた夢の道美容師の夢を叶えて春の虹(添削後a)美容師の夢を見守り春の虹(添削後b)うーん、道のりは遠い…(^^;「隣で見てた夢の道」といわれても、具体的な映像がまったく見えてこないのよね。とりあえず、写真をスマホで撮ってから言葉にしてみたら?◇フルポン村上。春の色 絵本の並ぶ美容院「春光」「春色」といった季語は、「春景(春景色)」とほぼ同義なのですね。ふつうは屋外の風景を指すものと思うけど、この句の取り合わせでは、クレヨンとか春服とかヘアカラーの色が見えてきます。逆にいうと、本来の「春景色」は見えにくいかもしれない。そこをポジティブに評価するかどうかが分かれ目。◇梅沢富美男。髭あたる泡の甘やか 目借り時いろいろ知らない話が出てきました…。第一に、役者にとって「切る」「剃る」という言葉はタブーだとのこと。これはネットで検索しても出てこない話でした。第二に、髭を剃ることを江戸では「髭をあたる」と言ったらしい。自動詞のように見えますが、じつは他動詞なのですね。ちょっと妙な日本語感覚です。第三に、季語の「目借り時」ってのも知らなかったけど、いわゆる「春眠」の時期のことなのですね。この句では、中七で切れて取り合わせの形になってますが、季語の「眠さ」と髭剃りの「心地よさ」は近すぎるし、いっそワンカットにまとめたほうがいいと思う。たとえば、髭あたる泡の香甘き目借り時髭あたる泡甘やかに目借り時のようにすればワンカットにできます。
2022.04.25
日だまりに仔猫の眠るボンネット 縦列駐車こつん春の月くすっプレバト俳句。お題は「満車の駐車場」。今回は、永世名人ふたりだけでした。◇梅沢富美男。日だまりに仔猫の眠るボンネットふわふわの仔猫の眠るボンネット(添削後a)三匹の仔猫の眠るボンネット(添削後b)お隣の仔猫の眠るボンネット(添削後c)ボツ!不要ワードもさることながら、どこにもオリジナリティを感じませんね。平場でも凡人になりそうな句です(笑)。◇東国原英夫。縦列駐車こつん 春の月くすっ…掲載決定だそうです。たしかに、「可愛らしくて面白い」ってことで、これを評価する人もいるだろうけど、…わたしならボツですね。問題になるのは、やはり「擬人化の是非」でしょう。先生は「嫌味のない擬人化」だと言ってたけど、比喩や擬人化の是非というのは、「嫌味のあるなし」で判断すべきものなんですか??そんなボヤッとした解説じゃあ、わたしは納得できませんよ。そんなんで納得するのは、せいぜい素直な「いつき組のお弟子さん」だけでしょう。…比喩や擬人化の是非は、そのオリジナリティも重要ですが、わたしは、やはり「描写性の有無」が重要だと思います。比喩や擬人化を用いることで、その描写性が高まるのなら、(つまり、映像がありありと見えてくるのなら)それは俳句として評価できるけれど、たんに主観的な表現にしかなってないのなら、俳句としては評価しがたいと思います。この場合の「月が笑ってるように見える」というのは、ごく主観的な擬人化であって、描写的といえるかどうかは微妙。わたしならボツ。…ただし、この擬人化は、「春の月」の描写性は高めていないけれど、作品全体として、「春の夜」の澄んだ静けさを描写できている気はする。それは、おそらく、「こつん」「くすっ」といった些細な情景や心象に対して、感覚を研ぎ澄ませた結果なのですよね。かりに、縦列駐車ぶつける 春の月笑うだとしたら、この些細な感覚は表現できないし、「微笑」なのか「嘲笑」なのか「爆笑」なのか、分かりにくいってこともあるし、やはりオノマトペの効用というのはある。その点を評価するならば、この句の掲載決定は支持できるかもしれません。◇玉巻アナは復帰したと思ったら卒業なの?MBSのアナって、他番組でなかなか見れないから寂しいですね。
2022.04.16
影のような野良犬に桜ながし 馬の子に弄られてゐるアナウンサー 光風や控え選手のペンの減り 日曜の空港ホテル雪の果 青き日も苦き日もあり青慈姑 子供等の後ろの蜂のホバリング 長閑なり細くたなびく湯の放屁 刀折損続ける殺陣や花吹雪 迫る電柱顔面5mmの春 カンガルー泊めて2DK朧プレバト俳句。お題は「ハプニング」。◇立川志らく。影のような野良犬に桜ながしこれが1位。新しい季語として採用した「桜流し」は、鹿児島の方言で「桜を散らす長雨」のことだそうです。宇多田ヒカルの曲名にもなっています。それはそうと、東国原の「沼尻」の句に似ていますよね…。タイトル戦王者の句としても、ちょっと物足りないです。何より「影のような」という直喩が名人級の表現とは言いがたい。◇東国原英夫。カンガルー泊めて2DK朧おぼろカンガルー預かってゐる朧かな(添削後)永世名人ながら最下位の句。作者は「朦朧とした意識」のことを詠んだらしいので、これは本来の季語の意味じゃないのですよね。かりに気象と意識のふたつの意味に掛けているとしても、さすがに「2DK朧」ってのはおかしいと思います。部屋のなかに朧がかかるはずはないのだから。これは添削が妥当かと思います。ちなみに昼の「霞かすみ」と夜の「朧おぼろ」が、どちらも春の季語なのですねえ。◇馬場典子。青き日も苦き日もあり 青慈姑あおぐわい青慈姑ころん 若き日とは苦し(添削後a)青慈姑ほくり 若き日とは苦し(添削後b)前段が観念的な内容なので、やはり映像描写に乏しいと思います。しかも「青き日」と「苦き日」を区別する意図がよく分からない。青春時代なんて、たいていは苦いことばかりなのだから、やはり添削のように「若し=青し=苦し」と考えるのが普通ですよね。◇森口瑤子。馬の子に弄いじられてゐるアナウンサー馬の子になつかれ過ぎてアナウンサー(添削後)へええ。「弄る」と書いて「いじる」と読むのですねえ。近年よく耳にする「イジる」という語は、TVのバラエティで普及した新語かと思っていましたが、調べてみたら、江戸時代にも、人を「からかう」の意味で「弄る」の用法はあったらしい。しかし、そうはいっても、さすがに「馬が人をイジる」なんてのは、昔の日本語じゃありえなかった表現だと思うし、こういう用法じたいが、やはり近年のものでしょう。もちろん俳句に新語を使ってもいいのですが、それが新語であることを明示するためには、むしろカタカナで「イジる」と表記すべきだと思うし、さもなくば、普通に「弄もてあそぶ」でもいいかと思う。でも、もしかしたら作者自身は、あえて「弄る」の表記を現代的な用法で使ったのかもしれないし、そこにこそ面白味があると考えたのかもしれませんけど。添削は、やはり「弄る」という動詞を避けて、倒置法によって重心を季語のほうへ移したようです。※「アナウンサーが馬の子になつかれすぎて」の倒置だと思います。◇フルポン村上。光風や 控え選手のペンの減り風光る 控え選手のペンの減り(添削後a)春風や 控え選手のペンの減り(添削後b)季語を「光風や」にするか「風光る」にするかの選択ですが、たぶん「風」に力点を置くか「光」に力点を置くかの違いなのだと思う。それよりも、わたしは、下五の「ペンの減り」にちょっと説明くささを感じました。たとえば「ペン掠る」とか「ちび鉛筆」とか「インク僅か」なら、それ自体で映像的な描写だといえますが、時間経過や比較を要する「ペンの減り」という表現が、それ自体で映像描写といえるのかどうか、ちょっと疑問です。◇キスマイ横尾。日曜の空港ホテル 雪の果春雪に閉ざされ 空港ホテルの夜(添削後a)春雪に閉ざされ 空港ホテルの朝(添削後b)いい句なのだけど、ハプニング感に乏しい、とのことで添削されました。わたしも、雪の果に「欠航するほどの大雪」というイメージがないので、たんにホテルの窓から春の淡雪を眺めてるのかと思いました。添削は字余りになってますが、ためしに定型で、雪の果 空港閉じた夜のホテル春雪に閉じた空港 宿の夜春雪の空港閉鎖 ホテル部屋などとやってみました。◇フジモン。子供等の後ろの蜂のホバリング子供等の後ろを蜂の防衛軍(添削後)下五の「ホバリング」こそがこの句の肝だったのだろうから、その表現自体がベタだといわれてしまうと、もうどうしようもないですね(笑)。ためしに、遊ぶ子の背後の宙を蜂の列としてみました。◇キスマイ北山。刀折損せっそん 続ける殺陣や 花吹雪花らんまん 折れて続ける殺陣シーン(添削後)不用意に「折損」なんて難しい言葉を使うから、三段切れっぽくなってしまうんじゃないでしょうか?花吹雪が紙吹雪に見えてしまうのも欠点ですよね。ためしに、花の雨 刀折れたる殺陣烈しとしてみました。◇千原ジュニア。迫る電柱 顔面5mmの春顔面潰る 電柱スローモーに春(添削後)原句のほうも、「顔面5mm」は分かりにくいけど、添削のほうも、「電柱スローモーに春」は意味不明だし、「顔面潰る」ってのは怖すぎます。ためしに下七の字余りで、春光や 電柱迫るスローモーションもしくは17音の破調で、春光や 電柱激突の記憶としてみました。◇梅沢富美男。長閑のどかなり 細くたなびく湯の放屁長閑なり 湯にたなびける放屁の泡(添削後)せっかく「たなびく」の用法が間違ってると指摘したのに、なぜまた添削でこの動詞を使ってしまうのでしょうか?先生の解説を聞いてもぜんぜん理解できませんでした。日本語で「湯に泡がたなびく」なんて言わないでしょっ!それと、季語との取り合わせも近すぎる気がします。ためしに「放ひる」を使って、牡丹雪 湯に放りし屁の泡六つとしてみました。
2022.04.03
ニラを手に持ってつれなしセルフレジ/非接触薫風に押されすすむ/セルフレジピッと奏でる燕かな/春の夕カーテン手に取る新天地/非接触いつになるやら雪の果て/自動精算機なかでやにわに春祭/セルフレジだけのコンビニ花曇プレバト俳句。お題は「セルフレジ」。今回も、全般的にパッとしませんでした。先生の解説も理解に苦しむところが多くあった。◇山之内すず。春の夕 カーテン手に取る新天地新しきカーテン 新天地の春夕しゅんせき(添削後)全体的に低調だったのですが、かろうじて、この句がいちばんまともに見えました。といっても、せいぜい60点弱の出来でしょうけど。さすがに45点ってのは低すぎだと思います。原句と添削句は、たんに語順を入れ替えただけで、内容はほとんど同じに見えますが、なぜか原句のほうは個々の映像に具体性が見えないのですよね。とくに「春の夕」と「新天地」を分けて映像化するよりも、添削のように「新天地の春夕」と一体化させたほうが、季語の描写性がグッと増すのだと思います。ってことで、これは添削が正解。◇八嶋智人。非接触 薫風に押されすすむ非接触のレジより薫風の空へ(添削後)これも添削が正解でしょうね。世の中では「非接触」とか「濃厚接触」などの言葉が、特殊な意味合いで使われている現状ですが、それらを俳句で安易に用いるのは誤解に繋がりかねない。事実、この原句を字面だけで読んだら、なかなか手を繋げずに歩くカップルのように見えます。◇酒井美紀。セルフレジ ピッと奏でる燕かなセルフレジ ピッと子つばめ親燕(添削後)凡人ならではの安易な技巧を並べちゃった感じ。「ピッと」はレジ&燕の掛詞。「奏でる」は擬人化。そして、季語の「燕」は比喩。さらに、最後を「かな」で締めてるのにカットを割ってしまった。これも添削が正解だけど、平仮名と漢字の使い分けが目を引きますね。ちょっと小手先な感じもするけど、見映えもいい気はします。◇梅沢富美男。セルフレジだけのコンビニ 花曇悪くない句だと思うけど、東国原が「簡単すぎる」と評したのも分かります。カタカナ言葉が並ぶ字面はいっそうイージーな印象です。まあ、よく言えば「力が抜けてる」ってことになるだろうし、ちょっと評価が分かれそうな作品。わたし自身はどっちつかずだけど、この詩情に共感できるかどうかで判断するしかないと思うし、掲載決定でも、べつに異論はありません。◇東国原英夫。自動精算機 なかでやにわに春祭自動精算機 やにわに春吐く音(添削後)よほどのことがないかぎり、助詞の「で」は使わないほうがいいのだけど、それをあえてやったのは一種のチャレンジでしょうか?そのうえ、あえて季語を比喩にしています。しかし、正直なところ、チャレンジを認めたくなるほどの魅力がある句だとは思えない。そもそも、形式上はカットが2つに分かれているので、せいぜい「屋内で春祭りが始まった」と誤読されるのがオチでしょう。それはそうと…添削は、いっそう意味不明です!せいぜい「花見の酔っ払いが屋外で嘔吐してる」と誤読されるのがオチ。◇鈴木福。非接触 いつになるやら雪の果て雪の果いつ 非接触いつ終わる(添削後)原句は、作者の意図と反対の意味になってるので、東国原が言ったように、接触はいつになるやら 雪の果てと直すか、もしくは逆に、非接触いつ終わるやら 雪の果てとでも直さなければならないのですが、それを差し置いても…これまた添削がいっそう意味不明です!例によって「いつ」を二度押してますが、最初の「いつ」が「雪の果」に掛かるのだとすれば、「雪の果いつ終わる/非接触いつ終わる」という意味の対句だと読めます。しかし、本来、雪が終わることを「雪の果」と言うのだから、 「雪の終わりがいつ終わる」ってのは意味不明です。かりに対句にするならば、「雪の果いつ来る/非接触いつ終わる」という形にしなければなりません。◇マヂカルラブリー村上。ニラを手に持ってつれなし セルフレジ韮を手に持ってつれなきセルフレジ(添削後)発想は悪くないので、これを1位にしたのは理解できますが、はっきり言って、技術的に出来がいいとは思えない。これ以上の作品が他になかったなら仕方ないけど、ふつうなら、せいぜい60点ぐらいの評価でしょうし、わたしとしては、この句よりも山之内すずのほうがマシだったと思う。…それはそうと、これまた先生の解説がかなり意味不明!まずは梅沢が、「手に」があれば「持って」は不要だと言ったのですが、わたしも、諸悪の根源は「持って」だろうと思います。しかし、先生は、この「持って」には捨て石の効果がある、と言った。…ちなみに、作者自身は「連れがいない」という意味で書いてるのだけど、先生は、この「つれなし」を「薄情・素っ気ない」の意味に誤読しています。※正確には「素知らぬ風」と言ってましたが。おそらく「そうとしか読めない」ってのが先生の考えなのでしょう。まあ、それならそれでいいのですが、添削句のように連体形を用いてワンカットにまとめると、前段と後段で主語を分けることが出来なくなるので、まるで「セルフレジが韮を手に持っている」ように読めてしまいます。諸悪の根源は「持って」という動詞であり、より具体的にいえば、接続助詞の「て」が意味を曖昧にしています。かりに先生のように「薄情」の意味で添削するとしても、韮三束にらみたば買うもつれなきセルフレジのように直すほうが妥当だろうし、作者の意図のとおり「連れがいない」の意味で添削するならば、連れのなき吾あが韮を買うセルフレジぐらいが妥当じゃないでしょうか。
2022.03.27
卒業や階段に階段の影 静けさや一貫校の春休み ダイヤ改正春恨の昇り降り プランター葬はつ虹の大きな窓 春愁をエスカレーター地下へ地下へ 春雷すストレッチャーを急かす駅 春帽子手に駆け上るあと5段プレバト俳句。お題は「階段orエスカレーター」。村上と森口瑤子には名句の手応えがありました!千賀と皆藤愛子の句も良かったです!◇まずはフルポン村上。卒業や 階段に階段の影ひさびさに村上のヒット作。それどころか、これはフルポン史上の最高傑作かも!この句の映像を頭に浮かべたら、キース・ジャレットの「Staircase」のジャケ写を思い出しました。もともと村上の句には「静けさ」がありますが、この句には、その特長が極まっています。どこにも「静けさ」とは書いてないけれど、人気のない階段だけの映像には静けさがあって、そこに心情や記憶や物語が織り込まれているように見える。折り重なった学校の階段には昇り降りのベクトルがあり、それは生徒たちの過去や未来の時間のベクトルも象徴しています。そして「影」が出来るということは、すなわち春の陽光が射しているからであって、そこには穏やかさとともにささやかな希望が感じられる。最後に「影」という語が置かれているとはいえ、わたしは明るい春の句だと思いました。◇キスマイ千賀。静けさや 一貫校の春休みこちらには「静けさ」と明記されています。ただし、同じ静けさとはいっても、入学も卒業もない一貫校の春休みなので、たんに「誰もいない」というだけの無感動な静けさです。豊かな感情をたたえた村上の句とは対照的だけど、これはこれで、固有の味わいと面白みがある。この句を見て、敗者復活で残るのは千賀か筒井真理子と予想しましたが、ジュニアが勝ち残ったのはちょっと腑に落ちません…。◇森口瑤子。春愁をエスカレーター地下へ地下へ上五に助詞の「を」を用いています。かりに「春愁の」としてしまうと、形式上はカットが中七で切れてしまう。しかし、他動詞を要する「を」を選んだことで、「エスカレーターが春愁を地下へ地下へ(運ぶ)」と、下六までがすべてワンカットに繋がります。最後の6音字余りのリフレインは、ゆっくりしたエスカレーターのスピード感や、「ぐんぐん」「ずんずん」という、不気味なモーター音のリズムをも思わせますね。◇皆藤愛子。春帽子手に駆け上る あと5段発車ベル あと5段 春帽子手に(添削後)森口瑤子がゆっくり降りていくのとは対照的に、皆藤愛子は勢いよく駆け上がっています。春らしいスピード感があって、華やかで爽やかで、明るさに満ちた句。これは、添削よりも、断然、原句のほうが良い。添削は、倒置にしたことで三段切れに見えてしまうし、スピード感が失われたことで、なにやらお洒落をした老女が、苦心しながら上り階段を焦ってるように見えます。◇ミッツ・マングローブ。ダイヤ改正 春恨の昇り降り春恨の改正 駆け上るホーム(添削後a)春恨の改正 2番ホーム嗚呼(添削後b)原句にしろ、添削にしろ、ダイヤ改正を「春恨」と言い表した発想そのものが、やや大袈裟に感じられました。実際、一読したとき、この「昇り降り」というのは、エスカレーターではなく、人事などの抽象的な話かと思ってしまいました。◇岩永徹也。初虹の窓辺 プランター葬の鉢プランター葬 はつ虹の大きな窓(添削後a)プランター葬を選べば春の虹(添削後b)窓辺の映像を詠むならワンカットにまとめるべきだし、あくまでもカットを割るのなら、(添削後a)のように「プランター」と「窓」を別にすべきですね。◇春風亭昇吉。春雷す ストレッチャーを急かす駅春雷や ストレッチャーを急かす駅(添削後)個人的には、季語を「春雷や」と詠嘆するよりも、即物的に「春の雷らい」としたほうがいいかなと思いました。そのほうが緊迫感が増すと思います。
2022.03.20
選ばざる道過る独活ほろ苦し 独活ほろ苦し選ばざりける道もまた トラクター祖父の膝乗る春休み 「Where you go?」機窓に春の星あまた 寒明のキャンプごはんはアルデンテ 公開録画当たった浅蜊開いた 春昼やこんどの人はパンが好き 春眠しパンで拭ったソース跡 花追風見知らぬ町の握りめしプレバト俳句。お題は「ライスorパン」。今回は、ハイレベルすぎるからなのか、ちょっと自分の理解の及ばない点がありました。タイトル戦ともなると、通常回とは、やや価値基準が違ってくるのですよね…(^^;◇フジモン。公開録画当たった 浅蜊あさり開いた公開録画当たった 浅蜊口あけた(添削後)これが1位と言われても、ちょっと分からない。見ようによっては、若い女性の日記とかTwitterの呟きみたいな散文に見えます。添削のほうは、七五調と「a」の音韻になってるので、だいぶ俳句らしくなって理解の範疇に近づいてますが。◇馬場典子。選ばざる道過よぎる独活うどほろ苦し独活ほろ苦し 選ばざりける道もまた(添削後a)独活苦し 選ばざりける道もまた(添削後b)これが1位というのも、ちょっと分からない。ウドを「独り身の自分」に掛けていて、頭に「よぎった」という内容もだいぶ観念的だし、通常回なら低評価になりかねない作品だと思う。添削後bの定型で、だいぶ理解の範疇に近づいた気はします。◇筒井真理子。春昼しゅんちゅうや こんどの人はパンが好きちゃっかりした女性が、前の人のことをケロッと忘れてる感じ?トボけた味わいもあって面白いけど、これも若い女性の日記かTwitterの呟きみたいではある。◇パンサー向井。春眠し パンで拭ったソース跡わたしには、このくらいがいちばん理解しやすい(笑)。やや季語が近すぎて面白みに欠けるのは事実ですけど。◇中田喜子。花追風はなおいて 見知らぬ町の握りめし花追風吹いて三日の握りめし(添削後a)花追風 梅かこんぶか握りめし(添削後b)これで最下位というのが驚きです!添削する必要もない句のように思えるし、正直、添削で良くなったのかどうかも微妙…。ちなみに「三日」とは正月3日のことでしょうか?「旧暦の正月3日」と読むべきか、「風が吹いてから3日目」と読むべきか分かりかねます。◇千原ジュニア。トラクター 祖父の膝乗る春休み実質的には1カットの場面なのに、形式上2カットに見えてしまうのが欠点だと思う。語順を変えてワンカットに出来ないものでしょうか?◇松岡充。「Where you go?」機窓に春の星あまたわたしなら、カギカッコを外したうえで、Where you go? 春の機窓に星あまたと語順を入れ替えるかもしれません。隣席の外国人の言葉なのか、出国するときの心の中の自問なのか、それを想像させる余地があってもいいですよね。◇パックン。寒明かんあけのキャンプ ごはんはアルデンテ卒業記念キャンプ ご飯はアルデンテ(添削後)アルデンテという比喩に重心を置いて、「せっかく寒さが明けたのにご飯が固い…」と川柳めいた残念感でオチをつけたところが、内容面での減点要素になってしまいました。かたや、添削のほうは、「卒業記念キャンプ」と読むべきか、「キャンプご飯」と読むべきか迷わせます。
2022.03.12
ラスト公演差し入れは雛あられ 言えぬまま飲み込む恋と雛あられ お雛様見向きもせずにミニ四駆 あと何度行くなと思い雛をだす 雛祭る見つめる先はシルバニア 流し雛目があったのよ、本当よ 春夜のおもちゃ屋プラレールのやわやわ お歯黒のかすかにのぞく雛かなプレバト俳句。お題は「おもちゃ屋さんの雛人形」。今回は、添削も含めて、全体的にいまひとつの内容でした。と同時に、この兼題に対して複雑な気持ちも抱いてしまった。◇早見あかり。ラスト公演 差し入れは雛あられ助詞の「は」を使っていますが、これは「今日の差し入れは」という限定の意味だと解せる。もし「の」に置き換えたら、その特別感が薄れてしまうのでしょうね。◇湘南乃風 HAN-KUN。言えぬまま飲み込む恋と雛あられ雛あられ 言えないままの恋ひとつ(添削後)梅沢は、「雛あられは飲み込まずに噛めっ!」と怒っていましたが、雛あられだって、噛んだあとには飲み込むのだから、べつにそこは問題ないだろうと思います。ただ、この「飲み込む」という動詞を、「恋心」と「雛あられ」とに重ねる掛詞にしたところが、俳句としては、ちょっとダサいのですね。その意味では添削のほうがマシだと思います。◇◇ここまでは「雛あられ」の句が2つでした。ここからは「雛人形」の句が5つ。ダイアン・津田。あと何度行くなと思い雛をだす雛をあと何度飾れば嫁に行く(添削後)これがもっともオーソドックスな内容の句。(それがすなわち「凡人」ということですが)技術的な難点は、中七の「思い」が心情と因果関係の説明になってることです。それはともかく、先生の直しは、意味がまるで逆になっているので、この添削はちょっといただけない。あたかもアラサーの娘にむかって、「いつになったら嫁ぐのか?はやく嫁にいけ!」と嫌味を言ってるように読める。こうなると、もはや雛祭りは恐怖の儀式でしかありません。そこまでして雛壇を飾る家があるかは知りませんが。原句の内容を尊重するのならば、ぼんぼりに灯せる春のあと幾度みたいな感じでしょうか。◇朝日奈央。雛祭る 見つめる先はシルバニア雛の顔怖くて雛を見られない(添削後)雛人形とシルバニア人形が向かい合ってるかと思いきや、シルバニア人形を見つめているのは作者本人だそうで、いわく「雛人形は怖くて避けていた」とのこと。しかも、おもちゃ売り場ではなく、家の中での情景だそうです.おもちゃ売り場の情景ならば、雛よりもシルバニアを と云ふ女子おなごのようにも出来るかなと思いますが、家の中の情景ならば、17音の破調ですが、雛ひいなを恐れてぬいぐるみを抱く子のように出来るかもしれません。なお、先生の添削は、ただ因果関係を散文で説明したに過ぎず、およそ俳句と呼べる出来とは思えないし、なぜ「雛」という語を2度使うのかも分からず、思わず「雛壇の上にヒヨコでもいるの?」などと勘ぐってしまう。この添削もいただけません。◇立川志らく。流し雛 目があったのよ、本当よ流される雛と目が合ったと言い張る(添削後)これも雛人形の不気味さや悲しさを詠んだ句です。そもそも雛祭りの起源は、厄払いとしての流し雛にあるらしい。先生の添削は、散文的なうえに、「と」が2度出てくるのが紛らわしいので、これもあまり良い出来とは思えません。ためしに17音の破調ですが、「流し雛は私を見ていた」と泣くとしてみました。◇梅沢富美男。お歯黒のかすかにのぞく雛かなお歯黒のかすかに雛の笑まひけり(添削後)これは、内容にも、添削にも、とくに異論はありません。この句も、よくいえば雅みやびな光景ではあるけれど、おそらく現代人は、お歯黒で笑う人形を「可愛い」とは感じないだろうし、やはり不気味に思うことのほうが多いんじゃないかと思う。◇ダイアン・ユースケお雛様見向きもせずにミニ四駆雛売り場かけぬけミニ四駆売り場(添削後)これはもはや「雛人形には何の興味もない!」という句です(笑)。女の子だったら面白いのですが、男の子の話だと知ると、当たり前すぎて拍子が抜ける。これじゃつまらないので、娘には雛人形よりミニ四駆と思わず直したくなりました。◇「雛あられ」には、初々しくてキラキラした思い出がともなってますが、「雛人形」のほうには、どうも不気味な印象や寂しさがついてまわりますね。雛人形を《可愛い》《華やか》と感じる人も少ない。それが現代人の率直な感覚だなァと思いました。嫁ぐも地獄。嫁がぬも地獄。結婚も自由に出来ないし、離婚も自由に出来ない。雛祭りは恐怖の儀式なのかもしれません。◇キスマイ横尾。春夜のおもちゃ屋 プラレールのやわやわこれは雛祭りとは無関係な句です。最後のオノマトペについて、作者自身は「ゆっくりゆっくり」の意味で、列車の動きを表現したらしいけど、そう読む人は、たぶんいませんよねえ。普通に考えれば、これは「軟性プラスチック」の形容であり、もしくは「おもちゃの世界」「子供の世界」の形容でしょう。そういう読みでも成立する…ってことでの昇格ですね。さらに、志らくは「ya」の音韻のことも評価していました。わたしは、それ以上に、「AのB/CのD」という対句の形式が目についたのですが、正直、これはあまり好きじゃありません。その点では「定型で詠め」と言う梅沢の感想に近いです。
2022.03.09
春夕焼ラーメン一つに箸二つ 春眠しフードコートの生中継 転校で友とたこ焼き春の虹 鳴り止まぬ真昼のベルは猫の恋 牡丹の芽木漏れ日とジェラートの赤 イーゼルに凭るるメニュー春浅し 蝶は測るフードコートの奥行をプレバト俳句。お題は「フードコート」。◇東国原英夫。蝶は測る フードコートの奥行を一読して、ボツだろうなと思いました。蝶の擬人化も、上五の助詞「は」の使用も、下五が助詞の「を」で終わる倒置法も引っかかるし、なによりも内容があまりに観念的だからです。しかし、北山もフジモンも先生も大絶賛でしたねえ。先生にいたっては「永世名人の新たな作風」との誉めよう。たしかに「新しい作風」とまで言われてしまうと、そんな気がしてこないでもないけれど、わたしの評価は、いまだどっちつかずです。たとえば「雲は行く」「風は走る」など擬人法で、作者独自の哲学や世界観を伝える表現はあると思う。でも、そこに「フードコート」のような通俗的な場面がふさわしいか?という疑問もある。まあ、賛否どちらの評価もありうる句だとは思うし、東国原自身も、それを想定していたように見えます。◇キスマイ北山。牡丹の芽 木漏れ日とジェラートの赤ジェラートの赤と牡丹の芽の赤と(添削後)先生の添削では、凡人ワードの「木漏れ日」を排しています。わたしは、むしろ、助詞の「と」が良くないと思い、春の陽射しの表現はそのまま残して、木漏れ日に紅きジェラート 牡丹の芽としてみました。つまり、「木漏れ日」と「ジェラート」を並列にしてしまうと、ちょっと凡人ワードが目立ちすぎるけれど、背景に後退させれば許容できるんじゃないかってことです。◇ミキ亜生。春夕焼 ラーメン一つに箸二つ中八が惜しい。わたしは、助詞の「に」を除いて、春夕焼 ラーメンひとつ箸ふたつでいいような気がしたのだけど、それだと三段切れと言われてしまうでしょうか?ちなみに亜生は、才能アリの評価が続いてるらしい。でも、今のところは、可もなく不可もなしという内容だし、目を引くほどの才能って感じじゃありません。◇和田アキ子。春眠し フードコートの生中継読んだ印象としては、「休日のおじさん」「買い物休憩中の主婦」「平日昼間に暇をもてあます年寄り」…などの光景が思い浮かぶ。なんだか芸能人らしからぬ生活感が漂っています。和田アキ子のイメージから考えるに、「日曜昼間のパチンコ帰りに競馬中継を見てる」とも解釈できる。しかし、本人の話によれば、「コロナ禍の家のテレビで、フードコートからの中継映像を見てた」ってことだそうです…(笑)。◇矢吹奈子。転校で友とたこ焼き 春の虹友とたこ焼き 転校の日の春の虹(添削後a)友とたこ焼き 転校近き春の虹(添削後b)原句は、「転校する自分」「転校してきた自分」「転校する友だち」「転校してきた友だち」…と4通りの読み方が出てきてしまう。この4通りの意味の違いを、17音で区別できるように詠み分けるのは、なかなか難しいことだなと思います。あえて「転校」か「卒業」かを言わずに、級友と最後のたこ焼き 春の虹としてみました(中八ですが)。◇ハリー杉山。鳴り止まぬ真昼のベルは猫の恋恋猫めくフードコートの止まぬベル(添削後)本人の説明によると、「猫の鳴き声が真昼のベルのようだ」という比喩ではなく、「真昼のベルが猫の鳴き声のようだ」という逆の比喩らしい。季語を比喩にしたのも問題だし、そもそも何のベルだか分からないのも難点だけど、まずもって、「食堂の呼び出し音が発情期の猫のようだ」という発想自体がいまいちピンと来ない。そこに季節の詩情を見出すのも困難です。むしろ「やかましい」とボヤいてる川柳に近いのでは?◇フジモン。イーゼルに凭もたるるメニュー 春浅しイーゼルに立てかけ 春のメニューたち(添削後)なぜ「凭るる」なんて動詞を使ったのか、フジモンの意図がよくわかりませんでした。明らかにこの動詞は、力なく弱々しい印象を与えます。悪く言えば、活気がなくて潰れそうな店に見えるかもしれないけど、良く言えば、のんきな春の、のんきな店に見えるのかもしれない。そういう意図だったのでしょうか?かたや添削句のほうは、春らしくて活気のある店に見せたかったのは分かるけど…「メニューたち」という擬人化が安っぽいし、「立てかけ…」という動詞の繋ぎかたも曖昧だし、そもそも、なぜ他動詞を使うのか不明だし、「立てかけないイーゼルがあったら持って来い!!」という意味では、この動詞自体が不要というべきだし、ほとんど欠点だらけの出来になっています。
2022.03.01
春の虹10周年の腕時計 風光る劇場ファンから似顔絵 インターホン残る寒さで背を屈め 早春の朝寝間着恥ぢらひ捺すはんこ 祖母のもの日付指定の春ショール 不登校児に届く卒業証書 インターホンに春光の顔半分プレバト俳句。お題は「宅配便」。今回は珍しく、ほぼ異論のない添削でした。◇キスマイ二階堂。春の虹 10周年の腕時計いつもは変な句を詠む二階堂ですが、今回は、無理のない普段づかいの言葉で、過不足なく映像だけを描いて成功しています。しばらく、この型だけで続けてみたらいいのでは?(笑)ちなみに、アラビア数字についても直しなしでした。漢字が続くのを避けるためにも、アラビア数字のほうがいいのかもしれないし、そのほうが映像的な印象が強まるかもしれません。◇ぼる塾あんり。風光る劇場 ファンから似顔絵ファンからの似顔絵 風光る劇場(添削後)原句は、よく見ると17音。でも、何故だか字足らず感のある句またがりです。助詞の「の」を加えて18音にしたほうが、しっくり来る。さらに、先生は前後を逆にしています。そのほうが季語の映像の広がりが効果的ですね。◇みちょぱ。インターホン 残る寒さで背を屈めインターホン 残る寒さに屈める背(添削後a)インターホンに応え余寒に屈める背(添削後b)調べてみると、「残暑」の子季語に「残る暑さ」があり、「余寒」の子季語に「残る寒さ」があるそうです。しかし、動詞を含んだ子季語なので、下手な場所にこれを置いてしまうと、「どこに何が残る??」などと読みに迷いが出かねません。この句の場合もそうですね。ちょっと使い方の難しい子季語だと思います。その意味でも(添削後b)が正解でしょうね。◇相田翔子。早春の朝 寝間着恥ぢらひ捺すはんこ早春の朝や 寝間着で捺す判子(添削後a)朝や春 寝間着のままの受領印(添削後b)まずは「恥じらう」という内面描写が不要です。それから、助詞の「で」を使うと説明的になるし、そもそも何のハンコか分からないという問題もあるので、これも(添削後b)が正解でしょうね。◇篠田麻里子。祖母のもの 日付指定の春ショール今日届く祖母の形見の春ショール(添削後)原句を読んで、まず感じたのは、「"日付指定"と言うだけで宅配だと分かるのか?」ってこと。「到着日」じゃなくて「販売日」「着用日」などと思う人もいるかもしれない。もうひとつは、「前段は後段を説明してるだけで取り合わせになってない」「カットを割る意味がない」ってことです。添削ではカットを割っていませんよね。宅配だってことも、この添削ならば明瞭です。◇千原ジュニア。不登校児に届く卒業証書不登校児宛に卒業証書の筒(添削後)原句は、映像というよりも、ただの情報というほかない。けっして紙だけが届くわけじゃないのだから。その点、添削のほうはさすがです。「筒」という映像を見せることで、主人公がそれを手に取った瞬間の心境や、それを「開けるか否か」という物語までが想像されます。◇東国原英夫。インターホンに春光の顔半分顔半分占め春光のインタホン(添削後)先生いわく、「春光」という季語の原義は、「春の陽」ではなく「春の景色」なのだそうです。なので、原句は、本来の季語の使い方ではない。まあ、かりに「春の陽」の意味で読んだとしても、原句は、いまいち詩情がよく分からないのですよねえ。本人は「半分しか顔が見えない怪しさ」だと言ってたけど、読み手によっては、「知り合いの半分顔のマヌケさ」とか、「頭の上半分しか見えない子供の可笑しさ・可愛らしさ」などの読みもありえるかと思います。かたや、添削のほうも、ちょっとぎこちない。単純に、春光のインターホンに顔覗くなどでよかったのでは??
2022.02.20
しんとした駅前横切る孕猫 寒月や終電灯火跳ねた粒 線路ゆき決する心余寒かな 冴返るとんぼ返りの胸中よ 春遅々として渋谷駅はダンジョン 悴める手のひらを刺す乗車券 春の駅白杖の傷夥しプレバト俳句。お題は「最終電車の表示」。◇渡辺満里奈。しんとした駅前横切る孕猫はらみねこしんとした駅前よぎる孕猫(添削後)本人いわく、「春の生ぬるい気持ち悪さ」を表現したとのこと。たしかに「孕猫」って、ちょっと生々しい季語です。そこらへんに視点をもってくのは、なんとなくミッツマングローブっぽい発想でもある。わたしとしては、人気ない駅前を往くはらみ猫ぐらいの素っ気ない描写のほうが、かえって気持ち悪さが際立つかな、と思う。◇笑い飯・哲夫。寒月や 終電灯火跳ねた粒寒月終電 LEDのひかりの粒(添削後)本人いわく、「LEDの欠けた電球が空の月へと転じた」と幻想したらしい。その幻想をそのまま詠むのなら、寒月へLEDの粒が跳ぶLEDの光の粒が寒月へのようになるかもしれませんが、やっぱり駅の映像も加えないと、よく分からない句だと思われるでしょうね…(^^;たとえば、その幻想を物理用語にたくして、駅に寒月 LEDの光粒子こうりゅうしのようにする方法もあるかもしれません。◇柏木由紀。冴返る とんぼ返りの胸中よ公演のとんぼ返りや 冴返る(添削後a)公演のとんぼ返りや 駅余寒(添削後b)目に見える映像さえ描けば、あえて「胸中」と内面まで描写する必要はないのだし、添削については「なるほど」って感じです。◇安藤美姫。線路ゆき決する心 余寒かな余寒なる鉄路一本 意を決す(添削後)原則として、下五を「かな」で終わらせる場合は、カットを割らずに一物仕立てにしたほうがいい。内容的にそれが無理ならば、添削のように「かな」を使うのは諦めるべきです。その意味では、この添削も「なるほど」と思える。ただし、さっきと同じ理屈でいえば、ほんとうは「意を決す」という内面描写すらも不要なのですね。ためしに、破調ですが、試合前日の余寒 鉄路を歩くとしてみました。定型に収めるならば、寒き夜の線路をたどる試合前とか。◇馬場典子。春遅々として渋谷駅はダンジョン渋谷駅はダンジョン 春は遅々として(添削後)原句はワンカットになっていて、もしかすると《城春にして草木深し》みたいな型なのかも…。すなわち「Aは○○であって、しかもBは◎◎」みたいな形ですね。わたしも、先生とおなじく、前後を逆にしたほうがいいとは思いましたが、それはたんに倒置するということであって、あえて「は~、は~」と対句にまでするのは、ちょっとクドいんじゃないかなあ…?むしろ、助詞の「は」を回避したツーカットにして、渋谷駅のダンジョン 春遅々としてでもいいかと思います。◇皆藤愛子。悴かじかめる手のひらを刺す乗車券読む側としては、この手の平サイズの詩情に共感できるかが問われる…(^^;下手すると「だから何??」って気がしないでもないし。たんに寒さだけじゃなく、なにがしかの緊張とか不安を想像することが出来れば、それなりに詩情と情景を見てとれる気はします。◇千原ジュニア。春の駅 白杖はくじょうの傷夥おびたたしわたしは、「春」と「傷」との対比を強調するのなら、上五を「駅の春」としたほうがいいかな、と思う。へたに「ha」の頭韻を押し出すより、そっちのほうが大事でしょう。
2022.02.07
わたしは、前回のプレバト俳句「肉まん」の回(1/27放送分)で、名人3人の句について「句またがりではあるものの、破調とまでは言えない」みたいなテキトーな書き方をしたのですが、これには理由があります。どうやら句またがりには2通りの定義があるらしいのです。◇夏井先生は、「中七の途中で意味の切れ目があるのが句またがり」だと言ってますが、これに対して、Wikipediaには、「文節の終わりと句の終わりが一致しないのが句またがり」だとする小池光の定義が紹介してあって、国語辞典なども、そのような定義を採用しています。わたし自身は、いままで、あまり厳密に考えてきませんでしたが、自分の過去の記事をあらためて見直してみたら、ほとんど後者の定義で「句またがり」の語を使っていました。つまり、句またがりには、1.切れの句またがり2.文節の句またがりという2通りの定義があるのですね。なお、文節というのは、僕はね、明日のね、朝ね、バスでね 、東京にね、行くよ。というように区切れる単位のことです。◇たとえば、堀未央奈の《独立の夜やゴッホの星月夜》の場合、[どくりつの] [よるやゴッホの] [ほしづきよ]どくりつの、よるや。ゴッホの、ほしづきよ…と、文節の位置はズレていませんが、切れ(句点)の位置が中七の途中にあってズレています。夏井先生ならこれを「句またがり」と呼ぶはずですが、小池光はこれを「句またがり」とは呼ばないのでしょう。※なお、小池光は「句割れ」と呼んでいたようです。逆に、フルポン村上の《卒業や階段に階段の影》の場合、[そつぎょうや] [かいだんにかい] [だんのかげ]そつぎょうや。かいだんに、かいだんの、かげ…と、文節の位置が「かい/だんの」のところでズレていますが、切れ(句点)の位置は上五の終わりでズレていません。松尾芭蕉の《海暮れて鴨の声ほのかに白し》もこれと同じで、[うみくれて] [かものこえほの] [かにしろし]うみ、くれて、かもの、こえ、ほのかに、しろし…と、文節の位置が「ほの/かに」のところでズレています。この句に切れはないので、切れの問題ではありません。小池光ならこれを「句またがり」と呼ぶはずですが、夏井先生なら、もしかすると「破調」と呼ぶのかもしれません。◇切れというのは句点(ピリオド)に相当するものですが、Wikipediaによれば、シェイクスピアなどの英詩の場合も、句読点の位置が《行ぎょう》を跨ぐことを「句またがり」と呼ぶのであって、つまりは切れの位置こそが重要であり、文節は関係ないようです。そう考えると、むしろ夏井先生の定義のほうが本来的であって、小池光のような辞書的な定義が特殊なのだなと思う。◇そのうえで、2つの考え方のどちらが正しいというべきか??わたしがそれを決める資格はありませんが、はたして どちらのほうが便利な定義なのか でいえば、これは圧倒的に夏井先生の定義のほうが便利です。というのも、この定義にしたがえば、次の4種類の定型くずしを、スッキリ明快に分類できるからです。1.字あまり/字たらず:定型を基礎にした字数の過不足2.句またがり :切れのズレ3.破調 :文節のズレ4.自由律 :文節のズレ+総数17音の逸脱※この定義が正しいと言いたいわけじゃありません。でも、明快だし便利だと思う。その一方、小池光の定義にしたがうと、2~4の分類がひとつずつ下にずれるので、自由律の定義が出来なくなってしまうし、切れのズレを言い表す概念もなくなってしまいます。※前述のとおり、小池光は切れのズレのことを「句割れ」と呼んでいました。◇なので、わたしも、夏井先生の定義にしたがおうとは思うのですが、そうすると、前回の名人3人の句は、すべて「破調」だということになります。冬の路地裏に昭和が捨ててある(立川志らく)白鳥の波紋や 御御籤をひらく(フルポン村上)肉饅どさどさ 黄さんの手真つ赤(中田喜子)フルポン村上と中田喜子の句は、「破調」であり、なおかつ「句またがり」でもある。…ただ、村上の句にかんして言うと、たかだか1音ズレただけで、あえて「破調」と呼ぶ気はしないし、志らくの句についても、もともと「路地裏」という語は「路地」+「裏」の合成語なので、そこで切ろうと思えば切れないこともないし、そうすればリズムもさほど崩れないし、これも、わざわざ「破調」と呼ぶ気はしませんでした。もっとも、辞書的な意味における「破調」とは、字余り・字足らず・文節のズレをすべて含む広い概念なので、これらを破調と言ってぜんぜん間違いではないはずだけど、わざわざ「破調の句ですね」と言うほどでもないかなあ、って感じ。さっきの村上の「階段」とか芭蕉の「海暮れて」の句も、あえて「破調の句」に分類するのは、ちょっと気が引ける。となると、やはり「句またがり」とだけ言って済ませておきたい。まあ、そこらへんは程度の問題というか、たんなる感覚の問題というか、わりとテキトーな分類です。◇追記:この記事を書いた直後、たまたまNHK俳句で「句またがり」の解説がありました。講師は片山由美子。いわく、句またがりとは、・ひとつの言葉やフレーズが、上五から中七へ、あるいは中七から下五へまたがってること。・破調とまたちょっと違う。あくまでも五七五のなかで行われるもの。・音楽でいうとシンコペーションみたいなもの。ズレる、ひっくり返る、弱拍が強くなる感じ。・違和感によって強調されるポイントが逆にはっきりする。それがシンコペーションの効果。…と、これまた独特の解説でした(笑)。芭蕉の句についても、 海暮れて ほのかに白し 鴨の声とすれば成立するのに、あえて、 海暮れて 鴨の声 ほのかに白しとしたのは、ひっくり返して遊びたかったのだ、と。そのうえで、以下の3句のうち、○が句またがりで、×は句またがりではない、とも。○ むさしのゝ空真青なる落葉かな(水原秋桜子)× 山又山山桜又山桜(阿波野青畝)○ さくら咲きあふれて海へ雄物川(森澄雄)これを受けて、ゲストのいとうせいこうも、 近松門左衛門の浄瑠璃でも、よくリズムを変化させる。 大夫はそれを読みにくいと嫌がるが、聴いてるほうは飽きない。などと話していました。片山由美子の解説は、いつもボヤッとして要領を得ないのですが、今回も、論理的に納得するのはかなり困難でした。でも、話としては面白かったです。
2022.02.05
先週のNHK俳句で、「一物仕立て」についての解説がありました。講師は櫂未知子。いわく、一物仕立てとは、「季語そのもの(だけ)で一句を詠むこと」だそうです。…わたしはいままで、 ワンカットの句:一物仕立て ツーカットの句:取り合わせだと形式的に理解していましたが、(つまり「切れ」の有り無しだけで見分けていた)そういう単純な認識では間違いなんですね!…(^^;たとえワンカットの句であっても、一物仕立てとは言えない句が沢山あるっぽい。◇いままでの自分の記事を見直すと、わたしは以下のような句を「一物仕立て」と見なしている。1.海苔篊のりひびの等間隔に暮れかかる(フルポン村上)2.縦横に斜めに子らの昼寝かな(梅沢富美男)3.遠足のリュックの底にチョコの染み(森口瑤子)4.春愁をくしゃと丸めて可燃ごみ(梅沢富美男)5.永らえて短夜をなほ持て余す(梅沢富美男)6.しまったとじわり汗ばむ三尺寝(中村ゆりか)7.扇風機持つ手甘噛む仔猫たち(しょこたん)8.夏立ちぬ バタークリーム強情で(梅沢富美男)9.とぅるとぅるの求肥に透けている苺(千原ジュニア)10.寅の尾へ迷路をたどる年賀状(フルポン村上をわたしが添削)しかし、すくなくとも3,6,7,8などは、季語そのものを詠んだ「一物仕立て」とは言えないし、そのほかの句も、ちょっと微妙かもしれません。◇まあ、こういう誤解によって、句の評価や作り方まで変わるわけではないけれど、とりあえず、これを機に過去の記事を訂正しておきます…。ちなみに、わたしは今のところ、 2カットの句:取り合わせ/二物衝撃だと形式的に認識してるのだけれど、これが正しいのかどうかも、正直よく分かりません。↓こちらのサイトによると、https://weekly-haiku.blogspot.com/2009/05/10_10.html形式上はツーカットだとしても、実質的に一物仕立てといえる句があるらしい…たとえば、以前のプレバトでも、1位になった丘みどりの次の句がありました。夏の雲 サイドミラーにひしめきぬこれを見て、上五でカットが切れていると思う人はいるはずです。でも、この句は、実質的にはワンカットの一物仕立てです。《上五》と《中七・下五》は、《主語》と《述語》の関係にあるわけなので、上五はじつは名詞止めで切れているのではなく、たんに主格の助詞「が/の」が省略されているにすぎない。にもかかわらず、こういうときに「夏雲や」と切れ字を使う人さえ見かけます。そうなると、完全にカットは切れるわけですが、それでも意外と違和感なく読めてしまったりする自分もいます。(^^;そういう句がはたして容認されるのかどうか、ちょっと判断がつきかねるのですが、とりあえず、いまのわたしなら、丘みどりの句は「夏雲の」と直します。
2022.02.03
肉まんやヘルメット脱ぎ手套脱ぎ かぶりつき天を仰げば冬の月 肉まんを分けあう夫婦冬日向 冬の星あれはなんだろ肉まんだ 冬の路地裏に昭和が捨ててある 肉饅どさどさ黄さんの手真つ 白鳥の波紋や御御籤をひらくプレバト俳句。お題は「肉まん」。今回は、正直、ちょっと評価がしにくかったです…。◇名人3人は、全員が破調もしくは句またがり。しかも、全員が「昇格・前進」という豊作ぶり。でも、問答無用に唸らせるほどの名作でもなく、なんとなく煮え切らない物足りなさが残りました。破調の句って、内容のインパクトが、その形式に見合うかどうかが問われると思うけど、正直なところ、3人の句とも、本来なら定型に収めるべき内容かなあ、という感想です。◇立川志らく。冬の路地裏に昭和が捨ててある映像は描けていますが、だいぶ内容が抽象的ですよね。いつもの破調かと思ったものの、あらためて見たら、17音の句またがりでした。リズム的にも、おおむね定型に準じている。しかし、定型に準じた17音ではあるけれど、およそ韻文とは感じさせないような、たんなる散文のような印象を与える句。人によっては、そのぶっきらぼうなリズム自体が、情景を無造作に捨て置くような効果をもたらす、と肯定的に評価するのかもしれない。わたし自身はといえば、悪い句とまでは言わないけれど、とりたてて良いとも思えないかなあ。ま、そこは好みの問題でしょうか。◇フルポン村上。白鳥の波紋や 御御籤おみくじをひらく取り合わせの映像は、清々しくて希望もあって素敵ですけど、あえて破調にする必然性はとくに見当たらない。ただ、よく見ると、これも17音だし、リズム的には後段が一音分だけズレてるけど、これなら句またがりの範疇で許容されるかもしれません。◇中田喜子。肉饅どさどさ 黄こうさんの手真つ赤描いてる場面そのものは、とてもエネルギッシュで臨場感がありますね。よく見たら、これも17音。でも、ここまでリズムを崩したら、句またがりではなく破調というべきでしょう。人によっては、この崩したリズムが中華街の混沌を感じさせる、と肯定的に評価するのかもしれませんが、わたし自身は、むしろ中華街らしい躍動感を出すためにこそ、リズムよく定型で詠んでほしかったです。◇瀧川鯉斗。肉まんや ヘルメット脱ぎ手套脱ぎメット脱ぎ手套脱ぎ 肉まんガブリ(添削後)先生いわく、「若さと勢いを出すなら」との添削でしたが、かえって暴走族っぽさが際立つから怖いのよ。まさか「族俳句」の新ジャンルでも確立するつもり?いずれにせよ、早くバイクそのものから足を洗ってほしいです。◇さて、残りの下位3句ですが、描いてる内容自体がつまらないので(笑)、原句にしろ、添削句にしろ、これといって、感想もありません…。蛙亭イワクラ。かぶりつき天を仰げば冬の月かぶりつく肉まん 天に冬の月(添削後)勝俣州和。肉まんを分けあう夫婦 冬日向肉まんを分けあう冬日向のベンチ(添削後)岡田結実。冬の星 あれはなんだろ肉まんだ肉まんのかたちの冬の星座どこ(添削後)強いていうならば、岡田結実の句がバカすぎて、かえって面白いかも(笑)。昭和の人間としては、「空を見ろ!鳥だ!飛行機だ!いや肉まんだ!」みたいな話かと思いました。↓アンパンが空を飛ぶんだから、肉まんだって飛ぶでしょう。
2022.01.29
片襷硬し四日の身を通す 地球史の恐竜遠し炬燵の夜 嚔してスペードの位置忘れたり 雪吊や登校拒否の吾と祖母と 冬旱地図から消えた村の数 雪晴の転勤ミニマリストの棚 裏濾す蕪やアドベントカレンダー あざ笑う鬼の顔ある歌留多かな 寅の尾を目指す迷路よ年賀状 箱の角亡き犬の毛や垂り雪 ルーレット回せど止める炬燵猫 顕微鏡の蠢めく人生ゲーム 幸せの尺度疫禍のちゃんちゃんこ 駒進め人生を知る年始めプレバト俳句。お題は「人生ゲーム」。今回も「異議あり!」ってほどのことじゃないけど、 個人的な感想です。◇東国原英夫。片襷かただすき硬し 四日の身を通すお見事な一句。新年らしい清廉な身体感覚。3日までゆっくり休んで、4日目に硬いもので身を引き締め、緊張と潔白とで心を奮い立たせている。冒頭に「katada」「kata」と、いかにも硬い音で頭韻を踏むのも面白い。先生いわく、「弓始」なら聖、「選挙」なら俗…とのこと。その解説もちょっと面白かったです。◇森口瑤子。嚔くしゃみして スペードの位置忘れたり面白い。お正月らしい、とぼけたワンカットですね。後段は「結果描写」というよりも「台詞」っぽい味わいなので、さほど因果関係の説明くささは感じません。◇犬山紙子。箱の角すみ 亡き犬の毛や 垂しずり雪亡き犬の毛が双六の箱の隅(添削後)亡き愛犬を想う心情と、季語「垂り雪」との響き合いが美しい。詩情でいうなら上位に匹敵する作品でした。三段切れなのが難点ですが、「箱隅に」「古箱に」「空箱に」じゃ無理があったでしょうか?◇小倉優子。裏濾す蕪うらごすかぶや アドベントカレンダー離乳食煮て アドベントカレンダー(添削後a)離乳食甘し アドベントカレンダー(添削後b)季語の「蕪」が「アドベントカレンダー」に負けている、そして「裏濾す蕪」は介護食だと誤読される、…ってことで添削されてしまった。ネットで検索する限り、「かぶの裏ごし」で出てくるのはもっぱら離乳食の情報で、介護食のことは出てきませんけどね。それと、蕪という食材には、固有の可愛らしさや優しさや暖かさがあって、それがアドベントカレンダーに響き合うようにも思う。ロシア民話の「おおきなかぶ」の絵本のイメージ?個人的には、蕪の裏ごし アドベントカレンダーでもいいかなと思います。◇キスマイ横尾。雪晴の転勤 ミニマリストの棚もの少なき転勤 雪晴の街へ(添削後)添削されてしまいましたが、「ミニマリストの棚」という映像には独特の質感があるし、それこそが作者の描きたい光景だったろうし、原句は原句で十分に成立していると思います。まあ、季語の活かし方は添削のほうが上かな。◇千原ジュニア。雪吊ゆきつりや 登校拒否の吾と祖母と本人いわく、「祖母と兼六園へ出かけた場面」だそうです。たしかに、雪吊は《兼六園式》が有名ですよね。しかし、祖母と登校拒否児童が、一緒に外出した場面を見てとるのは難しい。なぜなら「登校拒否」「祖母」の字面だけで、どうしても家庭内の場面を思い浮かべるからです。ちょっと大きな旧家の庭の景色かと思いました。まあ、そういう誤読があるとしても、とくに評価を下げる必要はないかもしれませんが。◇梅沢富美男。冬旱ふゆひでり 地図から消えた村の数本人いわく「震災の句」だそうですが、どうしても季語との因果関係が見えてしまうので、ごく一般的な「過疎の句」のように読める。そのぶん、作品のオリジナリティが十分に伝わってきません。けっして悪い出来ではないのだけれど。◇キスマイ千賀。地球史の恐竜遠し 炬燵こたつの夜フジモンの「マンモス」の句に似ています。「マンモスの滅んだ理由ソーダ水」ですね。なかなかの句だとは思うけれど、強いて言えば、中七の「遠し」が当たり前すぎて、そこがちょっとつまらない。◇フジモン。あざ笑う鬼の顔ある歌留多かなあざ笑う鬼の絵赤き歌留多かな(添削後)これはいまひとつの出来。たんに「鬼の札のある歌留多ですよ」と、京都のいろはカルタを説明しただけの句ですよね…。梅沢は、中七の「顔ある」が不要だと言い、先生は、とくに「ある」が説明的で損だと言ってたけど、まず何よりも不要なのは「顔」の一語ですよね。あざ笑うのは「顔」に決まってるのだから。他方で「ある」の一語は、札のなかに鬼の一枚が「ある」という意味だろうから、作者としては必要な単語だったのでしょう。ただし、これが説明くささを招いてるのは事実。最大の敗因は、季語を主役にしようとするあまり、最後を「歌留多かな」の詠嘆で締めたことだと思います。その結果、たんに上方カルタを説明しただけの句になった。ためしに、京かるた 吾をあざ笑う鬼のありかるたとり 鬼がヒヒヒと嘲笑うとしてみました。◇フルポン村上。寅の尾を目指す迷路よ 年賀状寅の尾がゴール 年賀状の迷路(添削後)これもイマイチ。原句にしろ、添削句にしろ、「寅の尾を目指す迷路」=「年賀状」「寅の尾がゴール 」=「年賀状の迷路」…ってな感じで、前段と後段がイコールで結べるのですよね。つまり、前段は後段を説明してるだけなので、これでは取り合わせの句とは言えない。カットを割らずに一物仕立てにすべきだと思います。ためしに、寅の尾へ迷路をたどる年賀状としてみました。◇キスマイ北山。ルーレット回せど止める炬燵猫猫が炬燵から手だけ出してるとしても、ちょっと描写に無理があって正確性に欠ける。ためしに、7・8・5の字余りですが、猫が押さえた炬燵の人生ルーレットとしてみました。◇立川志らく。顕微鏡の蠢うごめく人生ゲーム本人いわく、「地球の生命が微生物から始まったことを人生ゲームに喩えた」とのこと。つまり、自然淘汰や系統発生のことを詠んだらしい。読みの可能性としては、A:顕微鏡のなかの/蠢めく人生ゲームB:顕微鏡が蠢めくような/人生のゲームと2通りありえるので、Bの誤読を排除するためには、助詞「の」を「に」に直さなければなりません。顕微鏡に蠢めく人生ゲームこれなら、かろうじて、顕微鏡のなかに微生物の生存競争の様子が見える…かもしれない。でも、どっちにしろ、地球の生物史までは見えないと思います。◇IKKO。幸せの尺度 疫禍えきかのちゃんちゃんこだいぶ観念的な句。ちゃんちゃんこ以外の映像がない。ためしに、コロナ禍の実家 ちゃんちゃんこの匂いとしてみました。◇堀未央奈。駒進め人生を知る年始め人生ゲームというより双六でしょうね。そして、これも双六以外に映像がない。やはり観念的な句です。ためしに、盤上の人生苦にがき炬燵の子としてみました。
2022.01.18
冬天よ母を泣かせて来る街か 日溜りで辿る僅かな年賀状 東雲の空に挑みし初漁の 瞼をも突き抜け照らす冬の朝 昨夜よりも痩せたる母や日向ぼこ 凍空の窓をゴンドラ紅茶の香 縫い初めの楽屋朝日は母にさすプレバト俳句。お題は「カーテンを開けた瞬間」。今回も「異議あり!」ってほどのことじゃないけど、 個人的な感想です。◇福田麻貴。冬天よ 母を泣かせて来る街か75点で1位。あまり見たことないような高得点。後段は、「母を泣かせて来るほどの街だったか?」と疑問形。(もしくは反語)全体が主人公のセリフの形式で書かれています。こういうセリフ形式は東国原に多いですよね。たとえば、"この人が父ちゃん!" 銀幕に雪烈し玉葱や "この人結局死んじゃうの?""子規に似た蝗がおった、食うたった!""ラフレシアも秋夕焼も人を食うか?"などなど。ほかにも、伊集院光の、濡れ鼠 "せめてどこぞの喜雨であれ!"レイザーラモンRGの、"寝見過ごす野山の錦にまず詫びろ!"などがあります。こうしたセリフの句は、文字どおり「心の声」なので、下手をすると、ただの感情表現になりがちですが、その言葉の向こうに、いかに実景を見せるかが難しいところだと思います。なお、下五の「来る」が漢字なので誤読の可能性は低いですが、かりに、「母を泣かせてくる街」「母を泣かせてきた街」などと書いた場合、「母が街に泣かされている」とも誤読されかねないので、そこは、ちょっと気になる点です。◇梅沢富美男。縫い初めの楽屋 朝日は母にさすこれも母の句。注目すべきなのは、中七の助詞「は」の効果。客観写生なら「朝日の母にさす」とするところです。また、動詞がなくても、「朝日が母へ」「母へ朝日」と書けば描写は足ります。さらにいえば、「母/縫い初め」が実質的な「主語/述語」であるのなら、わざわざカットを割って取り合わせにしなくとも、縫い初めの楽屋の母の手に朝日のようにワンカットに出来ます。番組では、助詞「は」について《強調》だと説明していました。わたしは、あくまで《限定》の意味合いだと感じますが、それは「朝日だけが」という《限定》ではなく、むしろ「母にこそ」という《限定》のように感じられます。最後の動詞「さす」は《念押し》ってことでしょうか。◇森口瑤子。昨夜よべよりも痩せたる母や 日向ぼこ昨夜ゆうべより痩せしか 日向ぼこの母(添削後)これも母の句。「冬日向」などの光景に取り合わせるならまだしも、「日向ぼこ」という行為と取り合わせると、まるで主人公が、病気の母を差し置いて、呑気にくつろいでるように見えてしまいます。日向ぼこの主語が「母」であるのなら、わざわざカットを割って取り合わせにする意味はない。むしろカットを切らずに「母の日向ぼこ」とすべきです。(添削では「日向ぼこの母」として人物で締めています)また、一般に「痩せる」というのは、(かならずしも体重ではなく)見た目のことでもあるから、「昨夜より痩せる」という表現があながち不正確とはいえないけど、添削では「痩せたり」という客観的な断定の形を避け、主観的な疑問の形に直しています。◇大久保佳代子。日溜りで辿る僅かな年賀状日溜りに広ぐ 僅かな年賀状(添削後)年賀状の束のなかから目当ての名前を辿るのならともかく、数少ない年賀状のなかから、いったい何を辿っているの?…と思ったら、本人いわく「過去の思い出」を辿っているらしい。読んでだけでは、その意図が伝わらないし、ここは添削のように客観描写にとどめるのが妥当でしょう。ちなみに、年賀状の枚数が少ないのは、年齢の問題というより、たんにメール時代だからでは?◇筧利夫。東雲しののめの空に挑みし 初漁の初漁や 東雲の空はればれと(添削後)最後の助詞「の」の役割が不明瞭。これも添削が妥当でしょうね。◇渋谷凪咲。瞼をも突き抜け照らす冬の朝瞼貫く冬の朝日の眩しさよ(添削後)上五の助詞の「も」が説明的。そして「突く」「抜く」「照らす」は動詞の3連打。添削では、助詞の「も」を省き、複合動詞の「突き抜ける」を「貫く」に置き換え、動詞の「照らす」を、名詞の「朝日」で代用しています。◇キスマイ横尾。凍空いてぞらの窓をゴンドラ 紅茶の香窓を拭くゴンドラ 凍空の紅茶(添削後)ヴェネチアの句なら1ランク昇格だったのに、ビルの窓拭きの句だったので、あえなく現状維持(笑)。たしかに「gondola」って、漢訳するなら「籠舟」「箱舟」みたいな意味なんだろうけど、あまりにも用途が多岐にわたって、よく分からない言葉です。⇒こちらのサイトによれば、もともと「貝殻」を意味する古代ペルシャ語の"Kondy"が、古代ギリシャ語の"Kondis"になり、やがて"Kondura"になる一方、ラテン語で"Gondus"になり、さらに「揺り籠」を意味する"Cunula"と混じって"Gondula"になり、これがイタリア語でベニスの運河の"Gondola"になった、…っぽいことが書いてある気がします(←たぶん)。ちなみに、文物の起源がペルシャに遡れる場合って多いですよね。メソポタミアとかインダスよりも、じつはペルシャ文明のほうが早かったという説がある。
2022.01.12
着膨れてスープカレーの香りたつ 落葉風渋谷を闊歩生脚で 悴みがふと懐かしきティショット 着心地にあぁ身を捩る冬麗 衣装替え耳元爆ぜる静電気 冴ゆる夜やショウウインドウに黄の鞄 薄明り杜氏のすする粕の汁プレバト俳句。お題は「ヒートテック」。今回は、どの句も取り合わせの是非が気になりました。◇いちばんよかったのは、フルポン村上。冴ゆる夜や ショウウインドウに黄の鞄冷たさと暖かさ。厳しさと華やかさ。2つのカットの対比が、双方を際立たせますね。ちなみに、「ショーウインドー」でもなければ、「ショウウィンドウ」でもなく、「ショウウインドウ」と表記したのは村上のこだわり?なお、(あくまで好みの問題だけど)助詞の「に」は、個人的には「の」に直したいです。◇原田龍二。着心地にあぁ 身を捩よじる冬麗ふゆうらら冬麗とうれいのごとし 肌着の着心地は(添削後)季語の「冬麗」とは暖かい冬の日のこと。なので、原句は、「暖かい着心地」と「暖かい冬の日」の並置であって、対比的な取り合わせではありません。もしくは、暖かい肌着のおかげで「冬麗」になった …とも解釈できる。添削では、これを踏まえて、「冬麗のように着心地が温かい」としていますが、そうなると、こんどは季語が比喩になってしまう。やはり、「肌着の温かさ」と「空気の冷たさ」を対比したほうがよいのでは?ためしに、朝寒や ヒートテックに身を捩るとしてみました。◇タカトシのトシ。着膨れて スープカレーの香りたつこれが今週の1位。個人的には、上五を「着膨れや」と切ってカットを割るかどうか迷います。この上五の「て」という助詞の用法は曖昧ですよね。韻文にはありがちですけど、悪くいえば、テキトーな誤魔化しとも思える。実質的には、「着膨れて(いる)」という終止形の省略だろうから、ここでカットが切れていると解釈すべきですけど、形の上では、「着膨れて、香り立つ」というように、主語の異なる動詞が繋がっているように見えます。(着膨れるのは「私」、香り立つのは「スープカレー」)たとえば「日の暮れて」のように、主語が明示されているならともかく、主語を省略しつつ、主体の違う動詞をつないでしまうのは、ちょっと無理があるんじゃないかなあと思います。◇キスマイ北山。衣装替え 耳元爆ぜる静電気衣装替える耳元 爆ぜる静電気(添削後)独自に「静電気」を冬の季語と見なしたのですね。原句は、カットを2つに割って取り合わせにしていますけど、上五がただの状況説明っぽくて、二物衝撃の効果には乏しい。それと、中七の「耳元」に助詞がないので、たぶん作者は「耳元に爆ぜる」という補語のつもりだろうけど、文法的には「耳元が爆ぜる」という主語の形になっています。「爆ぜる」は自動詞なので、「耳元を爆ぜさせる」という目的語の意味にはなりません。ためしに「耳元」を目的語にして、早替えや 耳元を打つ静電気としてみました。◇梅沢富美男。薄明り 杜氏のすする粕の汁杜氏らのすする粕汁 明けの星(添削後)原句の「薄明り」ってのは、たとえそれが実体験だとしても、二物衝撃の面白みがないので、カットを割る必然性に欠けます。語順としても、取り合わせとしても、添削のほうが上ですね。ただ、添削では、字数を合わせるために「杜氏ら」と複数にしてるけど、本来、杜氏ってのは、職人たちをまとめる「親方」のことなので、それを複数にするのが妥当かどうかはちょっと疑問。◇徳光和夫。悴かじかみがふと懐かしきティショット懐かしきものに悴むティショット(添削後)この先生の添削はいただけない。これでは、「ティショットの悴みが懐かしい」という意味ではなく、「懐かしいものを見てティショットが悴んだ」と誤読されるはずです。ほとんどの人がそのように誤読すると思う。そもそも原句の問題は、上五・中七が客観写生でなく心情説明になってることであり、さらに季語の「悴み」が過去の追憶になってることですよね。添削では、≪ものづくしの型≫を適用したらしいけど、「赤きもの」「うるさきもの」「柔らかきもの」などを数え上げるならともかく、「楽しきもの」「悲しきもの」「懐かしきもの」などを数え上げたところで、それは心情表現であって、客観写生ではない。はたして追憶や懐かしさを句材にできるのかどうか。それ自体を問うべき作品ですね。◇ゆうちゃみ。落葉風 渋谷を闊歩生脚で生脚の闊歩 渋谷の落葉風(添削後)原句は、倒置法が三段切れっぽくなってるし、助詞の「で」も散文的なので、これは添削が妥当ですね。ただ「なまあし」は俗語・新語なので、「生脚」と漢語みたいに書くのは違和感があるし、なまきゃく?せいきゃく?…みたいな読みの迷いが生じる。ここは平仮名で書くべきだと思います。
2021.12.21
朝ロケの信号待ちに脱ぐコート 口ずさむ歌もかじかむ赤信号 信号待ち見えぬ相手に息白し 交差点視線ぶつかり頬カイロ オリオンと重機の湯気と土煙 陸橋を渡れば熱を持つマスク 冬ざれや交差点蹴る明け烏プレバト俳句。お題は「冬の信号待ち」。今回は、梅沢の一句に全部もってかれた感じでした。◇梅沢富美男。冬ざれや 交差点蹴る明け烏これは大ヒット。いままで見た梅沢の句の中でも、一、二を競うくらいの出来じゃないかと思います。朝の冬ざれの荒涼とした光景と、カラスが地を蹴るというやさぐれた動作。いい絵になってますよねえ。落語の「明烏」という演目は知らなかったし、小説の「唐人お吉」のことも知らなかったし、不吉なイメージを伴ってるのも知らなかったけど、その話を聞くと、東京の現在の風景に、江戸の歴史も重なって見えてきて面白いです。◇フジモン。陸橋を渡れば熱を持つマスク個人的には、中七「渡れば」の是非かな、と思いました。「歩道橋を渡ったので、マスクが熱をもった」という因果関係の説明になってるからです。なお、先生の解説によれば、コロナ禍なので、おのずと健康体の人の「熱」と解釈するけれど、本来の冬の季語として考えるならば、病体の人の「熱」と解釈するはず、とのこと。なるほど。そうだよねぇ。ためしに、あえて説明不足ぎみに、陸橋のたもと マスクの熱おびてとしてみました。ちょっと病人っぽくなりますけど。◇皆藤愛子。オリオンと重機の湯気と土煙上五を「や」で切ってカットを割るか、それともワンカットで並列描写にするか。この場合は、並列が評価されたようです。ただ、並列が入れ子構造になってる分、ちょっと読みに迷う気がしないでもない。◇島崎遥香。交差点 視線ぶつかり頬カイロ交差点 君の視線とぶつかる冬(添削後)言いたいことは分かるけど、季語が比喩。あるいは「ホッカイロ」と「頬カイロ」のダジャレかも。添削は、あえて下6にする必要も感じないので、交差点 君と視線の合った冬でいいような気がします。◇こがけん。朝ロケの信号待ちに脱ぐコートこれが今週の1位。個人的には、街頭インタビューに走り回って汗ばんた様子が見えました。助詞の「に」は、「信号待ちのあいだに」「信号待ちという状況に」という時間説明・状況説明とも読めるので、これを避けるのであれば、朝ロケの信号待ちや 手にコートとするのも可能かもしれません。◇YOU。口ずさむ歌もかじかむ赤信号口ずさむ歌のかじかむ赤信号(添削後)助詞の「も」が説明的との添削です。ついでにいうと、動詞が2つあるので、これを1つに減らそうと思えば、「口先の歌」「鼻先の歌」などにも出来るかなと思います。人によっては、「む」が脚韻になってると言うかもしれませんが、すくなくとも俳句の場合は、動詞語尾の脚韻がつねに評価されるわけでもなかろう、…と、わたしは感じます。◇ウルフアロン。信号待ち 見えぬ相手に息白し試合近し 信号待ちの息白し(添削後)とくに異論のない添削だけど、この形容詞の「し」の脚韻についても、わたしは、さほど良いと感じません。◇◇◇なお、余談ですが、わたしのこのサイトは、Google で「プレバト俳句」の語句で検索しても表示されません。以前はけっこう上位に表示されていましたが、ある時期(半年以上前)からぱったり表示されなくなりました。いわゆる 「グーグル八分」を喰らっている可能性があります。グーグル八分についての詳細は明らかではありませんが、一説によれば、事実上の検閲にあたる処置をしたり、個人や法人の依頼に応じて特定の情報を排除してるとのこと。広告主の依頼に応じ、ある種の「広告サービス」として、ネガティブな情報の順位を意図的に下げている可能性もあります。https://ja.wikipedia.org/wiki/グーグル八分Google は、自社の検索結果について、ある種の「意見の表明」だとして、その表現の自由を主張しています。https://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/year/2007/pdf/002.pdfしかし、そのような恣意的な「意見の表明」に傾けば傾くほど、検索結果に対する信頼性が損なわれるのは言うまでもありませんし、とりわけマスメディアと Google との営利的な依存関係については、社会全体が批判的に考えていく必要があります。たとえ民放であっても、営利だけを追求してよいわけではなく、それなりに公的な役割を担っているはずだからです。ともかく、当面、このサイトを Google で探すときは、「プレバト俳句+異議あり」などの組み合わせで探してください。あるいは、個々の俳句作品で検索しても、いまところ上位に表示されるようです。
2021.12.13
冬の朝チュロスを食べに映画館 銀幕の涙色ある冬の星 冬霧や画面切り裂く「貞子」の手 映える画にマスクも透かす君の笑み 母の余命知る冬の日のレイトショー この人が父ちゃん銀幕に雪烈し 名画座のフィルムの傷の雪雑りプレバト俳句。お題は「映画館」。今回は、兼題が兼題だけに、「スクリーンのなかの冬」を描いて、季語がフィクションになってる句が多かったけど、先生はなかばそれを容認してる感じでした…(^^;◇パンサー向井。母の余命知る冬の日のレイトショー一見して良い句だなと思いました。ただ、中七の「知る」「日の」の4字分が説明くさいし、これは不要じゃないのかなと疑ったのですが、かりに「母の余命/冬のレイトショー」という情報だけだと、まるで母と一緒に映画を見たように誤解されかねないので、やはり「知る」という情報は必要なのでしょうね。かたや、「日の」という情報が必要かどうかは微妙なのですが、かりに「母の余命知る冬のレイトショー」という情報だけだと、まるで映画館で余命を知ったように誤解されかねないので、そこに「日の」を入れる必要があったのでしょう。◇東国原英夫。この人が父ちゃん 銀幕に雪烈はげし父となる人と雪夜の映画館(添削後)じつは向井の句と東国原の句が似ているのです。向井は「母の余命を知った冬の夜に映画を見た」という話。東国原は「新しい父を知った冬の日に映画を見た」という話。東国原の句には、どこにも「知る」「日の」のような説明はないけれど、それがなくても、ちゃんと成立しています。そういう意味で、やはり名人は技術的に上だと思う。ただ、東国原の句では、現実とフィクションとの関係が問題になりますよね。はたして「父ちゃん」が、隣の座席にいるのか、スクリーン上にいるのか分からないし、スクリーン上の「雪」は季語の鮮度を下げています。なので、先生の添削が妥当だとは思いますが、作者本人は、かなり不満そうでした。たしかに、添削してしまうと、目に映っているスクリーンの光景と、隣にいる継父の気配とをドラマティックに重ねた強烈な描写が、ちょっと味気なくなるのですね…。それから、たしかにスクリーン上の「雪」は鮮度の低い季語なのですが、もし 冬以外に「雪の映画」を上映するはずがない と考えるならば、その映画自体を季語相当と扱うのは可能な気もします。そう考えると、じつはちゃんと冬の句として読めますし、誤読がありうるとしても、十分に面白い句だと思えてきます。なんなら二物衝撃の名句だと言ってもいい。なので、わたしなら、この東国原の句は≪掲載決定≫にします。そう思うのは、わたしだけでしょうか??◇ニューヨーク嶋佐。冬の朝 チュロスを食べに映画館冬の朝 チュロス目当ての映画館(添削後)実感があって良い句でした。ただし、先週のフルポン村上の「肴に」が説明だというのなら、この句の「食べに」「目当ての」も説明だといわざるをえない。こうした説明を省いて映像描写に徹するならば、冬の朝 チュロスほおばる映画館のようになるかと思います。◇黒崎レイナ。銀幕の涙色ある冬の星映画館 涙は冬の星めきて(添削後a)銀幕の涙の色の冬の星(添削後b)本人いわく「映画を見て冬の星のように泣いた」とのこと。つまり、映画を見ている人物の瞳が、涙に潤んで少女漫画みたいにキラキラしたのでしょう。しかし、原句を読むと、「涙が冬星のようだ」という意味ではなく、「涙色の冬星が(銀幕に)ある」と読めます。まず、自分の意図したことが書けてないし、季語がフィクションなので、その鮮度も落ちます。さらに「涙色」というのは、あべ静江や山口百恵や西野カナのポップスの造語であって、一般的な日本語の読み方としては、銀幕の涙 / 色ある冬の星としかならないはずですから、ますます意味がちがってきますよね。先生の(添削後a)は、作者の本来の意図に沿ってはいますが、そもそも「涙は冬星のようだ」という比喩ですから、やはり季語の鮮度が落ちます。一方、(添削後b)のほうは、「銀幕の冬星が涙色をしてる」とも読めますが、「映画館を出たら、涙に滲んだ冬星が見えた」とも読めます。後者の解釈なら、季語の鮮度は落ちずに済みますし、銀幕の涙の色や 冬の星とすれば、さらに実景の印象が強まると思います。◇堀未央奈。冬霧や 画面切り裂く「貞子」の手冬霧の画面切り裂く貞子の手(添削後)この添削句も季語がフィクションですよね。思うに「画面」という一語が季語をフィクションにしている。たとえば、冬霧のシネマ 伸び来る貞子の手とすれば、実景の季語と読めるかなと思います。◇小手伸也。映える画にマスクも透かす君の笑み映画楽し マスクに透けて子の笑みは(添削後)添削句の後半は、「子の笑みは、マスクに透けて」の倒置法なのですが、その効果がいまひとつわたしには分からないし、倒置法であれば助詞の「は」が許容される根拠も分からないし、上五に感情語の「楽し」を加える理由も分からない。ためしに、妻と子が映画を笑うマスク越しとしてみました。◇梅沢富美男。名画座のフィルムの傷の雪雑まじり名画座のフィルムに雑ざる雪の傷(添削後)へ~。「雑る」と書いて「まじる」と読むのですねぇ。知りませんでした。それはともかく、「フィルムの傷が雪のようだ」という発想そのものが比喩。場合によっては、「フィルム上の傷と撮影された雪が雑じって見える」と誤読されたり、「傷だらけのフィルムに雪が雑じってしまった」と誤読されかねない。添削句のほうも、比喩なのかどうかが不明瞭で、まるで「雪のせいでフィルムが傷ついた」ように読めます。これは謎の添削ではないでしょうか?ためしに、クサい比喩は排除して、膝毛布 フィルムの傷の点滅すと実景だけの句にしてみました。
2021.12.07
十円のもやしで晩餐春を待つ 木枯らしに駅名告げる声かすむ 夜長には都の駅ももみじ色 行く秋と行かぬ駅の赤 凩や人吸い人吐くターミナル 銀杏のひかり肴に一口目 ますかけの手にある我の木の葉髪プレバト俳句。お題は「秋の東京駅」。今回も「異議あり!」ってほどのことじゃないけど、個人的な感想です。◇武尊。十円のもやしで晩餐 春を待つ晩餐は十円もやし 春を待つ(添削後)助詞の問題。「で」は手段を説明する助詞なので、添削では、まずこれを排除しています。そのかわり、上五に「の」でなく、あえて「は」を使っている。朝と昼はもっと質素だ、という意味にも取れるけど、この場合の助詞「は」は、比較というより、たんなる強調と解すべきでしょうか。◇野口健。木枯らしに 駅名告げる声かすむ木枯らしに千切れ 駅名告げる声(添削後)この添削は、正直あまり好きじゃありません。原句にならって動詞を2つ使ってるのがイマイチ。原句のほうは、「告げる」が声の修飾語で、「かすむ」が声の述語です。一方、添削句のほうは、「駅名を告げる声が 木枯らしに千切れ」という散文を倒置した形になってるのだけど、その結果、「千切れ」という動詞の連用形が中途半端に浮いて、「声」に掛かる修飾語なのか、それとも述語なのか、かえって分かりにくくなってしまってる。やはり動詞は1つに絞って、木枯らしに千切れる駅のアナウンスのようにしたほうが明快だと思います。◇LiLiCo。夜長には都の駅ももみじ色夜長なる都の駅舎 もみじ色(添削後)またしても添削に「なる」が出てきました。千原ジュニアのときの「あきの夜半なる妻ZZZ」と同じで、「時間+なる」の形ですね。意味としては「~にある」「~にいる」ってことだと思う。かりに、「夜半にいる」「夜長にある」と言ったら、たんなる時間の説明になってしまって散文的なのだけど、これを「なる」と言い換えただけで、なぜか韻文として容認されるという俳句界のルールのようです。◇マヂカルラブリー村上。行く秋と行かぬ駅の赤行く秋や 赤々とある東京駅(添削後)これは妥当な添削だと思いますけれど、あくまでも「行く/行かぬ」の対比を維持するのであれば、行く秋に なお赤々と東京駅のような方法もあるかな、とは思います。◇キスマイ千賀。凩こがらしや 人吸い人吐くターミナル人吸うて吐く凩のターミナル(添削後)てっきり「擬人化の是非」かと思いましたが、意外にも、添削では、語順を変えて中八を解消しただけで、擬人化そのものを排除していません。実際、駅に人が出入りするのは当たり前だから、「人の出入りしない駅があったら持って来いっ!」ってこと。擬人化を取ったら何も残らないのですよね(笑)。ってことで、これは擬人化をそのまま活かすしかないのだろうし、どう直しても、凡句にしかならないのかも。いちおう、わたしなりに、句またがりですが、寒き群衆を吸い吐く巨大駅としてみました。◇フルポン村上。銀杏のひかり肴に 一口目ぎんなんのひかり一粒 まず一献(添削後)読んだ瞬間、良い句だな~!と思ったんだけど、中七の「肴に」が説明的だと言われれば、まあ、たしかにそうですよね…。(^^;ちょっと降格は厳しい気もするけど、添削のほうはさすがでした。◇梅沢富美男。ますかけの手にある我の木の葉髪ますかけの手相ぞ 我に木の葉髪(添削後)原句の「ある我の」は不要だと指摘したフルポン村上が、まず正しい。添削句のほうは、客観写生・映像描写というよりも、まるで歌舞伎役者のセリフみたいな一風変わった言い回し。もし、あくまで映像描写に徹するのならば、ますかけの手相を埋める木の葉髪のような形になるかな、と思います。
2021.11.30
冬麗の太秦二時のかけうどん ステイホームなないろ散らし釜揚げうどん 七味かけ白菜漬けが歌衣装 唇が熱いと離るる手の冷たく 味爆破夜鷹蕎麦へと沈む蓋 手袋のまま割る箸の乾いた音 七味蕎麦に振り込む義士祭プレバト俳句。お題は「七味唐辛子」。今回も「異議あり!」ってほどのことじゃないけど、個人的な感想です。◇かたせ梨乃。冬麗とうれいの太秦うずまさ 二時のかけうどんこれが今週の1位。たしかに良い句だったと思いますが、本人は「冬の太秦って寒いんですよ~!」と強調してたので、その意図に沿うのならば、穏やかな日を意味する「冬麗/冬うらら」ではなく、寒々とした「冬ざれの」「底冷えの」などを使うべきかと思いました。◇千原ジュニア。手袋のまま割る箸の乾いた音おと今週は、これがいちばん良かった。番組では言及がなかったけれど、「ね」ではなく、字余りで「おと」と読ませた効果も気になるところ。個人的には余韻があって悪くないのかなと思う。※NHK俳句(櫂未知子)によれば、「ね」と読むのは音楽の場合だそうです。なお、先生は、「箸の音」とせずに、そこに「乾いた」を差し入れたことを評価してました。ただ、わたし的には、手袋のまま割る箸の音かたしのような語順でもべつに悪くはないかと思います。◇歌広場淳。唇が熱いと離るる手の冷たく冷たき手と七味に熱き唇と(添削後)諸般の事情により本人コメントがばっさりカットされてましたが、俳句の内容も微妙に時事ネタを反映してる感じで、どうやら、「辛い物を食べた後にキスしようとしたら冷たく突き放された」とかいう話のようです。読んだだけでは意味が分かりにくいのですが、「唇が熱いと言って離れた人の手は冷たかった」と解釈すればよいのかもしれません。作者の意図に寄せるのはかなり困難だけど、添削のほうも、ちょっと読んだだけでは分からないと思います。「冷たき手」が誰の手なのか分からないし、「七味に熱き唇」の意味もいまいち不明寮だし。ためしに、下五の句またがりですが、辛き蕎麦 キスを拒む手の冷たしとしてみました。「キスを拒んだ冷たい手」なら定型にもなります。◇藤井隆。七味かけ 白菜漬けが歌衣装白菜漬けにかけて 七味の華やかに(添削後)原句にせよ、添削にせよ、まず「かけない七味があったら持って来いっ!」と言うべきなのでは?ためしに、上7の字余りですが、白菜漬けに七味 紅白歌合戦としてみました。◇キスマイ北山。七味爆破 夜鷹蕎麦へと沈む蓋七味振れば 夜鷹蕎麦へと沈む蓋(添削後)てっきり「丼の蓋」かと思ったけど、外れ落ちた「七味の瓶の蓋」なのですね。それが、読んだだけではちょっと分かりにくい。その分かりにくさは添削しても消えていません。屋台の蕎麦屋が、最後に七味をふって、蓋を閉じて、売りに出る場面のようにも見えます。…というか、ここでもやはり、「振らない七味があったら持って来いっ!!」を発動したい。なので、夜鷹蕎麦 七味の蓋が落ち沈むとしました。これなら誤解の余地はないと思う。◇みちょぱ。ステイホーム なないろ散らし釜揚げうどん釜揚げになないろ散らしステイホーム(添削後)他の出演者は、七味を「ふる」「かける」などと書いてるのですが、みちょぱだけが「散らす」という動詞を使いましたね。いちおう、「散らさない七色唐辛子があったら持って来いっ!!」とも言えるけど、「なないろ」だけじゃ意味が通らない可能性もあるので、この場合は許容範囲だと考えます。なので、これは添削に異論なしです。◇梅沢富美男。黒七味 蕎麦に振り込む義士祭ぎしまつり個人的には「振り込む」という複合動詞の是非!銀行かっ!ATMかっ!年末の支払いかっ!!たとえば「散らして」「落として」「からめて」…などにも置き換え可能ですよね。そもそも、あえて「振る」を「振り込む」などと書くのは何故?討ち入りにちなんで気合でも込めてる感じ?わたしは、ここでもやはり、「振らない七味があったら持って来いっ!!」を発動したい。なので、黒七味 蕎麦かきこみて義士祭としてみました。
2021.11.23
アクセルを回し飛び込む秋の色 照葉麗し画角には富士遺産 鏡富士悪戯するよ紅葉舟 テントから白い息出し長月や マニキュアの深き雨冷の霊園 秋暁の富士へ遊覧飛行船 冷ややかや湖畔に肺の晒されてプレバト俳句。お題は「富士と紅葉」。今回も「異議あり!」ってほどのことじゃないけど、個人的な感想です。◇瀧川鯉斗。アクセルを回し飛び込む秋の色アクセルを回し秋色へと飛び込む(添削後)またしても集団で走ってるのか??と、ついつい疑念が湧いて出てくるのもあるし、上五の「アクセル回し」ってのも、もしや「バイク転がす」的なそっち系の専門用語か??と、あらぬ疑いをもってしまうのですが、そんなことよりも気になったのは、中七の「回し/飛び/込む」という動詞3連発です。一般に、動詞の多用を避けるべき1つめの理由は、「何が主語なのか分からなくなる」ってことですね。そして2つめの理由は、「その動詞が述語なのか修飾語なのかが分からなくなる」ってこと。この句の場合は、まさにその後者です。かりに、アクセルを回し飛び込む / 秋の色と読むならば、「回し飛び込む」がまるごと述語になりますから、エンジンを吹かして飛び込んだことになるけれど、アクセルを回し / 飛び込む秋の色と読むならば、「飛び込む」が下五を修飾するわけなので、「秋の色」のほうが視界へ飛び込んでくることになる。まあ、「どっちでもいい」といえば身も蓋もないのだけど、読んだ瞬間に混乱を生じさせるのは事実です。…そもそも「飛び込む」の4文字って必要ですか?アクセルを回し秋色へとさえ書けば、状況は伝わってしまうわけだから、残りの4文字分で別のことが言えると思う。たとえば、アクセルを回し 清さやかな秋色へ …とか。かりに「飛び込む」のニュアンスを尊重するとしても、動詞を3つも並べるのではなく、「すぐさま」「たちまち」「いっきに」…のような副詞に置き換えることもできる。てなわけで、アクセルを回し 一気に秋色へとしてみました。◇菊池桃子。照葉てりは麗し 画角には富士遺産照葉麗し 画角に世界遺産富士(添削後)添削では、原句の「麗し」を尊重してますが、上7を字余りにするほど不可欠な主観表現とも思えないので、そこは定型に収めたいってのが個人的な希望です。◇ダイアン津田。鏡富士 悪戯するよ 紅葉舟もみじぶね鏡富士ゆるがせ 紅葉舟よぎる(添削後)助詞のない三段切れのため、どっちが主語でどっちが目的語なのか分からず、てっきり「鏡富士が紅葉舟に悪戯する」のかと思ったら、本人の説明は逆でした。添削では、擬人化表現を尊重して「ゆるがす」としてますが、かりにクサい擬人化も排除してしまうならば、紅葉舟 碧く波打つ鏡富士みたいな取り合わせの句になるでしょうか。◇キスマイ二階堂。テントから白い息出し長月や富士は夜よや テントに秋の息白し(添削後)季重なりの問題もさることながら、そもそも息は「出す」ものじゃなく「吐く」ものだし、「長月」は細長い月じゃなくて「九月」のことだし、いつもながら、俳句うんぬんより、まず日本語として踏み外しちゃってる感が強い。(^^;「や」を最後に置くのも無自覚にやってるし。先生の添削が面白いのは、あえて季重なりをそのまま残したことですね。ずばり「秋の!!」と断言してしまえば、「テント」や「息白し」は季語ではなくなる、ということなのでしょう。この剛腕な手法は、なかなか便利だなと思いました。ただ、厳密にいうと、原句は「テントから顔を出して」冷たい息を吐いてるのに、添削句では「テントの中で」白い息を吐いてるように見えます。◇ミッツ・マングローブ。マニキュアの深き雨冷あまびえの霊園マニキュアの深し 雨冷の霊園(添削後a)マニキュアや 雨冷深き霊園に(添削後b)句材そのものはミッツらしさ抜群です。気味悪くて冷たくて湿ってて深紅で、微妙にエロい。でも、中七の「深き」の形式的なミスは初歩段階ですから、そこはクリアしないといけません。◇岩永徹也。秋暁の富士へ 遊覧飛行船今回は、これが安定感もあって、いちばん良かったです。和洋折衷っぽくもあり、また自然とテクノロジーの調和っぽくもあり、なかなかユニバーサルなスケール感をもった風景でした。◇梅沢富美男。冷ややかや 湖畔に肺の晒されてはい。掲載決定だそうです!ふつうなら、冷ややかな湖畔へ肺を晒しけりとしそうなところを、倒置法のような独特の語順にしていて、わたしには、それがちょっとぎこちなく感じる。さらに、「冷ややか」は形容動詞の語幹なのですが、そこに「や」をつけることへの違和感もあります。調べてみると、「のどかや」「爽やかや」という句も出てくるので、とくに文法的な間違いではないようですが…。三峡の湾処のどかや 漁り舟(松崎鉄之介)爽やかや 風のことばを波が継ぎ(鷹羽狩行)爽やかや 白一色の搾乳婦(水原春郎)もともと日本語は、形容動詞の語幹と名詞との区別がしにくく、「閑しずかさや」でも「閑しずかや」でもどっちでもOK!みたいな融通無碍なところがあるのですね。しかし、そうはいっても、「急や」「綺麗や」「温暖や」「抽象的や」…などの可能性を考えると、どうも《形容動詞の語幹+や》には違和感を拭えない。なので、秋冷の湖畔へ肺を晒しけりあけぼのの湖畔に肺を冷やしけりなどとしてみました。
2021.11.15
紅白帽脱いで焼きたて林檎パイ 来ぬ君を金木犀の香に赦す 待ち合わせカフェが満席初冬かな ハチ公を挟み会えずの冬隣 夕月夜名の無き猫と君を待つ 背にホルンケース秋寂ぶのハチ公前 伝言板くせ字も愛し秋うららプレバト俳句。お題は「待ち合わせ」。今回も「異議あり!」ってほどのことじゃないけど、個人的な感想です。◇小倉優子。紅白帽脱いで 焼きたて林檎パイこれが今週の1位。子供が帽子を脱ぐとすぐに、焼き立てのパイが登場するのが微笑ましくて可愛い。小倉優子は、「チョークののび太」のときもフジモンっぽかったけど、今回もやっぱりフジモンっぽい作風だと感じます。◇そのフジモン。背にホルンケース 秋寂ぶのハチ公前今回はこれが一番よかった。破調といえば破調だけど、安定したリズムだし、秋寂ぶだけど、芸術の秋らしい上質感もある。句材もいいし、季語の使い方も手練れてます。小倉優子が "フジモン風" なのに対して、フジモン自身は、ちょっと作風が変わってきていて、かなり渋味を感じさせるようになりました。金秋戦の句もよかったし、村上より早く永世名人になりそうな予感もある。◇神谷明采。来ぬ君を 金木犀の香に赦す兼題から、とりあえず竹久夢二を引っぱってきて、金木犀の甘い香りをかぶせて大正歌謡風に仕立てた感じ?発想の手順は、いかにも東大生っぽいけど、最後の「香に赦す」のところに独創性が出てて面白いのですね。◇薬丸裕英。待ち合わせ カフェが満席 初冬かな待ち合わせのカフェは満席 冬はじめ(添削後)これはあきらかに添削のほうが上ですね。上五を「約束の」とかにすれば、字余りにしなくても済むとは思いますが、まあ、口語的な上六のほうが味わいがあるかもしれません。かりに原句の「かな」を活かすならば、切れを入れずに、満席のカフェに待ち侘ぶ初冬かなってな感じでしょうか。◇梅沢富美男。伝言板 くせ字も愛し 秋うらら秋麗や くせ字愛しき伝言板(添削後)これもあきらかに添削のほうが上。三段切れにしろ、助詞「も」の使い方にしろ、季語の効果的な使い方にしろ、永世名人にしては迂闊なミスというべきですが、まあ、他人のミスにはすぐに気がついても、自分のミスにはなかなか気がつきにくいのでしょうね。◇キスマイ宮田。ハチ公を挟み 会えずの冬隣ハチ公を挟み 冬隣の苦笑(添削後a)ハチ公を挟み 冬隣の不覚(添削後b)本人の説明によれば、待ち合わせた相手がハチ公像の反対側にいたのに、不覚にも気づかなかった、ってことらしい。しかし、説明を聞かずに読むと、反対側にいた赤の他人も、自分と同じように約束をすっぽかされている、…という状況に見えなくはない。とくに(添削後a)などは、そういうふうに読めます。かたや(添削後b)は、読んだだけでは状況を掴むのが困難で、「冬隣の不覚」という字面を見た瞬間は、二人ともうっかり薄着で来てしまった!…みたいに思える。ためしに、君何処いずこ ハチ公前の冬隣人混みのハチ公像や 冬隣としてみました。◇千原ジュニア。夕月夜 名の無き猫と君を待つ名前なき猫と君待つ夕月夜(添削後a)まだ名前なき猫と待つ夕月夜(添削後b)本人の説明によれば、屋外の待ち合わせで野良猫と一緒にいる状況らしい。しかし(添削後b)を読むと、野良猫というよりも、まだ名前をつけてない飼い猫と一緒に、家の中で誰かの帰りを待ってるように読めるし、じつは、原句であれ(添削後a)であれ、そういう誤読が可能です。おそらく助詞の「も」を避けて、あえて「名もなき」とせず「名のなき」としたのでしょうが、それだと「名前をつけてない飼い猫」と誤読されてしまう。やはり野良猫だと明示するためには、「名もなき猫」とすべきなのだろうし、(「名前もないし家もない」という意味です)さもなくば、はっきり「野良猫」と書くべきだと思います。ためしに、待ちぼうけ 名もなき猫と夕月夜野良猫や 君を待つ間の夕月夜としてみました。
2021.11.01
デビュー曲一位行きつけの新蕎麦 歯車の音が聞こゆる秋の空 歯車や秋空軋むほど青し 怖るるな最下位怖るるな夜長 怖るるな詩を怖るるな長き夜をプレバト俳句。お題は「ランキング席」。今回も「異議あり!」ってほどのことじゃないけど、個人的な感想です。◇ABC-Z河合。デビュー曲一位 行きつけの新蕎麦句材はいいと思いますが、それが破調にふさわしいかというと、ちょっと判断に困る。ただ、けっして異様なリズムではないし、さほどの違和感なく読めるのも事実です。その意味では、意外と句材の清々しさに合ってるのかもしれません。◇立川志らく。歯車の音が聞こゆる秋の空歯車や 秋空軋むほど青し(添削後)作者から芥川の話が出ましたが、もともと芥川の「歯車」のなかで描かれるのは、耳鳴りじゃなくて、幻視ですから、この句を読んで芥川の小説を思い起こすのは不可能です。そこから切り離して読むしかありません。そのうえで、まずは、「聞こえない音があったら持って来いっっ!!」と言いたいところなのですけど、この句の場合、ただの「歯車の音」と「秋の空」の取り合わせじゃないので、あえて「聞こゆる」と書いて耳鳴りを表現したかったのでしょう。しかし、それでもなお耳鳴りだと解釈するのは困難で、やっぱり「歯車の音」と「秋の空」の取り合わせにしか見えません(笑)。作者の意図に沿うならば、耳鳴りの歯車 秋の空揺れるとでも直すしかないと思います。…一方、添削のほうは、別の意味で面白い作品になったと思います。いったん現実の歯車を描写しながら、「秋空が軋むほど青い」という表現のなかに、主人公の特殊な精神状態や感性をうかがわている。そこからどんな詩情を汲み取るかは、読み手次第だと思いますが。◇東国原英夫。怖るるな最下位 怖るるな夜長怖るるな詩を 怖るるな長き夜を(添削後)原句のほうは、字面が不気味なわりに内容が通俗的なので、形式の不穏さと内容の安っぽさが噛み合っていない。先生の添削のほうでは、そのアンバランスを修正してますけど、不気味な形式に内容が噛み合いすぎていて、逆に怖いです(笑)。好きか嫌いかでいうと、あまり好きじゃありません。正直、怖すぎる。
2021.10.26
鯖雲と無人弁当販売所 朝寒や唐揚げ渡す火傷の手 紅葉をお箸で彩るおべんとう 紅葉弁当わたくし色に詰め直す 葉の隙間溢れ蟲くる歯の隙間 木漏れ日やこぼるる飯にたかる虫 居酒屋の定食鹹く鰯雲 ふりかけに詳しきナース黄落期 林檎のうさぎ雲梯を二段飛ばしプレバト俳句。お題は「弁当の店頭販売」。今回も「異議あり!」ってほどのことじゃないけど、個人的な感想です。◇星野真里。鯖雲と無人弁当販売所上五を「や」で切ってカットを2つに割るか否か。結論としては、あえてカットを割らず、空間の広がりをワンカットに収めたのが勝因。なるほど~。コロナ禍の世相も反映してるようですが、映像自体は、スカッとしてすがすがしいですね。漢字7文字を躊躇なく使った大胆さもふくめて、これは文句のない1位でした。◇馬場典子。居酒屋の定食鹹からく鰯雲これも同じ。中七を「鹹し」で切ってカットを2つに割るか否か。わたしとしては、「鹹く鰯雲」という繋ぎ方にやや不自然さを感じるけど、先生いわく「作者の意図次第。どちらも可」とのこと。この句の場合は、口のなかを鹹く感じながら鰯雲を眺めるまでの流れを、カットを割らずに、一連の動きとしてカメラが追っています。星野真里のほうが空間的なワンカットだとすれば、馬場典子のほうは時間的なワンカットなのですね。こういう手法が可能だと分かると、かならずしも切れにこだわらなくて済むし、だいぶ型にとらわれない句が詠める気はします。◇犬山紙子。朝寒や 唐揚げ渡す火傷の手先生の直しはなかったけど、わたしは「渡す」という動詞が引っかかりました。「渡さない手があったら持って来いっ!」とまでは言えないけど、「手以外の渡し方があったら持って来いっ!」とは言えるのです。つまり、「手」だけじゃ「渡す」かどうかは分からないけど、「渡す」といえば「手」ということは分かるのです。なので、結論としては「唐揚げを売る」にしたほうがいい。実際、そう書かなければ、お弁当屋さんの手ではなく、料理の未熟な妻の手だと誤解される可能性があります。◇高島礼子。紅葉をお箸で彩るおべんとう紅葉弁当 わたくし色に詰め直す(添削後)本人の説明によると、「紅葉のようなお弁当」を箸でいじってるらしい。つまり、季語は比喩なのですね。そこがちょっと弱い。添削のほうも季語の扱いは微妙ですけれど、すでに「紅葉弁当」が秋の風物であるならば、これを新しい季語として扱うのも可能だとは思います。◇くっきー。葉の隙間溢れ蟲むしくる 歯の隙間木漏れ日や こぼるる飯にたかる虫(添削後)原句を普通に読めば、「イモムシ」と「虫歯」の掛け合わせのように見えるし、くっきーのことですから、目から蟲が飛び出てるイラストみたいに、葉と歯の両方の隙間から蟲が飛び出てるのかな、と思いました。しかし、本人の説明は、期待したほどには面白くない。(^^;いっそのこと、韻を踏みまくって、むしゃむしゃと飯を蝕む蟲の群れとでも直したいなと思いました。ちなみに鳴く「虫」とか「芋虫」なら秋の季語ですが、飯にたかるような「虫」が秋の季語といえるかどうかは分かりません…。◇フルポン村上。ふりかけに詳しきナース 黄落期けっしてネガティブな句でないとは思うのだけれど、どうしても、「ナース」と「落ち葉」の組み合わせからは、オー・ヘンリーの「最後の一葉」を思い出してしまうので、「黄落期」を主役と見なすことに躊躇を覚えます。かりに下五を、「黄葉もみじ降る」とか「銀杏いちょうの実」とかにしていれば、それほどネガティブな印象にはならなかったと思う。…もっとも、これは読み手の側のとらえ方の問題であって、たとえば、桜の花が舞い散る様子を見て、「華やか」と思う人もいれば「儚い」と思う人もいるように、銀杏黄葉が舞い散る様子を見て、「神々しい」と思う人もいれば「悲しい」と思う人もいるんですよね。ちなみに、通常の日本語の表現では、桜の花や銀杏の葉が落ちる様子を「舞う」とも言うけれど、俳句の場合、「花散る/銀杏散る」とか「落花/黄落」は季語になっても、「花舞う/銀杏舞う」では季語にならないようです。ネガティブな印象になりがちなのは、季語に「散」や「落」の字しか使えないせいもあると思います。◇東国原英夫。林檎のうさぎ 雲梯を二段飛ばし7・5・6の破調。とくに上七が清新な印象をもたらします。本人によれば、ウサギリンゴの飾り切りが少女への憧れに重なった、とのこと。なるほどね~。そこまでは読めませんでしたが、ウサギのように元気いっぱいな少年の姿は見えます。
2021.10.18
スマホ死す 画面に浮かぶ指紋と月 まず雁の飛来を尋ね 長電話 フリードリンク 夜学子の電子辞書 静かに文を破く ふと秋蛍 発電機運ぶ赤鬼 村祭 龍淵に潜む 充電切れスマホ 携帯をタコ足充電 夜学校 秋雷や 絶縁破壊 長き闇 夜半の秋 次子に授乳の妻ZZZ 秋蝉や 仰向いてなほぎぎと鳴くプレバト俳句。金秋戦の決勝。お題は「バッテリー切れ間近」。今回は、ちょっと順位に疑問を感じました(笑)。◇キスマイ北山。スマホ死す 画面に浮かぶ指紋と月はたしてこれが1位でいいのかどうか。俳句にはありうることだけど、選者の《誤読》によって1位になっちゃった感…が強い。先生は、「てっきり東国原の句かと思った」と言ってましたが、いったいどのように解釈したのでしょうか?まず、「死す」「指紋」「月」ときたら、ふつうは《月夜の殺人事件》みたいな読みになると思う。おそらく、「スマホ死す」=被害者との連絡が途絶えた「画面に浮かぶ指紋」=見つかったスマホに犯人の指紋みたいな解釈だったのでしょう。そういう解釈ならば、下六の字余りも、意外と不穏な効果を発揮します。かりに殺人とまではいわずとも、スマホの破壊を伴う犯罪の句とも読めますし、むしろ、そのようにでも読まなければ、ふつうは1位になりえない作品だと思います。◇個人的には、フジモンの句が一番よかったと思う。まず雁の飛来を尋ね 長電話故郷への長電話の様子を詠んだそうですが、わたしは一読したとき、学者か気象関係者を主人公にしてるのかなと思いました。いずれにしても、フジモンには珍しく渋味があって良い句です。◇キスマイ横尾。フリードリンク 夜学子の電子辞書2位になるほど秀でた句かは分からないけど、24時間営業のファミレス。電子辞書というツール。孤独に学ぶ夜学校の生徒。…といった現代の風景を切り取ったのが勝因?もっとも、いまや電子辞書なんて新しくもないし、24時間のファミレスも、むしろ減ってきてますけど(笑)。◇立川志らく。静かに文を破く ふと秋蛍静かに文を破く 秋蛍ふっと(添削後)静かに文を破く 秋蛍ほのと(添削後)破調の試みとしては面白いと思う。副詞の位置のちがいによって、原句の「ふと」が主観の表現で、添削後の「ふっと/ほのと」が客観描写になる、…という先生の解説も面白かった。添削は全部で18音になってますが、助詞の「を」を省いて静かに文やぶく 秋蛍ふっととすれば17音に収まります。印象としては女性的な句ですよね。◇フルポン村上。発電機運ぶ赤鬼 村祭本人が狙ったほどの意外性はなかったですね。どことなく「運ぶ」という動詞が説明的でもある。むしろ、村祭 赤鬼のもつ発電機ぐらいに漠然とした動詞のほうが、かえってミステリアスで面白かったかも。◇梅沢富美男。龍淵に潜む 充電切れスマホ真っ黒な液晶画面 龍淵に(添削後)はい、いつもの梅沢のパターン(笑)。時候の季語に比喩の意味合いを掛け合わせ。しかし、読んだだけでは掛け合わせの意図が伝わらず、たんに「秋の日に充電が切れた」としか分からない。かりに、掛け合わせの意図を汲み取ったとしても、コンセントで充電すれば龍が天に昇るというのでは、季語としての意味が無くなってしまうわけで(笑)。その点、先生の添削では、テレビかスマホかは分からないけれど、電力の状態にかかわらず、暗い画面に潜む得体の知れない何かを秋の龍に重ねています。わたしなら、多機能のスマホは暗し 龍淵にとしたかもしれません。◇東国原英夫。携帯をタコ足充電 夜学校タコ足充電 夜学の携帯のとりどり(添削後)東国原にしてはちょっと物足りない。これで1位を狙うのは無理だったでしょう。「タコ足充電」は8音分あるので、その処理は難しいという話でしたが、わたしは「充電」の4音分は不要であって、「タコ足」だけでも意味が通じるように思う。ためしに、タコ足のスマホ 夜学の人いきれとしてみました。追記:「夜学」が秋で「人いきれ」が夏の季重なりでした…◇中田喜子。秋雷や 絶縁破壊 長き闇秋雷や 絶縁破壊の闇長し(添削後)これはあきらかに添削が正解。添削したら、3位ぐらいでもいい句だったと思います。◇千原ジュニア。夜半の秋 次子に授乳の妻ZZZ次子に乳 あきの夜半なる妻ZZZ(添削後)わたしは、この形の「~なる」を使った添削が、いまいちピンとこない。「~にある」「~にいる」と同じ意味だと思いますが、ただの字数合わせ以上の効果を感じられません。◇森口瑤子。秋蝉や 仰向いてなほぎぎと鳴く仰向いてぎぎと鳴きけり 秋の蝉(添削後)これはいい添削だと思いました。添削後でいえば、個人的には1位か2位にしたいくらいの句。
2021.10.02
公園の漫才師黙 秋夕焼 独立の夜や ゴッホの星月夜 ラフレシアも秋夕焼も人を食うか 選局はルーティーン 今日は土瓶蒸し 109 夕日にうつされ0になり 初MCのエゴサ 車窓は秋夕焼 切れかけのグローブ眺めし 秋夕焼プレバト俳句。お題は「秋の夕日」。今回も「異議あり!」ってほどのことじゃないけど、個人的な感想です。◇千原ジュニア。公園の漫才師黙もだ 秋夕焼 漫才師の黙 公園の秋夕焼(添削後)今回は、この句が一番いいと思いました。本人も自信作だったはずです。季語を活かすという点では添削もやむなしですが、ちょっと惜しかったな。◇東国原英夫。ラフレシアも秋夕焼も人を食うかすごいセオリー破り…。6・6・6の破調と擬人化。季語の立て方はかなり破壊的。一読したとき、わたし自身はボツかと思いましたが、実際は掲載決定でした。セオリー破りなので、評価も割れるかなと思います。一般に、助詞の「も」は説明的になりがちです。とはいえ、言外に「もうひとつの何か」を匂わせるよりは、並置するものを「~も~も」とはっきり描写するほうがマシ。問題なのは、この句の場合、「秋夕焼」と「ラフレシア」の並置そのものが、すこしも客観的ではなく、まったくもって主観的、観念的だということです。しかし、きわめて主観的であるにもかかわらず、それでもなお、季語に対して、ある種の描写力をもってるような気にもさせる。そこが高く評価される理由でしょう。その一方、「熱帯雨林の花のイメージが秋の季節感を凌駕し、破壊している」という批判もあるだろうなと思う。◇浅野ゆう子。選局はルーティーン 今日は土瓶蒸し選局はニュース 今宵は土瓶蒸し(添削後)原句の「選局はルーティン」という説明にくらべれば、添削後の「選局はニュース」という映像のほうが描写的ですね。ただ、結果的に、作者の意図した「テレビ=日常 / 土瓶蒸し=非日常」という対比が、添削では消えてしまっています。テレビで嬉しいニュースが流れてるようにも見えるから。ついでにいうと、わたし自身は、「選局=ラジオ」「チャンネル=テレビ」という連想があるから、一読してテレビのことだとは思えない。ためしに、テレビであることを明確にしつつ、「日常と非日常の対比」という作者のコンセプトも残すかたちで、いつものチャンネル 今宵は土瓶蒸しと直してみました。◇空気階段・水川かたまり。109 夕日にうつされ0になり秋夕日に熔けゆく渋谷109(添削後)先生の添削では、「109が0になる」というダジャレを切り捨てて、「映される」という動詞が描こうとした状況を明瞭にしてます。個人的には、「夕陽に映えてゼロになる」とすれば許容できたかな、という気もする。添削のほうも、上五に季語を置いてから「夕陽に熔ける109」と収めれば、字余りを回避して定型に出来たかと思います。◇ABC-Z河合。初MCのエゴサ 車窓は秋夕焼初MC終えて 車窓は秋夕焼(添削後a)エゴサ―チやさし 車窓は秋夕焼(添削後b)エゴサーチ苦し 車窓は秋夕焼(添削後c)原句は、「MCによるエゴサ」なのか、「MCについてのエゴサ」なのかが分かりにくい。その点、添削のほうはスッキリして明快です。◇武尊。切れかけのグローブ眺めし 秋夕焼切れかけのグローブ眺む 秋夕焼(添削後)これって「ボクシング」だからこその詩情だと思うのです。でも、作者を知らずに読んだら、たいていは野球のグローブと勘違いするだろうし、あるいは作業用の手袋と考える人もいるかもしれません。減点するほどではないにしろ、やっぱり「ボクシング」だと分かる単語があったほうがいいし、ついでにいえば、中七の「見る/眺める」という動詞の使用も安易で凡人くさい。ためしに、切れかけのパンチグローブ 秋夕焼としてみました。◇そして、今週の1位にして、最大の問題作はこれッ!!↓堀未央奈。独立の夜や ゴッホの星月夜一読して「カッコいい!!」と思わせる作品ですよね。番組前半の水彩画査定では、印象派みたいな画風で最下位を喰らってましたが、絵だけでなく俳句まで印象派のようです(笑)。本人によれば、独立というのは「グループからの脱退」のことらしい。(AKB用語でいうところの「卒業」ですね)でも、先生が言うように、この句のスケール感からいえば、「国家の歴史」のような大きなテーマで味わうのにふさわしい。実際、「ゴッホはオランダ人じゃない!ベルギー人だっ!」と主張してる人なら、独立記念日にこういう句を詠むかもしれません。(知らんけど)すごく興味深いのは、下五の《絵画のなかの「星月夜」》の映像を、中七の《現実の「夜」》が引き取って、切れ字の「や」で強調してること。だから、季語の鮮度が失われていません。こういう手法ははじめて見ました。…しかしながら、たしかにそういう解釈と評価もアリなのですが、厳密にいうと、この句は、兼題からだいぶ離れてるのも難点だし、のみならず、あくまでも「無季の句」だといわざるをえない面があります。というのも、すごく紛らわしい話ですが、もともと日本語の「星月夜」というのは、ゴッホの絵のように「星と月が両方出ている夜」のことではなく、実際は「星々が(月みたいに)照らしてる夜」のことだからです。つまり、月夜のように明るい「星の夜」ってことです。これに対して、ゴッホの絵は、1889年の6月に描かれていますので、「夏」における「星と月の夜」の絵であって、「秋」の絵でもなければ「星月夜」の絵でもありません。したがって、堀未央奈の俳句において、「ゴッホの星月夜」は秋の季語の役割を果たしておらず、かりにその映像を「独立の夜」が引き取ったとしても、やっぱり無季の句にしかなりえないのです。ってことで、なかなかの問題作でした。追記:あらたに「ゴッホの星月夜」を夏の季語と見なすのなら、堀未央奈の作品を夏の俳句と考えることもできます。ちなみに、ゴッホの絵では月が煌煌と光っているように見えますが、満月ではなく三日月なので、意外に月の光は弱いのかもしれません。実際、オランダ語の原題は「De sterrennacht」(星の照らす夜)ですし、あながち「星月夜」という和訳も間違いではありません。↓《ゴッホ:後期印象派》↓《の絵ではありません》
2021.09.30
金秋戦。予選の後半。今回は「秋声」「爽籟」「書肆」「虚栗」など、はじめて知るむずかしい言葉ばかりでした。◇キスマイ北山。秋声しゅうせいや 台詞をなぞる蛍光ペンもっとも素直で正統的な句が1位でした。作者を知らずに読んだら、「台本に書かれた俳優の台詞」ではなく、「小説の登場人物のお気に入りの台詞」と解釈するだろうけど、そういう読みでも成立する句です。◇ミッツ・マングローブ。爽籟そうらいを追う老眼鏡の上目老眼鏡 上目遣いに追う爽籟(添削後)意味としては添削後のほうが明快。しかし、季語を立てるためには、それを上五に置くべきなのか下五に置くべきなのか。ちょっと判断が難しい…。かりに、老眼鏡から上目に追いたる爽籟のような破調にすれば、とりあえず季語は立つと思うのですが。◇松岡充。流星や 馴染みの書肆しょしも"閉店す"馴染みなる書肆の閉店 星流る(添削後)添削後のほうが形も整っていて、季語も立っている。ただ、そもそも「肆」と「店」はほぼ同じ意味の漢字なので、「書肆の閉店」は、「頭痛が苦痛」みたいな重複のようにも思えるし、12音分を使ってる内容は、本来なら「馴染みの書肆閉ず」の8音でも言えるはずです。◇キスマイ千賀。白鯨の引き波は この台風や台風の この引き波は白鯨か(添削後)下五に「や」を置く語順の是非もさることながら、意味がかなり分かりにくい。メルヴィルを読んでいれば分かる、というものでもなさそうです。これはきっと海岸の引き潮ではなく、沖合の漁船を引きこむ渦巻きのことなのでしょう。熱帯低気圧によって発生する引き波を、渦の中心に潜る白鯨とのアナロジーで描写したのかな。しかし、それは観念的なイメージにすぎないし、まして17音で伝えるには無理がある内容です。まだしも添削のほうが分かりやすいけど、それでも「台風の引き波=白鯨」を理解するのは困難です。◇馬場典子。虚栗みなしぐり 書架の威を借るウェブ会議書架を背に 虚栗めくWEB会議(添削後)虚栗とは《殻ばかりで中身のない栗》のこと。つまり「書架を見せびらかす連中は虚栗も同然」という皮肉です。先生は「添削後なら1位だった」と言いますが、季語を比喩として用いるならセオリー破りですよね。それとも、ダブルミーニングで、時候の季語としての意味ももたせてるんでしょうか?
2021.09.23
金秋戦がはじまりました。さすがに上級者どうしの争いとあって、原句も、添削も、なかなか通常のセオリーには収まらないですね…。◇中田喜子。しぶき上げ 復活の秋ひとりじめどうやら池江璃花子の話のようです。「しぶき上げ」で水泳だと分かり、「復活の秋」で闘病明けの秋の試合だと分かり、「ひとりじめ」でその活躍ぶりが想像できる、という仕掛け。その意味で、言葉の経済効率はよいのかもしれませんが、あえて意地悪な言い方をすれば、すべてのフレーズが "コピーライト" っぽいとも感じます。広告のコピーとか、ニュース記事の見出し文句は、まさに「言葉の経済効率」で勝負する世界だから、ある意味で俳句に近い表現だとは思うけど、やや誇張気味だし、既視感もあるし、安っぽくも感じる。そういう言葉を俳句に用いるのは良し悪しだと思います。前回も「句読点なき恋花火」というまるでポップスの歌詞みたいなフレーズを使ってましたが、わたしはあまり好きじゃありません。…ちなみに、わたしは、上五の「しぶき上げ」だけで水泳とは判断できませんでした。実際、ツイッターを見ていたら、「競艇の句だと思った」という人もいたし、秋だから「雪しぶき」ではないにしても、サーフィンの句だとか、漁師の句だとか、雨の高速道路の句だとか、かなりの誤読の可能性があるのも欠点だと思います。◇森口瑤子。座り込む アンカーの目に秋夕焼座り込むアンカー 秋夕焼くずる(添削後a)くずおれるアンカー 秋夕焼赫あかし(添削後b)わたしは、小学生のリレーではなく駅伝のアンカーだと思ったのですが、そのうえでいえば、原句のほうが好きです。目に映った秋夕焼の映像だけで、走り終えた人物の様子が詩情をもって伝わってくるし、あえて勝ち負けを明示する必要もないと思います。なお、(添削後b)についていうと…セオリーに従うならば、「赤くない夕焼けがあるんなら持ってこいっ!!」となるはずですが、あえて韻を踏みつつ「赫」という字で強調することで、そのセオリーを破っています。それが妥当なのかどうか、わたしには判断がつきません。◇岩永徹也。軸足のギプスの寄せ書き 山粧ふ軸足のギプスに金秋の寄せ書き(添削後)上五の「軸足」でスポーツ選手だということが分かる。しかし、季語が山の情景なので、病室ではなく、屋外の練習風景が見えてしまいました。杖をついて練習を見学に来たのかしら?と。添削後の句なら、病室の窓越しに落ち葉が舞う様子も見えます。◇春風亭昇吉。負けても勝っても母秋刀魚焼く試合如何に 子の好物の秋刀魚焼く(添削後a)勝敗如何に 子の好物の秋刀魚焼く(添削後b)勝負如何に 子の好物の秋刀魚焼く(添削後c)原句は、切れ目なしの一行詩的なリズムが、これといった詩情を伝えるでもなく、あまりパッとしないと率直に感じました。◇パックン。天高し アーチ描くホットドッグ天高し 売り子の放るホットドッグ(添削後)まず、リズムについてですが、「中6下6」で17音に辻褄を合わせるよりも、アーチを描くホットドッグと「中7下6」の字余りにするほうがマシだと思う。内容的には、球場でホットドッグを投げるという米国式の習慣を知らないので、原句を読んだ瞬間、ホームランを見ながらホットドッグを食べてるのかと思いました。人によっては、野球のことすら連想できないかもしれません。一般の日本の読者にとっては、添削後のほうが状況は分かりやすいですが、「アーチ」という言葉を省いた結果、野球に結びつく要素はほぼ無くなったともいえる。◇フジモン。魚群探知機 朝寒のがなり声本来は、朝寒の魚群探知機 がなり声とすれば、5・7・5の定型になるのですが、時候の季語に具体性をもたせるために、あえてこの語順にしたのは正しい、との評価でした。なるほど。◇立川志らく。《首つりの家》には林檎は無いのか季語の「林檎」を、かなり象徴的な意味合いで使っていて、しかも、その林檎すらも「無い」という句。季語によって季節を描くというセオリーを完全に破っています。良し悪しはともかく、かなり挑戦的な句でした。◇三遊亭円楽。病院の 脂の抜けた蒸し秋刀魚病院や 脂の抜けた蒸し秋刀魚(添削後)これもセオリー破りです。季語の「秋刀魚」を不味そうに否定的に描いています。さしずめ「目黒の秋刀魚のほうが美味い!」ってところでしょうか(笑)。先生の添削は面白いと思いました。季語を強調するのではなく、あえて「病院」のほうに切れ字をつけることで、この《季語の否定》を逆説的に浮き上がらせています。◇筒井真理子。中心に記憶の螺旋 黒葡萄黒葡萄に種 吾に記憶の螺旋(添削後)作者は山梨出身とのことで、葡萄の記憶が刻みつけられているらしく、その自分の「記憶」についてのイメージが、葡萄の実の真ん中にある種子や、そのDNAの螺旋形にまで重なったとのことです。しかし、それはあくまでも観念的なイメージに過ぎないし、それ自体を句材にするのはハードルが高すぎると思いました。◇パンサー向井。秋刀魚の目 勧める母の目に力秋刀魚の目 勧める母の目の静か(添削後)焼かれた秋刀魚の目玉の気味の悪さと、それを「食べろ」という母の目の威圧感を、子供が怯えつつ見比べている…というコミカルな状況。しかし、いまひとつ、その滑稽味を活かしきれていない気がする。ためしに、秋刀魚の目 それを食べろとお母かあの目としてみました。
2021.09.16
遅ればせながら、先週のプレバト。お題は「実家の柱」。今回は、季語選びの難しさを考えさせられました。◇東国原英夫。秋暑し 柱は饐すえた父の臭い後述のとおり、フルポン村上は季語で落とされたのですが、東国原は季語で評価されました。村上はほのぼのした平和な光景を詠んでいますが、東国原は、ある種の「不快」を句材にしていて、時候の季語が、その具体的な嗅覚や皮膚感覚と巧みに結びついています。ちなみに下六の字余りです。梅沢なら、きっと下六を嫌うだろうし、わたしも「父の臭しゅう」じゃダメなの?と思ったけど、あえて感覚にうったえる部分で字を余らせるのが、東国原のしたたかさかもしれません。◇フルポン村上。車庫入れの誘導は父 秋日和直しはないけど、季語でダメ出し。個人的には、「これ以上の季語があるかしら?」とさえ思ったのだけど、逆にハマりすぎていて意外性に欠けるのかもしれません。音楽でいうところの「フックが足りない」感じ?正直、どんな季語を選べばいいのか分からないけど、たとえば「柿の秋」なんかはどうでしょうか?庭の光景とか、息子の成長とか、父の老いとか、そういう具体性に結びつくかもしれません。…いずれにしても、このレベルの季語選びはとても難しい。名人だからと言わず、平場の句でも、こういう季語の吟味をどんどんやって欲しいです。◇貴島明日香。秋の日に母の枕香薄れゆく秋の日や 母の枕香うすれゆく(添削後)これが今週の1位。「枕香」という古い日本語があるのを知りました。もともとは、ややエロティックな言葉なのかもしれません。薄れゆくのは「母の記憶」なのかと思いきや、本人の説明によれば、たんに「涼しくなったので臭いを放たなくなった」という物理的な話。添削では「や」を用いて季語を強調していますが、わたし的には、これも季語を変えたほうがいいんじゃないかと思う。…というのも、そもそも枕香がうすれていくのは、「秋の日」という1日の時間経過ではなく、もっと長い時間経過においての話であって、夏が過ぎて以降、すこしずつ消えていくのだと思うから。そうした長い時間経過を描くのなら、むしろ「夏逝きて」「夏去りて」などのほうが妥当だと思います。◇かまいたち山内。盆休み 久々の足の指の敵また指をぶつける柱 盆の家(添削後)添削では、大人になってもまた足をぶつけることになってます。しかし、説明をよく聞くと、「もう指はぶつけぬ柱」とするのが本人の意図に近いはずだし、そのほうが子供時代との対比が見える気がします。◇村上佳菜子。疲れたなあ 追い込む季節 冬隣練習終え スケートシーズンは間近(添削後)原句は、意味も分からないし、映像も見えない。添削では完膚なきまでに直されています。ただ、わたしとしては、もうちょっと作者の意図に寄せた添削に出来ないものかと思う。「スケートリンク」「フィギュアの演技」といった映像、「試合への追い込み」「最後の仕上げ」といった状況、それらをうまく折り込んで添削してあげたいところだし、フィギュアに固有の単語を使えば、きっと経済効率も良くなる。スケート場を意味する「リンク」が季語に当たるのか微妙だし、アラビア数字を使うのも一般的には禁じ手ですが、ためしに、"3ルッツ"仕上げる冬隣のリンクとしてみました。◇かまいたち濱家。明日急かし 日めくり揺らす秋の初風日めくりを揺らして秋の初風は(添削後)原句のほうは5・7・7という短歌風の調べでしたが、これは良い添削になったと思います。◇和田アキ子。今年酒 我が膝さする小さき母吾の膝をさする母の手 今年酒(添削後)新酒のことを「今年酒」というのですね。かりに「1年に一度の母との時間」を描いてるのだとすれば、この季語選びは、かなり効果的だと思います。季語選びにかんしては、今週のトップと言ってもよいのでは?問題なのは、中七ですね。下五を読む前に、中七の「我が膝さする」というフレーズを見たら、その時点で「自分の膝をさすっている様子」が見えてしまうので、それが混乱を招いてしまう。”誰が誰の膝をさするのか”を明示するために、添削では「吾の膝」と「母の手」を対置しつつ、あえて手の映像をクローズアップにしています。ただし、厳密にいえば「手」と「さする」は重複情報になるので、吾の膝を母がさすりし 今年酒のようなやり方もあるとは思う。さらに、「膝を母にさすられる」「母がさすってくれた膝」のように動詞によって自他の関係性を明示すれば、「吾の」という説明すら不要かもしれません。◇キスマイ横尾。父からの返球身に入む黄昏返球の身に入む黄昏に 父は(添削後)「身に入しむ」が秋の季語なのですね。原句のほうは、父からの返球身に入しむ / 黄昏とも読めるし、父からの返球 / 身に入しむ黄昏とも読めるし、父からの返球身に入しむ黄昏と、切れ目なくすべてが「黄昏」に掛かるようにも読める。それによって、季語がどこに掛かるのか、何が「身に沁みている」のかが変わってきます。添削では、「返球の身に入む黄昏」をワンフレーズにしているので、意味も明快だし、季語も映像化されています。
2021.09.09
遅ればせながら、先週のプレバト。お題は「宿題」。今回も個人的な感想です。◇瀧川鯉斗。歩きつつ噺の稽古 月涼し「月涼し」という季語があるなんて、素敵ですね。わたしは、かねてから、洋の東西の「月のイメージ」の違いを感じていました。西洋のブルームーンは、ちょっと陰鬱で不穏なイメージだけれど、日本人が思い描く月には澄んだ清涼感があって、さながら海を眺めてるかのような気分になります。そんな月の涼しさが季語になってると知って、嬉しい。その一方、涼しい月が快適だからといって、集団でバイクを暴走させるのは心底やめてもらいたい。◇尾上右近。初秋や 返し忘れしペンと恋初秋や 返さぬままのペンと恋(添削後a)初秋や 返せぬままのペンと恋(添削後b)夏休みの恋が終わっちゃった、というお話。初秋の季語を用いるよりも、「夏の果」「ゆく夏や」のような晩夏の季語のほうが、この句材にはふさわしいと思うんだけど、あえて「初」という字で初恋を匂わせたのかもしれません。◇安藤美姫。まばゆくは学びし瞳 ひまわりやひまわりの瞳まばゆし 学ぶ日々(添削後)上五の「まばゆく」ってのは文法的に間違いだと思います。「弱きを助け」とか「古きを温ねて」のように、形容詞を名詞的に使うのだとすれば、かろうじて「まばゆきは」とするのが許容範囲でしょう。なお、ク語法の場合は、動詞なら「未然形+く」(ex.願わく)形容詞なら「語幹+けく」(ex.安けく)となるそうです。一方、先生の添削句が良いのか悪いのか分からないけど、「ひまわりの瞳」と読んだときに思い浮かべるのは、ふつうは「ひまわりのようなキラキラした瞳」じゃないでしょうか。つまり、隠喩と解釈するのが普通でしょう。ひまわりちゃんという名前の子の目だとか、ひまわりの擬人化だと解釈する人はほとんどいないと思います。◇フルポン村上。エンターキー中指で押し 涼新た散文的な中七の叙述に賛否が割れる、との評価でしたが、それ以前に、「中指でエンターキー」というのが《仕事終わり》を意味する、と言われても、わたしにはちょっと理解できないので、それが秋の到来に結びつく展開もわからない。ちなみに、わたしは、小指が不器用なので、エンターキーはつねに中指で叩いています(笑)。◇森口瑤子。嘘ばかり綴る絵日記 カンナ咲く カンナは緋なり 絵日記は噓ばかり(添削後)いつものように、「綴らない日記があるんなら持ってこいッ!」「咲かないカンナがあるんなら持ってこいッ!」ってことで、重複語句を消去しているわけですが、その結果、先生の添削が、本人以上に"森口瑤子っぽい"作品になってることに驚き。これはもはや"夏休みの子供の句"ではなく、裏表のあるドロドロした女の句になっています。原句は子供らしくて罪がないけど、添削句のほうはだいぶ罪深い。さながらインスタ女が、虚飾と嘘偽りの写真ばかりをアップしてる感じ。よくもわるくも、原句のほうが子供らしかったかも。◇犬山紙子。血は細く 指先紙で 夏醒める紙で切る指や その血に醒める夏(添削後)原句は語順がちぐはぐでした。その一方、先生の添削は、感動の焦点が「指」なのか「血」なのか「夏」なのか、いまいち判然としない気もする。中七に「その」という指示語を挟むことによって、「指→血→夏」と焦点を徐々に移動させてるようにも見える。わたし自身の考えをいうなら、そもそも「醒める」という心情描写が不要じゃないかしら?ためしに、(めちゃくちゃ破調ですが)頁をめくる指が切れた夏の血と、17音の映像描写にしてみました。◇梅沢富美男。白秋や 漢字ドリルに書く名前漢字ドリルに白秋の我が名記す(添削後)老人が漢字ドリルをやることだってあるでしょうけど、担任の教師に提出するわけでもあるまいし、わざわざ名前なんか記入する必要はないのでは?名前を記入してる時点で、わたしには小学生の姿しか見えてこないし、原句を虚心に読むならば、年寄りが勉強する孫を眺めている、との解釈になるはずです。いずれにしても、「漢字ドリル」と「白秋」とのミスマッチを、ひとつの詩情に収斂させるのは至難の業だと思う。せいぜい俳諧味に帰着させるしかないのでは?先生の添削を読んだときに、《老いてなお向上心を失くさない姿》に感動するのか。それとも、《手遅れながら小学校の勉強に勤しむ老人》に滑稽味を感じるのか。わたしは、やはり後者です。漢字の読めない麻生太郎のことも思い出してしまいました。
2021.08.30
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