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色褪せし無人の木馬春しぐれ ジャズ流し桜湯啜るラジオブース 銀の風船の中にも遊園地 カメラごし君の横顔さくらんぼ 春嵐継父と見上ぐ観覧車 春愁や廻る木馬の目の潤み ポップコーンまじり遊園地の落花プレバト俳句。お題は「遊園地」。◇梅沢富美男。ポップコーンまじり遊園地の落花9+9=18の破調。「まじる」と連体形にせず連用形で繋いでいる。いつもの梅沢なら「まじりて」とするはずですが、さすがに字数が多いと思ったのか、接続助詞の「て」は省いてしまったのでしょう。意味としては、「ポップコーンがまじって遊園地の落花がある」で、末尾の「あり」が省略された形だといえます。しかし、助詞の「て」を省いたことによって、「○○まじり」という名詞止めにも見えるのは難点だし、わたしは(助詞も入れて19音に増えますが)、ポップコーンのまじる遊園地の落花と連体形で繋ぐほうが安定的だと思います。追記:もしかしたら「ポップコーンまじり」は名詞止めなのかもしれません。その場合は「遊園地の落花はポップコーンまじり」の倒置法ってことですね。ただ、梅沢がそういうことを厳密に考えてるとも思えないので、たんに「あやふやな形式で作った」と見るのが妥当じゃないでしょうか。◇安藤和津。色褪せし無人の木馬 春しぐれわたしは、てっきり、廃園になったメリーゴーランドかと思いましたが、たまたま雨天で乗客がいなかっただけのようです。形は整っていて過不足もありませんが、さほど意外性のある句材ではないし、1位の句にしては、やや類想感がある気もします。◇千原ジュニア。春嵐 継父と見上ぐ 観覧車継父と見上ぐ 春の嵐の観覧車(添削後)現代語なら終止形と連体形の区別は不要ですが、古語なので「見上ぐる」でなければ繋がらないのよね。なので、はからずも三段切れになってしまった。これは、わたしもウッカリやってしまいそう。ありがちな技術ミスなので、気をつけなきゃなりません。古語の「見上ぐ」を使わずに、現代語の「仰ぐ」や「見遣る」を使う手もありますが、すこしニュアンスは違ってしまうかもしれません。◇フルポン村上。春愁や 廻る木馬の目の潤み春愁の木馬よ 青く潤む目よ(添削後a)春愁の木馬よ 雨に潤む目よ(添削後b)先生が問題にしたのは、木馬が「廻る」ことのほうに詩情があるのか、目の「潤み」のほうに詩情があるのか、両方を欲張った結果、かえって散漫になってるってこと。用言の「廻る」に余計な詩情をあたえず、名詞の「回転木馬」で代替させる方法もありますが、それだと1音増えるので、中八になりますね。木馬が「廻る」という情報を除去して、目の「潤み」だけに焦点を当てるなら、(添削後a)のように「青」の映像を加えて、春愁や 木馬の青き目の潤みとする案もあるけれど、「自宅の置物(玩具)」のことなのか、「遊園地のメリーゴーランド」のことなのか、判別できない句になってしまいます。その意味では、(添削後b)のように「雨」の映像を加えて、春愁や 雨の木馬の目の潤みとすれば、屋外だと明示されるぶん、誤読は少ない。(自宅の庭に木馬を置いてる人もいるかもしれないけど…)もうひとつの問題としては、季語との取り合わせが近すぎることと、「春愁」は映像をもたない季語なので、季語だけを独立させるのは弱い、ってことがある。そもそも、この句は一物仕立ての内容なのだから、わざわざカットを割って季語を独立させる必要がありません。先生の添削でも、二句一章の形をとらず、季語を映像化したうえで一句一章にまとめています。(リズム上の切れはありますが内容的には一句一章)季語を独立させずに一句一章にまとめるなら、春愁を廻る木馬の目は潤むのようにする方法もありますが、それでも「廻る」と「潤む」に詩情が分散されるかしら?◇キスマイ宮田。ジャズ流し桜湯啜すするラジオブース桜湯や ラジオブースに流すジャズ(添削後)句材がよかったと思います。村上の句とは反対に、こういう映像をもった季語なら、それだけを独立させても成立するのですね。◇ジャンポケ斉藤。銀の風船の中にも遊園地風船のメタルに映り込む木馬(添削後)風船のメタルに映り込むパレード(添削後)これも句材はいいと思います。一方、添削の「風船のメタル」は意味が通じるのかしら?特殊な金属製の風船とか、巨大な飛行船とか、風船の紐になにかの金属がついてるとか、いろんな誤読を生みかねない気もします。たとえば、シンプルに、銀色の風船が映せし木馬と17音にまとめることも出来ます。最後に字足らず感が生まれるので、すこし寂しげな印象になるかもしれませんが。◇寺田心。カメラごし 君の横顔 さくらんぼファインダに君の横顔 風光る(添削後)作者の解説によれば、「カメラごしの君の横顔がさくらんぼのようだ」ってことらしいけれど、三段切れになってしまったのと、比喩の意図が読者に伝わらないのが欠点。まあ、初心者が素朴に俳句を作ると、三段切れでイメージを繋ぐ形になりがちだし、ある意味では、それが普通だなという気もしますが。
2023.05.01
俗語に「ガタイが良い」という表現がありますが、この「ガタイ」という言葉の語源を調べてみました。※一昨日の記事の最後にこの言葉を使ったからですw「ガッシリしている」「ガテン系」「ガツンと行く」「ガッツがある」…など、最初に「ガ」がくる言葉には共通の語感がありますよね。しかし、結論をいうと「ガタイ」の語源は不詳だそうです。◇比較的あたらしい言葉だと思ったので、「ガテン系」に関係があるのかな?と思いましたが、「ガタイ」のほうはすでに1970年代に用例があって、90年代に使われはじめた「ガテン系」よりもだいぶ古い。がたい〘名〙 (「がかい」と「図体」とが混同してできた語か) 外見の大きさ。図体。がかい。※唐獅子惑星戦争(1978)〈小林信彦〉唐獅子探偵群像「死体(ほとけ)の図体(ガタイ)は大きおますか」https://kotobank.jp/word/%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%81%84-463264ガテンは、リクルートから出版されていた求人情報誌の名称。1991年9月創刊。誌名は「合点がいく」と「がってん(OKの意)」を合わせて決定。肉体労働の職種を指す俗語「ガテン系」は、この雑誌名が語源である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%86%E3%83%B3もともと「合点」と「がってん」は同じですけどね…(^^;◇上に引用したとおり、小林信彦は「図体」と書いて「ガタイ」と読ませてますが、じつは「図体」の同義語に「がかい」という言葉もあるのですね。とはいえ、「図体」も「がかい」もやはり語源が不明です。「がかい」のほうは、東北などの方言で「外観」や「外見」の意味らしい。発音的には、むしろ「外界」に近い気もしますし、考えようによっては「囲い」とか「格好」に似てなくもない。「図体」のほうは、「胴体」が訛ったとの説がありますが、「dotai」と「zutai」ではだいぶ違いますね。かりに「dutai(ドゥータイ)」と発音する日本人がいれば、「dotai」→「dutai」→「zutai」と転じるのかしら?いずれにせよ、「zutai」に「図体」と漢字を当てたわけでしょう。◇わたしの想像ですけど、「図体」の漢字を置き代えて、「画体」という言葉があったとしても不思議じゃない、…という気もします。たとえば画家が、モデルの身体を、「図体がいい」と言わずに「画体がいい」と言ったのかも。まあ、語源俗解の域を出ませんが。◇余談ですが、「ガッツがある」の「ガッツ」は日本語ではなく、「gut」という英語の複数形です。英語の「gut」は、物理的には「内臓」、精神的には「胆力」の意味。ラケットの弦(ガット)と同じ語源です。
2023.04.28
駆ける子と背で鳴る氷夏囃す わかめ狩り水筒ころがす親父の船 春暁や陣痛室で握る水 背後より歳時記覗く椿あり 水筒の底にゐる春愁の澱 花冷の砂かぶり席売り子駆く 水筒の囀り満たし一息にプレバト俳句。お題は「水筒」。◇キスマイ横尾。花冷の砂かぶり席 売り子駆く売り子駆く 花冷の砂かぶり席(添削後)原句の「砂かぶり」と「売り子」は名詞ですが、字面的には「砂かぶり、席売り、子駆く」と、動詞が3つ並んでるように見えてしまう。いわば、{名詞+動詞+名詞+動詞+名詞+動詞}の形なので、動詞が述語なのか修飾語なのかを読み迷わせる。ちなみに、わたしは、「砂かぶり席」という単語自体を知らなかったので、相撲の場面と誤読することはありませんでしたが。◇梅沢富美男。水筒の囀さえずり満たし一息に水筒はさへづる 囀りの真下(添削後)原句の「囀り」は名詞だけれど、「囀り、満たし」と動詞が2つに見えるし、末尾には「飲む」も省略されているので、これまた、ややこしくて読み迷わせる。そのうえ、何が何を「満たす」のかも不明瞭で、一見すると、ほとんど日本語としての体をなしていません。まあ、「水筒のさえずりをコップに満たして一息に飲んだ」と解説されれば、それなりに詩情も理解はできますが、あまりにも技術的に覚束ないので、結果的には、季語の「囀り」をクサい比喩にしただけの句でした。◇コットン西村。駆ける子と背で鳴る氷夏囃はやす駆ける子と背で鳴る氷 夏の空(添削後)これが今週の1位。詩情の面で評価されたとは思いますが、技術的にいろいろと問題が多い。ちょっと身の丈以上のことをやりすぎてる感じです。最大の問題は、やはり動詞が多いこと。「駆ける」「鳴る」「囃す」の3つですね。世間には「氷夏」なんて造語があったりもするし、どれが主語で、どこで切れるのか、かなり分かりにくい。わたしは「夏囃す」という季語があるのかしら?…などと勘違いしましたが、そういうわけでもありません。結論をいうと、原句には切れがなく、一句一章です。構造的には、主語A:駆ける子と主語B:背で鳴る氷が述語 :夏を囃している※正確には「主語」でなく「主部」、「述語」でなく「 述部」です。というワンセンテンスの句ですね。そのなかで、主語Aの「駆ける子が夏を囃す」という比喩と、主語Bの「氷の音が夏を囃す」という擬人化を、いっぺんにやってる形です。しかし、とくに主語Bの「鳴る氷が囃す」は、修飾語の動詞と、述語の動詞が、どちらも音の情報になって紛らわしい。そのうえ2つの主語の関係は、主語B「リヤカーを引く氷売りの主人公」と、主語A「その横を走ってる子供」というようにも誤読できます。子供自身の背中で氷が鳴っているのなら、「駆ける子と」ではなく「駆ける子の」にすべきです。他方、場所の助詞「で」は、許容範囲内と判断されたのかもしれないけど、わたしなら、やはり「駆ける子の背に鳴る氷」とします。◇村上弘明。わかめ狩り 水筒ころがす親父の船水筒をころがし父の若布わかめ船(添削後)季語の「わかめ狩り(若布刈)」は名詞ですが、字面のうえでは「狩り、ころがす」と動詞が2つ見えるし、とくに「水筒ころがす親父」のように、2つの名詞で動詞を挟んだ場合は、動詞が述語なのか修飾語なのかが分かりにくい。たとえば「犬食べる鳥」と書いたときに、切れの位置によって、「犬が食べている」とも読めるし、「鳥が食べている」とも読める、ってことです。作者自身は、「船が水筒を転がす」という擬人化を意図したらしい。でも、読んだだけでは主語が「親父」か「船」かは分からない。添削でも「父」が主語になっているように見えますね。◇篠原ゆき子。背後より歳時記覗く椿あり歳時記を覗くか 目のような椿(添削後)動詞は「覗く」「あり」の2つ。このぐらいなら許容範囲内だろうと思います。季語の「椿」を擬人化した句ですが、あまりに主観に傾きすぎて無内容に見えるから、まずはやはり客観写生の原則に立つべし、ってことですね。◇春香クリスティーン。春暁や 陣痛室で握る水水筒を握る陣痛 春の暁あけ(添削後)動詞は「握る」のひとつだけ。動詞が少ないと、じつにスッキリして見えます(笑)。原句の「水を握る」というのは、ペットボトル時代ならではの言い方ではあるものの、俳句の表現としては、やや無理があったのかな。(わたし自身は、さほど違和感ありませんが)ちなみに、添削は「水筒」に直してますが、映像でもペットボトルだったし、作者が意図したのもペットボトルだと思います。場所の助詞「で」はちょっと説明的でしたね。◇森口瑤子。水筒の底にゐる春愁の澱おりこれも動詞は「ゐる」のひとつだけ。この場合の「澱」の不気味な擬人化は効果的でした。梅沢も言ってましたが、(「ぴこんぴこん」とか「だってば」とかじゃなく)こっちこそが「森口節」だろうと思います。それにしても、遠足のリュックの底にチョコの染み花疲れ リュックの底の底に鍵春愁をエスカレーター地下へ地下へ…と、なぜ森口瑤子は「底」が好きなのかしらねえ。夫婦ともども、底を覗かずにはいられない性分なのでしょうか。
2023.04.24
頬紅き少女の髪に六つの花 左見右見風を抱くや鬱金香 ライン引き残してつるべ落としかな 花びらも乗車するなり春隣 えり足に冬の風ありLINE消す 空のあお富士の蒼へと飛花落花 旱星ラジオは余震しらせおり 廃村のポストに小鳥来て夜明け 札止めの墨色の濃さ初芝居 鷹鳩と化すカフェオレの白き髭 白髪の薄色に染め春立ちぬ おひねりや子役の見得に夏芝居 桐の花いつかは来ない紙袋 剪定や鋏の音の霏々としてプレバト俳句。今回は、梅沢富美男の過去作品を回顧していました。2020年以前の句は、このブログでは取り上げていなかったのですが、思いのほか凡句が多いですね…。初期のころは、かなり評価が甘かった気もします。…古いほうから順に見ていきます。いちばん最初の句は10年前らしいです。◇テーマは「12月の風物詩」。頬紅き少女の髪に六つの花これが、初登場にして「才能アリ1位」だったらしい。でも、いま見ると凡句です。冬に「頬紅き少女」ってのは発想が凡庸だし、たんに「雪」と書けば2音で済むものを、わざわざ「六つの花」などと書いて5音も費やしてる。次の句でも、フジモンに「綺麗な言葉詐欺」と言われていましたが、たんに美辞麗句をひけらかして、何か文学的な表現をした気になってるだけで、じつは内容に乏しい駄作でした。◇テーマは「チューリップと遠足」。 左見右見とみこうみ風を抱くや 鬱金香うこんこうおもたげに風を抱くや 鬱金香(添削後)これも典型的な綺麗な言葉詐欺。そしてクサい擬人化。先生からも、ゆらゆらと風を抱くや チューリップと書けば意味は同じと切り捨てられていました。◇テーマは「秋の運動会」。ライン引き残してつるべ落としかな上五の「ライン引き」は、器具ではなく人物だと誤読されかねないし、そもそも名詞ではなく、複合動詞の「引き残す」だとも誤読されかねず、いずれの場合も、グラウンドの光景すら思い浮かべるのが困難になる。一般に、動詞を含む名詞を扱うのは厄介だと思いますが、耳慣れない名詞であればなおさらです。そして、この句もやっぱり綺麗な言葉詐欺。たんに「夕暮れ」と書けばいいものを、わざわざ「つるべ落とし」などと6音も費やし、それで何か文学的なことをやった気になっている。プレバトの俳句査定がはじまった当初は、こういう古い日本語の美しさを、テレビで紹介することの教育的意義もあったでしょうが、おそらく今ならボツにされる可能性が高いと思いますし、分かりやすい口語で詠む村上やフジモンに比べると、こういう梅沢の作風はたんなる虚飾としか見えません。◇テーマは「江ノ電と桜」。花びらも乗車するなり 春隣花びらも乗車す 風ゆらぐ電停(添削後)このあたりからは、これ見よがしな美辞麗句は控えられています。しかし、それに代わって「クサい擬人化」が出始めてますね。◇テーマは「初冬の代々木公園」。 えり足に冬の風あり LINE消す冬の恋終わりぬ 風に消すLINE(添削後)失恋して髪を切った女性を詠んだらしい。句材そのものにはオリジナリティがあり、詩情も悪くないと思いますが、せっかくの内容が読み手には伝わりにくい。たんに「えり足」と書いただけでは、髪を切った後だとは分からないし、たんに「LINE消す」と書いただけでは、恋人との連絡手段を断ち切ったとは分からない。短髪の男性がLINEの交信を終えただけにも見えます。まあ、それはそれで、ひとつの風景にはなりますが。◇テーマは「桜と富士山」。空のあお富士の蒼へと飛花落花鮮やかな映像ともいえますが、句材そのものにはさほどの独創性がなく、リフレインの効果だけで誤魔化されてる感もある。◇テーマは「ラジカセ」。旱星 ラジオは余震しらせおりこれは良い句ですね。率直で無駄のない客観写生になってますし、社会的な句材にも迫真性があります。◇テーマは「郵便ポスト」。廃村のポストに小鳥来て夜明けこれも良い句です。やはり社会的な題材を扱っている。梅沢が、接続助詞の「て」でお茶を濁すのは悪い癖ですが、ここで「小鳥来る夜明け」とせずに、あえて「小鳥来て夜明け」としたのは、まるで小鳥が朝を呼び込んだような面白さを生んでいて、例外的に「て」の使用が功を奏しています。◇テーマは「書初」。札止めの墨色の濃さ 初芝居札止めの墨色の濃し 初芝居(添削後)札止めの墨色ぞ濃き 初芝居(添削後)切れの作り方で添削されたのは惜しいですが、これも率直な客観写生で良い句だと思います。初芝居の期待と目出度さと活力がみなぎっている。◇テーマは「コーヒー」。鷹鳩と化す カフェオレの白き髭またもや文学的表現のひけらかし?…って気もするけど、この句にかんしては、滑稽な場面が季語と響き合ってるし、春の緩んだ空気感も出てますし、なかなか上手く出来てると思います。◇テーマは「美容室」。白髪の薄色に染め春立ちぬ白髪をうすむらさきに春立ちぬ(添削後)原句は「てにをは」がおかしい。「白髪の染まる」or「白髪を染める」のどちらかでなければなりません。◇テーマは「100円玉」。おひねりや 子役の見得に夏芝居おひねりの飴よ硬貨よ 夏芝居(添削後)これも原句は「てにをは」がおかしい。「見得に」が「夏芝居」に掛かっていますが、どう考えても「おひねり」に掛けるべきです。◇テーマは「紙袋」。桐の花 いつかは来ない紙袋読み手に「いつかは来ない」の意味が伝わるのか、ちょっと微妙ですよね。≫ いつか使う日が来るだろうと思ってても、≫ 実際に紙袋のストックを使う日は来ない…ってことなのだけど、読み手によっては、「いつもの紙袋の人がいつかは来なくなる」みたいに誤読されかねない。◇これ以降の句は、過去に取り上げたはずなので割愛します。最後は、今回の締めの一句。テーマは「シュレッダー」。剪定や 鋏の音の霏々ひひとして言葉摘むに似て剪定の鋏の音(添削後)ああ!無内容の極み!この場合の「霏霏」は、《絶え間なくずっと~》みたいな意味ですが、「絶え間なく鋏の音のしない剪定があったら持って来い!!!」ってやつで、上五の「剪定や」以外は、まったく不要な情報です。たんに「霏霏」って言ってみたかっただけ!相も変わらず綺麗な言葉詐欺。なんら成長していませんでしたwなお、比喩をやる場合に、「~ごと」を使う手法は何度も見ましたが、この添削のように「~に似て」も使えるのですね。
2023.04.09
給与手渡し春宵の喫煙所 ギャラ明細は二行療養の春 鞦韆に退職の日の花束と 保護シール剥がす手応え啄木忌 口座開設朱肉拭き取る夏近し 本採用朧夜の缶チューハイ 春光の起業ゲーミングチェア届く 桜蘂降る陸自の戦車しづか 職を辞したる尾崎放哉鳥曇 我が給与マックのバイトに負けた春プレバト俳句。お題は「給与明細」。◇フジモン。給与手渡し 春宵の喫煙所これが1位。詩情もあって申し分のない句ですが、タイトル戦の優勝句としては、やや意外性に欠けたかも。◇皆藤愛子。ギャラ明細は二行 療養の春療養の春や ギャラ明細二行(添削後)原句は10+7=17音ですが、なんとなく尻すぼみで寸足らずなリズム。それによって、収入のない心もとなさを表現したともいえる。添削のほうが安定感はありますが、それが内容に見合うのかは判断が分かれるかも。◇梅沢富美男。鞦韆しゅうせんに退職の日の花束と退職の日の花束と鞦韆に(添削後)春の季語「鞦韆」はブランコのこと。原句のように、最後に助詞「と」を置くと、共同の意味(~と乗る)か、引用の意味(~と思う)か、すこし読みに迷います。かたや添削句のように、最後に助詞「に」を置くと、「鞦韆に(乗る)」とも読めますが、「花束と鞦韆に(悲しくなる)」「花束と鞦韆に(一人ごちる)」のような読みにも迷いかねない。語順的には、退職の日の鞦韆に花束とのほうが誤読は少ないかもしれません。なお、「鞦韆」は「秋千」とも書きますが、いずれにしても「秋」の字が入る春の季語。語源は「千秋万寿」だそうです。先日は村上が「ふらここ」で詠みましたが、きっと梅沢は「退職」の寂しさなどを、あえて「秋」の字を含む漢字に込めたのでしょう。まあ、わざわざ漢字で書かずとも、片仮名や平仮名でも寂しげな気分は出るし、個人的には、退職の日のブランコに花束とのほうが明瞭でいいかなと思います。◇フルポン村上。保護シール剥がす手応え 啄木忌保護シール剥がす啄木忌の明細(添削後)保護シール強こはし 啄木忌の明細(添削後)兼題写真を見なければ、何の「保護シール」なのか分からないし、添削のように「明細」と書き加えても、やっぱり何のことか分からないと思います。たとえば「保護シール」は、ラベルやディスプレイの保護フィルムかもしれないし、かたや添削の「明細」のほうは、給料明細ではなく、光熱費などの支払い明細と読まれてしまう可能性が高い。◇千原ジュニア。口座開設 朱肉拭き取る夏近し口座開設 拭き取る朱肉 夏近し(添削後)原句は中七・下五でワンフレーズを作って、形式的には整っていると思うけど、添削のほうは三段切れになってしまっている。先生いわく、原句の中七・下五は、「複合動詞+形容詞」で用言が重なって韻律が悪い、とのこと。であれば、最後を体言にして、口座開設 朱肉拭き取る夏隣と直すこともできるし、おそらく韻律上のつまずきを覚えるのは、たんに用言が重なるからではなく、読んだときに、中七の終わりの連体形が、終止形っぽい語感を与えるからだと思うので、口座開設 朱肉拭ぬぐひて夏近しでもいいんじゃないかしら。それでも、あくまでも先生の意図を活かすとすれば、口座開設 拭ふ朱肉の夏近しのように助詞「の」or「に」を加えるべきだし、あるいは、上五・中七でワンカットを作り、季語と取り合わせる二句一章の形式で、口座ひらきて拭き取る朱肉 夏近しみたいにする方法もありますが、これだと動詞が3つも続いてしまいますね。動詞を1つ減らすならば、口座ひらきて拭ふ朱肉や 夏近しとすることもできます。◇森迫永依。本採用 朧夜の缶チューハイ本採用通知 春夜の缶チューハイ(添削後)前回はマンモス句に似てたけど、今回もまたフジモンの句に似ましたね。「給料日の夜のタバコ」と「本採用の夜の缶酎ハイ」。どちらも、独りのささやかな祝いの情景。ただし、こちらの句は、リズムに字足らず感があって、心もとない。数えてみると6+5+6=17音なのだけど、長音などの二重母音が多いせいか、短く感じます。一方、添削は6+7+6=19音ですが、こっちのほうが定型感があります。季語にかんしては「春夜」のほうが暖かな感じですね。◇キスマイ横尾。春光の起業 ゲーミングチェア届く春光の起業 ゲーミングチェア導入(添削後)朝ドラの「こんねくと」みたいに、2人で起業ってこともあるから、べつに社員数が少なくても構わないと思うけど、原句の「届く」が配達の場面なのに対して、添削の「導入」はすでにオフィスに配置された映像になる。その意味でいうと、春光の起業 ゲーミングチェア10脚のように具体的な数などで見せても大差はない。◇立川志らく。桜蘂さくらしべ降る陸自の戦車しづか戦車しづか 桜蘂降る駐屯地(添削後)これは添削に異議なし。戦前には、「貴様と俺とは同期の桜 / 花の都の靖国神社」と歌われたわけだから、この句材は、そんな歴史も想起させます。◇春風亭昇吉。職を辞したる尾崎放哉 鳥曇とりぐもりまたも職辞せる放哉 鳥曇(添削後)これも添削に異議なし。放哉のことを詠んだというより、辞職した自分自身を放哉呼ばわりしているように見えますね。季語の取り合わせも、風まかせな感じが巧い。志らくが8位で、昇吉が9位でしたが、句材でいえば、1位のフジモンの作品よりも、落語家ふたりの作品のほうが迫力があったかもしれない。どちらも、内容はちょっと暗いけど。◇勝村政信。我が給与 マックのバイトに負けた春マックのバイトに追いつきたし 春の我が給与(添削後)サラリーマン川柳ですか?って感じの安っぽい俳諧味。かたや添削は8+6+8=22音と、いっそ短歌にすれば?と思うほどの字余りで、どういうリズムで読めばいいのかしら?ジュニアのように、期待と不安を織り交ぜて、夏近し バイトにおよばぬ初給与でどうでしょうか。
2023.04.03
レンジ置き場は空早春の一人暮らし 春の風邪レトルト粥に夫の気持ち 春眠やあちちと落とし目が開く 大試験レトルトカレーが救助待ち 白粥は三日目春の風邪飽きた コロナ7日目レトルト絞る遅日 湯玉ふつふつ春の厨の砂時計プレバト俳句。お題は「レトルト」。◇梅沢富美男。湯玉ゆだまふつふつ 春の厨くりやの砂時計珍しく7・7・5の字余り。そして議論すべきも、この字余りのオノマトペです。漢語由来の形容動詞の語幹を擬態語化させたものですね。もともと形容動詞「沸々たり」ってのは、沸き上がる様子のほかには用いない言葉だから、「ふつふつしない湯玉があったら持って来いっ!!」…と言われかねません。しかし、この場合の「ふつふつ」は、たんにお湯が沸く様子を描写したのでなく、砂時計が落ちるまでのあいだ、主人公がお湯を眺める時間経過の描写でもある。作者がそのことに自覚的だったかどうかは知らんけど、このオノマトペが許容できる理由はそれ以外にありません。結果的に良い句だったと思うけど、ややまぐれ当たりの疑惑もある句集完成でした。<4月7日発売>◇森口瑤子。白粥は三日目 春の風邪飽きたこれはセオリー破り。写生の句ではなく、台詞の句ですね。二句一章の形式に見えるけど、じつは全体がひとつのモノローグになっている。もし、これを写生的に書くならば、三日目の白粥 春の風邪に寝ぬのようになるだろうし、そこに「飽きた」と感情語を入れてしまったら、かえって減点要素になるはずです。でも、これは作者の心の呟きをそのまま書いて、そこから映像を想像させる手法なので、感情語も例外的に減点要素とはならない。とはいえ、こういう手法はひとつの賭けでもあって、選者がその意図を理解しない可能性もあるし、ボツになる覚悟も必要だろうと思います。実際、情報としての側面でいえば、「三日目」と「飽きた」は重複だともいえるし、わたしならボツにしたかもしれません。◇千原ジュニア。コロナ7日目 レトルト絞る遅日コロナ七日目 レトルト絞り切る遅日(添削後)不思議なくらい森口瑤子と似た状況を詠んでますね。原句は7・5・5で21音だけど、なんとなく字足らずっぽい効果があって、それがネガティブな印象を与えますし、その意味でも、「三日目で飽きた」という森口瑤子の句に、ちょっと印象が似ているのですよね。そして「遅日」という季語も、その印象に響き合う。しかし、「翌日から通常の生活に戻れる!」…というポジティブな印象で詠むのなら、先生の添削のように、字余りになっても、後段で7・5の調子を取り戻したほうがいい。そこは作者の意図によって判断が分かれるところで、どちらが良いとも言いきれない気がします。◇河野純喜。レンジ置き場は空 早春の一人暮らし早春の独立 レンジ置き場は空(添削後)大胆にも、9+11=20で大幅な字あまりの句またがり。見た目の字数も多いけど、そのわりにリズム的な違和感は少ないと思う。これが今週の1位でした。◇菊池桃子。春の風邪 レトルト粥に夫の気持ち春の風邪 夫の買いくるレトルト粥(添削後)これも5・7・7の字あまりです。さりげなく夫のことを詠むところに、やや「政治的なあざとさ」を感じないでもない。先生も「やさしい旦那さんなのね~」と言ってたけど、このお世辞にも政治色を感じてしまいます。なお、「春の風邪」という季語には、《あまやかなツヤのある感じ》が含まれる、とのこと。へえ~。◇平野ノラ。春眠や あちちと落とし目が開く春眠の眼まなこよ 鍋に沸かす湯よ(添削後)郷ひろみのパロディはお得意のバブル芸。なんとなく分からなくもないけど、やはり「何を落としたか」は書くべきでしょうね。◇朝日奈央。大試験 レトルトカレーが救助待ち大試験近し レトルト湯に溺る(添削後)大試験前夜 レトルト湯に溺る(添削後)これはさすがに意味が分からない。熱湯のなかのレトルトカレーを擬人化したらしい。余談ですが、「大試験」ってのは変な季語ですね。学内の試験を「大」と「小」に分けて、年度末の大きな試験を春の季語にしたのだろうけど、ネットで調べても、手元の広辞苑にも出てきませんから、一般名詞ですらないような特殊な言葉です。どこかの学校界隈で使われた局地的な用語を、誰かが季語として認定しちゃったんでしょうね。
2023.03.29
春日向カーテンの到着は明日 木の芽冷え青いジャバラで家具包む 新しき庭あたらしき泥の春 春泥を引越し女房おお跨ぎ 校舎裏抱きし犬の目春の月 亡き妻と入学前夜のハイボール 新歓を断る理由春眠し 弟子入りの日墨色の八重桜よ 一年生さいしょのともだちだん子虫 入学や書いては消してわが名前プレバト俳句の春光戦。まずは予選Bブロック。お題は「引っ越し」です。◇皆藤愛子。春日向 カーテンの到着は明日後段は《描写》というより《説明》なのだけれど、ちゃんと映像が見えてくるところに上手さがあります。季語との取り合わせが近いとの批判もありうるけど、そもそも、これは二句一章ではなくて一句一章、すなわち、山本健吉がいうところの「主題&細叙的反復」の構成になっているように見えます。◇キスマイ千賀。木の芽冷え 青いジャバラで家具包む木の芽冷え 青いジャバラで包む家具(添削後)手段の助詞「で」は説明的なので、わたしはなるべく避けたほうがいいと思っていましたが、この添削では、それを容認しています。じつは過去の添削を見ても、先生は意外に容認しているケースが多いのですよね。↓ポイントでもらひし蛍なほいきる(東国原英夫)蛾の骸ポイントカードで掬いけり(フルポン村上)クーポンや 浮いたお金で買うアイス(ミキ亜生の添削後)汁粉缶でさするジーンズ 冬銀河(河野純喜の添削後)バーディで上がる青葉木菟のホール(梅沢富美男の添削後)※最後の梅沢の句は「手段」ではなく「状態」です。なぜ先生がこれらを容認しているかといえば、たんに「言い換えが不可能だから」なのかもしれませんし、思ったより「で」にかんして容認派なのかもしれません。わたし自身は、なるべく「で」を避けたいと思ってるし、「包丁で大根を」と書くよりも、「包丁が大根に」とか「包丁を大根に」と書くほうが、だいぶ描写的になって説明くささを免れると思っている。とはいえ、ほかに言い換えが不可能なら、この助詞も容認せざるを得ないとは思います。今回の千賀の句にかんしていえば、場所の助詞「に」に置き代えることができます。実際、「風呂敷で包む」と手段の助詞を使うよりは、「風呂敷に包む」と場所の助詞を使うほうが、やっぱり説明くささを避けられると思う。これは「袋に入れる」とか「ベッドに寝る」と同じ用法だと思います。念のために付け加えると、《手段の助手》を《場所の助詞》に置き代えられるケースは、ごく限られているはずです。「ハサミで切る」を「ハサミに切る」とは言い換えられないし、「電車で行く」を「電車に行く」とは言い換えられません。なので、これは、このあいだ先生が言った「動的/静的」の問題、すなわち、動作場所の「で」/存在場所の「に」の問題とは、またちょっと次元の違う話です。◇本上まなみ。新しき庭 あたらしき泥の春新しき庭 赴任地は泥の春(添削後)新しき庭 脱サラの泥の春(添削後)この添削はあきらかにおかしいwwおそらく先生は、下五の「泥の春」を、季語の「春泥」を反転させたものと勘違いしてるんでしょう。しかし、この句の主題は、下五の「泥の春」ではなく、中七から下五にまたがる「あたらしき泥」です。つまり、引っ越し先の春の庭に、何か植えるために「あたらしき泥」を敷いた、という句です。これを「脱サラの泥」「赴任地は泥」などと直したら、まったく意味不明な句になってしまいますよねwwもし先生の意図を活かして添削するなら、赴任地の庭 あたらしき泥の春とでも直すしかありません。まあ、逆にいうなら、作者の意図の伝わりにくいところが、原句の欠点なのかもしれません。◇中田喜子。春泥を引越し女房おお跨ぎ引越し女房 春泥をおお跨ぎ(添削後)引越し女房 いま春泥をおお跨ぎ(添削後)引越し女房 ほら春泥をおお跨ぎ(添削後)中七の「引越し女房」という言葉ははじめて知りました。逞しい古女房のことかと思いきや、新妻のことなのですね。生き生きした内容が良かっただけに惜しかった。語順の是非については少し判断に迷ったけど、たしかに添削のほうが明快だし、「引っ越し女房」という言葉を知らなければ、春泥を引越し / 女房おお跨ぎという句またがりに見えてしまう畏れもある。なお、「引っ越し女房」を辞書で引くと、《あたかも他の土地で披露を済ませてきたように装って新所帯をもつ女房》というのが第一義になってるので、本来は何かネガティブなニュアンスがあるのかもしれません。詳しいことはよく分かりませんが。◇的場浩司。校舎裏 抱きし犬の目 春の月抱く犬の目よ 春月の校舎裏(添削後)原句はあきらかな三段切れなので、これを句またがりの形に添削したのは妥当です。ただし、中七の「抱きし」を「抱く」に直すべきかは疑問。たしかに、俳句では、過去形でなく現在形を使うのが基本だけれど、この場合は「犬」が主語なのか目的語なのか、かえって読みに迷いが出てしまう。たとえば「食べる鳥」と書いただけでは、鳥が餌を食べているのか、私が鳥を食べようとするのかが分からない。それと同じように、たんに「抱く犬」と書いただけでは、犬が仔を抱いているのか、私が犬を抱いているのかが分からないのです。そう考えると、抱きし犬の目 春月の校舎裏と過去形のままにしたほうが、おそらく読みを迷わせずに済むと思う。◇ここからは予選Cブロック。お題は「入学」です。◇勝村政信。亡き妻と入学前夜のハイボールCブロックは段位の低い人が集まっただけに、やや迫力に欠けたかな。勝村にしては珍しく、セオリーどおりに作って一位になった感じ。目を引くほど秀でてるとは思わないけれど、句材そのものには背景と深みがあります。◇森迫永依。新歓を断る理由 春眠しかつてフジモンが使った「理由」という語を中七に置いていて、形式的にもマンモスの句とまったく同じ形になっています。先生は、前段と後段の因果関係について、「理由になってるようでなってない」「説明臭は消えている」と擁護したけれど、本人自身が「春眠し」を「断る理由」にしたらしいし、実際に句を読んだ印象としても、「新入生歓迎会がかったるい」という気分と、「春眠し」という季語の関係は、取り合わせとして、やや近すぎる気がします。◇立川志らく。弟子入りの日 墨色の八重桜よ弟子入りの日よ 墨色の八重桜(添削後)詠嘆の「よ」の位置は、前段か後段かで迷うところ。たしかに、添削のように、前段に「よ」を置いたほうがリズム的には整うけれど、前段は《描写》というより《説明》であって、そもそも詠嘆すべきものかどうか疑わしい。中七の「日」を映像として捉えることも不可能じゃないけど、それならいっそ、「弟子入りの朝」とか「弟子入りの門」のように、明確な映像にしたほうがいい気もします。また、この句の内容なら、あえて取り合わせにする必要すらないのだから、弟子入りの日の墨色の八重桜と、一句一章にまとめてしまうことも可能です。◇馬場典子。一年生さいしょのともだちだん子虫入学の朝 ともだちはだん子虫(添削後)入学三日目 ともだちはだん子虫(添削後)これも一句一章なのだけれど、助詞がないために三段切れに見えてしまう。先生の添削は、せめて助詞をひとつ入れてリズムを整えたい、…ってところでしょうか。◇こがけん。入学や 書いては消してわが名前一年生 おなまえ書いて消して書く(添削後)下五の「わが名前」が小学生らしくない、…ってことで直しが入りました。ためしに、大差のない添削案ですけど、おなまえを書いては直す一年生としてみました。
2023.03.27
三月の空に託せるものがない 夕桜学ラン捲り1on1 春光やルーズソックスすべて干す 上履の文字も滲むや卒業式 古巣あり教えの庭よいざさらばプレバト俳句。春光戦の予選Aブロックです。お題は「卒業」。◇春風亭昇吉。三月の空に託せるものがない本来、落語の芸ってのは、まさに「写生」だと思うのだけど、そのわりにプレバトの落語家たちの俳句は、どれもこれも何故か観念的なものが多く、客観写生に徹したものは、むしろ少ないですよね。これも、やっぱり思念的なモノローグの句。しかも、末尾を「ない」という否定形で終わらせる型破り。安易にやったら失敗するパターンです。たまたま今回は、型破りながらも成功したけれど、はたして本人に「型破り」という自覚があるかは疑問。正直、まぐれ当たりという気もする。志らくにも同じことがいえるけど、昇吉も、こういう路線を続けるかぎりは、おそらく大アタリと大ハズレを往ったり来たりする、…のではないかと危惧します。何故この句が成功したのかといえば、形式上は思念的なモノローグでありながら、実景としての《春の空》と《不安を抱く若者》が、ちゃんと見えてくるからですね。昇吉が、それを狙いすましてやったのなら、名人への道もすんなり開けると思うけど、わたしは、ちょっと怪しいと思います。◇キスマイ横尾。夕桜 学ラン捲まくり1on1ネットで「1on1」を検索すると、バスケじゃなくミーティングの情報が出てきます。たまたま現在は、スラムダンクの映画が記録的にヒットしてるので、作者は「1on1といえばバスケ」という前提で書いていて、先生も、その認識を共有したわけですね。実際、その共通認識があれば、この句を読んで、漫画やアニメのワンシーンも思い浮かべられるのかもしれない。しかし、わたしはスラムダンクを読んだことも観たこともないので、同じ日本人でありながら、その認識を共有できません。まあ、句の内容から考えれば、「ミーティング」という誤読はありえないから、何らかのスポーツと解釈するのが普通でしょうが、たとえば「不良学生がサシで喧嘩してる」みたいな誤読も、ありえなくはないと思います。この句を読んで、はたして何割ぐらいの日本人が、問答無用に「うんうん、バスケのことね」となるのか知りませんが、専門用語ならともかく、一般用語である以上は、やはり誤読の危険性を排除できないと思います。◇犬山紙子。春光や ルーズソックスすべて干す犬山紙子の句柄は、モノローグ的なところにあるのだけど、それがつねに長所になるとはかぎらない。やはり短所になってしまうことはあります。これもやはり、どこかしらモノローグ的ですね。その証拠に、下五の「すべて干す」ってのは、説明的であって写生的とはいえない。ルーズソックスの数は本人にしか分からないし、ただ「すべて」と書くだけでは具体性に欠ける。とはいえ、「すべて干したるルーズソックス」と名詞で終わらせれば、いくぶんかは映像的になるかもしれませんが。◇キスマイ北山。上履の文字も滲むや 卒業式上履の文字の滲みや 卒業す(添削後)内容は素晴らしかったのだけど、技術面がそこに追いつかないのよね。助詞の「も」に思わせぶりな含みをもたせるのは、客観写生に反するので、安易にやるべきじゃない。それは松岡充の「封蝋も今固まりぬ」のときにも、梅沢が指摘したことだったと思う。添削のほうは、下五を動詞にするよりも、フジモンが言った「卒業歌」みたいに、名詞にしたほうがいいかなあ、と個人的には思います。◇松岡充。古巣あり 教えの庭よいざさらば楠の古巣よ雲よ いざさらば(添削後)へ~。鳥の「古巣」って春の季語なんですね。その季語の力を信用したともいえるけれど、やや「古巣」と「卒業」の取り合わせが近い気もする。そして、やはりフジモンが言ったとおり、歌詞の引用に季語を添えただけに見えてしまうので、オリジナリティにも疑問符がつくかな、とは思う。なお、歌詞の引用と分かれば、中七・下五は一連のフレーズとして読めますが、ふつうならば三段切れと見なされるはずです。添削のほうは、はたして卒業の場面に見えるかどうかが問われる。仰げば尊しの歌詞の力を信用して、「いざさらば」の一語から卒業の場面を連想しろ、ってことなのでしょうね。ただし、この「いざさらば」というフレーズは、戦前の軍歌にも使われていますし、その軍歌を知らなくても、戦時中の場面のように見えなくはありません。
2023.03.06
中華街の少女の旋子風光る 山笑う白髪の父と観覧車 風光る車掌誘なう窓の富士 春一番富士のいただき捕まえて 春の山ひつじに空の名を与へ 富士山の胴へふらここ漕ぐ少女 沸点の富士に近づく暮れの春プレバト俳句。お題は「富士山」。◇山本千尋。中華街の少女の旋子シュエンズ 風光る技の名は旋子 風光る少女(添削後)描いている情景も季語の取り合わせも素敵だけれど、6・8・5のリズムがぎこちないのも惜しいし、語順的に最後の季語が置き去りになってる感もある。個人的には、単純に8+10の対句で、シュエンズの少女 風光る中華街でもいいかなと思いました。◇寺田心。山笑う 白髪の父と観覧車観覧車の春よ 白髪の増えた父(添削後)老いた父と再会し、年甲斐もなく遊園地の観覧車から山を見て楽しんでいる、…みたいな、おおらか風景に見えるのだけど、作者が14才だと知ると「え?」となりますね(笑)。俳句自体は成立しているように見えるけど、これが14才の世界観なのかと思うと、ちょっと違和感が。まあ、若いお父さんでも、すっかり白髪の人だっているわけだし、あながち間違った表現ともいえないけど、なんとなく、14才の作者が意図したものと、実際の表現にズレがあるんじゃないかと疑ってしまう。ちなみに、「白髪の父」だとほぼ真っ白って感じだけど、「父の白髪」なら白髪混じりって感じにも見えるので、たとえば上6の字余りで、観覧車の父の白髪や 山笑うでも悪くはないのかなと思います。◇インディアンスきむ。風光る 車掌誘なう窓の富士風光る車窓よ 富士のアナウンス(添削後)原句は、中七の「誘なう」という動詞が誤読を招く。作者の説明によれば、車掌アナウンスが窓の富士に視線を誘なった…という意味らしいのだけど、あくまで「視線を誘なう」は比喩的な用法なので、本来的な「誘なう」の意味で解釈すれば、反対側の席などにいた乗客を、富士の見える席へ招いてくれたように読めます。かたや添削のほうは、後段の「富士のアナウンス」が適切なのか疑問。ためしに、車掌アナウンスの有無は想像にまかせて、風光る車窓に富士があるを知るとしてみました。◇新浜レオン。春一番 富士のいただき捕まえて頂を掴まん 春一番よ吹け(添削後)作者は比喩的に詠んだらしいのですが、これを実景と解釈すると、富士山に登って、山頂標識か何かを掴んでたら、そこに春一番が吹いてきた、…みたいに読めてしまいます。しかも、末尾は、(梅沢がよくやるみたいに)接続助詞の「て」でお茶を濁してるから、思わず「捕まえてどうするの?」と聞きたくなる。先生の添削はさすがのアイディアだけど、作者の意図がもともと観念的だとはいえ、やはり山の実景が見えなくなるのは残念に思えます。ためしに、富士に手をのばせば春一番来たるとしてみました。◇フジモン。春の山 ひつじに空の名を与へ永世名人達成句です。つい、ハイジのペーター句、(…だと勝手にわたしが思っている)羊群の最後はすすき持つ少年を思い出してしまいましたが、今回のほうが出来がいいと思います。羊への視線も優しいし、それにくわえて、空の広がりと山の広がりが呼応する感じもある。名づけられた羊にも、その無限の奥行きが映り込むようです。それにしても、これってフジモンの実体験なの?それとも、やっぱりハイジからの刷り込みかしら?◇フルポン村上。富士山の胴へふらここ漕ぐ少女富士山の胴を蹴らんと漕ぐぶらんこ(添削後)なるほど「ブランコ」って春の季語なんですね。原句のままで悪くないように思ったけど、富士山の胴へ向かっていく力強さと、ふらここの少女の上品さが釣り合わないとの指摘。そういわれれば、そうかもしれません。意味としては「ぶらんこ」も「ふらここ」も同じだけど、語感的に「ふらここ」のほうが上品なぶん力強さに欠けるし、文字どおり「ふらふらした可愛い遊具」みたいな印象になる。かたや添削のほうも、下6の字余りのリズムがしっくりこないし、そもそも、…漕がないブランコがあったら持って来い!とも言えるわけなので、その重複を避けて、ブランコを富士の腹まで蹴りあげるとかでもいいんじゃないでしょうか。◇梅沢富美男。沸点の富士に近づく暮れの春沸点の低き怒りや 老いの春(添削後)上五の助詞「の」が、主格なのか連体修飾格なのかが分かりにくい。もし連体修飾格だと誤読すると、「暮れの春が、沸点の富士に近づいている」という意味不明な内容に見えるのですね。なので、とりあえず、上五を「沸点が」とすれば、その誤読は回避できます。しかし、そもそも「沸点が富士に近づく」という言い回しは、富士の沸点のように低くなるってことなのか、富士の標高のように高くなるってことなのか、いまいち分かりにくいのよね。そのうえ、かりに作者の意図を理解できたとしても、「老人の怒りっぽさは富士山頂の沸点のようだ」という比喩を用いた抽象的な内容なので、ほとんど写生的な要素もなく、およそ俳句らしい題材とは思えないわけで…村上が言ったとおり、これで句集完成ってのは無理がありました。
2023.02.28
あの崖の上がわらびの萌える野と 鍵失せてファミレスにいる春の月 つまずいて春を見つけた排水溝 原稿に「摘出手術」春の虹 春風のマーチ擦り傷にマキロン 覚えなき青痣きっと春のせい 靴脱げたランナー春塵の入賞 赤チンの膝の記憶や養花天プレバト俳句。お題は「つまずく」。◇本上まなみ。あの崖の上がわらびの萌える野と東国原がいなくなって以降、なかなか型破りな作品には出会えなくなってますが、これは久々に独創的な俳句でした。実景ではない季語を詠んで、最後を「と」で終わらせている。内容的にも形式的にも型破りで、けっこう勇気がいりますよね。助詞の「と」は、梅沢の「妻よりと」の句と同じ用法ですが、引用を意味しますから、それより前はすべて誰かのセリフです。もともと助詞の「と」は引用だけでなく、並列などの意味もあったりするので、誤読の危険性にも注意を要するけれど、この句の場合は、冒頭の「あの」という指示語が効いていて、それがあることで崖の上を指差す人物の姿が見えます。実景としては、「わらび」ではなく「春の崖」を詠んだ句というべきですが、その実景の先に、見えない奥行きがあるのですね。ちょっと凡人にはできないことをサラッとやっていて面白いし素晴らしい。◇キスマイ横尾。靴脱げたランナー 春塵の入賞句またがりだけど、内容的には一句一章で、2カットには分かれていません。切れは場面転換を生んでおらず、前段と後段は「主語と述語」の関係、もしくは(山本健吉の言葉を借りれば)「主題と細叙的な反復」の関係です。江戸時代の俳句では「切れ」が場面転換をともなわなかったようなので、わたしは、こういう俳句は「江戸様式」「発句様式」なのだと思っています。その前提でいえば、とくに欠点のない出来で、季語を具体的な映像にした「春塵の入賞」というフレーズもいいし、表彰台の選手ではなく、入賞という脇役的な選手への視線もいいですね。…それはそうと、二階堂が「8+9」で詠もうとしてるらしい!どうなるでしょうか。期待が3割、不安が7割です(笑)。◇森口瑤子。覚えなき青痣 きっと春のせい後段の「きっと春のせい」は、CMコピーとかポップソングの歌詞っぽい言い回し。このフレーズを俳句に用いたのは、あくまでも森口瑶子の独創というべきだろうけど、もしも、これ自体をひとつの《季語》と見なしたら、前段だけを入れ替えて、なんでもかんでも「きっと春のせい」にする句が出来るし、その応用で「きっと夏のせい」などの句も無限に出来てしまいますね…(^^;◇こがけん。鍵失せてファミレスにいる春の月勝村政信。つまずいて春を見つけた排水溝こがけんも勝村も、動詞を2つ使っています。これは時間経過や因果関係の説明になりがちだけど、(鍵が失せたので、ファミレスにいる)(つまずいたので、春を見つけた)他方では、犬山紙子的なモノローグの効果になってるのかな、とも思う。≫ 喪服着てメロンソーダの列に居る≫ 恋を終わらせ平日の海月見る悪い句とは思わないけど、先生もやや不安視していたとおり、特待生にふさわしい句かは、ちょっと微妙かなと思いました。◇久代萌美。原稿に「摘出手術」春の虹「摘出手術」噛まずに言えた春の虹(添削後a)嚙みそうなニュース原稿 春の虹(添削後b)原句は、作者を知っていればこそ、「テキシュツシュジュツ」という早口言葉的な読みを強いられた、新人アナウンサーらしき滑稽句だと分かる。でも、作者を知らなければ、誰かの病状を気遣っている句のようにも見えてしまう。そこが難点ですね。なお、「噛む」というのは、おそらく「舌を噛む」から派生した新語の類でしょうが、添削では、これを積極的に用いています。…とはいえ(添削後a)のほうは、ちょっと医療関係者のように見えてしまうかも。たとえば中八で、春虹や 「摘出手術」を噛まず読むのようにも出来るけど、やはり「摘出手術」を諦めた(添削後b)が無難な気がします。◇森迫永依。春風のマーチ 擦り傷にマキロン擦り傷にマキロン 春風のマーチ(添削後)1ランク昇格だったけど、ちょっと微妙な出来。作者の話によると、「マーチの行進をしてたら転んで怪我をした」という因果関係が念頭にあったようです。しかし、読み手にはそれが分からないので、どういう取り合わせなのかがイメージしにくい。やはり添削のように語順を逆にして、華やかなマーチの後景にマキロンを塗る人物を置くほうが、映像的に面白くなります。しかし、作者の頭のなかでは「原因と結果」の関係だったので、そういう語順にはならなかったわけですね。◇梅沢富美男。赤チンの膝の記憶や 養花天赤チンとイジメの記憶 養花天(添削後)前回は「お三時」が不要な情報だと厳しく評価されたけど、今回もやはり「膝」が不要な情報との厳しい評価でした。まあ、そうかもしれませんね。ちなみに梅沢は、お気に入りの森迫永依のことを、さかんに自分の娘のように言ってましたが、まるで示し合わせたみたいに、同じような「赤チン」と「マキロン」の世代差俳句になってました。興味がわいたのでWikipediaで調べてみたら、まさに「マキロン」が「赤チン」に取って替わったのだそうです。1971年に山之内製薬(現・アステラス製薬)から発売され、それまで外傷消毒液として普及していたマーキュロクロム液(赤チン)に取って替わり、外傷消毒薬の代表製品として親しまれている。たしかに赤チンは服が汚れるもんねえ…。とはいえ、赤チンも2020年までは製造されていたそうです。日本薬局方からマーキュロクロム液が外れた2019年6月以降も製造を続けていたのは「サンエイ-S」を製造する三栄製薬株式会社のみであった。一時期は月2000〜3000本ほどの生産量であったが、水銀に関する水俣条約により、2021年以降マーキュロクロム水溶液が規制対象となるため、2020年12月24日製造分を以て製造を終了した。赤チンがマキロンに取って替わったように、梅沢も句集を完成させて次の名人に取って替わるかと思いきや、…そうはいきませんでした(笑)。
2023.02.22
春立つやダンス部活の予定表 初虹レッスン場に向かうメモ見る バレンタイン娘らが正の字父の数 開運を願う初春にメモ外す 春立つや桃色のメモ退院日 サンタへの手紙貼られたままの春 お三時は固めのプリン春の雪プレバト俳句。お題は「冷蔵庫のメモ」。◇伊原六花。春立つや ダンス部活の予定表バブリーダンス部時代の実体験でしょうか。動詞の季語に切れ字の「や」をつけるあたり、ちゃんと勉強したうえで作ってる感じがします。なお、雪の結晶を意味する「六花」も冬の季語で、読みは「りっか」「むつのはな」など色々あるようです。音数的にも使い勝手のよさそうな季語ですね。◇キスマイ二階堂。初虹 レッスン場に向かうメモ見る初虹や レッスン場に向かうメモ(添削後)本人の説明によれば、「母がメモに書き出してくれたレッスン場への出発時刻」とのことですが、原句を読んでも、添削句を読んでも、「レッスン場へ出掛けてしまった誰かの書置き」としか読めません。逆に、母の視点から、初虹や 息子の出発時刻記すのように詠む選択もあるけれど、作者の意図したものを17音に収めるのは難しい。…それにしても、なぜ18音の破調にしたのでしょうねえ(笑)。いまいち思考回路が読めません。清水アナからも諫められる始末でした。とりあえず、ジャニオタのファンでも、キスマイのメンバーの誰でもいいから、9音「○○○○の○○○○」+8音「○○○○の○○○」の組み合わせで、17音の対句を作る方法を教えてあげたらいいのでは?◇山﨑ケイ。バレンタイン 娘こらが正の字 父の数愛の日の正の字 父のチョコの数(添削後a)愛の日の戦果よ 父のチョコの数(添削後b)三段切れ。複数の父にチョコを贈る娘たちの句と読めるし、人によっては「パパ活」などと誤解しかねません…。◇YOU。開運を願う初春しょしゅんにメモ外す「冷蔵庫のメモを外せ」と初みくじ(添削後)原句は、どこから何のメモを外すのか分からないし、その理由もいまいち分からない。かたや、添削句のほうは、なにやら不吉なお告げが御神籤に出てきたみたいで、ちょっと主旨が違ってる気もする。作者の意図したとおり描写するなら、初春はつはるに冷蔵庫のメモ整理する初春や 冷蔵庫のメモ取り除けりなどで十分だと思うし、2月に新年の句を詠むのも季節外れなので、季語は「立春」に置き代えてもいいと思います。◇中田喜子。春立つや 桃色のメモ 退院日桃色のメモよ 春立つ退院日(添削後)中七は、「桃色メモに」とか「ピンクのメモに」とすれば、とりあえず三段切れを回避できます。添削句はよさそうにも見えるのだけど、「メモ」と「退院日」の位置が離れたことで、かえって意味が分からなってしまう気がするし、ワンカットの内容なのか、ツーカットの対句なのかも不明瞭になる。◇千原ジュニア。サンタへの手紙貼られたままの春これは意図的な季重なりへの挑戦ですね。なお、未掲載の歳時記もあるようですが、「サンタクロース」を冬の季語とすることに、なんら議論の余地はないと思います。◇梅沢富美男。お三時は固めのプリン 春の雪甘すぎる固めのプリン 春の雪(添削後a)あの頃の固めのプリン 春の雪(添削後b)わたしは悪くない句だと思ったけど、上五の「お三時」は不要な説明だ、との厳しい評価でした。ちなみに、わたしぐらいの世代もふくめて、「固めのプリン」は昔のプリンじゃなく、むしろ今どきのプリンだと思う人も多いのでは?かつて「固いプリン」しか作れなかった時代と、あえて「固めのプリン」を作る現代を描き分けるには、むしろ「固きプリン」と書くほうが妥当だと思うし、上五に助詞の「は」を用いる必然性も感じないので、わたしなら、お三時の固きプリンや 春の雪とするかもしれません。なお、梅沢は、「春の雪」がプリンの比喩であるかのように言いましたが、その発想はかえって減点要素になると思う。
2023.02.12
福豆拾い子のコップで晩酌 もうちょいと生きてみるよと豆を撒く 立てかけて清しき巻き簾節替りプレバト俳句。お題は「節分」。◇フルポン村上。立てかけて清しき巻き簾 節替り読みは「たてかけて すがしきまきす せつがわり」です。恵方巻を作り終えた台所の描写とのこと。志らくも言ったように「清し」の是非だと思う。使い終わって洗ったあとの調理用具を「清し」と感じるのは、客観ではなく、あくまで主観というべきだし、本来なら言う必要のない情報だからです。ただ、見方によっては、「洗った」と過去の説明をする代わりに、「立てかけて清し」という現在の実景を描写した…ともいえます。そこが評価の分かれ目。外に干した洗濯物ならいざ知らず、洗って台所に立てかけてあるだけの調理用具を、いちいち「清し」と感じる人は少ないだろうから、そのあたりの共感性の問題かもしれません。◇立川志らく。もうちょいと生きてみるよと豆を撒くもうちょいと落語に生きん 豆を撒く(添削後a)もうちょいと笑いに生きん 豆を撒く(添削後b)基本的には、前回の「忘れ物を探す」と同じで、内容が観念的なうえに、具体的な映像に乏しい。前回の写真俳句では、その余白が有利に働いたのだけど、通常俳句では、やっぱり余白がありすぎて失敗する。◇犬山紙子。福豆拾い 子のコップで晩酌福豆を拾い子のコップで晩酌(添削後)原句は破調の対句ですね。「節分に」「豆を拾って」「子供のコップで」「親だけの晩酌」…という4つの要素を17音に詰め込んでいるので、志らくとは反対に、具体性がありすぎる。とはいえ、季語の「福豆」はけっこう言葉の経済効率がいいから、17音に詰め込むのも不可能じゃなく思えてしまう。そこが判断の分かれ目。子育てに疲れた感じを出すには、「晩酌」でなく「寝酒」とする選択もあります。また、子供のコップに酒を注ぐと言っても、呑むのは成人した子供じゃなく、若い親自身だから、たとえば「手酌」という言葉を使う選択もある。ついでにいうと、助詞の「で」はやはり説明的なので、なるべく避けたい。かりに、4つの要素をすべて17音に詰め込むならば、波長の対句にはなりますが、拾ひし福豆 子のコップに手酌とも出来るかもしれません。あるいは「拾う」の要素を外して、福豆や 子のコップにて手酌酒とも出来るかもしれません。助詞の「にて」はやや説明的ですが。さらには、「拾う」と「子のコップ」を外して、福豆をつまむ寝酒や 子の寝息みたいなやり方もあるかもしれません。余白がなさすぎる犬山紙子。余白がありすぎる立川志らく。
2023.02.07
忘れ物を探しに菜の花を行く てふてふの過るトロッコ列車かな 春日和チャー弁膝に水平に 春風の房総地磁気逆転の跡 春日傘少女のような祖母の顔 風光る五分着まであの子待つ初蝶の止る擬宝珠の刀傷 ささくれた橋へ零るるさくらかな 春色の洛中馴染みなく緩歩 ひそと待つ花街のひと花衣 天然の若鮎群れて遡上中プレバト。ふるさと戦の写真俳句です。ほぼ名人クラスの人たちだったので、基本的には上手な俳句が多かったけど、やっぱり写真との相乗性・相補性をはかるのが難しい。◇第一戦は千葉県です。お題は「小湊鉄道」。まずは原句から見てみます。(立川志らく)忘れ物を探しに菜の花を行く(フルポン村上)てふてふの過るトロッコ列車かな(皆藤愛子)春日和 チャー弁膝に水平に(小倉優子)春風の房総 地磁気逆転の跡(ぼる塾田辺)春日傘 少女のような祖母の顔(山口航輝)風光る 五分着まであの子待つ1位は、志らくでした。「忘れ物を探す」というのは観念的な内容。誰が何を探すのか具体的な映像としては見えない。たぶん通常回ならボツですね。事実、通常回での志らくの俳句は、観念的な内容に傾くあまり、具体性に欠けて失敗しがち。あるいは17音の描写が内容に追いつかず失敗しがち。けれど、写真俳句の場合は、そのことがかえって有利にはたらいています。俳句の余白が、むしろ写真と相補関係になるのですね。17音では表現しきれない観念的な内容を、写真の具体性が補強することで、余白が埋まる。ただ、通常回でこれをやると、たいてい失敗すると思います。 ◇2位は、フルポン村上。「トロッコ列車」の情報が映像と重複している。そこが添削の対象となりました。◇3位は、皆藤愛子。「季語が動く」と指摘され、季語に具体性を与える添削がなされました。なお、添削では「水平に」が消されてしまいましたが、揺れる電車で傾かないように気をつける様子を、面白い表現で描写してるし、悪くはなかったと思う。◇4位は、小倉優子。これはかなり面白い俳句です。通常回だったら高評価だったはず。ただ、もしかすると、地名の「房総」は広すぎて具体性に欠けるのかな。とくにこの写真俳句では不要な情報でしたね。◇5位は、ぼる塾田辺。わりとファンタジックな内容です。添削では、季語を使って「少女らしさ」に具体性を与えている。◇6位は、山口航輝。中七の「五分着」が分かりにくかったですね。…以下が先生の添削です。(フルポン村上)蝶よぎりゆく吹き抜けの展望車(皆藤愛子)チャー弁は膝に 車窓の春日和チャー弁は膝に 二人の春日和(小倉優子)春風や 地磁気逆転せし地層(ぼる塾田辺)春日傘振って少女のような祖母(山口航輝)あと一本 あの子を待てば風光るあと一便 あの子を待てば風光る◇◇◇第二戦は京都府です。お題は「春の三条大橋」。まずは原句から。(千原ジュニア)初蝶の止る擬宝珠の刀傷(森口瑤子)ささくれた橋へ零るるさくらかな(フジモン)春色の洛中 馴染みなく緩歩(中田喜子)ひそと待つ花街のひと 花衣(篠田麻里子)天然の若鮎群れて遡上中1位は、千原ジュニアでしたが、中七の「止る」が嘘っぽいので「来る」に添削されました。◇2位は、森口瑶子。文語に統一されたものの、ほぼ直しはありません。ただし、写真に桜が映っていないので、いまいち俳句と噛み合わないのが難点。◇3位は、フジモン。「馴染みなし」という形容詞があるのかと思いましたが、そういうわけではないらしい。でも、意味は分かります。不慣れな場所でぎこちなく落ち着かない、ってこと。そういう状態を言い表す形容詞は、ありそうで、なかなか思いつかないけれど、先生は形容動詞の「そぞろなり」に置き換えました。形容詞なら「よるべなし」が比較的近いかな、と思う。字余りなら「心もとなし」でしょうか。◇4位は、中田喜子。中七の「ひと」が不要な情報でした。◇5位は、篠田麻里子。通常回だったら、原句のままでもよかったかもしれませんが、この場合は《写真の説明》みたいに見えてしまう。先生の添削のほうは、通常回なら「具体性に欠ける」と言われそうですが、その言葉足らずの部分を写真が埋めるってことでしょう。しかも擬人化を使っていますね。…以下が先生の添削です。(千原ジュニア)初蝶のきて擬宝珠の刀傷(森口瑤子)ささくれし橋へ零るるさくらかな(フジモン)春色の洛中 そぞろなる緩歩(中田喜子)ひそと待つ日々 花街の花衣(篠田麻里子)若鮎を都の水はよろこびて
2023.02.04
バクダンと叫ぶ屋台の年男 湯気越しに父の面影冬の蝶 日向ぼこ面取り眺めるシロの鼻 おでん取り浮かぶ顔見て肩揺らす ガード下シメのおでんはクミンの香 おでん屋の一皿は先ず神棚へ 練り物の蓋持ち上げておでん鍋プレバト俳句。お題は「おでん」。◇津田寛治。バクダンと叫ぶ屋台の年男わたしは、玉子巻のことを「バクダン」と呼ぶとは知らず、てっきり祭り屋台のポン菓子売りなのかと思いました。そう解釈する人もけっこういるのでは?また、最近は、茨城発の屋台で「ばくだん焼」ってのもあるらしい。たこ焼きみたいなお好み焼きのことだそうです。なお、先生の解説にもありましたが、季語の「年男」には二通りの由来があるのですね。1.新年の飾付けをし若水をくむ役の男。(家長を原則として、長男や奉公人があたるが、西日本には女性が主役となる地域もある)2.節分の豆まきをする役の男。(その年の干支の生まれの名士などから選ぶ)…だそうです。一般的な「年男・年女」の用法は、後者の意味から派生したのかもしれません。◇安藤美姫。湯気越しに父の面影 冬の蝶面影の父よ 冬蝶くる家よ(添削後)この先生の添削はすばらしいけど、作者が意図した「おでん」の要素は取り除かれてしまった。原句の上五「湯気越し」は、やはり風呂や温泉などと誤読されるので、季語の「おでん」をはっきり詠み込むとすれば、本人の語った「黒揚羽」を使う選択もあったかも。ためしに、おでん煮て父を偲べば黒揚羽としてみました。追記:スミマセン。そもそも「揚羽」が夏の季語なので季重なりですね。やっぱり「おでん」を諦めるしかないのかな。リベンジで、卓の湯気 父を偲べば冬揚羽としてみます。◇大久保佳代子。日向ぼこ 面取り眺めるシロの鼻大根の面取り シロの来て眺む(添削後)季語は「日向ぼこ」です。何の「面取り」なのか分からない。半分の読者は「大工」と解釈するのでは?かたや、添削のほうは「来て眺む」が気に入らない。原句に沿って、大根の面取り見上ぐシロの鼻としてみました。◇コットン西村。おでん取り浮かぶ顔見て肩揺らす皿に取るおでん誰かの顔に似て(添削後)原句は、動詞を4つも並べたあげく、ほとんど何も描写できていません。ためしに、練りものを皿にならべて福笑いとしてみました。追記:「食事の準備の後に福笑いで遊んでる」と解釈されてしまうかも。こちらもリベンジで、練りものをならべ皿なる福笑いとしてみます。◇キスマイ横尾。ガード下 シメのおでんはクミンの香最近は、若い女性でもガード下を呑み歩くし、シメのおでんだって食べるでしょうね。しかも、そのおでんは、洋風だったり、エスニック風だったり、ずいぶんバラエティに富んでいる。そういう今時の世相を詠み込んだ句ですね。◇千原ジュニア。おでん屋の一皿は先ず神棚へわたしも助詞の問題だと思ったし、実際、おでん屋台 まず一皿を神棚にのようにも出来ます。先生の言ったとおり、「を」なら本人としか読めませんが、「は」なら本人とも第三者とも読めます。◇梅沢富美男。練り物の蓋持ち上げておでん鍋蓋持ち上げおでんの練り物は膨る(添削後)助詞の問題ともいえるし、語順の問題ともいえるし、上五「練り物」の擬人化や他動詞の問題ともいえる。ジュニアが、「蓋がちくわで出来てるの?」と言ったように、「練り物の蓋」は読みを迷わせるので、練りものが蓋もちあげるおでん鍋と書くほうが明快ですね。もしくは、季語の「おでん」をあえて使わずに、練りものが膨れて蓋をもちあげるとも出来るかもしれない。かりに、擬人化をやめて自動詞を使うなら、練りものに蓋もちあがるおでん鍋となります。(わたしは、これがいちばん良いと思う)フルポン村上のように、半径50㎝の光景を写生した内容だけど、うまく詩情を出さないと、淡々としすぎてつまらなくなるし、かといって安易に比喩や擬人化を使うべきでもない。そこが難しいですね。
2023.01.23
初富士は青しケサランパサラン来 雪虫の第一発見者は次男 冬ぬくし粘板岩に貝の跡 マフラーにきら失くしたはずのピアス 四時限目休講小春のキネマ 焼鳥や嗚呼隣席に郷ひろみ 一月の銀座でおそろいの遅刻 初旅は海へ黄色の京急来 夕の膳二つ「ん」のつく冬至かな 雪晴やチャームへ託す運選ぶ 吉兆の輝き一村をめざす 3ミリのジンクス冬晴れの球児 夢のあとはぐれ牛すじおでん鍋 ダイヤモンドダストファンが持つライト 闇動く幸せが動く梟プレバト俳句。お題は「ラッキー」。1位が森迫永依。2位が本上まなみ。二人とも出演回数は少ないけど、実力はすでに十分だったので、わりと順当な結果だと思いました。はじめから「どちらかが優勝するかも」って気がしてた。◇森迫永依。初富士は青し ケサランパサラン来くあれ?前にも誰か「ケサランパサラン」で詠まなかったっけ??…と、最初に思ったのだけど、よく考えてみたら「プレバト」じゃなくて「せかくら」の話だったwたしかアンジャッシュの児嶋が持ってきてたような。どっちの番組にもジュニアが出てるから混同した。その実物を「せかくら」で見たときは、なにやら不気味な物体のように感じたのだけど、今回の森迫永依の俳句を読んだら、むしろ爽やかな幸運の綿毛のように思えました。それどころか、「ケサランパサラン」という響きまで、なんだか清々しいものに思えてくるから不思議。この人の俳句は、「モロッコの朝」にしても、「冬晴れの小樽」にしても、清々しさを表現するのが作風になってますね。初富士についても、「雪の白さ」ではなく「青さ」を描くところに、その感性がちゃんと出てると思います。助詞の「は」は、その新鮮さに驚いたがゆえですね。句またがりとか、動詞「来」の選択とか、結構いろんなことを分かった上で作っている。◇本上まなみ。雪虫の第一発見者は次男この助詞「は」の使い方も的確。中七下五の句またがりもサラリと出来ている。前回は「従弟」の句。今回は「次男」の句。ほのぼのした身内のエピソードですよね。森迫永依も、本上まなみも、まだ数回しか出演してないと思いますが、内容的にも、形式的にも、ちゃんと一定の作風があるように見える。◇キスマイ千賀。冬ぬくし 粘板岩に貝の跡型どおりのそつのない句です。ただし、個人的には、季語を兼題に寄せて「暖かい冬」にしたのはいいとしても、助詞を「に」にしてラッキー感を強める必要があるかしら?…ってのはある。そもそも化石を見つけるために粘板岩を探してるのだし、竜の跡とかならともかく、貝の跡ぐらいで「ラッキー!」ってほどでもないのでは?本来なら「に」ではなく「の」で十分かなと思います。◇森口瑤子。マフラーにきら 失くしたはずのピアスマフラーのフリンジ あらここにピアス(添削後)擬態語の「きら」がどうかなあ?…とは思いました。せめて「きらり」と書くべきでは?たとえば、マフラーにきらり 失くしていたピアスでも17音にはできます。◇フジモン。四時限目休講 小春のキネマ四時限目休講 小春日のキネマ(添削後)16音の字足らずを解消するには、たとえば「四時限目の」としてもいいし、添削のように「小春日の」としてもいいわけですが、原句の字足らずのままでも悪いとは思いません。むしろ字足らずのほうが、小春の休講の"束の間"な感じとか、"人知れずささやかな娯楽"に浸る感じとか、そういう印象が出るのだと思います。名人がこの手のミスをするはずもないし、これは意図的な字足らずだったように感じます。◇千原ジュニア。焼鳥や 嗚呼隣席に郷ひろみ悲嘆の「嗚呼」なのかと思いきや、最後の「郷ひろみ」で落とすというウケ狙いの句。切れ字「や」の詠嘆のうえに「嗚呼」を重ねるのが、ちょっとクドイとも言えるし、あるいは感動の焦点が散漫だとも言えますが、それもウケ狙いのうちだといわれれば仕方ない。◇犬山紙子。一月の銀座でおそろいの遅刻一月の銀座 お互いの遅刻(添削後a)一月の銀座 お互い様の遅刻(添削後b)この場合の「おそろい」は誤読を招く、…というより、ほとんど誤用というべきでしょう。なので、直しが必要ですが、字足らずの(添削後a)よりも、字余りの(添削後b)のほうが、内容的にもリズム的にも良い気がします。◇キスマイ横尾。初旅は海へ 黄色の京急来く京急は黄色だ 初旅は海へ(添削後a)イエローハッピートレイン 初旅は海へ(添削後b)原句は二句一章なのですが、切れのない一句一章だと誤読されかねないし、そうすると「~へ~来る」の組み合わせがおかしくなる。一句一章ならば「~へ~行く」でなければならない。そこがすこし難点なので、直したほうがいい。なお、(添削後a)のほうは、あえて「黄色の京急や」でなく「京急は黄色だ」としてますが、結果的に助詞の「は」を2度使うことになるので、字余りであっても(添削後b)のほうが良いと思います。◇梅沢富美男。夕の膳 二つ「ん」のつく冬至かな「ん」のつくもの二つ 冬至の夕の膳(添削後)セオリーにしたがうなら、最後を「かな」で締める場合に「切れ」は入れないほうがいい。この句は、内容的には二句一章ではないけれど、リズムのうえでは上五に「切れ」が入ってるので、たとえば上五を「夕膳の or 夕膳に」とすれば、その点を解消できると思います。これが9位だったのは順位が低すぎる感じ。わたしなら、これを4位か5位ぐらいにします。(逆に、森口やジュニアは順位が高すぎると思う)なお、先生の添削は「ん」で始まってるので、これって、もしかしたら俳句史上初かも!!と思いましたが…すでに夏井チャンネルでもやってましたね(笑)。◇フルポン村上。雪晴や チャームへ託す運選ぶ雪晴や 金運のチャームきらきら(添削後)動詞2つで「託す運選ぶ」の是非。すなわち、「運」という名詞が、修飾語の動詞と述語の動詞に挟まれた形。誤読の危険性はないけれど、やはりゴチャッとした印象になります。それから「運選び」ってのは、客観写生ではなく心情表現というべきなので、その是非も問われることにはなる。それでも、原句の意図を尊重して、動詞をひとつ減らすとするならば、雪晴や チャームに何の運託す?雪晴や チャームに託すは何の運?みたいな方法もあるとは思いますが。◇中田喜子。吉兆の輝き 一村をめざす吉兆の輝き 産地の村めざす(添削後)もしかしたら作者のこだわりは、「キッチョウ」と「イッソン」の促音で、韻を踏むことだったのかもしれません。しかし、福笹を掲げて目的の村へ向かう映像は、そういう地方の行事か何かとしか読めません。◇高橋克実。3ミリのジンクス 冬晴れの球児3ミリに刈った坊主頭のことらしいけど、わたしも、先生と同じように、「ボールにあと3ミリ届かなくて負けた」とか、そういう話なのかと思いました。ちなみに、床屋では「3ミリ=1分刈り」だそうですが、17音の定型に収めるのなら、「丸刈りのジンクス」「五分刈りのジンクス」みたいな感じになるでしょうか。◇伊集院光。夢のあと はぐれ牛すじおでん鍋牛すじの外れておでん鍋の底(添削後)原句は、二句一章の内容なのだろうけど、リズムのせいで三段切れに見えてしまう。もし原句の意図を尊重して直すなら、目覚めればおでんは牛すじのみとなりみたいな感じ?◇キスマイ二階堂。ダイヤモンドダスト ファンが持つライトもしかして「ト」と「ト」の脚韻だった??先日の宣言どおり、句またがりの対句形式にはしてきたものの、内容的には「取り合わせ」ではなく、たんに「BはAのようだ」という比喩ですね。季語を比喩に使ったのも減点要素になりうる。今後、また句またがりの対句に挑むのなら、まずは横尾から、「二物衝撃」「2カットの取り合わせ」の意味を教えてもらったほうがいいと思う。◇立川志らく。闇動く幸せが動く 梟ふくろうフクロウが動くことは、すなわち闇が動くことであり、すなわち幸せが動くことである…みたいな意味なのだろうけれど、その観念的な内容に17音の言葉では届いていない。とくに中七の「幸せが動く」というフレーズは、ネガティブな変化を意味するように誤読されかねない。ためしに、闇動く 幸せの梟動くあるいは、闇を鳴き幸せを呼べり 梟としてみました。
2023.01.15
独りきり煌めく街が冬の棘 街騒に凍てし手の振る誘導棒 静寂に響くダイヤモンドダスト iPhoneの光に胸がRing a Ding Dong ルミナリエ咥えて外す黒手套 垂直にシャンパンの泡クリスマス 冬木立シャンパン色にさざめきぬプレバト俳句。お題は「イルミネーション」。やたらと比喩の句が多かったです。前回は、篠田麻里子の「無音の宴」という比喩表現に、すかさずチェックが入ったわけですが、今回は、ほぼすべての比喩がダメ出しなく容認され、それどころか積極的に評価されていました。まあ、クリスマスという時節柄、多少のロマンチックな比喩は許容されるのかもしれません。◇梅沢富美男。冬木立 シャンパン色にさざめきぬリズム的には上五で切れを作っていますが、内容的には一物仕立ての一句一章です。さて、シャンパン色をしてるのは、電飾をほどこした「木立」なのか、それとも、その「さざめき」なのか。字面どおりなら、シャンパン色なのは「さざめき」のほうであり、その場合は、たとえば「金色に鳴る」などの言い方と同じように、色がないはずの「音」を色彩的に描写した比喩表現です。かたや、「木立がシャンパン色に(輝きながら)さざめいている」という省略が含まれているのなら、シャンパン色なのはあくまで電飾された「木立」ですが、その場合でも「シャンパンのような色」という言い方自体が、そもそも比喩的な表現だとはいえます。どちらの意味かは分かりませんが、いずれにせよ、クリスマスらしい比喩として評価されたようです。◇酒井美紀。静寂に響くダイヤモンドダスト静寂に響けり ダイヤモンドダスト(添削後)かりに、ダイヤモンドダストが、微かに音を立てることがあるとしても、「鳴る」と言うならともかく、「響く」ってのは大袈裟だろうから、その時点ですでに比喩的なのですよね。しかも、ネットで調べるかぎり、「ダイヤモンドダストが音を立てる」なんて話はどこにも見当たりません。現実にはそんなことはないようです。なので、これは客観写生ではなく、「ダイヤモンドダストのきらめきが静寂の中で音を立てているようだ」という完全な比喩であり、それを「響く」とまで言った幻想なのです。添削も、倒置法っぽく直してはいますが、内容的には何も変わってないし、それどころか切れを用いて強調したのだから、原句の比喩や幻想を許容したのだといえます。なお、原句の「ダイヤモンドダスト」は9音ですが、日本語で「細氷」と書けば4音で済みそうです。ためしに、きらきらと音が鳴るかのごと細氷としてみました。◇アンミカ。iPhoneの光に胸がRing a Ding DongiPhoneの光よ雪よ Ring a Ding Dong(添削後)鐘やベルじゃ季語にならないだろうけど、擬音語の「ディンドン」にかぎっていえば、案外、クリスマスシーズンの季語になるかもしれません。いずれにせよ、胸が「ディンドン鳴る」というのは、いわば「クリスマスの鐘のように鳴る」という比喩ですね。しかし、添削では、季語としても認められず、鼓動の比喩としても否定されました。◇秋元真夏。独りきり 煌めく街が冬の棘一人ゆく 煌めく街は冬の棘(添削後a)傷心や 煌めく街は冬の棘(添削後b)これも、「街の煌めきが心を刺す棘のようだ」という比喩的な心理描写であって、やはり客観写生ではありません。とはいえ、この比喩こそが作品のキモなので直しようがないし、先生も、この比喩を積極的に評価したようです。なお、先生は、このような比喩表現ではつねに助詞の「は」を用いますね。◇とろサーモン村田。街騒まちざいに凍てし手の振る誘導棒街騒や 凍つる手に振る誘導棒(添削後)原句は、あきらかに「てにをは」がおかしい。添削がおそらく唯一の正解です。…それにしても、この「街騒」ってのは、はじめて見た日本語でした。たぶん「潮騒」を真似た造語で、一般的な日本語ではないと思いますし、わたしの手持ちの広辞苑(第三版。古い!)には掲載されていません。しかし、なぜか俳句の世界ではやたらと使われているらしい。◇キスマイ北山。ルミナリエ 咥くわえて外す黒手套くろしゅとうとても良い句だと思いますが、字面だけを見ると、(「しゅとう」という読みも含めて)フィルムノワールというか、ハードボイルドっぽいのよね(笑)。クリスマスに仕事を終えたゴルゴ13かと思いました。◇フルポン村上。垂直にシャンパンの泡 クリスマスわたしも梅沢と同じで、シャンパンの瓶から吹き出る泡のことかと思った。実際、そう解釈する人が半数を超えるのでは?瓶から「吹き出る」と解釈すれば《動的な句》と読めるし、グラスに「昇る or 揺れる」と解釈すれば《静的な句》と読める。つまり、誤読を許したら詩情そのものが反転してしまう。掲載決定とはなりましたが、本来なら誤読を許容できない内容なのだから、やはり誤読されないような書き方をすべきだと思う。たとえば、垂直にシャンパングラスの泡 聖夜ともできたのでは?
2022.12.28
冬晴の小樽ことりっぷの折り目 雪道にLINEスタンプバスの跡 音もない銀世界の停留所 寒窓に浮く子どもの絵帰路のバス ズワイガニ無音の宴50分 バス見えてバス停の毛布を畳む 補助席に場札と蜜柑バスの旅プレバト俳句。お題は「観光バス」。◇森迫永依。冬晴の小樽 ことりっぷの折り目キスマイ横尾みたいな 、句またがりの対句。人物のことはどこにも書いてないけど、ちゃんと若い女性の姿が見えてくるのが巧い。いまどきの女性の一人旅でしょうか。冬晴の小樽の清らかさ。そして何気ない若い女性のふるまい。それが互いに響き合って、可愛らしくも端正な印象になってます。言葉に無駄がなく、詩情も豊かなので、いちじくの句につづき72点のハイスコアでした。◇勝村政信。雪道にLINEスタンプ バスの跡雪道のLINEスタンプ バスの跡(添削後)よくこれを才能アリにしたなあ…。わたしなら凡人以下ですね。この比喩そのものが、わたしにはよく分からないのだけど、バスの轍を比喩で表現しただけの一物仕立てを、二句一章のような形式で書いてるのもイマイチ。むしろ下7の字余りで、雪の町 バスの轍はLINEスタンプと書いたほうがマシだと思います。でも、見方を変えれば、前段で比喩の謎かけをして、後段の種明かしでオチをつける…という自由な「型」なのかもしれません。◇鈴木絢音。音もない銀世界の停留所ふるさとや ぽつんと雪の停留所(添削後a)失恋や ぽつんと雪の停留所(添削後b)中6の字足らずですね。前回の夏井先生の話に則していえば、この「字足らず」が《ポツンと感》を出してる気はする。そして「銀世界」を季語相当と見なすことも可能だとは思う。ただし、かなり類想感のある情景で、それ以上の具体性に乏しいかな。◇オズワルド畠中。寒窓かんそうに浮く子どもの絵 帰路のバス窓に子の落書き 冬の帰路のバス(添削後)たぶん「寒窓」を季語相当と見なすことも可能だとは思う。けれど、これは「寂しさ」の意味合いをふくむ語なので、この句の場合にはふさわしくありません。添削が妥当ですね。◇篠田麻里子。ズワイガニ 無音の宴うたげ50分ずわい蟹食はむ音のみの50分(添削後)中七の「無音の宴」は比喩的な言い方であって、客観写生とはいえない。そこが弱い。なお、基本的に動植物の季語はカタカナで書かない、とのことです。◇千原ジュニア。バス見えてバス停の毛布を畳む村上が言ったように、接続助詞の「て」で動詞を2つ繋ぐのは、時間経過を意味するだけでなく、経緯や因果の説明になる場合もあるので、その是非が問題になる。この句の場合は、犬山紙子的なモノローグにも見えますね。≫ 喪服着てメロンソーダの列に居る≫ 恋を終わらせ平日の海月見るもうひとつは、あえて「バス」の語を重ねたことの是非。同じ語を2度使わなくても、「バス見えて停留所の毛布を」とも出来るし、「車両見えバス停の毛布を」のようにも出来ます。そこをどう評価するか。わたしはやや否定的です。◇フルポン村上。補助席に場札ばふだと蜜柑 バスの旅ジュニアが言うように、すでに上五と中七だけで、状況説明と主役の季語まで出尽くしているので、下五の「バスの旅」が付け足しの説明に見える。たとえば、「小さきバス」「バスは行く」のように、あくまで描写的に書くべきだと思います。なので、わたしならボツにします。基本的に動植物の季語はカタカナで書かない
2022.12.17
長ゼリフ終へ差し入れの鯛焼 余命を知りたい焼きを腹から食う 買い食いの鯛焼野球強豪校プレバト俳句。お題は「たい焼き」。◇森口瑤子。長ゼリフ終へ差し入れの鯛焼長ゼリフ終へたり 差し入れは鯛焼(添削後)原句のほうは疲労困憊…って感じですが、添削句のほうは達成感が出ていますよね。とはいえ、原句の暗くネガティブな印象が、先生の言うように「字足らず」のせいかどうかは疑問。まさか先生は、「字余り=長調」「字足らず=短調」という説を唱えるつもりなのでしょうか?そういえば、片山由美子の、「句またがり=シンコペーション」ってのもありましたが…。◇立川志らく。余命を知りたい焼きを腹から食う余命知る たい焼きを腹から食らう(添削後)これも同じです。原句のほうは暗く弱々しく感じるけど、添削句のほうは力強く明るく感じますよね。さっきの森口瑤子の場合もそうだけど、この違いは「字足らずか字余りか」というよりも、むしろ「切れがあるかないか」から生まれるものだと思います。たとえば、犬山紙子も、動詞を2つ使って切れのない句を作っていましたが、≫ 喪服着てメロンソーダの列に居る≫ 恋を終わらせ平日の海月見るこれって自省的かつモノローグ的な印象を与えるのですよね。そのことが暗い印象につながるのだと思います。なお、原句の表記は「知りたい」に見えるので、漢字で「鯛焼き」と書くべきだと思うけど、そうすると焼き魚に見えてしまう…という判断をしたのかもしれません。ほかの二人は「鯛焼」と書いてますけどね。◇フジモン。買い食いの鯛焼 野球強豪校厳密にいえば下6ですが、ほぼ定型リズムによる句またがりです。やや「置きにいった」と言われかねないぐらい、きっちり型に収めたソツのない句ですが、やはり内容がユニークで面白いのでしょうね。健康的で朗らかな場面ともいえるけど、まるでガキ大将がわがもの顔で振る舞ってるような、どこかしら漫画的で、笑いを誘う場面にも見えます。田中道子の泣きで終わらせた構成ww定塚翡翠では中華食らってましたw
2022.12.16
忘年会1人のためにラブソングを 初雪やこの恋届け歌にのせ 指先に沈む夕陽やママの冬 ひと晩で忘れるからOK年の暮れ カラオケの二番の途中コート脱ぐ 暖房や(間奏約30秒) 榾の宿主十八番の夢芝居プレバト俳句。お題は「カラオケ」。◇村上佳菜子。忘年会 1人のためにラブソングを忘年会 一人のためにラブソングを(添削後)下6の字余り。助詞「を」は動詞の省略を意味しています。単純にいえば「歌う」の省略なのだけど、印象としては「捧げる」「送る」のニュアンスがあって、それが心情表現としての度合いを強めている。客観写生の原則からは逸脱しますが、むしろ今回はその点が積極的に評価された形。◇山口もえ。初雪や この恋届け歌にのせ初雪に歌うよ この恋よ届け(添削後)これも、中七・下五は、客観写生というより心情表現ですが、それをとおして歌う人物の映像が見える仕組み。字面だけを読むと、冬空に向かって歌っている人の姿が見えてきて、そのほうが神聖な感じで詩情に優れています。カラオケの場面だと解説されると、かえって下世話になって詩情が半減する(笑)。◇徳光和夫。指先に沈む夕陽や ママの冬「再会」を絶唱 ママの冬夕陽(添削後a)「再会」を絶唱 ママの冬夕焼(添削後b)レイザーラモンRGの「北酒場」と同じく、歌謡曲の五七調をそのまま組み込んだ形ですが、まあ、「北酒場」ほどのクサさは感じません。とはいえ、「受刑者」とか「スナックのママ」とか、そういう作者の意図までは到底伝わらない。添削句のほうは、とりあえず「再会」という曲名を組み込んで、その言葉の経済効率に託した形ですが…実際のところ、「再会」というタイトルの曲は無数に存在するし、わたし自身、この松尾和子の曲は知らなかったし、曲名が喚起する力だけに頼るのは難しい。なので、かろうじて「絶唱」の一語から、その暗い意図を汲み取らせる、って作戦ですね。◇那須川天心。ひと晩で忘れるからOK 年の暮れ添削もされないという珍しい才能ナシ(笑)。「忘年会」という一般概念を、ダジャレ混じりに説明しただけの句でした。◇千原ジュニア。カラオケの二番の途中コート脱ぐ作者いわく、カラオケ店に来るやいなや、コートを脱ぐ間もなく歌いはじめ、2番を歌ってる途中でようやくコートを脱いだ、…とのこと。しかし、そういう意図まではちょっと読み取れません。2番の途中で興に乗ってきたのかな…というところまでは読めるけれど、それまでコートを着てたのは、たんにカラオケルームが寒かったから?…ぐらいにしか思えない。まあ、多様な鑑賞のありうる句だともいえるけど、人によっては、どこに詩情があるのか分かりにくい。正直、わたしもよく分かりませんでした。◇フルポン村上。暖房や (間奏約30秒)暖房が熱い (間奏30秒)(添削後)わたしはカラオケに行かないからかもしれませんが、後段の(丸括弧)にどんな意味があるか分からないので、スタジオで演奏してるようにも見えるし、カーラジオを聴いてるようにも見えるし、ライブ会場にいるように見えなくもない。そのうえで、「暖房や!」と詠嘆されても、ちょっと詩情を感じようがありません。実際、読んだだけでカラオケの場面だと想像できる人は、むしろ少数じゃないでしょうか?この欠点は、添削でも解決されていない。さらに、添削では、前回のジュニアの句で、「乾き」を「渇き」と表記したように、「暑い」を「熱い」と表記して、そこに主観的な含意を込めています。これも、客観写生の原則に反しており、わたしは、そういう小手先の技法に疑念をおぼえます。※追記:あらためて原句を読んでみると、スタジオの場面にせよ、カーラジオを聴いてるにせよ、暖房の効いた空間での《約30秒》の物語は想像できるわけだから、「詩情を感じようがない」ってことはないですね。その点は訂正します。◇梅沢富美男。榾ほたの宿 主十八番あるじおはこの夢芝居榾くべて主十八番は「夢芝居」(添削後a)榾くべて十八番といふを唸り出す(添削後b)原句は二句一章です。上五で温かい光景を大きく描き、中七・下五で人物にクローズアップしている。かたや添削句は一句一章。しかも(添削後a)は、助詞の「は」を用いることで、やや俳諧味を感じさせる描き方になっている。つまり、「夢芝居」を歌っている人物のことを、梅沢は感慨をもって眺めているけれど、先生はやや嘲笑的に描写している感じ。まあ、原句をボツにするかどうかは好みの問題でもあるし、俳句の形としては添削のほうが整ってると思うけど、けっして原句の出来も悪いわけじゃないし、すくなくとも添削というのは、原句の世界観を尊重してなされるべきじゃないかしら?なお、(添削後b)では「唸る」という動詞を使ってますが、こうなると、もはやカラオケではなく、浄瑠璃もしくは浪花節に見えるので、原句の意図とはまったく違うものになってしまいます。※追記:ルビをふれば問題ないのかもしれませんが、原句は「宿主十八番」と漢字が続いてる欠点もあるし、(クリスマスが近いからかもしれませんが)「主十八番」ってのは、ちょっとキリスト教の讃美歌っぽく見えなくもない(笑)。いずれにせよ「榾の宿」「榾の主」という季語を知らなければ、やや分かりにくい句ではあると思います。
2022.12.09
冬銀河打ち上げピザはナポリ風 400℃火の如赤き父のセーター 炭ドームチーズとトマトの一騎討ち 炭火前早く運べとサラミの目 雪催煤切れを待つ耳赤く ピザカッターの先に居るずわい蟹 ピザに焼く上顎の皮雪催プレバト俳句。お題は「ピザ窯」。◇高瀬愛奈。冬銀河 打ち上げピザはナポリ風読んだ瞬間、「ピザはもともとナポリ発祥でしょ!」というツッコミもありうるかと思ったけど、まあ、ピッツァナポレターナを日本語で言ったら、たぶん「ナポリ風ピザ」ってことになるのだろうし、そこはとくに問題なしですね。ってことで、基本型にのっとった佳作でした。◇渡辺満里奈。400℃ 火の如ごと赤き父のセーターピザ窯の火のいろ 父のセーターは(添削後)調べてみたら、「400℃」という名の有名なピザ屋もあるらしいし、きっとそこからヒントを得たのでしょうが、梅沢が言ったように、兼題写真がなければ何が「400℃」か分からないし、陶窯にしちゃ温度が低いとは思うものの、読んだだけでピザ窯だと分かる人は少数でしょう。上五に季語でも主題でもなく、抽象的な数値情報を置いて切ってるのも、俳句の形として、いまいちバランスが良くない。なお、原句のほうは、「セーターが火のように赤い」という比喩ですが、添削句は、「セーターが窯の火に照らされている」と読めます。そして、先生は、最後の助詞の「は」は余韻を残すためだと言ったけれど、ふつうに読んだら倒置法に見えます。◇鬼越トマホーク坂井。炭ドーム チーズとトマトの一騎討ちピザ窯はチーズとトマトの一騎討ち(添削後)「炭」(冬)と「トマト」(夏)の季重なり。「炭ドーム」という変な造語。「一騎打ち」という擬人化。…と、いろいろやってますが、結局は「窯の中でピザを焼いてる」ということを、ただ比喩的に説明しただけの句で、それ以外には中身がありません。添削は、助詞の「は」を用いて隠喩を説明する形です。まあ、これは添削したところで凡人以下ですね。◇大貫勇輔。炭火前 早く運べとサラミの目炭火爆づ ピザのサラミは目のごとく(添削後)これも比喩と擬人化。上五は「窯の前」じゃ季語にならないから、あえて「炭火前」としたのかもしれませんが、ちょっと無理のある言い方です。添削句は、これまた助詞の「は」を使って直喩を説明する形。最後を「ごとし」と終止形にしないのは、こちらを見ている、との含意なのでしょうか?◇キスマイ北山。雪催ゆきもよい 煤切れすすぎれを待つ耳赤く石窯の煤切れを待つ雪催(添削後)やたらと難しい語彙を使うあたり、よくもわるくも千賀っぽくて、ほんとに自分で作ってるか疑わしくなるのよね…。中七の「煤切れ」というのは、陶芸でも使う用語らしいので、これだけでピザ窯とは特定できないはずですが、まあ、陶芸の句と誤読されるのも許容範囲でしょうか。寒さで耳が赤いのか、熱さで耳が赤いのかという問題はありますが、耳に焦点を当てること自体は悪くないと思います。とはいえ、なぜ「赤し」と終止形にしないのでしょうか?あえて連用形で省略を匂わせる必要性を感じません。◇馬場典子。ピザカッターの先に居るずわい蟹ピザカッターの先にずわい蟹のかたまり(添削後a)ピザカッターの先にずわい蟹のこんもり(添削後b)ピザカッターの先のずわい蟹を睨む(添削後c)ピザカッターの先のずわい蟹をどうする(添削後d)蟹の身がピザの上に盛ってあるらしいのだけど、さばく前のカニを切ろうとしているように見えるし、中七の「居る」という不要な動詞が、なおさら擬人化されたカニの姿を想像させてしまう。かたや添削句は、いくら上五を字余りにするといっても、7・3・6・4って…(笑)せめて中七・下五で調べを整えないと、あまりにシッチャカメッチャカなのでは?※追記:何度か読んでみたら、意外に句またがり的なリズムがある気もする…(^^;ためしに、ピザカッター ずわい蟹の身こぼれ落つとしてみました。◇梅沢富美男。ピザに焼く上顎うわあごの皮 雪催ゆきもよいピザに焼く上顎 雪催しんしん(添削後)上顎を火傷したという事実だけでなく、めくれた皮までを視覚化する意味でなら、原句のように「皮」と書いてもいいような気はする。ただし、その露悪的な描写が、季語の詩情と釣り合ってるかどうかは微妙。俳諧味と受け取る人もいれば、なんか汚らしいと思う人もいるでしょうね。なお、添削で用いている「しんしん」は、音もなく雪が降る様子の擬態語かと思ってたけど、寒さを表す擬態語でもあるのですね。
2022.12.02
初霜やオーディション会場不安 肩ぐるまズシン嬉しや日脚伸ぶ 秋夕焼5kmポストの兄を追う 黄葉が頬にうつりし無邪気顔 足踏みを五回枯葉の音愉快 銀杏落葉やカチンコの渇いた音 吾子踏みぬ銀杏落葉の無尽なりプレバト俳句。お題は「神宮外苑の銀杏いちょう」。◇梅沢富美男。吾子踏みぬ銀杏落葉の無尽なり銀杏落葉 歩きはじめた子に無尽(添削後)悪くないと思ったけど、ボツ!つまり、修飾語の「吾」とか、完了の助動詞「ぬ」とか、終止形の「なり」などで音数を埋めずに、もっと子供の描写に音数を費やせってことですね。それはまあ、分からなくもない。でも、もし、添削句を初めて目にしたら、何が「無尽」なのかが分かるでしょうか?ただでさえ二句一章に見えるから、子供の未来に「無尽の可能性」があると誤読されるのでは?◇キスマイ二階堂。初霜や オーディション会場不安70点の1位。そして、まさかの破調w大雪と初霜は違うと思うけど、まあ、そのへんの話は聞き流すとして。最後の「不安」は感情語であるものの、これは意味があって有効な使い方。なかなかの出来ですねえ。次回は句またがりに挑戦するらしいので、横尾みたいな対句にしてくる可能性が大です。◇大友康平。肩ぐるまズシン嬉しや 日脚ひあし伸ぶ肩ぐるまズシンと嬉し 日脚伸ぶ(添削後)63点の2位。内容はやや凡庸だけど形は悪くない。感情語の「嬉し」を詠嘆したのは大袈裟、との先生の添削は妥当でしょうね。ちなみに、「日脚伸ぶ」は晩冬・年明けの季語なので、やや季節外れだったかもしれません。◇小倉優子。秋夕焼 5kmポストの兄を追うゴールは5km 兄を追う秋夕焼(添削後)60点の3位。本人の説明を聞いても意味が分からなかったのですが、調べてみたら、鉄道や道路などの距離標を「キロポスト」と言うらしい。マラソンにも同じものがあるのか知らないけど、その意味が分かると、けっして悪い句じゃありません。むしろ才能アリの70点でもよかったかなと思う。添削は必要なかった気がします。◇ダイアン・ユースケ。黄葉こうようが頬にうつりし無邪気顔子は駆ける銀杏黄葉もみじの只中を(添削後)35点の最下位。「頬に映る」も凡庸だし、「無邪気」も感情語くさい凡庸な形容ですね。とはいえ、添削してそれほど良くなったとも思えない。とりあえずは作者の意図を尊重して、一面の黄葉もみじに染まる顔の子よぐらいでよかったのでは?◇森口瑤子。足踏みを五回 枯葉の音愉快1ランク昇格でしたが、わたしはボツかなあと思いました。どうも下五の「音愉快」がつまらない。枯葉を踏んだら音がするのは当たり前だし、最後の「愉快」は音の描写なのだろうけど、なんだか感情語でオチをつけてるようにも見える。その結果、ただカイとカイで韻を踏んだだけの戯句に思えます。◇千原ジュニア。銀杏落葉や カチンコの渇いた音おとカチンコの渇きや 銀杏落葉霏々ひひ(添削後)リズムが良くないので、1つ後退でも異論はありませんが、添削はビミョー。もし、この添削句を初めて目にしたら、「カチンコの渇き」の意味が通じるでしょうか?表現への「渇望」との含意どころか、音が乾いてることすら伝わらず、たんに木が乾燥してるだけに見えるでしょう。へたに含意などせず、直截に「乾いたカチンコ」と書くべきだと思います。犬山紙子は絵も上手ってスゴいね。俳句はお休み?
2022.11.19
星の入東風今夜の恋をくれた人 助手席でポテト抱える息白し 冬の朝我慢しきれずはしご芋 初雪日湯気たつ郷まで道中宴 冬の星信号待ちのポテト2本 時雨るるやジュニアシートで待つポテト 小さき手のピクルスつまみ出す小春プレバト俳句。お題は「ドライブスルー」。◇梅沢富美男。小さき手のピクルスつまみ出す小春ピクルスはパパに小春のハンバーガー(添削後)フジモンも横尾も「これは行く!」と言ってたし、わたしも掲載決定かな、と思いましたが、結果はボツでした。まあ、好みの問題なのでしょうか。原句のほうは、幼い子供の好き嫌いを愛おしく眺めてる感じですが、添削句のほうは、子供なりの善意で父親に食べ物を分けているように見えます。結果、まったく別の句になってしまっている。◇レイザーラモンRG。星の入東風いりごち 今夜の恋をくれた人星の入東風よ 今夜の恋ひとつ(添削後)難しい季語ですね。旧暦10月ごろの明け方に、昴(プレアデス星団)が西へ沈むときの風だそうです。原句のほうは、後段がクサい。細川たかしの「北酒場」の引用だそうですが、そもそも歌謡曲は七五調で書かれていることが多いのだし、この手法を認めたら、いくらでも安易な俳句が出来てしまいますね。◇7MEN侍 矢花黎。助手席でポテト抱える息白し助手席へ渡すポテトや 息白し(添削後)わたしは、助詞の「で」はほぼほぼ使わないほうがいいと思ってますが、かといって(後述するように)、この句の場合は、他の助詞に置き代えるのが難しい。添削句のほうは、動作の主体を運転手に置き代えることで、結果的に助詞の「で」を回避しており、運転席と助手席の2人ともが「息白し」になっています。◇勝俣州和。冬の朝 我慢しきれずはしご芋ドライブスルー 冬のポテトをはしごして(添削後)下五の「芋」は秋の季語なので、季重なりです。なお、俳句における「芋」とは「里芋」のことだそうです。つまり、サツマイモやジャガイモが日本で普及したのは、わりと最近のことなのでしょうね。それはそうと、なぜポテトを「はしご」するのかが分かりません。一度にたくさん買えば済む話なのだから、たんにバカな二度手間をしているとしか思えない。そんなことに詩情を感じろ、といわれても無理です。◇松嶋尚美。初雪日はつゆきひ 湯気たつ郷ごうまで道中宴うたげ初雪の道中楽し 温泉へ(添削後)見かけによらず、松嶋尚美って字が綺麗なのね…。耳慣れない語彙とか、5・8・7の形もなかなかふてぶてしくて、なにやら貫禄さえ感じてしまいましたが…「ドーチューって2音じゃないの?」との本人の発言を聞いてズコった(笑)。感性が英語的なのでは?いわば「Do you love me」で4音みたいな発想ですよね…。なお、「湯気立て=加湿器」は冬の季語ですが、「湯気」「温泉」などは季語になってないようです。添削句のほうは、やや投げやり。感情語を用いた《楽しいな俳句》みたいになっている。わたしは、初雪や 温泉までの車中の宴えぐらいでもいいと思いましたが。◇キスマイ横尾。冬の星 信号待ちのポテト2本ポテト2本 信号待ちの冬の星(添削後)季語を活かすためにも、調べをよくするためにも、語順を入れ替えたほうがよい。ただ、わたしは、添削のように「ポテト2本」で切れを作るよりも、7・7・5で、信号待ちのポテト2本や 冬の星のほうがいいかなと思う。◇フジモン。時雨るるや ジュニアシートで待つポテト時雨また ジュニアシートに待つポテト(添削後)上五の「や」が大袈裟だとの添削でしたが、その先生の真意はよく分からなかった。もともと「時雨るる」という動詞は、「時雨が降る」という意味で使われることもありますが、本来は「降ったりやんだりする」「雨がちな天候になる」という意味で、時間の幅があって、どちらかといえば映像をもたない時候の季語に近い。しかしながら、時候の季語を「や」で詠嘆するのが間違いというわけでもなく、この「時雨るるや」の用例も、芭蕉や蕪村や山頭火などに見られるようです。なぜ先生が「大袈裟」と言ったのか分かりませんが、中七下五の軽さに比べて上五が重いという意味かもしれませんし、たとえば「夕時雨」「時雨雲」「時雨傘」などの選択もありえたか、とは思います。一方、下五にかんしては、わたしなら「ポテト待つ」と直したかもしれません。さて…このフジモンの添削の際に、先生が助詞の「に」と「で」の使い分けに言及しました。いわく、「に」は静的、「で」は動的な動詞に用いる、…とのことです。わたしは夏井信者ではありませんので、この説明をにわかに鵜呑みにすることは出来ませんし、すこしばかり検討を加えてみようと思います。◇上にも書いたとおり、わたしは、助詞の「で」はほぼほぼ使わないほうがいいと思ってます。現代語の助詞の「で」は、おそらく古語の「にて」から発生しており、理由や手段や場所を説明するための助詞ですね。・風邪で休む(理由)・ナイフで切る(手段)・事務所で会う(場所)現代語の「~によって」とか「~において」と同じ意味です。そのため、この助詞を使うと、どうしても《描写》ではなく《説明》に見えてしまう。俳句の客観写生はあくまでも《描写》なので、理由の《説明》や手段の《説明》をすべきではありません。問題になるのは、場所を示すときですね。そのときに「に」を使うか「で」を使うか、ってこと。じつは口語や散文でも、「に」と「で」の使い分けは非常に厄介で、▼とりわけ外国人に日本語を教える際には困難を極めるようです。https://core.ac.uk/download/pdf/230235716.pdf上記の論文によれば、「に」は存在場所を表し、「で」は動作場所を表すとのことなので、おおむね「に」は静的、「で」は動的だといえます。しかしながら、「ベッドで寝る」「家で休む」「バス停で待つ」「庭で考える」「部屋で話す」などの場合は、あきらかに静的な動詞に「で」を用いますし、さらには「ベッドに寝る」と「ベッドで寝る」のように、どちらの助詞の使用も可能なケースがあります。わたしは、なんとなく、「で」を用いる場合には、場所ではなく手段の説明になっている気もしますし、夏井先生が言うように、とりわけ俳句においては、これらをすべて「に」に置き代えるべきかもしれません。◇これとは逆に、文語や韻文では、動的な動詞に「に」を用いる場合もあります。もっとも代表的なのは「遊ぶ」です。たとえば、「華胥の国に遊ぶ」の慣用句もありますし、「野に遊ぶ」とか「山に遊ぶ」などの用例は俳句にも無数にあります。そう考えると、助詞の「に」と「で」の線引きはそれほど容易ではありません。◇ただ、見方を変えれば、今回、先生が使い分けに言及したということは、部分的になら助詞の「で」の使用を認めるということでしょう。わたし自身、助詞の「で」はほぼほぼ使わないほうがいい…と考えてはいるものの、「ほぼほぼ」は「絶対に」という意味ではなく、やはり「で」を使わざるを得ないケースはあると思う。直近でいうなら、稽古場で台詞繰る(山西惇)助手席でポテト抱える(矢花黎)などは、他の助詞に置き代えることが難しい。いずれにしても、どのような場合に「で」の使用が容認できるのかは、今後もよく吟味していこうと思います。
2022.11.15
ここ何ヶ月か、俳句について分からないことがありました。それは「切れ」の役割についてです。切れの役割とは、たんなる「詠嘆」なのか、あるいは「場面転換」も兼ねるのか。すなわち、切れによってカットが切り替わるのか否か。多くの俳句では、切れが「詠嘆」と「場面転換」の両方を兼ねますが、詠嘆してるだけで場面転換が起こらない俳句もある。その場合は、2つのカットの取り合わせになってないし、もちろん二物衝撃も起こっていません。見かけに反して二句一章ではなく、むしろ一句一章のような内容になっている。そういう句が結構あります。たとえば芭蕉の句。五月雨をあつめて早し 最上川これは中七で切れていますが、二句一章ではないし、まして二物衝撃ではありません。あきらかに一句一章です。◇しかし、先日、▼以下の記事を読んでようやく謎が解けました。〝古池や~〟型発句の完成~芭蕉の切字用法の一として~結論から言うと、江戸時代の近世の俳句と、明治以降の近代の俳句で、大きくシステムが変わったということ。すくなくとも芭蕉の時代の近世の俳句には、「切れによって場面が変わる」という考え方はなかった。したがって、二物衝撃という考え方もありませんでした。以前もこちらの追記に書いたけど、それは明治の終わりごろに大須賀乙字が考えた俳句のシステムです。なお、上掲の記事には、芭蕉の「古池」の句についての、山本健吉の文章の以下の引用があります。「や」と(初五に)置いて、作者によって切取られた客観世界の実在感を、はっきりと指し示す。だから、これに続く七五は、そのやうな認識、そのやうな実在感の具象化であり、言はばリフレーンであり、「もどき」に過ぎないのだ。初五によって示された力強い、大胆な、即時的・断定的・直覚的把握が、七五によって示された具象的・細叙的な反省された把握によって上塗りされ、この二重映しの上に微妙なハーモニーを醸し出すのだ。だから「古池」の句は、厳密に言へば二つのものの取合せではなく、一つの主題の反復であり、積重ねであると言ふべきである。(「俳諧についての十八章」六、「や」についての考察)ここにすべての答えがありました。◇上掲の記事からは、以下の2つのことが言えると思います。第一に、連歌において「切れ」は発句の世界観を独立させるためのものだった。本来は下五の「かな」で切ることが多かったが、しだいに上五や中七に切れを置いて、発句のとりわけ主題部分を際立たせるようになった。第二に、「季語」はかならずしも主役ではなく、むしろ発句の主題に季節感を添えるための脇役だった。ちなみに、江戸時代にも「取り合わせ」という概念はありましたが、それは、異なる場面やカットを取り合わせて衝撃させることではなく、主題に対して、いかなる具象的・細叙的な要素を取り合わせるか、ということだったのでしょう。◇その上で、江戸時代の俳句をあらためて見てみます。松尾芭蕉。古池や 蛙飛び込む水の音(江戸時代)この句の主題は「古池」です。春の季語の「蛙」ではありません。そして発句の主題を際立たせるために、上五の切れでいったん「古池」を詠嘆している。そして中七・下五は、それを具象的・細叙的に描いた反復に過ぎない。切れによって「場面転換」は起こっていません。なお、この句には、「古池」の案と「山吹」の案があったと言われていますが、それは、主題そのものの選択の問題だったのであり、たんに「蛙」の背景の問題だったわけではない。与謝蕪村。春の海 終日ひねもすのたりのたりかな(江戸時代)上五で切れていますが、これも場面転換は起こっていない。したがって、(わたしはずっと誤解していたわけですがw)「春の海だなあ!私は日がな一日グータラしているよ。」という意味ではありません。中七・下五は、あくまでも上五を細叙的に反復したものであり、「春の海だなあ!その海は一日中のたりのたり波打っているよ。」みたいに解釈するのが正しい。先の芭蕉の句も、「古池だなあ!その池では春のカエルの飛び込む水の音がするよ。」みたいに解釈するのが正しい。さらに芭蕉。五月雨をあつめて早し 最上川この句の主題は夏の季語の「五月雨」ではありません。あくまでも下五の「最上川」です。中七が終止形で切れていますが、場面転換は起こっていません。「五月雨を集めて勢いを増しているなあ。それは最上川だよ!」みたいな意味です。◇そして、現在でもなお、近世的なシステムで作られている俳句はある…ということ。波多野爽波。チューリップ 花びら外れかけてをり(平成)丘みどり。夏の雲 サイドミラーにひしめきぬ(プレバト)いすれも上五で切れていますが、場面転換は起こっていません。「チューリップだなあ!その花びらが外れかけているよ。」「夏の雲だなあ!それがサイドミラーにひしめいているよ。」みたいな意味です。◇本来、連歌の発句の切れは下五にあったけれど、上五や中七にさらに強い切れを置いて、発句の主題を際立たせた。いわば「切れ」の入れ子構造です。そして、この様式が、連歌の発句を「俳句」として自立させたのだと言ってよい。切れの中には、「場面転換」(カット割り)を伴わない切れもあるということ。また、「季語を主役にする」というのも絶対的な規則ではなく、じつは季語を主役にしない俳句もありうるということ。むしろ、連歌の発句において、季語は脇役であることのほうが普通だったのだと思います。こうしてみると、わたしの過去の解釈も修正すべきところがかなりあります。とくに、NHKの「短歌・俳句100選」における江戸時代の俳句については、ほとんどの解釈を修正しなきゃいけないっぽい。事実、以下のような句は、すべて近世的なシステムで作られていたと見るべきです。松尾芭蕉。閑さや 岩にしみ入蝉の声(江戸時代)松尾芭蕉。荒海や 佐渡によこたふ天河あまのがわ(江戸時代)野沢凡兆。なが〱と川一筋や 雪の原(江戸時代)いずれも場面転換は起こっておらず、それぞれ「閑さ」「荒海」「雪の原」が主題であり、かならずしも季語は主役ではありません。それから、たとえば先週のプレバトのキスマイ横尾の句などについても、評価のしかたを見直さなきゃいけません。金秋のローンチ 駅のおむすび屋ここでの名詞止めによる切れは、場面転換をもたらしていません。したがって、これは対句表現ではなく、前段を主題と見れば、後段は細叙的な反復と言うべきだし、どちらかというと、むしろ後段のほうが主題なのかもしれません。
2022.11.11
稽古場で台詞繰る間の鮭にぎり 冬ちかし焼くか煮込むか鮭一尾 駄々こねる子を背に伸ばす切り身鮭 針供養抜きつ切身を妹に エコバッグに新米5kg雨の帰路 金秋のローンチ駅のおむすび屋 大中小弁当箱に鮭の秋プレバト俳句。お題は「スーパーマーケットの鮭」。◇皆藤愛子。エコバッグに新米5kg 雨の帰路面白い俳句ですねえ。いままでの彼女の作のなかでもピカイチじゃないでしょうか?「エコバッグ」の節約・安物志向。「5kg」の重さと「雨」の鬱陶しさ。すべてマイナス要因ばかりなのだけど、それらをわけても、やはり「新米」の期待感と贅沢感が勝ります!新米が「雨」と「エコバッグ」と「5kg」を喜びに変えている。そして「キロ」と「帰路」には、韻というよりはシャレのような愉快さを感じます。◇梅沢富美男。大中小弁当箱に鮭の秋鮭の秋 弁当箱の大中小(添削後)上五で切れてるように見えるけど、内容的には一句一章。せっかくの「鮭の秋」という躍動的な季語を、助詞の「に」によって弁当箱の中へ押し込んでしまった、…とのことでボツ!なるほどねえ。ちょっと高度なダメ出しでした。わたしなら上七の字余りで、大中小の弁当箱や 鮭の秋と直すだろうけど、まあ、先生の添削で異論はありません。◇山西惇。稽古場で台詞繰る間の鮭にぎりおにぎりは鮭 稽古場に繰る台詞(添削後)梅沢が言うように、「鮭にぎり」はお寿司ですよね。おにぎりならば「鮭むすび」でしょう。助詞の「で」は説明的なので、ほぼほぼ使わないほうがいいのだけど、どう直すべきかは迷うところです。先生の添削ではカットを割っていますね。◇新妻聖子。冬ちかし 焼くか煮込むか鮭一尾鮭一尾焼くか煮込むか 酒あるか(添削後a)鮭一尾焼くか煮込むか 友呼ぶか(添削後b)「冬ちかし」と「鮭」の季重なりでした。原句のほうは、台所をうけもつ女性の迷いの句だろうけれど、先生の添削は、豪快で男性的な句に変貌している。なお、添削句は、リズム的には上五で切りたい感じですが、意味としては中七で切れるのだろうと思います。◇みちょぱ。駄々こねる子を背に伸ばす切り身鮭背には駄々こねる子 鮭の切り身買う(添削後)まな板の上に切り身を伸ばしてるのかと思いましたが、生鮮売り場の切り身に「手を伸ばし」ているとのこと。そりゃあ分からない。先生の添削が妥当ですが、直してみると、意外に滑稽味があって面白い句です。◇ラランド・ニシダ。針供養抜きつ切身を妹に妹に鮭の小骨を抜いてやる(添削後)意味不明な句でした。豆腐に供養した針をまた抜きながら、切り身を妹にあげた…としか読めません。ちなみに、関東の「針供養」は2月8日で春の季語、関西の「針供養」は12月8日で冬の季語だそうです。豆腐やこんにゃくに針を刺すのはいいとして、それを川に流すのは、いまじゃあ海洋汚染になりそうな気がする。番組もSDGsだそうですし。◇キスマイ横尾。金秋のローンチ 駅のおむすび屋ひとつ前進だそうですが、わたしならボツかなあ。これが難しいところなのよね…。おむすび屋がローンチしてるのだから、本来ならば一句一章にまとめるべき内容を、わざわざ二句一章に分けて対句表現にしている。そこが引っ掛かる。たしかに「金秋のローンチ」って面白いけどね。
2022.11.04
夕月夜一人暮らしの光熱費 行く秋やうどん繰る子の箸高く 秋の夜たゆたう湯気メガネ曇らせ 出番待つ揚げ物軍隊秋の宵 露の世のいつぽん長きうどんかな 更待やぶっかけすすり出港す 秋寒や焦げた天麩羅箸の先プレバト俳句。お題は「セルフのうどん店」。◇梅沢富美男。秋寒や 焦げた天麩羅箸の先いやあ、いままでの梅沢の句のなかでベストかも…。従来わたしがベストだと思っていたのは、鯉やはらか 喜雨に水輪の十重二十重なのですが、それに劣らない出来です。先生が言うように、フルポン村上的な半径30㎝の句ではあるものの、わたしの好みでいえば、今作のほうかなあ。けっして「箸」だけを詠んでいるのではなく、その先に天婦羅や美味しい料理が見えるし、粋な小料理屋のささやかな賑わいも見えます。外の寒さと対比された店内(あるいは自宅?)も暖かい。ここにきてホームラン級の当たりでした。◇こがけん。行く秋や うどん繰くる子の箸高く箸高くうどん繰る子や 秋は行く(添削後)原句もじゅうぶんに素晴らしい。もしかしたら賛否あるかもしれないけど、うどんに「繰る」という動詞を使ってるのも独創的です。下五については「箸高し」と終止形にすべきか迷うところですが。語順を入れ替えた先生の添削はさすがですが、下五の助詞を「は」にしたことで、作者の意図とは反対に、あえて晩秋の寂しさを「子の成長」から切り離したように見える。もしも、作者の意図のとおり、「晩秋」と「子の成長」のどちらもが寂しいのだとすれば、この助詞は「の」にすべきなのかもしれません。◇森迫永依。秋の夜よる たゆたう湯気メガネ曇らせ秋の夜よのうどんに曇る眼鏡かな(添削後)このあいだ出演したばっかりだから、2週分続けて収録したのかしら?と思いました。まずは破調について。文節の句またがりで合計17音にしているあたり、俳句のルールが分かっているともいえるけれど、この句の場合は、内容から考えて破調にする必然性を感じません。むしろ助詞を入れて、秋の夜 たゆたう湯気のメガネ曇らせと5・7・6の字余りにしたほうが調べがよいと思う。つぎに「たゆたう」について。辞書的には「ゆらゆら揺れる」という意味なので、「ゆらゆら揺れない湯気があったら持って来い!!」とも言えるし、強いてこの語を使うのだとすれば、その揺れによって「所在なさ」「心もとなさ」などを表す場合でしょう。いずれにしても、湯気に対してこの形容が必要なのかは疑問です。さらに、本人も言っていたとおり、「うどん」と明記しなければ「温泉」の句とも読めますね。ってことで、総じて先生の添削が妥当です。◇勝村政信。出番待つ揚げ物軍隊 秋の宵揚げ物も万端 うどん屋の秋宵しゅうしょう(添削後)いままでの勝村の句で一番ひどい…どうしてここまで迷宮入りしちゃったのでしょうねぇ。まず擬人化そのものがクサいのだけど、助詞がなくて切れの位置も分からないので、下手をすると三段切れに見えてしまうし、かりに、出番待つ揚げ物/軍隊秋の宵と切れば、「天ぷらの準備が整った軍隊の秋」とも誤読できるので、もはや擬人化の意図すら伝わらない。これはもう初歩的な失敗であって、勝村の病状はかなり深刻だと思います。もしかしたら、すでに夏井俳句とは別の表現領域を目指してるのかも(笑)。それならそれで、いっそ野に放ってしまってもよいのでは?かたや先生の添削は、(まあ、こうするしかなかったのでしょうが)取り合わせとして近すぎますよね。◇春風亭昇吉。露の世のいつぽん長きうどんかないちおう「露」が秋の季語ですが、「露の世」となると、本来の映像は失われて、もはや時候ですらない、という難しい季語。秋だからこそ「儚き人生」を感じる、ということですね。梅沢がつねづね言っているとおり、下五を「かな」で締める型も難易度が高いはずですが、それらをしれっと、いとも簡単にやってのけています。飄々として、どこか人を喰ったようなしたたかさも感じさせる句柄。(まぐれ当たりかもしれませんが)◇中田喜子。更待ふけまちや ぶっかけすすり出港す季語の「更待」は陰暦二十日の月のことだそうです。たぶん本人は無意識なのでしょうが、「更ける」「待つ」「ぶっかける」「すする」「出港す」と、まるで動詞だけで作ったような言葉遊びにも見えます。もちろん、実際は、「すすり・出港す」という2つの動詞を用いた動画的な内容で、他はすべて "動詞の名詞化" なのですが、ややもすると混乱や誤読を招きかねない危険なチャレンジです。上五の季語の「更け・待つ」の上品さと美しさに対して、中七下五の「ぶっかけ・すすり・出港す」の下品さと荒々しさが、すべて動詞による対比をなしているかのようです。ちなみに「ぶっかけうどん」の発祥は倉敷 or 讃岐だそうですが、比較的新しい言葉なので、「ぶっかけ」だけでは何のことか伝わらない可能性もある。かろうじて「食べて」ではなく「すすり」とすることで、うどんだろうと推測できる、ってな感じでしょうか。◇キスマイ二階堂。夕月夜 一人暮らしの光熱費まさかの1位は二階堂でした!春の虹 10周年の腕時計梅雨曇 早朝ロケのカップ麺…に続いて、ぜんぶ同じ型を用いて3回目の才能アリ(笑)。季語の「夕月夜」の選択も、まぐれ当たりにしては出来すぎています。こんどは別の型を試してみては?…と言いたいところだけど、まあ、二階堂の場合は、もうしばらくこの型のままでもいいのかな、という気がしています(笑)▼それよりも漢字の勉強をしましょう! ◇※今回は面白い季語が多かった。「露の世」露のように儚い世「更待」陰暦二十日深夜の下弦の月「夕月夜」陰暦十日ごろまでの上弦の月が出る夕方
2022.10.29
◇最新の記事はこちらをクリック!▼プレバト俳句を添削ごと査定!!◇◇「句またがり」と「破調」のちがい詠嘆の「切れ」と場面転換の「切れ」俳句の主題と脇役の季語古池の蛙について「二句一章」について「一物仕立て」についてリズムの「三段切れ」と意味の「三段切れ」助詞「に」と「で」の使い分け◇2023年9月14日お題は「夜食」父特製夜食うどんの麺柔し さぁ!夜食ナースコールに落とす箸 秋の夜や一つ二つと増える椀 満月に煎餅重ねて一対七 Gペンにこびりつく黒夜食喰う ショッカーのかたまって摂る夜食かな 仏飯のからすみ茶漬けほぐす夜半▲リンク先に詳細と寸評があります。2023年9月7日お題は「エレベーター」小さな手2階ボタンに届く秋 NHKホール迫り上がる良夜 秋涼しハンカチ社員笑み浮かべ 若煙草纏いし君に気もそぞろ この階で降りればいいのか鬼灯め 閉ボタン連打秋夜のエレベータ 白桃や車いす用ボタン押す2023年8月31日お題は「夏休みの宿題」誘蛾灯英語テストは三十点 花火背に夢中で描いた父と母 夏の果明日は来るなと神頼み すぐ後ろママの姿は入道雲 箱庭の四人家族の無表情 日盛りのマック課題図書のあらすじ 一心に日焼けの鱗はぐ子かな2023年8月24日お題は「アウトドアのカレー」芋煮ゆる紙の器の頼りなく 残暑の夜誰も洗わぬカレー鍋 秋晴や焦げ石に米粒一つ 山雀の高音竹皿のカレー 寸胴に溶かすカレー粉秋の蝉 青空の炊事遠足しゃばカレー 秋涼し銀に口紅底フィルム2023年8月17日お題は「サービスエリア」夕空や助手席に捥ぎたての桃 ソーダ水大人ぶってもまだ飲めず 天の川車窓の寝顔に夢重なる 甲子園寝ぼけ眼で小休憩 空き瓶に草の花ゆれ手を洗う 残暑の敗野球帽の白昏し どんぐり七つ饂飩二杯に箸三膳2023年8月10日お題は「吊り橋」吊り橋や覚悟を決める鰯雲 夏空の青だけ見てと手を引く君よ 秋麗や五十鈴の緒の手光射す 高秋の吊り橋ややにしがみつき かなかなの遠のいてゆくかずら橋 秋光の跳ね橋ドローン追うチワワ 吊橋に四つの碇鰯雲2023年8月3日炎帝戦 お題は「行きつけのお店」水貝のさくりと清くまず一献 呼び鈴のはんなり抜けて湯びき鱧 鱧の皮あの娘再婚したらしい 古都眩し夜は酒場の氷店 土用鰻大将すまん小ジョッキ 土地区画整理末伏のタッカンマリ じゃあそれとガツ刺し夕涼の酒場 焼酎やけふは店主に辞儀深う 西日溜める店影だけが呑んでる キープボトル墓碑銘となる夏のBAR 命日を集う紫陽花のレストラン 鰻待つ今日は台本家に置き 風青しカンロ杓子の三拍子 混濁のスープ青山椒の蒼 夏惜しむキープボトルを一人呑む2023年7月27日名人特待生抜き打ちテスト風薫る初のマニキュアは百円 若夏をラッパ飲みする白帽子 雪濡らすバス待つ我の単語帳 小高の地心に刻む春日傘 手酌酒祖父の背中や年歩む 炎天に映える黒肌まだ足りぬ クマわたし揺れる母観て露寂し 何度目のオセロ薄目のこたつ猫2023年7月20日お題は「夕立」口々に夕立のこと路線バス 驟雨過ぎ海の詩集を買う港 750ccの飛魚の如大夕立2023年7月13日お題は「パフェ」結い髪の従姉はパルフェ風涼し 夏帽子Wi-Fiのある町屋カフェ 白雨くるパフェのはしごの初デート 兄とパフェ桜桃懸けた匙の殺陣 パフェ二塔はさむ二人の夏終わる 桃のパフェに溺れ死海の謎解き パフェグラス底まで至る匙盛夏2023年7月6日お題は「冷やし中華」冷やし中華明日も朝練あるってよ 夏風やふるさと恋し甘酢の香 玉の汗金糸玉子を刻む子や 冷やし中華残りし胡瓜母にらむ 遠き日の銀座冷麵待つもよし 炎天の列や限定二十食 町中華日傘を開く最後尾2023年6月29日お題は「木漏れ日」居残りの数学補習晩夏光 木洩れ日に晒され空蝉のしずか 木漏れ日を動かして鳴るラムネ玉2023年6月15日お題は「夏の夕」暮れなずむ愛猫色の夏の空 玄関に恐れ入りますががんぼです 夕暮れて公園ベンチも涼しげだ 八十路夏蛍照らせし初デート 夕焼やつくばいのある美術館 夏至の古色蒼然行商老婆 せせらぎの1/F夕蛍2023年6月8日お題は「水族館」熱帯魚アクリル越しのオーディション 夏空や石鯛掲ぐ父の遺影 夏日影水槽の下掻い潜る 夏の昼ペンギンの様に手を引かれ 鯱戯け尾ひれかみかみ南風 ゴンドウ鳴く水族館を出て白夜 夏のほかペンギンの飛ぶ大水槽2023年6月1日お題は「雨の日のカフェ」パパと子は留守番夕虹のテラス 夕立や計算ドリル3回目 夕立を妬む期日の充電席 止まぬならケーキセットじゃ梅雨の陣 梅雨寒のカフェ腿に愛犬の熱 珈琲は冷めて怯者の梅雨の闇 濁りゆくソーダフロート減らぬまま2023年5月25日お題は「鯖の弁当」鯖喰ふや係船柱の錆硬し 汗水漬く大工かきこむ鯖弁当 焼き鯖の香り漂う夕涼み 鯖食いて青葉感じる箱の中 肴手土産に来る父の日の父 薄暑のシンク鯖缶の蓋の反り 朝まだき半夏生鯖匂ふ市2023年5月18日お題は「お子様ランチ」旗楊枝忍ばす半ズボンのポッケ 武術一位薫風のお子様ランチ 惜春のメニューに憶う母の影 添えられる家族の笑顔とさくらんぼ 溽暑のファミレス机上の通知表 矯正箸はちりめんじゃこを摘まみけり 日の丸とグリンピースの残る皿2023年5月11日お題は「浜田雅功」夏シャツのコロッケ百個下げて来る 扇風機衣装脱ぎつつ出前表 夏期講座の帰路「WOW WAR TONAGHT」聴く 嗚呼幾度目のピンマイク還暦の初夏 猛る友抱くや白雨のアスファルト ほんたうは優しいくせに青山椒 青梅雨やビンタを愛に昇格す 66穿くレジェンド薫風の温泉へ タイトルコール飛び立つ初夏の鳩よ 短夜や秒でやり取りするLINE 浜ちゃんの笑い声慈雨の風鈴 還暦の朝大幟投げ上げよ 辞表書きダウンタウンを見る五月 МCのちゃん付け憎しアイスティー お前しかおらん改札若葉風 摘まるるな棘あればこそ野薔薇ぞ 伝説がどかんどかんと夏に入る 不屈の漫才師客知らぬ背汗 汗光る結果発表の声の鞭 風死す初ライブツッコミただ痛し2023年4月27日お題は「遊園地」色褪せし無人の木馬春しぐれ ジャズ流し桜湯啜るラジオブース 銀の風船の中にも遊園地 カメラごし君の横顔さくらんぼ 春嵐継父と見上ぐ観覧車 春愁や廻る木馬の目の潤み ポップコーンまじり遊園地の落花2023年4月20日お題は「水筒」駆ける子と背で鳴る氷夏囃す わかめ狩り水筒ころがす親父の船 春暁や陣痛室で握る水 背後より歳時記覗く椿あり 水筒の底にゐる春愁の澱 花冷の砂かぶり席売り子駆く 水筒の囀り満たし一息に2023年4月6日梅沢富美男ヒストリー頬紅き少女の髪に六つの花 左見右見風を抱くや鬱金香 ライン引き残してつるべ落としかな 花びらも乗車するなり春隣 えり足に冬の風ありLINE消す 空のあお富士の蒼へと飛花落花 旱星ラジオは余震しらせおり 廃村のポストに小鳥来て夜明け 札止めの墨色の濃さ初芝居 鷹鳩と化すカフェオレの白き髭 白髪の薄色に染め春立ちぬ おひねりや子役の見得に夏芝居 桐の花いつかは来ない紙袋 剪定や鋏の音の霏々として2023年3月30日春光戦決勝 お題は「給与明細」給与手渡し春宵の喫煙所 ギャラ明細は二行療養の春 鞦韆に退職の日の花束と 保護シール剥がす手応え啄木忌 口座開設朱肉拭き取る夏近し 本採用朧夜の缶チューハイ 春光の起業ゲーミングチェア届く 桜蘂降る陸自の戦車しづか 職を辞したる尾崎放哉鳥曇 我が給与マックのバイトに負けた春2023年3月23日お題は「レトルト」レンジ置き場は空早春の一人暮らし 春の風邪レトルト粥に夫の気持ち 春眠やあちちと落とし目が開く 大試験レトルトカレーが救助待ち 白粥は三日目春の風邪飽きた コロナ7日目レトルト絞る遅日 湯玉ふつふつ春の厨の砂時計2023年3月16日お題は「引っ越し」「入学」春日向カーテンの到着は明日 木の芽冷え青いジャバラで家具包む 新しき庭あたらしき泥の春 春泥を引越し女房おお跨ぎ 校舎裏抱きし犬の目春の月 亡き妻と入学前夜のハイボール 新歓を断る理由春眠し 弟子入りの日墨色の八重桜よ 一年生さいしょのともだちだん子虫 入学や書いては消してわが名前2023年3月2日お題は「卒業」三月の空に託せるものがない 夕桜学ラン捲り1on1 春光やルーズソックスすべて干す 上履の文字も滲むや卒業式 古巣あり教えの庭よいざさらば2023年2月23日お題は「富士山」中華街の少女の旋子風光る 山笑う白髪の父と観覧車 風光る車掌誘なう窓の富士 春一番富士のいただき捕まえて 春の山ひつじに空の名を与へ 富士山の胴へふらここ漕ぐ少女 沸点の富士に近づく暮れの春2023年2月16日お題は「つまずく」あの崖の上がわらびの萌える野と 鍵失せてファミレスにいる春の月 つまずいて春を見つけた排水溝 原稿に「摘出手術」春の虹 春風のマーチ擦り傷にマキロン 覚えなき青痣きっと春のせい 靴脱げたランナー春塵の入賞 赤チンの膝の記憶や養花天2023年2月9日お題は「冷蔵庫のメモ」春立つやダンス部活の予定表 初虹レッスン場に向かうメモ見る バレンタイン娘らが正の字父の数 開運を願う初春にメモ外す 春立つや桃色のメモ退院日 サンタへの手紙貼られたままの春 お三時は固めのプリン春の雪2023年2月2日お題は「節分」福豆拾い子のコップで晩酌 もうちょいと生きてみるよと豆を撒く 立てかけて清しき巻き簾節替り2023年1月26日ふるさと戦。千葉&京都忘れ物を探しに菜の花を行く てふてふの過るトロッコ列車かな 春日和チャー弁膝に水平に 春風の房総地磁気逆転の跡 春日傘少女のような祖母の顔 風光る五分着まであの子待つ初蝶の止る擬宝珠の刀傷 ささくれた橋へ零るるさくらかな 春色の洛中馴染みなく緩歩 ひそと待つ花街のひと花衣 天然の若鮎群れて遡上中2023年1月19日お題は「おでん」バクダンと叫ぶ屋台の年男 湯気越しに父の面影冬の蝶 日向ぼこ面取り眺めるシロの鼻 おでん取り浮かぶ顔見て肩揺らす ガード下シメのおでんはクミンの香 おでん屋の一皿は先ず神棚へ 練り物の蓋持ち上げておでん鍋2023年1月12日冬麗戦 お題は「ラッキー」初富士は青しケサランパサラン来 雪虫の第一発見者は次男 冬ぬくし粘板岩に貝の跡 マフラーにきら失くしたはずのピアス 四時限目休講小春のキネマ 焼鳥や嗚呼隣席に郷ひろみ 一月の銀座でおそろいの遅刻 初旅は海へ黄色の京急来 夕の膳二つ「ん」のつく冬至かな 雪晴やチャームへ託す運選ぶ 吉兆の輝き一村をめざす 3ミリのジンクス冬晴れの球児 夢のあとはぐれ牛すじおでん鍋 ダイヤモンドダストファンが持つライト 闇動く幸せが動く梟2022年12月22日お題は「イルミネーション」独りきり煌めく街が冬の棘 街騒に凍てし手の振る誘導棒 静寂に響くダイヤモンドダスト iPhoneの光に胸がRing a Ding Dong ルミナリエ咥えて外す黒手套 垂直にシャンパンの泡クリスマス 冬木立シャンパン色にさざめきぬ2022年12月15日お題は「観光バス」冬晴の小樽ことりっぷの折り目 雪道にLINEスタンプバスの跡 音もない銀世界の停留所 寒窓に浮く子どもの絵帰路のバス ズワイガニ無音の宴50分 バス見えてバス停の毛布を畳む 補助席に場札と蜜柑バスの旅2022年12月8日お題は「たい焼き」長ゼリフ終へ差し入れの鯛焼 余命を知りたい焼きを腹から食う 買い食いの鯛焼野球強豪校2022年12月1日お題は「カラオケ」忘年会1人のためにラブソングを 初雪やこの恋届け歌にのせ 指先に沈む夕陽やママの冬 ひと晩で忘れるからOK年の暮れ カラオケの二番の途中コート脱ぐ 暖房や(間奏約30秒) 榾の宿主十八番の夢芝居2022年11月24日お題は「ピザ窯」冬銀河打ち上げピザはナポリ風 400℃火の如赤き父のセーター 炭ドームチーズとトマトの一騎討ち 炭火前早く運べとサラミの目 雪催煤切れを待つ耳赤く ピザカッターの先に居るずわい蟹 ピザに焼く上顎の皮雪催2022年11月17日お題は「神宮外苑の銀杏」初霜やオーディション会場不安 肩ぐるまズシン嬉しや日脚伸ぶ 秋夕焼5kmポストの兄を追う 黄葉が頬にうつりし無邪気顔 足踏みを五回枯葉の音愉快 銀杏落葉やカチンコの渇いた音 吾子踏みぬ銀杏落葉の無尽なり2022年11月10日お題は「ドライブスルー」星の入東風今夜の恋をくれた人 助手席でポテト抱える息白し 冬の朝我慢しきれずはしご芋 初雪日湯気たつ郷まで道中宴 冬の星信号待ちのポテト2本 時雨るるやジュニアシートで待つポテト 小さき手のピクルスつまみ出す小春2022年11月3日お題は「スーパーマーケットの鮭」稽古場で台詞繰る間の鮭にぎり 冬ちかし焼くか煮込むか鮭一尾 駄々こねる子を背に伸ばす切り身鮭 針供養抜きつ切身を妹に エコバッグに新米5kg雨の帰路 金秋のローンチ駅のおむすび屋 大中小弁当箱に鮭の秋2022年10月27日お題は「セルフのうどん店」夕月夜一人暮らしの光熱費 行く秋やうどん繰る子の箸高く 秋の夜たゆたう湯気メガネ曇らせ 出番待つ揚げ物軍隊秋の宵 露の世のいつぽん長きうどんかな 更待やぶっかけすすり出港す 秋寒や焦げた天麩羅箸の先2022年10月13日金秋戦決勝 お題は「大谷翔平」大きく振りかぶって秋爽の只中に 大谷の球大谷が打つ案山子 白秋の雲穿ぐ右投げ左打ち 総立ちのフェンウェイパーク星月夜 天高し野球ノートの三箇条 秋立つや十七画の名を吾子に ポケットにゴミ爽涼のユニフォーム 四番打者四球を選ぶ子規忌かな 巌流無念しおれた菊人形 打ちまくる大谷生姜擦る私2022年10月06日お題は「店のオープン」いちじくを運ぶ掛け声朝の鐘 星月夜五畳酒場の笑い声 赤とんぼ街にひびくはキキの声 秋茄子の美味い酒場がコンビニに ズル休みさやか駅前純喫茶 ピザ窯の奥に小さき火朝寒し 口開けの客は西瓜と連れ立ちて2022年9月22日ふるさと戦。大阪&福島街は秋写ルンですを巻く五秒 コイン洗車抜けて秋気の御堂筋 月夜の酔っ払い嗚呼かに道楽 ツッコミは愛なんだって啄木鳥 かすうどんバッテラなんぼ?浮寝鳥 お釣り百万円龍淵に潜む ラジオからソウル会津は初紅葉 秋燕レークラインの影ゆらら 赤べこの背なに揺られて山装ふ 山粧ひ一目惚れした吾も粧ひ 秋色や窓ガラスから宇宙から2022年9月22日ふるさと戦。茨城&福岡秋夕焼へ音失っていく列車 車窓より鹿島祭りの灯のはるか 秋暁や湖に童話の一頁 星合や長き鉄橋ひた走る 水澄むや湖上の列車とシャッター音 中洲の満月ホークスの白星 冷酒に心の月を入れて呑む 大将とこほろぎさがす屋台かな 常連に席譲られし秋の夜 豚骨の湯切り良夜のご報告◇▼もっと前の記事はこちらです。プレバト俳句を添削ごと査定?!プレバト俳句 今日の結果一覧。
2022.10.18
大きく振りかぶって秋爽の只中に 大谷の球大谷が打つ案山子 白秋の雲穿ぐ右投げ左打ち 総立ちのフェンウェイパーク星月夜 天高し野球ノートの三箇条 秋立つや十七画の名を吾子に ポケットにゴミ爽涼のユニフォーム 四番打者四球を選ぶ子規忌かな 巌流無念しおれた菊人形 打ちまくる大谷生姜擦る私プレバト俳句。金秋戦決勝です。お題は「大谷翔平」。よくもわるくも、拮抗して甲乙つけがたく、そのぶん突出した名作もなかったのかな、という印象。◇キスマイ横尾。総立ちのフェンウェイパーク 星月夜これは4位でしたけど、いちばん華やかな印象がありました。これが1位でもよかったかなあ、と思う。意外にもナイターの句はこれだけだったのです。唯一の欠点はアナハイム球場じゃないところ?ってことで、総立ちのアナハイムを翔ぶ白鳥座としてみました。中八です。◇フジモン。大きく振りかぶって秋爽しゅうそうの只中に大きく振りかぶって秋爽の只中(添削後)これが1位。おそらくデイゲームですよね。たしかに、主人公の姿を堂々とど真ん中に描いた映像は爽快です。ちなみに、野茂や大谷のように大きく振りかぶる投法は、いまでは少なくなったのだそうです。そういう意味で、これは野球のことを知っている人ならではの句ですね。◇春風亭昇吉。白秋の雲穿うぐ右投げ左打ち白秋の雲裂く右投げ左打ち(添削後a)白秋の雲撃つ右投げ左打ち(添削後b)これは3位。一見すると、これも爽快なデイゲームの場面に思えますが、作者自身は、じつは「白秋の雲」にネガティブな世相を重ねたらしい。つまり、重苦しい曇天に楔を打ち込むイメージだったのですね。そのことが「穿ぐ」という動詞に込められている。しかし、読み手にはその意図が伝わりにくく、むしろ爽快な秋空を思い浮かべる人のほうが多いはずだし、そうだとすれば、添削句のような率直な動詞のほうがふさわしい。◇梅沢富美男。ポケットにゴミ 爽涼そうりょうのユニフォームマウンドのゴミ 爽涼のポケットへ(添削後)7位。フジモンと同じく「爽」を含んだ季語を用いて、やはりデイゲームの一場面を描いてるように見えます。しかし、いくらなんでも「ポケット」と「ユニフォーム」じゃ、取り合わせる対句として近すぎる。(というより、ほとんど同じというべき)かたや、添削句のほうは倒置法になっていて、「これなら1位だった」というのだけど…ええ~?「爽涼のポケット」って何??わたしは「ポケットが爽涼だなあ」なんて思ったことありません…◇松岡充。天高し 野球ノートの三箇条5位。味わいがあって良い内容。ひたむきな野球少年の希望に満ちてるし、これがいちばん整っている句でもあった。しかし、収まりが良すぎてインパクトが薄かったのかな…これが名人戦の難しさ。◇森口瑤子。四番打者 四球を選ぶ子規忌かなバッターは四番 子規忌の四球選よる(添削後)8位。正岡子規が野球分野の訳語を考案したことにちなんだ内容。原句も添削句も、頭韻を意識した言葉遊びの面があります。強いて原句の欠点を挙げるとすれば、内容的には一句一章なのに、上五が切れているように見えることでしょう。とくに切れ字の「かな」で締める場合は、リズムの上でも一句一章に感じられるほうが美しいし、たとえ字余りでも、助詞の「が」を入れたほうがよかったのでは?四番打者が四球を選ぶ子規忌かなこのほうが一句一章らしくなると思います。◇フルポン村上。大谷の球 大谷が打つ案山子かかしこれは2位。たしかに「案山子オチ」ではありますが、《大谷→岩手/東北→豊作》みたいな縁起の良さも感じるし、いろんな味わい甲斐のある場面です。ただ、これも一句一章の内容なので、やはり助詞の「を」を入れたほうがよかったのでは?大谷の球を大谷が打つ案山子こうやっても、さほどの字余り感はないと思います。◇千原ジュニア。秋立つや 十七画の名を吾子に6位。大谷から離れて読むことも出来る内容ですが、彼は背番号が「17番」で、しかも翔平の名が「17画」だそうで、これも野球を知っている人ならではの句でしょうね。季語の選び方もさすが。◇皆藤愛子。打ちまくる大谷 生姜擦る私今日も打つオオタニ 私は生姜擦る(添削後)10位。大きな「大谷」と小さな「私」の対句。作者にネガティブな意図はなかったようだけど、読み手によってはイジケているようにも見えるし、ちょっと川柳的な味わいになってしまうかも。◇立川志らく。巌流無念 しおれた菊人形小次郎の無念 しおれた菊人形(添削後)9位。唯一、これだけが野球とも大谷とも無関係な句で、《二刀流》から《宮本武蔵》へと発想を飛ばしています。もともと「巌流」とは、佐々木小次郎が創始した剣術の流派であって、島の名前ではないのだそうです。島の正式名称は「船島(ふなしま)」。昇吉が指摘したように、取り合わせが近すぎる、との批判もありえます。▼この階段のトゲトゲ危ないよ!▲トゲトゲなくてもいいのでは?
2022.10.16
いちじくを運ぶ掛け声朝の鐘 星月夜五畳酒場の笑い声 赤とんぼ街にひびくはキキの声 秋茄子の美味い酒場がコンビニに ズル休みさやか駅前純喫茶 ピザ窯の奥に小さき火朝寒し 口開けの客は西瓜と連れ立ちてプレバト俳句。お題は「店のオープン」。◇フルポン村上。ピザ窯の奥に小ちさき火 朝寒し掲載決定。文句のつけようのない出来。場面描写も正確。遠近感があり、「冷」と「暖」の対比があり、情感もあって、下五に季語を置く形式がその情感を活かしている。きちんと定型に収まっていて誤読の余地もなし。…パーフェクトですね。◇森迫永依。いちじくを運ぶ掛け声 朝の鐘ええ~っ?この人、森迫永依ちゃんなの?25才?上智卒?萌音萌歌より年上じゃん!やばい、頭の時間軸がおかしくなってる…。今週の1位です。無花果いちじくは晩秋の季語だとのこと。モロッコの光景と聞くと、さらに味わいが増しますねえ。朝の鐘が鳴って、市が開いて、コーランが響いてくる?ちょっと久保田早紀の「サウダーデ」を思い出しました。(あれはポルトガルのトマト売りですけど)◇篠原ゆき子。星月夜 五畳酒場の笑い声星月夜 五畳酒場のさざめきに(添削後)才能アリの2位。添削句のほうは、季語を活かすために下五を抑制し、末尾を「に」で締めて倒置法のようになってます。◇三浦獠太。赤とんぼ 街にひびくはキキの声キキの声ひびける街の赤とんぼ(添削後)原句のほうは、「キキの声」が現実なのか幻想なのか判然としないし、そちらに重心がありすぎて、上五の季語が置いてけぼりになってる感もあり、取り合わせとしても噛み合わないように思えます。添削句のほうは、幻想と現実がうまく溶け合って、ちゃんとジブリ的な世界観になってますね。◇ニューヨーク嶋佐。秋茄子の美味い酒場がコンビニに秋茄子は美味し 酒場はコンビニに(添削後)原句を最初に読んだときは、「自分にとっての酒場」がコンビニの中にある、と誤読してしまったのだけど、作者いわく、酒場が潰れて新しくコンビニが出来てしまった、とのこと。そうなると「秋茄子の美味い酒場」が実景ではなく、季語もすでに失われていることになります。これは添削しても、あまりパッとしない。◇キスマイ横尾。ズル休みさやか駅前純喫茶掲載決定だそうですけど…助詞がないので、どこで切るべきなのか迷います。A:ズル休み/さやか駅前/純喫茶B:ズル休み/さやか駅前純喫茶C:ズル休みさやか/駅前純喫茶D:ズル休みさやか駅前純喫茶Aなら三段切れになるし、わたしはBで二句一章かと思ったけど、これだと、季語ではない上五が宙に浮いてしまう。Cは、意味の上から考えてちょっとありえない。…ってことで、先生はDの一句一章と解釈したようです。すなわち、季語の「さやか」は、前の「ズル休み」にも、後の「駅前純喫茶」にも、どちらにも掛かりうる、という解釈。しかし、文法的にいえば、(短歌の掛詞でもないかぎり)形容動詞が前後両方に掛かるなんてことはありえない。これは、いささかズルい読み方であって、賛否が分かれるだろうと思います。◇梅沢富美男。口開けの客は西瓜と連れ立ちてこれも掲載決定だそうですけど…下五「連れ立ちて」の是非。村上が言ったように擬人化の問題もあるけれど、そもそも連れ立って「来る」のか「出る」のか分からない。作者の意図とは逆に、馴染みの店主から西瓜を貰って店を出て行く、と解釈することもできるはずです。事実、わたしはそのように誤読しました。擬人化を排して、「西瓜をぶらさげ来く」とすれば、誤読の余地はありません。梅沢は、接続助詞の「て」でお茶を濁すのが悪い癖だと思う。
2022.10.10
街は秋写ルンですを巻く五秒 コイン洗車抜けて秋気の御堂筋 月夜の酔っ払い嗚呼かに道楽 ツッコミは愛なんだって啄木鳥 かすうどんバッテラなんぼ?浮寝鳥 お釣り百万円龍淵に潜む ラジオからソウル会津は初紅葉 秋燕レークラインの影ゆらら 赤べこの背なに揺られて山装ふ 山粧ひ一目惚れした吾も粧ひ 秋色や窓ガラスから宇宙からプレバト俳句。写真俳句ふるさと戦の後半です。この「写真俳句」というジャンルは、いつごろ生まれたのか知らないけど、まだ歴史は浅いだろうし、セオリーが確立しているわけでもなかろうと思う。 思いっきり発想を遠くへ飛ばして、無関係な内容を写真にぶつけてもいいのかな。たとえ俳句そのものは中途半端でも、写真と組み合わせることで表現が完成する、ってこともありうる気がします…。◇第三戦は大阪府です。お題は「道頓堀」。まずは写真を見ながら俳句を鑑賞します。添削された作品は〈添削後〉のほうを載せています。(ゆうちゃみ)街は秋 写ルンですを巻く五秒(フジモン)コイン洗車抜けて秋気の御堂筋(立川志らく・添削後)かに道楽見上げ月夜の酔っ払い(森口瑤子・添削後)ツッコミは愛か 真昼のおけら鳴く(松岡充・添削後)浮寝鳥ふえてバッテラかすうどん(犬山紙子・添削後)たけなわの秋や お釣りは「百万円!」◇1位は、ゆうちゃみ。ポップな内容ではあるけれど、俳句としての出来は予想外にしっかりしている。明るくてポジティブで共感性のある内容も、PR俳句にはふさわしいのでしょうね。ギャルのわりに、俳句の作り方をちゃんと知ってる風なのが不思議なのだけど、ほんとうに本人の作品かどうかを確かめるためにも、最後の「五秒」に込めた作者の思いを知りたかった。◇フジモンの句は、やや分かりやすさに欠けるような…。わたしが関西人じゃないからかもしれないけど、内容がローカルすぎて、ちょっと共感性に乏しい。◇立川志らくの原句は、月夜の酔っ払い 嗚呼かに道楽これもPR俳句としては、いまひとつポジティブな印象に欠けるよね。危なくて汚らしい飲み屋街を思い浮かべてしまう。◇森口瑤子の原句は、ツッコミは愛なんだって 啄木鳥けらつつき皮肉めいた川柳にも見えます。きつつきがケラケラと嘲笑ってるような。それをポジティブに受け取らない人もいるだろうと思う。◇松岡充の原句は、かすうどんバッテラなんぼ? 浮寝鳥うきねどりリズムとしては三段切れ。それがちょっと安っぽい印象を強めている。ここにもなぜか鳥が出てきますが、その怠惰な印象も、あまりポジティブな感じはしませんね。◇犬山紙子の原句は、お釣り百万円 龍淵に潜む取り合わせがやや難解で、写真俳句としての明快さに欠けます。しかも、龍が眠ってるんじゃあ景気が悪い。やっぱり勢いよく天に昇ってくれないと。◇◇第四戦は福島県です。お題は「磐梯吾妻レークライン」。(キスマイ千賀)ラジオからソウル 会津は初紅葉(中田喜子・添削後)湖へ秋の燕の影走る(梅沢富美男・添削後)赤べこの背なに揺らるるごとく秋(勝村政信・添削後)粧へる磐梯山に一目惚れ(犬山紙子・添削後)宇宙から紅葉見えるといふ話◇1位は、キスマイ千賀。俳句じたいがお手本のような二物衝撃ですね。PR俳句としても明解で、とくに意味の難しさはありません。都会から田舎へ、リラックスした時間が流れるドライブを想像させます。村上と同じように、聴覚情報を補ったのが勝因ともいえる。…それはそうと、いつもとはまた作風が違うような(笑)◇中田喜子の原句は、秋燕 レークラインの影ゆらら敗因は、写真の「レークライン」の情報を重複させたことですね。そして下五は何が「ゆらら」なのか分かりませんでした。◇梅沢富美男の原句は、赤べこの背なに揺られて山装ふ主語の異なる動詞「揺られる」と「装う」を、接続助詞の「て」で安易に繋ぐのはテキトーすぎます。梅沢は、こういう文法的な詰めがいつも甘いのよ。まあ、秋の情景に「赤べこ」を取り合わせた発想はいいと思います。◇勝村政信の原句は、山粧ひ 一目惚れした吾も粧ひなんか片手間に作ってるのがバレバレだったねえ。またしても破門されそうな予感(笑)。写真俳句としても相乗効果は無いに等しい。なにやら迷宮入りしちゃってるのでは?◇犬山紙子の原句は、秋色や 窓ガラスから宇宙から俳句としての出来はイマイチだったけど、宇宙まで発想を飛ばすのは、写真俳句としてアリだと思います。
2022.09.28
秋夕焼へ音失っていく列車 車窓より鹿島祭りの灯のはるか 秋暁や湖に童話の一頁 星合や長き鉄橋ひた走る 水澄むや湖上の列車とシャッター音 中洲の満月ホークスの白星 冷酒に心の月を入れて呑む 大将とこほろぎさがす屋台かな 常連に席譲られし秋の夜 豚骨の湯切り良夜のご報告プレバト。今回は「写真俳句」のふるさと戦でした。いつもとはちがって、写真との相乗効果が重視される別ジャンルの俳句。さらに、ふるさとキャンペーンのPR効果も求められる!参加したのは名人級のメンバーだったから、俳句だけを見ると十分に良い作品ばかりなのですが、写真との相乗効果が上手くいかないと評価はされない。必要なのは、いわば「写真と俳句との二物衝撃」?!映像と言葉とで情報が重複するのを避けながら、補い合ってぶつけ合って新しい世界を創出しなきゃいけない。受け手側としては、字面だけで評価できない上に、写真によってイメージが限定されてしまうので、あまり自由な鑑賞を広げることもできません。通常の俳句とはセオリーがだいぶ違うし、正直、まったく違うジャンルですね。◇第一戦は茨城県。お題は「霞ヶ浦の鉄道」。まずは写真を見ながら俳句を鑑賞しませう。なお、添削された作品は〈添削後〉のほうを載せています。(フルポン村上)秋夕焼へ音失っていく列車(梅沢富美男・添削後)車窓いま鹿島祭りの灯のはるか(的場浩司・添削後)鏡の国へと秋暁の一頁(中田喜子・添削後)ひた走る長き鉄橋 星祭(カミナリ石田・添削後)湖を超ゆる鉄橋 水澄めり◇フルポン村上は、聴覚を刺激してくる内容ですね。列車が夕焼けに滲むと同時に、音も滲んで消えていってしまう…。写真との取り合わせなので、視覚以外の五感を描写する手法は効果的。それを狙ったのは村上だけでした。◇梅沢富美男の原句は、車窓より鹿島祭りの灯のはるか字面だけ見れば原句のほうがいいのだけど、写真と取り合わせると、たしかに添削句のほうが臨場感が増します。◇的場浩司の原句は、秋暁や 湖うみに童話の一頁梅沢も言ってましたが、後段の「湖に童話の一頁」は、紙が水面に浮いてるかのような誤読を招く。かたや添削句のほうは、字面だけ見るとナンノコッチャ?ですけど、写真と組み合わせると、互いに補い合って幻想性が増すのですね。◇中田喜子。これは、ほとんど宮沢賢治の世界。ちなみに「星合」も「星祭」も七夕のこと。季語としては秋になります。原句は、星合や 長き鉄橋ひた走るでしたが、写真との取り合わせを考えれば、語順を逆にしたほうが効果的とのこと。なぜなら、前段が写真のイメージに重複しても、後段で「写真との二物衝撃」ができるから。◇カミナリ石田の原句は、水澄むや 湖上の列車とシャッター音湖を映像を詠んでるのに、季語の「水澄む」を選んだら重複になるのでは?俳句の内容も、ただ写真のイメージをなぞっただけなので、まったく相乗効果をなしませんでした。◇◇第二戦は福岡県。お題は「中洲の屋台」。(篠田麻里子・添削後)ホークスは白星 中洲には満月(立川志らく)冷酒に心の月を入れて呑む(武田鉄矢)大将とこほろぎさがす屋台かな(千原ジュニア)常連に席譲られし秋の夜(キスマイ横尾・添削後)豚骨のスープ 良夜のご報告◇篠田麻里子の原句は、中洲の満月 ホークスの白星これが1位。何よりPR俳句としての景気の良さが勝因。そこが女性らしい明るさと勘の良さですね。◇立川志らくの句は季重なり。「冷酒」は夏の季語。「月」は秋の季語です。本人としては、悟りが開けた境地を意味する「心の月」を、秋の季語として用いたらしいのですが、悟りって、いくらなんでも大袈裟でしょう。やはり先生が言うように、「冷酒」のほうをメインと見なすのが妥当。俳句として大きな欠点はないけれど、キャンペーンのPR作品としては寂しげで暗いのよ。まあ、そこが志らくの「勘の悪さ」だわねえ。◇武田鉄矢も、俳句としては可愛らしくて良い出来だけど、志らくと同様にしみじみして、ちょっと寂しげ。◇千原ジュニアの句こそ、写真と俳句との相補関係をうまく狙ってたと思うけど、先生からは「足し算でなく掛け算を!」との厳しい指導が…。なかなか難しいですね。◇キスマイ横尾の原句は、豚骨の湯切り 良夜のご報告俳句としてはよく出来ている。季語は「良夜」で、月の綺麗な夜のこと。お得意の句またがりによる取り合わせですね。ただ、そもそもが写真との取り合わせなので、俳句じたいも取り合わせとなると複雑すぎるかな。取り合わせが三重になってしまいますよね。キャンペーンのPR効果を狙う上でも、ある程度の分かりやすさは必要な気がします。
2022.09.26
先日「二句一章」についての考察をしたので、ついでに「三段切れ」についても書いておこうと思います。とはいえ、この話は、結局どちらも同じです(笑)。つまり、助詞を省略することで体言止めに見えてしまった場合、それを「切れ」として解釈するのかどうか、ってこと。体言止めを「切れ」と見なすかどうかで、一句一章が二句一章に見えてしまったり、二句一章が三句一章(三段切れ)に見えてしまったりするのです。◇プレバトに提出された以下の句などは、もしかすると三段切れに見えてしまうかもしれません。秋晴や アリクイさんぽ 三時より夏の駅 冷えた茶の露 本濡らす寒月や 終電灯火 跳ねた粒紅白帽 脱いで焼きたて 林檎パイしかし、実際は、助詞の省略によって体言止めに見えているだけなので、内容的には二句一章(もしくは一句一章)です。秋晴や/アリクイさんぽ(は)三時より夏の駅/冷えた茶の露(が)本(を)濡らす寒月や/終電灯火(が)跳ねた粒紅白帽(を)脱いで焼きたて(の)林檎パイたしかに、助詞を省略すると、体言止めのように見えてしまうことがありますが、ほんとうに体言止めなのかどうかは、あくまで内容から判断しなくてはならない。たとえば、「犬が走る。」を「犬走る。」と省略したとしても、そのことで「犬」を体言止めだと思う人はいないはずだし、まして「犬。走る。」などと句点を打つ人もいないはずです。◇プレバトの句でいうなら、以下の句が、あきらかな三段切れです。黒たまご ほのめく硫黄 冬の風箱の角すみ 亡き犬の毛や 垂しずり雪どちらも上五のあとに助詞の「に」を補えば、二句一章にすることも可能な内容ではあるけど、助詞の「に」を省略できるケースは限られており、これらの句の場合、「に」が省略されているとは読めません。実際、「黒たまご ほのめく」「箱の角 なき犬」と書いた場合、どちらかといえば「が」が省略されているように見えますし、ここへ助詞の「に」を補って読むような人はいないはずです。なので、これらは三段切れ(=三句一章)ととらえる以外にない。◇ちなみに、三段切れとは、(諸説あるかもしれませんが)場面が三つに分かれること、すなわち「三句一章」のことであって、リズムが3つに途切れることではないと思います。夏井先生は、口癖のように、「プツプツプツとリズムが途切れるのが三段切れ」と言いますが、これはあまり本質的な説明だとは思えない。お茶の間向けのバラエティで本質的な説明をする必要もないでしょうが。そもそも、なぜ三段切れを避けるべきなのかといえば、たんに3つの場面を並置しただけになって、取り合わせによる主客場面のコントラストが散漫になるから …です。すなわち、季語=主役を際立たせることが出来なくなるから。たしかに、三段切れは、結果的にリズムを3つに区切ることにもなりますが、それは副次的な問題にすぎない。事実、リズムが3つに区切れているからと言って、かならずしも場面までが三分割されるとは限りません。したがって、三段切れかどうかは、リズムではなく、あくまで内容から判断しなければならない。◇名句のなかにも、一般に「三段切れ」とされているものがありますが、わたしは、これについても疑問を感じています。山口素堂。目には青葉 山ほととぎす 初鰹これなどは、かなり確信犯的で、3つの季語を完全に並置し、どれが主役かも分からないようにしています。しかし、はたしてこれが三場面からなる「三句一章」なのかというと、わたしには、そうは思えません。3つの句点で分断しているのではなく、たんに読点で軽く区切っただけの一連のセリフのように見えるし、結果的には、切れのない「一句一章」に見えます。つまり、「目には青葉、耳にはホトトギス、舌には初鰹だなあ。」という意味なのであって、これをあえて「三段切れ」と言う気にはならない。同じように…(伝)松尾芭蕉。松島や ああ松島や 松島やこれも完全に「一つのセリフ」であって、やっぱり一句一章に見えます。そして、もうひとつ…高浜虚子。初蝶来 何色と問ふ 黄と答ふこれはたしかに3つの句点で区切るべき内容だけど、かといって、三場面に分かれているという感じでもなく、むしろ一つの連続したシーンを、ワンカットの動画で撮っているような印象があります。なので、やはり、わたしには「一句一章」に見えます。◇波多野爽波。チューリップ 花びら 外れかけておりこれを三段切れと思う人もいるようですが、「花びら」の後には助詞の「が」が省略されているのだから、あきらかに体言止めではありませんよね。では、上五の「チューリップ」は体言止めでしょうか?上五をあくまで体言止めだと考えれば、これは二句一章ということになりますが、かりに助詞「の」が省略されているのだと見れば、これは一句一章の一物仕立てということになります。つまり、二句一章ならば、「チューリップだなあ。あ、花びらが外れかけているよ。」となり、一句一章ならば、「チューリップの花びらが外れかけているよ。」となる。この判断はけっこう微妙です。◇助詞の省略は誤読を招く場合もあります。「犬が走る」を「犬走る」と省略しても、誤読の余地はほとんどありませんが、「魚が食べる」を「魚食べる」と省略してしまったら、まちがいなく「魚を食べる」という誤読につながるはずです。前回も書きましたが…与謝蕪村。春の海 終日ひねもすのたりのたりかなこれを二句一章と解釈すれば、「春の海だなあ。私は日がな一日グータラしているよ。」という意味になるし、かたや一句一章と解釈すれば、「春の海が一日中のたりのたりと波打っているよ。」という意味になって、まるで読み方が変わってしまう。つまり、助詞の省略が誤読を招く。◇丘みどり。夏の雲 サイドミラーにひしめきぬこの句も、内容的には一句一章なので、わたしは上五を「夏雲の」に直したほうがいい、と書いたことがあります。ただ、この句の場合は、助詞を省略しているのが明らかだし、誤読の余地もないのだから、このままで問題なし、というべきかもしれません。先の蕪村の句についても、わたしは上五を「春海の」に直したほうがいいと思いましたが、まあ、末尾を「かな」で締める場合は一句一章にするのが原則なのだし、そう考えれば「春の海」のままで問題ないのかもしれません。追記:蕪村や爽波や丘みどりの句は、上五で助詞の「は」を省略しているようにも思えます。ただし、一般の日本語では、「が」を省略することはできても「は」や「も」を省略することは難しい。なぜなら、「犬が走る」を「犬走る」と省略しても主語と述語の関係に変更は生じませんが、「は」や「も」の場合は、主語と述語の関係にプラスアルファの意味が加わっているからです。その一方、日本語の「は」には《題目語》を作る役割があるともされています。有名なのは「象は鼻が長い」という場合の「は」です。はたして日本語のなかに《題目語》などがあるかどうかも分からないし、その場合に「は」を省略できるという話も聞いたことはありませんが、俳句や川柳などに限っていえば、体言止めの上五が、しばしば《題目語》のようにも見えるのですよね。前回もチラッと書きましたが、ビートたけしの「赤信号 みんなで渡れば怖くない」の場合も、体言止めの上五は《題目語》のように見えなくもありません。さらにいうと、芭蕉や子規の、「五月雨をあつめてはやし 最上川」「柿くへば鐘が鳴るなり 法隆寺」なども、《題目語》を下五に置いた倒置法のように見えなくはありません。
2022.09.24
完全保存版「絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」。第6回のテーマは「家族と故郷」です。◇服部嵐雪。竹の子や 児ちごの歯ぐきのうつくしき(江戸時代)子供の歯茎って、ピンク色で小さくて可愛いよね。そして、竹の子も可愛い。◇小西来山。我が寝たを首あげて見る寒さかな(江戸時代)寒いのに、薄い布団一枚に身をくるめて、棒みたいに縮こまって固まって寝ているさまを、首だけ持ちあげて自分で上から見ているのでしょうねwひもじくて気の毒だけど、なんか笑えます…。◇小林一茶。雪とけて村一ぱいの子ども哉(江戸時代)江戸時代の句ですが、いまと変わらない感覚だなあと思いますね。現代人の句といわれても、何も違和感はありません。◇川端茅舎。金剛の露ひとつぶや 石の上(昭和戦前)ミクロな幻想としての「金剛の露ひとつぶ」は、たしかに斬新でSF的でカッコいいと思うのですが、下五の「石の上」という背景に説得力がないし、一句一章の内容をあえて二句一章に分割した結果、下五が軽すぎて、非常にバランスが悪くなっている。善意に解釈するならば、その頭でっかちなバランスの悪さが「SF的」かもしれませんが。◇西東三鬼。算術の少年しのび泣けり 夏(昭和戦前)下五を「泣ける」として連体形にせず、終止形で切って「夏」だけを最後に置くという手法。つい「愛なんていらねえよ、夏」を思い出しますが(笑)戦前の俳句としては斬新だったでしょうね。描いている場面も、なにやら映画やドラマのようです。◇竹下しづの女。苺ジャム 男子はこれを食ふ可らず(昭和戦前)意地悪な女の子の句でしょうか?それとも、我慢して自分にジャムを禁じてる男の子の句でしょうか?それとも、いじらしい少年の姿を見つめる母親の句でしょうか?…解説によれば、これは軍国主義時代の厳格な母親の句なのだそうです。当時の教育理念のことはよく分かりませんが、些細なことで男子と女子を線引きするのが普通だった?戦時中だったら、男子も女子も一緒にガマンすべきだと思うのですが、もしや、日頃の怨みを晴らすべく、ここぞとばかりに男子にガマンを強いているのかしら?とはいえ、わざわざこんなケチな教育理念を、そのまま俳句にして詠むとも思えないし、むしろ何らかのユーモアやアイロニーを見るべきなのでは?そもそも息子らに食わせる気がないなら、最初から苺ジャムなんて作らなきゃいいわけでしょ。ちなみに「苺」は春の季語かと思いきや、初夏の季語だそうです。◇三橋敏雄。石段のはじめは地べた 秋祭(平成)普段はアスファルトの上ばかりを歩いているので、たまに神社などへ行くと、土を踏みしめたときの冷んやりした感触とか、舗装された道とは違う石段の自然な凹凸感とか、一足ごとに、いつもとは違う面白さがあって、つい足元のほうへ意識が向いてしまうのは分かります。今回は、この句がいちばん好きでした。
2022.09.23
豚饅の油染むべい独楽の紐 丸善の古書フェア檸檬ケーキの香 梨噛んで潤う両耳の鼓膜 梨の滴り大地は幾度雨季を経て 銀杏を拾いし背でまあだだよプレバト俳句。金秋戦の予選3週目。お題は「食欲の秋」。◇千原ジュニア。豚饅の油染むべい独楽の紐季語の話がとても興味深かった。肉まんではなく、関西流に「豚饅」と書いています。ちなみに「肉まん」は冬の季語。※ただし、掲載している歳時記は少ないそうです。しかし、この句のほんとうの季語は、兼題の食欲にちなんだ「豚饅」ではなく、むしろ「べい独楽」のほうなのですね。ちなみに「独楽」といえば新年の季語だけれど、この句の主役となる「べい独楽」は、海蠃ばい廻しに起源をもつ晩秋の季語だそうです。季語のセオリーを少しずらしながら、地域性や歴史性についても思いを巡らせる、いい意味でジュニアらしからぬ知性的な味わいの句。◇キスマイ横尾。丸善の古書フェア 檸檬ケーキの香季語は「檸檬」で秋。なぜなら、その収穫期が秋から冬だからですが、一般に、レモンといえば夏のイメージも強い。しかも、この句の場合、ケーキになったことで季語の力が弱まっている。しかしながら、この句は「読書の秋」を感じさせることで、全体として秋の句になっている…とはフジモンの指摘。たしかに!夏のイメージが強い「檸檬」よりも、むしろ「檸檬ケーキ」のほうが秋っぽいともいえる(笑)。これも季語のセオリーをずらした意欲作ですね。◇皆藤愛子。梨噛んで潤う両耳の鼓膜梨の甘みと水分が、口全体にじゅわっと広がる感じを、「耳まで」と言いたい気持ちは分かる。とはいえ「鼓膜」ってのは、ちょっとピンポイントにすぎたでしょうか。下手すると聴覚描写とも誤読されかねない。ためしに、中八ですが、梨噛みて耳まで潤う甘味かなぐらいにしてみました。◇キスマイ千賀。梨の滴り 大地は幾度雨季を経てみずみずしき果汁よ梨よ 雨季幾度(添削後)例によって、かなり観念的な内容…。個人的な感覚でいうと、「大地は幾度雨季を経て」から思い浮かぶのは、アフリカとか南アジアとかオーストラリアなどの壮大な世界であり、いまいち和梨の印象とは合致しない。ちなみに日本の雨季は、6月の「梅雨期」と9月の「秋雨期」の二度あり、そのためか「雨季」だけでは季語にならないようです。◇的場浩司。銀杏を拾いし背せなでまあだだよ銀杏拾う 「まあだだよ」の声かたわらに(添削後)なかなか趣のある場面だとは思う。ただ、ちょっと誤読の余地が多すぎましたね。本人いわく、「子供の声が背後で聞こえた」とのことですが、梅沢が言うように、「負ぶった子供が背中で言った」ようにも見えるし、わたしは、逆に、「父が背中で語っているように見えた」と解釈しました。添削句は、倒置法のワンカットにしていますが、2カットの取り合わせにして、まあだだよの声や 銀杏拾いの吾のようにも出来るかなと思います。◇これはかなり高値が付きそう!江の島に見えないところがたしかに惜しい。立体的なジオラマでも売れそうです。この草むらの表現も素晴らしい。草むらだけで美しい絵になるってスゴイねえ。これもなかなかの味わいです。電車が可愛い。これもまたひとつの味わい。右上はアーケードじゃなく高速道路に見えるけど。
2022.09.20
NHKの完全保存版「絶対覚えておきたい!究極の短歌。俳句100選」。第5回「旅と自然」のつづきです。※今回はとくに名句における「二句一章」について考察しました。◇前田普羅。雪解川ゆきげがわ 名山けづる響かな(昭和戦前)上五でいったん切れているのに、最後にまた切れ字の「かな」で終わらせている。一般のセオリーに反しています。はたしてこれを二句一章と見なすべきでしょうか?本来なら「雪解川の」として中七に繋ぐべきところを、字数の都合で助詞を省いた結果、形式的に二句一章になってしまっただけで、内容的にはワンカットの句というべきではないでしょうか?あるいは、これは、あくまでも取り合わせによる二句一章であり、ちょうど芭蕉の「古池や」と同じように、前段が《視覚》で後段が《聴覚》の二物衝撃なのでしょうか?もしくは、(ビートたけしの「赤信号…」の川柳などもそうですが)体言止めで切った上五は、たんに《題目》のような役割を果たしているだけで、取り合わせや二物衝撃の内容ではない、とも思えます。◇与謝蕪村。春の海 終日ひねもすのたりのたりかな(江戸時代)これまた上五で切って「かな」で終わらせている。したがって、やはり形式的には二句一章です。形どおりに二句一章の内容と考えるなら、「春の海だなあ。私は日がな一日グータラしているよ。」という意味になるはずだし、わたし自身も、今まではそう解釈していました。ところが、番組の解説によると、これはワンカットの内容であって、「春の海が一日中のたりのたりと波打っているよ。」という意味なのだそうです。つまり、あきらかに形式と内容が一致していない!切れが本来の役割を果たしていない!まあ、これも助詞の「の(or が)」を省略しただけで、上五を「切れ」と見るべきではないのかもしれないけど、結果として、わたしのような誤読をする人は少なくないだろうし、かりに、上五を「春の海」と切らずに、「春海の」として中七に繋いでいれば、そういう誤読はありえないはずですよね。…途中で「切れ」があるにもかかわらず、内容的にはワンカット、という作品は、プレバトでもしばしば見受けられますし、じつは名句のなかにさえ存在するのではないかと思う。わたしは、途中で「切れ」が入るならば、それは、すなわち二句一章であり、「取り合わせ」「二物衝撃」だと思っているのだけど、実際は、そのセオリーに反する俳句がかなり多い。正直なところ、「このセオリーをあまり厳密に考えるべきではないのかも」という自覚もわたしの中にうすうすあって、「形式にこだわりすぎると韻文の魅力が損なわれるのかも」という気がしないでもありません。…とはいいつつ、蕪村の「春の海」のように、形式と内容が一致しない句は、ともすれば誤読を招きかねないのだし、やはり「セオリーは大事だな!」と思ってしまいます。追記:上記の蕪村と普羅の句は「かな」で締められているのだから、そこから一句一章だと判断すべきであって、やはり二句一章と考えるのは間違いなのかもしれません。その場合、上五は助詞を省略しているだけで体言止めではない、ということ。◇芥川龍之介。木がらしや 目刺にのこる海のいろ(大正時代)上五で切れていますが、こちらは、お手本のような二物衝撃ですね。寒々とした冬に対して、鮮やかな海の青。さすがに、芥川ともなれば、散文の場合にも、韻文の場合にも、形式をきちんととらえているように見えます。◇野沢凡兆。なが〱と川一筋や 雪の原(江戸時代)こちらは中七で切れています。雪の原のなかに一筋の川が流れているのだけど、視点の変化としてなら、このカット割りは理解できます。◇京極杞陽。蝿とんでくるや 箪笥の角よけて(昭和戦後)これも途中で切れてはいますが、倒置法なので、二句一章ではありません。ちなみに、この句は、「内容が軽すぎてアホっぽい」と、番組の選者のあいだでも評価が割れていました。とくに復本一郎は「読者に媚びているだけ」と否定的でした。とはいえ、ハエの器用な飛び方や方向転換の見事さに感心する、という経験はわたしにもあるし、それもまた俳句らしい気づきだろうとは思います。◇正岡子規。柿くへば鐘が鳴るなり 法隆寺(明治時代)これも中七で切れていますが、やはり内容的にはワンカットの句だと思えるし、これも倒置法というべきなのかもしれません。たとえば、芭蕉が、五月雨をあつめてはやし 最上川と詠んだとき、中七を「はやき」と連体形で繋がずに、あえて終止形にして切れを入れたのは、やはり倒置法の効果を狙ったからだと思います。つまり、「五月雨を集めて速くなってるなあ、最上川が。」という倒置法であって、べつにカットを割って二句一章にしているのではない。子規の句も、(やや無理があるかもしれないど)「柿を食べたら鐘が鳴ったなあ、 法隆寺で。」という倒置法だと解釈できなくはありません。◇松尾芭蕉。閑さや 岩にしみ入蝉の声(江戸時代)前回の「古池や」と同じように、季語ではない語を上五に置いて、切れ字の「や」を用いてカットを割っています。しかし、これもまた倒置法かもしれません。つまり、「閑かだなあ、岩に沁み入る蝉の声が。」という倒置法のワンカットとも見えます。実際、切れをなくして、蝉の音の岩に沁み入る閑さよ と直すことも出来ます。…しかしながら、これをあくまで二句一章と見なすこともできます。というのも、じつは、この句の原型は、山寺や 石にしみつく蝉の声だったらしいのです。これなら二句一章としてカットを分ける必然性がある。ところが、芭蕉はあえて、苔のように「石」の表面に「しみつく」ではなく、波動のように「岩」の深部にまで「しみいる」と表現をあらため、さらには上五に置く名詞を、「山寺」という客観的映像ではなく、「閑さ」という主観的心象に変えたのです。(蝉が鳴いてるのだから、実際に無音であるはずはない)そのうえでなお、二句一章の形式を維持したわけですね。たとえば、雨の音とか、虫の鳴き声とか、街中のBGMとかが耳に入ってこない状態のときはあるし、ふと我に返ったときに、はじめてそれが聞こえてきてハッとすることがあります。そのことを考えると、この句は、やはり「古池や」と同じように、《持続的時間》と《瞬間の驚き》の二物衝撃なのかもしれません。◇飯田龍太。一月の川 一月の谷の中(昭和戦後)これも形式的には「切れ」が入っていますが、全体が一つのセリフのようなので、二句一章とは見えない。わたしには、上から見下ろすようなワンカットの映像が思い浮かびます。ちなみに、この句は、縦に書くと字面が左右対称になって、それがまた一本の細い川のように見える、とのこと。◇高浜虚子。遠山に日の当りたる枯野かな(明治時代)これは、最後を「かな」で締めるセオリー通りのワンカットですね。選者の宇多喜代子は、この句について、「誰の記憶にもある風景」と評価してましたが、わたしにいわせれば、さながらドボルザークが米国にいながらチェコの風景を描いて、そこに日本人が「遠き山に日は落ちて…」と詞をつけるような普遍性だし、裏を返すなら、ちょっと陳腐だなとも思います。◇桂信子。たてよこに富士伸びてゐる夏野かな(平成)これも同じく「かな」で締めたワンカットの句。富士の特筆すべき美しさは、高さよりもむしろ、横の広がりのほうなのですよね。つまり、周囲にほかの山がない、ということ。その偉大さを清々しく描いています。◇後藤夜半。滝の上に水現れて落ちにけり(昭和戦前)これは「滝の水」にかんする一物仕立て。セオリー通りに{主語+述語}を「けり」で締めています。滝を見ているというよりも、ある瞬間に滝の上で盛り上がった「一塊の水」に注目して、その水の固まりが落ちていくまでの時間を目で追っている。それが一種の発見なのでしょうね。ある意味では、滝そのものの描写というより、自分自身の視線移動を描写したような句です。まあ、見方によっては、ハエの句以上にアホっぽい気がしないでもありませんが。◇水原秋桜子。滝落ちて群青世界とどろけり(昭和戦後)やはり末尾を「けり」で締めたワンカットの句。ちなみに、ここで描かれているのは那智の滝だそうです。滝の背後にある、濃密な生命力に満ちた森を、「群青世界」と言い表したのでしょうが、わたしは、正直、なにやら出来合いの表現っぽくてつまらない、と感じました。◇阿波野青畝。水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首(昭和戦後)季語は「蛇」で夏。切れのないワンカットの場面です。蛇の首が鳳凰の首へ向かっていく対称的な相似形が生々しく、その蛇行にあわせて、ぬるく波打っている水もまた生々しい。古色蒼然たる人工物に、鬱蒼たる自然が重ねられ、夏のゆらゆらした生ぬるい情景を切り取っていてリアルです。わたしは、この句がいちばん好きでした。◇追記:そもそも「二句一章」という概念を提唱したのは明治~大正期の大須賀乙字という人で、そのセオリーが影響力をもったのも明治の終わりごろ(たぶん1910年代以降)だと思われます。したがって、江戸時代の芭蕉や蕪村、さらに明治時代の子規ぐらいまでは、「切れ」を用いてはいても、それによって《場面を分ける》とか《カットを割る》という発想はなかったかもしれません。むしろ、ほとんどはワンカットの場面を詠んでいた可能性が高い。俳句の「切れ」が散文で言うところの「句点」に当たるというのは合理的な考えだと思いますが、明治以前の俳句の場合、それが二句一章になってるかどうかは内容ごとに判断するしかないのでしょうね。大正以降でさえ、すべての俳人がこのセオリーに従ったわけでもなかろうと思います。
2022.09.19
NHKの完全保存版「絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」。一週おくれになりましたが、第5回のテーマは「旅と自然」でした。◇今回は短歌のセレクトがなく、俳句のみの紹介だったのですが、まずは、これ!松尾芭蕉。古池や 蛙飛こむ水のをと(江戸時代)言わずと知れてます!しかし、いろいろと問題の多い句でもある…(笑)。この句こそが、俳句文化の出発点でもあるのだから、これにケチをつけちゃったら、俳句文化の前提が崩れかねないし、俳句のことを何も知らなければ、四の五のいわず「名句だから名句なんでしょ!」で済むのだけど、なまじっか俳句のことをかじりだしてしまうと、これが本当に名句というべきかどうかが疑わしくなる。問題点は、おもに3つ。・カット割りが不適切なのでは?・無駄な言葉が多いのでは?・季語が主役になっていないのでは?ってことです。◇まあ、芭蕉の時代には、現在のような「俳句のセオリー」なんてものは確立してなくて、もっと自由におおらかに作ってたのだ、…という見方もできるかもしれません。その一方、いやいや、芭蕉先生だって、たんに自由に作ってたわけでもなくて、吟味に吟味を重ねた上で、この最終形に辿り着いたのよ!…という見方もできます。1.不適切なカット割りについてまず、わたしが気になるのは、カット割りのこと。上五で切れているのだから、形式的には、2カットの取り合わせのはずなのに、内容的には、どう見てもワンカットの場面なのです。ならば、上五で切らずに、古池に蛙飛びこむ水の音としたほうがよかったのでは?2.不要な語句についてつぎに気になるのは、下五の「水の音」です。これについては前にも書きましたけど、池に蛙が飛び込んだら「水の音」がするのは当たり前なんだから、わざわざ書かなくてもいいでしょ!ってこと。いうたら、「水の音のしない池の飛び込みがあったら持って来い!!」って話です。◇こうした疑念に対する回答として、前段は《視覚》の描写であり、後段は《聴覚》の描写なのだという説明がありえるでしょう。つまり、目に見えていた光景と、耳に聞こえてきた音が、分離していて、一致しないことへの驚き。いわば《視覚》と《聴覚》の二物衝撃。そして《持続的な時間》と《静寂を打ち破った瞬間》との二物衝撃。じつのところ、わたしもそう思っていましたよ!(笑)今回の番組でも、選者の復本一郎が、芭蕉は音だけ聞いて蛙の姿を見ていない音を聞けば「あれは蛙だなあ」と分かると話していました。かりに散文に訳すならば、「静かな古池が見えてるよ。あ、あの水の音はきっと蛙だなあ。」という取り合わせの句なのだ、と。3.季語の扱いについてしかしながら、季語の「蛙」が作者の目に見えていない。ゆえに、映像化もされていない。じつのところ、ほんとに蛙かどうかも定かではない。そんなものを俳句の主役にできるのでしょうか?これが3つめの問題です。そもそも、上五の切れ字「や」で強調してるのは、季語の「蛙」じゃなくて「古池」なわけだし。いや、見えないことによってこそ「蛙」が主役たりえている!…ってか??4.「古池や」の句を添削してみるこの芭蕉の句を、かりにプレバトにでも提出したならば、「凡人」の査定や「才能ナシ」の査定を喰らう可能性がある。ためしに添削を試みてみましょう。まず、百歩譲って、蛙の「姿」ではなく「音」こそが主役なのだとしても、さすがに「水の」なんて説明は不要でしょうよ!笛や鐘の音がするわけないんだから。むしろ、この余計な3音ぶんを使って、音についての描写を深めればよかったのでは?たとえば、「音ひとつ」とか「音ふたつ」とか、「音とおし」とか「音ちかし」とか、いろいろとやりようはあるわけで。◇さて、ここでちょっとネタバラシ。というか裏話。じつは、この句には、上五を「山吹や」にする案もあったそうです。▶Wikipedia参照すなわち、散文に訳すならば、「山吹だなあ。蛙が飛び込んで水の音がしているよ。」という取り合わせの句だった可能性があるのです。たしかに、これならば、カットを分ける必然性があります。ところが、芭蕉はこの案を蹴りました。そして、あえて「古池や」を上五に置いた。このことから、長谷川櫂などは、芭蕉は実際には「古池」など見ていないのだそれは芭蕉の心の中にある幻の池なのだとの説を唱えています。いわば、幻想と現実との取り合わせ、フィクションとリアルの二物衝撃、…というわけ。現実の「水の音」を聞いたあとで、幻想のなかの「古池」を思い浮かべたのだから、結果的に重複になるのだとしても、下五の「水の音」は省略できなかったのかもしれません。◇かたや、夏井先生のYoutubeチャンネルでは、まったく別の視点も提示されています。いわく、これは春の句なのだし、その季語の本意から考えるならば、「古池の静寂を破って一匹の蛙が飛び込んだ」みたいな寂しげな場面ではなく、むしろ、冬眠からかえった無数の蛙たちが、あちこちでビョンビョンと飛び跳ねているような、生命力にあふれた句と解釈しなければならない…とのことです。つまり、そのときにこそ「蛙」は主役たりえるのであり、そう考えれば、この句は、「古池=ワビサビ」と「蛙=生命力」の二物衝撃とも読める、ってなわけですね。◇しかし、それでも、わたしはまだ完全に納得しきれていません。もし本当に「蛙」の姿が見えていないのなら、そして「水の音」だけがあちこちで聞こえていたのなら、古池に蛙飛ぶらむ音あまたとでも書けばいいのでは?と思ってしまうのです。なお、冒頭に述べた通り、今回は紹介された俳句の数が多かったので、残りの作品については(その2)で書くことにします。
2022.09.16
秋晴やアリクイさんぽ三時より 解熱剤効き秋晴の午後を知る 数取器始動出水に鶴来る 山粧ふ三年タグ付き登山靴 紅葉且つ散る袖高欄の一樹プレバト俳句。金秋戦の予選2週目。お題は「行楽の秋」。◇森口瑤子。秋晴や 「アリクイさんぽ三時より」これが1位。もっともシンプルで、兼題にも忠実でした。子供と訪れた動物園の光景。中七の「さんぽ」が平仮名だからこそ成立しています。◇ミッツ・マングローブ。解熱剤効き秋晴の午後を知るこれはミッツらしいけだるさ(笑)。番組では、「熱が下がったときにはもう午後だった…残念」みたいなネガティヴな意味で読まれていましたが、わたしは、素直に、やっと秋晴れを体感できた喜びの句と読みました。◇篠田麻里子。山粧ふ 三年みとせタグ付き登山靴三たび山粧ふ タグ付き登山靴(添削後)内容的には十分に面白いし、「山粧ふ」(秋)と「登山靴」(夏)の季重なりも欠点ではない。いまや登山は一年中行われるのだし、こういう季重なりには、あまり縛られるべきではない。ちょっと惜しい出来でしたね。◇キスマイ北山。紅葉もみじ且つ散る袖高欄そでこうらんの一樹いちじゅ紅葉且つ散るに遅速の空青し(添削後)難解な語を使ってはいるけど、描写した場面そのものは、わりと平易です。袖高欄とは、橋や階段の入り口部分の欄干のこと。そこから見た大木が、紅葉してなおかつ散っている…という内容。むしろ、ややこしいのは添削のほうでしょ。はたして「紅葉」に遅速があるのか。それとも「散る」に遅速があるのか。そもそも遅速があるからこそ「紅葉且つ散る」なわけでしょ。つまり「紅葉且つ散るに遅速」ってのは意味の重複なのです。たとえば、紅葉こうようの散るに遅速の袖高欄とするなら分かるけど。◇中田喜子。数取器かずとりき始動 出水いずみに鶴来る鶴来る出水よ カウンター始動(添削後)鶴岡八幡宮から「鶴」のほうへ発想を飛ばしたって、そんな飛ばし方あります…?(笑)しかも「鶴来る」は晩秋の季語だし、ほとんど兼題と関係ないのでは?この句の最大の問題点は、後段の「出水に鶴来る」が、映像描写ではなく、たんなる前段の理由説明に見えてしまうことですね。実際、「数取器が始動したのは鶴が来たから」なのだろうし。かたや、添削のように前後を逆にしたところで、それこそ因果関係をなぞるのみで、二物衝撃にはならない。しかも「数取器」を「カウンター」に直してしまったら、これは「数える人」や「反撃攻勢」のような誤読にもなりかねない。なので、これはカットを分けたこと自体が間違いだというべき!もしワンカットにおさめるならば、鶴来る出水に数取器の鳴れりでしょうか。
2022.09.12
マネキンの坐骨デニムに入るる 錦秋のショーウィンドーに映る黙 星月夜ファーストピアスの重力 闊歩するトレンチコート風爽か 稲妻やタートルネック子に着せるプレバト俳句。金秋戦の予選です。お題は「ファッションの秋」。ファッションの俳句は難しいですね。出演者の話を聞いていて、とくに驚いたのは「ジャケット」が冬の季語だということ。つまり、春や秋の句にはこの語が使えない。ファッション用語をむやみに季語として確定してしまうと、かえって俳句の自由度を下げてしまう、という悪しき例ですね。この種の季重なりに対しては、なるべく寛容であるべきだと感じます。◇フジモン。マネキンの坐骨デニムに入るる秋場面そのものは面白いけど、はたして「秋」という季語が効いてるかどうか。実際、「春」に置き換えても成立するだろうし、いわゆる「季語が動く句」の典型のようにも思える。その点で、評価が分かれそうな気はします。なお、「坐骨」という語は漠然としたイメージで使ったのでしょうが、厳密にいうと、これは骨盤の内側にあって、マネキンの形状には何ら関係がなく、ましてジーンズの大きさとも無関係です。解剖学的な知識のある人にとっては、「デニムに坐骨を入れる」という表現が奇妙に思えるかも。◇春風亭昇吉。錦秋のショーウィンドーに映る黙もだ自然ではなく人工物に「錦秋」を見るという発想。ちょっと和モダンなデザインが思い浮かんだりして、なかなか斬新なファッション性を感じる描写です。そして、本来なら「秋思」とでも詠むべきネガティヴな場面で、あえて「錦秋」というポジティヴな季語を選んだ逆説性。つまり、最後の「黙」によって、錦秋の華やかさを否定的に浮かび上がらせた型破りです。タイトル戦にふさわしい高次元な出来だと思います。追記:じつは、わたし自身もすこし引っかかったのですが、人工物に「錦秋」を見ることに対しては、批判的な意見もありうると思う。とくに「錦秋」というのは、《まるで織物のように美しい秋》のことであり、この句では、ショウウィンドウに飾られているのも織物だから、結果として、《織物のような秋の織物》という無意味な比喩に思えなくはない。ちなみに、わたしは、鈴木光が「ギャロップのごと牧開」と詠んだときにも、《馬の走りのような馬の走り》という無意味な比喩じゃないの?と批判的に書きました。>>こちらですこの句の場合も、そこが評価の分かれ目になると思う。 ◇松岡充。星月夜 ファーストピアスの重力5・8・4の破調。若い少女の句に見えますね。初めて耳につけたピアスの重さとは裏腹に、星の輝きとピアスの華やかさが相俟って、重力のない宇宙へ舞い上がるような高揚した気分も見えます。そういう意味で面白い句だと思う。◇馬場典子。闊歩するトレンチコート 風爽さやか闊歩するトレンチ 風は爽かなり(添削後)一見して凡庸な句だなあという印象です。そして、「爽か(秋)」と「コート(冬)」の季重なりは、さすがに無理のある挑戦だったでしょうか。よくいえば、晩秋と初冬のはざまぐらいの季節感…ってことなのだけど。なお、ツイッターを見てみたら、添削句にかんして「塹壕(trench)を歩いてる戦場の場面に見える」との指摘がけっこうありました。◇犬山紙子。稲妻や タートルネック子に着せる稲妻の夜よや 一枚を子に着せて(添削後)やはり「タートルネック」はセーターに見えてしまいます。かといって「徳利下着」じゃあ古臭すぎた?なお、「稲妻」は秋の季語で、「セーター」は冬の季語。かたや「タートルネック」や「徳利襟」などは、ネットで調べるかぎり、季語とはされてないようです。
2022.09.06
NHKの完全保存版「絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」。※第3回のテーマ「恋」は短歌のみで、俳句はありませんでした。第4回のテーマは「女性とは」。女流俳人の作品をセレクトしていました。非常に印象的だったのは、切れのない一物仕立ての句が多いこと。つまり、取り合わせによって構成的に風景を組み立てる、…とかではなく、一つの対象に自分の心情を投影し、思ったまんまを書いている。しかも、だいぶ愚痴っぽかったりして、自分の心の呟きをそのまま詠んだような、俳句というよりは、むしろ川柳の味わいに近いものが多い。◇斯波園女。おほた子に髪なぶらるゝ暑さ哉(江戸時代)昔の人は、長い髪を結って、ほとんど髪も洗わずに、暑くても平気だったのかしら?…と思っていたけど、さすがに赤ん坊の唾液でベタベタになるのは耐えられないらしい(笑)嘆きというか、切実な愚痴ですよね。◇杉田久女。足袋つぐや ノラともならず教師妻(大正時代)これもほとんど愚痴。かろうじて「足袋」が冬の季語だけど、あわや川柳。中七を「ならぬ」ではなく「ならず(に)」としているところも、描写というよりは、なにやら吐き捨てるようなセリフ口調。…っていうか、「足袋」が冬の季語ってことは、みんな冬以外は裸足だったのねえ。離婚して、寄るべないノラ猫のようになるでもなく、かろうじて「教師の妻」の立場にしがみついている、…みたいな意味かと思いきや、イプセン「人形の家」の主人公ノラのように、家を出て自立することもなく、足袋を継ぎはぎしながらも、家庭人に甘んじている、という意味なのだそうです。そして、宇多喜代子はこの句が嫌いだそうです(笑)。◇三橋鷹女。夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり(昭和戦前)これも愚痴!それとも自嘲してるのかしら?一物仕立てというよりは、客観写生に背を向けるような、ほぼ主観だけの句。貧しさゆえなのか、体質なのかは分からないけど、一般的に、痩せてる人ほど好き嫌いが多いのよね。悪くいえば、ギスギスしてるのだけど、女性らしいふくよかさを感じさせないところが、当時としては、かえって新しい先鋭的な女性像だったのかもしれません。◇中村汀女。咳の子のなぞなぞあそびきりもなや(昭和戦前)ほのぼのと子供をあやしてはいるけれど、これもまあ、ちょっと愚痴?「きりもなし」ではなく「きりもなや」という言い方が出来るのですね。この「や」も切れ字だとは思うけど、やっぱり途方に暮れて、やや吐き捨てるような詠嘆。◇星野立子。囀さえずりをこぼさじと抱く大樹かな(昭和戦前)ようやく女性のひがみっぽさが消えました(笑)大きな枝をたくさん広げて、たくさんの鳥たちを腕に抱えている。堂々たる母性。ある意味、男らしいです。
2022.09.05
もの言わぬ従弟にサイダー渡す駅 色褪せしフリーペーパー秋浅し 「これください」訛り通じぬ秋さびし 夏の駅冷えた茶の露本濡らす 夏の果母のキャラメル旅行鞄 「箸鉄」を選ぶ子らの目鰯雲 涼風至る駅弁の木箱の香 キオスクの夕刊フジに秋茜プレバト俳句。お題は「駅の売店」。◇本上まなみ。もの言わぬ従弟にサイダー渡す駅これが今週の1位。本上まなみは出演回数を増やせば特待生になれますね。◇千原ジュニア。キオスクの夕刊フジに秋茜固有名詞を2つ入れるという俗っぽい手法。キヨスクでなく「キオスク」という表記に疑問をもったのですが、調べてみたら2種類あるらしい。2007年までは全国的に「キヨスク」だったものの、それ以降はJR東日本にかぎって「キオスク」になったそうです。西より東のほうが一足先に秋が来たって感じ?◇キスマイ千賀。涼風至る 駅弁の木箱の香千賀の場合は、句の内容が身の丈に合っていないから、つねにゴースト疑惑がつきまとうのだけど、この句の場合も、窓を開けて駅弁を買ってた一昔前の句と考えれば、そもそも「車内か車外か」という議論にもならないのですよね。昔の列車には窓から涼風が吹き込んでいたのだし。作品そのものは良いと思いますが、要するに、これも年配の人の句に見えてしまう。MBSは、ゴースト疑惑みたいなものをちゃんと払拭したり、不都合なサイトのGoogle八分みたいなことをやめなければ、いずれ深刻な形で墓穴を掘ることになると思います。◇新納慎也。「これください」 訛り通じぬ秋さびし訛り通じず 売店の秋さびし(添削後)読んだだけでは、場所も状況もよく見えない。しかも、方言が通じなくて標準語で求めたのかと思いきや、作者いわく「これください」のイントネーションが通じなかった、とのこと。…べつにイントネーションが通じなくても、意味が通じればよいのでは?いまひとつ分かりにくいエピソードでした。(^^;◇中田喜子。「箸鉄」を選ぶ子らの目 鰯雲鰯雲はるか 「箸鉄」選ぶ子ら(添削後a)鰯雲はろばろ 「箸鉄」選ぶ子ら(添削後b)一般名詞の「乗り鉄」や「撮り鉄」とは違って、この「ハシ鉄」というのは商品名のようです。その表記を漢字に直したわけでしょう。たしかに俳句の場合は、カタカナよりも漢字のほうがいいだろうし、そのほうが意味も明瞭になるのだろうけど、はたして商品名の表記まで変えてよいのかどうか。実際、「夕刊フジ」を「夕刊富士」とは書かないだろうし。季語の扱いについては、さほど悪くないと思ったけど、まあ、…難しいところです。◇小池美波。色褪せしフリーペーパー 秋浅しこれが2位でしたけど、季語の選択が適切だったかどうかはやや疑問。たとえば、「もう夏が終わってフリーペーパーも色褪せた」とか、「だいぶ秋が深まってフリーペーパーも色褪せた」というのなら、季語との関係が、(因果関係とまではいわずとも)順接的に響き合うはずですが、「まだ秋が浅く夏も残ってるのに、フリーペーパーは色褪せた」というのは、やや逆接的な印象になります。わたしなら「夏の果」や「秋深し」を選ぶだろうし、あえて季節の深浅をいわずとも、率直に「秋の駅」などでもよかったかなと思います。◇大久保佳代子。夏の果 母のキャラメル 旅行鞄あの夏の母よ キャラメル鞄に溶け(添削後)三段切れで、必要な助詞も不足しているために、「夏の終わりに/母からのキャラメルを握って/旅に出掛ける」という場面に見える。作者が意図したとおりの光景を描写するためには、7・7・5の語順に入れ替えて、旅行鞄に母のキャラメル 夏の果とするか、さもなくば、旅行鞄の母のキャラメル溶けし夏とすれば、わりとあっさり解決したのでは?◇おいでやす小田。夏の駅 冷えた茶の露本濡らす冷えた茶に濡らす台本 夏の駅(添削後)この句の季語は「夏」ですが、秋の季語「露」や「冷ゆ」も入っていてまぎらわしい。ちゃんと結露と書かなければ、「茶の露」は玉露や甘露のことだと誤解されかねないし、「露本」はロシアの本だと誤解されかねません。かたや、お茶は熱いのが普通だから、「冷えた茶」は「冷めた茶」と混同されやすく、この場合はむしろ「冷茶」と書いたほうが誤解が少ない。そして、歳時記に記載があるかは分からないけど、「冷えた茶/冷茶」はそれ自体が季語になりうる言葉です。ためしに「冷茶」を夏の季語と見なし、(列車や売店などの情報はいったん諦めて)台本に冷茶の結露したたれりと直してみました。…ところで、添削句のほうは「濡らす」という他動詞にも違和感がある。原句では主語が「(冷えた茶の)露」だったのだけど、添削句のほうでは使役形っぽくなっていて、主語が別にあります。原句: 露が台本を濡らす添削句:○○が台本を露に濡らすこの場合、誤まって「濡らしてしまった」と書かないかぎりは、意図的に濡らしたようにも見えるので、ちょっと読みを迷わせる。それを避けるためには、ふつうに自動詞で「濡れる」と書くべきです。
2022.08.30
アクセルを開くや鉄馬月に吠え 妻を待ち静かな月のサンルーフ 涼風に猫も招かれEXPASA 夢のあと打ち水跨ぎ追う背中 上腕たくまし蜻蛉の休憩す 蜩の駅にひぐらし辿り着く 炎天やドットの粗き標識車プレバト俳句。お題は「サービスエリア」。今回も不可解な句が多かった…(--;◇的場浩司。アクセルを開くや 鉄馬月に吠えこれが今週の1位。ちなみに「月」は秋の季語ですね。なにやらバイクを詠んだ句とのことですが…いやいや、 Iron Horseと言ったら機関車のことでしょ!…と思ったら、戦車の意味もあるらしい。そのほか「鉄馬」は色んな比喩になるらしくて、なかでも謎なのは風鈴!どうして風鈴のことを「鉄馬」と呼ぶのか、調べても分からなかった。(木馬みたいに揺れるから?)それはともかく、アクセルを「踏む」のは四輪で、アクセルを「開く」のは二輪なのだ、…という分かったような分からないような理屈。さらに、本来ならカットを割るべきじゃないところで「や」を用いたため、詠嘆というよりも「開くや否や」の意味に見えます。最後の「吠え」の連用形も、それっぽく余韻を残してみただけ。実際のところ、前段と後段は明らかな因果関係にあるのだから、カットを割らず、最後を終止形に直し、さらに「開く」などという変な動詞を排除すると、アクセルを握れば鉄馬月に吠ゆと書ける内容です。そうしてみると、案外つまらない句ですよね。要するに、「アクセルをふかしたらエンジンが唸った」というだけのことを、比喩と擬人化と連用形を用いて、いかにも俳句っぽく書いてみただけにすぎない。追記:あらためて考えてみたのですが、「や」を切れ字の詠嘆として捉えるのではなく、むしろ「開くや否や」の意味で解釈したほうが、(すなわち「カットが切れていない」と見なす)かえって、この句は評価できるのかもしれません。アクセルを開いて、エンジンにガソリンが流れ込むや否や、(実際は電気で発火するのだろうけど)鉄の馬が月にむかって吠えたのだ、と、オートバイのメカニズムに対する驚きを、微視的に描写した …ようにも見えてきます。◇とろサーモン村田。妻を待ち静かな月のサンルーフこれが今週の2位。まあ、才能アリでもいいと思うけど、なぜ「待つ」が連用形なのかは大いに疑問。後ろに用言があるのでも省略されてるのでもないなら、ふつうに「待つ」と連体形にすべきです。◇キスマイ宮田。涼風に猫も招かれEXPASA野良猫もいて涼風のEXPASA(添削後)中七「猫が招かれる」の擬人化も問題だけど、いちばんの問題は、夏の季語「涼風」がエアコンの冷風であること。本質的な季語の解釈としておかしいでしょ。かたや添削句の「涼風」は、屋外を吹く自然な涼風に見えるのですけど、だとすれば「野良猫」も屋外にいることになります。何故「いて」が連用形なのかも気になります。◇福原愛。夢のあと打ち水跨ぎ追う背中打水を跨ぎ売店へと走る(添削後)「打水」は夏の季語。作者いわく、車内で眠っていて、目が覚めて、車を出て、両親の背中を追って、打ち水を飛び越えてサービスエリアへ走った、…とのこと。これを無理やり17音におさめるなら、打水や サービスエリアへ寝覚めの子みたいな感じでしょうか。◇ミッツ・マングローブ上腕たくまし 蜻蛉とんぼの休憩すドライバーの上腕とんぼ来てとまる(添削後)「蜻蛉」は秋の季語。下五「休憩」の擬人化の問題もありますけれど、そもそも、なぜカットを割るのですか?たとえば、逞しき腕に蜻蛉の止まりたりでいいのでは?逞しい「腕」と、か弱い「蜻蛉」の対比にもなるし。一方、添削句の「来てとまる」は才能ナシだと思います。◇立川志らく。蜩ひぐらしの駅にひぐらし辿り着く蜩の駅 ひっそりとひぐらし来(添削後)「蜩」は秋の季語。なぜヒグラシが二度出てくるのかと言うと、聴覚的に捉えられた「ヒグラシの鳴き声」と、視覚的に捉えられた「一匹のヒグラシ」を区別したらしい。しかし、それ自体が読み手には伝わりづらい。とりあえずそれを描写するとしたら、蜩の鳴ける駅舎に一匹来く蜩の夕べ 駅舎には一匹とでも書くしかないと思う。◇フルポン村上。炎天や ドットの粗き標識車これはさすがでした。炎天のアスファルト。排気や騒音。車体やガスやカー用品のにおい。そして、「工事」だの「渋滞」だの「事故」だのと、芸のないビカビカした電光で表示する車。すなわち、ひたすら機能だけで成立している、繊細さや優しさや美しさとは無縁な世界。それを「ドットの粗さ」だけで想起させる名人芸。
2022.08.23
完全保存版「絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」。第2回のテーマは「人生の岐路」。今回も型破りな俳句が多く、とりわけ無季の句については、「川柳との違いは何か」を考えさせられました…。◇松尾芭蕉。荒海や 佐渡によこたふ天河あまのがわ(江戸時代)季語は「天の川」で秋。芭蕉らしからぬ雄々しい壮大さ。前段は視線が下にあるのに対して、後段は視線が上にあるというのだけど…どうしても「横たわる=寝る」のイメージがあるので、何故この動詞を使ったのか疑問にも思う。湖ならばともかく、荒海に星空が映るはずもないし…。天の川が佐渡ケ島を布団にしているように見えたとか?あるいは、自分が寝そべっていたせいで星空が「眼下」に見えたとか?もしかしたら「横たふ」という動詞は、たんに《水平に伸びる》というだけの意味で、かならずしも《床に寝る》という意味ではないのかも。◇正岡子規。糸瓜へちま咲て痰のつまりし仏かな(明治時代)思わずプッと笑ってしまう内容だけど、肺結核で死ぬ直前に詠まれたらしい。ものすごいユーモア。糸瓜は結核の薬だったそうで、「いまごろ咲いても間に合わない」という皮肉な恨み節ととれなくもありません。本来なら、季語は「糸瓜の花」で晩夏なのだけど、この句は秋に読まれたため、季語は「糸瓜」と見なすとのこと。しかし、そういう解釈はちょっとおかしい。つまり、晩夏に咲いていれば間に合ったのに、秋の「糸瓜の花」では遅すぎた、ということだろうと思います。季語の概念を逆手に取っているのでしょう。◇石田波郷。七夕竹たなばただけ 惜命しゃくみょうの文字隠れなし(昭和戦後)季語は「七夕竹」で初秋。これも肺結核がらみの句。竹の葉や短冊が重なる中に「惜命」の文字だけは隠れていなかった。…というより、そこだけがはっきり見えてしまった。ユーモアなのか、それとも抑えきれない切実な願いなのか。◇日野草城。見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く(昭和戦後)無季の句。こちらは緑内障による失明の句。自分の習性を笑ったユーモアのように見えるし、無季なだけに、川柳にも見えないことはない。しかし、ある種の哀れみを感じることも出来るし、人生の春夏秋冬でいえば「秋」の俳句なのでしょうか?◇林田紀音夫。鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ(昭和戦後)5・5・8の破調。無季の句。孤独への自嘲とも、あるいは侘しさともとれる。これも川柳にも見えないことはない。でも、人生の春夏秋冬でいうならば「冬」の俳句かな。◇久保田万太郎。湯豆腐や いのちのはてのうすあかり(昭和戦後)季語は「湯豆腐」で冬。一年の春夏秋冬においても、人生の春夏秋冬においても、まごうことなき冬の句。ーー人生関連の句はここまでです。◇永田耕衣。泥鰌どじょう浮いて鯰なまずも居るというて沈む(昭和戦後)6・7・6の破調。季語は「泥鰌」と「鯰」で、夏の季重なり。ドジョウが出てきて「こんにちは」と言うのかと思いきや、ぶしつけに「ナマズもいるぞ」と言って沈んでいったという、客観写生でもなければ心情表現でもない、まったくのフィクション。得体の知れない底なし沼を写生してると言えなくもないけど…もしかして柳川鍋ばかり食べる人間への恨み節?(作者は関西の人ですが)どうみても主役は「泥鰌」だと思うのだけど、一般に、この句の季語は「鯰」だとされているようです。…なぜ?◇波多野爽波。チューリップ花びら外れかけてをり(平成)季語は「チューリップ」で晩春。なんとなくフルポン村上的な作風ですよね。「落ちる」ではなく「外れる」という動詞の面白さ。チューリップが日本で栽培されはじめたのは大正以降だそうです。俳句そのものは平成になって詠まれたようですが、大正生まれの作者にとって、いまだ外来植物への物珍しさもあったでしょうか?
2022.08.22
できるかなの「のっぽさん」とか、リトル・リチャードの「のっぽのサリー」とか、ヘンリー・クレイ・ワークの「大きなのっぽの古時計」とかがありますが、この「のっぽ」という俗語は、もともと東京の言葉だったらしくて、夏目漱石の『三四郎』にも出てくるんですね。◇先日のNHKの「究極の短歌・俳句100選」に、によつぽりと秋の空なる不尽ふじの山という江戸中期の俳句が出てきたものだから、この「にょっぽり」は、一方では、井上ひさしの「ひょっこり」にも似てるけど、他方では「のっぽ」にも関係してるんじゃないかと思ったわけ。(ただし、俳句を詠んだ上島鬼貫は江戸じゃなくて伊丹~大坂の人です)ちなみに「にょっぽり」は、"平らな所から物がとび出る様子""抜きん出て高い様子"を意味する副詞で、同義のものとしては「にょっこり」や「にょっきり」などもあり、いずれも江戸時代に使われていたらしい。俳諧・鸚鵡集(1658)「花の真によつこりと出るや玉椿」俳諧・信徳十百韻(1675)「朝夕の嵐を送る松の坊 やぶれし甍峯にによつきり」俳諧・大悟物狂(1690)「によつぽりと秋の空なる不尽の山」浄瑠璃・本朝二十四孝(1766)「椽がはにまたによつほりと石燈籠」現在の日本語にも「にょきっと」のような形で残っていますね。◇井上ひさしも使った「ひょっこり」は、鎌倉初期に使われていた「ひょくり」からの転といわれていて、その「ひょくり」は鴨長明の『続無名抄』に出てくるのだそうです。これと似た意味の言葉として「ひょっと」という副詞もありますが、こちらは江戸の初期に生まれたものだそうです。つまり「ひょっと」よりも「ひょくりと」のほうが古いわけですね。平安時代には使われていた「ふと」という古い副詞から、江戸になって「ひょっと」という副詞が派生したとの説も見受けますが、むしろ「ひょくりと」から「ひょっと」が派生したと考えるほうが分かりやすい。もっとも、平安時代の「ふと」という言葉が、現在と同じように「huto」と発音されていたとはいえず、どちらかといえば「pyutto」みたいな発音だったのかもしれませんが。◇かたや「のっぽ」の語源を調べてみたところ、なにやら韓国語由来だなんて学説もあるのだけど、…まあ、ふつうなら、「とんぼ(飛ん棒)」や「あめんぼ(雨ん棒/飴ん棒)」と同じように、あるいは、「赤ん坊」や「暴れん坊」や「食いしん坊」などと同じように、「伸っ棒/伸っ坊」だと考えるのが自然です。そこから派生して、「のっぽり」だとか「にょっぽり」のような擬態語が出てきたとしても、それほど不自然ではない。…ただし、「のっぽ」が近代の東京で生まれた俗語だとすれば、発生の順序が逆なので、この説は成り立ちません。実際、「のっぺり」や「のっぺらぼう」などの言葉は、すでに江戸時代には存在したようなのですが、「のっぽ」の用例が江戸に遡るという情報は見当たらない。「ひょっと」より「ひょくりと」のほうが古いのと同じで、「のっぽ」よりも「のっぺり」や「にょっぽり」のほうが古いのかも。いずれにしろ語源俗解の域を出ませんが!◇ついでながら、まったくの余談ですけど…東京の「日暮里」(にっぽり)の語源は、新しい開拓地を意味する「新堀」(にいぼり)だそうです (^^)
2022.08.16
次こそはと捲る浴衣にはぜる水 琉金の絵はがき二枚かき氷 夏祭り金魚に心すくわれて 秋ちかし予期せぬ家族赤い君 私のいない部屋長生きの金魚 浄水場の金魚懐メロのサビ 金魚鉢金魚のいなくなる屈折プレバト俳句。お題は「金魚すくい」。今回は理解不能な句が多かった!!わたしの頭が悪いだけ??◇犬山紙子。私のいない部屋 長生きの金魚唯一、理解できたのはこの句だけ!…ただし、作者自身は「別れた恋人の部屋の金魚」を描いたらしいのですが、わたしは「長期出張中でも元気に生きている自室の金魚」かと思いました。あるいは、重い病気で「長期入院中」とも読めます。前後を逆にして、長生きの金魚 私のいない部屋とすれば(句またがりながら)定型のリズムになるし、冒頭を「わたくし」と読むか「わたし」と読むかも迷わずに済むのだけど、あえて破調にしたのは、たぶん「金魚だけが残っている」という余韻を狙ったのでしょうね。いつもながらモノローグ的な作風です。◇植田紫帆。次こそはと捲まくる浴衣にはぜる水これが今週の1位でした。…しかし、はたして字面だけで「金魚すくい」だと分かるんでしょうか??わたしには、水溜まりをジャンプしようと裾まくりをしてるようにも見えるし、腕まくりをして石切りなどの川遊びをしてるようにも見えるし、腕相撲に興じる人物へ横から水鉄砲を浴びせたようにも見えます。金魚じゃなく、水風船を釣っているのかもしれない。そういう「誤読込み」での高評価なら容認できますが。◇キスマイ横尾。浄水場の金魚 懐メロのサビこれも1ランク昇格でしたが、やはり読んだだけでは理解しがたい内容。作者によれば、「浄水場の金魚」が《水の安全性》の描写、「懐メロのサビ」が《平和》の描写だというのですが、読んだだけではどちらの意図も理解できないし、その観念どうしを取り合わせる効果もまったく伝わらない。たしかにネットで調べれば、「浄水場の金魚」が《金魚を犠牲にした水の安全性》を意味するのだと理解は出来ます。映像を思い浮かべるのも困難だけど、つまり《浄水場に有線放送が流れてた》みたいな解釈でいいんでしょうか?◇フジモン。金魚鉢 金魚のいなくなる屈折これも1ランク昇格でしたが、やっぱり字面だけでは理解しがたい。この「屈折」とは、はたして心の屈折なのか?光の屈折なのか?わたしはてっきり金魚が死んだのかと勘違いして、つい「フジモンらしからぬ句だなー」と思ってしまいました。あえて2カットに分けてるのも解せないし、なぜ「金魚」の語を反復させてるのかも分かりません。わたしが思うに、鉢の屈折に消え出る金魚かなとか、屈折に魚影が消ゆる金魚鉢とでも書かなければ伝わらない内容じゃないかしら?◇望月理恵。秋ちかし 予期せぬ家族 赤い君あっさりと家族となりぬ 出目金魚(添削後)これもまったく理解不能。横尾が言ったとおり「ホラー」に見えます(笑)。三段切れなのも欠点ですね。ちなみに添削は中七で切れています。(連体形ではなく終止形なので)倒置法だと解釈すれば容認はできますが、これはたぶん先生のミスだろうと思います。◇石塚英彦。夏祭り 金魚に心すくわれて生き難き時代 金魚はいきいきと(添削後)「夏祭り」と「金魚」の季重なり。内容はまあ理解できますが、「掬う」と「救う」のダジャレ、「金魚が心を救う」という擬人化&心情表現、などに溺れた結果、映像の客観性に乏しい。◇鈴木絢音。琉金の絵はがき二枚 かき氷絵はがきを買う 琉金とかき氷(添削後)これも「琉金」と「かき氷」の季重なり。なぜ「琉金の絵葉書」が2枚なのか?同じ絵柄の葉書が偶然2枚届くことはないだろうから、これから2人の誰かに葉書を出すのだろうな…幼い兄弟(or姉妹)がお揃いの葉書を買ってきたのかな…などと解釈しました。しかし!!作者いわく、「琉金の葉書2枚と、かき氷の葉書1枚(合計3枚)を買った」とのこと!この不可解な説明のせいで、まれにみる大幅減点を喰らったものの、字面だけ見ると、なぜか悪くない句なのですよね(笑)。まぐれ当たりにもほどがあります。なお、先生のこの添削はだいぶデタラメ(投げやり?)だと思います…。
2022.08.15
今年の3月にBSプレミアムで放送された、完全保存版「絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」。Eテレでは現在、テーマ別に再構成した「ベストセレクション」が放送中です。全6回のシリーズ。初回のテーマは「時代と戦争」。ほとんどすべてが型破りな句でした。NHKプラスで8/17(水) 午後10:59 まで配信。出演:風間俊介、ヤマザキマリ選者:岸本尚毅、宇多喜代子、復本一郎ナレーター:梶裕貴、茅野愛衣◇中村草田男。降る雪や 明治は遠くなりにけり(昭和戦前)切れ字「や」と「けり」を重複させている。もとをただせば、獺祭忌だっさいき 明治は遠くなりにけりという素人作品の剽窃ではないかと疑われており、一種の戯句ざれくとも評されてるようです。つまり、中七・下五のフレーズは、一種のパロディというか、出来合いのコピーライトみたいなものであって、そこに中村が「降る雪や」を取り合わせたようにも思える。だとすると、二つ目の「けり」の切れ字は相対的に弱いのかもしれません。ちなみに選者の岸本尚毅は、「徹底的にポピュラリティを追求したのかな」と話していましたが、たしかに素人の原句以上に通俗的なのですね。◇渡邊白泉。戦争が廊下の奥に立つてゐた(昭和戦前)無季の句。非常に不気味なのですが、いわゆる客観写生とは対極にあるような、比喩的で観念的なイメージです。ある種の幻視体験とか予知体験のようにも思えます。◇松尾あつゆき。すべなし 地に置けば子にむらがる蝿(昭和戦後)破調句。風間俊介も話していましたが、冒頭を「すべもなし」と5音にするのではなく、あえて4音にすることで、読み手を突き放すようです。絶句するしかありません。◇金子兜太。彎曲し火傷し爆心地のマラソン(昭和戦後)無季の句。5・4・6・4の破調。これも客観写生ではなく、作者の幻視なのですね。一種のフラッシュバックなのかもしれませんが、広島・長崎の句には、そのようなものが多い気がします。岸本尚毅は、「実景は爆心地のみ。それ以外はすべて暗喩」との説を述べました。やはり比喩的で観念的なイメージなのでしょう。幻視といえば、「兵どもが夢の跡」とか「夢は枯野をかけ廻る」…などの芭蕉句も思い出されます。ーー戦争関連の句はここまでです。◇上島鬼貫。によつぽりと秋の空なる不尽ふじの山(江戸時代)冒頭の変なオノマトペ。江戸っ子らしい人を喰ったような俳諧味。中七の「~なる」は「~にある」の意味ですね。「富士」や「不二」でなく「不尽」としたところにも、秋空の高さを軽く凌ぐような「にょっぽり感」が出ています。≫追記:これとあわせて「のっぽ」の語源 についても書きました。◇河東碧梧桐。赤い椿白い椿と落ちにけり(明治時代)6・7・5の破調で、動画的な場面を綴っています。まずは赤、つぎに白、…と落ちて、最後の「けり」は《詠嘆》ともいえるけど、「に+けり」の形から考えても、落ちてしまった…、という《完了》の意味合いが強い。動画のエンディングで沈黙しているような余韻。◇阿部完市。木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど(昭和戦後)5・8・6の変な破調。これも実景ではなく、「アフリカでも眺めた気分になっている」という主観の句。あるいは「ごっこ遊びをしているときの台詞」かもしれない。戦前から戦後にかけて、「のらくろ」とか「冒険ダン吉」とか「少年ケニア」とか、南洋やアフリカを探検するような漫画がたくさん流行ったし、現在では差別表現と言われてしまうけど、当時はアフリカの黒人を「くろんぼ」などと呼んだりして、60年代になると、腕にダッコちゃん人形をつけるファッションも流行りました。※わたしが生まれる前の話です!テレビもなかった時代だとすると、見知らぬ「異世界」への憧れや好奇心をもって、子供も、大人も、いろんな《ごっこ遊び》をしていたんでしょう。めいっぱいに原色的な想像力をはたらかせていたのでしょうね。これを日本の帝国主義時代の「外地」のイメージの残響と考えれば、まったく戦争と無関係な句だとも言いきれません。追記:1974年の句集(にもつは絵馬)に収められた作品らしいので、むしろ《テレビ時代の俳句》というべきですね。
2022.08.14
夏の空シャチの耳骨に響く笛 炎天や最前列のイルカショー さらば夏イルカも君も泡と消え 黄金色はずむ岬に秋近し 旱星水槽のグッピー揺れる 油照りナポレオンフィッシュの旦那 吠えたけるアシカのミリア夏の雲プレバト俳句。お題は「水族館」。◇アインシュタイン河井。夏の空 シャチの耳骨に響く笛夏空や シャチの耳骨に響く笛(添削後)うまく言えないけど、湿気のない「カーン!」とした夏の空気感がありますね。音を伝導する夏の空気そのものを詠んだような句。◇フルポン村上。吠えたけるアシカのミリア 夏の雲これも、うまく言えないけど、生命力が内側にこもらず、夏の空へ「カーン!」と抜けていくような感じ。◇ゆうちゃみ。炎天や 最前列のイルカショーシンプルな構成が上手くいきました。ショーの臨場感のなかへ没入している間の、盛夏らしい熱気、そして興奮。◇キスマイ千賀。旱星ひでりぼし 水槽のグッピー揺れる上の3句はカラッとした夏の句でしたが、こちらは、あまりに乾ききってしまった不穏な夏。わたしは動詞「揺れる」の是非かなと思いました。ゆらゆら泳ぐことを「揺れる」とは言わないだろうし、これは、描写というよりむしろ、「旱星の下で作者の気持ちが揺れている」…という主観的な印象を表現しているように見えます。◇立川志らく。油照り ナポレオンフィッシュの旦那我が汗の鼻先にナポレオンフィッシュ(添削後)こちらは一転して、ギトギトした蒸し暑さ。わたしは、この「油照り」という季語を知らなかったので、てっきり顔面の描写かと思いました(笑)。あるいは料理方法とか?実際には「風が無く汗ばむような日和」のことだそうです。読んだ瞬間、「ナポレオンフィッシュのような旦那」 (脂ぎったナポレオンフィッシュみたいな顔の夫)のことかと思ったわけですが、作者の話を聞くと、逆に、「旦那のようなナポレオンフィッシュ」 (金持ち旦那みたいな表情のナポレオンフィッシュ)のことだそうです。しかし、この直喩では誤読するなといわれても無理。◇武田真治。黄金色はずむ岬に秋近し秋近き美国黄金岬びくにおうごんみさきにて(添削後)これはほとんど秋ですね。黄金色の魚が海に跳ねているのかと思いました。それならそれで成立しそうな気もするけど、内容的に、豊漁の秋の句って感じです。◇平野ノラ。さらば夏 イルカも君も泡と消えさらば夏の恋よイルカよ 泡と消ゆ(添削後)全体に比喩的で映像が乏しい。80年代の歌謡曲の世界?山下達郎に感化されすぎ?バブル経済とともに終わっちゃったって話?なお、歳時記によって違いはあるものの、「金魚/鯉/熱帯魚」や「クラゲ/エイ」は夏の季語、「アザラシ」は春、「クジラ/サメ/イルカ」は冬の季語らしいのですが、これを厳密にやると観賞用生物の俳句が詠みにくいし、そこらへんは不問にしていくしかないのだと思います。
2022.08.01
メール産声送信ドバイは大夕焼 恋を終わらせ平日の海月見る メールぴこんぴこんシャワー中だってば 羽蟻わく今宵ロマンス詐欺メール アルパカを返す手配り雲の峰 白雨受くネットショップの段ボール 緋ダリアや「メール不達」のメール来る 社食から花火原稿音読す 月見草文箱の底に出さぬ文 夏の雲逝くな逝くなと文字叩く 夕涼の竹富未読メール百 晩涼のRe:Re:Re:セットリストの見せ場 故人との弾みしメール夜の秋 真夏来てサブスクのtrf 風鈴鳴る千の躊躇を弔ってプレバト俳句。お題は「メール」。今回は女性が上位を独占しました。水彩画などのアート系査定では、もともと女性が男性を上回ってましたが、俳句査定では、以前は男性ばかりが上位を占めていた。しかし、最近は、女性の特待生もだんだん増えてきて、ついに今回は女性陣が男性を圧倒した形です。そういえば芥川賞も直木賞も女性だらけ!◇順不同で、2位の犬山紙子から。恋を終わらせ平日の海月くらげ見る唯一の映像であるはずの「平日の海月」が、ある種の心情描写になっていて、最後の「見る」が主人公を浮かび上がらせる。2つの動詞「終わらせ」「見る」を重ねていますが、前回の、喪服着てメロンソーダの列に居るにおける「着て」「居る」と同じ構造で、動詞の使い方が、描写というよりモノローグ的なのですよね。◇1位の中田喜子。産声送信 ドバイは大夕焼おめでたい!景気がいい!そして壮大なスケール感!これは「ドバイ」という地名の勝利でもある。◇11位のかたせ梨乃。夕涼の竹富 未読メール百これも「ドバイ」と同様に、場所の具体性が功を奏してると思います。都会の喧騒から切り離された、ゆったりした時間の流れがおのずと対比される。◇3位の森口瑤子。メールぴこんぴこん シャワー中だってば本人はネガティブな意図で詠んだらしいけれど、ミッツが言うように、ちょっと嬉しそうですよね(笑)。よくもわるくも森口瑤子らしくなくて、なんだかアニメ声優みたいな俳句だなと思いました。◇以下も順不同で。安藤和津。白雨はくう受くネットショップの段ボール玄関先の「人気ひとけの無さ」にこそ詩情を感じます。段ボールが白雨を「受く」という動詞は擬人化した用法だけど、これも無人の状況のなかで功を奏してると思います。◇キスマイ千賀。緋ダリアや 「メール不達」のメール来るダリアは緋 「メール不達」のメール来る(添削後)原句は良く出来ている。かたや、「ダリアは緋」とする添削の論理はちょっと難しくて、これには賛否両論があるんじゃでしょうか。客観写生というよりも、ダリアへの「意味づけ」があまりに強調されすぎなのでは?◇勝村政信。夏の雲 逝くな逝くなと文字叩く夏雲や 逝くな逝くなと文字叩く(添削後)わたしも先生と同様に、かなり痛切な衝迫を詠んだ句かと思ったのだけど、本人の説明を聞くと、意外にそうでもなくて、「参列者たちのメールを打つ様子がそのように見えた」という作者のファンタジーだったのですね。◇梅沢富美男。月見草 文箱ふばこの底に出さぬ文悪くないと思ったけど、凡と言われてしまった…(笑)。ちなみに「ふばこ」という読み方をはじめて知りました。◇ミッツ・マングローブ。真夏来てサブスクのtrf先生からは「奥行きに乏しい」との評。たしかに薄っぺらいとも言えるし、いつものミッツらしい妖艶さは足りなかったですね。たぶん、本人的には、夏の歌謡曲にもじゅうぶん色気を感じてるのだろうけど(笑)。◇5位のフジモン。アルパカを返す手配り 雲の峰そもそも、「アルパカを返す」という状況が一般的ではないので、何のことを描いてるのか、まったく分かりませんでした。しかも、「手配てはい」ではなく「手配り」としたことで、手で何か配ってるのかな?と誤読してしまう。テレビやイベントなどの業界で働く人でなければ、ちょっと分からない言い回しじゃないでしょうか?かりに、「アルパカを返す手配や」とか、「アルパカの返却手配」なら、だいぶ誤読は少ないかもしれません。◇久代萌美。社食から花火 原稿音読す原稿を下読み 社食から花火(添削後)一瞬、「花火原稿」と誤読してしまいました。花火大会に行けない人のもとへ、花火の様子を伝える原稿が届いたのかな、と。説明を聞かないと、何の原稿なのかも分からないのですよね。添削句では、そういう読みの迷いや誤読の余地はなくなっています。◇4位の東国原英夫。羽蟻わく今宵 ロマンス詐欺メール切れがどこにあるのか迷いました。強いていえば、それが欠点かなと思う。「羽蟻わく / 今宵ロマンス詐欺メール」だと、古びた家屋と、なにやら「コンフィデンスマンJP」みたいな状況が、ちょっと不釣り合いになるけれど、「羽蟻わく今宵 / ロマンス詐欺メール」だと、2種類の《望まない害悪》が同等に響き合って、「古びた家屋」と「ロマンス詐欺」という不釣り合いが、かえって風刺や哀れみや滑稽味を生むのですね。◇キスマイ横尾。晩涼のRe:Re:Re: セットリストの見せ場本人いわく、「Re:」はメンバー同士のメールのやり取りとのことらしい。わたしは、てっきり歌詞のリフレイン(繰り返し)のことかと思いました。ライブが盛り上がって、リフレインが止まらないのかと。そもそも、読んだだけでは、ソロ歌手なのかグループなのかも判断できないわけですし。これも、ちょっと分かりにくいです。◇千原ジュニア。故人との弾みしメール 夜の秋中七「弾みし」の是非かなあ…。弾んでいたのはすでに過去のことだから、この動詞の躍動感が浮いてしまっている気がする。ちなみに「夜の秋」という夏の季語ははじめて知りました。◇最下位のフルポン村上。風鈴鳴る 千の躊躇を弔って秋川雅史の「千の風になって」のパロディに見えるけど、実際は、死者とは何の関係もなくて、「躊躇を弔う(=送信しなかった文言を消す)」という比喩であり、しかも「弔うのは風鈴である」という擬人化。詩情には優れてると思うけど、ちょっと分かりにくいです。
2022.07.24
髪結待つ客へ氷菓を出す母よ 在りし夏選ばなかったフレイバー 稽古後のピノは星形星涼し 風呂上がり火照るばあばとアイスの実 座席五度倒しアイスの蓋剥がす 青い氷菓を海に翳す放課後 ディッシャーを持って無敵な素足の子プレバト俳句。お題は「アイス売り場」。ちなみに、「アイスクリーム」と「氷菓」は一般に別物だと思うけど、俳句の世界では、後者が前者の訳語として使われるようです。両者を同義で用いるのは違和感もありますが、その場合の「氷菓」とは「氷の菓子」ではなく、いわば「凍ったミルク菓子」みたいな意味なのでしょうか?◇皆藤愛子。座席五度倒しアイスの蓋剥がす今週はこれがいちばん良かった。2つの動詞を連ねた動画的な描写。ゆっくりした動きと、主人公の表情が見えます。ささやかな自分だけの時間と空間ですよね。◇IKKO。髪結待つ客へ氷菓を出す母よ氷菓出す母よ 髪結待つ客へ(添削後)前回の「ケーキの苺」の句に続いて、生活感とリアリティのある内容。なかなか安定した才能を見せている。添削は、上六の字余りを解消する意味はあるだろうけど、倒置にする効果はそれほど感じられない。字余りについては、わざわざ「待つ」と書かなくても、髪結の客へ氷菓を出す母よで十分だろうと思うし、いっそ「母」という凡人ワードも除いて、髪結の客へ差し出す氷菓子としただけでも十分に情景は成立すると思う。◇伊集院光。在りし夏 選ばなかったフレイバーあの夏の選ばなかったフレイバー(添削後)この句の高評価はちょっと意外…。全体的に映像喚起力が弱いと思います。そもそも「フレイバー」と言っただけで、アイスクリームのことだと理解できるのかが微妙。おそらく紅茶のことだと考える人が多いだろうし、料理人なら、さらに多義的な解釈をするだろうと思う。ちなみに「フレイバーを選ぶ」とGoogleで検索すると、圧倒的に紅茶の情報のほうが多く出てきます。まあ、添削句のほうは、キャッチコピー的な意味でオシャレかもしれませんが…(笑)。◇酒井藍。稽古後のピノは星形 星涼し星形のピノ 稽古後の星涼し(添削後)てっきり「稽古後のピノ」って、ピナ・バウシュの愛称か何かかと思いましたが、同じ固有名でも、アイスの商品名なのよね。人名やアイスだけでなく、自動車とか、ロボットとか、アニメキャラとか、いろいろ誤読の危険性が多い固有名だと思います。型としては出来ているけれど、「星型」と「星」との取り合わせも面白味が薄いし、せいぜい、中の上ぐらいの句でしょうか。◇高城れに。風呂上がり 火照るばあばとアイスの実風呂上がり ばあばと私とアイスの実(添削後a)風呂上がり ばあばとれにとアイスの実(添削後b)型としてはしっかりまとまっていて、中七の「火照る」以外はとくに直すべき点も無いし、最下位とはいえ50点台は取れてるし、通常回なら2位か3位くらいの凡人句なのでしょうが…やっぱりねえ…これも商品名が引っ掛かる。てっきり「アイス」と呼ばれる植物があるのかなと思ってしまう。さらに添削後bは、「れに」と「アイスの実」って、さすがに固有名を2つも入れたら意味不明でしょ。…すでに一般名詞と化している商品名を、 "季語相当" と見なすのも悪くはないと思うけど、句の主役を商品にするわけでもあるし、たんなるCMコピーみたいになりかねません。そして、今回の「ピノ」とか「アイスの実」ってのは、かりに読み手がジジババじゃなくても、いろいろと誤読の可能性が高いかなと懸念します。◇キスマイ千賀。青い氷菓を海に翳す放課後なにやら嘘っぽくて作為的で嫌いな句だけれど!(笑)まあ、出来としてはとくに異論もありません。◇フルポン村上。ディッシャーを持って無敵な素足の子ディッシャーを手に無敵なる日焼の子(添削後)中七の「持って」は説明臭いので「手に」が正解ですね。家の中で裸足なのか、店内でサンダル履きなのか、…みたいな解釈論争については、正直なところどっちでもいいし、原句の「素足」のままでもいいような気はするけど、たしかに「日焼」のほうが「無敵」と釣り合いがいい、という先生の理屈も、まあ分かります。いずれにせよ、傑出した内容とは思えないのでボツで異論なし!比喩的表現としての「無敵」も、近ごろはいろいろと誤解されかねない語彙になってるし、なかなか積極的な評価がしにくい。
2022.07.18
屑かごにある七夕竹の死骸 またござれ七夕さんの人の和よ 病室の七夕竹に一礼すプレバト俳句。お題は「七夕」。今回は名人のみの査定でした。◇森口瑤子。屑かごにある七夕竹の死骸屑かごにある七夕かざり乾きをり(添削後)え??なぜ添削は字余りなの?上五は「屑かごの」でいいと思いますが?あえて「ある」と「をり」を重ねる意図が分からない。わたしは最初、屑かごに七夕竹の死骸ありに直せばいいかと思いましたが、中七下五の「死骸」という比喩を用いた大仰な描写についても、添削のように直したほうがいいでしょうね。◇中田喜子。またござれ 七夕さんの人の和よまたござれ 七夕さんのこの町へ(添削後a)またござれ 七夕さんのみちのくへ(添削後b)上五・中七は、地元の言葉を用いていて、人々の会話が見えます。しかし、下五でとたんに観念的になった感じ。かたや、添削の「○○へ」ってのも、親しみのある人々への視線から、いきなり俯瞰になって、なにやら第三者的な視点になってるように思える。もうすこし親しみのある映像にしたいので、やや比喩的ですが、またござれ 七夕さんの町懐ゆかしとしてみました。◇千原ジュニア。病室の七夕竹に一礼す先生は、「病院・病棟」ではなく「病室」と書いた点や、「一礼」した人物を読み手に想像させた点を評価しました。しかし、むしろわたしが気になるのは、「そこに病人がいるのかいないのか」という点です。すでに患者は死亡していて、虚しく短冊だけが残っているように見えるのです。はたして作者は、そのような誤読を望むでしょうか?その意味で、やはり「人」の描写こそ必要だと思う。「病室」だけの描写は無味乾燥で、ともすれば冷たすぎます。かりに「病床の」とすれば、その冷たさはだいぶ緩和されるはずです。
2022.07.13
万緑や多様性なる人の色 梅雨寒しロケの暇に鯛の汁 梅雨曇早朝ロケのカップ麺 焼きそばを啜る孤独な祭り笛 喪服着てメロンソーダの列に居る 雲の峰 ぱんっと乾いたピザの薪 祭果て開くや風の通り道プレバト俳句。お題は「キッチンカー」。◇篠田麻里子。万緑や 多様性なる人の色万緑や 百の国旗の色いくつ(添削後)まずは「多様性なる」という言い方が間違いですよね。たんに「多様なる」と書けばいいわけだから。もし、どうしても「多様性」という語を使いたいのなら、ふつうに「多様性(の)ある」と書くしかありません。さらに、内容的には、「万緑」と「多様な色」の二句一章なのですが、この取り合わせは、はたして「単色」と「多色」の対比(コントラスト)なのか?それとも「万」と「多」の類比(アナロジー)なのか?その意図もどっちつかずです。ちなみに、添削のほうは類比になってると思います。観念的な表現に挑んだ結果がかえって仇になりました。◇小手伸也。梅雨寒し ロケの暇いとまに鯛の汁梅雨寒し ロケの暇の鯛の汁(添削後)助詞の「に」が時間の説明になってるので、これを描写的に書くなら「の」とするのが正解ですね。◇キスマイ二階堂。梅雨曇 早朝ロケのカップ麺梅雨冷や 早朝ロケのカップ麺(添削後)小手伸也と似たような句。セオリーどおりに書けています。すでに世間は猛暑だというのに、どちらも寒さのなかで暖をとってるみたいな句でしたが…(^^;◇三四郎・小宮。焼きそばを啜すする孤独な祭り笛焼きそばを啜る祭りの夜よを一人(添削後)孤独なのは「主人公」なのか?「笛吹き」なのか?そこに誤読の可能性があります。作者自身が言ったように、焼きそばを啜る孤独な夏祭りと書けば、そういう誤読はなかったし、かりに「祭り笛」を使うとしても、焼きそばを啜る孤独や 祭り笛と、二句一章にすれば誤読の余地はありませんでした。ただし、「孤独」という語は実景じゃなく心象というべきなので、あまり俳句にはふさわしくないし、事実、添削句ではこれを排除しています。とはいえ、先生の添削は語順が変ですし、(「啜る」の主体と「一人」の人物は同じなのに、何故わざわざ切り離すの?)ワンフレーズに「を」を二度使ってるのも気に入らない。(「カエルを食べる鳥を食べる猫」みたいに目的語が入れ子状態になってる)一般的な語順なら、焼きそばを独り啜れる祭りの夜のように書くのが妥当じゃないでしょうか。※「啜れる」は《啜る+存続の助動詞「り」》の連体形です。そのうえで、原句の「祭り笛」を活かすなら、焼きそばを独り啜れば祭り笛とすることも出来るし、焼きそばを独り啜るや 祭り笛のように二句一章にも出来ます。◇犬山紙子。喪服着てメロンソーダの列に居るこれは「着て」「居る」という動詞の是非。本来の客観写生なら、こうした動詞は必要なく、メロンソーダの列に喪服の女のように名詞だけで成立するはずですが、この句では、あえて動詞を使ったことで、「客観写生」ではなく「作者の内言(心の台詞)」なのだと分かります。これも、ひとつの技法だろうと思う。内容もさることながら、文体の面でも功を奏して75点という高得点でした。◇フジモン。雲の峰 ぱんっと乾いたピザの薪厳密にいうなら、乾いているのは「ピザ」なのか?「薪」なのか?…という誤読の可能性がないとは言いきれないし、そもそも「ピザの薪」という言い方がやや唐突なので、地名の「ピサ」などと混同する人もいるかもしれません。けれど、それを差し置いても、あえて中八にしてまで、「ぱんっ」という予想外の擬態語を強調して、冬の薪ならぬ夏の薪という変わり種の素材を描写した独創性が、積極的に評価されたのだろうと思います。下手するとボツかなと思ったので、2ランクの昇格はちょっと驚きでしたが…。◇梅沢富美男。祭果て開くや 風の通り道二句一章に見えますが、実際は「祭果て風の通り道開く」を倒置したものなので、内容的にいえばワンカットの句です。議論になるとすれば、「果つ」「開く」「通る」と動詞が3つ並んでいて、しかも「開く」と「通る」に重複の疑いがある点でしょう。実際、「風が通る」といえば「道開く」は不要じゃないか?「風の道開く」といえば「通る」は不要じゃないか?そういう意見はありえると思います。ただし、あえて「通り道」と言わなければ、縁日の参道のイメージが見えにくいのは確かだし、さらに「開く」という動詞を使ったのは、たんに「道が開ひらく」という意味だけでなく、人混みが消えて「空間が空あく/開ひらける」みたいな含意とか、あるいは「人の祭り」が閉じて「風の祭り」が開く、…みたいな比喩的な対比があったからかもしれません。なお、「祭り」は夏の季語ですが、祈願の「春祭り」、感謝の「秋祭り」に対して、夏の「祭り」には悪疫退散の意味があるとのこと。いわばお祓い、浄化なのですね。…まあ、それでも、わたしなら、やはり動詞をひとつ減らして、祭果てふたたび風の通り道とするか、あるいは「閉ず」と「開あく」の対比で、祭閉じふたたび風の道の開くのようにしたいです。
2022.07.03
夏いよよサンドバッグは歪みけり 延長の末に引き分け夏の月 バーディで上がるホールや青葉木菟プレバト俳句。お題は「ガッツポーズ」。今回は名人3人のみ。いろいろ難解な要素をはらんでいて、どう評価すべきか悩まされました。◇千原ジュニア。夏いよよ サンドバッグは歪みけりセオリー通りの型なので、切れ字の「けり」は何の問題もありません。他方、助詞の「は」は、通常ならば「の」にとどめるべきですが、まあ、この場合は、あえて「は」を用いて、サンドバッグの異様さを際立たせるのが正解かもしれません。どちらかというと、俳句よりも、 ↓冗談ポパイのほうれん草 ↓あっさり村上チンゲン菜 ↓冗談富美男の空心菜の七五調のほうがお見事でしたが(笑)◇フルポン村上。延長の末に引き分け 夏の月ボツでした。原句も、試合の《熱狂》と試合後の《涼しさ》が対比されてるので、その意味では、ちゃんと詩情が季語に乗っています。しかし、先生は、観戦した人物の心情まで季語に託せ、とのダメ出し。すなわち、「負けずに済んだ」という安堵ならば、延長の末に引き分け 月涼し(添削後a)のようにすべきだし、「勝てなかった」という悔しさならば、延長は引き分け 夏の月赤し(添削後b)のようにすべきだというわけです。…たしかに、原句は、中七の「末に」という一語に、熱戦にのめりこんだ心情が乗ってると思うのだけど、季語のほうが淡白にすぎて、その心情に釣り合わない気もします。しかしながら、かりに、どちらのチームを応援するでもなく、第三者的な立場で観戦していたのならば、引き分けた両者の奮闘を褒め称えるような心情でしょうから、原句のように、月の涼やかさや清々しさを描写すれば十分だとも思う。なので、わたしなら、原句のままで掲載決定にします。…なお、(添削後b)にかんしては、本来なら「延長 戦 が引き分け」と書くのが正確であり、省略とはいえ「延長が引き分け」ってのは、ちょっと雑です。この「延長」という主語に、助詞の「は」を使ったことで、「延長は(勝負が)引き分け」という提示語に見えなくもないのだけど、(いわゆる「象は鼻が長い」的な用法)…まあ、それはさすがに考えすぎでしょう。むしろ、「延長するも勝負は引き分け」という意味で、「延長も引き分け」と書くほうが文法的には許容しやすい。◇梅沢富美男。バーディで上がるホールや 青葉木菟あおばずくバーディで上がる青葉木菟のホール(添削後)これもボツ。バーディで上がったことを詠嘆するのは幼稚にはしゃいでるのに等しい、とのダメ出しです。とはいえ、添削句のほうも、なんだかパッとしません…。助詞の「で」が説明くさいってのもあるけど、(「バーディという結果をもって上がった」という意味なので、手段の助詞というより結果の助詞ですね)わたしは、そもそも「ホール」という語が不要なのだと思う。かりに「ホール」というのが、最終18番の「グリーン」のことであるならば、それはすでに「バーディ」の一語によって見えている映像です。というよりも…たぶん梅沢自身は、コース全体を回り終えることを、慣用的な言い方で「ホールをあがる」と書いてるだけで、じつは「ホール」という語そのものには映像がなく、たんなる説明でしかないんだろうと思う。実際、たとえば句またがりですが、最後はバーディ 愉快なる青葉木菟のように書いただけでも意味は通ります。わざわざ「ホール」なんて書かなくてもいい。ホールのないバーディがあったら持って来い!…って話です。さらに、わたしとしては、青葉木菟の「姿(視覚)」か「声(聴覚)」かを明示すべきだと思うので、字余りですが、バーディの十八番 青葉木菟鳴けりとしてみました。
2022.06.25
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