全30件 (30件中 1-30件目)
1

京浜急行本線の追浜(おっぱま)駅に向かって歩いていきます。「追浜」と書いて「おっぱま」と読むのは、地元の人以外には難しいかも。古くは、このあたり相模国浦郷村と呼ばれていたのですが、旧日本海軍航空隊の追浜飛行場があった集落の名前が「追浜」で、それが有名になり、追浜となったそうです。そして追浜と呼ばれる地名が使われるようになったのは、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の弟であった源範頼が、謀反の疑いをかけられて伊豆の修禅寺に流罪となり、その地で梶原景時に討たれた、又は自害したと伝わっていますが、実は、この横須賀の地まで逃れてきたところ、幕府方の追手がやってきたので「追浜」という地名がつけられたという伝承があります(→→→こちら)。最初は「おいはま」と呼んでいたのかもしれませんが、そのうち旧日本海軍の将校がなんとなく呼びやすいように「おっぱま」と変化していったのかもしれませんね。また、源範頼が開基し菩提寺となっている太寧寺(→→→こちら)もこの近くの横浜市金沢区にありますが、このお寺は旧日本海軍の追浜飛行場の拡張工事によって今の地に移転したそうなので、この伝承も、あながち根拠がないといえない、一種の都市伝説なんでしょうかね。さて、途中で見かけたこのローカルなスーパーマーケット。なんか店内が暗いような。と思ったら、「省エネスーパー」ということで、点けてる電灯の数を減らしているのかも。ちょっと庶民的な街で銭湯なんかもあるんですね。2階の銭湯に入った後に、1階のスナックで湯上りのビールを楽しむというのも楽しそうですね。国道16号に出て、追浜駅の方に向かいました。京急の追浜駅に到着です。橋上駅舎になっているのでこの階段を登ります。西側の駅前は追浜の商店街が広がっています。この先に横浜DeNAベイスターズのファームの本拠地「横須賀スタジアム」、日産自動車の追浜工場などがあります。こちらが追浜駅の改札口です。こちらが駅名標です。副駅名に横須賀スタジアムとあるんですね。ここから東京へ帰りました。金沢八景駅で乗り換えた京急の快特はオール転換クロスシート車両で乗ってて楽しかったですよ。(鷹取山~追浜コース)【了】人気ブログランキング逗子からハイキング(その17) 追浜(おっぱま)へ
Apr 30, 2025
コメント(24)

もう少し鷹取山公園を楽しむハイキングが続きます。今は、鷹取山では岩登りは禁止されていますが、好きな人には格好のロッククライミングの練習場だったんでしょうね。しかし、切り立ったこの岩肌にある無数の穴。ロッククライミングの練習で打ち込まれたハーケン(岩壁や氷壁を登攀する際、岩の割れ目や氷に打ち込む金属製のくさび。)の跡だそうですが、相当な登山家の人たちがここで練習していたんでしょうね。 また、この切通しも明治から昭和の初期にかけて盛んにおこなわれていた石材を採取のために出来たのでしょうが、この切通しを抜けると、階段がありました。これが山歩きの最後の階段でありますようにと、祈りながら、降りていきました。階段を降りたところです。ここからは住宅街の道になっていました。ここからは京浜急行電鉄本線の追浜駅に向かって、丘を下っていきます。しかし、このあたりの住所「横須賀市湘南鷹取」というんですね。東京湾に面していても湘南と呼んでいいんでしょうかね。やっぱり「湘南」は、神奈川県の相模湾沿岸の地域を指す名称でしょう(→→→こちら)(鷹取山~追浜コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その16) 鷹取山ハイキング
Apr 29, 2025
コメント(22)

展望台から降りたところにあった、鷹取山ハイキングコースの案内図がありました。次に目指しているのは、先ほどの展望台から見えた摩崖仏です。その前に、鷹取山公園からの眺望をもう少し楽しんでみました。霞んで見えにくくいですが横浜ベイブリッヂの主塔が見えています。こちらは本牧あたりのコンテナクレーンも見えています。切り立った岩壁があちらこちらにあります。切り立った岩石が特徴の鷹取山は、その姿を群馬県の妙義山にたとえ、「湘南妙義」の別名があるそうですが、確かにそうですね(といっても、MoMo太郎は群馬県妙義山に登ったことはありませんが)。岩肌に取り付けられた追浜(おっぱま)駅の標識。この方向に進みます。鷹取山は横須賀市民にとって大切な自然環境なのでしょうね。所々に自然観察に役立つように植物の解説板が設置されていました。なるほど、この木はヒメウツギというのですね。ウツギに咲く純白の「卯の花」が咲くのは初夏の5月頃ですね。そして、巨大な摩崖仏が見えました。頭に宝冠を載せていました。近くにあった、鷹取山と摩崖仏の説明板です。これは弥勒菩薩尊像で、逗子市在住の川口満氏に依頼により、横須賀市在住の彫刻家藤島茂氏が昭和35年から約1年かけて製作したものになるそうです。この摩崖仏、弥勒菩薩尊像の横にある、狭い切通しを抜けていきました。(鷹取山~追浜コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その15) 鷹取山摩崖仏
Apr 28, 2025
コメント(24)

岩山の切通しを抜けて、鷹取山公園展望台までやってきました。鷹取山の標高は139メートル。それほど高い山ではないですね。展望台からの眺望です。横浜や横須賀には詳しくないので、勘違いして撮影したものを説明しているかもしれませんが、展望台からの眺めを楽しんで下さい。北西の方にむかって、丹沢山地まで見渡せます。南の方角には、三浦半島の丘陵地帯が広がります。こちらは東の方角、横須賀の中心部、三笠公園などあるあたりが見えます。ズームで拡大してみると、横須賀の港が見えました。すこし東北の方角になると、金沢八景の方になるのでしょうか。画面の右下にちょっと変わったものが写り込んでいます。そこれをズームしてみると岩壁に掘り込まれた仏像がありました。北の方角です。遠くの方をズームしてみると、こちらは根岸湾の方でしょうか。カメラを少し東に戻して金沢八景の海の方を撮影してみました。、鷹取山公園のすぐ近くにある小学校です。(鷹取山~追浜コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その14) 鷹取山公園展望台
Apr 27, 2025
コメント(28)

横須賀市の鷹取山公園(→→→こちら)にやって来ました。公園の中を散策してみました。鷹取山は、鎌倉時代は三浦氏の領地で、猟師は巣立鷹を献上していたそうです。また大田道灌がたびたび鷹狩りをしたといわれ、献上された鷹に満足して「鷹取山」と命名したとする伝説もあるそうです。しかし、この鷹取山、最初からこんな垂直に切り立った岩肌があったわけではありません。鷹取山から切り出される凝灰岩は柔らく加工し易いことから、横須賀市や逗子市で塀などの土木建築の材料として利用されていたのですが、コンクリートの利用が一般化したことなどの理由で石材の採取がされなくなり、その石切り場の名残で垂直に切り立った岩壁が残っているそうです。岩の表面がぶつぶつしているのは、ロッククライミングの時に使用するハーケン(岩に打ち込むくさび)の跡なのですが、岩が柔らかくハーケンが抜けたことによる転落事故が発生したため、現在ではハーケンを使用するスタイルのロッククライミングは禁止されているそうです。公園からは東京湾が一望できます。海に浮かぶ船をズームして撮影してみました。鷹取山の山頂には展望台がありました。そこに行ってみるためには、この岩壁を登っていかないといけないのでしょうか。こちらの方、岩壁を登り始めています。登るのは大変そうですね。無理かなと思いましたが、、こちらの階段を登っていけるようです。(鷹取山~追浜コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その13) 鷹取山公園
Apr 26, 2025
コメント(10)

まだまだ続く山道です。露出している岩は、第三紀層凝灰岩らしく、柔らく加工しやすいので、このような階段を作りやすいのかもしれませんが、砂が浮いてスベリ易くなっていますから、手摺りをしっかり握って慎重に降りました。もちろんトレッキングシューズは履いてきましたが、手摺りを握ったり、岩壁に手をつくために手袋も忘れず持ってきてよかったです。横須賀、葉山の方を眺めです。こうやってみると三浦半島って結構、山深かったんですね。今度は、鎖場も途中にありますよ。尾根伝いに歩くので、眺めはいいです。この柵のある道を抜けたら、この垂直に切り立った岩肌が特徴的な鷹取山公園(→→→こちら)に到着です。ロッククライミングの連取場として使われているようですが、この看板に書いてある通り、岩登りは禁止です。ただし、鷹取山安全登山協議会指導員の指導に従い、決められた事項を遵守して行う場合には禁止されていないようでした。(鷹取山~追浜コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その12) 意外と本格的な山歩き
Apr 25, 2025
コメント(14)

神武寺から鷹取山へはハイキングコースとしてかなり有名なようです(→→→こちら)。こちらの神武寺薬師堂の裏側へ行き、この山道を歩いていきました。しばらく歩くと、尾根伝いの道があいりました。山の下を見ると、国道16号の自動車専用道路(有料)のる横浜横須賀道路(→→→こちら)が見えました。山道で頼りになる道案内。間違いなく鷹取山に向かっています。途中には、送電線の鉄塔が建てられていました。横須賀にある火力発電所で作られた電気を送っているんでしょうね。山道の真ん中にコンクリートの杭が、杭に刻まれた文字は「日本道路・・・」とありました。おそらく「日本道路公団」と刻まれているのではないでしょうか。この山の下をトンネルで抜けている横浜横須賀道路に関する権原を表すために打ち込まれているんでしょうね。(鷹取山~追浜コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その11) 神武寺・鷹取山ハイキング
Apr 24, 2025
コメント(24)

法勝寺を後にして、この坂道を登って次の目的地である神武寺(→→→こちら)へ向かいます。神武寺の参道となっているようです。急な坂道ですが、舗装されていて歩くのにはそれほど苦労せずに済みましたが、結構長い登り坂でした。途中で、訪れたのは3月21日だったのですが、早咲きのサクラがありました。長い坂道を登ったご褒美ですね。ソメイヨシノよりは濃い紫紅色の、カンヒザクラでしょうか。そして、ようやく神武寺の境内に到着です。尊勝塔という文字が読み取れました。なにか有り難いものなんでしょうね。神武寺は、「相模国三浦郡神武縁起」によると、神亀元年(724年)、聖武天皇の命によって、行基が十一面観音・釈迦如来・薬師如来を彫刻し祀ったことがはじまりだといわれている古いお寺です。その後、天安元年(857年)、慈覚によって中興され天台宗に改宗されています。「吾妻鏡」によると、源頼朝も崇敬し、北条政子の安産祈願に神馬を奉納したそうです。また、三代将軍源実朝も参詣したそうです。境内に入ると「神武寺の晩鐘」という案内板がありました。こちらが、その神武寺の晩鐘と呼ばれる鐘楼堂です。当初の梵鐘は第二次大戦で供出され、現在の鐘は昭和25年(1950年)に改鋳されたものだそうです。かながわ景勝50選としてこの神武寺と鷹取山が選定されているのですね。この後、鷹取山に行ってみます。6体のお地蔵さんがありました。6体あるのは、仏教における輪廻転生する6種の世界、すなわち、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道で迷い苦しんでいるものを救ってくださるのが、六地蔵ということだそうです(→→→こちら)。そして、これが楼門です。宝暦11年(1761年)に建立されたそうです。楼門の扁額には山号の醫王山と書かれていました。楼門を抜けると正面に薬師堂(本堂)がありました。近くから撮影してみました。説明板によると薬師堂は、文禄3年(1594年)に建立された山内に現存する最古の建築だそうです。境内に野球帽をかぶった石像がありました。石碑には「六十六部供養塔」と刻まれていました。六十六部とは、法華経を66回書写して、一部ずつを66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者(→→→こちら)のことで、供養塔は、廻国を完了した修行者がその成就を記念するものだそうです。神武寺にも66ヶ所を巡る廻国を完了した修行者が訪れたんでしょうね。参加していたJR東日本が催行している「駅からハイキング 桜と豊かな歴史を感じるコース」では、ここから下山して逗子駅に向かうのですが、横須賀市にある鷹取山に向かい追浜(おっぱま)へ向かうハイキングコースを歩くことにしました。(逗子~神武寺コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その10) 神武寺
Apr 23, 2025
コメント(28)

田越川を渡ると、道沿いに法勝寺(→→→こちら)の案内がありました。なにやら由緒のあるお寺なので立ち寄って、お参りさせていただくことにしました。法勝寺は日蓮宗の寺院。もともとは、田越川最上流、長尾山の麓にあった善応寺に始まり、感応寺、正覚寺と寺名を変え鎌倉時代に日蓮宗に改宗して法勝寺と改められました。法勝寺の山の上にある天台宗の古刹、神武寺(→→→こちら)と並ぶ歴史を持っているといわれています。法勝寺の興りは、長尾山の麓に住んでいた七頭の大蛇を岩殿寺や神武寺を訪れていた行基菩薩が退治し、現在本堂に安置されている十一面観音像を彫ったことに始まるといわれているそうです。なるほど、日蓮宗のお寺らしく「南無妙法蓮華経」というお題目が刻まれた石碑が設置されています。ちなみに「南無」とはサンスクリット語に漢字を当てたもので、私は帰依しますという意味です。「妙」は真理。「法」は仏陀(ブッタ)の教え、「蓮華経」は「白蓮華(ハスの花のこと)のごとき正しい教え」ということですが、蓮華経というお経はないので法華経(→→→こちら)というお経のことなんでしょうね。お寺の石段は、併設されている「幼稚園」の敷地のようで、入れないようになってました。こちらが、本堂です。本堂脇にも、南無妙法蓮華経の石碑がありました。(逗子~神武寺コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その9) 法勝寺
Apr 22, 2025
コメント(16)

神奈川県道24号横須賀逗子線を横須賀方面に向かって歩きます。この道路、通行量は多かったです。途中で見かけたこの建物。音楽局って、一体何なんだろうと思ったら、「すずの音楽局」ではなく「すずの音薬局」だったんですね。「くさかんむり」を見落としてはいけません。東逗子駅を越えて、横須賀線の踏切を渡ります。横須賀方面に過ぎ去っていく電車を見送っりました。こちらが逗子方面です。踏切を渡り終えたら、今度は上りの列車がやってきました。横須賀線の踏切を越えると、今度は田越川(たごえがわ)(→→→こちら)を渡ります。(逗子~神武寺コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その8) 「くさかんむり」を見落とさないで
Apr 21, 2025
コメント(30)

逗葉新道へ入る手前の南郷交差点の付近にある「HAYAMA STATION」(→→→こちら)です。ここは、普段の買い物もできるし葉山のお土産も買えるという観光施設です。こちらで、買い物はしなかったけど、おトイレをお借りしました。ここからまた坂道を登って丘を越えて東逗子の方へ向かいます。途中の公園で見かけた、多分、ユキヤナギと夏みかんの木です。白い小さな花がたくさん着いていて華やかな感じを受けました。こちらは、多分、夏みかんではないかと思います。 このあたりも、結構上品な住宅街ですね。道の途中に学校がありました。逗子葉山美高校(→→→こちら)です。卒業生に、プロのサッカー選手、伊東純也(→→→こちら)さんがいるんですね。ところで、この選手、性加害疑惑事件(→→→こちら)があったのに、不起訴処分とはいえ、学校で応援してもいいんでしょうかね。(逗子~神武寺コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その7) 逗子葉山高校
Apr 20, 2025
コメント(26)

長柄桜山古墳群(第1号古墳)をあとに、次の目的地へ向かいます。この階段になった所を降りて来ると、住宅地がすぐ近くに広がっていました。ここが長柄桜山古墳群への入口となります。なかなかの高級住宅街という様子です。この住宅地の中を歩いて行きます。住所は葉山町長柄になりますが、住宅街の名前は「葉桜」と呼ばれているみたいです。住宅街の中にあるバス停です。停留所の名称は「葉桜」、逗子駅からバスが通っているんですね。バス停の横には、長柄桜山古墳群の案内板が設置されていました。葉山町のマンホール蓋です。葉山らしくヨットがデザインされていました。丘の上に広がる葉桜住宅地を下って、神奈川県道311号鎌倉葉山線に出ました。この先は逗葉新道につながり横浜横須賀道路の逗子ICに抜けることができます。(逗子~神武寺コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その6) 葉山町葉桜住宅地
Apr 19, 2025
コメント(22)

長柄桜山古墳群(第1号古墳)(→→→こちら)です。古墳についての説明板がありました。第1号墳は、全長91.3m、後円部径52.4mの大きさで、現存する県内の古墳では最大です。墳丘は岩盤を削り出したのち、後円部と前方部の上に盛土をしてつくっています。墳丘は後円部三段、前方部二段に築かれており、古墳の上には円筒埴輪(えんとうはにわ)と壺形埴輪(つぼがたはにわ)が立て並べてありました。後円部の中央では、納められた木棺が腐って落ち込んだ、長さ7mの陥没坑(かんぼつこう)が発見されています。部分的な発掘調査によって、粘土槨(ねんどかく)と呼ばれる、木棺(もっかん)を粘土でおおった構造の埋葬施設が1基築かれていることがわかりました。また、長柄桜山古墳群についての説明板もありました。長柄桜山古墳群は、今から約1600年前(4世紀後半ごろ)に築造された、現存する県内最大の前方後円墳2基で構成される古墳群になるそうです。三浦半島ではそれまで大型の前方後円墳が存在しないとされていたことから、歴史を書きかえる大きな発見といえるでしょう。第1号墳は、古墳の上に登れる階段を設置してあり、後円部の頂上には木の棺(ひつぎ)が埋まっている場所を表示し、埴輪のレプリカや説明板も設置されています。前方後円墳というのは、古墳の形式の1つで、円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなすもののことだそうです。こちらが方形の盛土部でその先に円形の丘が見えています。こちらが円形の丘の部分です。おじさんが一人いて、丘の上からの景色を眺めながら、読書されていました。丘の上の一部が黒く舗装されていて、ここに棺が埋まっていたようです。棺の発掘の様子の説明板です。これがレプリカの埴輪(はにわ)ですね。円形の丘の上の眺めです。逗子の街、その先は横浜市の本郷台のあたりでしょうか。向きを変えてみると、相模湾に浮かぶ江ノ島とさらによく見れば富士山の山影が見えました。逗子海岸のあたりです。以前訪れたことのある披露山の麓の浪子不動高養寺のあたりです(→→→こちら)。さらにズームすると、海中に立つ「不如帰の碑」(→→→こちら)が確認できました。(逗子~神武寺コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その5) 長柄桜山古墳群(第1号古墳)
Apr 18, 2025
コメント(22)

長柄桜山古墳群の第2号古墳 から第1号古墳へ向かいます。ちょっとした山歩きの様になってきました。眼下に広がる葉山の街です。こんな山道を歩くのなら、熊除けの鈴を持ってくればよかったと反省。熊はでないとしても、ハクビシンやアライグマなんかは出てくるのでは?と不安になります。と思っていところ、ようやく開けた場所に到着しました。ここが国指定史跡長柄桜山古墳群(第1号古墳)です。(逗子~神武寺コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その4) 第1号古墳への道
Apr 17, 2025
コメント(26)

次の目的地である長柄桜山古墳群(ながえさくらやまこふんぐん)(→→→こちら)へ向かって、この道を歩いて行きます。長柄桜山古墳群は、逗子市と葉山町の境界線上に位置する、ともに全長90m前後の、現存する遺構としては神奈川県内最大級の規模を有する2基の前方後円墳です。逗子市教育委員会と葉山町教育委員会が協力して保存整備を進められているそうです。慣れない初めて来た山道で、頼りになるのはこの案内標識。車も通れない道ですが、ハイキングコースとして整備はされているみたいです(→→→こちら)。こんな車も通れないようなハイキングコースの脇にも住宅がありました。どうやって建築資材とか運んできたんでしょうか。電気は来ているようですが、上下水道もあるんでしょうかね。それにピザ屋さんなんかも配達に来てくれるのかな。長柄桜山古墳群の第1号古墳と第2号古墳との分岐点に来ました。まず第2号古墳に向かいます。そして、第2号古墳に関する説明板と案内図がある場所に到着です。長柄桜山古墳群は、最近まで全くその存在が知られていなかったそうですが、長柄桜山古墳群は、平成11年(1999年)3月、葉桜団地西側の山頂(現在の第1号墳)で、携帯電話の中継基地建設工事に伴う小規模な伐採及び整地が行われた際、近隣にお住まいだった故東家洋之助さんが埴輪片を発見したことをきっかけにその存在が公に知られるようになったそうです。また、同年4月、県内の考古学研究者が、その西側約500mの丘陵頂部(現在の第2号墳)も同様の古墳であることを指摘し、その後の試掘調査、測量調査、範囲確認調査等を経て、第1号墳と同様の古墳であることが明らかとなったというこです。長柄桜山古墳群、なんと国指定史跡なんですね。前期古墳としては関東地方の中でも有数の規模であり、また畿内の定型的な前方後円墳に近い要素が多いなど、前期の前方後円墳としては関東地方では数少ない特徴を備えた古墳であるという点から学術面で高い評価がなされ国指定史跡となったようです。逗子市がふれあいロードとしてハイキングコースを整備しているのですね。これからの山道を歩くのに役に立ちそうです。この盛り上がったところが古墳だということですが、なんか山と一体化してわかりにくいです。とりあえず登ってみると、頂上は、なんとなく平らになっていて、やはり人の手が加えられていた感じはします。そして、振り向くと逗子の海がよく見えます。古墳に埋葬された人物は、死後もこのオーシャン・ビューを眺めていたかったんですかね。春になって気温も上がったせいか水蒸気が上がって、靄っていますが、江ノ島も見えます。ちょっと引いてみると、薄っすらと靄の向こうに富士山が。逗子市の大崎とその向こうには、鎌倉の稲村ケ崎も見えました。こちらは葉山の方の海です。葉山港が眼下に見えて、海の上には、ヨットが走っていました。こちらにも長柄桜山古墳群第2号古墳の説明板がありました。そして、第2号古墳の標柱があり、ここから次の第1号古墳に向かいます。(逗子~神武寺コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その3) 長柄桜山古墳群(第2号古墳)
Apr 16, 2025
コメント(28)

次にやって来たのは、この消防団の倉庫で?、ではなくて、その横ある、「六代御前最後之故址」という石碑です。六代御前とは平高清のことで、平維盛の嫡男、平重盛の嫡孫、すなはち平清盛の曾孫、つまり平家の嫡流につながる人物だそうです(→→→こちら)。生まれは承安3年(1173年)、平正盛から数えて直系の6代目に当たることから「六代(ろくだい)」という幼名を名づけられたそうです。源義仲が京都を制圧した時は、平氏の一族から離れ、京都に母親と潜伏していたそうです。平氏滅亡後は、北条時政の捜索によって捕らえられ、清盛の曾孫ということで、本来なら鎌倉に送られて斬首になるところでしたが、頼朝と親しかった文覚上人(→→→こちら)の助命嘆願があって処刑を免れたのです。その後は出家して妙覚と号す僧侶となり、また源頼朝もこれを許し、六代を関東に滞在させ、いずれはどこかの寺の別当職に任命しようと申し出ていたそうです。しかし、頼朝公の突然の死により運命が暗転します。頼朝の死後、将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれて、六代の庇護者であった文覚上人が佐渡へ配流され失脚してします。これに連座して六代もこのときに捕えられ、逗子のこの地で処刑されたということです。この場所から、少し山を登ったところに「六代御前の墓」があります。六代御前の墓の由来が説明された説明板もありました。そして、この墓は、江戸時代、六代の家臣斎藤氏の末裔を名乗る水戸藩士斎藤仁左衛門によって建てられた供養塚になります。六代御前が処刑された経緯には、鎌倉幕府の正式歴史書の「吾妻鑑」にも記録がなく、時期も場所も諸説あるそうですが、平家物語によると、逗子にある田越川で処刑されたと伝わっているそうです。このケヤキの巨木の根元にある石碑が、六代御前の墓でした。六代御前の墓の次は、この急坂を登り次の目的地である長柄桜山古墳群に向かいました。(逗子~神武寺コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その2) 六代御前の墓
Apr 15, 2025
コメント(22)

2025年3月21日、飛び石連休の一日を使ってJR東日本の催行する「桜と豊かな歴史を感じるコース」に参加してきました。その報告です。スタートはここJR横須賀線の逗子駅です。駅への到着が早かったので、駅からハイキングの参加受付は準備中でした。受付を終えて歩いて行くと、逗子市役所が見えてきました。逗子市役所の北隣りあったのが、こちらの「亀岡八幡宮」(→→→こちら)です。隣りの鎌倉市にある鶴岡八幡宮に対抗して亀岡八幡宮なんでしょうか?立地している小字「高畠」が、「なだらかな岡で、亀の背中のようであった」というところから、亀岡八幡宮となったそうです。こちらが社殿です。第15代應神天皇をお祀りしています。この社殿は、大正8年(1919年)12月に「神饌幣帛料供進神社」に指定されたことを記念して、大正12年(1923年)2月に現社殿を新築したそうです。しかし、その年の9月1日に関東大震災に遇ったが、辛うじて倒潰を免れ、修復を加えて現在に至っています。なかなか、粘り強い建物ですね。社殿の前には、社号に因んで、亀が設置されていました。こちらが、京浜急行の逗子・葉山駅。品川から逗子にやって来るのには、所要時間はJRも京浜急行は余り変わらないようですが、ICカード利用で、JRの場合は736円、京浜急行の場合は620円。ということで、MoMo太郎は京浜急行を利用して逗子までやって来ました。(逗子~神武寺コース)【つづく】人気ブログランキング逗子からハイキング(その1) 逗子の街
Apr 14, 2025
コメント(23)

新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。四谷の大通り。新宿通りに面した明治30年(1897年)に開業した老舗のカステラ屋(→→→こちら)さん。カステラををはじめたのは大正5年(1916年)になるそうです。このカステラ屋さんの脇の路地を入って行くと、たいやき屋さんがあります。よくみると長い行列が、ここが東京たい焼き御三家のひとつ「わかば」(→→→こちら)です。単なる駄菓子のたい焼きで行列ができるほどの人気があるとは、只のたい焼きではないんでしょうね。ちなみに、東京たい焼き御三家とは、麻布商店街に店を構える元祖たい焼き店「浪花家総本店」、人形町「柳屋」、そしてこの四谷の「たいやき わかば」です。人形町「柳屋」のたい焼きは、頭から尻尾の先まであんこがぎっしり詰まってますよ。人気ブログランキング新宿彷徨(その38) 行列のできるたい焼き屋さん
Apr 13, 2025
コメント(32)

新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。四谷の町には坂道が多い、須賀神社からこの坂道を登って行きます。観音坂という名称の坂です。新宿区教育委員会が設置した標識によると、西念寺と真成院の間を南に下る坂。坂名は真成院の潮踏観音に因む。別名は西念寺坂、潮踏坂、潮干坂。潮踏観音は、江戸時代以前に四谷周辺が潮踏の里と呼ばれていたことに因む。潮の干満につれ台石が湿ったり乾いたりするので汐干観音とも呼ばれた。とありました。ということで、こちらの西念寺(→→→こちら)にやって来ました。浄土宗・西念寺は、文禄2年(1593年)に服部半蔵が創建した寺です。当初は麹町清水谷にあり、寛永11年(1634年)の江戸城の拡張工事によって、現在地へと移ったそうです。このお寺には、織田信長のために切腹を命ぜられた徳川家康の長男信康を供養するため、半蔵が西念寺を創建したお寺で、また服部半蔵の墓もあります。。この説明板にあるように、槍の名手であった服部半蔵が、徳川家康から拝領した槍が保管されています。槍はこの本堂の中に保管されています。人気ブログランキング新宿彷徨(その37) 西念寺(服部半蔵の墓)
Apr 12, 2025
コメント(12)

新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。四谷の町を歩くと、四谷というだけあって台地と低地が入り組んだ地形になっています。その台地に上に須賀神社(→→→こちら)があり、この石段を上がって行きます。さすが、四谷十八ヵ町の総鎮守といわれるだけあって、大きな社号碑があります。石段の上は、境内の一部が須賀公園(→→→こちら)という新宿区立公園になっています。そして、その先にあるのが、須賀神社の大鳥居です。鳥居に掲げられた社額です。須賀神社と大鳥神社の二つの幟がありました。これは須佐之男命を主祭神とする須賀神社の社殿の中に相殿(→→→こちら)として、日本武命を祭神といる大鳥神社があるからだそうです。多くの提灯が奉納され、氏子の皆さんからの崇敬の篤さを感じられます。そしてこれが社殿。こちらに参拝させていただきました。扁額には、須賀大神と稲荷大神の二つの神様の名前がありました。つまり、主祭神は須佐之男命(須賀大神)と宇迦能御魂命(稲荷大神)の二柱があるということです。今の須賀神社はもと稲荷神社でした。またその後寛永20年に須佐之男命を合祀するようになったということです。社殿の内部は、金色で神々しい雰囲気でした。人気ブログランキング新宿彷徨(その36) 須賀神社
Apr 11, 2025
コメント(26)

さいたま新都心にあったクリニック(→→→こちら)です。ジャガー横田さんの配偶者の木下先生に診察してもらえるんでしょうか。受付でキューティー鈴木さん(→→→こちら)がいたら通院してもいいかな。人気ブログランキングジャガークリニック
Apr 10, 2025
コメント(24)

この由比ヶ浜大通りを歩いて鎌倉駅に向かいます。両脇に商店が立ち並び、車通りも多い商店街です。途中で見かけたレトロ感のあるこの建物。「THE BANK」というバーのようでしたが、おそらく、どこかの銀行の由比ヶ濱出張所だったのでしょうね。六地蔵という交差点には、由比ヶ浜六地蔵(→→→こちら)がありました。鎌倉時代、この辺りに刑場があったと言われ、罪人の霊を弔うために六地蔵をおいたと言われていますが、いつ作られたものなのかは不明なんだそうです。六地蔵というのはここに限らず、よく見かけるものですが、どうして6体の地蔵なのか、調べてみると、仏教では、人間を含めすべての生物は天道 人間道 修羅 道・畜生道・餓鬼道 地獄道の6種の世界 (六道) に生まれ変わりを繰り返すと考えられているそうです。 六道それぞれの苦しみを6種の地蔵が救うという考えから6体の地蔵を並べて祀っているのだそうです。江ノ電の踏切の手前を左折すると「御成通り」という商店街に入って行きます。アーチの柱には「湘南人御用達」と表示されていました。鎌倉駅東口にある小町通りが、鎌倉にやってきた観光客向けの商店街だとすると、こちらの御成通りは、地元民向けの落ち着いた商店街ということでしょうか。賑やかな観光地風の小町通りと違って、こちらの通りには、気の利いたオシャレな雑貨店やセンスの良いカフェが点在した落ち着いた通りになっています。鎌倉通ならこちらの商店街を歩くのもいいですね。御成通りは鎌倉駅西口に続きます。こちらは観光客でごった返す東口とは違って落ち着いた雰囲気の西口です。こちらが江ノ電の鎌倉駅。こちらがJR東日本の鎌倉駅です。ここから横須賀線に乗って帰りました。(鎌倉まち歩きコース)【了】人気ブログランキングへ早春の鎌倉(その20) 由比ヶ浜大通り、御成通り、そして鎌倉駅西口
Apr 9, 2025
コメント(22)

鎌倉シンボルといえば、やっぱり鎌倉大仏高徳院(→→→こちら)ですね。ということで、鎌倉大仏のある高徳院へやって来ました。高徳院は正式には大異山高徳院清浄泉寺と号するお寺です。こちらの山門には山号「大異山」を記す扁額が掲げられており内部に安置された一対の仁王像に因んで仁王門と呼ばれています。拝観料300円を払って大仏見物をすることにしました。国宝鎌倉大仏の正式名称は、国宝銅造阿弥陀如来坐像というそうです。最初につくられたのは木造の大仏で、寛元元年(1243年)に大仏と大仏殿が竣工しましたが、寛元5年(1247年)の台風で倒れてしまったたため、青銅の大仏が建長4年(1252年)に鋳造が開始されたそうです。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられています。鎌倉大仏の重量は約121t、高さ(座長)は11.31m、台座を含めると13.35mあります。鎌倉の大仏は露座(屋根のないところに座ること)となっていますが、当初は大仏殿内に安置されていたといわれています。「太平記」と「鎌倉大日記」によると、鎌倉幕府が滅びた後、台風や大地震の影響により、大仏殿が崩壊したのだそうです。露坐となり荒廃が進んだ大仏は、江戸中期に、浅草の商人野島新左衛門の寄付によって、祐天(当時の増上寺の高僧)により、鋳掛修復されました。さらに、大正12年(1923年)の関東大震災では基壇が壊れ1メートル沈下しました。しかし、その翌年に基壇は建築学者内田祥三を顧問として戸田組(現戸田建設)により、仏身は帝室技芸員新海竹太郎を顧問に安倍胤斎によって修理が行われたそうです。その後、昭和27年(1959年)から2年間行われた大修理では基壇を免震にし、大仏本体にも補強を施すなどを行い、平成29年(2017年)1月から3月まで保存修理と調査が行われています。歌人の与謝野晶子に「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」と詠まれるだけのことはあって、弓なりになっている鼻の線からつづくまゆげ、水平な目、微笑をたたえた口は、シュッとした男前という感じもしますね。後ろに回ると大仏様、やや俯き加減で参拝者を見下ろしているのですね。また、大仏の胎内も拝観できるので内部の換気のために背中に換気扉が明けられています。なんか巨大ロボットを修理しているように思えました。高徳院の裏庭に当たる場所には、与謝野晶子の歌碑があります。「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな 晶子」と刻まれているんでしょうね。傍らには、与謝野晶子の書いた文字と、清書が添えられていました。境内に咲いていたツバキの花です。大仏様の藁草履です。長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgというもので、昭和31年(1956年)以降、現在にいたるまで、常陸太田市松栄町の子供会によって、3年に一度、巨大な藁草履の制作を行い、奉納されているそうです。時代小説「鞍馬天狗」や歴史小説「天皇の世紀」などで有名な大佛次郎(→→→こちら)という作家がいましたが、大佛次郎はペンネームで、本名野尻清彦というそうですが、このペンネームは、かつて鎌倉市長谷の大仏の裏手に住んでいたことに因んでつけられたそうですが、「だいぶつ じろう」とは読まず「おさらぎ じろう」と読むそうです。なぜ「おさらぎ」と読むのかというと、鎌倉大仏が建立されている場所は、もともと長谷の「おさらぎ」という地名であったことから、鎌倉大仏にかぎっては「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む場合があるそうです。また、この地に由来のある家系には「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む姓もあるんだそうです。(鎌倉まち歩きコース)【つづく】人気ブログランキングへ早春の鎌倉(その19) 鎌倉大仏
Apr 8, 2025
コメント(18)

そして、御霊(ごりょう)神社(→→→こちら)に向かいました。神社は、江ノ電の踏切のすぐ前に鎮座しています。そういえば、ここの神社と踏切って、中井貴一と小泉今日子の「最後から二番目の恋」でも使われていたような記憶が・・・。これが江ノ電の線路です。残念なことに境内は撮影禁止なので、ここから先の撮影はできませんでした。鎌倉御霊神社は平安時代末期に建立された歴史ある神社で、御祭神は鎌倉権五郎景政(→→→こちら)。鎌倉景政は、平安時代後期の坂東平氏の一族であり、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の5氏とともに鎌倉武士団を率い、現在の湘南地方一帯の地方開発に従事していました。また、その武勇をもって知られ、16歳の時、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年-1087年)に従軍して、左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し帰還したそうです。このあと、長谷寺(→→→こちら)に向かいました。その途中で見かけた建物です。この建物は鎌倉市都市景観条例に基づいて景観重要建築物等に指定されている「白日堂」(→→→こちら)です。昭和15年に鎌倉彫の工房兼住宅として建てられた建物で、戦前の鎌倉彫の工房兼住宅を代表する貴重な遺構だそうです。長谷観音という名で親しまれる長谷寺に続く参道です。ここにも景観重要建築物等がありました。この旅館対僊閣(たいせんかく)(→→→こちら)は、戦前の和風旅館としての佇まいをよく残している建物です。「海光山慈照院長谷寺」と号される長谷寺(→→→こちら)の山門です。山門の前にある大きな松の木は「門かぶりの松」と呼ばれています。「門かぶりの松」に隠れて建つ寺号碑には「長谷大観音」と刻まれていました。長谷寺は、天平8年(736年)の建立の大変歴史のある鎌倉のお寺です。本尊の十一面観世音菩薩、通称「長谷観音」は奈良時代にクスノキの霊木より刻出されたと伝えられています。また、境内を彩る花々は「鎌倉の西方極楽浄土」と賞賛されていているそうです。極楽浄土に入るには、やっぱり三途の川の渡し賃の拝観料というお金(大人400円)が必要です。ということで、極楽浄土に入るには少し早いMoMo太郎としては、山門から、その極楽浄土を少し覗いてみました。(鎌倉まち歩きコース)【つづく】人気ブログランキングへ早春の鎌倉(その18) 御霊神社と長谷寺
Apr 7, 2025
コメント(24)

極楽寺切通に向かって極楽寺坂を登って行きます。その途中にある成就院(→→→こちら)にお参りします。ここに来る途中に訪れた星の井に隣接した明鏡山圓滿院星井寺虚空蔵堂は、この成就院が管理する境外仏堂になるそうです。寺号碑には「普明山 法立寺 成就院」と彫られていました。参道の長い108段の石段を登って山門に着きました。成就院は、空海(弘法大師)が諸国巡礼の折、百日間にわたり虚空蔵求聞持法(虚空蔵菩薩の真言を百万回唱える修行)を行ったところと伝えられるこの地に、鎌倉幕府の三代執権北条泰時が承久元年(1219年)に建立したと言われています。新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失したが、江戸時代に再建されたそうです。これが本堂です。境内にもいろいろありました。これは「子安地蔵と子生み石」で、安産祈願・子宝祈願・子育て祈願にご利益があると言われています。こちらは本尊 不動明王 御分身と言われる像で、人気があるそうです。というのも、この不動明王は、縁結び・恋愛成就にご利益があるそうで、「縁結び不動明王像」と呼ばれているそうです。参拝を終えて、石段を下ろうとおもったら眼下には由比ヶ浜の絶景が広がっていました。再び、極楽寺坂を少し上がって行くと、また、鎌倉町青年団の石碑がありました極楽寺坂は、極楽寺を開山した忍性が一本の路を切り開いたと伝えられているの極楽寺切通と言うのはこの坂のことです。元弘3年(1333年)、鎌倉討入で、大館宗氏と江田行義の新田軍がこの道に向かいました。鎌倉軍は大仏貞直(北条貞直)を大将として、この坂に陣取って相戦った場所になります。(鎌倉まち歩きコース)【つづく】人気ブログランキングへ早春の鎌倉(その17) 成就院と極楽寺坂
Apr 6, 2025
コメント(32)

海岸から逸れて、星の井通りという道に入って行くと、いかも古くからある老舗の和菓子屋、力餅屋(→→→こちら)を発見しました。300年以上続くお店だそうです。こういう個人商店で代々続くというのは、三越(創業:延宝元年(1673年))、松坂屋(創業:慶長16年(1611年))などに劣らないですね。店の横ある道標、「五霊社鎌倉権五郎景政」と刻まれていました。この後、鎌倉権五郎景政(→→→こちら)ゆかりの御霊神社にお参りする予定です。星の井通りを極楽寺坂に向かっていくと、またありました鎌倉町青年団の石碑「星月井」。この石碑の傍に、井戸がありました。星の井又は星月の井と呼ばれる井戸です。鎌倉十井(→→→こちら)の一つで、井戸を覗くと星が輝いて見えたという伝説からこの名があるそうです。そして、奈良時代の僧侶の行基が井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い、お堂を建て虚空蔵菩薩を祀ったそうです。星ノ井の水は清らかで、美味だったそうで昭和初期まで飲料水として旅人に売られていたそうです。この星の井の傍あるのが明鏡山円満院星井寺の虚空蔵堂と舟守地蔵です。丑年と寅年生まれの守り本尊である虚空蔵菩薩にお参りします。この石段を登って行きました。こちらが虚空蔵堂の本堂です。本堂の横にあるのが舟守地蔵。こちらの壁面にある説明では、いつの時代に開眼されたお地蔵であるか不明であるが往年より海上安全、大漁満足、身宮安泰、海難、水難除け、その他船舶水に関係した一切の事業に従事しておられる人々に大きな功徳をお授け下さるお地蔵として近郷近在の人々に深く崇敬されております。また、その昔より願主の心清く精進すれば願い事を数日で成就させていだける有難いお地蔵様であるとも言い伝えられております。とありました。(鎌倉まち歩きコース)【つづく】人気ブログランキングへ早春の鎌倉(その16) 星の井と舟守地蔵
Apr 5, 2025
コメント(22)

鎌倉時代には、鶴岡八幡宮の前の浜という意味から「前浜」と呼ばれていた由比ヶ浜です。もともとは 稲村ヶ崎から飯島岬までの海岸の総称だったそうですが、今では、滑川から飯島岬までの東側を材木座海岸と呼んでいます。こちらは飯島岬までの材木座海岸になります。そして滑川の西側から稲瀬川までの間を由比ヶ浜、稲瀬川から稲村ケ崎をまでを坂ノ下海岸と呼ぶそうです。こちらが由比ヶ浜になります。ちなみに海水浴場の場合は「由比ガ浜」を表記するみたいです。ところで、由比ヶ浜(ゆいがはま)という名称の由来ですが、「ゆい」は「結」で、「お互いに助け合う労働組織」を意味しているそうで、静岡県静岡市清水区にある由比という地名もそれに由来してるようですね。海岸沿いにしばらく歩いていくとこのようなモニュメントがありました。台座には、「愛されて百年 海水浴場 波動」と刻まれています。由比ヶ浜は、明治17年(1884年)、医学者長与専斎によって「海水浴に最適の地」と称されて開かれた海で、それから100年後の昭和58年(1983年)に建立されました(→→→こちら)。ちょっと、いい感じにアメリカンに見えたレストランです。歩道の上にあった方角を示す舗装。よく見ると鎌倉に因む俳句や短歌が描かれていました。こちらは「鎌倉生きて出でけん初松魚(かつお)」という芭蕉の俳句です。「波音の由比ヶ浜より初電車」という高浜虚子の俳句。「卯の花に聞きこそなわじほほとぎす」安斎仙鳥女の俳句です。安斎仙鳥は江戸時代の鎌倉の俳人で30歳前に寡婦となった人で追善集「卯の花くもり」というのがあるそうです。そして、与謝野晶子の「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」という短歌です。(鎌倉まち歩きコース)【つづく】人気ブログランキングへ早春の鎌倉(その15) 由比ガ浜海水浴場
Apr 4, 2025
コメント(24)

材木座海岸と由比ヶ浜の境になるのが、この川です。ところで、「由比ヶ浜」と書くべきか「由比ガ浜」と書くべきか悩ましいところですが、一般的に海岸を表す時は「由比ヶ浜」で、地名を表す時は「由比ガ浜」と書かれることが多いです。江ノ電の駅名は「由比ヶ浜駅」ですが住居表示では「鎌倉市由比ガ浜」と書くようです。滑川(なめりかわ)という河川で、鎌倉市と横浜市金沢区との境ある朝比奈峠を源流とし、全長は6.3キロメートル(→→→こちら)。川床をなめるように流れていることから付けられた名といわれているのだとか。この近くにあるのは、この4基の石柱がありました。何気にスルーしていたんですが、後で調べめてみると「魚藍観世音の石碑」(→→→こちら)というもので「魚類の霊を供養し、海浜の安全を願って建てた」そうです。三つの石碑に「観」「世」「音」と一字ずつ、一番右の石碑に「魚藍観世音」と彫られていて、「観」の字は、内閣総理大臣 佐藤栄作書、「世」の字は神奈川県知事 内山岩太郎書、「音」の字は鎌倉市長 山本正一書、「魚籃観世音」は鎌倉市議会長老の西川五山書だそうです。なお、魚藍観世音(→→→こちら)とは、三十三観音のひとつで、中国、唐の時代、仏が美しい乙女の姿で現れ、竹かごに入れた魚を売りながら仏法を広めたという故事に基づいて信仰されている観音だとか。こちらは「さくら貝の歌」(→→→こちら)の歌碑です。「わが恋の如く悲しさやさくら貝かたひらのみのさみしくありて」という作曲家の八洲秀章氏が、同海岸に打ち上げられたさくら貝を詠んだ短歌を基に、逗子町役場に勤める友人土屋花情氏が作詞したもの。八洲氏が曲を付け大ヒットした曲なんだそうです。この短歌は、胸を病んで18歳で亡くなった恋人・横山八重子を偲んで作ったのだとか。また、鎌倉の砂浜では、「さくら貝」の貝殻をよく見かけるそうで、かつては、浜一面がピンク色になるほど打ち上げられていたということだそうです。ふと空を見上げると、トンビが空を舞っていました。(鎌倉まち歩きコース)【つづく】人気ブログランキングへ早春の鎌倉(その14) 由比ヶ浜 滑川河口付近
Apr 3, 2025
コメント(21)

今日のランチは、気分転換したくて、「小諸そば」の天丼セット(760円税込み)をいただきました。海老天が1本、サービスでついていたのは得しましたね。立ち食いソバのチェーン店は色々ありますが、「小諸そば」は蕎麦が美味しいように思っています。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 天丼セット
Apr 2, 2025
コメント(31)

国道134号の下を抜けるこの地下道を抜ければ、材木座海岸(→→→こちら)です訪れた2月下旬でも、海に出てウィンドサーフィンする人もいました。海が好きなんですね。逗子の方、飯島岬までが材木座海岸になります。その先に大きな石を積んだようなものが見えます。これが国指定史跡の和賀江島(わかえのしま)(→→→こちら)。和賀江島は、鎌倉時代の貞永元年(1232年)に築かれた防波堤・人工島であり、現存する日本最古の築港遺跡だそうです。見えているのは干潮時に現れる築港の跡で、玉石を積んだ埠頭です。由比ガ浜の西端の稲村ケ崎です。富士山は雲に隠れて見えませんでした。約1キロ余りの海岸沿いを歩いて由比ヶ浜の方へ向かいます。由比ヶ浜の方にも建物が並んでいますね。海沿いのマンション、ちょっと憧れますが、住んでみると潮風で洗濯物が乾きにくいかも。国道の下を抜ける地下道の海岸側の出口は砂に埋もれないように塀が設置されていました。(鎌倉まち歩きコース)【つづく】人気ブログランキングへ早春の鎌倉(その13) 材木座海岸
Apr 1, 2025
コメント(30)
全30件 (30件中 1-30件目)
1


