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2026.08.30
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カテゴリ: 坐禅
「永平家訓抄話」沢木興道 その7


「何もしなかった、生まれて来たものじゃからしようがない、餌を食って生きていただけさ」というであろう。今日も下の部屋で、送って来た雑誌をちょっと見たら、「このごろは歯が悪くなって、飯を食うのが億劫で、めんどうくさくなった。ついでのことに生きておるのまでがめんどうくさくなったが、生きるだけは生きなならん」と書いてあったので、世の中にはわたしと同じ者がいるなと思った。わたしもこのごろは人と一緒に飯を食ったらなかなか能率が上らない。だいたい、歯が一本も合わんのじゃからしようがない。わたしに何しに生まれて来たかというたって、何だかわからん。だから互いに人の邪魔にならんように生きておったらよいのだ。世の中というところではろくでもない者が人の邪魔して生きようとするのじゃから困る。
 こんなことを妄想というのであるが、そもそもこの妄想というのは、自分勝手な胸算用のことで、夫婦喧嘩でも、互いが自分勝手な胸算用でおっぱじめるのである。世界戦争といっても規模の相違だけで、自分勝手な胸算用からであることに変わりはない。この胸算用さえなければ、天下泰平ということになる。また第三次大戦でも始まりやしないかと、日本国中皆胸わくわくしている。もう一足先にやけ糞になりかけている気の早い連中のあるのも不思議はない。どうせ今度、戦争が始まったら最後、逃げたって逃げられやせんから、もう防空演習も何もいらん、ただ死ぬだけと思っていればよい。ところがもう買いだめを始めたという、気の早いやつもあるそうである。
 良寛様の手紙の中に「災難に遭うときは、災難に遭うがよろしく候、死ぬる時は死ぬるがよろしく候、それを災難をのがるると申し候」とある。あれは何でも親類の中に「チブスか、何か、はやってばたばた死ぬし、財産はなくなるし、火事にはあうし」というようなものがあって、せっぱつまっての相談の手紙の返事らしい。いまでも、これが残っていて、絵葉書にまでなっている。その親戚にとっては、それは一生の浮き沈みに関する重大問題だったとしても、良寛様の解答はただこれだけだった。わたしがこの間あるところでこの話をしたら、それでもやはり感激した人があって、わたしが字が下手なのに、どうしてもこの文句を書けというのでたいへん難儀した。私は新しい文句を注文されるとたいへん困る。こっちの勝手にさせてもらうと、どこかでスケッチして来たのを、カンニングするからなんでもない。出来不出来はそのときのスケッチのいかんによる。この人がどういう具合に、この良寛様の言葉に感激したか知らないけれども、こんな人もいるからおもしろいと思う。

 この間カミュの『ペスト』という小説を読んだが、ペストがはやって、いったんその町が出入り禁止されると、出れんものを出たいといって、やっさもっさ気をもむ人間が、ばたばたやっておる。その方がペストそのものよりおもしろいかった。恋人と別れてしまったり、夫婦別れになったり、いろいろなことが起きてきて右往左往のそのばたばたは、ペストどころかこのほうがたいへんだった。そういうのもいたずらに必然に対抗して、現在あることがなかったらよいがと妄想するからである。貧乏になったくせに、もとのように金があったらと思い悩んだりする。わたしに「もし、ひょっとして金を拾うたらあなたに坐禅堂を建ててあげる」というやつがおった。「いらんこというな」といってやった。自分のもうけた金は惜しいから、拾うた金で、と妄想する。だから株で儲けても、自分だけはこっそり妾をこしらえて、わしのところへ音沙汰はしない。そこで私は、無心ということは、この必然的出来事に対して文句のないことであるという。これを真宗の後生願いでは「あなたまかせ」といい、一茶にいわしたら
   ともかくもあなたまかせの年の暮
 というだろう。つまり自分で、ばたばたしないことである。しかし努力しないことじゃない。人事を尽して天命を待つというが、それこそ人事の尽せるだけは尽くさねばならん。そうしなければご近所に対してあいすまん。





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最終更新日  2026.08.30 15:00:04


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