MM2022のブログ

PR

×

プロフィール

MW2022

MW2022

カレンダー

コメント新着

天国にいるおじいちゃん@ Re:打席に入る前に、バットを天にかざして、天国にいるおじいちゃんに『力を貸してくれ』(08/24) 天国にいるおじいちゃんについては、 089…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2026.05.28
XML
カテゴリ: 内村鑑三
「宮部金吾」抜粋 自叙伝

「宮部金吾」宮部金吾博士記念出版刊行会(昭和28年6月10日発行)

P32-4 3 札幌農学校生徒時代(明治10年-14年)

1 東京より札幌へ

官費生応募  東京英語学校一級在学中、明治10年6月14日、開拓使九等出仕堀誠太郎氏が英語学校の我が一級の教室を訪れて札幌農学校の官費生募集の演説をした。堀氏は植物分類学者理学博士中井猛之進氏の厳父で、クラーク先生が校長なりし時米国アマスト市の州立農学校に学び、帰朝してクラーク先生の通訳をしておった。クラーク先生が校長なりし米国アマスト市の州立農学校に学び、帰朝して、クラーク先生の通訳をしておった。氏はその時、初めに北海道の開拓を説き、更に進んで北国の風物を興味深く面白く話され、終りに官費制度の事を詳細に語られた。学費の乏しかった士族の子弟が多かったので、官費であるという点が特に注意をひき、12名も志願する結果となり、時の校長、服部一三氏を驚かす事となったのである。当時、私は前にのべた松浦竹四郎氏の著書や直話で蝦夷(えぞ)を知っており、遥かなるその土地をなつかしく思っていた時の事とて、堀氏の演説で、蝦夷植物の探求心はますます燃え、帰宅して直ちに母に許しを乞うた。私は前年にも志願する資格は有ったが、兄が二人共(長兄美勲は宮城県庁に、次兄文臣は神奈川県庁に勤めていた)不在のため許されなかった。しかしこの年には横浜にいた次兄が農商務省山林局へ転勤になって帰宅しておったので、晴れて札幌遊学を許された。そしてその翌日、喜び勇んで登校したところ、やはり親の許しを受けて内村鑑三、太田〔新渡戸〕稲造の二君が、雀喜して登校してきた。この時からこの三人は生涯にわたる最も親密な友情関係を結んだのである。

英語学校の一級、二級の生徒は無試験入学を許されていたので、体格検査を受け、これも無事通過して、私は明治10年7月27日付で「開拓使付属札幌農学校官費生を申付」という辞令を受けた。当時の入学者は次の如くである。

 東京英語学校より入学(12名)

足立元太郎、藤田九三郎、伊藤英太郎、伊藤鏗太郎、岩崎行親、毛受駒次郎、

宮部金吾 、永井於莵彦、 太田稲造 、佐久間信恭、高木玉太郎、 内村鑑三

 工部大学予科より入学(4名)

広井勇 、町村金弥、南鷹次郎、諏訪鹿三

 長崎英語学校より入学(2名)

村岡久米一、西村規矩

                        計 18名

この18名は東京に家があるなしにかかわらず、皆、芝区新橋5丁目の植木屋という開拓使御用宿に集合を命じられ、約一か月間、同処の2階を占領し、元気極めてハツラツたるものがあった。この時、私と内村鑑三、太田稲造、岩崎行親の4人は6畳の間に陣取って四人組を組織し、立行社(身を立て道を行うの意)と名付けていた。

藤田九三郎君の遺された日記によれば、8月1日に開拓使より、金10円と服等(上着、ズボン、帽子、シャツ、ズボン下、靴、靴下)を受け取り、2日には雨着、カラー、襟飾り、ズボン吊り等を受け取るとある。8月10日は立行社の仲間と共に芝日蔭町の玉松という写真館で新調の制服を着用して一同並びに各自の記念写真を撮った。私はちょうどその時、17歳6か月であった。

なお植木屋に滞在中、開拓使の特別の交渉により、開会前に第一回内国勧業博覧会の縦覧を許され、掛員引率の下に、2台の乗合馬車にて上野の会場へ行った。出品物がだいたい陳列済になった時であったため、ゆるゆる充分に縦覧ができて一同大いに満足した。

たまたま一行の一人、足立元太郎君が、日蔭町の古本屋で、A.GRAY著Field,Forest and Garden Botany と CHAPMAN著の Flora of Southern States を買ってきた。この本は純粋な分類学書で科や属の検索表や種類の記載が記してあるが、足立氏は使途が判らず、つまらぬ本を買ったと後悔していたので札幌に来てからそれを譲り受けた。これより先、英語学校在学中、神田の聖堂にあった書籍館に通って植物書を漁っていた私は既にA.GRAY著Lessons in Botany や How Plants Grow を読んでいたので、グレーの本の面白さをよく知っていた。後年これらの本は、私の植物学研究初歩の時代にどれほど、役に立ったかわからない。


「宮部金吾」P35-36

札幌へ  笈(きゅう)を負(お)うて〔(史記蘇秦伝から)勉学のために故郷を離れる意味〕、青雲の志を抱き、いよいよ故郷東京に別れを告げ、明治10年8月27日、品川より開拓使の御用船玄武丸にて出帆した。玄武丸は644トンの蒸気船で、今日でこそ、小さな船なれ、当時としては鄙には稀な豪華船であった。もっともこの豪華船は非常に動揺しやすく、一名ゴロタ丸の別名を有していたほどである。中央部甲板の下にホールがあり、このホールは食堂兼談話室であった。ホールを中心にして一等室があり、各室とも定員2名、二等は舷側にあって定員4名、ベッドは上下に位置していた。三等室は舳(とも:船首)にあって、荷物が輻輳(ふくそう:一箇所に集中して混雑すること)すると積荷はその室にまで溢れて来た。私たちの乗船した時は、幸いに船客が極めて少なく、一行は一等室もしくは二等室をあてがわれた。この引率者は幹事であり、予科で英語の教師を兼ねていた井川冽氏である。途中大分荒れて一行にも船酔いを催すもの多く、町村金弥君はその時の船酔いの旗頭であった。8月30日函館に入港、9月2日まで停泊した。蝦夷の関門にいよいよ上陸第一歩をしるし、さわやかな陽の光に、感銘深い永き憧憬の地の初秋を感じた。暇を得て、函館山に上り、さまざまな珍しい植物に眼を惹かれ、また碧血(へっけつ)之碑〔函館戦争で旧幕府軍の戦死者を記念する慰霊碑。碧血とは、「義に殉じて流した武人の血は3年たつ
と碧色になる」(荘子)という中国の故事によるもの〕なども訪れてみた。町は思ったより相当殷賑(いんしん)であったが、やはり東京から来て見ると異郷に渡って来た思いがした。すれちがう女の魚売りの「さかなかはにしかね、さかなかはにしかね」と聞こえる呼び声や、「ぞにもつ、するこもつ」(雑煮餅、汁粉餅)などの看板に遥けくも来た道の遠さが思われた。9月3日早朝つつがなく小樽に入港、海路は極めて平穏であった。直ちに下船、入船川のほとりの海に面した宿で朝飯をしたためる。当時、手宮はまだ漁村で、入船町のあたりが港の中心であった。食後、馬20頭、鈴の音をひびかせて、いよいよ一同札幌に向かう。

国道は海浜に沿い、銭函までは漁村が散点していた。ただ張碓に近い神威古潭(カムイコタン)だけは、まだ道路が未完成で、高い断崖下に岩礫がるいるいしていた。好天に恵まれ、海も静かであったが故、波浪の洗礼もうけないで馬上無事通過、なお海沿いに銭函に進み、小坂をあがった所の宿で昼食をとり、鄙びた饅頭を食べる。この饅頭は銭函名物なりし酒饅頭の前身である。これから道は海にわかれ、鬱蒼たる森林を縫って軽川から琴似(ことに)に向かった。この間、所々に農家が散在していた。琴似で始めて屯田の建物らしい建物を見、ぽっかりと人里のあたたかさを感じ、またことに屯田の事務所や小学校などが爽かに眼についた。一行は遂に渡嶋通り、すなわち南一条から北二条西二丁目の薄暮の寄宿舎に着いた。布団もない荷物を両側に付けた駄鞍にのって来たので、尻は勿論、始めて乗った馬とて体の節々も痛く、気鋭の若者も一同大いに疲労した。玄関はひっそりとして一人の出迎えてくれる上級生もなく、全然空屋のような静けさであった。ただ遠くの室で、何か集会があるらしく、歌の声などが聞こえてきた。後でわかったことであるが、その時、上級生一同は復習室に集まって、ちょうど祈祷会を開いたところであったのだ。まず食事をとり、風呂に入る。2人ずつ既に割り当ててあり、各室のドアーの側に名札が掛っていた。実に偶然といえば偶然、私と内村君は同室になっていたのだ。ほの暗いランプの下で、虫の音を聞くともなく聞いていると、遥けくも来た旅愁を身にひしひしと感じた。当時寄宿舎の規定で、各学年ごとに室をかえ、また同時にコンビネーションもかえることができるようになっていたが、私共両人は室は変っても離れることなく、4年間一緒にいて、最も平和な楽しい生活を共にすることができた。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026.05.28 08:00:05


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: