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「玄奘三蔵 大唐大慈恩寺三蔵法師伝」抜粋砂漠を何十回ともなく往復した老人が法師に言う。「西への道は険悪で、非常に道が悪く長いのです。もし鬼魅熱風にあえば免れる者はありません。大勢でパーティを組んで行っても、なお時々迷います。師のようにお一人で行かれるのでは、どうして行きつくことができましょう。」「私は大法を求めんために、西方へ出発しようとしているのです。もしインドに至らなければ決して帰ってきません。たとえ中途で死んでも後悔しません。」*中国北京の古寺、雲居寺は、同寺が保管していた石に刻まれた般若心経が、唐代の中国の僧で、「西遊記」の三蔵法師として知られる玄奘三蔵による現存する最古の漢訳であることが分かった法師は、旅支度をして若い胡人の道案内と出発した。その夜、胡人は刀を抜いて法師に近づいた。法師はすぐ起き上がって誦経し観世音菩薩を念じた。胡人はそれを見ると、自分の寝床に戻っていった。そして翌日逃げ去った。法師は一人砂漠の中を歩いた。砂漠の中に突然軍隊が見えた。近づくと消え去る。法師は妖鬼の仕業であると思った。すると空中から「怖れるな、怖れるな」という声を聞いた。この声で落ち着きを得ることができた。砂漠では、空には飛ぶ鳥はなく、地上には走る獣はなく、草も生えていなかった。法師はただ観世音菩薩と「般若心経」を心に念じた。法師はいろんな奇怪な悪鬼が自分をめぐって前後するに会った。その時、観音を念じても、それらの悪鬼を去らせることはできなかったが、般若心経を読誦すると、声を発して皆消えてしまった。危険なときに救われたのは、実にこの経のお蔭であった。法師は専ら観音を念じて西北に進んだ。暴風・砂嵐が吹き散らして法師を苦しめ、ついに砂の中に倒れ伏した。法師は観音を念じた。『私のこの旅は財利を求め、名誉を願うものではない。ただ無上の正法のためである。仰ぎ思うに菩薩はすべての人を慈しみ、苦しみを救うのを務めとされている。どうして知らないのであろう。』法師が念ずると意識は失われなかった。更に道を行くと池を発見した。これは菩薩の慈悲によって生じたものである。人の至誠が神に通ずるのは、このようである。
2026.06.30
巡拝記にみる四国遍路娘巡礼記 高群逸枝逸枝が出かけた動機の一つは、母親の観音信仰が考えられる。逸枝は小学校校長を務めた父・高群勝太と母・登代の長女として生まれた。しかし、高群夫婦は逸枝の前に三人の子を産んだが早世させていた。夫婦は築後の清水観音に願掛けし、初観音の1月18日に生まれたのが逸枝だった。母は「この子を丈夫に成長させてくださいましたら、きっと一人で巡礼いたさせますから」と誓った。母の影響で逸枝は幼少時に母に連れられ観音寺院に参拝していた。逸枝は「実は私は最初花山院の御遺蹟である西国三十三か所の巡礼をと思っていたが」と記すが、四国遍路に出かけた。「何のために、とお問い下さるまじく候。実はわらわ自身すらも解しかね居り申し候。狂えるかと時折考え申し候。されど別に異状もなきように候。ただ極端に感激しやすく極端に懊悩しやすく声を放っておうぜんと泣きうるは不思議に候」と「九州日日新聞」の社会部長・宮崎大太郎にあてた手紙に記す。逸枝は、巡礼姿に身を包んで、大正7年6月4日、身を寄せていた熊本の専念寺を人力車に乗って出発した。金銭は宮崎に原稿を送るという約束で受け取った十円だけで十分ではなかった。6月10日大分の上井田でどこで泊まるか迷って真っ暗な村の中をとぼとぼ歩いていると、白装束を着た遍路帰りの40代の女性に会う。話を聞くと、宿に困った。なかなか泊めてくれない。旅費4,50円では足りず、修行して遍路を続けたという。「実のところ私のさいふは既に空だ。ままよ、別府で使い果たして無一文で四国をまわろうと考えついた」「私は心細くなってきた。でも構わない。生といい死という。そこに何ほどの事やある。私は信念を得たい、驚異を得たい、歓喜を得たい、さもなくば狂奔を得たい。とにかく苦しみ喚いていくうちにはたとえ方なき尊厳な高邁な信仰にも到達するであろう。私の生くべき途は、もはやそれ一つにあるのだ。私は、世にも尊いうるわしい気高い女であらねばならない。・・・・・・迫害よ!来たれ、わらわ豈おどろかんや。」6月12日 中井田で日が暮れ、ある小屋から「お遍路さん、お休みなされ」と70過ぎの老人から声がかかる。「今夜はここで泊まっておいで」おじいさんの名前は伊藤宮次。その夜寝ているとおじいさんから起こされた。「ねえさん、ねえさん。お前は、観音様をお供えしているのだな」「いいえ」「いや隠してもダメだ。お前は観音様と、因縁が非常に深い。でなけりゃ今の不思議が、あるわけない」「今の不思議とは?」「それはこうだ、わしが寝てから30分間ばかりしたかと思うと、まだ眠ってもいないのに上から、夢のように七つ八つの天冠をかぶったお稚児と、もう一人それの姿はよくわからなかったが私の頭の上あたりにおりてきて、すぐ消えてしまったのだ。きっと観音様に違いない」逸枝は、老人の話に圧倒されたが、嫌気がさして去ろうとしたが金がなく、翌13日雨が降り、おじいさんの家にいた。おじいさんは彼が四国巡拝中に頭のはげた浅黄の着物に縞かなにかを羽織った60くらいの人にあってお世話になったが、突如見えなくなった。宿でそのことを話すと、宿の人はそれは御大師様に違いないという、そこでもう一度その人に会いたいと思っていた。 そしておじいさんは「ありがたい、ありがたい。昨夜の観音の御示現といい、あなたはただならぬ人ときまった。もったいないがこのじいが、ご守護申して巡拝せねば仏にすまぬ。ここに10日余り滞在してください。きっとお供しますから。」「おれは金をもたん、そいで修行していくのじゃ。アンタもそのつもりで辛抱なされ」遍路では「修行」とは、門づけで米などを布施としてもらうことで、日々の食糧を確保することをいう。7月9日、逸枝と老人は出かけた。老人はお供として荷物を背負い、逸枝は巡礼姿で歩くだけであった。14日午前3時、大分から汽船宇和島丸に乗船して四国の伊予へ向かった。午前11時に八幡浜に上陸する。そしてこの地の大黒山吉蔵寺を訪ねる。それは逸枝が熊本を出るとき杖をくれた人が吉蔵寺にあてた紹介状を持っていたからである。逸枝は老人の提案で「逆打ち」で回ることにした。逸枝と老人が結願したのは10月18日である。文字通り歩き遍路二人同行3か月。おじいさんは別れ際に言った。「あなた様はどう考えても観音様の申し子だ、もったいない。あなたのお陰でこの年になって四国まいりができました」と涙をこぼした。
2026.06.30
山頭火の遍路句日記種田山頭火は昭和2年~3年四国遍路したが、その日記は昭和5年に焼き捨てた。奉納帳は親友・大山澄太の母親に差し上げた。死去1年前の昭和14年の秋に2度目の遍路を行い「四国遍路日記」を残した。「四国遍路日記」は11月1日から始まる。昭和14年11月1日 広島宇品港から松山市の高浜港にわたり、松山で約1か月逗留し、放浪最後の四国遍路に旅立つ。ー有明月のうつくしさ。今朝はいよいよの出発、更始一新、転一歩を踏み出さなければならない。7時出立、徳島へ向う。山頭火の遍路は行乞の旅で、その記録もあった。11月5日 行乞のむつかしさ、私はすっかり行乞の自信をなくした、行乞はつらいかな、やるせないかな8-11時行乞、いやでいやでたまらないけれども生きられないので、食べて泊るほどいただくまで、-3時まで行乞、かろうじて銭34銭米五合、頂戴して帰る伊予に入ると行乞の成果がよくなり「人情も信仰もあついものがある」と記した。山頭火の遍路はアルコールとの同行二人でもあった。11月22日~26日藤岡宅にとまった。「晴れたり曇ったり酔うたり覚めたり秋はゆく」ー山頭火はなまけもの也、わがままもの也、きまぐれもの也、虫に似たり、草のごとし。山頭火の宿は遍路宿と呼ばれる木賃宿だった。米や麦を宿に渡して炊いてもらう、炊飯の薪代(木賃)が料金としてとられる。□安宿で困るのは、便所のきたなさ、食器のきたなさ、夜具のきたなさ、虱(ムシ)のきたなさ、等々であろう。〇安宿に泊る人はたいがい真裸である。虱がとりつくのを避けるためである。「娘遍路日記」でも28番札所・大日寺にまいってのちの赤岡の木賃宿のきたなさを記す「便所のすぐ前で汚い壺が露わに見えている。それは横を向いて忍ぶとしてどうにも忍ばれないのは桶の中の湯である。まるで洗い落とされた垢の濁りで真っ黒である。これではいかにもたまらない。」屋島寺から讃岐の一宮寺に行く途中では「便所と流しの半間と離れていないのが何よりきたなく、部屋の畳のぬれてかびている気持ち悪さ、壁はでこごこでしみだらけ」木賃宿は農家が副業として行っていたもので、粗末な宿が多かった。山頭火はたまに よい宿に泊まれると喜んだ。11月9日高知和食ー町はずれの、松林の中のヱビスやにおちつく。ほんとうによい宿であった、きれいでしんせつでしずかで、そしてまじめで山頭火は夜に食事が終わると日記を書き句作した。(十一月一日)旅空ほつかりと朝月がある夜をこめておちつけない葦の葉ずれのちかづく山の、とほざかる山の雑木紅葉の落葉吹きまくる風のよろよろあるく秋の山山ひきずる地下足袋のやぶれお山のぼりくだり何かおとしたやうな(十一月三日)山家ひそかにもひたき明治節山の学校けふはよき日の旗をあげもみづる山の家あれば旗日の旗よい連れがあつて雑木もみぢやひよ鳥や旗日の旗は立てて村はとかくおるすがち村はるすがちの柿赤し山みち暮れいそぐりんだうこんなに草の実どこの草の実(改)しぐるるあしあとをたどりゆくトンネル吹きぬける風の葉がちるしぐれてぬれて旅ごろもしぼつてはゆくしぐれてぬれてまつかな柿もろたしぐるるほどは波の音たかく大魚籠ビクさかさまにしぐれてゐる濡れてはたらくめうとなかよくしぐれて人が海をみてゐる十一月四日野宿いろ/\波音おだやかな夢のふるさと秋風こんやも星空のました落葉しいて寝るよりほかない山のうつくしさ生きの身のいのちかなしく月澄みわたるいつぞやの野宿をわがいのちをはるもよろし大空を仰げば月の澄みわたるなり留置郵便はうれしいありがたい秋のたより一ト束おつかけてゐた波音の松風の秋の雨かな歩るくほかない秋の雨ふりつのる(十一月五日、室戸岬へ)おほらかにおしよせて白波ごろごろ浜水もころころ山から海へ銃後風景おぢいさんおばあさん炭を焼いてゐる旅はほろほろ月が出た旅のからだをぽりぽり掻いてゐる病みて旅人いつもニンニクたべてゐる(室戸)わだつみをまへにわがおべんたうまづしけれどもあらなみの石蕗の花ざかり松はかたむいてあら波のくだけるまゝ蔦がからまりもみづりて電信棒われいまここに海の青さのかぎりなし秋ふかく分け入るほどはあざみの花墓二つ三つ大樟のかげ落葉あたたかく噛みしめる御飯のひかりいちにち物いはず波音野宿さま/″\こんやはひとり波音につつまれて食べて寝て月がさしいる岩穴枯草ぬくう寝るとする蠅もきてゐる月夜あかるい舟があつてそのなかで寝る泊るところがないどかりと暮れたすすき原まつぱだかになつて虱をとるかうまでよりすがる蠅をうたうとするか水あり飲めばおいしく洗ふによろしく波音そのかみの悲劇のあと太平洋に面してぼうぼううちよせてわれをうつ現実直前の力。大地を踏みしめ踏みしめて歩け!山頭火は昭和15年10月11日にこの世を去った。
2026.06.30
円覚寺の亡くなられた足立大進老師「安心(あんじん)の道しるべ」「信は道の元」よりある日の夕方、東京から老師の知人が訪ねてきた。身内の小学生の娘に持病が有り、家族も手を尽くしたが治らない。そんな時、千葉に霊能者がいると勧められて、その方の指示によると、先祖に水子の亡者があって、その霊の障りがある。この障りを除くには懺悔の法を修するといい。どこかの寺で「普賢経」を読んでもらいなさい。必ず快癒すると言われたというのである。そこでなんとかしてやりたいのですがという相談であるので、老師は東京の寺のある住職を紹介し、その寺で水子供養をしてもらうよう手配してあげた。老師はさらにこう思われた。「わざわざその子どものために鎌倉まで足を運ばれ、頼りにされたのに、このままではいかん。」夜になって「仏説観普賢菩薩行法経」を拝読すると、長いお経の中に、五言で56句の偈文がある。老師は先師である朝比奈宗源老師が米寿の祝いのとき、人間国宝の方が漉(す)かれた紙が残っていたことを思い出して、写経をしようと思い立たれた。翌朝、硯を洗い、新しい筆で普賢経の偈文を書写された。そして速達で東京の寺に送って、ご供養の時に仏壇に供えてもらうよう依頼をした。数日後、無事に水子供養の法要もすませたという連絡があった。今ではその子はプールで泳げるようになり、旅行に行くこともできるようになった。老師はこう書かれている。「感応道交(かんのうどうこう)」と申しますが、善根を志す衆生の願いが仏に通じ、仏様が衆生の信心のまことに感じて、慈悲を垂れて応えて下さるという意味でございます。善根を積み、仏道を成就しようと衆生が志を発すると、仏様が不可思議な力でもってお応えくださる。それは、池の水が天に昇るのでもなく、月が池に降りてくるというのでもないのに、すべての池の面に月が映る。そのように、仏様がお応えくださるのです。病気は仏道の入り口である。病気が治って、ありがたい、うれしいと思うところが、道の入り口で、そこから奥にすすんで、日常一切のことをありがたく思い、生き死には神仏にまかせ、日々楽しみ暮らすまことの信心をしなければなりません。「信は道の元、功徳の母」と申します。信心こそが正しい仏道の本源であり、あらゆる功徳を得る母であると教えているのです。
2026.06.30

20台湾製糖株式会社設立・ 明治28年台湾が日本に帰属。井上馨、児玉総督、後藤新平、新渡戸稲造らによる台湾振興政策。 後藤新平 と児玉源太郎台湾総督・明治33年に創設発起人会。藤三郎、山本悌二郎による実地調査。藤三郎が台湾製糖の初代社長に選任。工場地の選定。藤三郎の踏査の結果「橋頭」が最適地として選ばれる。社有地農場の買収。両得農業法によるWINWINの関係。自ら工業建設。修理工場の建設=自助の精神による会社運営。台湾製糖は台湾最初の製糖会社。この方法が台湾産業近代化の礎。「台湾製糖株式会社史」に「鈴木藤三郎氏は、工場建設地選定その他の要件取調のため、山本悌二郎氏を同伴、明治三十三年(1900)十月一日、新橋駅を出発し、三日神戸出帆、七日台北に到着した。十三日まで同地に滞在の上、総督初め諸官に面会し打合せを行い、十月十四日基隆出帆、安平に上陸し十六日台南到着、三日間同地に滞在後、実地踏査にとりかかった。初めは工場を麻豆付近に置く予定であったが、先づ高雄に出た。次いで鳳山に至り、それより万丹、東港を経て、糖業地の南端の枋寮に到着した。当社は当時既に土地を所有し、自ら耕作する目論見を立てていたから、枋寮以北の大原野について、特に注意して踏査検分した。枋寮と石光見との間には蕃界に接して原野があり、石光見より阿緱街(現屏東市)付近にかけても大原野が横たわっている。この大原野を通過し阿里港に出で、下淡水渓を渡って手巾寮に至り、蕃薯寮を過ぎ、山を越え関帝廟に出で、台南に帰着したが、この行程に費した日時は二週間に及んだ。更に北上し、大目降、曾文渓を経て・・・それより塩水港に出で新営商に至り、軽便鉄道で台南に帰着した。この間十一日を要し、前後を通じて二十四五日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿緱付近の大原野、即ち現在当社の阿緱及び東港両製糖所区域たる万隆及び大晌営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼をみはらせるものがある。以上の如き実地大調査を終えて、鈴木藤三郎が帰京したのは明治三十三年(1900)十二月二日であった。」とあります。工場は最初、総督府の調査に基づいて、麻豆付近に置こうと考えていましたが、鈴木、山本両氏が踏査した結果、曾文渓、橋子頭の2か所が候補地に挙げられ、運搬及び水に便利がよいことから橋子頭に決定しました。明治34年2月15日に建設工事に着手します。工場の設計設備に最も力を注ぎ、その実行を指揮したのは鈴木藤三郎社長でした。藤三郎は、さとうきびを搾って分蜜糖を製出した経験はなく、また工場建設に参考となるものもなかったので、ロンドンで出版された「シュガー」の一小図版を参考として設計図を作成しました。当時、最先端の技術は欧米諸国の技術者の助言援助等に頼っていましたが、そうした方策は採らず、北海道紋鼈の甜菜糖工場で製糖技術を修得した齋藤定雋氏らを用い実際の仕事を進めました。「鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。」とあります。
2026.06.30
大智禅師偈頌講話 沢木興道 坐中感あり(三) その2【坐中有感(三)】 衲被蒙頭休萬機 (衲被蒙頭万機休す)心如墻壁眼如眉 (心は墻壁の如く眼は眉の如し)一條古路長荒草 (一条の古路荒草を長す)家破人亡何處歸 (家破れ人亡じて何れの処にか帰せん) 今から九百年ばかり前に、これは公案を考える坐禅がはやった。これを看話(かんな)という。それで、なんにもせずにただ坐っておるのが、そちらの方からは非常に馬鹿に見えた。そこで、これを黙照の邪禅ということがある。ただ黙って坐っておるから、黙照邪禅という。そこで、真歇(しんけつ)が『真歇拈古(ねんこ)』をこちらえ、宏智(わんし)禅師が『坐禅箴(しん)』というものをこしらえて、坐禅の中に何物かを持ち込むのは邪道である、ということを証明した。 ところが、人間というものは、なにかこうヘッキリをこしらえたほうが分りよい。「何メートル山へ登った。ソラ、うんとこどっこい。もう何合目」富士山に登ってもそれが苦になって仕方がない。あれと一緒じゃ。もうどれだけ行ったか。それが大変じゃ。もうわずか一キロもない。六百メートルというころになってから、ウンとこどっこい。もうあと胸突き八丁、もう九合目の中ほどからがウンとこどっこいじゃ。もう、どれだけ来たか知らん。それが心配でかなわん。いやこれが五合目、七合目、いや八合目、九合目、目印に頼る。ちょうどそのように、「ウンとこどっこい、やれこらどっこい。そら六根清浄」と、この人間はヘッキリをつけ、仕切り目を入れた方がいい。ついおらなかったら、なにをしておるのか訳が分らん。 こういうような理屈に、ちょうど馬でも、牛でも使うのには、なにか餌があったほうがいい。そこで公案という餌を見せて、そうしてひっぱり上げるのがいい。ところが、道というものは、年数が経つと、つかまるか、つかまらんか、これは問題だが、年数というものが経っても、道というものは偉くならん。われわれ坊主はお布施多くなる。世の中の人を感心さすことが上手になる。この上歳を取ったらどうなるか。 わたしら若いとき、十八、九のときには、二十五、六になったら、どのくらい偉うなるか。二十五、六のときには、三十五、六ぐらいになったら、どのくらい偉うなるか。三十ぐらいのときに、「沢木さんは歳を取ったら、どのくらい偉うなるか」といいよった。ところが三十になっても偉うならん。ちょっと人間皺が寄った。このころは一晩寝ずに勉強せいというても、そんな勉強はできん。一晩もやっておったら、頭がグラグラする。年寄っても、人間決して偉くならん。現状維持するのがやっとこである。そのうちに、筋肉まで崩れて来る。右を開いたら、努力せんと塞がらんようになる。道というものは、決して年が経つほど偉くなるものではない。わしはそうなんじゃ。(大智禅師偈頌講話p.79-82)
2026.06.30

183二宮翁逸話64 翁の死翁は安政3年10月20日巳の刻すなわち今の午後11時頃野州今市の官舎において瞑目された。翁の危篤なることが栢山にある弟、三郎左衛門に通達せらるや、そうこう行李(こうり)を整え昼夜兼行で今市に行った。すると翁はほとんど切れそうである呼吸を三郎左衛門が到着するまでは引き取らなかったということである。やがて三郎左衛門の到着せしことを耳にするや直ちに瞑目されたということである。☆二宮尊徳先生の弟に対する肉親の情は人一倍厚かったことがうかがわれる。また、非常に貴重な証言が三郎左衛門から出ている。母ヨシが幼い子どもらを連れて実家の法事に行った話は、実の弟ならではある。この時、金次郎は母に誓ったのだ。「父さん、母さんきっと長生きしてください。 わたしが成人したらよく精出して働いて父さん母さんをきっと楽にして安心させます。」また、尊徳先生が弟にあてた手紙の内容も素晴らしい。その考えはものごとの根源にいたろうとしている。「先祖代々の家名を相続して、親を大切に養育することを根本に工夫するほかはありません。そのほかはみな私欲から出て、後に必ず破れるものです。・・・わが身の元を知りたまえ。わが身はわがものか。いよいよわがものであるならば、いずこの国から持参したもうたか。いつの頃、何をもって造りたもうたか。いつ口をつくって飲み食いし、味を知りたもうか。いつ手をつくって用をたし、業をしたもうか。いつ足をつくって歩き、諸国へ行き、帰りたもうか。いつ目をつくって世界万物を見たもうか。いつ耳をつくって人の善し悪し、あるいは泣き笑う声、音曲、さらに中国、インドのことまで聞き知りたもうか。いつ鼻をつくって息をはいたり吸ったり、さまざまの香りを知り分かちたもうか。作った覚えがあるか。無ければまったくわが身ではない。このようにわが身さえわがものでないならば、天地の間にあるもの、みんな天地が造化しておいたものであることを知らず、なお田畑、山林、家屋敷、めいめい先祖が丹精して子孫に伝えようとしたことだとも知らないで、生涯わが心のままに、自由自在だとするから、人と生まれて人であるかいもなく、心のままにはならないのです。右の元を知って、御恩礼を勤めれば、直ちに我と天地と一体になって、富貴万福心のままにならないことはない。 おのが身は 有無の都の渡し舟 行くも帰るも 風にまかせて12月29日」三郎左衛門も兄を敬うこと厚かった。金次郎が一家を廃して桜街陣屋に行く時も甥の弥太郎をおんぶしてずっと見送ったと伝えられる。桜街時代も何度も小田原から兄のもとに教えを請いに行っている。兄もまた弟の無心にはできるだけ答えたようだ。三郎左衛門は父譲りに人の頼みを断れなかったようだ、郡司という人に百両の金策を頼まれ、一緒に桜街に出かけ、兄に融通をお願いする。手元にあるのはこれだけだと80両渡され、家族の反対にもかかわらず、三郎左衛門は自分の農地を質入して20両を作り100両にして郡司に渡している。そのことを聞いて尊徳先生が泣いてこう言って喜んだという。「それでおまえも人間の仲間入りができた」三郎左衛門は、「兄貴が自分をほめてくれたことは、これが生涯にタッタ一遍であった」と一つ物語りに語ったのだという。三郎左衛門は、兄の遺髪と遺歯を父祖の地に持ち帰って法要し、菩提寺善栄寺の墓に収めた。
2026.06.30
<W杯>日本代表・森保監督の言葉を中国ネット絶賛=「感動した」「文句のつけようない」森保監督はグループ最終戦のスウェーデン戦に1-1で引き分けた後の会見で、「日本サッカーの成功は日本だけでなくアジアのサッカーに希望をもたらすものだとお考えですか?」との質問を受け、「おっしゃる通りだと思います。われわれは日本代表として、日本の誇りを持って世界に挑むことを考えていながらも、アジアの予選を戦って勝ち抜いてきたので、日ごろからアジアの中で切磋琢磨している国々の代表として、アジアの代表として戦うという意識も持っています」と述べた。その上で、「(グループ)第2戦、アジア勢がなかなか良い結果が得られない中、われわれは今日、勝ちはできませんでしたけど、勝利をお届けする、そしていい戦いをして、アジアの人たちに自信を持ってもらえるように、勇気を持ってもらえるように、そしてアジアの希望となれるようにということは考えています。アジア全体でもっともっと切磋琢磨して、世界の舞台で他の大陸よりアジアの大陸の方がレベルが高く戦えているというような思いになれるように、将来的になればいいと思っています」と語った。この発言に、中国のネットユーザーからは「森保一監督の言葉はいつもドラマチック」「日本がどうこうとではなく、アジア全体の名誉のために挑む。これが度量だ」「日本のサッカー、そして監督には文句のつけようがない」「準備した原稿がない状況でこんな回答ができるなんて、本当に教養があるんだと思う」「とても感動した。ぜひ頑張ってほしい」「アジアの最後の砦」「日本にはアジアのサッカーを代表して、W杯でできるだけ高いところへ行ってほしい」といった声が上がった。また、「オランダとスウェーデンに引き分け、チュニジアに大勝。グループ負けなし。アジアの誇りだ」「日本の今大会のくじ運は結構厳しいけど、頑張ってほしい」「(ブラジル戦勝利は)難度が高いけど応援してる」「ブラジル戦、下剋上の時は来た」「日本がブラジルに勝つことを期待している。たとえ敗れても、あのようなトップチームと競えること自体が栄誉だ。アジアの光、サムライブルー、頑張れ!」「やっぱり日本だ。何も言うことはない。実力だけで一歩一歩進んできた」「アジアの光。日本チーム頑張れ!優勝に向かって突き進め!」「日本頑張れ。アジア人として、あなたたちの勝利を期待してる」「日本必勝」といったコメントも寄せられている。
2026.06.29

21「鈴木藤三郎伝」抜粋明治35年(1902年)に、藤三郎は、静岡県駿東郡富岡村桃園に鈴木農場を開いた。御殿場線佐野駅(今の裾野駅)から北へはいった所で、前に黄瀬川の清流を控え、近くに愛鷹(あしたか)、はるかに富士の山々を仰いだ眺望絶景の仙境である。この経営には長男の嘉一郎が当った。この農場の面積は、約百町歩にわたる大農場であって、その中に16町歩を茶園を主として、果樹園14町歩(桃、柿、りんご、ぶどう、おうとう、みんな、びわ、くりなど)、野菜園12町歩、山林約50町歩があった。また、牧畜部には、乳牛60頭、馬11頭、鶏500羽などが飼育されていた。11戸の農大家族が農場内に住んでいて、農繁期には男女約100人の農夫や茶師が働いていた。 藤三郎は、すでに商業に、工業に、植民地農業に応用して、非常な効果をあげた報徳の仕法を、ここで内地農業に応用して、わが国の全産業に対する報徳流の経営の規範を完成して、尊徳の遺徳に報いたいという念願を起したのであった。鈴木藤三郎が作った鈴木農場は、その後、岩下清周氏が引き継ぎ、「不二農園」として小学校を作り、地元の教育にも貢献した。岩下氏が亡くなって子息岩下壮一氏がこの地を、聖心女学院に寄付し、その広大な規模の地はこの地に引き継がれ、現在は同学院のキャンパスとして活用されている。藤三郎プロジェクトでは、第一集、第三集とも同学院と鈴木農場があった裾野市にある裾野鈴木図書館に寄贈した。図書館には現在、第三集と写真集が蔵書となっている。 このたび、同学院のご好意で、不二農園など見学させていただくことになった。 同学院事務長によると、鈴木藤三郎氏を記念するものはほとんど何も残っていないということだが、鈴木藤三郎が開設した鈴木農場の地に立ち、はるか富士山の眺めを見るだけでも意味のあることに思われる。楽しみである。 今回森町から6人衆も参加されるが、ぜひご案内したいのが、鈴木藤三郎が鈴木農場開設の時に発見した桃園親王の石碑である。藤三郎はその石碑の隣に、発見の経緯を記した石碑を建てた。このことは「駿河土産」に詳しい。 そしてその後、その石碑は二つながら桃園神社に移築された。それを昨年わたくしが発見した。将来、鈴木藤三郎の遺跡を記したマップが、森町で作成されることがあれば、この桃園親王石碑もまた載せてほしいという願いもある。後の世の人に鈴木藤三郎氏の未来遺産として伝えるために。 ※不二農園の歴史裾野市の桃園地区に広がる不二農園は不二聖心女子学院のキャンパスと一体をなし、その歴史は、明治の初期、禄を離れた江戸幕府旗本7名が官有地払い下げを受け、農場を開墾し茶を捲いたことから始まる。その後、明治の頃、遠州森町生まれの実業家で、後に大日本精糖会社を設立した製糖業の第一人者、鈴木藤三郎氏に引き取られ、「鈴木農場」として茶のほか、果樹、酪農、造林にも手を広げた。さらに、大正初期、当時北浜銀行の頭取で関西財界の有力者であった岩下清周氏がこの農場を受け継ぎ、「不二農園」と改め、氏は近代農業に取り組む一方、私財を投じて地域の子供たちのために温情舎小学校(不二聖心の前身)を同地に設立した。その志は、長男でカトリックの司祭でもあった岩下壮一氏(当時、神山復生病院院長、温情舎小学校校長)に受け継がれ、戦後昭和20年、岩下家より、約21万坪におよぶ同農園が聖心女子学院に寄付され、今日にいたっている。(同年、温情舎小学校の経営も移譲された)不二農園は、その景観の見事さとともに茶摘の体験学習や植生研究の場としても活用されており、また、ここで作られたお茶は聖心各校の卒業生を中心に幅広く愛飲されている。
2026.06.29
大智禅師偈頌講話 沢木興道 坐中感あり(三) その1【坐中有感(三)】 衲被蒙頭休萬機 (衲被蒙頭万機休す)心如墻壁眼如眉 (心は墻壁の如く眼は眉の如し)一條古路長荒草 (一条の古路荒草を長す)家破人亡何處歸 (家破れ人亡じて何れの処にか帰せん)被(ひ)というものがある。例えば坐具のもう少し大きいのがある。つまり被というのは、長さ九尺、幅六尺。それをひっかけて、その間に紙を入れる。綿を入れるんではない。ちょうど紙の餡を入っておる。一つの長方形の着物ができる訳である。それを冬の寒いときに頭からかぶる。坊主の防寒着だ。これを「衲被蒙頭(のうひもうとう)」という。冬になると、坐っておると風の滝のように首筋にスーッと入って来て、臍の奥までピンとする。わたしは横腹がキリキリ痛うなる。仕方がない。カイロを痛いところへあっちへ廻し、こっちへ廻しして、辛抱せんならん。それはシュッと来ると、のぼせ下がる。これを衲被蒙頭という。達磨さんがようかぶっておるあれである。観音さんがやっておるのはちょっと違うが、あれに類したものである。で、被をかぶって坐すということを、衲被蒙頭という。坐禅というものは衲被蒙頭でなければならん。坐禅はなんにもしない。公案を考えるという。それは飴玉をしゃぶるのと同じことじゃ。趙州の無字とか、隻手の声とか、庭前の柏樹子とか、そんなことばっかり、そうして時間を費やす。そんなことはばっかり、そうして時間を費やす。そんなことは、ある訳がない。なんにもせん。坐禅の中は坐禅ばかり。なんにも内職を持ち込まん。たとえ仏書の暗記物でも、たとえ公案でも、何物も内職を持ち込ませない。ただ坐禅する。(大智禅師偈頌講話p.79-81)
2026.06.29
183二宮翁逸話63 弟、三郎左衛門の無心栢山の隣村に金手村という所がある。その村に郡司といって翁の弟、三郎左衛門と懇意の者があった。郡司年末に際して三郎左衛門に報徳金百両を拝借したいから、野州の兄さんのところへ行ってくれないかと頼んだ。三郎左衛門は世話好きの男であるので、郡司を連れて翁のところへ行った。ところが翁が言われるのに今頃来ては貸せる金は一文もない、暮れに一切始末した。しかしはるばる郡司を連れて来たのであるからここにあるだけ貸してやるというて80両を出された。そこで早速帰ろうとしたが、なにぶん大金のことであるから途中が心配でたまらないので三郎左衛門困っておった。すると翁が言われるのに「心配するには及ばぬ。無難に帰れるようにしてやる」と言って笈ずりのようなものを背中に縫いつけ、「これは大久保加賀守の使者である」ということを書いてやられた。これで三郎左衛門は無事に帰村したということである。さて帰村して見たところが百両なければならないのに80両よりないから20両不足するわけである。そこで三郎左衛門は郡司に対して気の毒の余り自分の田地一反六畝(せ)余りを同村の二宮三左衛門のところへ質に入れ、そうして20両を加えて百両となし、郡司に貸してやった。すると家族の者はそれほどにするには及ぶまいと言うて苦情を漏らした。その後三郎左衛門用事あって翁のおられる野州へ行ったところが、翁の言われるのにかって80両貸してやったが20両足らないところはどうしたと問われたので、三郎左衛門は正直に気の毒であったから、翁は多くの門弟のおる中で涙を流して「それは貴様としては過ぎた行為である。それで貴様も人間の仲間入りができた」といって喜ばれたということである。後、三郎左衛門は、「兄貴が自分をほめてくれたことは、これが生涯にタッタ一遍であった」と一つ話にしたということである。(三郎左衛門の孫兵三郎氏談)☆人を救い助けることが人としての道である、これこそが二宮尊徳先生が生涯を通して実践されてきたことであった。尊徳先生が18歳のとき(報徳記では14歳とする)が、飯泉観音で国訳観音経を聴いて「これより後、いよいよ仏意も諸人を済い安んずるより大なるものないことを了知せり」(報徳記)と伝える。菅野八郎左衛門が、天保13年(1942年先生56歳)5月に書いた「桜街拾実」では「14歳の節か、飯泉村観音へ参詣したところ、行脚(あんぎゃ)の僧が堂前にしゃがんで読経されるのを聞いていたところ、経典の意味が面白く思われたので、持合の小銭を差し出し、今一篇読み給えと頼んで、かたわらで聞いていたところ、無辺無量の説法がこの上もなく尊いように思われた。そこで何のお経か問うたところ、「観音経」であるという。他の人が読まれるより、あなたが読まれるのはよくわかりますと言ったところ、われらは日本の言葉で読んでいるからわかったのでしょうといって去られた。 そのおり、考えたことは、すべて人を救うより大いなる善いことはほかにはないということで、その一念は今になっても変わらず、まるで一日のようだ と尊徳先生からお聞きした」とある。また、尊徳先生が御殿場の小林平兵衛という人の仏壇を開らかれたところ、そこに「諸人無愛敬諸道難成就(諸人愛敬無ければ、諸道成就しがたし)」と書かれてあったのを見て、「きさまは、この語をもっぱら信じ用いる者か」とひどくお叱りになった。「諸人に愛敬を受けなければ、道は成就しないなどと思って、人に助けられることのみ修行するものは菜っ葉の虫が柔らかい葉を食うようなものだ。本当に諸道を成就しようと思うなら、次のように心がけるべきだ。 諸人救助なくして諸道成就しがたしこの自他の違いは大きい。人と生まれて諸人を救助することなければ、諸道成就することはない。人を救い助ける心を押し広げる。そして是非を見極め、誠をもって救い助けるべきだ。そうして後に諸道は成就するのだ」とじゅんじゅんと諭されたとある。(報徳見聞記68)人と生まれては、人を救い助けることこそが大事なのだと尊徳先生は説かれるのである。
2026.06.29
道元「宝慶記」25 褊衫(へんざん)と直裰(じきとつ)について 堂頭、和尚慈誨していわく。「上古の禅和子(ぜんわす:参禅の禅僧)は、みな褊衫を著(き)るなり。間(まま)に直裰を著る者有り。近来、すべて直裰を著るはすなわち澆風なり。なんじ古風を慕わんと欲わば、須らく褊衫を著るべし。今日、内裏に参る僧は、必ず褊衫を著る。伝衣のとき、受菩薩戒のときも、また褊衫を著る。近来、参禅の僧家、褊衫を著るは是れ律院の兄弟(ひんでい)の服なりといえるはすなわち非なり。古法を知らざる人なり」。
2026.06.28
道元「宝慶記」24 一息半趺の経行について 堂頭、和尚慈誨していわく。「坐禅より起ちて歩くときは、須らく一息半趺の法を行ずべし。いわゆる歩を移すこと半趺(はんぷ)の量に過ぎず。足を移すには必ず一息の間を経るなり」。
2026.06.28
道元「宝慶記」23 坐禅は風の当るところでしてはならない 堂頭、和尚慈誨していわく。「風の当る処に在って坐禅すべからず」。大谷p.146 「6月頃は、涼を好んで、風の当るところに在って坐すると風寒暑湿の四つが外邪となって、外からこれを受けるとあたるなり。働くときはあたりはせねども、坐禅しておるときはあたる」(宝慶記聞解)
2026.06.28
道元「宝慶記」22 坐禅のとき、胡菰を食べてはならない堂頭、和尚慈誨していわく。「功夫弁道、坐禅するときは、胡菰(ここ:まこも)を喫することなかれ。胡菰は熱を発すればなり」。
2026.06.28
道元「宝慶記」21 椅子の上で韈子(べっす)を着ける方法堂頭、和尚夜話にいわく。「元子、なんじ、椅子に在って韈(べつ)を著くるの法を知るや、また無きや」。 道元揖して(叉手して頭を下げる)もうしていわく、「いかんが知ることを得ん」堂頭、和尚慈誨していわく。「僧堂に坐禅する時、椅子に在りて韈を著くる時は、右袖(うしゅう)を以て足趺(そくふ)を掩いて著くるなり。聖僧に無礼なるを免るるゆえんなり」。
2026.06.28
道元「宝慶記」20 文殊と阿難の結集の違いは何か 拝問す。「仏法には元より文殊の結集、阿難の結集の両途(りょうず)有り。いわく、大乗の諸経は則ち文殊の結集なり。小乗の諸経は則ち阿難の結集なりと。而今(にこん)何ぞ摩訶迦葉独り付法蔵の初祖となりて、文殊は付法の嫡嗣とならざるや。いかに況んや文殊はすなわち釈尊等の諸仏の師なり。なんぞ付法蔵の初祖となすに足らざらんや。今如来の正法眼蔵涅槃妙心と称する、恐らくは是れ小乗声聞一途の法ならんか。いかん」。堂頭、和尚慈誨していわく。「なんじが言うところのごとし。文殊は是れ諸仏の師なり。ゆえに付法蔵の嫡嗣にあてざるなり。もし是れ弟子ならば、必ず付法の仁(じん)にあつべきなり。また、文殊の結集というは一意なり。常途(じょうず)の説にはあらず。況んや文殊あに小乗の教行理を知らざらんや。阿難すでに大乗二乗を結集せり。また阿難はただ是れ多聞の人なり。ゆえに如来一代の説教を結集するのみなり。迦葉はすなわち一化の上座なり、最上座なり、最勝の祖なり。ゆえに法蔵を付せる者なるか。たとい文殊に附すといえども、またこの疑い有るべきなり。直に須らく諸仏の法はかくのごとしと信知すべし。彼此(ひし)の疑を致すべからず」。
2026.06.28
道元「宝慶記」19 仏祖の道と教家の談は別のものか 拝問す。「先日育王山の長老大光に謁したる時、いささか難問のついで、大光いわく、『仏祖の道と教家の談と水火なり。天地懸(はる)かに隔たる、もし教家の所談に同ずれば、永く祖師の家風にあらず』と。今大光の談、是なりや、非なりや」。堂頭、慈誨していわく。「唯大光一人に妄談有るのみにあらず。諸方の長老も皆また是(かく)のごとし。諸方の長老、あに教家の是非を明らめんや。なんぞ祖師の堂奥(どうおう)を知らんや、只是れ胡乱作来(うろんさらい)の長老なるのみ」。
2026.06.28
道元「宝慶記」18 感応道交とはどのようなことか 拝問す。「昨夜三更、和尚の普説にいわく、『能礼所礼性空寂、感応道交難思議』と。深意有らんといえども解了(げりょう)すべきこと難く、浅識の及ぶ所、疑う所無きにあらず。いわく、感応道交の道理は教家もまた談ず。祖道に同ずべき理(ことわり)有りや」。 堂頭、和尚老師大禅師慈誨していわく。「なんじ須らく感応道交の致(むね)とする所を知るべし。もし感応道交にあらざれば諸仏にあらざれば諸仏も出世せず、祖師も西来せざるなり。また祖教を以て怨家(おんけ)となすべからず。もし従来の仏法を以て非となさば、円衣・方器を用うべきなり。未だ円衣・方器を用いざれば、須らく、必定の感応道交あること知るべし」。大谷p.132 道元「能礼所礼性空寂、感応道交難思議が十分に理解できず、疑問がないわけけではありません。教家の感応道交と同じでしょうか」和尚「感応道交、人と人、師と弟子が互いに感応しあうことがなければ、諸仏も世に出現しなかったし、祖師も中国に来ることもなかった。教家の教典を敵扱いにしてはならない。人と人には必ず確実に感応道交することがあることを知らなければならない。」*「感応道交して菩提心をおこしてのち、仏祖の大道に帰依し、発菩提心の行李を習学するなり」(『正法眼蔵』「身心学道」)
2026.06.28
道元「宝慶記」17 了義経とはどのような経か 拝問す。「古今の善知識皆曰く、『須らく了義経を看るべし、不了義経を看ることなかれ』と。いかなるか是、了義経」。 堂頭、和尚示していわく。「了義経とは、世尊の本事・本生等を説く経なり。その往昔(おうしゃく)の縁、あるいは名字を説いて、未だその姓を説かず。住処を説くといえども、未だ寿命を説かざるは則ち未だ了義ならず。劫・国・名姓・寿命・眷属・作業(さごう)・奴僕等を説了して、説かざる事無きを了義と名づくるなり」。 拝問す。「たとい一言半句なりといえども、道理を説了せば了義と名づくべし。いかんぞただ広説のみを以て了義と名づくるや。たとい説くこと懸河(けんが)の弁なるも、もし未だ義理を明らめずんば、須らく不了義経と名づくべきか」。 堂頭慈誨(じげ)していわく。「汝の言うこと非なり。世尊の所説は、広略俱に道理を尽す。たとい広説するも道理を究尽(ぐうじん)せり。たとい略説するも道理を究尽せり。その義理において究竟せざる無し。ないし聖黙(しょうもく)聖説皆な是れ仏事なり。ゆえに光明を仏事となし、飯食(はんじき)を仏事となす、生天(しょうてん)・下天・出家・苦行・降魔・成道・維衛(いえい:行乞)・涅槃、尽く是れ仏事なり。見聞するに衆生は倶に利益を得るなり。ゆえに須らく知るべし、皆了義なり。その法中においてその事を説了するを了義経と名づくる。すなわち仏祖の法なり」。 道元いわく。「誠に和尚の慈誨のごとく保任して、すなわち仏法祖道ならん。諸方の長老の説、並びに日本国古来閑人の説は道理無きなり。道元の皆知りし所は、未了義の上に了義を計せり。今日、和尚の輪下にして始めて知りぬ。了義経の向上に了義経有ること明らかなることを。謂いつべし、億々万劫にも難値難遇なり」。大谷p.126 如浄「釈尊が説かれるところは、広く説かれても略して説かれても、いずれも道理を尽している。また、釈尊が説かずに沈黙されていることも皆衆生を教化するための仏事である。それゆえに、釈尊の背後に光明を放たれるのも、ご飯をいただくことも仏事となる。・・・釈尊の行実すべてが了義であることをよく理解し心得なければならない。仏法のなかで、仏法としての事柄を完全に説きつくすのを了義経と名づける。それこそが仏祖の法である」。
2026.06.28
道元「宝慶記」16 三時業の道理とは何か 拝問す。「長沙和尚と皓月供奉と、業障(ごっしょう)本来空の道理を問論す」。道元疑っていわく、「もし業障空ならば、余の二の異熟障・煩悩障も亦応に空なるべし。独り業障の空不空のみを論ずべからざるか。況んや皓月問う。『いかなるか是、本来空』。長沙いわく『業障是なり』。皓月いわく、『いかなるか是、業障』。長沙いわく『本来空、是なり」。今、長沙のいう所を是なりとせんやいなや。仏法もし長沙の道のごとくんば、何ぞ諸仏の出世、祖師の西来あらんや」。 堂頭、和尚老師大禅師示していわく。「長沙の道は終に不是なり。長沙は未だ三時業を明らめざるなり」大谷p.12 2 「かの三時の悪業報、必ず感ずべしといえども、懺悔するがごときは、重きを転じて軽受せしむ、また滅罪清浄ならしむるなり。善業また随喜すればいよいよ増長するなり」(『正法眼蔵』「三時業」) この拝問で、道元は「堂頭和尚老師大禅師」と敬称を重ねる。「三時業」の示唆に感動したからにほかならない。
2026.06.28
大智禅師偈頌講話 沢木興道 坐中感あり(二) その3【坐中有感(二)】 枯木巖前坐白雲 (枯木巌前白雲に坐す)冷湫湫地著渾身 (冷湫湫地渾身を著く)鐵牛不喫三春草 (鉄牛は喫せず三春の草)吼破寒潭月一輪 (吼え破る寒潭の月一輪)「鉄牛は喫せず三春の草」これはまあ禅の書物を読むと、じきに鉄牛、人間の生で鉄牛という。昔、塙団右衛門という、あれは鉄牛和尚という和尚になっておる。信州に行くと、須坂に塙団右衛門の手植えの梅や、塙団右衛門の書いた額がある。この鉄牛というのは、昔、洪水があって、どえらい鉄牛をこしらえて、それで洪水を防いだという故事がある。鉄牛は喫せず三春の草。言葉を反対にいうたら、この鉄牛は、三春の草も食わん。こんな字というものは、作るものではない。読むものだからー。まあ鉄というても、この牛はなにをいうか。動物学上の牛でもない。仏書を読んで、字の通りに読む。そんな阿呆なことはない。そうすると、牛というのは一体なにをいうか。昔の禅傑の詩の中に「鉄牛少室に眠る」というのがある。少室は達磨さんのことだ。こういう詩があるから、鉄牛というのは、これは達磨さんである。いわゆる非思量である。坐禅のことを鉄牛ということは申すまでもない。だが、坐禅というてもただ坐禅のことではない。達磨さんというても歴史的な達磨さんのことではない。本当に自己に徹したこの鉄牛、鉄牛は喫せず三春の草。「吼え破る寒潭の月一輪」没蹤跡のところを大消息の消息。この無声の声の訪れ。この声を一体いかに聞くか。舌でなめる声か、足で味わう声か。吼え破る寒潭の月一輪。実にこれは不思議微妙の詩である。そうして、これはなんのことであるか。大智禅師自らジッと三昧に入って、いわゆる自己の三昧境をシミジミと詩に吟じた。すなわち余人所不見。自分自ら三昧境を行脚したその境界であろうと思う。(大智禅師偈頌講話p.77-79)
2026.06.28
21423 県下巡遊雑記・佐野の鈴木農場(3)明治40年(1907年)9月15日 県下巡遊雑記 斗南 佐野の鈴木農場(3)◎富豪の田園趣味 この大規模なる農場がいかにして経営されつつあるかというと、労役一切は場内の農家10家のものを使用している。家屋器具一切を農場で供給し相当の日給を与うる外に、1戸につき2反歩の自作を許してある。されば10戸の農家、約50人の家族は一致共同して農場のため献身的に働いている。しかしてこれを監督するためには主事河合徳太郎、技手田雑英一、主計谷田久松3氏が熱心に事務に当っている。その上に昨今は場主鈴木氏の令息嘉一郎氏夫妻がこの別荘に起臥し直接に監視督励するので、事業の発展には一段の進歩を現している。嘉一郎氏は大人の気風をそのままにうけて、温良着実、真に敬慕すべく、大人の志業に向て守成の位置に立つには極めて適当な人格であると思う。▲広袤100町歩のここかしこに付属農戸が散在している。その間に四阿(あずまや)造りの休憩所で一息つきながら徐(おもむろ)に目を挙げれば箱根の秀嶺は眼前に迫って翠色(すいしょく:緑色)滴り、佐野瀑園より来る清流は脚下に流れて淙々(そうそう:水が音を立てて流れるさま)の響あり。更に眼を放って展覧せんか伊豆半島の翠巒(すいらん:緑の連山)、駿河湾の青濤(せいとう:青い波)、特には牛伏の絶勝手に執る如し。かくの如き奇勝は稀に見る所であるが、場員の語る所によれば富嶽の全景はここより見るもの天下一品の称ありと生憎の雨天にてこれを見るあたわざりしは遺憾であった。▲この農場所在地はもと定輪寺の上地で桃園貞純親王とは深い関係があると見え、38年10月中、鈴木藤三郎氏が竹林の中から貞純親王の古塔を発見され、今現に農場の一区域にこれを安置し、鈴木氏発見の由来を記した碑石が建てられてある。(完)(静岡新報)
2026.06.28
183二宮翁逸話 61 根っこの藤助、もっこの藤蔵経済は物にばかりなくして、おおいに人の上にもあることを考え、適材を適所に置くことについては、翁のごときは最も長じておられた。人物経済ということには、翁のやり口がいろいろある。その一例を挙ぐれば翁の桜町3か村を回復せらるる時、その陣屋のうちには学者もおれば僧侶もおり、大名もおれば百姓もおり。当時桜町陣屋の光景は雑然として異彩を放ちたる集合団体で、多数の人が翁を中心として回転しておった。その中に「根っこの藤助」、「もっこの藤蔵」というものがあった。藤助は木の根を掘ることが長所で「報徳記」を見ると翁は藤助が朝から晩まで少しの変わりなく、正直に「根っこ」を掘るのを見てほめ言葉に15両を添えて慰謝された。藤蔵もまた藤助と同じく開墾に必要なるもっこを造ることに妙を得たるがゆえに翁の御目鏡(おめがね)に止まった。ゆえに人呼んで「もっこの藤蔵」といっておった。この話は竹松村の者で野州桜町にいって翁の開墾事業に用役された木山某がしばしば二宮兵三郎氏方へ来たりて、冬の夜物語などにしたそうである。(略)
2026.06.28
道元「宝慶記」15 参禅は身心脱落なり。身心脱落とは坐禅なり。 堂頭、和尚示していわく。「参禅は身心脱落(しんじんだつらく)なり。焼香・礼拝・念仏・修懺(しゅうさん)・看経(かんきん)を用いず。祗管打座(しかんだざ)のみ」。 拝問す。「身心脱落とはいかん」。 堂頭、和尚示していわく。「身心脱落とは坐禅なり。祗管に坐禅する時、五欲(色・声・香・味・触)を離れ、五蓋(貪欲蓋・瞋恚蓋・睡眠蓋・掉悔蓋・疑蓋)を除くなり」。 拝問す。「もし五欲を離れ、五蓋を除くならば、すなわち教家の談ずる所と同じ。即ち大小両乗の行人たる者か」。 堂頭、和尚示していわく。「祖師の児孫は、強いて大小両乗の所説を嫌うべからず。学者もし如来の聖教に背かば、何ぞ敢て仏祖の児孫たる者ならんや」。 拝問す。「近代の疑者いわく、三毒即仏法、五欲即祖道と。もし彼らを除かば、即ちこれ取捨にして還って小乗に同じからん」。 堂頭、和尚示していわく。「もし三毒五欲等を除かずんば、ビンシャ王国、アジャセ国の諸の外道の輩に一如ならん。仏祖の児孫、もし一蓋一欲を除かばすなわち巨益(こやく)なり。仏祖と相見(しょうけん)の時節なり」。大谷p.110 如浄「参禅は身心脱落である。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経ではない。只管打坐が身心脱落である」道元「身心脱落とはどのようなことですか」如浄「身心脱落とは坐禅そのものである。ただ、坐禅するとき、五つの欲望から離れ、五つの煩悩が除かれる」道元「五つの欲望を離れ、五つの煩悩が除くということならば、経論に基づく宗旨の教家の人の説くのと同じです。それならば仏祖道も大小二乗の修行者と同じになるのではありませんか」如浄「祖師の児孫は、ことさらに大乗小乗の教えを区別してそれを嫌ってはならない。仏法を学ぶ者が、もし釈尊の聖教に背けば、祖師の児孫と言えない」道元「近ごろの僧は『三毒こそ仏法である。五欲は祖道である』などと、欲望や煩悩がそのまま仏法であり、祖道であると説きます。そして『その三毒・五欲を除くならば、善を取り悪を捨てるという取捨をすることになり、それこそが小乗と同じだ』と言っています。これはいかがでしょうか」如浄「もし三毒・五欲を除かないならば、その昔、マガタ王のビンシャラ王と、その父王を殺害したアジャセ王の時代にいたという外道たちの教えと同じである。祖師の児孫は、もし一毒でも一欲でも除けば、そのとき大きな利益があり、そのときこそ仏祖に出会う時節である」
2026.06.27
道元「宝慶記」14 仏祖の大道をなぜ禅宗と呼ぶのか 拝問す。「仏々祖々の大道は、一隅にかかわるべからず。何ぞ強いて禅宗と称するや」。堂頭和尚示していわく。「仏祖の大道を以て、猥(みだ)りに禅宗と称すべからず。今、禅宗と称するは、頗る是れ澆運の盲称なり。禿髪(とくはつ)の小畜生の称じ来れる所なり。古徳皆な知るところなり。往古の知るところなり。なんじ、かつて石門の林間録を看るや」。 道元いわく、「未だかつて録を看ず」。堂頭和尚いわく。「なんじ、看ること一遍せば好し。彼の録、説き得て是なり。おおよそ、世尊の大法は摩訶迦葉に単伝し、嫡々(てきてき)相承(そうじょう)すること二十八世、東土に五伝して曹渓に至り、ないし、今日、如浄は則ち仏法の惣府(そうふ)なり。大千沙界に更に肩を斉しくすべき者無し。而今(にこん)、三・五本の経論を講じ得て、以て各々の家風を肩(にな)う徒(ともがら)はすなわち仏祖の眷属なり。眷属にして而も内外親疎の高低有るなり」。 道元拝問していわく、「既に仏祖の眷属たらば、彼の輩も菩提心を発(おこ)して、真の善知識を訪い得ん。何ぞ年来の所学を抛って、忽ちに仏祖の叢席(そうせき)に投じて昼夜弁道するや」。堂頭和尚いわく。「西天東土、積年の所弁を抛って進むことは、たとえば人間(じんかん)にして丞相に上る朝(あした)には楝議を兼ねざるがごとし。然れどもその子孫を教うる日には、又楝議の進退を施す者なり。仏祖の学道も亦復是(かく)のごとし。楝議等の清廉に因りて丞相に上るといえども、丞相の日には楝議の日には丞相の議を議せず。但し学ぶ所の者は、皆是れ治国安民の忠行なり。忠節は是れ一心なり。更に二心に非ず」。 道元拝覆していわく、「諸方の長老等は説く所、皆以て未だかつて仏祖の道を知らざること明らけし。今、明らかに知りぬ、仏祖は実に是れ世尊の嫡嗣、今日の法王なることを。三千の調度、法界の縁辺、皆な是れ仏祖の主(つかさど)る所にして、更に二王有るべからざるなり」。堂頭和尚示していわく。「なんじの言う所のごとし。なんじ須らく知るべし、西天に未だ両つの付属(ふしょく)法蔵を聞かず。東土には初祖より六祖に至るまで、両つの伝衣(でんえ)無し。ゆえに大千の仏道は、仏祖を本となせり」。
2026.06.27
道元「宝慶記」13 仏法は、三性(善性・悪性・無記性)を超越する 拝問す。「仏法は、何を以てか性となす。善性・悪性・無記性の中に何ぞや」。 堂頭(どうちょう:禅林の住持人)、和尚示していわく。「仏法は、三性を超越するのみなり」。
2026.06.27
道元「宝慶記」12 緩歩のしかたについて「僧家の僧堂に寓する功夫(くふう)の最要は、直(じき)に須らく緩歩すべし。近代の諸方の長老、知らざる人多し。知る者極めて少なし。緩歩は息を以て限りとなして、足を運ぶなり。脚跟(きゃくこん:足元)を観ず。然して躬(くぐま)らず仰がずして歩を運ぶなり。傍らよりこれを観見せば、只一処に立つがごとし。肩・胸等、動揺して振るべからず」。 和尚度々、大光明蔵を歩み、東西に向かい、道元に見せしむ。便ち示していわく、「近日、緩歩を知る者は、ただ老僧一人のみなり。なんじ、試みに諸方の長老に問いて看よ。必竟、他未だかつて知らざるなり」。
2026.06.27
道元「宝慶記」11 ころもの腰ひもの結び方について 堂頭(どうちょう)和尚、大光明蔵(方丈)において示していわく。「行李(あんり)交衆の時、裙袴(くんこ)の腰縧(ようじょう)、皆強緊にこれを結ぶ。なお多時を経るに、更に無力の労無きにあらざればなり」。大谷p.88 「修行者と一緒に修行生活をする時には、裙(腰衣)や袴(短い黒衣)の腰ひもを強く結ぶのである。時間がたってひもがゆるみ、結び直す無駄をなくすためである」。
2026.06.27
3大会連続でW杯優勝国を的中させた独経済学者が日本―ブラジル戦を予測「安定感と規律が撃破の要因」6/26(金)過去3大会のワールドカップ(W杯)優勝国を的中させた実績を持つドイツ人経済学者ヨアヒム・クレメント氏が、北中米大会でも大胆な予測をしている。クレメント氏の予測は、2014年ブラジル大会のドイツ、18年ロシア大会のフランス、22年カタール大会のアルゼンチンと、直近3大会の王者をすべて正確に言い当ててきた。 現地6月25日、ブラジルのスポーツメディア『Terra Esportes』によると、同氏が北中米W杯の決勝トーナメント1回戦で「日本代表がブラジル代表を破る」と予測していることを報じた。 日本は同日、グループF第3節でスウェーデン代表と1-1で引き分け。同グループ2位での決勝トーナメント進出(ラウンド32進出)を決めた。これにより、クレメント氏の予測がにわかに現実味を帯びてきた。記事によると、クレメント氏は大会前に「カルロ・アンチェロッティ監督率いるブラジルがグループCを首位通過し、ラウンド32で日本と対戦した末に敗退する」というシナリオを立てていたというのだ。 現時点でブラジルの首位通過と日本の2位通過が確定したため、同メディアは「3つの予測のうちすでに2つが現実となり、残る検証材料は日本戦の結果だけだ」と驚きをもって伝えている。同メディアはさらに、クレメント氏が日本の強さについて「日本の安定感と規律がブラジル撃破の決定的な要因になる」と、具体的な分析をしていると紹介した。 一方で、クレメント氏の予測がグループステージでチェコやトルコ、カタールなどの突破を外したことにも触れているが、「誤りはあったものの、ブラジルが日本に敗れ、オランダが初優勝するという核心的な予測は維持されている」と、関心を寄せた。 過去の3大会でW杯優勝国を的中させた実績をもつクレメント氏。予測通りに日本がカナリア軍団を破るのか、世界の注目が集まる。【予測】3大会連続的中の天才経済学者が予測!2026年W杯優勝2026-06-22ドイツの経済学者 ヨアヒム・クレメント氏 である。彼は2014年ブラジルW杯のドイツ優勝、2018年ロシアW杯のフランス優勝、2022年カタールW杯のアルゼンチン優勝を的中させたことで注目を集めている。 クレメント氏は英国の投資銀行でストラテジストとして活動する経済学者であり、人口経済力気候FIFAランキング過去の大会データなどを組み合わせた独自モデルでシミュレーションを行う。 「残りの50%は運」自身のモデルを過信しているわけではない。 2026年大会の優勝予想はオランダクレメント氏は2026年大会でその歴史が変わると予測している。 決勝はポルトガル対オランダ番組で紹介された予想では、決勝はポルトガル対オランダそして、オランダが悲願の初優勝というシナリオになっている。クレメント氏は日本代表を非常に高く評価している。番組内では、日本が上位進出強豪国撃破の可能性大会のダークホースとして扱われていた。彼のシナリオによれば、日本は一回戦でなんとブラジルと激突! でも見事に勝利!2回戦ではセネガルに勝利!これでベスト16へ進出。 しかし残念ながら!そこでイングランドに敗れる!💛「50%は運」運よくイングランドにも勝利するしますように!〇英紙「ザ・サン」によると、英国在住のドイツ人専門家ヨアキム・クリメント氏は独自の基準で優勝国を予測し、過去3大会で的中させている。CBSのインタビューでは「人口が多いほど才能のプールも広がる」と説明した。2つ目は気候。「1年を通じてサッカーができる環境が不可欠だ。暑すぎたり寒すぎたりするとプレーできず、それは自然なハンディキャップになる」と語った。3つ目は育成環境で、「才能ある選手を世界クラスに育てるには学校や練習場が欠かせない」と説明した。4つ目はFIFAランキングで、「現在優れた世代がいるチームを把握するため、現時点のランキングを使う」と説明した。2026年については「今回は優勝候補ではないチームを選んだ。オランダは常に期待値を上回る国だ」と語った。ブラジル、アルゼンチン、ドイツ、フランス、スペインなどの強豪国にも明確なチャンスがあると認めた。それでも、実力以上に結果を出すチームがある。その代表がオランダだ」。さらに「まだ優勝はないものの、3度決勝に進んでいる。才能を育てる文化とプロセスが機能している証拠だ」と続けた。続けて「チームにはメッシのようなスターはいないが、パフォーマンスが全体的に均一だ」と指摘した。さらに「弱点はほとんどなく、守備が非常に堅い。サッカーは『攻撃で試合に勝ち、守備でタイトルを取る』スポーツだ」と結んだ。
2026.06.27
大智禅師偈頌講話 沢木興道 坐中感あり(二) その2【坐中有感(二)】 枯木巖前坐白雲 (枯木巌前白雲に坐す)冷湫湫地著渾身 (冷湫湫地渾身を著く)鐵牛不喫三春草 (鉄牛は喫せず三春の草)吼破寒潭月一輪 (吼え破る寒潭の月一輪)「枯木巌前」これはなんのことかというと、坐禅堂のことである。「枯木巌前白雲に坐す」白雲に坐すというのは、まあこういう境地は、大体里から見たら、白雲に包まれておるが、人知れずこんな寺なぞへ来て坐禅しても、試験の足し前になるんでもなし、また出世するんでもなし、うまいものを食うというんでもなし、楽なことでもなし、何事かといえば、ずいぶんこれは妙な仕事である。いわゆる娑婆での損得の問題ではない。別な世界である。 そうしてなんじゃといえば、ジッと坐っておって聴く音は、尺八でもなければ、ラジオでもない。ピシャッと骨に食い込むような音を聴いて、まあ夏はなんだか暑うてボオーッとしておるけれども、一月や二月ごろは鼻の下に霜焼けができるような寒いところでやると、よほどこれはうつりがいい。「枯木巌前白雲に坐す。冷湫湫地渾身を著く」人知れずジッとこう坐っておる。で、坐禅は自己に親しむ。自己の問題である。人の坐禅を代理で勤める。そんな訳にいかん。お布施をすれば、自分が極楽詣りをしよいのでもない。宗教は絶対自己の内面の問題で、人と関係ない。それでわたしは自己に親しむという。坐禅は自己に親しむものである。人知れずこうジッとしておる。ジッとして、もうその冷湫湫、本当にシミジミと骨身に徹する。この冷湫湫地、なんの野心もない。なんのためにするんでもない。坐禅をするのでも、臨済宗の坊さんなどは、坐禅を三年しなければ寺が持てんというんだから、寺を持つために坐禅をする。もう、冷湫湫地ではありゃせん。商売地なんだ。曹洞宗は坐禅をせんでも寺が持てるんだから、非常にいい宗旨だと思うておった。坐禅するものは自己持ちとしてするんだから、非常にいいと思ったが、このごろは相当困難である。駒澤大学を出んと一等教師をやらんとか、中学校を出てどこやらへ行かんと、五等教師をやらんとかー。わたしは曹洞宗という宗旨は、坐禅と寺を持つということと関係がないんだから、これまた面白いと思った。坐禅は本当に好きでないと、する者はおらなかった。わたしらの若い時分にそういっておった。「おい沢木、これからの世の中は違うぞ。お前みたいに竪文字ばかり読まずに、横文字の一つも読めねば、これからの世界は通用せん」と意見するやつがあった。わたしは、寺は持たん。うまいものは食わん。楽はせん。とにかくわたしは禅宗坊主だから坐禅する。こう決めておった。「頑固なやつだな」意見した友達がたくさんある。それでまあどっちがいいか悪いか、結局分らんが、とにかく、坐禅を商売の種にしようとか、これを餌にしようとかは思わなんだが、坐禅で月給を貰うたのは、日本でわたし一人、「坐禅しておったから、月給やる」坐禅で月給というのは、前代未聞なんだ。これから先はあるか知らんが、今までなかった。 で、この枯木巌前白雲に坐す。銭儲けでもない人の見栄ではない。ただ坐禅するところが、枯木巌前白雲に坐すじゃ。本当にもうなんでもない。冷湫湫地渾身を著く。自己に親しむ。ただ自己の坐禅、わたしはこれを、自分が自分で自分を自分するという。自己になりきる。本当に自己。つまり坐禅がただ坐禅であるばかり。その外になんにも要はない。ちょうど自分の寝姿を自分で知らんようにー、「アッ、今俺は寝ておるな」と思うからいいのではない。自分の寝姿を自分は知らない。自分の本当の姿、本当の坐禅の姿、俺は今本当に坐禅をしておる。そんなことは知っておっても、知っておらんでもいい。ところが人間はけったいなもので、「世の中のやつは、俺が本当の坐禅をしておるのを知っておるか知らん。ちょっとスパイを放って偵察してみよう」知っておってもおらんでも、しておることは、その生活になっておる。自分の寝姿が自分の寝姿であればいい。今寝姿になったように、今坐禅の姿が坐禅の姿になりきったところが、冷湫湫地渾身を著く。もう一枚である。いうたら暖気一点もなし。これは三昧のことをいう。なんでも、ものはこの三昧、三昧ということは梵語じゃないけれども、こいつをいうと、自己と天地と継ぎ目がない、天地一杯の己れというか、己れ一杯の天地、己れの外に天地がないというか。それが三昧、坐禅の外に己れがない。それが三昧である。(大智禅師偈頌講話p.76-77)
2026.06.27

21422 県下巡遊雑記・佐野の鈴木農場(2)明治40年(1907年)9月13日 県下巡遊雑記 斗南 佐野の鈴木農場(2)◎東海第一の農園 果樹園に次いで茶園は能く整理している。広袤14町歩の茶園はいずれも良種を選んであるから、産出高もなかなか多い。昨年は茶摘女100人、製茶師25人で乾茶千貫目を造った狭山茶の内地向を主としている。次に蔬菜園1丁5反歩、これは人参、里芋、サツマイモ、ゴボウなどが盛んに作られてある。蔬菜の全部は小山の紡績工場へ一手に売り捌いている。次に山林87町余、ヒノキを主として一手に売り捌いている。次に山林87町歩、ヒノキを主として松杉が多い。苗圃を造って年々増殖しているが、10年20年の後蓊園たる林を成したならば真に形容すべからざる盛観を見るであろうと思う。畜牛場は2ヶ所に分れてエーアシャ純粋牡牝、ホルスタイン雑種等40頭を養い乳牛よりは毎朝5斗以上の牛乳を出している。これは不日製乳を行う計画で目下器械の据付中である。養馬8頭、家禽400羽、いずれも当代の良種を選択して模範的に飼育している。特に家禽中の養鶏は場主の令息鈴木嘉一郎氏が非常なる興味をもって直接に管理されているので成績大に見るべきものがある。その種類は (愛玩用)金色鷹羽ハンバーグ、銀色鷹羽ハンバーグ(産卵)黒色ミノルカ (卵肉兼用)白色ソイアンドット、銀色ソイアンドット、白色プリマースロック、サザナミプリマースロック、パフオーピントン、名古屋コーチン鶏舎の清潔にして管理の整然たる真に養鶏家の模範とすべき所である。記者と同行したる石川政吉氏は一番の鶏より増殖して今は300羽を飼育しつゝある養鶏家であるが、この家禽部を見て、大いに参考に資する所があったといわれている。(つゞく) (静岡新報)
2026.06.27
183二宮翁逸話60 翁と金瑞和尚翁が20歳前後の時居村善栄寺(曹洞宗)に行って金瑞和尚と問答したことがある。ある時歌のようなものを詠んで問いかけたところが和尚すこぶる返事に窮したということである。その問は 寺方はお経ばかりと思ひしにまた神もあり仏もあるこういうようなことをして時々和尚を困らせということであるが、ある時和尚が二宮翁に「金治郎ぐらいの者は50人ぐらい来ても何でもない」といったところが、翁の答えに、「和尚ごときの者は幾人来ても差し支えない」と言うたということである。(翁の弟三郎左衛門断片)
2026.06.27
禅 朝比奈宗源 目次 はしがき一 禅の歴史一 禅とは何か一 禅の修行の仕方一 宗教としての禅一 指導者たちに望むp.1-3 はしがき 私は仏教の禅宗に籍をおく一僧侶である。仏教は二千五百余年の永い伝統をもつ東洋の古い宗教であり、インドに起こり、中国、朝鮮およびわが日本に伝わった。わが日本民族がはじめて宗教らしい宗教にふれたのが仏教であった。しかも仏教はその高い教義と、精錬された実践的修行とをもって、わが民族に宗教的信仰を与えたばかりでなく、哲学的な知性の訓練をも教え、またその母国インドと、経過して来た中国とのすぐれた文化と芸術とをあわせつたえて、わが民族のために、その方面への眼をも開かせた。その期間は今日までに千四百余年の永きに及んだ。この間にわが国の神道や中国の儒教も、あるいは宗教とし、あるいは倫理的学説として行われたが、それらは仏教の宗教的信仰や哲学的思想の前には、きわめて微々たる存在であった。ことに神道のごときは、仏教の教義によってその思想的基盤が与えられて、宗教的な内容をもつに至ったといってもよいほどである。 だからわが日本民族にとって、仏教はキリスト教が伝来するまでの唯一の宗教であった。キリスト教は十六世紀に一たび伝来したが、その伝統目的に疑問がもたれてその伝統が禁じられ、明治維新になってはじめて公然と入って来た。それから八十余年、この間、日本は近代的国家の体制をととのえようとして、教育制度をはじめ国家の諸制度を全面的に改め、西欧文明との関連から、キリスト教はわが国にかなりの進出を見るに至った。ことに科学的学問の外に、すぐれた文学的作品や芸術を通じて与えられたキリスト教的なものの見方や考え方は、現代の日本人の生活において大きい比重をしめている。これはわが国民がはなはだしくおくれた文明の進歩に、なんとかして追いつこうとして、先進国の文明に含まれた宗教をもそのまま受け入れたので、きわめて自然な成り行きでもあり、また一面、長い伝統をもつ仏教が惰勢的になり、宗教としての生命に衰えを見せ、国民の信仰を十分につかんでいなかったからである。これによって千数百年、ほとんど異質の宗教信仰をまじえなかったわが国民の思想生活に大きい変化がもたらされた。こうした変化をとげた現代の日本は、厳密な意味では完全な仏教国とはいわれないかもしれない。完全な仏教国とはいえないであろうが、なお日本国民の大多数は依然として仏教の信仰に生きており、また仏教の信仰や思想から創りいだされた道徳・宗教・習慣・感情の中に住んでいる。彼らがひもとく日本の歴史は仏教的人生観が中心をなしてつづられ、彼らが愛する日本の諸芸術、能も、謡いも、茶道も、香道も、俳句も、武道も、造園もみな仏教的心境を根本としている。また彼らが貧しい国の唯一の誇りとする古い建築・彫刻・鋳像・絵画等も、そのすぐれたものの多くは仏教的なものである。こうした意味で、日本および日本人を理解しようとすれば、どうしても仏教を理解しなくてはならない。 今回貴国が私を招かれたのは。私に貴国がいかなる国であるか、特に貴国の宗教や感情、文化や思想について正しい知識を与えようとさるるにあると信じ、深くその好意に感謝すると同時に、私も不敏を忘れてその理解につとむるつもりである。また一方法としては、少しでも正しく日本の真の姿を貴国民に知っていただきたい。とりわけ私の任務とするところは仏教、特に「禅」について知っていただくことにあると思う。そこでこの小冊子を準備した。これによって私の企図する目的が幾分でも果たせれば幸いである。p.5-7一 禅の歴史 仏教はインドの釈尊によってはじめられ、のち大乗・小乗の二派に分かれ、その教義の内容にもかなりのへだたりを見ることになった。小乗は南インド・ミャンマー・タイ・スリランカ・ジャワに等にひろまり、大乗は北方インドから、カシュミール・チベット・モンゴル・中国・朝鮮・日本等に伝わった。大乗仏教の中には、華厳宗、天台宗等の高い哲学的教義をふくむ宗派や、念仏して死後に浄土に生まれる阿弥陀仏の救済を説く他力宗的宗派もあるが、禅はもっぱら坐禅の修行によって仏性ー人間の心の本来の姿ーをさとり、それによってみずから迷いや煩悶から解脱することを主張する宗派である。今、私は一般の呼び方にしたがって禅を一つの宗派といったが、禅は仏教の根本である釈尊の修道の過程をそのまま学び、釈尊のさとられた悟りをさとろうとするものであって、仏教の分かれた形を意味する宗派という言葉をもちるのは適当ではなく、禅は仏教の総府、諸宗の根源であると主張された禅僧も古えにある。この主張は正しいと思う。 禅の理想はつねに釈尊の悟りの生活の上にあるが、現在に伝わる禅は、インド的なものに、多分に中国的な要素が加わって成立したものである。中国における禅の歴史は6世紀の初めにインドの菩提達磨(Bodhidharma)が来た時にはじまるとされるが、事実はこの人の来る前から、他の仏教の伝導者によっても若干伝えられたものと信じられる。しかし菩提達磨によって、はじめて時の中国の帝王であった梁の武帝(502-549在位)に対して、今まで何人によってもなされなかった禅的な仏教の説き方がなされた。また達磨は武帝との会見の後の生活においても、禅に他の仏教の諸派と異なる修行があり生活のあることを事実をもってして示した。それは彼がなした坐禅と、坐禅によって得た智慧が、いかにすぐれたものであり、よく人類の迷いや煩悩の闇をてらして、その実体のないことを知らしめ、それによって人類の心を解放し、人類の心がいかに自由なものであり、浄らかなものであり、安らかなものであるかを明らかにしたことである。彼の示したこの禅のすぐれた事実は、中国仏教者の関心をひくに十分であった。したがって少数ではあったが。素質のすぐれた人々の一段は、つねに彼をかこんで教えを受け、熱心にその修行をおさめて、彼の死ぬ以前に中国人の弟子慧可によって、彼の禅は完全な継承者を得た。相伝えて達磨から六代目にあたって慧能が出た。慧能は広東地方の身分のひくい者の子で、満足な教育もうけなかったが、生まれながらにして宗教的天分がゆたかな人で、青年の時代に達磨から第五代目の弘忍(ぐにん)という禅者について禅の悟りを得、のち十数年の修養をした後、大いに禅をひろめた。慧能はその禅の説き方にも新機軸を出だし、また一人一人の求道者を導くにも斬新な適切な方法をとった。それまでの禅はまだどこかインド的なところが多く、中国人にぴったりしないところがあったが、慧能に至って全く中国的なものとなった。彼は偉大な宗教者でもあったが、また偉大な教育者でもあった。彼の門下には、南岳・青原(せいげん)をはじめ、すぐれた禅者が数多くいで、後来南岳の系統に、馬祖(ばそ)・百丈(ひゃくじょう)・黄檗(おうぱく)・潙山(いさん)・臨済・仰山(ぎょうさん)等が出で、青原の系統に、石頭(せきとう)・薬山(やくさん)・雲岩(うんがん)・洞山(とうざん)・曹山(そうざん)・徳山(とくさん)・雪峯(せつほう)・雲門・玄沙(げんしゃ)・法眼(ほうげん)の偉人がいでて、禅は中国仏教の中心的勢力となり、9世紀から11世紀にかけてもっとも栄えた。 日本へ禅の伝わったのも、中国の場合と同じく、ある程度の禅は他の宗派の渡来と同時にあったであろうが、明らかに禅の本領をもった禅の伝わったのは、鎌倉時代ー13世紀ーになてである。それは日本の僧侶が中国へいって修行して帰ったものと、中国の僧侶が日本へ来たものとによってであった。この二国の間における禅の交流した年代は実に永く、13世紀から17世紀の初めまでつづいた。その系統をわけると、南岳系に属する臨済宗と、青原系に属する曹洞宗とである。現在の日本の禅はこの二系統以外にはない。臨済宗を最初に伝えたのは栄西(1215寂)、曹洞宗を最初に伝えたのは道元(1253寂)である。 日本に伝わった禅は、その簡明な教義と、実践的な修道の方法とがわが国民の性情に適し、まず当時の知識階級であった公卿や武士たちに受け入れられ、たちまち全国にひろまり、ついには一般庶民の間にも浸透した。禅はただ生死の問題を解決し、運命の問題を指導する宗教であったばかりでなく、人類の心を種々の囚われから解放し本然の姿にあらしめ、人類の心の絶対性・自由性を回復せしめる必要上、日本民族の生活に偉大なる影響を与え、かつてその比を見ない豊かな想像力を発揮させ、その後におこった日本的な文化・芸術・武道の成立に重要な要素となった。さきにあげた仏教が日本の文化に寄与した効果の中、鎌倉期以後のそれはほとんど禅の力である。こうした意味で日本の文化を知ろうとするものにとって、禅は見落とすことのできないものである。p.7-7二 禅とは何か しからば禅とはどういうものかというと、禅とはお互いの心の本来の姿を知ることである。本来の姿を知るというは真実の姿を知るということでもある。人間の心が始めから罪や汚れや迷いや苦しみをはなれたもの、したがってすばらしく清らかなもの、明らかなもの、自由なものであることを体験的に知ることである。 『一切の衆生は悉く仏性をそなえている』というのは仏教の根本的な信条である。仏性とは、前に述べた心の本来の姿のことである。釈尊はインドの王族に生まれてその生活は何の不自由もない方であったが、人類の運命を観察して、人生は若ければ若さに起因するいろいろな悩みや苦しみ、老いれば老いの悲しみ・病の苦しみ・死の恐怖等々にみたされている。いかにしてこれらから免がるべきかに思いを潜め、ついに王位をすて妻子と別れて修道生活に入り、多年努力精進の結果、禅によってこの人類の心の本来の姿を見出し、ここに一切の悩みを解決し大安心を得、大愉悦を感じて、みずから、「私はブッダとなった」と宣言された。 インド語の仏陀(Buddaha)という言葉は覚れる人、または目ざめた人という意味である。釈尊のこうした言葉から、心の本来の姿を仏性というにいたったのだ。つまりこの心の本来の姿を見出し得た人は覚った人である。釈尊は本来の心の世界のすばらしさを、時間的には寿命無量といい、空間的には光明無量といった。これはまことに適当な表現である。この世界には死はない。永遠に生き通しの大生命があるばかりだ。その大生命は時間的には、はじまりを知らない過去の過去より、果てしを知らない未来の未来までをふくんでいる。また空間的には、この心をはなれては蟻のひげ一本も存在しない。普通の常識の世界では、我は我であり彼は彼であり、山も川も天も地も我の外のもの、我と対立する存在であるが、この心の世界ではそうではない。天が高く無限にひろがるは、心が高く無限にひろがるのであり、山をそびえ地の厚いのは、心がそびえ心が厚いのである。水が洋々として流れ、海のびょうびょうとして広いのは、心が洋々として流れ、心が洋々として広いのである。幾万光年を経て光が地球に達するというはるかな存在である恒星も、もとよりこの心の外のものではない。心とはこういうすばらしいものである。他力教でいうアミダ仏というのは、この寿命無量(Amitayus)・光明無量(Amitabha)を象徴したものである。この心の世界が悟りの世界である。この世界を理論的に明らかにしようとしたのが、仏教哲学とよばれる華厳宗や天台宗の教義である。それらはきわめて深遠な哲理を組織的に展開しているが、多くの仏教の修行者はそうした理論を明らかにすることによって、実際上の解脱的心境に達することは稀であって、これを直接自己の心の上に反省し心の本来の姿を究明することが、かかる高遠な理論を生み出す根本である悟りの心境に達するのに、かえって確実であり近道であることを経験によって知った。それが禅である。つまり釈尊が親しく覚られた悟りの心境というすぐれた国に行くには、釈尊やその他の人々が後から来るもののためにと思って書かれた旅行記や地理書を丹念に読んだり研究したりするよりも、その旅行記や地理書によって、たしかにその国のある事を信じ、その方角が分ったならば、その旅行に必要な用意をととのえて、一歩一歩不退転の勇気をもってその方向にすすむことが、たしかにその国に達する方法であることを知ったのである。自分が親しくその国に達し得たならば、その国の山河や風光がどんなであるかは、自分の眼をもって見ることができるから、もはや他人の書いた旅行記や地理書はいらない。時としては、先人がいまだ見出さなかったよいところをすら発見して、各人、独自の旅行記や地理書を著さずにいられないこともあろう。それが禅者の生活や言葉に見る体験した世界の新鮮な表現である。だから禅者はあくまで実参実究を貴ぶ。 自己が自己をきわめるのである。他人の協力や援助をいれる余地はない。すぐれた師や友人をもつことは、その用意をつまびらかにしたり、その精神をはげましたり、その相当困難な努力を継続したりするうえに、よい刺激を与えてもらえる点などで有益であるが、修行者の胸中の「自己の心とはいかん」と究めすすめる努力は、まったく修行者独自のものであり直接的なものであって、他からどうしてやることもできない。したがって禅者は、その経験した悟りの表現も多くは理論的・組織的な方法をもちいず、できるだけ直接的に超論理的な方法をとる。 これは普通の常識からいえば、解しにくくもあり手がかりを得がたくて、意地が悪いように思える場合もあろうが、禅者から見れば、それが一番正しくもあり親切でもあるのである。なぜかといえば悟りの世界は常識の世界を越えているからだ。たとえば臨済がその師黄檗に「仏法のぎりぎりの貴いところをうかがいたい」というと、黄檗はいきなり棒で臨済を20回もつづけざまにうった。しかもこの質問がくり返されるたびごとに、つまり3回もこれをかさねた。しかしこれによって臨済は心の本来の姿を見ることができた。後に臨済は有名な禅者となったが、修行者が何か質問をすると「喝(かーつ)」という一語をもってむくいることをつねとした。喝という中国語はただ「かーつ」という声があって、何らの意味のない語である。もしこれがいろいろ思索すべき理路をもった語であったら、臨済はもちいなかったであろう。無意義な語であるから超意識・超論理の世界を表現するに適当なのだ。これもまた有名な禅者である雲門は、ある僧に「禅とはどういうものか」と問われて、「糞かきべら」と答えた(糞かきべらとは中国で人糞を処理する不潔な棒きれらしい。)常識の世界では仏は貴いもの清らかなものであり、糞かきべらはきたないものときまっていて、とうてい一致すべき概念ではないが、禅の世界では何ら矛盾しない。こういっても禅者には浄もなく穢もなく、味噌も糞も一緒であるというのではない。一たび心の本来の姿が分ったら、心のはたらきはもとのままで、すなわちうれしければ笑い、悲しければ泣き、きれいなものはきれい、きたないものはきたないまま、うれしさをこえ、悲しさをこえ、きれいさをこえ、きたなさをこえているのだ。いいかえれば、仏は仏であり、糞かきべらは糞かきべらであって、しかも一々が絶対なのだ。 この関係をうかがうに適当な問答は趙州にある。ある僧が趙州に、「いかなるかこれ祖師西来意(さいらいい)―達磨が伝えた禅とはどういうものですか」と問うと、趙州は「庭の柏槇(びゃくしん)の樹(き)」と答えた。趙州の答えの真意を解しない僧は「和尚、境―自分以外のものーをもって答えておらるるではありませんか」と再開した。趙州、「いや私は境をもって答えていない」と。そこで僧はまた改めて「達磨の伝えた禅とはどういうものですか」と問うと、趙州はまた前と同じように「庭の柏槇の樹」と答えた。 この問答には、自と他―心と境と区別して考えることのできない、未だ悟りの分からない僧の世界と、自と他・心と境と不二である悟りの世界に住む趙州とが、はっきりと出ている。この関係はどうしても実地に参究して「ふふうん」と自らうけがう以外に知る方法はない。生命の問題にしてもそうだ。常識の世界では生まれて来たものは必ず死なねばならない。健康をほこり無病を自慢する人も、実は運命的には決定的に死刑の宣告をうけているのだ。しかし心の本来の姿をあきらめた禅者の世界はこれをこえている。むかし関山(かんさん)は「自分のところには死ぬるということはない」といった。関山は84歳で死んだが、禅者は関山の言葉の真実さを疑わないし、関山が永遠に生きていることを知っている。 三、禅の修行の仕方 禅の修行はどうしてするのか、禅のことを古えから坐禅と同意義に解しているほど、禅の修行には坐ることが大切な方法とされている。坐る方法はインドから中国を経て伝わって来たものであるが、実際にやってみて、たしかに精神を統一し純粋にし精神の作用を高め、ふかく思索し冥想するに適した方法である。その坐り方は、尻の下にやや厚めの蒲団を敷き、右の足をまげて左の太ももの上にあげ、左の足をまげて右の太ももの上にあげて、がっちりとくみ合わす。それから背骨をぐっとまっすぐにし、頭をもまっすぐにして、前にかがんだり、後ろへ反ったりしないようにする。古えからその注意を「鼻と臍とまっすぐにして対し、耳と肩とをまっすぐに対せよ」といっている。両方の手は自然にして、組み合わせた足の上におき、これも右を下に左を上にして掌(たなごころ)を重ね、親指の先きをささえ合わせて、両手の掌の上に宝珠の玉がのったような恰好の空間ができる。更に最後に尻を心持ちうしろに引くようにし、下腹をこれは心持ち前へ出すようにする。そうして姿勢をととのえて、体をしずかに前後左右に少しずつゆすって、しずかに息をすい、臍の下二寸五分くらいのところに力を入れる。これはあまり力んではいけない。この尻をうしろに引き、からだをゆすぶって、上半身の重みがふんわりと下腹にかかる調子が大切である。上半身がまっすぐに伸びた脊梁骨を心棒にしてささえられ、それがゴム風船のような弾力をもった下腹、臍海丹田(せいかいたんでん)にのっかる。肩や腕の力をば全く抜いてしまう。こうした姿勢ができ息の調うことは不可欠で、姿勢がくずれると息もみだれる。目は半眼に開き三尺程先を見る。こうした諸条件がととのうと、古人が『坐禅は安楽の法門なり』といったように、坐ることは楽しくなる。この姿勢で坐り、こうした安定した心構えで自己の本来の姿をもとめるのだ。 本来の姿をもとめるというと、常識では自分の心はどういうものかと、古えの人たちの書いた教えや言葉でもさがして、ああであろうかこうであろうかと、思慮分別をたくましくすることのように思うであろうが、禅でいう本来の姿のもとめ方はそうではない。さきにもいったようなすばらしい本来の心は誰にでもそなわっている。それが自分で分からない。それが分からないのは思慮分別する意識のためである。だからこの際、ああ思いこう思いする意識のはたらきをたたき切らねばならない。それには道元のいわれたように、ただ正しく坐って「念想観の運転を止め、非思量底を思量せよ」で、すべての思慮分別をすてて、非思量底―思慮分別をこえた世界に入れと導く行き方と、公案をその公案に参究することによって上の目的を果たす行き方とある。これはいずれにもそれぞれの長所がある。 禅の思想的なよりどころは、人には誰でも仏性がある。それは老若・男女・賢愚にかかわらないものだという、釈尊以来の菩薩方や祖師方および禅を実際に修行された人々によって証明された事実である。またその仏性を覚るということも、正しくその用心を知って、たゆまない努力をすれば誰でもできるという。これも多くの先人達によって示されたところである。これらをよりどころとして禅者はその修行に出発する。この仏性は人々にかならずあり、努力すればかならず悟れるという信念、これを確認することは、いくら確認しても確認しすぎることはない大切なことである。なぜなればこの信念が禅の修行にすすむ人の一生を支配し、その成否を決するからである。禅はその到達した結果がすばらしいかわり、その修行の成功は決して容易ではない。これが禅に志す人は多いが十分の成功を収める人は必ずしも多くない所以だ。それはこの信念に徹底せず中途で棒をおるからである。 道元も「この法はー悟りといってもよいー人々分上ゆたかにそなわれりと雖も修せざるにはあらわれず、証せざるには得ることなし」といった。仏性の具有を信ずることと、すすんで禅の実際修行をするということは、車の両輪の如き関係にある。しかしこの坐るということは、さきにのべたようにたしかに有利な姿勢であるが、日本人のように坐る習慣をもった国民にすら、はじめはかなり苦しい。いわんや、そうした習慣のない国民にはなおさら苦しいことであろう。だが古人も、「道は心によってさとる。豈に坐にあらんや」といったように、禅の一義的の目的は心の本来の姿を見ることにある。たとい寝ていようが、心の工夫―心を統一し純粋にする努力―がたえまなくつづき、その努力の度が高まったならば、必ず悟りは得られる。徳川初期に出でた愚堂(ぐどう)という禅者は、友達とねていて悟り、少しおくれて出た盤珪(ばんけい)は、病気になり危篤の状態にあって悟った。ここでは身体の姿勢など問題ではなかった。 中国でも霊雲は桃の花を咲いたのを見た刹那に悟り、玄沙は石につまづいて足の指頭(ゆびさき)をいためて悟り、雲門は脚を折って悟った。こんなふうに悟りに入った機縁はまちまちであるが、かかる人々は一人の例外もなく、どうすれば自分の心の本来の姿を見ることが出来ようかと、相当ながく心をこの問題にひそめ、努力をかたむけていたということを忘れてはならない。 禅者は「大疑の下に大悟あり」といい、また「泥(でい)大なれば仏(ほとけ)大なり」ともいった。これはその修行者の努力の度合に比例して、その達した悟りの境涯に浅い深いがあり、高い低いがあることを意味する。禅の修行も人生の他の学問や修養と同じく、生れながらにしてすぐれた天分をもったものはもとより祝福さるべきであるが、天分のすぐれたものも、その天分にたよって努力を怠ると大成せず、東洋のことわざにいう「十歳で神童、二十歳で才子、三十歳をすぎたら平凡(ただ)の人」というように、一向光彩を放たないでおわる場合があり、比較的鈍根と思われるような人が、志願をかたくし、精進刻苦してやまないとき、かえってすばらしい悟りを得、宗教者としても偉大なはたらきをし、門下の養成にも成功をおさめた例は歴史上に乏しくない。 またここに坐禅の修行をしても、悟らなくては何にもならないではなかろうかという問題がある。坐禅の修行をする以上、悟りに達するまでは修行してもらうに越したことはないが、たとい悟りに達しないでも、前にのべたような信念をもって、正しい用心をして坐れば、坐っただけの効果は必ずある。悟った立場からいえば自己の心の本来の光は、いつもお互いの生活の上に生き生きとしてかがやいていて、かつて絶え間はないのである。なぜその光があらわれないかといえば、思慮や分別が雲や霧のごとくかかってこれをさえぎるからである。修行者が正しい坐禅を三十分なり一時間なりすれば、その三十分なり一時間なりは、この雲や霧がおさまって、それだけ本来の光があらわれる。その証拠としては心の落ちつかない人は落ちつき、心の狭い人は広くなり、あらあらしい心の人はやさしく、また気性の弱くてこまる人はしっかりしてくる。こうなることは別に不思議ではない。人間の心は本来そうあるべきものなのだ。たとえば肉体の健康な人はいつも明るく快活であるが、病気をするとそうはゆかない。気むづかしくなったり、心がけわしくなったりする。坐禅をする心が健康になるのだ。健康の心は明るく快活である。心の本来の姿には病気やわずらいはない、絶対的健康そのものだ。坐禅はややもすればこの絶対的健康から遠ざかろうとする人類の病を治す良薬である。 こうした意味で正しい坐禅は、長くても短くてもすればしただけの効果は必ずある。中国でも日本でも偉大な人物が禅によって人格をみがいた例は挙げるにいとまのないほどである。 四、宗教としての禅 禅は釈尊の悟りを目標として修行するものであることはすでに述べた。その修行が経典や煩瑣(はんさ)な教義をたよりとせず、どこまでも自己の直接な体験にたよろうとせず、どこまでも自己の直接な体験にたよろうとすることをもしるした。また禅の悟りのいかなるものであるかの大要をも伝えた。ここで私は禅が人間の宗教としての任務を、どんなふうに果たすかについて述べようと思う。 およそ宗教の人生に対する任務は、大まかにいって生命の問題の解決と運命の問題の解決とにあるといえよう。「いのちあっての物だね」というとおり、人類にとって生命は何よりも大切である。しかし人はただ生きていればよいのではない。生きている以上、幸福でなくてはならない。不幸な生き方ならば御免であると死をえらぶ人のあるのを見ても分る。この二つはいずれを重いともいえないぐらい重大な性質をもっている。 まず生命であるが、前にものべたように、一たび肉体をうけて地上に生まれた以上、その死なねばならぬことは決定的である。それも70歳とか80歳とか保証されてでもいればまだしも『老少不定』『朝(あした)に紅顔あって夕(ゆうべ)に白骨となる』の不安なものである。よく考えると、一般の人がこの生命の問題の解決をつけずにのんびりとしているのは、爆弾をいだいて平気でいるような危険千万なことである。禅は心の本来の姿を見ることによって、この問題を解決する。人類の心の本来の姿には生と死との対立はない。その世界無量であり光明無量である。この本来の姿が分ったならば、すべての心のはたらき、見ることも、聞くことも、感じることも、考えることも、すべての心のはたらき、見ることも、聞くことも、感じることも、考えることも、すべてがこの心の光であって少しも生や死への考えに束縛されない。ここに人間の不可避の運命とみられた死からの自由が得られ、大安心(だいあんじん)が得られる。 次に運命の問題はというに、仏教では人類はいうまでもなく、宇宙も、天地間にある万物も」、かくのごとく出来てきたには出来るべき条件が綜合されて出来、つづいているにはつづくべき条件がつづいているからつづき、変化するには変化すべき条件が発生して変化し、亡びるには亡びるべき条件が発生して亡びると考える。決して一箇の人格的な全智全能な神があって、万物をつくったり支配したりするとは考えない。だから人類の運命の問題についても、人が幸福になるには幸福になるべき条件が綜合されて幸福になり、不幸になるには不幸になるべき条件が綜合されて不幸になると信じる。 もっとも人類の幸福は形の上にあらわれた条件によってはきめられない。客観的には同じ条件でも、Aはこれを幸福と受けとり、Bはこれを不幸と受けとることもある。それは両者の主観の相違である。だから幸福になる条件が綜合されるとは、この主観と客観とが都合よく綜合されたことをも意味する。人間は誰でも幸福になりたいと思う願いをもっている。またこの願いをみたすことが人生の目的だといってもよい。しかるに地上には自分も幸福だと信じている人は何パーセントもない。これはなぜであるか。仏教では、これを人類の業の結果であるとする。業(カルマ Karma)とは、人の心に思うこと、口にいうこと、体に行うことのすべてをいう。業は人が生きている以上一分間もつくらずにはいられないものである。この業の善悪が人類の運命をよくもわるくもすると教える。それではその業の善悪を分かつ標準はというと、慈悲―他人の苦しみを抜いてやり、楽しみを与えてやりたいと願うやさしい心―から出る業は善であり、この反対の無慈悲から出る業は悪である。例えば不幸な人を見て、「ああ気の毒なことだ、どうかしてあげたいものだ」と慈悲の心がうごく、これだけでも善業である。それがやさしい言葉となって、その人をなぐさめたり力づけたりする。さらに進んで、あるいは行いをもって、あるいは物をもって助けてあげる。もちろん善業である。反対に人をにくみ、「あんな人はなにか不幸なことが起こればよい」と呪う、これだけでも悪業、これが悪意にみちた言葉となり、惨酷な行為となれば完全な悪業となる。これらの善業は善の影響を自己および人類の世界に与えて、自己や人類を幸福にし、悪業は悪の影響を自己や人類の世界に与えて、自己や人類を不幸にする。だから人が幸福になろうとするには、どうしてもお互いの業を善くしなくてならない。 これを分りよい例をとっていえば、人の人相である。よいことを思い、よい行いをおこなっている人の顔は明るくてやさしく、わるいことを思い、わるい行いを行なっている人の顔は暗くて冷たい。よい人相・わるい人相とはそうした顔の表現がある期間つづいて固定したことである。しかしその人相も決して変え得ないものではない。その人の業の善悪をかえれば、善い人相の人もわるい人相となり、わるい人相の人もよい人相の人となることができる。よい人相の人がよい運命をもっており、わるい人相の人がわるい運命をもっているであろうことはいうまでもない。慈悲の心のゆたかな人に近ずけば、春の日にてらされたように自然に温か味を感じ、むすぼれていた心もとけてくる。無慈悲な冷酷な人の顔は、一目みただけでも冷たいものがつたわり、人の心を氷らせる。こういう人には猫も近ずかない。善い業は人類の心の暗やみを照らす光である。人類には一人の例外なく、ともせばいつでもともる慈悲のローソクがある。そのローソクに火がともればその人の心は明るくなり、その人の人相も行いも輝いてくる。そういう人が一人ふえれば一人だけ、二人ふえれば二人だけ人類の世界は明るくなり善くなる。他の世界には往々にして競争があって、Aの成績がよければBの成績に影響して、Aの幸福はBの不幸となるというようなことがあるが、この善い業をはげみ合う世界にはそんな心配はない。自分よりも他人がより幸福であることが望ましいのであるから、他人が自分よりもすぐれた善い業をするのを見るは、自分がみずから善い業をなし得たよりもうれしいのである。仏教ではこれを『随喜の徳』という。仏教の仏陀とか聖者とかいわれる人々は、みなこの心の世界に生きられた方々である。 なお、ここでついでにもう少し業についてのべておこう。人類の業にはAにはAの、BにはBのゆずることも代わることも出来ない特定の業のあることはいうまでもないが、このほか、Aの家族にはAの家族に共通する業、Bの家族にはBの家族に共通する業、その親族に共通する業、その地方人に共通する業、その職域に共通する業、宗教的信仰を同じくする者に共通する業、その民族に共通する業、日本国民に共通する業、アメリカ国民に共通する業、東洋諸民族に共通する業、ヨーロッパ諸民族に共通する業、さらに全人類に共通する業というように、業の層には十重や二十重でなく、百千万ないし無数億の層があり、それらが重なりあって織りなしたのが人類の世界である。この世の人の生活にはその指紋の異なるがごとくに差異があり、その差異はみなその人のうけた業の差異である。その生活の高さ低さにも、清さきたなさにも、それら差は全く人類の思量に絶するものがある。 古えには人類が地球に生まれて来たことまで、人類の過去の業がよくなかったために、地震や旱害や、風水害等の不安の多い地上などに生まれたのであると説いた人もあるが、私は人類の業の結果をそこまで及ぼすことには反対である。人類が地上に生まれたのは他の動植物と同じく、自然に発生し、きわめて幼稚な微生物から進化したものであって、その生まれたことは人類の意識の伴った生活を意味する業の結果というべきではない。だから天体や地球の構成その変化等に対しては人類に責任がないようにー将来、原子の爆発等を無制限にして、地球を破壊するようなことがあればまた別であるがーこの問題に責任はない。仏教で人類の世界は人類の業が織りなしたというのは、人類が生物として幸福になりたいという意識をもって、その原始時代から漸次努力をかさね、今日の文明をもつに至ったその過程において創り出したあらゆる文化・宗教・道徳・哲学・科学・政治・経済その他すべての組織機構等々によって、創りあげた世界をいうのである。人類に人類だけしかない複雑な世界のあることは、同じ地球上に棲息しながら何らそうした精神力をもって独自の世界を創りいだした形跡のない他の動物を見れば明らかである。人類が人類の世界として生活している世界は、その大部分が人類の生活を可能ならしめている唯一の根拠、宇宙の一遊星である地球のもつ自然そのものでなくして、その自然と調和しつつこれを利用して創りいだした文化の伝統や作用であることを思えばわかる。 人類もわずか数万年の間によくもここまでの精神的労作をなし遂げたものと感心もするが、一面から見ると、どうすれば幸福になるかという人類の一義的目標には依然として遠く、科学的知識の進歩が、逆に人類をその目標から遠ざからせたかと考えさせられることすらある。それは何によるか。仏教者からいうと、人類は幸福になりたいとねがいながら、実質的に人類の幸・不幸を決定する業について無知であり、業の質的な反省をわすれ、幸福になるに最も大切な善業の積極的な実践を怠ったがためである。一部には仏教を宿命論のように誤解している人もいるが、仏教は断じて宿命論ではない。仏教の人生観は、上述のように宇宙のあらゆるものごとが時間の前に停止するところを知らず移りかわるがごとく、人間の運命もまたうつり変わる。人が善業をはげめばその運命は向上し、善業をおこたればその運命は降下する。業と運命とは因果関係にあり、その因と果とはつねに相等しい。この信念をもてば、自己および人類の幸福を願うものは、どんな小さな善業もおろそかに出来ず、どんな小さな悪業もつつしまねばならない。これが正しい仏教の考え方であり、同時に禅者の考え方である。禅はこういうふうに生命の問題と、運命の問題を解決して、人類に正しく幸福になる道を教えて、完全に宗教としての任務を果たす。p.25-30 五、指導者たちに望む 顧みると人類の歴史は闘争の歴史であった。原始時代は自然の猛威と他の生物の脅威とから自己を守らんがために戦い、ややすすむと人類同志、部落と部落と、民族と民族と、ついには国と国と、あるいは生存に必要な領土や資源のために、あるいは支配力や権力の争奪のために戦った。人類は今日では自然の暴威に対してはすばらしい防御力をそなえるに至ったが、その戦いもいまだ完全に終わってはいない。一方国と国との戦いは、第一次大戦によって終止符がうたれたかと思ったがそうはいかず、第二次大戦でこそと思ったがそれも当てはずれらしく、依然として冷戦や熱戦が、あちらにくすぶり、こちらに焔をあげている。しかも世界が二つの陣営に分れて対立し、万一戦ったならば、その新しい兵器の性質上、人類のうける惨害は想像に絶するものがあろう。思うだに戦慄を禁じ得ない。 これに対し二大陣営の指導者たちも、世界の知識人たちも、あらゆる角度から平和を実現しようとして努力を重ねているが、いまだこれぞというきめ手が見出されない。 私は一仏教徒として人類の平和実現についてその信念と所見とを吐露して、全人類に、特にその指導層の人々に訴えたい。一体、人類が今日のような抜きさしならない対立抗争の窮地に陥ったのは、なぜであるか。その原因はどこにあるのであろうか。私は人類が釈尊やキリストの教えに忠実でなかったからだと断言する。釈尊の教えと、キリストの教えとは、宇宙や人生に対する解釈には相違があるが、人類が幸福になるためには、何を実践すべきかという点においては一致していた。それは釈尊が慈悲を説き、キリストは愛を説いた。慈悲と愛とはその表現はいくらか異なるが、その精神は同一である。いずれも自他をへだてない。人類の生命をも運命をも一体と見る境地から出たので、『自己の欲するところを他にも施せ』というにある。私がさきにのべた人類の業の根本的な改善である。釈尊の教えは東洋人の間に、キリストの教えは欧米の人々に奉じられたが、不幸にしてこの大切な慈悲や愛は、東洋においても、西洋においても、いまだかつて完全に実践されたことはなかった。もちろん個々の人々の間や、社会の一部には、かなり徹底した実践も見られたが、不幸にして国家と国家との間にはそれが見られなかった。いうまでもなく、今日まで人類の運命を最も強力に支配したものは国家である。その国家同志は慈悲や愛を実践しようとしなかった。国によっては、国会を開くに当って、その教えに忠実なることを神に誓ってはじめる国もある。それほど真剣でありながら、いざ他の国との政治や経済の問題となるとわが国だによければ、わが国だに富めばという、利己主義の権化となった。これは東西の別なく、今までの国家主義的国家のあり方であってはほとんど例外はない。これでは釈尊や、キリストの教えとは正反対な行き方で、人類が今日のごとき対立抗争の悪循環をくりかえす以外に出られないのも無理がない。左へねじってかけた錠前をはずすには右へねじらなければならない。かくして行きづまった人類と人類の運命を救うには、今までの行き方を180度転換しなくてはならない。それには国家至上主義をすてて、世界を一つと考え一つとして処理する世界国家なり、世界連邦なりの構想をして、慈悲や愛の具体化をすべきである。(略)(私も以前から現代において実現の可能性の最も多いと信じられる、世界連邦政府建設同盟日本支部に加盟しているのはそれがためである。従来、宗教特に仏教は、政治や経済の問題に触れず、超然としているのを建前としていたが、私はこれは不徹底であると思う。また多くの宗教者たちも、富めるものから余剰のものを貧しい者へ与え、富める国民から窮乏した国民へ若干の物資を頒つことぐらいを最大の任務としているのもどうかと思う。もとよりそれも慈悲や愛の実践の一部であって、それにはそれだけの意義はあるが、なぜそれよりも貧しい人をつくらない、乏しい国を出ださない政治や経済を実現するようにしないか。いいかえれば、なぜもっと大胆に宗教の精神を全面的に政治や経済に翻訳して、人類の世界から貧乏や病苦を一掃する主張をしないか。人類の犯したこの大きな錯(あやま)りをそのままにして、その結果おこる貧乏や病苦に同情して、若干の慈善事業などをしてすましているは、その本をおいて末を追うものではないか。また私は、これを国家と国家との間に一刻も早く実現することを切望する。それは現代の世界の不安は、一部の国や一部の民族が余りにも窮乏し余りにも不安定であるからである。その窮乏は、その所属する国民の努力だけで解決し得る性質のものではない。どうしても世界を一つとし、人類を一体として見る宗教的立場にたった政治や経済を必要とする。今までのように国家を至上なものとし、一つの国を単位として動かすべからざるものとした考え方では、この解決はつかない。・・・)釈尊や、キリストの教えた慈悲や愛は、釈尊やキリストの見た人類の運命は一体であるという世界から出たものである。人類は今までこの世界を一つの観念の世界として現実の世界から別にしていたが、それでは現実の世界が収まりつかないことは現に見るごとくである。今や人類はその錯りを猛省して、釈尊やキリストの教えた世界連邦の真実性を確認し、これに従うべきである。人類の科学的知識は最近わずかの間に、想像もできなかったほどの大躍進をとげた。これに対して、いちじるしく進歩がおくれたとみられた人類の良心的知性も、この現実の、このままでは絶対に打開することのできない事実と、また猶予しがたい情勢に直面して、断然一大飛躍をすべく要請される。それは宗教は精神を単なる精神としてすてておかず、全面的に政治や経済の上に生かすことである。この平明で偉大なる真理は、世界の民衆が容易に理解するところと思うが、いざ実践となると種種なる伝統的な無智が、これをはばむであろう。私は人類の知性と良心とを代表する世界の各界の指導者たちが、現代の人類に課せられたこの高貴な使命を完遂するために、敢然として起たれんことを希うものである。特に、自由世界の民衆の信頼と尊敬をよせるアメリカの指導者たちに。 1954年3月
2026.06.26
般若心経秘鍵https://www.youtube.com/watch?v=7GmfHVCHNLE 般若心経秘鍵 はんにゃしんぎょうひけん 序を併せたり じょをあわせたり 遍照金剛 撰 へんじょうこんごう せん 文殊の利剣は諸戯を絶つ もんじゅのりけんは しょけをたつ 覚母の梵文は調御の師なり かくものぼんもんは ぢょうごのしなり チクマンの真言を種子とす ちくまん(*)のしんごんを しゅじとす*チクマンとは梵語で、密教においては梵字一文字によって仏さまを表示するのが種子。チクとは般若菩薩さま、マンとは文殊菩薩さまのこと 諸教を含蔵せる陀羅尼なり しょきょうをがんぞうせる だらになり 無辺の生死、何んが能く断つ むへんのしょうじ、 いかんがよくたつ 唯だ禅那正思惟のみ有ってす ただ ぜんなしょうしゆいのみ あってす 尊者の三摩は仁譲らず そんじゃのさんまは にん ゆずらず 我れ今讃述す、哀悲を垂れたまえ われいま さんじゅつす、あいひを たれたまえ 夫れ、仏法遥かに非ず、心中にして、即ち近し。 それ、ぶっぽうはるかにあらず、しんぢゅうにして、すなわちちかし。 真如、外に非ず、身を棄てて何にか求めん。 しんにょ、ほかにあらず、みをすてて いずくんかもとめん。 迷悟我れに在り。則ち発心すれば、即ち到る。 めいごわれにあれば、ほっしんすれば、すなわちいたる。 明暗、他に非ず。則ち信修すれば、忽ちに証す。 みょうあん、たにあらず すなわち しんじゅすれば、たちまちにしょうす。 哀れなる哉、哀れなる哉、長眠の子。 あわれなるかな、あわれなるかな、じょうめんのし。 苦しいかな、痛いかな、狂酔の人。 くるしいかな、いたいかな、きょうすいのにん。 痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。 つうきょうはよわざるをわらい、こくすいはかくしゃをあざける。 曾て医王の薬を訪わずんば、何れの時にか、大日の光を見ん。 かつて、いおうのくすりをとぶらわずんば、いずれのときにか、だいにちのひかりをみん。 翳障の軽重、覚悟の遅速の若きに至っては、 えいしょうのきょうじゅう、かくごのちそくのごときにいたっては、 機根不同にして、性欲即ち異なり。 きこんふどうにして、しょうよく すなわち ことなり。 遂使じて、二教輙を殊じて、手を金蓮の場に分ち、 ついんじて、にきょう、あとをことんじて、てをこんれんのじょうにわかち、 五乗、くつばみを並べて、蹄を幻影の埒にあがつ。 ごじょう、くつばみをならべて、ひづめをげんにょうのらちにあがつ。 其の解毒に随って薬を得ること、即ち別なり。 そのげどくにしたがって くすりうること、すなわちべつなり。 慈父、導子の方、大綱、此れに在り。 じぶ、どうしのほう、たいこう、これにあり。 大般若波羅蜜多心経といっぱ、即ち是れ、 だいはんにゃはらみたしんぎょうといっぱ、すなわちこれ、 大般若菩薩の大心真言三摩地法門なり。 だいはんにゃぼさつのだいしんしんごんさんまじ ほうもんなり。 文は一紙に欠けて、行は則ち十四なり。 もんないっしにかけて、ごうはすなわちじゅうしなり。 謂うべし、簡にして要なり。約にして深し。 いうべし、かんにしてようなり。つづまやかにしてふかし。 五蔵の般若は、一句にふくんで飽かず、 ごぞうのはんにゃは、いっくにふくんであかず、 七宗の行果は、一行に飲んで足らず。 しちしゅうのぎょうかは、いちごうにのんでたらず。 観在薩多は、則ち諸乗の行人を挙げ、 かんざいさったは、すなわち しょじょうのぎょうにんのあげ、 度苦涅槃は、則ち諸教の得楽をかかぐ。 どくねはんは、すなわちしょきょうのとくらくをかかぐ。 五蘊は、横に迷境を指し、三仏は、竪に悟心を示す。 ごうんは、おうにめいきょうをさし、さんぶったは しゅにごしんをしめす。 色空と言へば、則ち普賢、頤を円融の義に解き、 しきくうといえば、すなわちふげん、おとがいをえんゆうのぎにとき、 不生と談ずれば、則ち文殊、顔を絶戯の観に破る。 ふしょうとだんずれば、すなわちもんじゅ、かんばせをぜっけのかんにやぶる。 之を識界に説けば、簡持、手を拍ち、 これをしきかいにとけば、けんじ てをうち、 之を境智に泯ずれば、帰一、心を快くす。 これをきょうちにみんずれば、きいち、こころをこころよくす。 十二因縁は、生滅を麟角に指し、 じゅうにいんねんは、しょうめっをりんかくにさし、 四諦の法輪は、苦空を羊車に驚かす。 したいのほうりんは、くくうをようじゃにおどろかす。 況んやまた、ギャテイの二字は、諸蔵の行果を呑み、 いわんやまた、ぎゃていのにじは、しょぞうのぎょうかをのみ、 ハラソウの両言は、顕蜜の法教を孕めり。 はらそうのりょうごんは、けんみつのほうきょうをはらめり。 一一の声字は、歴劫の談にも尽きず。 いちいちのしょうじは、りゃっごうのだんにもつきず。 一一の名実は、塵滴の仏も極めたもうこと無し。 いちいちのみょうじった、じんてきのほとけもきわめたもうことなし。 この故に、誦持・講供すれば、則ち苦を抜き楽を与え、 このゆえに、じゅじ・こうくすれば、すなわちくをぬき らくをあたえ、 修習・思惟すれば、則ち道を得、通を起す。 しゅじゅう・しゆいすれば、すなわち どうをえ、つうをおこす。 甚深の称、誠に宜しく然るべし。 じんじんのしょう、まことによろしくしかるべし。 余、童を教うるの次でに、聊か綱要を摂って、かの五分を釈す。 よ、とうをおしうるのついでに、いささかこうようをとって、かのごぶんのしゃくす。 釈家多しと雖も、未だこの幽を釣らず。 しゃっけおおしといえども、いまだこのゆうをつらず。 翻訳の同異、顕密の差別、並びに後に釈するが如し。 ほんにゃくのどうい、けんみつのしゃべつ、ならびにのちにしゃくするがごとし。 或るが問うて云く、 あるがとっていわく、 「般若は、第二未了の教なり。何ぞ能く三顕の経を呑まん。」 はんにゃは、だいにみりょうのきょうなり。なんぞよくさんけんのきょうをのまん。」 「如来の説法は、一字に五乗の義を含み、一念に三蔵の法を説く。 にょらいのせっぽうは、いちじにごじょうのぎをふくみ、いちねんにさんぞうのほうをとく。 何に況んや、一部一品、何ぞ匱しく、何ぞ無からん。 いかにいわんや、いちぶいっぽん、なんぞとぼしく、なんぞなからん 亀卦・爻蓍、万象を含んで尽くること無く、 きけ・ぎょうし、まんぞうをふくんでつくることなく、 帝網・声論、諸義を呑んで窮まらず。」 たいもう・しょうろん、しょぎをのんできわまらず。」 難者の曰く、 なんじゃのいわく、 「もし然らば、前来の法匠、何ぞこの言を吐かざる。」 もししからば、ぜんらいのほっしょう、なんぞこのことばをはかざる。」 答う。 こたう。 「聖人の薬を投ぐること、機の深浅に随い、 しょうにんのくすりをなぐること、きのじんせんにしたがい、 賢者の説黙は、時を待ち、人を待つ。 げんじゃのせつもくは、ときをまち、ひとをまつ。 吾れ、未だ知らず、蓋し、言うべきを言わざるか、 われ、いまだしらず、けだし、いうべきをいわざるか、 言うまじければ言わざるか。 いうまじければいわざるか。 言うまじきを之を言えらん。失、智人、断りたまえまくのみ。」 いうまじきをこれをいえらん。とが、ちにん、ことわりたまえまくのみ。「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」といっぱ、この題額に就いて 二の別あり。ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょうといっぱ、このだいがくについてふたつのべったり。 梵漢別なるが故に。 ぼんかんべつなるがゆえに。 今、「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」といっぱ、胡漢、雑え挙げたり。いま、「ぶっせつまかはんやはらみたしんぎょう」といっぱ、こかん、まじえあげたり。 「説心経」の三字は、漢名なり、余の九字は胡号なり。 「せつしんきょう」のさんじは、かんみょうなり。よのくじはこごうなり。 もし具なる梵名ならば、ボダハシャマカハラジャハラミタカリダソタランと曰うべし。 もしつぶさにぼんみょうならば、ボダハシャマカハラジャハラミタカリダソタランというべし。 初めの二字は、円満覚者の名、 はじめのにじは、えんまんかくしゃのな、 次の二字は、蜜蔵を開悟し、甘露を施すの称なり。 つぎのにじは、みつぞうをかいごし、かんろをほどこすのしょうなり。 次の二字は、大・多・勝に就いて義を立つ。 つぎのにじは、だい・た・しょうについてぎをたつ。 次の二字は、常慧に約して名を樹つ。 つぎのにじは、じょうえにやくしてなをたつ。 次の三は、所作巳弁に就いて号とす。 つぎのみつは、しょさいべんについてなとす。 次の二は、処中に拠って義を表す。 つぎのふたつは、しょちゅうによってぎをひょうす。 次の二は、貫線摂持等を以て字を顕わす。 つぎのふたった、かんせんしょうじとうをもってなをあらわす。 もし総の義を以って説かば、皆、人・法・喩を具す。 もしそうのぎをもってとかば、みな、にん・ぼう・ゆをぐす。 是れ則ち、大般若波羅蜜多菩薩の名なり、即ち是れ人なり。 これすなわち、だいはんにゃはらみたぼさつのななり、すなわちこれにんなり。 この菩薩に、法曼荼羅・真言三摩地門を具す。 このぼさつに、ほうまんだら・しんごんさんまじもんのぐす。 一一の字、即ち法なり。 いちいちのじは、すなわちほうなり。 この一一の名は、皆世間の浅名を以て法性の深号を表わす。 このいちいちのなは、みなせけんのせんみょうをもってほっじょうのじんごうをあらわす。 即ち是れ喩なり。 すなわちこれゆなり。 この三摩地門は、仏、鷲峯山に在して、じゅう子等の為に之を説きたまえり。 このさんまじもんな、ほとけ、じゅぶうせんにいまして、じゅうしとうのためにこれをときたまえり。 この経に、数の翻訳あり。第一に、羅什三蔵の訳、 このきょうに、あまたのほんにゃくあり。だいいちにらじゅうさんぞうのやく、 今の所説の本、是なり。 いまのしょせつのほん、これなり。 次に、唐の遍覚三蔵の翻には、題に「仏説摩訶」の四字無し。 つぎに、とうのへんがくさんぞうのほんには、だいに「ぶっせつまか」のしもじなし。 「五蘊」の下に「等」の字を加え、「遠離」の下に「一切」の字を除く。 ごうんのしたにとうのじをくわえ、おんりのしたにいっさいのじをのぞく。 陀羅尼の後に功能無し。次に、大周の義浄三蔵の本には、 だらにののちにくのうなし。つぎに、だいしゅうのぎじょうさんぞうのほんには、 題に「摩訶」の字を省き、真言の後に功能を加えたり。 だいにまかのじをはぶき、しんごんののちにくのうをくわえたり。 また法月、及び般若両三蔵の翻には、並びに序分・流通有り。 またほうがつ、およびはんにゃりょうさんぞうのほんには、ならびにじょぶん・るつうあり。 また、『陀羅尼集経』第三の巻に、この真言法を説けり。 また、だらにじっきょうのだいさんのまきに、このしんごんほうをとけり 経の題、羅什と同じ。 きょうのだい、らじゅうとおなじ。 般若心といっぱ、この菩薩に身心等の陀羅尼有り。 はんにゃしんといっぱ、このぼさつにしんじんとうのだらにあり。 この経の真言は、即ち大心呪なり。 このきょうのしんごんな、すなわちだいしんしゅなり。 この心真言に依って、般若心の名を得。 このしんしんごんによって、はんにゃしんのなをう。 或るが云く、「大般若経の心要を略出するが故に、心と名づく。 あるがいわく、「だいはんにゃきょうのしんにようをりゃくしゅつするが「ゆえに、しんとなづく。 是れ別会の説にあらず」と云々。 これべってのせつにあらず。」とうんぬん。 所謂、龍に蛇の鱗有るが如し。 いわゆる、りょうにじゃのうろくずあるがごとし。 この経に、総じて五分有り。 このきょうに、そうじてごぶんなり。 第一に、人法総通分、「観自在菩薩」というより、「度一切苦厄」に至るまで是れなり。 だいいちに、にんぼうそうずうぶん、「かんじざい」というより、「どいっさいくやく」にいたるまでこれなり。 第二に、分別諸乗分、「色不異空」というより、「無所得故」に至るまで是れなり。 だいにに、ふんべつしょじょうぶん、「しきふいくう」というより、「むしょとっこ」にいたるまでこれなり。 第三に、行人得益分、「菩薩薩た」というより、「三みゃく三菩提」に至るまで是れなり。 だいさんに、ぎょうにんとくやくぶん、「ぼだいさった」というより、「さんみゃくさんぼだい」にいたるまでこれなり。 第四に、総帰持明分、「故知般若」というより、「真実不虚」に至るまで是れなり。 だいしに、そうきじみょうぶん、「こちはんにゃ」というより、「しんじっぶこ」にいたるまでこれなり。 第五に、秘蔵真言分、「ギャテイギャテイ」というより、「ソワカ」に至るまで是れなり。 だいごに、ひぞうしんごんぶん、「ぎゃていぎゃてい」というより、「そわか」にいたるまでこれなり。 第一の人法総通分に五有り。 だいいちのにんぽうそうずうぶんにいっつあり。 因・行・証・入・時、是れなり。 いん・ぎょう・しょう・にゅう・じ、これなり。 「観自在」といっぱ、能行の人、即ちこの人は、本覚本覚の菩提を因となす。 「かんじざい」といっぱ、のうぎょうのひと、すなわちこのにんな、ほんがくのぼだいをいんとす。 「深般若」は、能所観の法、即ち是れ行なり。 「じんはんにゃ」は、のうしょかんのほう、すなわちこれぎょうなり。 「照空」は、即ち能証の智、 「しょうくう」は、すなわちのうしょうのち、 「度苦」は、則ち所得の果、果は即ち入なり。 「どく」は、すなわちしょとくのか、かはすなわちにゅうなり。 かの教に依る人の智、無量なり。智の差別に依って、時また多し。 かのきょうによるにんのち、むりょうなり。ちのしゃべつによって、じまたおおし。 三生・三劫・六十・百妄執の差別、是れを時と名づく。 さんしょう・さんごう・ろくじゅう・ひゃくもうじゅうのしゃべつ、これをじとなずく。 頌に曰く、 じゅにいわく、 観人智慧を修して かんにんちえをしゅして 深く五衆の空を照す ふかくごしゅのくうをてらす 歴劫修念の者 りゃっこうしゅねんのもの 煩を離れて一心に通ず ぼんのはなれていっしんにつうず。 第二の分別諸乗分に、また五つ有り。 だいにのふんべつしょじょうぶんに、またいっつつあり。 建・絶・相・二・一、是れなり。 こん・ぜつ・そう・に・いち、これなり 初めに、建といっぱ、所謂、建立如来の三摩地門是れなり。 はじめに、こんといっぱ、いわゆる、こんりゅうにょらいのさんまじもん これなり。 「色不異空」というより、「亦復如是」に至るまで、是れなり。 「しきふいくう」というより、「やくぶにょぜ」にいたるまで、これなり。 建立如来といっぱ、即ち普賢菩薩の秘号なり。 こんりゅうにょらいといっぱ、すなわちふげんぼさつのひごうなり。 普賢の円因は、円融の三法を以て宗とす。 ふげんのえんにんな、えんゆうのさんぼうをもってしゅうとす。 故に以て之に名づく。 かるがゆえにもってこれになづく。 また是れ、一切如来の菩提心行願の身なり。 またこれ、いっさいにょらいのぼだいしんぎょうがんのしんなり。 頌に曰く、 じゅにいわく、 色空本より不二なり しきくうもとよりふになり 事理元より来同なり じりもとよりこのかたどうなり 無げに三種を融ず むげにさんしゅをゆうず 金水の喩その宗なり こんすいのたとえそのしゅうなり 二に、絶といっぱ、所謂、無戯論如来の三摩地門是れなり。 ふたつに、ぜつといっぱ、いわゆる、むけろんにょらいのさんまじもんこれなり。 「是諸法空相」というより、「不増不滅」に至るまで是れなり。 「ぜしょほうくうそう」というより、「ふぞうふげん」にいたるまでこれなり。 無戯論如来といっぱ、即ち文殊菩薩の密号なり。 むけろんにょらいといっぱ、すなわちもんじゅぼさつのみつごうなり。 文殊の利剣は、能く八不を揮って、かの妄執の心をを絶つ。 もんじゅのりけんは、よくはっぷをふるって、かのもうじゅうのしんをたつ。 この故に、以て名づく。 このゆえに、もってなづく。 頌に曰く、 じゅにいわく、 八不に諸戯を絶つ はっぷにしょけをたつ 文殊は是れかの人なり もんじゅはこれかのにんなり 独空畢竟の理 どっくうひっきょうのりなり 義用最も幽真なり ぎゆうもっともゆうしんなり 三に、相とは、所謂、摩訶梅多羅冒地薩怛ばの三摩地門、是れなり。 みつに、そうといっぱ、いわゆる、まかばいたらぼうじさとばのさんまじもん、これなり。 「是故空中無色」というより、「無意識界」に至るまで是れなり。 「ぜこくうじゅうむしき」というより、「むいしきかい」にいたるまでこれなり。 大慈三昧は、与楽を以て宗とし、因果を示して誡とす。 だいじさんまいは、よらくをもってしゅうとし、いんがをしめしてかいとす。 相性、別論し、唯識、境を遮す。 そうしょう、べっろんし、ゆいしき、きょうをしゃす。 心、只だ此れに在り。 こころ、ただこれにあり。 頌に曰く、 じゅにいわく 二我何れの時にか断つ にがいずれのときにかたつ 三祇に法身を証す さんぎにほっしんのしょうす 阿陀は是れ識性なり あだはこれしきしょうなり 幻影は即ち名賓なり げんにうはすなわちみょうひんなり 四に、二といっぱ、唯蘊無我、抜業因種、是れなり。 よつに、にといっぱ、ゆいうんむが、ばつごういんしゅ、これなり。 是れ即ち二乗の三摩地門なり。 これすなわちにじょうのさんまじもんなり。 「無無明」というより、「無老死尽」に至るまで、 「むむみょう」というより、「むろうしじん」にいたるまで、 即ち是れ因縁仏の三昧なり。 すなわちこれいんねんぶつのさんまいなり。 頌に曰く、 じゅにいわく 風葉に因縁を知る ふうようにいんねんをしる 輪廻幾の年にか覚る りんねいくばくのとしにかさとる 露花に種子を除く ろかにしゅうじをのぞく 羊鹿の号相連れり ようろくのな あいつらなれり 「無苦集滅道」、此れこの一句五字は、 「むくしゅうめつどう」、これこのいっくごじは、 即ち依声得道の三昧なり。 すなわちえしょうとく どうのさんまいなり。 頌に曰く、 じゅにいわく 白骨に我何んか在る はっこつにが いずくんかある 青おに人本より無し しょうおに ひともとよりなし 吾が師は是れ四念なり わがしは これしねんなり 羅漢また何ぞ虞まん らかん またなんぞたのしまん 五に、一とは、阿哩也ば路枳帝冒地薩怛ばの三摩地門なり。 いっつに、いちといっぱ ありやばろきていぼうじさとばのさんまじもんなり。 「無智」というより、「無所得故」に至るまで、是れなり。 「むち」というより、「むしょとっこ」にいたるまで、これなり。 この得自性清浄如来は、一道清浄妙蓮不染を以て、 このとくじしょうじょうにょらいは、いちどうしょうじょうみょうれんふぜんのもって、 衆生に開示して、その苦厄を抜く。 しゅじょうにかいじして、そのくやくをぬく。 智は、能達を挙げ、得は、所証に名づく。 ちは、のうだっとあげ、とくは、しょしょうになづく。 既に理智を泯ずれば、強ちに一の名を以てす。 すでにりちをみんずれば、あながちにいちのなをもってす。 『法華』『涅槃』等の摂末帰本の教、 『ほっけ』『ねはん』とうのしょうまっきほんのきょう、 唯だこの十字に含めり。 ただこのじゅうじにふくめり。 諸乗の差別、智者、之を察せよ。 しょじょうのしゃべっ ちしゃ、これをさっせよ。 頌に曰く、 じゅにいわく 蓮を観じて自浄を知り はちすをかんじて じじょうをしり 菓を見て心徳を覚る このみをみて しんとくをさとる 一道に能所を泯ずれば いちどうにのうじょをみんずれば 三車即ち帰黙す さんじゃ すなわちきもくす 第三の行人得益分に二有り。人・法是れなり。 だいさんのぎょうにんとくやくぶんにふたったり。にん・ぽうこれなり。 初めの人に七有り、前の六、後の一なり。 はじめのにんにななったり、まえのむつ、のちのひとつなり。 乗の差別に随って、薩たに異有るが故に。 じょうのしゃべつにしたがって、さったにいあるがゆえに。 また薩たに四有り。愚・識・金・智、是れなり。 またさったによつあり、ぐ・しき・こん・ち、これなり。 次に、また法に四有り、謂く、因・行・証・入なり。 つぎに、またほうによつあり、いわく、いん・ぎょう・しょう・にゅうなり。 般若は、即ち能因能行、無げ離障は、即ち入涅槃、 はんにゃは、すなわち のういんのうぎょう、むげりしょうは、すなわちにゅうねはん、 能証の覚智は、即ち証果なり。 のうしょうのかくちは、すなわちしょうかなり。 文の如く思知せよ。 もんのごとく しちせよ。 頌に曰く、 じゅにいわく 行人の数は是れ七 ぎょうにんのかずはこれななつ 重二かの法なり じゅうに かのほうなり 円寂と菩提と えんじゃくとぼだいと 正依何事か乏しからん しょうえ なにごとか とぼしからん 第四の、総帰持明分に、また三有り。名・体・用なり。 だいしの そうきじみょうぶんに、またみつあり。みょう・たい・ゆうなり。 四種の呪明は、名を挙げ、 よんしゅのしゅみょうは、なをあげ、 「真実不虚」は、体を指し、 「しんじっこ」は、たいをさし、 「能除諸苦」は、用を顕す。 「のうじょしょく」は、ゆうをあらわす。 名を挙ぐる中に、初めの「是大神呪」は、声聞の真言、 なをあぐるなかに、はじめの「ぜだいじんしゅ」は、しょうもんのしんごん、 二は、縁覚の真言、三は、大乗の真言、 には、えんがくのしんごん、さんなだいじょうのしんごん、 四は、秘蔵の真言なり。 しは、ひぞうのしんごんなり。 もし通の義を以ていわば、一一の真言に皆四名を具す。 もしつうのぎをもっていわば、いちいちのしんごんにみなしみょうをぐす。 略して一隅を示す。円智の人、三即帰一せよ。 りゃくしていちぐうをしめす。えんちのにん、さんそくきいちせよ。 頌に曰く、 じゅにいわく 総持に文・義有り。悉く持明なり そうじにもん・ぎあり。にんしゅ ことごとくじみょうなり 声字と人法と実相とにこの名を具す しょうじとにんぽうとじっそうとにこのなをぐす 第五の秘蔵真言分に、五有り。 だいごのひぞうしんごんぶんに、いっつあり。 初めのギャテイは、声聞の行果を顕わし、 はじめのぎゃていは、しょうもんのぎょうかをあらわし、 二のギャテイは、縁覚の行果を挙げ、 にのぎゃていは、えんがくのぎょうかをあげ、 三のハラギャテイは、諸大乗最勝の行果を指し、 さんのはらぎゃていは、しょだいじょうさいしょうのぎょうかをさし、 四のハラソウギャテイは、真言曼荼羅具足輪円の行果を明かし、 しのはらそうぎゃていは、しんごんまんだらぐそくりんえんのぎょうかをあかし、 五のボウジソワカは、上の諸乗究竟菩提証入の義を説く。 ごのぼうじそわかは、かみのしょじょうくきょうぼだいしょうにゅうのぎをとく。 句義、是の如し。 くぎ、かくのごとし。 もし字相義等に約して之を釈せば、 もしじそうぎとうにやくして これをしゃくせば、 無量の人法等の義有り、 むりょうのにんぼうとうのぎあり。 劫を歴ても尽し難し。 こうをへてもつくしがたし。 もし要問の者は、法に依って更に問え。 もしようもんのものは、ほうによってさらにとえ。 頌に曰く、 じゅにいわく 真言は不思議なり しんごんはふしぎなり 観誦すれば無明を除く かんじゅすればむみょうをのぞく 一字に千理を含み いちじにせんりをふくみ 即身に法如を証す そくしんにほうじょをしょうす 行行として円寂に至り ぎょうぎょうとしてえんじゃくにいたり 去去として原初に入る こことしてげんしょにいる 三界は客舎の如し さんがいはかくしゃのごとし 一心はこれ本居なり いっしんな これほんこなり 問う。陀羅尼は、是れ如来の秘密語なり。 とう。だらには、これにょらいのひみつごなり。 所以に、古の三蔵、諸の疏家、皆口を閉じ、筆を絶つ。 このゆえに、いにしえのさんぞう、もろもろのしょけ、みなくちをとじ、ふんでをたつ。 今、この釈を作る、深く聖旨に背けり。 いま、このしゃくをつくる。ふかくしょうしにそむけり。 如来の説法に二種有り、一には顕、二には秘なり。 にょらいのせっぽうににしゅあり、ひとつにはけん、ふたつにはひなり。 顕機の為には、多名句を説き、秘根の為には、総持の字を説く。 けんきのためには、たみょうくをとき、ひこんのためには、そうじのじをとく。 この故に、如来自らア字オン字等の種種の義を説きたまえり。 このゆえに、にょらいみずからあじおんじとうのしゅじゅのぎをといたまえり。 是れ則ち秘機の為に、この説を作す。 これすなわちひきのために、このせつっとなす。 龍猛・無畏・広智等もまた、その義を説きたもう。 りゅうみょう・むい・こうちとうもまた、そのぎをといたもう。 能不の間、教機に在り。 のうふのあいだ、きょうきにありたくのみ。 之を説き、之を黙する、並びに仏意に契えり。 これをとき、これをもくする、ならびにぶっちにかなえり。 問う。顕密二教、その旨、天に懸なり。 とう。けんみつにきょう、そのむね、はるかにはるかなり。 今この顕経の中に、秘義を説く、不可なり。 いまこのけんきょうのなかに、ひぎをとく、ふかなり。 医王の目には、途に触れて、皆薬なり。 いおうのめには、みちにふれて、みなくすりなり。 解宝の人は、礦石を宝と見る。 げほうのにんな、こうしゃくをたからとみる。 知ると知らざると、何誰が罪過ぞ。 しるとしらざると、たれかざいかぞ。 またこの尊の真言儀軌観法は、 またこのそんのしんごんぎきかんぽうは、 仏、『金剛頂』の中に説きたまえり。 ほとけ、『こんごうちょう』のなかにといたまえり。 此れ、秘が中の極秘なり。 これ、ひがなかのごくひなり。 応化の釈迦、給孤園に在して、 おうけのしゃかは、きっこおんにいまして、 菩薩・天人の為に、画像・壇法・真言・手印等を説きたもう。 ぼさつ・てんにんのために、えぞう・だんぽう・しんごん・しゅいんとうをといたもう。 また是れ秘密なり。 またこれひみつなり。 『陀羅尼集経』第三巻、是れなり。 『だらにじっきょう』のだいさんのまき、これなり。 顕密は人に在り、声字は、即ち非なり。 けんみつはひとにあり、しょうじは、すなわちひなり。 然れども猶、顕が中に秘、秘が中の極秘なり。 しかれどもなお、けんがなかのひ、ひがなかのごくひなり。 浅深重重まくのみ。 せんじん じゅうじゅうまくのみ。 我、秘密真言の義に依って われ、ひみつしんごんのぎによって 略して『心経』五分の文を讃ず りゃくして『しんぎょう』ごぶんのもんのさんず。 一字一文、法界に遍じ いちじいちもん、ほうかいにへんじ 無終無始にして、我が心分なり むじゅうむしにして、わがしんぶんなり 翳眼の衆生は、盲て見ず えげんのしゅじょうは、めしいてみず。 曼儒・般若は能く紛を解く まんじゅ・はんにゃはよくふんのとく この甘露を灑いで迷者を霑し このかんろをそそいで めいじゃをうるおす 同じく無明を断じて魔軍を破せん おなじくむみょうをだんじて まぐんのはせん
2026.06.26
ゴディバジャパン、今夏にも再建 スポンサー支援受け、リストラも6/26(金) 高級チョコレートの販売を手がけるゴディバジャパン(東京)が、経営不振に伴い、スポンサーの支援を受けて再建に乗り出す方針を固めたことが26日分かった。近く選定作業を始め、今夏にも決める方針だ。リストラ策の検討にも入り、店舗戦略の見直しや人員の配置転換、原材料の調達コスト圧縮を視野に入れる。新型コロナウイルス禍の販売低迷から回復が遅れている業績の立て直しを急ぐ。社は、投資ファンドMBKパートナーズが2019年にトルコの食品大手から1千億円超で買収。3~5年後の新規株式公開(IPO)を模索していた。しかし、カカオ豆の価格高騰や人件費の上昇が直撃。借入金の利払いも追い打ちをかけ、経営を圧迫したとみられる。 スポンサーは事業会社を想定しているとみられる。出資を受け入れて財務基盤を強化し、事業継続に向けた体制構築を目指す。
2026.06.26
【8】国の盛衰は人君の躬行に在るを論ずおよそ人君の国を治むるや、なお農夫の稼穡におけるがごとし。五穀繁茂して実り多きものは、耕耘培養の力を尽くすにあり。国富み民優(ゆたか)なるは、人君心力を尽くし厚く民を恵み、仁術を布くに由れり。もしそれ一身の栄利を求め遊楽をほしいままにし、聚斂もってその費えに供せんと欲せば、下民怨望の心起こり、業を怠り田圃荒蕪し、産粟年々に減じ、終に衰貧極まり、上(かみ)はいよいよ下に取るをもって益とし、下(しも)はますます貢税を減ずるをもって利とし、上下こもごも利を争い、国危うきに至る。それ農夫の五穀における生熟せずして衰枯するは、これ五穀の罪にあらずして、農夫の怠惰にあるや弁を待たずして明らかなり。もしその衰枯を憂い、暢茂(ちょうも)せしめんと欲せば、周年勤労し、培養その力を尽くすにあり。培養力を尽くして繁茂せざるもの、いまだこれあらず。菊花の美ならざるもの、菊の罪にあらず、これを作るもの過ちなり。茄子の実らざるもの、茄子の罪にあらず、これを植うるものの力足らざるなり。昔日まで来たれる雇夫(やといにん)の今日来たらざるは、雇夫の罪にあらず、これを使うものの賃金を与うる少なきがゆえなり。これによってこれを観れば独り国家の盛衰のみ、何ぞ然らざらんや。およそ万物の盛衰向背、多端なりといえども、要するところ二者に出でず。二者とは何ぞや。いわく、与うると与えざるとの2つにあり。けだし与うれば鳥獣来伏し、草木繁茂す、いわんや有情の人民においてをや。与えざれば鳥獣逃れ去り、草木衰枯し、民心乖離す。彼安ければ我随って安く、彼危うければ我随って危うし。何ぞや、彼是(ひぜ)一物なるがゆえなり。語(論語)にいわく、百姓足らば則ち君誰と共に足らざらん。百姓足らざれば、君則ち誰と共に足らんと。この謂いなり。もしいやしくも国民は我が民なり。勤労して租税を納むるは下の罪なり。これを取ってもって費用となすは、人民の常なりとせば、ああ、これ大なる過ちというべし。下民も人なり、人君も人なり。何ぞ彼のみ独り辛苦して貢を納むるの道あらん。それ君たるの道は、常に下民のために禍乱を拒(ふせ)ぎ、災害を除き、窮乏を救い、辛労を補い、善を賞し、悪を戒め、老を憐れみ、幼を恵み、鰥寡孤独の頼る所なきものを恵恤し、およそ下民の生を安んずるゆえんのものは、これを施し、日夜これがために心志を労し、肺肝を砕き、ただその足らざるを憂う。このゆえに下民もまた高恩に感じ、その恩に報いんがため、粒々辛苦の五穀を貢として、もって納む。他なし、これは心を労し、彼は力を労し、互いにその労を通じて国家全く永安を得べし。あに坐(いな)がらにして、しかして下に取るの道あらんや。このゆえに仁政を布くにあらずして、下に取るもの度に過れば民日々に窮し、飢寒を免れず。民窮困すれば、国随って衰廃す。それかうのごとくにして、富栄を得んとせば、なお農夫坐(いな)がらにして、五穀の実りを求むるがごとし。国家を治むるものあに察せざるべけんや。報徳論【9】聖人の道農夫の業に同じきを論ず問うていわく、かって聞く、聖賢の道と千住の農夫の業と同一なりと。余謂(いえ)らく、霄壌(しょうじょう:天と地)の異なるがごとし。しかして同一の論あるはいかん。いわく、それ天下の事物、事同じうして理異なるものあり、理同じうして事異なるものあり。今我がこの二者を論ずるは、すなわち理同じうして事異なるをいう。いわく、聖賢の道は天下国家を治め、四海をして平安ならしむるの大道なり。然るに千住の農夫の業と、その理同じきものは何ぞや。いわく、聖人の道を貴び、農夫の業を卑しむ、甚だしいかな、理の通ぜざるや。それ千住の農夫なるもの、稼穡の艱難を甘んじ、五穀を生養し、周歳勤動して、いささかも怠らず。江都の貴賎不浄の除くところなく、これを厭いこれを憂う。五穀は不浄にあらざれば生育せず、ゆえに糞養を得ざれば、衰弱枯槁して実るあたわず。それ人民は不浄を悪(にく)み、五穀はこれを好む。もし人の憂うる所の不浄を取り、五穀の好むところに与えざれば、都人不浄のためにその所を安んずるを得ず。五穀不浄を欲して得ざるがゆえに、空しく枯槁し2つまがら全しを得ず。これあに世の大患にあらずや。然して千住の農夫つとに起き、3里の道を遠しとせず、汲々として奔走し、都人の憂えるものを買い、身は重荷に労し、汗は面背にあふれ、流離して踵(きびす)に至り、家に帰り、田圃に行って、これを五穀のそそぎ与う。五穀快然として生育す、不浄とみに変化して、清潔の五穀となる。ここにおいて、清浄の五穀を負いて都に出で、衆人の欲するところに売り与え、飢渇の憂いを免れ、その生を安んぜしむ。人の憂いを除きてもって五穀衰枯の憂いなからしめ、人命と五穀とを安んずるをもって、周歳の業となし、労を忘れ、力を尽くし、孜々として止まず、都人百万の安居するゆえん、あに農夫の功少なからんや。至れるかな、農夫の業。けだし聖賢の国家を治め、万民を安んずるに、心志を労し肺肝を砕き、身親(みず)から艱苦をなめ、荒蕪を開いて耕田となし、民に与えてその生を楽しましめ、溝洫(こうきょく)を通じて灌漑の便となし、民の憂うる所はこれを除き、その欲する所はこれを与え、その安息するゆえんのもの施さざるなし。万民飽食暖衣して業を励み生を楽しむ。ここにおいて五倫の道を教え孝悌忠信の道行われ、男女老幼鰥寡孤独廃疾のものに至るまで、恩沢に浴し、安居せざるものなし。およそ聖人、民の憂うるものを変じて幸いとなし、悪を化して善となし、汚俗を変じて淳厚となし、衰貧を変じて富優となし、危殆(きたい)を変じて栄安となし、よく仁義五常を守らしむ。大なるかな、聖人の道。聖人は天下国家を治むるにこの道をもってし、千住の農夫は一家活計のためにこの道を行う。ゆえにその事は同じからずして、理はすなわち一なり。今国家を平治せんとして、農夫の道に差(たが)わば、必ず治むるあたわず。五穀を樹芸せんとして、聖人の道に差(たが)わば、また五穀を繁茂せしむるあたわず。一は国を治め、一は田圃を治む。その理において毫毛の差(たが)いあるなし。然して世俗皆聖賢の道の貴きを知って、農夫の業を察せず。千住の農夫、一家のために汲々として行うといえども、自らかくのごときの大道たるを知らず。世人もまたこれを卑しとして察せず。これをもって二者一理の論を疑うなり。もし国を治むるもの、よく農夫の業を察し、この理をもって国家を治めば、聖人治平の政(まつりごと)も今ここに見るべきのみ。報徳論【10】富を保つもの中庸の分度を立つるにあるを論ず世の富を保つもの、永くこれを子孫に伝えんと欲して、往々衰貧を免れざるものは、何ぞや。貧富往来天理自然に委して、人道をもってこれを制せざるがゆえなり。けだし貧富往来はなお四時錯行して、一たびは寒となり、一たびは暑となり、あるいは昼となり夜となり、須臾(しゅゆ)も止まらざるがごとく、貧極まれば富を生じ、富極まれば貧に陥る。然して富は何に由って生ず。勤倹これなり。貧は何に由って生ず。驕惰これなり。然らばすなわち驕惰なるものは貧困の本にして、勤倹なるものは富優の源なり。貧困極まれば、驕奢を欲するといえども、これに供用すべきの財なく、怠惰を甘んずといえども、飢寒身に迫り、一日も安んずるあたわず。ゆえに自ら勤倹の心起こる。いやしくも勤倹なれば余裕を生ず。なお勤倹止まざれば、終に富優に至る。また富優極まれば、勤倹を忘れて驕惰に流れ、あるいは膏梁(こうりょう)を貪り、あるいは美服をまとい、あるいは居室を飾り、そのなす所、ことごとく驕惰の2つに過ぎず。かって祖先の家を興すは、勤倹にあるを省みるもの鮮(すくな)し。いわんや我が富は祖先の恩賚(おんらい)なるを了し、これが報恩を志し、いやしくも分内を譲りて国家のために尽くす所あらんとするものにおいてをや。終に驕逸のために家を亡ぼし、元の貧困に陥る。これ貧富循環天理自然にして、世人の免れざるゆえんのもの、あに明著ならずや。いわく、貧富往来、自然に委(まか)せずして、人道をもってこれを制するものいかん。いわく、およそ人の居室に安んじ、飢寒の憂いを免れ、その生を遂ぐるものは、聖人の大道に由るがゆえなり。もしこの大道に由らずして、天理自然に委するときは、人道ここに滅せん。それ人体なるものは、父母陰陽合して生出す。ゆえに寒熱水火等分なり。我が体を撫して見よ。熱にあらず、寒にあらず、火なきにあらず、水なきにあらず、これ寒熱水火均しきなり。寒熱均しき身なるがゆえに、暑を苦しみ寒を憂う、これ我が体に合わざればなり。3月と9月とをもって快しとするは、寒暑等分我が体に合すればなり。然るに人の情欲に至っては然らず。一身一家の事を処するに、この中庸の度を用いずして、常に驕惰を快しとす。それ驕なるものは炎暑のごとく、惰なるものは極寒のごとし。けだし人体火水に剋(か)てば熱病発し、水火に剋(か)てば労病発し、身終に斃(たお)る。これ中分を失うがためなり。家事の経営何ぞこれに異ならん。貧惰に偏すれば全きを得ず。驕奢に倚(い)すればまた亡ぶ。ゆえに100石の禄なれば50石に約し、1.000石の禄なれば500石に約し、1,000両の株なれば500両をもってし、100両の株なれば50両をもって生活を営むべし。これ寒暑等分貧富平均の中庸にして、寒ならず熱ならず。一身無病にして寿(なが)きがごとく、子々孫々に至るまで、富を持し、家を全うすべし。然れどもこれのみにして家に陰徳を積まざれば、善人起こらずして無頼のもの生まれ祖法を破るの憂いあり。このゆえに中庸の分度を定めて、余財を譲り、他の貧苦艱難を救助せば、陰徳積善これより大なるはなし。たとい凶旱水溢ありといえども、憂うるに足らず。国を興し民を安んずるもまた難からず。もし王者これを行いたまわば、天下を安んじ、侯伯これを行なわば、国家を安んじ、士庶人これを行わば、必ずその家を安んず。いやしくもかくのごとくなれば国に衰乱の憂いなく、家に貧困の苦なからん。これ人道を尽くして、永く富を保つの大道なり。報徳論【11】業を立つるものの自奉綿衣飯汁の3に在るを論ず問うていわく、先生の道は国弊を矯(た)め、衰廃を挙げ、厚く仁術を施し、上下の永安を得せしめるの大道なり。君命を奉じて斯道(しどう)を行うものあに大業にあらずや。けだし大業に任ずるもの、その身正しければ道行われ、正しからざれば行われざるは勿論なりといえども、また外に何を要として可ならんや。いわく、いやしくも斯道を行うものは、必ず自ら下民に先んじ、艱苦をなめ、節倹を尽くし、余財を譲り、仁愛をもってするを要とす。いわく、かくのごときのみか。いわく、自ら民に先んずれば、民その労を忘る。艱苦を甘んじて節倹を尽くせば財余りあり。よく譲れば民服し、よく愛(いつく)しめば感戴せざるものなし。かくのごとくんば蛮夷の国といえども治まらん。いわんや衰国をや。いわく、古人の行いこれに似たるものなきにあらず。然して業をなすもの、往々その終わりを遂ぐるあたわざるは、何ぞや。いわく、心節倹にありといえども、自奉の節いまだ尽くさざるがゆえなり。いわく、自奉の節、いかにせば可ならん。いわく、それ人として一日五合の食なければ飢えを免れず。五合の食あれば身を養い命を保つに足れり。何ぞ味の多きを貪らん。たとえ山海の珍味を備うるも、一日数升を食らうあたわず。然れば珍味は悉く奢侈にして、生養を期するものにあらず。ただ汁は飯を導くをもって、体を養うの要物なり。衣は寒暑をしのぐのためのみ。綿衣にして足れり。その他は皆奢侈の具と謂うべし。ゆえに我が身に奉ずるものは必ず綿衣飯汁の3つをもって限るべし。人身もとより羽毛の寒暑を防ぐべきものなし。ゆえに綿衣もってこれを防ぎ、また食なければ飢渇を免るあたわず。ゆえに飯汁もってその生を養い、自ら足るを知って終身自奉の度となし、余財もって下民恵恤の資本に加うるときは、誰かあえて服せざらんや。もし衣は錦繍をまとい、食は珍味を貪り、その業を遂げんと欲せば、道盛行の時は、害なきに似たりといえども、変動の時に当たれば衆人の誹謗起こり、佞奸その業を破るの具となり、積功一時に崩潰す。これ他より破るがごとくにして、実は自ら破るなり。このゆえに事を成すもの、浮かまず沈まず、中庸の行いをもって要とす。それ水車は半輪水を出で半輪は水に入る。これをもって循環して止まず、廃せず。もし全車水を離るれば運転の用をなさず、全車水中に沈めばまた然り。ゆえに人身衣食を離るれば身滅し、衣食を貪れば事成らずして害を生ず。飯汁綿衣のその中を得るもの水車の中を得て全きがごとし。古歌に坐禅する祖師の姿は加茂川にころび流るる瓜か茄子(なすび)か。これ100人誹(そし)るものあれば100人これを称するものあり、100人信ぜざれば100人信ずるあり。世と共に仏道行われて朽ちざるや、なお流水の瓜、半ばは浮かみ半ば沈み、水を離るるにあらず、また沈むにあらず、大海に達すがごときをいえり。君子の業を成すや、それ必ずここにおいてす。美衣美食珍器重宝、平常の時は、我が身を助くるものに似たりといえども、その動揺変化の時に当たれば、皆ことごとく讒者誹謗の具にして、我を責むるの敵となる。古えより事を成すもの往々これがために破る、歎ぜざるべけんや。然ればすなわち自奉必ず綿衣飯汁の3つに限り、分を節して有余を譲り、百姓の窮苦を除き、誠心もってこれを撫恤すれば、たとえいかなる変動逆浪起こるといえども、動かすあたわず。讒奸出づるといえどもその邪説を飾るを得ず。徒誹徒謗のみにしてまた称誉するもの多し。何をもって破るを得んや。このごとくにしてその業を遂げざるものいまだこれ有らざるなり。報徳論【12】国の本は農にあるを論ず伝にいわく、物に本末有り、事に終始有り、先後する所を知れば則ち道に近しと。天地間、万物終始本末あらざるものなし。このゆえにその本を厚うすれば、万物盛んなり。その末を厚うすれば万物衰う。何となれば末より本を生ずるにあらず。その本立って然る後末なるもの生ずればなり。ゆえに一木だもその本根を厚うせざれば、花実の盛んなるを得ず。いわんや国天下においてをや。それ国の本は民にあり。民の本は食にあり。食の本は農業にあり。これをもって農業盛んなれば民優(ゆた)かなり。民優(ゆた)かなれば国家の盛富何ぞ論ずるを待たん。けだし国の衰廃するもの、一朝一夕のゆえにあらず。農業衰えて民困窮し、民困窮して、然る後国の大患となる。かくのごとく、国の大本にして重んずべき農業を、往々卑賤の業なりとす。他なし。本末明らかならざるがゆえなり。その明らかならざるもの、譬えば池水に落葉の浮かぶがごとし。池水ありて、然る後に落葉浮かぶといえども、浮かぶもの積もれば、これがために池水を見るを得ずして、池の本は水にあるを忘れ、落葉をもって池となすがごとし。もし水を見んとせば、その後に積もれる落葉を掻き分けて見ざれば、水は本にして落葉は末なるを弁じがたし。世に士の職あり。工商の業あり。儒仏の道あり。諸々の技芸あり。また金銀財宝あり。世人これを貴しとするや、農事に比して同日の論にあらず。何ぞ顛倒の甚だしきや。今明らかにその本末を弁ぜん。一国皆行って傾覆なきものは、本源の道なり。一国皆行って立つべからざるものは、末葉の道なり。それ士もって本となすか、国人ことごとく士となれば飢渇に迫り、数日を支うあたわず。工をもって本となすか、持って闔国皆工となればまた飢渇を支うあたわず。商賈(しょうこ)をもって本となすか、国人皆商賈となればまた数日も立つべからず。もし儒道をもって本となすか、国中儒者となり、書を読み経を講じ、見るべし、飢渇立ちどころに至らん。仏道をもって本となすか、国人挙って僧侶となるも飢渇にせまり、何をもって数日を支うを得ん。もし将(ま)た技芸をもて本となすか、飢渇たちまち至り、人類ここに滅せん。いわんや財宝の末なるもの、何ぞ言うに足らん。これによってこれを観れば、世人の貴ぶ所の数者は皆末にして、国の大本にあらざるや知るべきのみ。ああ農業は人々これを賤しむといえども、国人挙ってこれを行い見るべし。期年耕せば若干の食を得、いよいよ耕せば食いよいよ饒(ゆた)かにして、身を養い生を保ち、人々足り家々優(ゆた)かなり。幾百歳を経(ふ)るといえどもいささかも立つべからざるの憂いなし。前には挙って諸道を行い、数日も立つべからざるもの、今は農をなして幾百歳といえども、継続することを得。これ他なし。誠に国家の大本なるがゆえなり。然らばすなわち数千歳を亘って、飢えず寒(こご)えず、人事の憂いなきものは本にして飢渇たちまち至り数日を支うべからざるものは必ず末なり。その末なるものは本によって生ず。池中水あるがゆえに落葉浮かび、木根全きがゆえに枝葉栄え、農の大本立ち米粟饒(ゆた)かなるがゆえに諸道起こる。何の疑いかこれあらん。然らばすなわち士の済々たるも農あるがゆえなり。工商の盛んなるも農あるがゆえなり。金銀財宝の貴きも農あるがゆえなり。かつ諸道の立つものいかん。いわく、上古国土いまだ開けざる時は、人々木の実を拾い、草根を掘り食となし、穀食ほとんど稀にして、飢餓の憂いを免れず。これにおいて原野を開墾して田圃となし、五穀を播種して稼穡の道立ち、民食始めて優(ゆた)かにして、その生を養い身を保つを得たり。然れども大鳥猛獣の害あり、また強暴掠奪の憂いあり。これがためにその業に安んずるを得ず。これにおいて衆に選んで力量知慮あるものを挙げ、その妨害を拒(ふせ)ぐ事を任ぜしめ、米粟を出(いだ)してその耕すに易(か)う、これ後世士あるの発端なり。居室を作りて穴居に代えんとす。これにおいて工事に巧みなるものをしてこれを作らしめ、米粟を与えてその労を補いその耕すに易(か)う。これ工たるものの始めなり。またその有無を通ぜざれば活計の便を得ず。ここにおいて交易融通の人を置きて、その有無を通ぜしめ、米粟をもってその労を補う、これ商賈の由って起こる所なり。然らば士工商は、もと皆農者便宜のために起こる所にして、士工商のために農民を立つるにあらざるや明らかなり。然して後世に至り、後に立つるものをもって貴しとし、本来の民をもって卑しとし、本を軽んじ末を重んじ、士は民のために力を尽くすこと少なくして、多く米粟を得んと欲し、工商は射利を専らにして、奢侈に趨(はし)る、独り農民のみ風にくしけずり雨に浴し、寒暑の苦を忍び稼穡の艱難を尽くすといえども、困窮を免れざれば往々末利をおって業を廃す。農民業を廃せば土地荒蕪す。土地荒蕪すれば国衰う。国衰うればいずくんぞ士工商衰貧せざるを得んや。蓮の泥中に全きがゆえに、花葉美なるを得、その根は本なり、その花は末なり。しかして末なるものは美にして本なるもの美ならず。美なるがために賤しんでその本根を棄つれば、美として愛せし花葉もたちまち衰枯す。ゆえに聖人これを察し、自ら謙譲して民と艱苦を同じうし、節倹を行い仁政を布き、下民を恵恤して衣食住を安んじ、税斂を薄うしてこれを安撫する子のごとし。ゆえに庶民感動して、その業を励み、その生を楽しみ、君を仰ぐ父母のごとく、生財日々に優(ゆた)かに、国家盛富にして永く安寧なるもの、他なし。その花葉を主とせずして大いにその本根を厚うするがゆえなり。書にいわく、民惟邦本々固邦寧(民は国の本なり、本固ければ国やすし)とこれを謂うなり。このゆえに古えより、国の本たる農業盛んなる時は、国豊富にして仁義礼譲行われ、四民手足を措くところなく、敗亡を免れず。天下国家の治乱盛衰は多端なるがごとしといえども、要するに本根の盛衰に由らざるはなし。然らばすなわち古今となく、国の衰廃に陥るものは、その末を厚くしその本を薄うして、本根衰弱し末葉蔓延の致す所にあらずや。然して国の衰えを挙げ廃を興さんとするに当たり、なお枝葉に因循してその本根を厚うするの道に帰らざれば、たとえ学六芸に通じ、力山を動かすといえどもますます労していよいよ疲弊す。また何の益かあらん。ゆえによく本末軽重の由って起こる所を明らかにし、その末を薄うして、その本を厚うし、大いに百姓を恵恤し、その艱難を憐れみ、その窮苦を除き、その生を安んじ、農業に進ましむれば、国人皆農は国の本にしてその貴きゆえんを知り、風習とみに改まり、勤農を主として、末利を逐(お)わず、土地開け生財優(ゆた)かにして、仁義の道興る。ああ大なるかな。農業なり。この業の本は食にあり、食の本は農にあり。あにただ人のみならんや、およそ有生のもの、食なき時は一日も立つべからざるがゆえなり。報徳論 終
2026.06.26
報徳論【7】富貴天にあらず分を定め倹を行うに在るを論ず世俗にいう、富貴は天に在りと。これ富貴の由来を知らざるの説のみ。およそ世人の憂うる所、貧困にあり。しかしてその貧困のよって来たる由来を知らず。そもそも大小各分限定めありて、易(か)うべからざるものは、これすなわち天にあり。しかして貧困はしからず。人事によって生ず。何となれば我が国を狭しとして、これを大にせんとするも、四方蒼々たる大海なり。いずくんぞこれを大にすることを得ん。これ天分定まりありて人力の及ぶ所にあらざるなり。一国一郡一邑もまたおのおの大小等しからずといえども、皆ことごとく天分定まりありて動かすべからず。もし一国を足らずとして、隣国の地を取らばすなわち暴なり。一邑を足らずとして、他村の地を取らばすなわち掠(りゃく)なり。一家もまたしかり。千石の家あり百石の家あり、これ皆天分なり。その天分に安んぜずして、これを他家に取らばすなわち奪なり。暴戻掠奪は禽獣の行いにして、いやしくも人のなすべき所にあらず。世人いたずらに他の富貴を羨み、動(やや)もすれば他に取ってもって我が分を足らんことを謀り、かえってますます貧困に陥るもの何ぞや。他なし。富貴は外にあらずして、我が分内に備わるを知らざるがゆえなり。もしそれ一国の土地広きを加うるあらずして、広きを加うるに異ならず。一家もまた然り。1年に10金を余さば、10年に100金、100年に1,000金の余裕を生ず。これ家禄田産を増すにあらずして、なお増加するがごとし。その余す所の多少に随って、多少の富優を致すもの、何の疑いかあらん。それ国土を増倍するは、百計を尽くすといえども得べからず。生財に至っては、分を守り用を節せば、労せずしてあるいは一倍もしくは数倍を得べし。およそ内を減じて外に余せば、財宝湧くがごとく、幸福求めずして至る。他に取り内に入るるをもって益とすれば、衰貧招かずして至り、衰貧招かずして至り、亡びざれば息(や)まず。天下の貧富苦楽多端なるがごとしといえども、この2者に出でざるはなし。然らばすなわち貧富は天にあらず。人事によって生ずるや、昭々乎として見るべし。世俗往々なしやすき事をなさず。求めて得がたき事をなし、終身汲々区々として、衰貧困辱を免るるあたわず。あに歎ぜざるべけんや。然して有余を生ずるに仁あり、不仁あり。己の利欲のためにその分を減ずるは財を貪るの致すところにして、不仁の行いあり。君子は分を減じ節倹を尽くし、年々歳々有余を生じて、もって衆人の艱苦を救い、人々をして安からしめ、これと苦楽を共にす。これあに至仁の行いにあらずや。
2026.06.26
報徳論【6】治国安民は主者の道にして臣たる道にあらざるを論ず問うて、いわく、治国安民は主者の道にして、臣たる道にあらずとは何ぞや。いわく、日月の下土(かど)を照臨するがごとく下に臨んで仁を布き行うがゆえなり。それ人君の国を治め、民を安んずると、里正の邑を治むると、農民の稼穡をなすと、その道異なるがごとくにして、その理はすなわち一なり。いわく、人君の国民を安んずる、いかん。いわく、日月の国土を照らすや、開闢より以来万歳、循環一日も息(や)まずして万物を生育す、ゆえに森羅万象生々して限りなし、大なるかな天道なり。聖人これにのっとりて、もって道を立て、仁君これによって、もって万民の憂苦を除き、これを撫育しこれを教導す。ゆえに衆世その業に安んじ、家々足り戸々給し、父母妻子を養い、風俗自ら淳厚にして、礼節を守り、信義を行い、君恩を感戴して、国安く、禍乱起こらず、災害いたらず。然れどもなお恩沢の下(しも)に普からざるを憂い、一人困苦を免れざるものあれば、これ我が罪なり。一人道を守らざるものあれば、これ我が過ちなりと、自ら責め、自ら勤む、ゆえに下民(かみん)安んじて後、人君始めて安く、下民歓喜して、後人君始めて喜ぶ。下民の安危・国家の盛衰、一に人君の一身にかかれり。余が仕法は日月の国土を照らし、万物を生々するがごとく、聖賢下民を治むるの道なり。これをもって諸民の安んずる所を与え、その憂苦する所を除き、永く貧困の憂いを免れしむ。この故に家なきを憂うるものには、家を与え、食なきを憂うるものには、食を与え、農具なきを憂うるものには、農具を与え、あるいは借財のために苦しむものには、無利息金をもってその借りを償わしめ、あるいは田圃少なきものには、荒蕪を開きてこれを足し、あるいは道を築きて、通路を安からしめ、溝洫(こうきょく)をさらえて、流水の便を得せしめ、総じて民の安んずるゆえんのもの、施さざるなし。ゆえに下民欲する所を得て、その生を楽しみ、汚俗一洗して、勤業淳厚の民と化し、衰邑再復して富盛を得るに至る。邑々(むらむら)かくのごとくなれば国家の興復、年を期して待つべきのみ。これ人君の道にしてあに人臣の道ならんや。いわく、人君の道なること、すでに命を聞けり。敢えて問う、里正の道いかん。いわく、それ里正の任たるや、一邑を指揮し、善悪邪正を察し、これを正しこれを戒め、歳々の貢税を集めて、君に納む。一邑の進退里正の任たり。ゆえに里正仁心ありて自ら勤労し、もって下民に先立ち分を守り、有余を譲り、邑民の貧窮を憐れみ、これを恵み、これを救い、その不足を足し、その憂うる所を除き、その喜ぶ所を与え、恩を施して、更にその報いを求めず、人を利して己の利を計らず、邑民を安んずるをもって、己の専務となさば、老若男女皆感動して、その労を忘れ、その業を励み、米粟を生ずる限りなく、家々富を得て安んずるに至る。里正は一村の主たり。ゆえに我が仕法を行うはその行いやすきこと、流水のひくきに帰するがごとし。いわく、里正にして仕法を行うは一村の主たるがゆえに行いやすきこと、すでに命を聞けり。あえて問う。農夫の道これに同じきはいかん。いわく、農夫の五穀を作るや、寒暑の難を避けず、風雨霜雪の苦を憂えず。春は耕して五穀のために、その深からざるを憂い、夏はくさぎりて、五穀のためにその尽くさざるを憂い、また糞養生育の力足らざるを憂い、周年勤動していささかも怠らず、専ら田圃五穀のためのみを計りて、更に安逸を求めず、ゆえに田圃糞養を得、五穀繁茂して結実豊かなり。農夫我が仕法をもって田圃に施さば実らざるの五穀なし。これ人君身を忘れ民のために万苦をなめ、国民を安撫するをもって職となし、里正身を忘れ、邑民を撫育し、その妻妾僕婢に臨んで、愛憐の心厚ければ、順和礼譲興り、一家の平安疑いなし。これゆえに仕法は仁術なり。およそ大小となく、上(かみ)より下(しも)に臨んで布き行わば、天の万物を生ずるごとく、恩沢限りなくして人事の憂患消除し、安栄を得るや必せり。然れども往々一身の栄利を求むるをもって益とし、人のために勤労するをもって損となすものあり。もし農夫一身の安逸を求めて五穀のために力を尽くさず、糞養耕耘の勤労を怠れば、秋実少なうして来歳飢寒の憂いを免れず。終に家を破り身を失うに至る。一家の主たるもの一身の利を主とし、愛憐の道なければ、妻妾僕婢の怨みを生じ、紛々として家乱る。里正仁愛の心なく、一身の利を計り、財を貪り、邑民を虐ぐるときは、たちまち怨望起こり、随って人心紊乱風俗敗頽し、田地は荒蕪し、貢税は減少し、終に人君の責罰を蒙り、家を失い身を亡ぼす。人君もし一身の栄利を主とし聚斂(しゅうれん)を益として民の艱難を顧みず、仁恤の行いなければ、民心乖離し、土地荒蕪して、国遂に衰弊す。ああ人の憂いを憂い、人の安きを願うものは、己の幸い求めずして来り、己の幸いを求め、人の憂いを顧みざるものは、常に亡ぶ。ゆえに明君は人を利して己の利を計らず。恩を施して、その報いを求めず。ただ我が心労の足らざるを憂い、仁術の至らざるを恐る。ゆえに一世の間、徳政の顕然たるのみにあらず、美名千歳に光輝す。里正民を愛して身の幸いを計らず。民その堵(と)に安んじて、幸福己に帰するもの、なお農夫五穀のために勤労を尽くして、秋実の豊かなるを得るがごとし。いわく、主者の行うべき道なるは、既に命を聞けり。独り臣下の行うべからざるものは、何ぞや。いわく、仁術を国民に布き、衰廃を挙げ百姓を安んずるもの、固より人臣の職にあらずして行うときは、民心その徳に懐きて君に離る。民心これに懐くときは、群臣これを怨み、君これを悪(にく)み、遂に身廃せられ、業もまた敗(やぶ)る、然して民、君を怨み、君、民を咎むるの災いとなる。何ぞ、独り仕法のみ、臣下これを行うあたわざるや。いわく、人の臣たる者は、君命を奉じておのおのその職を勤むるものなり。ゆえにその職にあらずして仕法を行わば、必ず失敗の憂いあり。もしそれ、人君にして、仕法は国の衰廃を興し、人民を安んじ、永く国家を平治するの要道なるを了し、人材を挙げて、厚くこれに任命したまわば、これ君命によって行うがゆえに、そのなす所皆君の行いなり。然らばすなわちその功その徳ことごとく君に帰して、臣もまた恨みを受くる所なし。それ禄を与え、徳を布き、人を治むるは、人君の道なり。禄を受け、上に事(つかいま)つるものの行うべき道にあらず。近くこれを譬えん。馬夫の馬におけるや、これを養いこれを育す。農夫の五穀におけるや、よく養いよく育す。菊作りの菊におけるや、よく養い、よく育す。皆これ力を尽くして、その物を養育するをもって主とす。ゆえに農夫の道にして、五穀の道にあらず。馬夫の道にして、馬の道にあらず。菊作りの道にして、菊の道にあらず。然らばすなわち人を養い、人を使うものの道にして、人に養われ人に使わるるものの道にあらざるや。昭々として見るべきのみ。
2026.06.26
報徳論【5】荒蕪を闢(ひら)くは上古の道にあるを論ず国に盛衰あり。その衰時に在りては、土地荒蕪し、人民貧苦、飢寒の憂いを免れず。そもそも国家安寧の道は、荒蕪を開き、五穀を生じ、下民の衣食住を、優給(豊かに給す)ならしむるにあり。下民優給たる時は国の本固し、本固ければ、永く国家の憂いなし。今人は衰廃を挙げ、諸民を安んぜんとするの志ありといえども、この業や多額の費用を得るにあらざればあたわず。然るに衰国財に乏しく、今日の国用なお足らず、何の余裕ありてか、これを行わんやと、いたずらにこれを憂うるのみ。ああ、これ国土開け米金財宝万器万物全備の今日に当たりて、衰廃を目するがゆえに、財にあらざれば挙ぐるあたわずとなすなり。けだし開闢より以来土地開けて、然る後、米金財宝生ず、米金財宝ありて、土地開けたるにあらず、順に至るものを逆に見て、衰廃を挙げんとせば、術尽きていかともするあたわず。そもそも上古、国の未だ開けざる時に当たりて、茫々たる原野にして、一物だも存せず、一金の得べきなく、一粟の得べきなし。諸民草根を掘り木実を拾い、口腹を養い、木葉を連ね身にまとい、岩をうがちて雨露を障じ、終身飽かず暖かならず、鳥獣と群を同じうして、一日の安居なく、一刻の楽しみなし。神聖このありさまを深く憐れみたまい、生養すべきものを選み、稼穡の道を授けその実りを得て、これを来歳に譲り、年々順次開墾し、原野変じて耕田となり、限りなきの米粟を生じ、民始めて穀食につき、命を保つを得たり。ここにおいて、衣を織り寒暑をしのぎ、居室を作り穴居に替え、衣食住備わり、然して後、随って万器万物金銀財宝に至るまで、漸くに備わり、遂に山の麓より海浜の末に至るまで、土地開け百貨繁殖し、何一つ備わらざるなき豊穣繁栄の国土となりしも、その初め神聖万民のために稼穡の道を授け、譲りの道をもって、開かせたまいしに由れり。我が国に生るるもの深く顧み感戴し、頃刻もこの高恩を忘るべけんや。かくのごとく原野を開き、万物を生じ、兆民を安んじたまうといえども、その始め異国の米金を借りて、興したまえるにあらず。然るに今金銀財宝米穀器物充足せし豊穣安栄の幸いを我が物とし、広大無量の国恩を忘れ、奢侈に長じ、譲道の貴きを捨て、私心の欲するままに進退す。故に遊惰に流れ、業を廃し、土地荒蕪し、生財日々に乏しく、用費日々に増倍す、あに衰廃せざるを得んや。それ田畝一たび荒れば、必ず上古の芦原に帰す。土地は上古に帰せり。これを起こさんとするものは、数千歳の後に生ぜし金銀を目当となし、金銀なければ開墾するあたわずという。その思慮のたがえる、なお南国に帰るものを、北国に索(もと)むがごとし、万慮を尽くすといえども、また何の益かあらん。これ今の世に生れて古えの道に顧みざるがゆえなり。もしはた金銀をもって荒蕪を開き、民を安んぜんとするか。荒地1反歩(たんぶ)を開くに1両金を用いれば、1町10金、10町100金、100町1,000金、1,000町10,000金、10,000町100,000金、100,000町を開くに1000,000金を得ざれば、開くあたわず。土地のみを開きて、耕耘の民なければ益なし。ゆえに農民一家を建て、かつ衣食住農具を与うるに、その価(あたい)20金又は30金にあらざれば、一家を保ち稼穡の力を尽くすを得ず。一家30金、10家300金、100家3,000金、1,000家30,000金、10,000家300,000金、それ衰国貢税減じ、期年の入財国用の半ばにも足らず。この時に当たって、荒蕪を開き、下民を安んずるの用費、100金だも得がたし。いわんや数千万金においてをや。これ今の世、有智のものといえども、手を空しうして嘆息するゆえんなり。然して我は衆人の求むる所に異なり、南方に帰るものを索めんとすれば、南方にゆく。北方に帰るものを索めんとすれば、北方にゆく。これゆえにゆくとして求め得ざるなし。今土地の荒蕪は、すなわち上古に帰るなり。これを開かんとすれば、必ず上古神聖、豊葦原を開かせたまいし時に帰り、茫々たる原野に、我一人生れ出でたる心をもって、千辛万苦の労を積み、一鍬より始め十百千万、順をもって開墾し、その実りを譲って、もって開墾の用費となすべし。何ぞ後世の金銀を待たんや。いわんや衰邑衰国の土地といえども、上古一円の原野に比すれば、万世万物の優(ゆた)かなる、もとより論なし。然らば、今の世に当たり、たとえ万苦をなめ、開墾撫恤の業を行うといえども、上古に比すれば、その難易知るべきのみ。ああ我が国開闢以来の大道を棄て、後世の財宝に迷い、万器万宝の本源たる土地を荒し、いたずらに衰貧を憂うるは、譬えば井戸を塞ぎて、水を求むるがごとし。けだし水の井戸を掘るにあらず。井戸を掘れば水の出づるなり。然らばすなわち金銀をまたずして廃撫を開くこと、何の難きかこれあらん。
2026.06.26
報徳論【4】国を豊かにし民を富ますは無利息金にあるを論ず問うていわく、かって聞く、先生の道は、聖人位に在(いま)して、国家を治め、百姓を安んずるの大道なりと。然るに無利息金を貸して、庶民の活計を助く。それ聖人民を治むるに、仁政をもってす。いまだかって金銀を貸すの術を聞かず。しかして無利息金を用うるもの聖人の道なるか。いわく、舟に刻んで遺物を求め、柱に膠(にかわ)してもって弾ずるもの、何ぞ活用の道を知らんや。昔、堯・舜の天下を治むるに当たり、民人いまだ上古の風を失わず、淳朴質素にして奢靡(しゃび)に流れず。人皆信実を主として詐偽に走らず。ゆえに生財多く費用少なし。聖人斯民(しみん)を愛しこれを恵む子のごとく、四海一家の親睦するがごとし。その仁政を布くや、多端なりといえども、皆その時のよろしきに随う、何の疑いかあらん。禹・湯・文・武・周公は聖人なり。しかして同じく善政を施し、天下を治むといえども、世異に人情もまた時とともに変化す。なんぞ一を執って活用の道なからんや。よく下情に達し、時を計り、そのよろしきを見て、仁政を行い、万民をして困苦なからしむ、その事同じからざるがごとしといえども、その天下を富まし、四民皆孝悌忠信礼義を行い、生を楽しみ、死に喪して怨みなく泰然たる治平に在りては一なり。それ天の万物を生ずるや、四時錯行寒暑冷暖時とともに循環す。春夏秋冬に随い、人事のよろしきを制してもとらず、もし一を執って活用の道なきときは、単衣夏に適すといえども、冬に至りて寒さを防ぎ身を全うするあたわず、絮衣(じょい:綿着)は冬によろしといえども、夏これを用いんとせば必ず炎熱に窮せん。四時なおかつ同じからずしてその事もまた異なり、その事異にしてそのよろしきを得るものは、すなわち聖人の意なり。いわんや数千歳の間においてをや。必ず時運の盛衰人情の厚薄かつ質素浮華の異なるなからんや。このゆえに今の政(まつりごと)を古えに施さば、民怪しんで服せず。古えの政をもって、今を制せんとするも、労して功なきもの多からん。夏・殷・周三代礼制を同じうせずして、天下治まるとはこの謂いなり。今の古えを去る幾千歳、諸民往々淳朴を失いて、浮華を好み、質素の風漸く衰え、奢侈に流れ、惰遊にはしる。これをもって生財は月々に減じ、用度は年々に増す。これを生ずるものは少なく、これを用いるものは多く民末利を逐(お)って、本業をゆるがせにす。土地荒蕪し賦税随って減じ、国用乏しく、下に取るもの度なく、百姓いよいよ窮し、上下の憂い極まるに至るもの少なからず。けだし貴賎となく、貧困すれば、財を他に借らざるを得ず。ゆえに貸借融通の道繁(しげ)く行われ、その不足を補うをもって、大小経営の資となす。貸す者はその息を取って、奢侈の費用となし、借るものは利息増倍の責を償うあたわずして、あるいは倒れあるいは逃る。終に貸す者は利のために慈愛の道を失い、不仁に陥り、借る者は利のために立つべからざるに至り、貸借こもごも利を争い、互いにその非を誹り、怨恨を来たし、仇讐の思いをなすもの多し。借るもの傾覆すれば、貸すもののみ何ぞ独り全きを得ん。これ財宝豊饒(ほうじょう)の時に当たり、昇平の大恩を忘れ、奢侈に流るるの禍なり。然かれども自然の人情財利に走るもの時の勢いなれば、この憂いを助くるに誠心をもってし、信義に報ゆるに信義をもってし、人を敬するに礼節をもってし、かつ事を換うるに事をもってし、物を換うるに物をもってし、淳朴質素をもって身を養い家を治むるを常とす。今は然らず。財利を先んじ、誠意を後にし、恩を謝するに財をもってし、信義を通ずるに財をもってし、人を敬するに幣帛苞苴(けいはくほうしょ)をもってし、事を求むるに金銀をもってし、物を求むるに金銀をもってし、華美奢侈をもって身を養い家を保たんとす。かくのごとく時勢同じからざるものは、叔世自然に薄俗に赴き、本を忘れ末に走るがゆえに、金銀にあらざれば一日も安からざるもののごとく汲々たり。この時に当たりては聖人出ずるといえども、救助撫恤の道を行い、大いに仁政を下さんとするに、必ず金銀をおきて道行われざるは論を待たずして知るべきのみ。我かって仰いで古えの人情時勢を考え、俯(ふ)して当時の民情を察し、衰貧浮薄の憂いを除き、四民各々淳厚篤実の行いに帰し、その所を安んずるの道を求め、往古我が国の開けたる道をもって、荒地を開き米粟を生じ、窮民を賑わし、かつ時のよろしきに処し、無利息金をもって、前条いかともすべからざる諸民の困苦を消除するや、譬えば雑巾をもって板敷の塵芥を除くよりも易し。それ日月天に循環して国土を照らすこと、期年360日、一日の欠くるなく、一刻の留まるなし。ゆえに森羅万象生々しておのおのその生を遂げ、その期年生ずる所のもの幾千万億、その数量るべからず。かくのごとく無量の万物を生々すといえども、日月いささか光を増すにあらず、また光を減ずるにあらず、ただ年々天に循環して、下土を照臨し、万物を発生するのみ。大なるかな日月の恵み、我が無利息金をもって、衆民の困苦を除き、安栄の地に至らしむるは、すなわち日月の国土を照らすに基き、救助の道となす。何ぞや。世上の貴(たっと)ぶ所、金銀に過ぎるはなく、世人の貧困を治するものも、また金銀より速やかなるはなし。然れども利息増倍のために却(かえ)って諸人の困乏を増し、遂に怨恨争論傾覆の禍を生ずるに至る。これをもって無利息金を出し、諸民に貸し与え、年を期するに、あるいは5年あるいは7年、もしくは10年をもって償わしめ、その返金をもってまた他に貸し与え、年々歳々かくのごとくにして止まざれば、利息なきが故に借る者大いに幸いを得て必ず累年の貧苦を免(まぬが)る。あるいは有利の負債を償い、貸借紛々の憂いとみに消し、まさに滅びんとするの家再び栄えるものあり。あるいは家屋雨露を障するの力なきもの、居家(きょか)を得てもって安んじ、衣(い)なきものは衣を得、農具なきものは農具を得、食なきものは食を得、田圃なきものは田圃を求め、凡そ下民おのおの欲する所を得、昔日貧困のために、心を労し憂苦にたえず、生を肯(がえ)んぜざるもの、今日たちまち幸福を得てもって、父母妻子を養い、孝悌の道を行う。ああ人情窮すれば良心を失い、随って放僻邪肆(ほうへきじゃし)に流る、衣食住全ければ自ら栄辱を知り、良心発動して人倫の道行わる、これ人の常情なり。今仮に1,000千金ありとす。これを5ヵ年賦に貸し出し、一周度すなわち60年間循環するときは、その活用して諸民の有益となる金高25,000両余となる。然して元金1,000両はいささかも減ぜず増さず、いわんや幾千万両においてをや。ああ無利息金の徳大ならずや。けだし日月の下土を照覧し、万物を生々するに基きしとは、それこれをいうなり。あにこれ区々たるの行いならんや。それ王者は天に代わって、蒼生を安撫したまうがゆえに、斯道(しどう)を布かせたまわば、天下衰貧の憂いなく、浮薄遊惰の民なく、ことごとく王化に浴し、感戴して生を楽しむに至らん。国君これを行わば一国興起し、泰然たる治平に至らん。聖人また興るといえども、今の世に当たり、国家を治め、万民の窮苦を除き、仁を四海に施し、永く上下の憂患なからしむるもの、あにこの道に由らずというべけんや。
2026.06.26
報徳論【3】国を興し民を安んずるは分度を立つるに在るを論ず問うていわく、先生の道は限りなき財を生じ、もって限りある土地を開き、また限りある民を恵むとは何の謂いぞや。いわく、国の大小均(ひと)しからずといえども、土地の広狭必ず限りあり、人民戸口もまた限りあり。国の生財に至りては然らず、今年生々して来歳また生々す。幾万歳を経(ふ)るといえども生財止まず、尽きず、しかのみならずよく人力を尽くせば、土地の万物を生ずる、あに限りあらんや。ゆえにこれを名づけて無尽蔵という。世人はただ目前の財のみを量るがゆえに、限りありとす。我は年々歳々土地より生じて、尽きざるものをいうなり。然れども国に分度なければ、国用節なく度なし。節なく度なければ、奢侈行わる。奢侈行わるれば、国用足らず。国用足らざれば、下民(かみん)に取るもの度なし。下民限りあるの米財を出して、飽くなきの求めに応ず。国の本たる百姓日々に窮し、周歳勤動すれども、敝衣身をおうに足らず、食糟糠(そうこう)にだも飽かず。仰ぎて父母を養うあたわず、俯して妻子を安んずるあたわず。老いたるものは寒さを嘆き、幼(いとけ)なきものは飢えを呼ぶ。ついに家を売り、田地をひさいで、離散するに至る、人事の憂患あにこれより痛ましきものあらんや。これにおいて人民日に減じ、田圃年々に荒蕪す。それ草木枝葉花実の栄うるものは、その根の固きがゆえなり。人君の永安は、下民の繁栄にあり。その本根の民かくのごとく、極窮離散の禍に陥る時は、草木の根を断ずるがごとし。花実の衰枯立ちどころに至らん。この時に当たれば智者もその智を用ゆる所なく、勇者もその勇を施す所なし。然して人君興り廃地を開き、大いに下民を撫育せんとし、我が方法を行わば、米金なきを憂えず、また廃蕪の多きを憂えず。何ぞや仁政を施せば、国富み民優(ゆた)かなり。虐政を布けば、国衰え民苦しむ。盛衰貧富存亡皆人君の仁と不仁とにあり。余が衰国を挙げんとするに、米金なきを憂えざるゆえんは、先ずその国の分度を立て、規則を定むるがゆえなり。分度一たび堅立すれば、生財年々に倍す。何ぞ財なきを憂えん。いわく、分度とは何ぞや。いわく、貧富盛衰に従い、一国経済の程度を定むるをいう。いわく一国経済の程度を定むる、その方法いかん。いわく、国盛んなれば天命盛富にあり、国衰ふれば天命衰貧にあり。伝にいわく、富貴に素して富貴を行い、貧賤に素して貧賤を行い、夷狄(いてき)に素して夷狄を行い、患難に素して患難を行う。君子は入るとして自得せざる無きなり と。これ盛衰・貧富おのおの天命に従い安んずるの謂いなり。ゆえに衰時に当たりては、衰時の天命に従い、当時の租税をもって国用を制す。然れども1,2年の納税をもって定則となすを得ず。何ぞや。年に豊凶ありて、租税の多少均しからざればなり。これゆえに既往衰時に属する10年ないし2,30年の租税を平均す。この平均の数は、真に衰時中の易(か)うべからざる天命自然の分なり。この分に従い国用その度を制す。これをこれ経済の程度を定め、分度を立つるの方法とす。いやしくもこの分に安んじて、艱難を甘んじ、節倹を尽くし、国家再盛の期に至るまで、確乎として堅く守り、変動せざれば、国本既に堅立す。国本既に堅立すれば、生財の湧出するや、たとえば川源を開きて流水の限りなきがごとし。語(論語)にいわく、殷は夏の礼に因り、損益するところ知るべきなり・・・(為政第二為政第二子張問ふ。十世を知るべきや。子の曰はく、殷は夏の禮に因り、損益する所知るべきなり。周は殷の禮に因り損益する所知るべきなり。其れ或ひは周を繼ぐ者百世と雖も知るべきなり。)今すでに過ぎ去りし数十年の租税を平均し分度となすもの、それこれに由れり。昔し漢土の開けし時、その用財を我が国に求めず、我が国の開けし時もまた彼の力を借らず。けだし漢土は漢土の力をもって開け、我が国は我が国の力をもって開けたるや疑いなし。然らばすなわち衰国を再興するに、何ぞ財宝の乏しきを憂えん。今国の荒蕪を開き、窮民を恵まんとするときは、その国内の既墾地は、あたかも既に開けたる漢土のごとくにして、その租税によりよろしく分度を定め、国用を制すべし。その未墾の地は我が国の未だ開けざる時のごとくにして、上古 大神(おおみかみ)の豊葦原を開き、安国と平らげたまいし開国の道に基き、一鍬より開け始めその土地の産粟を分外の物となし、開墾撫恤の用度となすべし。かくのごとくにして年々歳々息(や)まざるときは、幾万の荒地も必ず開け、幾万の貧民も必ず撫育するに余りあり。ゆえに荒蕪も開き尽くすべく、貧民もまたことごとく窮乏を免れしむべし。然して生財の限りなくして尽きざるは、我が開倉積算数の書に著(あら)わせるがごとし。それかくのごとくして国の廃地ことごとく開け、万民貧困の憂いを免れ、その所を安んずるに至れば、君の大仁国中にあまねくして、下民(かみん)皆その恩に報ぜんとす。これにおいて、衰時の天命一変して、盛時の天命至る。ああ人情身貧なれば、その貧を免がるるを求むるの外他なし。貧苦既に除き富優を得るに及んでは、昔年の艱苦はとみに忘れ、奢侈の心起こり、再び衰貧の憂いを招くもの、凡情の常なり。一旦艱苦をなむるといえども、なおかくのごとし。いわんや盛んなる時に生まれ、貧困の憂いを知らざるものをや。これゆえに忠臣義士一世の間、千慮を尽くし万苦をなめ、上(かみ)君のため、下(しも)民のために、肺肝を砕き、国家の廃亡を興し、上下の艱難を除き、泰山の安きに至らしむるも、佞奸一たび進み君を惑わし、分度を廃し、奢侈遊惰の弊を開かば、積年千辛万苦の功、たちまち水泡に帰し、国家再び衰弊し、百姓塗炭に陥るや、その勢い堤防を決して、流水の拒(ふせ)ぐべからざるがごとし。もしそれ一国を興して、いやしくもこの再患を生ずるときは、ただにその衰亡に止まらず、佞奸ますますはびこり、弊害言うべからざるに至らん。かくのごときはむしろ衰国を挙げずして、その弊害を開かざるにしかず。いわく、ああ、恐るべし、戒しむべし。この再患を防ぐもの、それ道あるか。いわく、これあり。他なし。ただ分度を確定して、もって大いに後世を戒しむるにあり。分度確立すれば、人君といえども父祖の分度を破るをはばかる。大いに戒しむれば、また父祖の禁戒を棄つるに忍びず。君まことにこれを守りこれを慎むときは、佞奸出づるといえども、厳刑を恐れて、あえて君に奢侈を勧めず。いずくんぞ分度を破るを得ん。これゆえに国家興復の大業を挙ぐるに当たり、衰時の分度を定め、また興復の後、盛衰平均中庸の分度を定め、これを永世国家の基礎となし、その分外の生財は永く百姓撫育仁術の用度となし、君自ら書して遺すべし。いわく、盛衰治乱存亡の本源は、分度を守ると守らざるとの二つにあり。我がこの分度を守りて、領中の衰廃を興し、百姓を安んじ、上下百年の艱難を免れしむ。子孫永く我が志を継ぎ、富優の時に居るといえども、本源たる分度を確守して戻らざるときは、永世上下の福(さいわ)い余りありて、衰微の憂いなし。もしこの分度を破らば、忠臣かくれ、佞人進み、奢侈行われ、百姓塗炭の苦を受け、上下の災害立ちどころに至り、天禄永く尽きん。この分度を守らずして、我が一世の丹誠を棄て、国の大患を生じ、亡滅を招くものは、我が子孫にあらず。臣下もし分度を破るの計をなすものあらば、国家の恩を忘れ、上(かみ)君を乱し、下(しも)百姓を虐げ、国を亡ぼすの重罪なり。不忠何れかこれより甚だしきものあらんや。もしかくのごときものあらば、速やかに厳罰に処して、いささかも宥(ゆる)すなかれと。かくのごとき書してもって、後世を戒め、かつ翼賛の大夫も、また分度の大要を記して、大いに後人を戒むる時は、永く分度を守り、盛富を保ち、後患なかるべし。これすなわち再患を拒(ふせ)ぎ永安を保つの要道なり。
2026.06.26
報徳論【2】問うていわく、先生の道は推譲をもって主と為すとは何ぞや。いわく、人として一日も推譲なければ、人倫の道立たざるがゆえなり。いわく、人世五倫五常礼楽刑政をもって立てり。何ぞ推譲のみを主とせんや。いわく、五倫五常も推譲にあらざれば行われず、礼楽刑政もまた推譲によって行わる。いやしくも推譲なければ掠奪争闘紛乱生ず。何の道か存するを得ん。何となれば、推譲は人の道なり。争奪は禽獣の行いなり。上古神聖いまだ興らず、人道いまだ立たざる時は、人の人たるもの、鳥獣とあい去る遠からず。それ禽獣の性や、終日区々として飛走し、食を求め、生を養うのみ、父子ありといえども父子の親しみなく、夫婦ありといえども夫婦の別なく、兄弟ありといえども長幼の序なく、朋友の信なく、また君臣の道なし。ゆえに年老いて飛走するあたわず、他のために害せらるるも、あえてこれを救助するの行いなく、疾病に苦しむといえども、かってこれを哀れみその病を治するの心なし。専ら己の口腹を養うのみ。その食を争うに至れば、強きは弱きを倒し、あい闘いあい奪い、すこしも譲るの心あるなし。朝(あし)たより夕べに至るまで食を求むれども、その求むる所、終日の食のみ、かって貯蓄の慮りなし。ゆえに終身食の足らざるに苦しむ。かつ他より我を害し、食となさんとするを恐れ、キョウキョウとして常に憂苦を懐き、周年の間、一刻の安きを得ず、人として禽獣と群れをなし、禽獣の行いを免れざれば、掠奪残害憂苦痛嘆止まず。あに哀しまざらんや。天照大神(あまてらすおおみかみ)、蒼生のかくのごとく、浅ましき困苦を深く嘆かせたまい、推譲の道をもって、豊葦原を開き、安国(やすくに)と平らげたまう。その初め、わずかに数頃の田を開き、秋実を来歳に譲りて開墾し、年々歳々推し譲り、開かせたまい、ボウボウたる原野、漸く開田となり、津々浦々に至るまで、限りなき米粟器財を生じ、終に豊穣安楽の土地となしたまうもの、推譲の致す所なり。万民飢えず寒(こご)えず、衣食足ってしかして後、教うるに仁義五倫の道をもってす。ゆえに民の教えに従う。川流の海に帰するが如く、君臣義あり、父子親あり、兄弟序あり、夫婦別あり、朋友信あり、掠奪貪戻の風一変して、推譲温厚の道行わる。ここにおいて、君は臣に譲り、臣は君に譲り、父は子に譲り、子は父に譲り、兄弟互いに譲り、夫婦あい譲り、朋友ともに譲り、彼はこれに譲り、これは彼に譲り、礼儀正しく、貴賎和睦し、生財日々に豊かに、貯蓄余りあり、家々足り、戸々給し、士農工商おのおのその業を勤め、その生を楽しみ、また更に災害貧困の苦あるなし。昔し掠奪して一日の安息を得ざるもの、今は推譲によって、幸福安楽の民となる、大なるかな、譲道や。然らばすなわち富国安民の道、何をもってか推譲に加うるものあらんや。然して独り我が朝の開けしのみ譲道によるにあらず。およそ天地間万国の興廃も皆然り。それ漢土開闢より幾千歳の間、人道いまだ立たざる時に当たりては、なお我が国の上古のごとし。伏義(ふうぎ)・神農・黄帝・堯・舜生まれ出でしより以来、譲道をもって治め、海内(かいだい)泰然として、一民もその所を得ざるものなく、人倫五常の道大いに行われ、上下こもごも譲り、四民互いに譲り、治平の政万歳に冠たり。中古、桀・紂幽れい(ゆうれい)の時に至り、国の衰乱を生じ、万民塗炭の苦に陥り、獣(けもの)あい食うがごとく、掠奪・争闘・災害・禍乱並び起こり、身弑(しい)せられ国亡ぶ。他なし、奪ってもって一人を利せんとするの致す所なり。然らばすなわち国家の安富・尊栄・豊穣・治平は一の譲より起こり、国家の衰廃・争闘・災害・危亡は一の奪より起こる。瞭然として見るべし。何をか疑い何をか惑わんや。けだし人の人たるゆえんのもの、推譲の道あるがゆえなり。一日も推譲の道なくんば何をもって禽獣に異ならん。禽獣虫魚は譲道なし。ゆえに開闢より以来、幾万歳の末に至るまで、富優安寧を得るあたわず。人は万物の長となり、永く盛富安栄を得て、患害危亡の憂いなきもの、神聖譲道を立て万世を安んじたまうがゆえなり。人たるもの、あに一日も神聖の賜もの譲道の、貴きを忘るべけんや。然して叔世の人情、往々奢侈を好み、遊惰に流れ、治乱・盛衰・存亡・禍福・吉凶・貧富・栄辱の数者、譲と奪との2つにあるを忘れ、汲々として目前の利にはしり、他に奪うをもって益となし、譲るをもって損となし、日々に富優を欲していよいよ貧困を倍し、月々に福を求めて、いよいよ禍を招き、歳々安栄を求めて、いよいよ危亡に陥るもの、これなお荑稗(ていはい)を蒔きて、稲梁(とうりょう)の実りを待つがごとし。いよいよ労していよいよ実るものは荑稗なり。稲梁を欲せば、何ぞ稲梁を蒔かざる。富優安栄を欲せば、何ぞ譲道を行わざる。過ちの甚だしきにあらずや。およそ天下国家の治乱盛衰は譲道によらざるものなし。それ推譲は万物増倍豊富の道なり。掠奪は万物減少危亡の道なり。試みに近くこれを喩(たと)えん。今ここに米粟一俵あらんに、直ちに貪りてこれを食らえば、わずかに数日の食のみ。一俵尽くるの後は復一粒の得べきものなく、飢渇死亡の憂いを免れず。もしこれを譲りて、もって土中に蒔けば、数十俵となり、また譲りて蒔かば、数百俵となり、歳々このごとく譲らば、数万の米粟を生ず。また一家の内、父たるもの子に譲る、これを慈といい、子たるもの父に譲るこれを孝といい、兄として弟に譲る、これを良といい、弟として兄に譲る、これを悌(てい)といい、夫として婦(つま)に譲る、これを義といい、婦の夫に譲る、これを聴(ちょう)という。このごとくなれば一家和睦し、財優(ゆた)かにして、安居を得るや必せり。もし一物の微だも、父子互いに奪い、兄弟互いに奪い、夫婦互いに奪わば、忽然として忿怒(ふんど)怨望起こり、一家破滅の禍立って待つべきのみ。一家すらなおかくのごとし。いわんや、国、天下におけるをや。人君自ら分を引き去り、有余を生じ、これを譲り、四民を恵み、大いに仁政を下さば、誰かあえて悦服せざらんや。伝にいわく、上これを好む者あれば、下必ずこれに甚だしき者有らん。大夫随って譲り、士もまた互いに譲り、庶人争って譲る。この時に当たれば、財あるものは財を譲り、米粟あるものは米粟を譲り、あるいは衣を譲り、食を譲り、道を譲り、田圃を譲り、家々譲らざるなく、人々譲らざるものなし。国家日々に、盛隆・豊富・菽粟(しゅくぞく)・財宝湧くがごとく、民なんぞ不仁なるものあらん。五倫五常の道自らその中に流行す。何をか憂い何をか求めんや。伝にいわく、一家譲ならば一国譲に興ると。このいいなり。いやしくも譲道を益なしとして一人奪う時は紛乱・争奪・賊悪の行い起こり、上下こもごも奪い、亡滅数年を待たず。かくのごときは仁義五常・礼楽刑政の道、何れのところに行われ、何れのところに存せんや。人道ここに滅し、上古鳥獣の行いに帰するのみ。ゆえにいわく、五倫五常礼楽刑政も、その本源一の譲道にありと。譲道一たび廃すれば、国家墟とならん。また何をか論ぜん。けだし鳥獣は奪うがゆえに食足らず。人道は譲るがゆえに衣食豊かなり。今人譲道を棄てて身の幸福を滅し、奪ってもって鳥獣の行いに陥るもの、嘆くべきの至りにあらずや。我幼より人の禽獣に異なるゆえんは、一の譲道にあるを察せしより以来、既に五十有余年、専ら譲って怠らず。これゆえに、あるいは廃邑を興して、これを富ましめ、あるいは衰国を再盛して、百姓を撫育し、これを安んじ、上下の憂苦を除きしも、他なし。この譲道を主として行うがゆえなり。天下国家の治平は譲道にあり、衰廃危亡は奪道にあり。開闢より方今に至るまで、かくのごとし。後世幾万歳といえども、またまたかくのごとし。
2026.06.26
報徳論【1】問うていわく、天道は自然にして、人道は作為に出(い)づるものは、いかん。いわく、一元の気、流行し、春は暖和にして万物を生じ、夏は盛暑にしてこれを長育し、秋は冷涼にしてこれを成(じょう)じ、冬は寒酷にしてこれを蔵す。四時錯行し、風雨雪霜時に従い、万歳(まんさい)をわたりて止まず、変ぜざるもの、これ天道自然なり。これゆえに草木(そうもく)は自然に従い、春夏に発育し、秋冬に零落す。禽獣魚虫もまた自然に随い、終日汲々として食を求め、得るときは飽き、得ざるときは飢え、ただその生を養うの外に道あるなし。これ天道自然に任じて、生滅するものなり。上古、人道いまだ開けざるときは、人の天地間に生れ生活するもの、何をもって禽獣に異ならんや。然して禽獣魚虫おのおの生れながら、羽毛鱗介(りんかい)爪牙(そうが)具わり、もって寒暑を凌ぎ、雨露霜雪を支え、食を求め生を保つに足る、独り人のみ生まれながら裸身にして、羽毛鱗介具わるものなし。これゆえに寒暑風雨雪霜を防ぐを得ず、これがために生を遂ぐる能わず。互いに食を求むるといえども、草根木実足らずして飽かず、人々相争い、強は弱を凌ぎ、知は愚を欺き、専ら奪ってもって我が身を保たんとするのみ。鳥獣と群れをなし、一日も安息するを得ず。神聖生まれ出でたまうに及んで、蒼生のかくのごとき有形を、深く嘆き厚く憐れみ、禽獣魚虫は羽毛鱗介ありて生を遂ぐるといえども、知慮足らず、人は裸身にして生を安んじ難しといえども、知慮万物に超出せり。然して禽獣の生を遂ぐるにもしかざるを悲しみ、およそ人たるもの、普く飢寒の憂いを免れ、万世に至るまで、その生を遂げ、災害なからしむるゆえんの理をいうに及ばず、老幼に至るまで、飢寒の憂いなく、その身を安んじ、生を楽しむに至れり。爾来幾千歳、人々安息し、大いに禽獣に異なることを得るもの、一に神聖千慮を尽くし、人道を作為したまうがゆえなり。いわく、人道の作為いかん。いわく、上古人類は禽獣と同じく、日々汲々として食を求むといえども、飽くを得ず、飢餓の憂い絡繹(らくえき)として絶えず、故に原理を開墾し、生養すべきものを撰(えら)み、五穀を播種し、あるいは流水を堰き、溝洫をうがち、これを田にそそぎ、あるいは堤瑭(ていとう)を築き、用水を備え、橋を架し、道を開き、通行を安んじ、あるいは農器を製し、耕耘(こううん)の便となし、一粒万倍の実りを生じ、民始めて飢渇の憂いを免れ、その生を遂ぐるを得たり。然れども裸身にして風雨雪霜寒暑の憂いを免れず、これにおいて衣服を製作し、かつ木を伐り、竹を伐り、もって居室を作為し、穴居(けつきょ)野処に替え、日用諸々の器物を製し、生活の便とし、身体を養い、民始めて寒暑をしのぎ、風雨を障じ、生養を安んずるを得たり。然して人身飽くまで食らい、暖かに衣(き)、逸居して教えなければ、人欲限りなくして、あい奪い、あい害し、あいしのぎ、あい争う、鳥獣と異ならず、これゆえに人倫五常の道を立て、法度を定め、もって導き、民をして斯道(しどう)を行わしめ、人欲を制し、法度を慎ましむ。これをもって、父子親しみあり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり、上下貴賎の礼譲備わる。ここにおいて、民始めて掠奪殺伐の危害を免れ、強弱老幼皆安居を得、四海泰然として治平す。これ他なし。神聖万民の艱苦を消し、永く生養を全うし、あい親しめんがために作為し立てたまう所の道なり、故におよそ人たるもの、その欲する所を得、もろもろの憂苦なく、安楽平穏を得るの道、これをおいてあに他の道あらんや。然れども、もと人作(じんさ)の道なるがゆえに、漸く破壊に帰す。これをもって、いささかも怠れば、田圃は荒蕪となり、堤瑭は崩れ、溝洫は埋まるは天道自然なり。これを掘って怠らざるは人道なり。衣服の敝(へい)するは天道自然なり。これを製して怠らざるは人道なり。居室の破損するは、天道自然なり。これを造作して怠らざるは人道なり。人心放僻奢侈に流るるは自然なり。仁義礼譲をもってこれを教えこれを防ぎ怠らざるは人道なり。万事皆然り。枚挙するに暇あらず。故に人道の要務は私欲を制してよく勤動し、節倹を守って仁義を行うにあり。かくのごとくんば、すなわち作為の道全うして、永久人事の憂患なし。もし人々安逸を好み、遊惰に流れ、坐(い)ながら国盛んに家優(ゆた)かにして、衣食住を安んぜんと欲すれば、忽然として自然に帰し、上古鳥獣の行いに陥るや、弁を待たずして明らかなり。聖人勤動怠らざるの道をもってし、斯道をゆるがせにせば、禽獣の行いに陥り、上下の大患となる、あに恐れてしかして勤めざるべけんや。我幼より人道の頃刻もゆるがせにすべからざるを観察し、常に天道を恐れて、人道を怠らず、これをもって衰廃を興し、限りなきの米財を生じ、民の貧苦艱難を除き、その衣食住を安んず。いやしくも人道の本源を明らかにして、厚く仁政を施し、怠らざれば、国を治むる何の難きことか、これあらん。
2026.06.26
大智禅師偈頌講話 沢木興道 坐中感あり(二) その1【坐中有感(二)】 枯木巖前坐白雲 (枯木巌前白雲に坐す)冷湫湫地著渾身 (冷湫湫地渾身を著く)鐵牛不喫三春草 (鉄牛は喫せず三春の草)吼破寒潭月一輪 (吼え破る寒潭の月一輪) これは「坐中感有り」の第二首である。『十玄談』という中に「枯木巖前差路多し」という文句がある。昔、ある信者が、坊さんを三十年、自分のところの草庵に供養しておった。それから自分の娘にいいつけて、「あの坊んさんにしっかり抱きついてみよ」別嬪であったか、不別嬪であったかそれは知らんけれども、女の子ならまあ別嬪といわんと具合が悪い。ヘチャなら詩にならん。それでその別嬪は、いいつけられた通りに坊んさんに抱きついて「正当恁麼の時如何」こういうことをしたら、あんたどういう気がしますか、こういうた。そうしたら、その坊んさん「枯木寒厳に倚って三冬暖気なし」枯木寒厳、枯木同然、氷ついた岩同然、色気どころの騒ぎでない、もうほとぼり気もなにもない。それはもうミイラじゃ。そうしたところが、その娘に婆さんが「どんなふうだった」「正当恁麼の時如何というたら、あの坊んさん、枯木寒厳に倚って三冬暖気なし」そうしたら、婆さん、ありがたい坊んさんやと思って供養するかというと、「われ三十年間ただこの俗漢を供養し得たり」こんな坊主を三十年も養ったというので、草庵に火をつけて焼いてしまった。こういう公案がある。公案というものが実話でないことは、百丈やらの「倩女離魂の話」とか、または「婆子焼庵の話」とか、「婆子焼庵の則」とかによっても分るように、これはどうも小説めいておる。まあなんかを象徴するために作ったものと思われるが、そうすると、どういうことを象徴しておるのか。それは悟ったのが迷うておるということである。よいやつが悪い。そんならそのときに、「枯木寒厳に倚って三冬暖気なし」といわんで、「ヘエ、もうたまらん」というたらどうか。そんな当り前のじゃ。そんな人間ならザラにある。それからもう一歩、坊んさんになって、枯木寒厳に倚って三冬暖気なし。お前くらい抱きついてもなんでもない。そこからもう一つ向こうである。枯木寒厳に倚って三冬暖気なし、それだけでは話が片づかん。「あの坊んさん偉い」偉いだけではいかん。偉いところをもう一つ通り越して、どこが偉いか。ちょうどあの『十牛図』を見ると面白い。牛のケツを追いかけたが、どこへ行っても牛がおらん。牛を逃がして、どこへ行ったか分らん。たずねあぐんでいる。そうすると足跡が見えた。しっぽが見えた。それで、「ワアーおった」捕らえると、牛は逃げようとする。そのうちにもう飼い馴らして、牛と自分と一枚、牛の上で杖ついておる。やがて牛を忘れて寝ておる。それで、とうとう町へ出て行った。ヒョロヒョロ町へ出て行っても、牛は別に問題にならん。終いにはなんにもない。円相一つ。面白い。そこで、この「枯木巖前差路多し」というのが面白い。この食い違いがずいぶんある。これが悟ったというても、たいがい臭いことがある。善人に存外裏表が多い。三冬暖気なしというのは、まだ本当は過渡期だ。本当のことは当り前でなければならん。あの山やら、川やら、柱やらー。柱に抱きついて正当恁麼の時如何ん。というてもなんともいわん。三冬暖気なしとも、暖気ありともいわん。どんな別嬪さんが抱きついても、柱はなんにもいわん。しゃちほこばっておらん。だから、坐禅堂のことを、枯木堂ともいう。ずっと並んでおるのは枯木みたいだが、枯木にしては居眠りするから始末が悪い。居眠りする枯木、どこぞまだ脈があると見えてー。(大智禅師偈頌講話p.73-76)
2026.06.26

21※裾野市史 第四巻 575ページ421 県下巡遊雑記・佐野の鈴木農場(1)明治40年(1907年)9月11日 県下巡遊雑記 斗南 佐野の鈴木農場(1)◎東海第一の農園 製糖王より醤油王に転ぜんとしつゝある代議士鈴木藤三郎氏の経営に係る鈴木農場は、富士郡富岡村桃園、佐野駅を距る15町まる山紫水明の仙郷に設けられてある、広袤(こうぼう:面積)実に百町歩、もと東宮武官長を奉職された故黒田久高氏の所有で、明治9年頃茶園10数町歩を開墾し農場の端緒を開かれたが、何分収支相償わぬという所から、これを鈴木藤三郎氏に譲渡されたのである。発明家としての鈴木藤三郎氏、工業家としての鈴木藤三郎氏は、別に田園生活の瀟洒なる趣味を愛せらるゝ処から、かねて模範農場の計画をなしつゝある際であったから、直ちに黒田中将との売買が成立し鈴木氏は明治33年からこの農場の経営となす事となり、今は果樹園、茶園、蔬菜園、山林、畜牛、養馬、家禽の7部に分れて規模広大、規律整然たる大農場となった。果樹園は反別8丁1反1畝歩(せぶ)でその内リンゴは4丁歩、柑橘8反6畝歩、梨4反歩、ブドウ1丁4反歩、桃5反歩、スモモ2反歩、ビワ4反5畝歩、梅3反歩に分れている。リンゴと桃とは特に成績がよろしく夏橙(なつだいだい)もなかなかの優等品ができる。ブドウは将来醸造をなす目的で昨今試作中である記者は梨の一種太白というのを頂戴したが、その美味忘るべからざるものがあった。(つゞく) (静岡新報)
2026.06.26
183二宮翁逸話59 翁と道祖神小田原付近には妙な習慣があって、正月4日にお飾りを下ろしてこれを道祖神のところへ持っていく。それは誰が持っていくかというと、子ども達が持っていくのである。そうしてそのお飾りを水に浸して道の真ん中に引っ張って、通行人に対して金をくれ、くれなければここを通さぬというのである。これは維新前からのかの地方における習慣であった。翁幼少の折節も正月4日にこのお飾りを路上に引っ張っておった時、一人の侍が通りかかると、翁はそれを張りつめて金を出さぬとここは通さぬといわんばかりに力んでいた。するとその侍が非常に怒りて「通さなければひと打ちに致すぞ」といったので、外の子ども達はいずれもその権幕におじ恐れて逃げてしまったが、翁一人は居残って、「道祖神がある以上はこれを弛めるわけにはいかない。もし斬るならば道祖信を斬れといって頑張ったということである。これをもってみてもいかに翁が幼少の時から大胆であったかが分かる。(以下略)二宮翁の道祖神に関する話は翁の弟三郎左衛門の話として今なお栢山に言い伝える談話である。
2026.06.26
富士電機社員2人が中国で拘束 レアアース規制関連か、密輸容疑6/24(水)電機大手、富士電機の社員で、少なくとも1人は同社の中国現地法人に勤務している。中国が輸出管理を強化しているレアアース(希土類)関連の物品を国外へ持ち出そうとしたことが法令違反と見なされた恐れがある。 日中関係が冷え込む中、新たな邦人拘束が起きたことで、経済界に中国とのビジネスのリスクに対する懸念が広がりそうだ。中国政府は台湾有事に関する高市早苗首相の国会答弁に反発し、事実上の対抗措置として1月、軍民両用品目の対日輸出規制の強化を始めた。 富士電機は中国で産業用モーターや自動販売機を製造。ほとんどが中国向けという。社員の拘束については「ノーコメント」としている。 関係筋によると、レアアースの加工品を管理対象外の品目として輸出しようとしたなどとして問題視された可能性がある。
2026.06.25
大智禅師偈頌講話 沢木興道 坐中感あり その4 坐中有感心空境寂體如如 (心空し境寂にして体如如)日下孤燈獨照時 (日下の孤燈独り照す時)一色那邊機轉位 (一色那辺機位を転ず)玉樓飛出鳳凰兒 (玉楼飛び出だす鳳凰児) わたしは接心のたびに、作務も一緒にやる。一緒に飯を食べ、一緒にならんで寝て、なにもかも一緒にー。だから、仏道の教えることは、その寝方、起きざま、顔の洗い方、着物の着替え方。だから、「事というは、儀なり、位なり、態なり」という。態度、形、相、この形の動きというものをまず大切にする。 それだから、一生懸命に坐禅をするので、ただボウーっと坐っておるのではない。一生懸命に狙いを定めてやる。針のメドを通す。ザッとやったら通らん。一生懸命に狙いを定めてやれば一遍に通る。道というものもそれと同じじゃ。「おれは寺へ行く」毎月来ってしようがない。「おれはいつでも行く」行ってもしようがない。「おれは五日おった」おってもしようがない。「おれは三十年この方沢木さんについて坐禅しておる」三十年しても、五十年しても同じことじゃ。一分間でもいいから、針のメドを通すように間違いなく入れる要領、坐禅もその通りである。 ただする。道であることはただする。利害得失はない。妄想分別、利害得失のないのが非思量である。ただ道をもってする。それはつまり、坐禅というものは功利的であってはならん。わたしにおいては、坐禅することは三世諸仏、歴代の祖師と一枚になることである。それだから、坐禅はただ坐る。坐りさえすれば仏と続きである。真理と続きである。こういう意味である。 ところで、この詩を読んでみると、「心空し境寂にして体如如」なんのためでもない。なんぞもしあるならばー。よう坐禅しておって、仏さんを拝んだとか、悟りを開いたとか。これはちょっと怪しいぞ。それは変態心理じゃ。よう臨終に、極楽浄土から阿弥陀さんが迎えにみえたという。それはちょっと臭い。当り前でいい。大愚良寛の死ぬときがおもしろい。「世捨て人もこの苦しみがあるか」というたら、 裏を見せ表を見せて散る紅葉というた。どんな死にようでもある。「あんな死にようはしまい」そんなことは決めておけん。腹痛で死ぬこともある。そうすると、裏を見せ表を見せて散る紅葉。これは非思量であろう。どんな死にようはしまいとか。それは元からある通りでいい。なんぞ奇特というものがあるならば、それは暫時の光景じゃ。チカチカとしてしようがないとかー。夢みたいなものじゃ。夢で仏具屋の門を通ったようなものじゃ。なんでもない。そんな概念的なものは、あってもしようがない。そうすると、なんにもいらん。心空し境寂にして体如如。われもない、かれもない。なんにもない。全宇宙ガラス張り。如如ということは、まあ今の言葉でいえば、主観が客観で、客観が主観、いわゆる主観も非思量、客観も非思量、宇宙も非思量、山川草木も非思量、そうすると、自分と坐禅が非思量、この非思量と非思量のぶっ続き、いわゆる波長が合う。天地と同根、万物と一体、そうすると眼前になんにもない。一知半解、位が高いとか、大きいとか、これを宇宙の大きいところから見たら、人間なんて地球に湧いたカビみたいなものじゃ。虫けらまで行かん。虫けらの睾丸にわいた黴菌の八つ切りみたいなものじゃ。だから、「日下の孤燈独り照す時」なんにもならんことをする。縁の下の力持ちである。偉い人というものはー。偉い人というとおかしいが、とにかく本当のことをいえば、縁の下の力持ちより本当のことはない。功利的なことは本当のことでない。みな嘘ばかり、贋物ばかりである。日下の孤燈、日中にお灯明をつける。このいらんことをするのが本当のことがある。それはお経を読めばお布施をくれるが、坐禅をしてもだれもお布施をくれん。日下の孤燈独り照す時、なんのためもない。なんにもならん。なんにもならんが広大無辺である。「一色那辺機位を転ず」止まらず、滞らず。なんにもならんことが千変万化、縦横無尽。「玉楼飛び出だす鳳凰児」この玉楼の楼は、籠でなければならん。これは面山さんの聞解にある。そのなんにもならんものが活躍する。なんにもしておらん。ちょっともどうもしておらん。そのなんにもせんという世界から、鳳凰児が飛び出す。鳳凰児というのは一体なにか。縁に対せずして照らす。それがそれなんである。なんにもならんことをしただけが、それが本当の道なんだ。なんぞにしたら、なんでもない話である。なんにもせんから、そこのところが貴い。(大智禅師偈頌講話p.71-73)
2026.06.25
21◎紅日杲々(こうこう:日光の明るいさま)として光は欄の東に充ちぬ。板戸の透間より金線天のごとくに射りて、枕頭の観音像を薄暗き中に現前せしめぬ。寝過ごしたりとて起き出でつ、板戸を繰れば、楼はまさに旭日とあい対し、箱根の連山、伊豆に走る処、巒々(らんらん:峰々)霞を帯びて、寝覚めの色、新沐の人に似たり。楼下に瀑園の流末、急端をなして水声石に吼ゆ。嗒焉(とうえん:我を忘れるさま)として物我を忘るもの良久。一月四日なり。◎一人起き二人起き、宛(さな)がら道者の旅宿に在るの観あり。げにや報徳旅行の道者一行7人とはよくも言いたり。盥嗽(かんそう)を終えて先ず椽下(えんのした)に出でぬ。庭ゲタひっかけて庭に歩す。鈴木氏客と接してありしが、幾もなくして客去り、同じく庭に出でゝ『ここへ来れよ』と導きつ、屋の北側に小澗谷(かんこく:谷)を作りしを指し、そこなる三重の小瀑、流れの上にカヤ葺きの一亭子あるを見よという。西に小瀑を見下しつ、その上に小丘の頂重なりたる間、竹篁(ちくこう:竹林)茂れる上に、富士の絶巓(ぜってん:山の頂)真白きが、鈴木氏の園中をのぞきこみたらん風情『諸君お早う』といわんばかり。◎導かれて養雞(ようけい)の小屋に行く。鉄網張りし中に西洋種の鶏肥えたるが羽美しく、雛を引きてその中に遊ぶさま、ことに長閑(のど)かなり。鵝鳥(がちょう)の一隊、家鴨(あひる)の一隊、そのあたりに分列式を挙げてわれを迎う。再び庭に来れば、そこにも、塒(ねぐら)を設けたるあり、紅日三竿なれど未だ起き出でず。天の岩戸をおし明けば、幾羽となくうるわしき雞(とり)始めて東天紅となき始め、先を争うて戸の中より跳ね出でぬ。こゝにも雞支隊あらんとは、図らざりき。小鈴木氏曰く、『雞(とり)は十分にねむらする方、もっとも発育によろし。早く起こして寒さに逢わせんは悪(あ)しゝ』と。用意極めて周到、雞を養うこと孫を愛するに似たり。◎中川望氏と屋後にめぐり、ガチョウ群の陣前を過ぎて門内に出づ。中川友、白石、相田三氏もまた跟して到る。門に対するの小丘、右方斜めに小谷を呀し、筧して水したたる。その上に残雪一面をおおう。いざ登らんとして雪を踏みて丘上を指す。荊棘時に人の足を鉤して痛さを覚ゆ。白石氏最も登るに艱(なや)む。中川友氏ために留まりてその手を引き、丘腹の坂路に引き上ぐるさま、全く溝に陥りし人の助け上げられたらんようなり。◎坂路をめぐりて頂きに立つ。一亭子あり、踞牀を設けて展望に便す。富士を左方の丘後に望み、前面に佐野の瀑園を指点すべし。鈴木氏の家は眼下に在り。相田氏は賢者なり。倒行逆旅せずして丘麓より坂路の沿い、悠然として登り来る。崖をこゆるほどの愚はあらざるべし。◎丘を下りて門に入り、再び楼上につきて座を定む。農場の主任らしき人どもに交わりて、静かに農場の説明を始む。まずこの地何の処かと問えば、静岡県駿東郡富岡村字桃園という、それより反別などを語りしを記さんに、総反別78町9反1畝13歩 内 田8畝11歩 畑14町7反9畝21歩 郡村宅地1反19歩 山林63町9反2畝22歩 この買入価格1万8千円にて爾来開墾等に要したる経費を合すれば、3万1千円に及びしとの事なり。(相田氏の手帳による)◎鈴木氏の語る所によれば、この地はもと幕臣黒田久綱氏ほか4名が共同して、明治6年頃より開墾し始めたるものなりしが、黒田氏はその後東宮武官として久しく在職したるも、他の人々はいずれも零落したるがため、漸く黒田氏の補助によりてこの地の開墾を経営したりしに、漸次に困窮して事業ますます振るわず、さればとてこの地面を分割して売却するにも忍びずとて、いずれも困じあえりしより、(明治)32年駿東郡長の交渉もありて、ついにこの地を買い入れ、開墾に従事することとしたりという。◎小作人は今10戸を算じ、農事多繁の時には、他より雇るゝこと常に10人。小作人には、まずもって4間半に2間の家屋を建築し、無料にてこれを貸与し、鋤鍬の類を給与す。農場の中につきて5町歩ばかりには、リンゴ、ブドウ、桃、 柿等の果樹を栽培す。野菜は小山なる富士紡績会社に交渉して、職工の副食に供せしめたるに、会社にても新鮮なる野菜を得るの道も開けたりとて大いに喜べりといへり。製茶にありては、年1千貫目を産し、一農場にてこのくらいの額を産するもの、今日にてははなはだ稀れなりという。目下、牛舎を建築中にて、こゝに放牛をなし、かつは肥料をこれに資らんとの計画なりという。養雞、数百羽、その他アヒル、ガチョウ等あり。これを鈴木農場における事業の一斑となす。◎朝食を追えて服装を理(おさ)め、玄関に出れば、農場をめぐるの用意にとて、馬4頭静かにわれらを待つ。大鈴木氏その一に乗り、岡田氏その次の一に乗り、われまたその次の一に乗る。馬背得々として出で立つ。◎さきに登りし丘に行き、南方なる一丘に馬をつなぐ。小林ありて林外に一亭あり、林中に小神祠を置き、そのかたわらに古石碣(いしぶみ)あり、『柾薗貞純親王塔』と鐫(せん)す。更にそのかたわら近くに一碑(※)を建て、鈴木氏その由来を書してこれに刻す。白石氏そを写し取れるに曰く、『古塔発見記。明治三十七年十月。余初巡視農園。距御嶽神社二町。得一大石于竹林中。抜地五寸。則令人発掘、陰々有文。桃園貞純親王塔七字。或曰此石元在神社境内。或曰昔時有計埋塔者。今不知其何故。然至塔之為神社域中之物。復実不可争也。則更移之于茲云。明治三十八年四月鈴木藤三郎』と。 石碑(桃園神社に現存)※2011年8月28日裾野市鈴木図書館調査の際に「市史」に移築の記事を見つけ現地で発見した。◎前宵桃園貞純親王の事、端なく話頭にのぼる。中川望氏曰く、『我が家、もと中川瀬兵衛に出づ。系図によれば遠く貞純親王に出でぬという』と。奇なるかな、期せずしてその後裔たる中川望氏が端なくもその祖先の古塔に礼するの機を得たらんとは。◎農場を望めば、茶圃つゞき、茶圃連なり、上に富士の霊山厳然たり。丘下に瀑園の流崖に迫って急灘(きゅうたん)を激せしむ。再び馬に登って農場に向かう。途中、鈴木氏その馬をとめて下方を指し、『定輪寺の旧地域は、昔時この辺にも及びしが、今は挙げて農場の中に入る』といいて、寺が一山を隔つるを指し教ゆ。◎宗祇法師が終焉の地は、桃園山定輪寺に在りしと聞きしが、さてはこの地すなわちこれなりしか。たゞ赴きてその墳を弔い得ざりしを惜しむのみ。宗祇の辞世に曰く、『はかなしや鶴の林の煙にも立をくれぬる身こそうらむる』と。自画賛に曰く、『うつしをくは我影ながら世の憂きも知らぬ翁のうらやまれぬる』と。俳諧に曰く、『世にふるはさらにしぐれのやどりかな』と皆定輪寺に伝えられぬべし。義経の頼朝に対面したる黄瀬川も、程遠からぬ地なるべきか。馬隊は先に立てよという。予ら馬背の一群先に立ちて農場をめぐる。一小屋あり四面ガラス戸にて、報時鐘(ほうじしょう)などをもそこなる尖頭にかけたり。牛舎をもめぐりしその小屋ある処に憩う。農場監視の場なりとか。茶圃の間を行きぬ。黄牛斑牛そこらに遊び、桃林牛を放つの趣きあり。行き行きて地ますます高し。宛然たる裾野なり。農場の最高処にあたる。地を界するに桜樹一列をもってす。旧この地を経営したる静岡武士が武士の誇りとして植えたるものならめ。右に大野が原を望む。茶褐色にして林木薄黒し。上に富士山咫尺(しせき:距離が非常に短いこと)の前に直立して手に攀(よ)づべきを覚ゆ。馬背得々として引き返す。◎午餉(ごしょう:昼飯)をおえぬ。汽車発着の時刻も迫りたればとて、倉黄(そうこう:慌てて)暇を告げて立ち出ず。鈴木氏馬背に鞭を横えて来り送る。我が馬その後に従い、一馳せすこぶるはやし。心もとなき馬術なれば、跳ね落とされんとするもの数回、瀑園の南、橋上馬を立てゝ劉備の渓関を飛び越えし当年を想う。馬一散に駆け出して停車場近し。一行皆列りて汽車の発すること間髪をいれず。『サヨナラ』の一声、車轆々(ろくろく:音を立てて走るさま)たり。(をわり)
2026.06.25
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