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次に訪れたのが、こちらの涸沼(ひぬま)です。涸沼は、今から約6,000年前、海水面が上昇したため、入江の出口が川の土砂によってふさがれて形成されたといわれています。満潮時には海水が涸沼川を逆流し、海水が流れ込むため、海水と淡水が混じり合う全国的にも希少な汽水湖になっています。そのため、ヤマトシジミやマハゼなど汽水域に生息する魚や貝などの漁場となっています。また、ヒヌマイトトンボなど希少動植物の生息場所となっており、2015年(平成27年)には、国際的に重要な湿地の保全を目指すラムサール条約(→→→こちら)に登録されいます。このようにウィンドサーフィンや釣りなどのレジャーも楽しめます。撮影した場所は、湖畔の弁天の鼻にある茨城町の網掛公園というところです。野鳥の観察などもできるところらしいですが、野鳥を撮影することはできませんでした。そろそろ夕暮れが近づいてきたので、帰路に着くことにしました。(水戸・大洗コース)【了】人気ブログランキング北関東の旅 水戸・大洗(その11) ~涸沼~
Sep 30, 2025
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大洗磯前神社で見落としてはいけないのは、神社の目の前に広がる太平洋に向かって立つこの鳥居です。「神磯の鳥居」(→→→こちら)です。神磯とは、ここに御祭神である大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が降臨したと伝わるからです。この神磯の鳥居を見ていると、何か体の中に精気が漲ってきそうです。岩礁の上に鎮座するこの鳥居越しに、朝日が昇る様子は、とても神々しく、人気の撮影スポットとなっているそうです。毎年元日には、宮司以下神職は海岸に降り、大神の降臨の地を照らしながら昇る初日の出をお参りする「初日の出奉拝式」を執り行うそうです。なんかこの岩伝いに鳥居まで歩いていけそうですが、神聖な場所として禁足地となっているそうです。また、この岩礁に建つ石碑には、なにか文字が刻まれていますが、この神磯の鳥居のいわれをしるしているのでしょうね。神磯には入れないですが、その横にある海岸には降りていくことができます。ここを訪れたのは八月の盆休みの時期だったので、多くの人が海岸で遊んでいました。沖合にはレジャーボートが。ここでも船は水平線の下に見えていますね。(水戸・大洗コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 水戸・大洗(その10) ~神磯の鳥居~
Sep 29, 2025
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大洗磯前神社(おおあらいいそさきじんじゃ)(→→→こちら)を訪れました。この白い鳥居は二の鳥居となります。鳥居に掲げられた社額です。大洗磯前神社は、平安時代に創建された由緒ある古い神社です。鳥居の横には鳥居建設の経緯を記した石碑がありました。東に太平洋を臨む大洗海岸の丘上に社殿が鎮座するので、この階段を登っていきます。階段を登る途中から振り返ると、目の前には太平洋が広がっています。階段を登りきると、また鳥居があり。ここからの眺める海の景色も清々しいものでした。この随神門は大洗町指定文化財です。この門を通って、境内に入り、社殿にお参りしました。この社殿は入母屋造で茨城県の文化財になるそうです。ご祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、この神様は大国主命の別名であり、国造りを行うため、境内前方の岬の岩礁に降臨したとされています。配祀神としては、少彦名命(すくなひこなのみこと)です。茨城県ひたちなか市にある酒列磯前神社祭神ですが、その分霊です。この二神は力を合わせ心を一つにして天下を経営し、まじない、医薬などの道を教え、日本の国の礎を作った神様です。境内にあった軍艦那珂忠魂碑です。那珂は、日本海軍の軽巡洋艦で、大洗磯前神社の北側を流れる那珂川に因んで命名され、艦内神社として大洗磯前神社がお祀りされていたそうです。ました。那珂は20年ほど活躍しましたが、昭和19年2月17日に沈没したそうです。また、この神社やその周辺地域の案内板ですが、タッチパネル式となっていました。(水戸・大洗コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 水戸・大洗(その9) ~大洗磯前神社~
Sep 28, 2025
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日下ヶ塚古墳の南東側、海寄りに古墳ではない形態の、上部が平らな土盛りがあります。「磯浜海防陣屋跡」(→→→こちら)の案内板がありました。江戸時代後期から幕末期にかけての時期は、異国船が頻繁に沿岸に接近し、中には上陸して乱暴を働く事件が発生しており、その出没に対する危機感が強まっていました。特に水戸藩の9代藩主の徳川斉昭が攘夷思想を強く、海防の対策として、藩内沿海の地に、海防陣屋や台場などの複数の海防施設が築造したそうです。特に磯浜海防陣屋は、水戸城にも高く重要な施設として、建設されたのでしょうね。海防陣屋跡にからは、きらめく太平洋と大洗港が目の前に広がっていました。この大きな構造物は、「大洗港区海岸津波水門」(→→→こちら)です。東日本大震災の津波による被害を踏まえ、漁港を囲む防波堤を防潮壁とし、漁船の出入口にこの水門が造られたそうです。2025年に完成したこの水門は常時開門していますが、地震があって津波警報が発令された時に自動で閉まり、津波の被害を避けることができるそうです。命を守る現在の海防施設なんですね。こちらは、大洗港フェリーターミナル。商船三井さんふらわあが停泊していました。この建物は、高さ60メートルの展望台の大洗マリンタワー(→→→こちら)です。この景色を見て気がついたのですが、子供の頃、船の絵を描くと、水平線の上に船を描いていましたが、本当は、水平線の下に船を描かないといけなかったんですね。(水戸・大洗コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 水戸・大洗(その8) ~磯浜古墳群 磯浜海防陣屋跡~
Sep 27, 2025
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こちらが日下ヶ(ひさげ)塚です。国の史跡に指定されたのは最近のことのようで、令和2年3月10日(火曜日)の官報で告示(文部科学省告示第17号)されて、正式に国の史跡として指定されたそうです。そのため、「祝 国指定史跡磯浜古墳群」と染め抜かれたのぼり旗が残されていました。この「磯浜古墳群全体説明板」(→→→こちら)も新しい感じてした。こちらが日下ヶ塚古墳ですが、木が覆っていて墳丘が見えません。こちらに大洗町教育委員会の設置した説明板がありました。4世紀後半に築造された全長約103.5mの大きさの日下ヶ塚古墳は、前方後円墳としては茨城県内有数の規模の古墳だそうです。このあたりから墳丘に登って行けそうです。江戸時代後期、文政8年(1825年)、日下ヶ塚権現台(磯浜海防陣屋→→→こちら)に遠見番所の設置のため、日下ヶ塚古墳の前方部から採土されるなど、度重なる破壊を受け、変形しています。墳丘の頂上にはなにやら石碑がありました。「史跡 日下ヶ塚」の碑がありました。このような石碑が建立されているということは、昔からかなり有名な古墳と思われていたんでしょうね。(水戸・大洗コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 水戸・大洗(その7) ~磯浜古墳群 日下ヶ塚古墳~
Sep 26, 2025
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次に訪れたのは、姫塚古墳です。磯浜古墳群中では最も古い築造だそうで、古墳時代初期の古いタイプの墳丘長29mの前方後方墳だそうです。 かつては円墳と考えられていたようで、写真をみても円墳のようにも思えますが、しかし、近年、周溝の調査などにより、狭小で未発達な前方部が確認され、全長30m、後方部高さ4.4mほどの前方後方墳であったことが判明したそうです。ちなみに、写真でなんとなく、わずかに前方部に見える部分がありますが、これは墳頂にあった熊野神社への参道とするために、後年、盛り土されたものであり、本来の前方部は掘削され、消滅していたそうです。(水戸・大洗コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 水戸・大洗(その6) ~磯浜古墳群 姫塚古墳~
Sep 25, 2025
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最初に訪れたのがこちらの古墳です。車塚古墳です。この古墳は直径88mの円墳で、前期末から中期初頭に築造されたそうで、円墳としては全国屈指の規模だそうです。こちらから古墳の中に入っていくことができます。この階段で墳丘を上がっていきます。墳頂には「富士権現社」(浅間神社)が祀られています。墳丘の下にはもう住宅地が迫っていました。墳丘の上からは広々とした茨城の大地が見えます。カメラの望遠を使うと、うっすらと見える筑波山をバックに茨城県庁の高層ビルが見えました。(水戸・大洗コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 水戸・大洗(その5) ~磯浜古墳群 車塚古墳~
Sep 24, 2025
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茨城県東茨城郡大洗町にある国指定史跡「磯浜古墳群」(→→→こちら)にやって来ました。狭かったですが、ちゃんと駐車場もあって車で来るのにも便利です。磯浜古墳群は、3世紀後半~4世紀代、古墳時代前期~中期初頭に造られた、権力を持った首長のお墓です。太平洋を臨む400m 四方の独立した高台に展開し、総数6基の古墳から構成されています。そのうち3基が国の史跡に指定されています。古墳群はこのような住宅街の中にあります。したがって、古墳も私有地にあって見に行くことができないものにあるようです。また、古墳の高まりが削られ、実態のわからない古墳もあるそうです。このうち見学できる国の史跡の古墳、車塚(くるまづか)古墳、姫塚(ひめづか)古墳、そして日下ケ塚(ひさげづか)古墳への案内標柱が建てられていました。(水戸・大洗コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 水戸・大洗(その4) ~磯浜古墳群 車塚古墳~
Sep 23, 2025
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国の指定史跡である大串貝塚(→→→こちら)の貝塚の様子を見れる貝層断面観覧施設がここです。中に入いるのには公園内にある埋蔵文化財センターの担当者に扉を開けてもらわないといけないようで、窓ガラス越しに中の様子を撮影しました。確かに貝殻が積み重なっていますね。また、こちらは縄文時代の古代復元住居です。住居の中はこんな感じでした。住居だけではなく、縄文人の生活の様子も人形で復元されていました。これは獲物をもって帰ってくる人です。何かを作る作業をしている人の様子ですね。こちらは縄文時代の住居というより、近世の住居のようですが、スズメバチがいるとかで中は見学できませんでした。大串貝塚ふれあい公園の説明看板をここで見つけました。水戸市埋蔵文化財センターにも訪れました。こちらは中の展示物です。(水戸・大洗コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 水戸・大洗(その3) ~貝層断面観覧施設と古代復元住居~
Sep 22, 2025
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大串貝塚ふれあい公園には、高さ15.25メートルの巨人像があります。こちらの石碑には、この巨人の像の説明が銘板に記されていました。日本の各地で伝承される巨人「ダイダラボッチ」(→→→こちら)のことで、地方によっては「ダイダラボウ」とか「デーラボッチ」などの様々な呼び方があるらしいです。この像ができたのバブル景気だった頃の平成4年(1992年)に、水戸市に合併される前の常澄村で建設されたものですね。この像の中に入れるようでしたので、入ってみました。中には、日本全国に残る巨人伝説に関するパネルやダイダラボウについての説明がありました。この巨人は山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられているそうです。そして、茨城県内のダイダラボウに関する説明がありました。奈良時代に記された「常陸国風土記」には、すでにこの大串貝塚のことが記録されていました。平津(ひらつ)の駅家(うまや)の西、十二里に岡あり。名を大櫛(おおぐし)という。上古(いにしえ)に人あり。体は極めて長大(たけたか)く、身は丘壟(おか)の上に居ながら、手は海浜の蜃(うむぎ:巨大な蛤のこと)を摎(くじ)りぬ。其の食(くら)いし貝、積聚(つも)りて岡となりき。時の人、大朽(おおくち)の義を取りて、今は大櫛(おおくし)の岡という。と記されていたそうで、「常陸国風土記」が書かれた奈良時代には、海岸線も現在とほとんど同じ位置になっていました。海岸からこれだけ離れたところで海の貝が大量に見つかるということを、このころの人々は、巨人が食べた貝が積もって岡になったと説明したようで。地名に関しても、「貝がたくさん朽ちている(大朽)」ことから「大櫛(おおくし)」と呼ばれるようになったと書かれています。暗い小部屋には、土偶が展示されていました。最初は、土偶とは思わず、NASAで保管されていた宇宙人のミイラが展示されているのかと思いました。ダイダラボウの中は階段で登れるようなっていて、このようにどこまでも平坦な水戸市の風景が見えました。こちらは、ダイダラボウの掌です。そして、公園の中にあった池はダイダラボウの足跡という設定で造られていました。しかし、このダイダラボウ、男性だと思うのですが、シンボルが見えなかったです。(水戸・大洗コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 水戸・大洗(その2) ~ダイダラボウ~
Sep 21, 2025
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大串貝塚(→→→こちら)は、茨城県水戸市塩崎町に所在する縄文時代前期の貝塚であり、国の指定史跡になっているそうです。現在、貝塚の周辺は大串貝塚ふれあい公園として整備されています。大串貝塚は、奈良時代の「常陸国風土記」に記されている「大櫛之岡」と考えられており、文献に残る貝塚としてわが国で最も古く、これにまつわる巨人伝説とともに著名だそうです。ということで、日本の巨人の代表的存在である「ダイダラボッチ」ともかんがえられるそうで、このあたりを「ダイダラボウの里」とも呼んでいるみたいですね。こちらは大串貝塚ふれあい公園にあるおまつり広場とその向こうにあるのが、埋蔵文化財センターです。こちらのモニュメントは水戸八景(→→→こちら)を紹介しているものです。公園に隣接している水戸市立常澄中学校です。園内にある広場です。こちらは発掘された墳墓7のようですね。ということで、大串貝塚ふれあい公園の中を歩いてみます。(水戸・大洗コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 水戸・大洗(その1) ~大串貝塚ふれあい公園
Sep 20, 2025
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ハワイアンダイニング&カフェの"La Ohana"に行ってきました。日本人の店員さんが「アロハ」と挨拶してくれる、ちょっとハワイを意識しているのかなと思いますが、これがもっとリゾートっぽい千葉の海辺にでもあれば、違うのでしょうが、葛西橋通りと明治通りの交差点だと、ハワイっぽい気分には浸られない、由緒正しい日本式のファミリーレストランです。頂いたのは、アメリカンハンバーグ(1,298円税込み)とフォカッチャおかわり自由(440お円税込み)でした。フォカッチャおかわり自由というのは、なかなかいいですね。家族連れなどのグループでいっても一皿とって、みんなでシェアして食べてもいいみたいでした。あと、面白かったのは、トイレでは波の音がBGMとして流れているのも、ハワイ演出なんでしょうか。人気ブログランキング孤独のグルメ ハワイアンダイニング&カフェ
Sep 19, 2025
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平井駅に向かって歩いていると、ちょっとお寺らしくない建物のお寺「深妙寺」(→→→こちら)がありました。深妙寺は、明治41年に岩城智妙師が浅草区北清島町に開設、大正13年当地へ移転、昭和28年に開宗山深妙寺と公称したそうです。こういう納骨堂の建物と仏像を見ると、寺院らしいものを感じますね。ゆりのき橋通りを駅の方に向かって歩き、そして、駅近くの横丁に入って行くと、飲食店街がありました。「昼から飲んで何が悪い?」というのが店名でしょうか。確かに、もう営業は始まっていて、中で飲んでいる方もおられました。そして、JR総武線の平井駅に戻ってまいりました。(続・平井散策コース)【了】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その17) 昼から飲んで何が悪い?
Sep 18, 2025
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近くを流れる荒川の堤防に上がってみました。荒川のうちこの区間は、かって荒川放水路と呼ばれていて、岩淵水門から江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川をてした。向う岸には首都高速道路中央環状線が見えています。また河川敷には野球場も作られてます。荒川の西側の堤内地側をみると密集した住宅街の先に、東京スカイツリーが見えました。堤防を降りて、この細い道を歩いて行きました。この道は行徳道(→→→こちら)と呼ばれた道で、平井の渡し(現在の平井橋付近)を起点として、現在の一之江駅付近と今井の渡し(現在の今井橋付近)を経由して行徳河岸へと到達していた道です。江戸時代からある道で、、田畑を貫くほぼまっすぐな道でした。古くは行徳塩(ぎょうとくしお)の輸送路とも考えられています。また、庶民はこの道を成田山や浅草観音への参詣路に利用していたそうです。行徳道を歩い行くと、さっき歩てきた逆井庚申塚通りと交差していました。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その16) 荒川河川敷と行徳道
Sep 17, 2025
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平井の町にあるお寺の団地を回っています。こちらが最後に参拝したお寺です。やや古びて黒ずんだ寺号碑ですが、刻まれた文字は「元本所表町 天台宗 最勝寺」(→→→こちら)と詠めました。江戸川区教育委員会の建てた案内板です。最勝寺(目黄不動)天台宗で牛宝山明王院と号し延暦寺を総本山とする。大正二年(一九一三)に、本所表町(現墨田区)から現在地に移転した。開山は貞観二年(八六〇)で慈覚大師の建立です。墓地には鳥亭焉馬(戯作者)、富田木歩(俳人()の墓および、柔道界の鬼と言われた徳三宝の頌徳碑と夫妻の墓があります。■木造不動明王坐像昭和五十六年(一九八一)一月登録江戸川区登録有形文化財・彫刻像高は一二七センチです。本所表町にあった最勝寺の末寺東栄寺の本尊でした。江戸五色不動(目白、目黒、目赤、目青、目黄)のひとつ「目黄不動」の名で知られています。名僧良弁の作といわれ、将軍家の信仰が篤かったといわれています。門柱には「天台宗最勝寺」と記されています。この正面に見えるのが本堂です。そして、この石柱には「目黄不動明王」とありました。こちらの堂宇が、不動堂です。江戸五色不動といいますが、以下のようになるそうです。目黒不動 瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)目白不動 金乗院(東京都豊島区高田) 目赤不動 南谷寺(東京都文京区本駒込)目青不動 教学院(東京都世田谷区太子堂) - 本来の寺名は平井の目黄と同じ最勝寺だそうです。そして、目黄不動は次の二ヵ所になるそうです。永久寺(東京都台東区三ノ輪)最勝寺(東京都江戸川区平井)目黄不動尊については、色々諸説があるらしいですね(→→→こちら)本堂にもお参りさせてもらいました。本堂には山号の「牛宝山」の扁額が掲げられていました。そしてこちらが、柔道家徳三宝夫妻の墓と頌徳碑です。徳三宝(→→→こちら)とはMoMo太郎も暮らしていた鹿児島県の徳之島出身の柔道家で、講道館柔道九段という方です。平井に住んでいたそうですが、東京大空襲で被災し死去されたそうです。こちらが、その徳三宝夫妻のお墓です。こちらが頌徳碑です。如意輪観音が積み重なったお墓でした。こうやって、平井の寺町といえるエリアにあるお寺を巡ってみると、みんな他所から移転してきたんですね。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その15) お寺の団地~最勝寺(目黄不動)~
Sep 16, 2025
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平井の町にあるお寺の団地を回っています。次に参拝したのがこちらのお寺です。なかなか広い境内ですね。寺号碑には「天台宗 成就寺」(→→→こちら)とありました。逆井保育園と並んで記されているので、保育園も経営しているんでしょうね。江戸川区教育委員会が建てた成就寺の案内板です。嘉桂山西光院と号し天台宗で延暦寺の末、もとは本所竹町にあったが明治十四年(一八八一)現在地に墓地を移し、昭和二年(一九二七)に本堂その他kの建物を移転しました。本所にあった頃門前に枳(からたち)の並木があったので「からたち寺」と呼ばれ、今でもその名は通じています。嘉祥元年(八四八)慈覚大師が開山し、後に正和三年(一三一四)舜慶法印が中興したもの伝えられています。本尊は木造阿弥陀如来立像で聖徳太子作と伝えられ、寺宝に神田宗庭筆の千手観音像一幅を所蔵し、墓地には、越智二楽(兵学家)、越智鳳台(兵学家)、荻野楳塢(仏学者)、寺島梅里(画家)、富本延寿斉(清元)、那波征甫(浅草紙創始者)、山本梅痴(画家)などの墓がある。境内にある墓地にあった古びた自然石のお墓です。よくわかりませんが、なにか歴史ありそうですね。本堂は、細い路地を挟んだ敷地に建っていました。門扉の隙間から本堂を撮影してみました。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その14) お寺の団地~成就寺~
Sep 15, 2025
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平井の町にあるお寺の団地を回っています。次に参拝したのがこちらのお寺です。大法寺(→→→こちら)です。江戸川区教育委員会の案内板に、大法寺の由緒が記されていました。宝聚山と号して日蓮宗の古寺である。創建当初は、本所にありましたが、昭和四年(一九二九)に現在地に移転しました。つたえるところによれば、建長五年(一二五三)の夏、日蓮聖人が房州の清澄山から鎌倉へ向う途中亀戸の地を通ったおり、同地の住人で千葉某が聖人の教えに帰依したので、聖人は七文字の題目を書いて与えた。千葉氏はこれを石に刻み亀戸の地に宝塔を建てました。人々は聖人が広宣流布の大願を込めた石であるというので、「広布石」と呼び、参拝祈願するようになりました。その後、数代を経て、千葉常明の一子、万千代が疱瘡を病んで死にましたが、広布石の功徳により不思議にも蘇生したといわれています。万千代は成人すると出家して、本所法恩寺の住職日悦上人の弟子となり名を大権院日巧と改め、大永二年(一五二二)大法寺を創立しました。山門の近くにあった古めかしい二柱の石塔がありました。こちらには、歴代の日蓮宗の聖人の名前が刻まれていました。こちらの石塔には、大乗妙経二萬部と刻まれていました。こちらが本堂です。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その13) お寺の団地~大法寺~
Sep 14, 2025
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都立小松川高校の近くにはお寺が並んで建っているお寺の団地のようなエリアがありました。それらの寺院を巡ってみました。こちらのちょっと洋風のお堂があるのは、浄土真宗本願寺派の善通寺です。浄土真宗にはいくつかの宗派があって、浄土真宗本願寺派の本山は京都にある西本願寺が本山だそうです。東本願寺を本山とする浄土真宗は真宗大谷派となるそうです。織田信長と対立した本願寺(浄土真宗)は、信長と和睦の後、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していたそうです。豊臣秀吉から京都へ再び寺地の寄進を受け、穏健派が主導して本願寺として今の西本願寺が成立したそうです。しかし内部対立は続き、慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領が強硬派の教如に寄進され、教如が東本願寺を興したそうです。江戸川区教育委員会が設置している善通寺の案内板です。浄土真宗本願寺派で、真光山明証院と号します。千田真太郎宗信(法名蓮真)が康正年間(1455-1457)に創建したと伝えられています。旧東小松川村にありましたが、大正4年(1915)荒川の開削により現在地に移転しました。境内には、千葉家旧家臣秋元刑部左衛門尉胤次、加命堂病院創立者奈良林元春の墓があります。その他お寺にある文化財についての説明も記されていました。この本堂は、昭和36年に造られたそうで、どことなく、築地本願寺を模しているみたいですね。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その12) お寺の団地~善通寺~
Sep 13, 2025
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こちらの建物は、地元では、有名な進学校の都立小松川高等学校(→→→こちら)です。都立高校には進学指導重点校という進学指導の充実を図り進学実績の向上を重点にした日比谷高校や西高校といった都立トップ7校があり、それ等に次ぐものとして、進学指導特別推進校がありますが、小松川高校は進学特別推進校に指定されているんですね。旧中川で練習を積み重ねているせいか、ローイング(ボート)部の成績もいいんですね。ボート部でいいと思うのですが、やっぱり進学指導特別推進校的には「暴徒(ボート)」はまずいと言うことで、ローイング部にしたんでしょうか? 実は2023年には国内競技団体である「日本ボート協会」も「日本ローイング協会」に名称変更をしました。都協会や高体連専門部も「ボート」から「ローイング」への変更を進めていることからの変更です(→→→こちら)確かにボート部と聞くと競艇選手育成のクラブ活動と間違えなくていいですね。学校近くにあるこの建物は、高校の同窓会で持っている同窓会会館があるんですね。卒業生だとここで結婚式や同窓会をできるのかな。ちなみに小松川高校の卒業生にハーモニカ演奏家の寺澤ひろみ(→→→こちら)という方がいますが、この方の演奏とか聞いたことはないのですが、BS-TBSで放映している「おんな酒場放浪記」(→→→こちら)ではよく拝見しています。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その11) 小松川高校ではボート(暴徒)部はありません
Sep 12, 2025
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逆井庚申塚から北東の方角に向かって延びるこの道を歩いていきます。街路樹のサルスベリの花がきれいな道です。道路の愛称は逆井庚申塚通り。廃棄と書かれた札のある時点が置いてあるのは、ここはゴミ集積書なんですかね。この道は古くからある道のようで、直線ではなくこのように湾曲している所もあったりします。途中にあった平井二丁目公園です。実は、この道はもとは西井堀(→→→こちら)という江戸時代に整備された用水路を暗渠にして道路として利用しているそうです。江戸時代、このあたりは農地が広がっていたんでしょうね。ゆりのき橋通り(→→→こちら)との交差点を横断しますゆりのき橋通りは、墨田区東向島の水戸街道の四ツ木橋南交差点から、荒川の西側に沿って、江戸川区小松川の京葉道路との交差点に至る延長4kmの2車線の都道です。道路愛称に使われている「ゆりのき橋」とは旧中川を渡る橋の名称です。そして、小松川区民会館(→→→こちら)の前に出ました。300席のホール、3つの集会室、和室、くつろぎの間、レクリエーションホールを備え、様々な用途でご利用できる公共施設です。そして1階部分には区役所の出張所である小松川事務所が併設されています。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その10) 逆井庚申塚通り
Sep 11, 2025
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JR東日本の駅にあるカフェテリアのベックスコーヒーで軽く食事してみました。アイスコーヒーSサイズ(320円税込み)とハムと2種類のチーズのホッとサンド(480円税込み)をいただきました。食事の味よりも、9月になってもまだまだ暑い日が続き、食事より冷房が効いた店内で涼めたことがなによりの御馳走でした。人気ブログランキング孤独のグルメ 食事より冷房です
Sep 10, 2025
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京葉道路(国道14号線)の中川新橋交差点近くまでやってくると、この庚申堂がありました。祠の脇には「逆井庚申塚」という石標がありました。庚申塔(こうしんとう)又は、庚申塚(こうしんづか)は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いそうです。庚申講とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や馬頭観音や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習だそうです。東京の街角では、この庚申塚を時々見かけます。今でも庚申講が行われているとは思いませんが、今でもこうやって花が飾られているのを見ると、地元では大切にされているんですね。京葉道路(国道14号線)は、この庚申塚のすぐそばを通っています。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その9) 逆井庚申塚
Sep 9, 2025
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神社が続いたので、次はお寺を探してみると、白髭神社から少し離れた住宅街の中に、「真言宗豊山派慈眼山正養寺」(→→→こちら)というお寺を見つけました。こちらが入口のようですが、なんか普通の住宅の門のような雰囲気です。でも門柱に「正養寺」とあるので、こちらからお寺にお参りしてみました。中に入ってみると、弘法大師像があって、お寺という雰囲気は感じました。左側の建物が本堂です。また右側の建物は普通の住宅の様に見えますが、お寺の僧侶が居住する場所である庫裏なのでしょうね。、そして、敷地の南側に面した側にあったこれが正門というか、正養寺の山門にあたるようです。山門の脇には、正養寺に関する案内板がありました。正養寺正養寺は真言宗豊山派で慈眼山と号します。延宝年間(1673~1681)有遍法印が改竄しました。本尊は木造阿弥陀如来像です。これはもと胎内仏で本尊が戦災で焼失したため地方に疎開させていたその胎内仏を本尊としました。当寺はもと船堀村にありましたが、荒川の開さくにより大正二年この地に移転しました。なおこの敷地は、明治七年廃寺となった宝泉院の跡地で移転と友に合併しました。□戦災焼死者慰霊碑昭和三十二年三月十日に建立されました。この地区一帯は戦災でほとんど全焼し、多くの死者が出ました。また都心から逃れる途中の死者もたくさんありました。この塔は、その人々の供養のためのもので毎年慰霊祭が行われています。昭和五十四年三月江戸川区教育委員会戦後80年になりますが、このように悲惨な戦争のことを伝えるために、慰霊塔などを建立して慰霊することは、半永久的に続けていきたいものですね。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その8) 正養寺
Sep 8, 2025
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旧中川に沿って京葉道路の方へ向かって歩いて行くと、また鳥居がありました。社号碑を見ると、白髭神社(→→→こちら)と刻まれていました。平井白髭神社の創建年代は不詳ですが、逆井村草創以来の鎮守で鎌倉時代の建治年間(1275-1278)の草創と伝わっています。室町時代後期から太田道灌の家老土谷相模守が当地周辺を所領、代々氏子総代を勤めてきたといいます。先ほど訪れた平井浅間神社はこの神社の境外末社になるそうです。広々とした開放的な境内でした。夏祭りがこの時期行われるのでしょうね。幟が立てられていました。こちらの石碑には、昭和20年3月の戦災で社殿を焼失したそうですが、昭和24年10月には仮再建され、その後昭和45年12月に本格的に再建された社殿が完成したことが記されていました。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その7) 平井白髭神社
Sep 7, 2025
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橋の近くまでやってきました。この橋は歩行者と自転車専用の橋で、平成6年(1994年)に架けられました。そして、江東区と江戸川区の両地域の交流が一段と深まるようにとの願いをこめて「ふれあい橋」と命名されたそうです。この橋の構造は、基本的には、補剛桁とアーチ部材の双方で曲げモーメントを分担する補剛アーチ橋のローゼ橋と呼ばれるものですが、アーチクラウン部(アーチの最高点)で2本のアーチ部材の間隔を絞り込んだ形式を、その形状をバスケットの取っ手に例えてバスケットハンドル型ニールセンローゼ橋と呼ぶ形式になっていました。橋の上から見た旧中川の下流側です。上流側では東京スカイツリーが見えまよ。水鏡になって逆さスカイツリーも見えて、なかなかのビュースポットでした。そういえば、この「ふれあい橋」ドラマのロケ地にもよく使われているみたいです(→→→こちら)。ここ訪れた日は8月14日で、毎年8月15日の夜、東京大空襲の犠牲者の慰霊を目的に、旧中川東京大空襲犠牲者慰霊灯籠流し(→→→こちら)が行われる8月15日の前日でした。橋のたもとには、「鎮魂」と刻まれた石碑も建立されていました。このふ橋は、戦争の犠牲となった人たちの魂ともふれあえる、「ふれあい橋」だったんですね。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その6) ふれあい橋
Sep 6, 2025
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小松川中学校を過ぎて旧中川の堤防近くまで来ると、神社の鳥居がありました。鳥居の中にあった社号碑には「浅間神社」(→→→こちら)とありました。この社号碑の横にある案内板です。この案内板によると、平井浅間神社の富士塚は、「逆井の富士塚」と呼ばれ、建造年代は不明ながら、「当山再築小松川村」と記した明治17年(1884)に作られた碑があるため、江戸川区内で最も最も古い築造です。富士塚の高さは約5メートル。古い築造の高さは約5メートルで、区内では最大のものだそうです。平井という町にあるのに逆井というのは面白いですね。古い地名が逆井だったんでしょうね。ちなみに逆井の由来は、低地帯で、水がさかのぼるようなところからきているそうです。逆の字が嫌われて平井になったんでしょうか?でもそうではないようで、もとは「平江」でした。 かつてはこの付近まで江戸湾が入り込んでおり、入江のような地形だったことから「平江」という地名になり、戦国時代頃に「平井」に変わったというそうです(→→→こちら)。このように塚の正面に登山道の石段が設けられています。倒壊防止のため、昭和30年代にコンクリートで覆れています。また周囲はコンクリートで円形に土止めが施されています。そして、このような富士信仰の石碑が、二十数基建てられているそうです。頂上の部分を玉垣で方形にとり囲み、石祠を祀っています。珍しく富士塚そのものが浅間神社として旧逆井村の鎮守白髭神社の持社となっているそうです。頂上からは周囲が見渡せますが、周辺は駐車場や工場があり、その向こうに旧中川に架かるアーチ橋が見えました。次はあの橋を目指してみます。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その5) 平井浅間神社は
Sep 5, 2025
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大きな建物が見えてきました。江戸川区立小松川中学校です。そして、この中学校には、中学校夜間学級(→→→こちら)が設置されていました。いわゆる夜間中学校です。夜間中学校とは、「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律(平成二十八年法律第百五号)」第14条と第15条(→→→こちら)に基づいて設置されている昼間の中学校と同じ、中学校です。夜間中学は戦後の混乱期の中で、生活困窮などの理由から昼間に就労または家事手伝い等を余儀なくされた学齢生徒に、義務教育の機会を提供することを目的として設置されたものですが、現在は、義務教育を修了しないまま学齢期を経過した方や、不登校など様々な事情により十分な教育を受けられないまま中学校を卒業した方、本国や我が国で義務教育を修了していない外国籍の方など、様々な背景を持つ生徒の多様な学びを保障するために設置されています。時間割の例として、平日の夕方から夜にかけて1日4時間程度の授業を行うとともに、授業以外にも学級活動や、運動会や文化祭、遠足、修学旅行など様々な学校行事も行われています。給食がある学校もあるそうです。令和6年度時点では、31都道府県(18)・指定都市(13)に53校の夜間中学が設置されていて、さらに今後は増えていく計画だそうです。大抵は公立中学校ですが、沖縄県では学校法人雙星舎(そうせいしゃ)が、私立夜間中学校「珊瑚舎スコーレ東表(あがりおもて)中学校」を設置しているそうです。小松川中学校は、道路を挟んで校舎が渡り廊下でつながっているんですね。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その4) 中学校夜間学級
Sep 4, 2025
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ひらい圓蔵亭と通りを挟んで向かい側にある大きな公園。平井公園という名称でした。ひらい圓蔵亭の向かいにあるということで、橘家圓蔵に因んだものがありました。こちらの’タチバナ’の木も。ひらい圓蔵亭を記念して植樹されたそうです。また公園の中には、橘家圓蔵についての説明版も。八代目橘家圓藏師匠は、本名を大山武雄というそうです。幼少の頃から平井の地で育った武雄少年は昭和27年に、七代目橘家圓蔵師匠の門を叩き、その後八代目桂文楽師匠の内弟子となったことで落語家としての人生がスタート。昭和31年に七代目橘家圓蔵師匠の元に戻ったあと昭和40年に真打ちに昇進、三代目月の家円鏡として活動を始めます。八代目橘家圓蔵を襲名したのは昭和57年です。この時期に落語家として最高潮を迎え、同期に活躍していた立川談志、古今亭志ん朝、三遊亭円楽と共に『若手落語家四天王』と呼ばれるまでになりました。ちなみに圓蔵師匠は、「落語家には、三つの道しかありません。うまい落語家、達者な落語家、おもしろい落語家です。達者なのは立川談志さん、うまいのは古今亭志ん朝さんですから、私は、おもしろい落語家を目指しました。」とよく語っていたそうです。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その3) 平井公園
Sep 3, 2025
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平井駅南口からの散策をスタートします。駅の南口には平井親和会商店街が続いています。こういう賑やかな商店街があるって、この町に住むのも便利だなと思いますね。この商店街を抜けて、住宅街の中にあったのが「ひらい圓蔵亭」(→→→こちら)です。こちらが、ひらい圓蔵亭。普通の住宅ですが、落語家の八代目橘家圓藏師匠が暮らしていた平井の邸宅を落語文化の発信拠点として一般公開している施設だそうです。橘家圓蔵師匠といえば、「エバラ焼き肉のたれ」のコマーシャルに出ていましたね。人気のあった落語家さんでも、そんな豪邸でもないところが、いいんでしょうね。庶民的な話をする落語家が、タワーマンションの最上階に住んでいたりしたら興ざめですよね。入場は無料とありますが、落語会などのイベントがある時は別途料金が発生することもあるようです。まだ開館前なので、また時間がある時に来ることにして、さらに平井の町を歩いていくことにします。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その2) ひらい圓蔵亭
Sep 2, 2025
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今までは、JR平井駅の北口から町を散策しましたが、引き続き南口から平井の町を散策してみたいと思います。さて、JR総武線の平井駅のホームに上がる階段に平井駅の歴史と題された写真が展示されていました。平井駅は明治32年(1899年)4月28日に総武鉄道の駅として開業したそうです。こういう写真を眺めていると、この町の発展してきた歴史を知ることができますね。こちらの写真が一番古い写真のようです。(続・平井散策コース)【つづく】人気ブログランキング続・平井の町を歩く(その1) 平井駅の歴史
Sep 1, 2025
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