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2025年2月5日午後、南海電鉄・粉浜駅から町を散策した後、住吉公園から住吉大社に進み、参拝しました。住吉大社では、有名な太鼓橋(反橋:そりばし)、第三本宮、第四本宮、大日本宮、第一本宮を順番に見て歩き、住吉大社駅から難波駅へ戻りました。ーーーーーーーーーーーーー↓ 住吉公園、住吉大社の看板。↓ 常夜燈。↓ 住吉公園。↓ 住吉公園。↓ すみのえの粉浜のしじみ 開けも見ずこもりにのみや 恋ひ渡りなむ。↓ 汐かけ横丁。↓ 南海電鉄・住吉大社駅。↓ 南海 住吉大社駅。↓ 住吉大社。↓ 住吉大社。↓ 遣唐使進発の地。↓ 遣唐使船。↓ 太鼓橋。↓ 住吉大社地図。↓ 太鼓橋(反橋)。↓ 太鼓橋。↓ 太鼓橋。↓ 第三本宮。↓ 第四本宮。↓ 第二本宮。↓ 第一本宮。↓ 太鼓橋。↓ 阪堺電鉄・路面電車と住吉大社駅。↓ 南海電鉄・住吉大社駅。↓ 通天閣(左)とあべのハルカス(右)。↓ 南海電鉄・なんば駅。
2025.04.30
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手元の雑誌の切り抜きですが、「いま20歳 思い出に胸キュ~ン 河合奈保子・生い立ち履歴書」という記事があり、20歳の奈保子さんが幼い頃のゆかりの地を訪ねています。大阪の愛染橋病院、東京・調布の染地幼稚園、大阪府立粉浜小学校、住吉団地など懐かしい場所が続きますので、一部を紹介します。ーーーーーーーーーーーーーーー故郷・大阪に残っているものはなんなのだろう。家族全員が東京に移り住んで2年余、河合家全員がそろう数少ない夕食時間のテーブルで話題になるのは大阪のことばかり。10年余、奈保子が生活していた故郷・住之江区粉浜の街で日が暮れるまで遊んだ子供時代が、つい最近の出来事のように浮かんでくるらしい。【大阪浪速区・愛染橋病院で誕生】昭和38年(1963年)7月24日、早朝6時5分、浪速区・愛染橋病院が私・奈保子の生まれたところ。当時、両親が住んでいた枚方市は、病院までかなり遠いところにあったらしいんだけど、この病院は大阪で3つの指に数えられるほど有名な病院だったらしい。体重2400グラムとちょっと少なめだったけど、内臓が丈夫だったので、無事スクスクと成長したんだって・・・。当時、私をこの世に出してくれたI先生は、昔のカルテを見ながらおっしゃってくれました。【3歳の時、東京調布市染地の染地幼稚園に行く】奈保子ー住んでいたところが奈良に近かったので一文字とって奈保子と命名したんだって。そんな大阪の生活は3年間だけ。お父さんの仕事の関係で3歳になると、すぐ東京の調布市に移りました。調布の生活は1年間だけ。思い出といったら、通園していた染地幼稚園、多摩川の上手へ父と一緒に行ったつくし採り。その頃、仲よしだったAちゃんと夜遅くまで遊んだことぐらいかも。Aちゃんとは、大阪時代もよきペン・フレンドとしてずーっと続いた友人です。4歳の時、大阪に戻ってからも市内を転々、最終的に落ち着いたところが、10年間住んだ粉浜の住吉団地なんです。【粉浜での生活】優等生だったんです。中学時代から、ちゃんと門限は守るし、とってもいい子。人ゴミは嫌いだし、中学時代友達と行くとこといったら、住吉大社に、大阪城、ほとんど粉浜の街だけという出不精。仲よしグループと泊りがけの旅行を計画するんだけど、一人減り、二人減りなんてことになると、計画はすぐパアになってしまうんです。でも、一度だけ計画通りになったことがあります。「人間の証明」を梅田まで見に行ったこと。仲よしグループの家族はみんな自由放任主義だったけど、全員思い切ったことができないのネ。だからいままで中のよい友人として、続いていると思うんだけどネ。【粉浜から通った大阪女子学園】高校に入学する年頃になると、ナニか目的を持ったことをしたくて考えました。小さい頃から習っていたピアノからマンドリンを弾きたくって、マンドリン部の有名な大阪女子学園に入学しました。いままで先輩、後輩のキビシサなんか経験したことのないわたしは、本当にビックリ。電車の中で先輩に会うと、大きな声で挨拶。ちゃっかり座っているのが見つかると、放課後呼びつけられたり、体育部の学生みたいな感じだったんですよ。でも、奈保子はくじけませんでした。始業時の前の早朝1時間特訓、放課後の練習。血のにじむような練習でした。おかげで1年生で、マンドリンのファースト・メロディーのパートに選ばれたのです。高校1年の時、歌手デビューが決まって1年間しか通わなかった高校ですけど、思い出がいっぱい。10年間の大阪生活。奈保子にとって大阪は心の故郷です。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 大阪のたこ焼きを食べる河合奈保子さん。↓ 画面右上の写真(河合奈保子さん 昭和38年:1963年7月24日朝6時15分誕生、体重2400グラム)↓ 河合奈保子さんは大阪市浪速区の愛染橋病院で誕生した。奈保子さんの出産を担当したI医師。↓ 3歳で大阪から東京調布市染地に移った奈保子さん。染地幼稚園に1年間通園した。(画面右は染地幼稚園前の3歳の奈保子さん、左は20歳の染地幼稚園前の奈保子さん)↓ 染地幼稚園での奈保子さん。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 河合奈保子さんと粉浜小学校。友達ができるとすぐに転校させられた幼稚園時代、父親の仕事に対してずいぶん反発しました。でも、父は子供の反抗がわかったみたいで小学校時代から粉浜に落ち着いてくれました。粉浜小学校時代は本当に天国。そろばん塾の友達、TにОちゃん、S、それに奈保子を加えた4人組は、どこに行くにも一緒。仲よしグループのたまり場で、対策を練ったり、宿題の確認、遠足の買い出し。買い出しも決まった小遣いで、いかにお菓子の種類を多く持っていくか、決められたワク内でスーパーの安い場所を探すか、4人で顔をつき合わせた思い出があります。小学校時代で思い出を語るとすれば、皇帝の片隅の雨に打たれてサビ付いたコンクリートづめの四角いカプセル。卒業の時に自分たちの大切なものを土に埋めて、20歳の成人式の日に、全員集合して掘り起こすんです。将来の夢は保母さんと書いた紙きれ、そして『木綿のハンカチーフ』の歌を吹き込んだテープが埋まっているんです。仲よし4人組と一緒にとった一本のテープは小学校時代の宝物なの。↓小学校の卒業時の思い出を入れたカプセルが入っている。↓ 中央が河合奈保子さん。↓ 河合奈保子さん。↓ 奈保子さんが住んでいた粉浜西の住吉団地。↓ 阪堺電車の住吉駅にて。
2025.04.29
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手元の雑誌切り抜きですが、「独占! 河合奈保子・初恋の人訪ね歩きーゴリラ先生のにおいがする」というタイトルで、奈保子さんが大阪市立粉浜小学校時代の担任だった先生(あだ名はゴリラ先生)に会いに、福岡県宗像郡東福間に行った話が書いてあり、一部を紹介します。大きなボストン・バッグをぶらさげて、奈保子は福岡へ一人旅に出かけた。大阪時代、大好きだった初恋の先生を訪ねて何千里。見知らぬ土地へ旅する不安を胸に秘めながら、17歳の奈保子、初めての一人旅。早く会いたいなあ!会ったら話したいことがいっぱいあるのに・・・。海岸で砂地を踏みしめながら、奈保子は先生のもとに歩き続けた。ーーーーーーーーーーーーーーーー九州の玄関口、門司駅から鹿児島本線の鈍行で揺られて約1時間。ローカル色豊かな駅々を通り過ぎると、ポツンと1駅だけ近代的な東福間駅がある。「すごい!きれいな駅なのねェ」東京から旅立つ前まで夢にまで描いていた憧れの先生、S先生が住む福岡県宗像郡は描いていたイメージとちょっぴり狂った奈保子ちゃん。でも、東京からの長旅の疲れは少しもない。それもそのはず、とっても優しいゴリラ先生に会えるからとってもウキウキ気分。「この町にゴリラ先生が住んでいるのね」駅前の広場でポツンとつぶやいた奈保子ちゃん。現在、先生が教鞭を振るっている小学校が近づくにつれて、胸の高鳴りはピークになって、なつかしさがこみあげてくるのです。~奈保子:先生!全然変わらない。先生:ナホコ(河合奈保子の本名)だろ、オマエがんばっとるなあ。奈保子:先生が福岡に天気になる前におっしゃった「自分のやりたいことを自分でみつけ、ひとりひとり、自分の道を進みなさい」と言われたことが今、本当に励みになっているんです。先生:大阪時代(粉浜小学校)6年間いたけど、ナホコは特別に目立つ子じゃなかったけど妙に頭の隅に残っていたんだなあ。奈保子:先生が福岡に転勤すると聞いた時は、本当にビックリしちゃって・・・。先生:本当にクラスのみんなには、悪いことをしちゃったと思っとる。オレはここの生まれだから、故郷に帰りたい気持ちはもっておったんだ。ギリギリまで言えなかったのは、やっと大阪の暮らし、生徒の気持ちがわかりかけてきた時だったし、色々悩んだりもしたんだ。奈保子:先生、体操の授業の時はよく休んですみません。先生:ナホコは運動が苦手だったもんな。奈保子:本当のことを言うと、クラスのみんなからバストのことで冷やかされるのがいやだったんです。先生:当時からコロコロ太っていたもんな(笑)奈保子:ヤダ~先生(笑)先生:年頃になれば、やせるから心配すんな。奈保子:ナホコ、たくさん食べるから無理みたい(笑)先生:転勤する時に、クラスの仲間から送られた寄せ書きのバレーボール。黒くなっちゃったけど、このボールを眺めるたびにクラスの子の一人一人が目に浮かぶんだよ。奈保子:私も時々、先生の顔を思い出したりしてたんです。でも、ちっとも昔と変わっていないんで安心しちゃった。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 福岡県宗像郡・東福間駅の河合奈保子さん。↓ ゴリラ先生のにおいがする。↓ 先生が福岡に転勤する時に、粉浜小学校の担任クラスの生徒達から送られた寄せ書きのバレーボール。「ゴリラ」という文字が見える。↓ 先生に送った奈保子さんの手紙。↓ S先生と奈保子さん。
2025.04.28
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手元の雑誌切り抜きで、「感激!4500人の奈保子コール」があり、中には「楽屋にたずねてきた、小学校以来の仲よし3人組。コンサートが終わって、お好み焼きをパクパクやりながら、久しぶりの同窓会です」という記事があったので、紹介します。ーーーーーーーーーーー集まった3人は、家も近所同士で、学校も小学校、中学校とずっと一緒。おままごとから男の子のお話までつき合ってきた仲よしグループなのです。この春にそれぞれの高校を卒業して、自分の道へ。(友人のSさん、Оさん、Tさんの紹介あり)~「でも、ええなあ・・・。みんな、行く道があって。ウチだけや、全然、出世せんのは」と、お好み焼きを口いっぱいの奈保子。ちょっと、さびしそうなのです。「なに言うてんの。奈保子が一番出世しとるやないの。ウチら、テレビにもよう出らんのに」Sちゃんの声に、「そりゃ、無理や。絶対」とふたり。ギャハハと大笑いで、その騒々しいことったら・・・。「でも、元気になってよかったな。ウチら心配しとったんやけど、退院してから温泉から電話くれたやろ?いつもの奈保子で安心したわ」とОちゃん。(注:1981年10月5日にNHKホールで奈保子さんがセリから落ちて、第一腰椎圧迫骨折で入院した。退院後、山梨県の桃ノ木温泉で療養していた)「あのときな、電話代が1時間で4,970円やて!そんなに長かったかな?」首をかしげる奈保子。「あんたの長電話は昔から変わらんな。テストの前なんて、しょっちゅうやったもん」とTさん。 「あっ、テストって言えば、みんなで参考書を持ち合って、学校の帰りに誰かの家で勉強しようとしたことがあったやろ?」クスクス笑いの奈保子。「あった、あった!それで、誰の家にしょうかてうろうろカバンさげて歩いてるうちに、マクドナルドでハンバーガー食べて、道草して、結局、なーんもやらんうちに夜になって家に帰った・・・」とОちゃん。これもケラケラ笑い。「ほんで結局、10何点しかとれへんかった。みんな連帯感だけは、強かったから」と奈保子。勉強会という名目で、奈保子の家にみんなして集合したこともたびたびだけど、最終的にみんな、お菓子食べ食べ、遊んでしまうので、テストが終わるたびに深く反省のパターン繰り返し。「でも、Оちゃんが頭のよい子にとり入るのがうまくて、よくノート借りてきて助かったわ。みんなで写しっコしたもん」奈保子、ペコッ。「そういう性格やから、銀行入れたんや」とTちゃんが言って、一同またまた大笑いなのです。「ねえねえ、奈保子のレコード買うてくれてる?」「おっ、さすが芸人や」とおちょくるみんな。「(1981年)12月5日にレコード店へ買いに行ったけど『ラブレター』売っとらんかったよ。電車賃、後で返しなさい」とTちゃんが言う。「ガメツイなァ、あんたも。でも、奈保子のレコードでは、デビュー曲が一番良かったわ。なんや奈保子の性格に一番合うとる」とОちゃん。みんな吹き出して「ナーイ、ナイ」と合唱。奈保子、落ち込んで「どうせ子供ですヨ!」(注:奈保子さんのデビュー曲は『大きな森の小さなお家』で、「誰も見たことナーイナーイ」で歌が始まる)さて、18歳の娘たちと言えば、番茶も出花!?なかには、ボーイフレンドのいる子も・・・。「Sちゃんの彼氏、素敵なんやて。ひとつ年上のひとらしいんや」とTちゃん。ニヤニヤ。「ああ、うらやましいな。お願いだから、ウチの前でその話、せんといてな。淋しくなるから」と奈保子くん。必死にお願いであります。「もう、奈保子はいつまでたっても子供なんやから」「あんたも、いい人見つけんとアカンよ」とそれぞれから激励(?)される奈保子。「でも、誰が一番最初にお嫁さんになるかな?」って奈保子が言うと、みんなで「あんたが、一番最後!」「あっ、ヤダー、もう、意地でも絶対最初に結婚してやるからね!」「そんときは、ウチがウェディングケーキを作ってあげるわ」とSちゃん。「ウチが銀行からお金貸してあげるから、盛大にやってな」とОちゃん。「ウチは、料理食べてやる」とTちゃん。奈保子の友達もやはり、ハッピーな子たちばかりなのだ。久しぶりに懐かしい顔とおしゃべりをし奈保子の心は100%ハッピーだった。「この前『レイダース』見に行ったの。でも、入ったとたん、ヘビがウジャウジャ出てきたから、ずっと下を向いたままで、結局どういう映画かゼンゼンわかんなかった。みんな、オモシロイって言ってるけど、ホントかなァ」いつまでも無邪気なこの子(奈保子さん)、お嬢さんになるのはいつかな?
2025.04.27
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手元の雑誌切り抜きで、1981年新年を大阪・粉浜の自宅で過ごした河合奈保子さんの「わが家で新年おめでとう! 河合奈保子・半年ぶりにふるさと大阪に帰る」という記事があったので、紹介します。ーーーーーーーーーーー「おめでとうございまーす!」ひさしぶりに大阪の実家にもどってきた奈保子ちゃん。デビューしてからの目まぐるしい1980年の1年間を振り返って、家族そろって気持ちもあらたに新年をむかえようと、わが家でハッピー・ニューイヤー!晴れ着姿ももよく似合ってきれいな奈保子ちゃん。お父さん、お母さん、妹さんと一緒に家族団らんのひとときを過ごして、心からリラックスして1981年のスタートです。奈保子ちゃんが大阪の家に戻ってきたのは約半年ぶり。東京では一人暮らしなので身のまわりの事を全てやっている彼女ですが、ひさしぶりのわが家なので、どうしてもお母さんに甘えてしまいそう。妹さんもお姉さんに会うのはひさしぶりなのに、奈保子ちゃんの頑張りぶりを目の前で見て感じているので、お姉さんの代わりになって家のお手伝い。わずか半年ぶりなのにすっかり大人っぽくなった妹の変わりように、奈保子ちゃんも頼もしそうに見つめています。そんな二人をたまらなく可愛いといった眼差しで見つめるお父さん。家族のあたたかさがあふれています。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 新年明けましておめでとうございます。河合奈保子 1981年元旦。奈保子さんのご家族(父、母、妹)。ーーーーーーーーーーーーーーーー「奈保子ちゃんが大阪に帰ってきた!」この知らせを聞いて早速親友グループの3人が、奈保子ちゃんの家に集まりました。みんな家が近所同士なので、その知らせの早いこと。Sちゃん、Оちゃん、Tちゃん、そして奈保子ちゃんを加えた4人組が、中学時代の仲良しグループなのです。みんな顔をあわせたらにぎやかなこと。奈保子ちゃんの部屋に集まって、早速近況報告から、他の友達のニュース、色々なできごとのおしゃべり大会です。T:「奈保ちゃん、少しやせたのとちがう?」S、О:「うん、そんな気がする。やせたわよ」奈保子:「うーん、どうかなあ。体重はそんなに変わらないんだけど、やっぱり顔が少し細くなったみたいね。やせた方がいいから、だとしたらうれしいわ」О:「きれいになったみたいよ」S:「そうぉ、お化粧が上手になっただけじゃない?(笑い)」奈保子:「もォ、すぐこれなんだから。嬉しがらせて、すぐ足を引っ張るもんだから、折角みんなきれいになったネって言おうと思ったのに、もうやめた(笑い)」T:「でも、みんなちっとも変わんないね。奈保ちゃんも変わってないわよ」О:「うん、テレビなんかで見てると、へえーっ、これが奈保ちゃんなのォ、なんて思ったりしたけど、こうやって会っちゃえば、全然変わってないんで安心だわ」奈保子「いくら芸能界に入ったからっていったって、わたしはわたしよ。変わらないもん」S:「ほんとね。よく食べるとこなんか、全然変わってない」河合:「アッハハ・・・」T:「そうそう、それとこの笑い。奈保子はほんとにゴウケツ笑いなんだヵら」
2025.04.26
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手元の雑誌切り抜きファイルを見直しているのですが、「一家全員まるごとかわゆし 初公開!河合奈保子の超ハッピーファミリー」という記事があるので紹介します。ーーーーーーーー奈保子の家族は、みんなユカイな人たちなのだ。阪神タイガースの熱狂的ファンで、カラオケで歌うのを愛するパパと、人見知りを直そうと近所のスーパーでパートの仕事をやっているママ、そして奈保子よりも性格的にはシッカリしている妹。この家族あって今の奈保子ありとうなずけちゃう。奈保子のデビューのきっかけとなった”ヒデキの弟・妹募集”のオーディション。このとき、奈保子は両親にナイショで応募して予選通過。「東京の本戦に行くには、親の捺印がいる言うんですわ。私も、どうせ受からんやろうと思たし『秀樹に会えるから、オネガイ』言うんでОKしたんですよ。ま、一杯やってて、タイガースも勝ってたんで、機嫌もよかったんですね。カハハハッ」とパパは、豪傑笑い。奈保子のケラケラ笑いは、このパパゆずりのようなのだ。「生まれたときは、2400Kgの未熟児だったんで、心配したんですが、病院の先生が『丈夫だから問題ない』言わはったので安心しました。好き嫌いも全然なくて、こんなに大きく育ったのが不思議ですね」とママ。パパが新潟で、10代のママと知り合って一目惚れだって。「ママは、性格的にサバサバしてて、あんまりクヨクヨしないみたいです。どっちかというと、パパのほうがこまかいとこに気づく。まめな性格なんですよ。私が生まれたとき、お風呂に入れたり、オムツを替えたりするのは、みんなパパの仕事だったんだって、まま、女王様みたい」とクスクス奈保子。小さく生まれて、大きく育った奈保子は、学校でも人気者だったそう。「家庭訪問で先生がいらっしゃっても、たいてい『言う事ありません、大変すなおで。ただ、もう少しお勉強が好きになってくれると最高です』と言わはるんです。学校では、音楽以外の科目は嫌いだったようですね」とママの証言。「体操もアカンかったですね。小3までは、リレーの選手やったのにそれ以降は、カケッコはいつもびり。なんか自分の興味のあることだけ熱中するみたいで、イジッパリなのかもしれません」とパパ。取材の日、妹さんは、クラブの合宿で家を留守にしてた。「妹のほうが、私より大人みたいなんですよ。前はよく、いっしょにバーゲン・セールに行ってお洋服買ったりしてたんだけど、このごろは『お姉ちゃん、道で大きな声で歌いながら歩くから、はずかしい』って避けるんですよ」悲しいことに、スカートを買うと合うサイズがみつからずに、たいてい妹や母のものになってしまう。だから、いつもはジーンズばかりの奈保子なのだ。バカボン、テンテン、ポン太にアイちゃん。これ、みんな奈保子が飼ってたインコの名前。不思議というか、奈保子がピアノを弾くと、みんな「ピピピ」と声をそろえて大合唱するんだって。家族でいちばんなつかれてたんだぞう。河合家は小鳥までハッピーなのだ。(1980年)9月1日に新曲『ヤング・ボーイ』が出る。ちょっぴり大人っぽい感じが、ボーイズ感覚をくすぐっちゃうのだ。10月14日には、東京・芝・郵便貯金ホールで初コンサート。奈保子エイジに突入なのだぞ!↓ 車で10分ぐらいの長居公園に、お弁当を持ってピクニック。小さいころは、家族みんなでよく来たそうで、ママ特製のジャンボおにぎりを食べながらオシャベリ。パパ:「こうしてみると、我が子ながら、やっぱりテレビより本物のほうがいいね」ママ:「なんですか、急に改まって変なことを言って。奈保ちゃんがビックリしてるわ」奈保子:「ウフフ、ママのおにぎり、あいかわらずダイナミックなのね。学校でみんなに評判良くって、他の人の分までママに作ってもらったね。感謝してます」ママ「奈保ちゃん、ホッペタにお弁当くっつけてるわよ。子どもみたいなんだから」パパがごはんツブをとってあげて、みんなでゲラゲラ。仲のいい一家なのですよ。↓ 奈保子のお部屋には、パパが小1のときクリスマスプレゼントで買ってくれたピアノがある。「酔っていい気分になると、パパは必ず歌いだすのです。私がピアノで伴奏させられるんだけど、パパは民謡とかフランク永井とか知らない歌ばっかりで困るのです」↓ 奈保子の家のすぐそばには、大阪でも有名な神社、住吉大社がある。今日はお祭りの日。浴衣を着て、パパとママといっしょに、お出かけ。「ワタアメにリンゴアメ食べて、それからタコ焼きでしょ。そしてイカ焼き・・・」。ママ曰く「奈保ちゃん、太るわよ!」↓ 奈保子の母校、住吉第一中学。学校でいちばん楽しかったところ。「お勉強は好きじゃなかったのです。特に数学なんて大キライ。記号や数字ばっかり見てると、目がぐるぐる。でもね、先生や友だちがみんな楽しい人たちだったから、毎日休まず行ってたの。
2025.04.25
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「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス」p137~140で、奈保子さんが大阪から東京に行く前日、粉浜の友人たちからカセットテープを受け取る話が書いてあるので紹介します。ーーーーーーーーーーーーーー【P137~140】今、ここでお話ししたいのは、一本のカセットテープ。私の宝物のひとつでもあります。さみしい時、ベッドの中でこっそりと聞いていました。誰にも聞かせたことのない、秘密のテープです。歌手になるために、上京することが決まってからです。(友人の)Tたちは、勉強そっちのけで、毎晩のように私に会いに来てくれました。サヨナラを目の前にして、みんな、急に無口になったよう。せっかく来てくれた友だちを前にして、私も「ガンバルネ」っていうことばしか言えませんでした。歌手になって上京する限りは、絶対に売れるようになりたい。すぐに帰るようなマネはしたくないーかたく心に誓っていました。すぐに消えるようなお星様(スター)になるのなら、家族と別れ、友達と別れる意味はありません。夢も不安も胸に抱えきれないほどにあったけれど、とにかく「ガンバルネ」自分にも言いきかせていたのかもしれません。そんな私を見て、みんなはさみしかったと思います。夢を抱えて旅立つ者よりも、残される者のほうがずっとずっとつらいから・・・。つい最近になって、Tはこんなことを話してくれました。「ナホコは”ガンバル”って言っとったけど、内心では、売れんように思っとったんや。早うに帰ってきてほしかったから・・・。コンサートに行ったって、今なら笑って帰れるけど、昔は胸が一杯になって、みんなでものも言わんと帰っとったもん。大阪に帰ってきてほしいなぁと思って、ずうっと待っとった。けど、歌を歌ってるのがナホコの幸せなんだと思うて、やっとあきらめたわ」あの頃、SちゃんもОちゃんも、同じような気持ちだったそうです。仲よしグループ全員が、複雑な思いで、私の上京を見ていたようでした。みんなとあってサヨナラをしたかったのに、思うようにならず、上京をする日がせまってしまいました。寄せ書きと1本60分テープ。思いがけず、仲よしグループからのプレゼントが届いたのは、上京する前日のことでした。「これは絶対に秘密やで。みんなからの内緒話が入っとるんやから。他の人に聞かせたらあかん」Tから、きつく言い渡されました。「東京へ着いてから、一人でこっそりきくわ」約束したけれど、何だか泣き出しそうな気がしてならなかったのでした。テープのA面には、仲よしグループの一人ひとりの声が吹き込まれていました。話している内容はそれぞれ違うけれど、みんながはげましてくれていました。B面は、住吉第一中学校の校歌で始まります。校歌って、つまんない歌だと思っていたけれど、こうして聞くと、なつかしくていい歌に聞こえるから不思議です。目を閉じて耳を澄ませば、ここにいるのは中学生の私。楽しかったことや苦しかったことが、クルクルと踊り始めます。そのあとには、グループみんなの座談会が吹き込まれていました。テーマは、”期待されるナホコ像” 将来への希望なんかを、みんなが一生懸命に、まじめにしゃべっているんです。普通の姿を知っているだけに、意外な気がしてなりません。クスクスっと笑ってしまったけど、聞いているうちに、胸がジーンとなって、いつのまにか泣けてしまいました。心憎いサヨナラです。仲よしグループのたまり場は、団地の近商ストアの横にある、マクドナルドの2階でした。中3の頃、日曜日の午前中には、模擬試験がありました。それが終わると、まっすぐに集合!ハンバーガー2個にシェイクやジュースを頼んで、何時間もねばるんです。受験地獄にあえぐ受験生(?)にとっては、それが唯一の楽しみ。制服姿で、よく行ったものでした。サヨナラのテープを吹き込んだ時も、そこへ集合したそうです。・一人3分までしゃべっていいこと。・他の人が吹き込んだことは、再生して聞かないこと。このふたつを約束。一人ずつお店の隅っこに行っては、カセットに向かってこっそりと吹き込んだそうです。狭い店内で、他のお客さんは(なんや、あの子ら)って感じで見ているし、”校歌斉唱”の時なんかは、恥ずかしくて顔から火が出そうだったそうです。”恥ずかしいなんて言ってられん。早く完成させな、ナホコは東京へ行ってしまう”ひらきなおって、必死にがんばってくれたみんな。「次は誰や!」テープが回っている間中、悲壮感が色濃くただよっていたそうです。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス」。
2025.04.24
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「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス」p136に、奈保子さんの名前の由来が書いてあります。新潟の祖母が「直子(なおこ)」と任命した後、折角大阪にいるのだからということで、両親が奈良の”奈”を取って「奈保子(なほこ)」にしたことが書いてあります。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー(P136)「ナホコ」大阪の友達は、私のことをこう呼びます。河合奈保子・・・これが私の本名ですが、本当は、カワイナホコと呼びます。私が生まれた時に、新潟のおばあちゃんが”素直な子に育つように”との願いを込めて「直子(なおこ)」と命名してくれたそうです。でも、おとうさんたちは、せっかく大阪にいることでもあるしと、”奈良”の”奈”をとって「奈保子(なほこ)」と届けました。百人一首の好きなおとうさんらしい、名前のつけ方かもしれません。だから、大阪のともだちや家族は、私のことを「ナホコ」と呼びます。デビューする時には、わかりやすいように「ナオコ」と呼び方だけ変えていただきました。「河合奈保子」は、芸名ではないと思っているけれど、やっぱり芸名になってしまうのかしら・・・。”テレビに出ているのは、カワイナオコ。うちらとは、別の世界の人や。昔から一緒に遊んどった友達は”カワイナホコ” みんな、そう思ってくれているそうです。だから、たまに会う時でも、昔通りに会ってくれるんです。今でも大阪が恋しくなるのは、そのせいかもしれません。ーーーーーーーーーーーーー↓ わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス
2025.04.23
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「わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス」P134~136に、粉浜での奈保子さんと友人との様子が記載されているので紹介します。(P134~136)故郷って、こんなにいいものなのかってこと、今頃になって気がつきました。私は、どこよりも粉浜(こはま)が好き。住みなれた街・・・。大阪弁をしゃべって、コロコロと笑っていた、あの頃の奈保子が大好きです。親友のTとは、同じ愛染橋(あいぜんばし)病院で生まれました。「お誕生日も近いし、おかあさんのお腹ん中におった頃からの知り合いかもしれんねえ」不思議な偶然を喜んだのは、粉浜小学校5年生の時でした。同じクラスにはSちゃんがいて、Оちゃんは、別のクラスの女の子。中学になってから、お友達になりました。住吉第一中学へ進んでからというもの、Tとは、一度も同じクラスになったことはありません。でも、仲の良さは相変わらず。「今日、一緒に帰らへん?」早く終わったほうが、相手の教室の前に行って待っていましたっけ。Sちゃんとは同じ団地だったし、Tの家は団地が通り道になっています。校門をくぐる時は、6~7人の仲よしグループがみんな一緒でした。校門の前にはどこかの家のガレージがあって、いつも大きな犬が寝そべっています。みんなで、ひとしきり背中をなでてあげるのが日課となっていました。デカ犬は、うれしいのかうれしくないのか、いつもいつも知らん顔。そのあとは、今日のクラスでのできごとや男の子のことを話しながら、古い家並みの裏通りを通って帰ります。国道ぞいの道と違って、車も通りません。ハシがころがってもおかしい年頃の女の子には、そんな道が似合います。立ち話をしているおばさんたちが、ビックリするほど大きな声で笑ったり、おしゃべりに熱中していました。団地までは15分もあれば帰れます。バイバ~イ。また明日。途中で一人抜け、二人抜けで、結局、いつも私とTとSちゃんの3人が残ってしまいます。毎日会ってるくせに、そのままサヨナラするのが惜しくて、団地の分かれ道の所でおしゃべりを始めるのが習慣でした。ベンチがあるわけでもないんです。6号館と1号館の間。駐車場のすぐそばにある植木の鉄柵に腰かけて、暗くなるまで何時間でもずうっとおしゃべり。冬の日も夏の日も、そこは誰にも邪魔されない”秘密の花園”でした。風がピューピュー吹く冬の寒い日でも、ガタガタ震えながらいるんです。3人で何時間も。それでも楽しくて、「帰ろうか」なんて誰も言い出したりはしませんでした。「あんたら、いつもここにおるねえ。仲がようてエエなあ」時には、知らないおばさんが、声をかけて通り過ぎていきました。お腹がすくと、団地の中に出ているタコ焼き屋のおばちゃんの所とか、ヤキイモ屋さんに走っていくんです。一人で買うのは恥ずかしいけれど、3人一緒なら平気。寒空の下で、フゥフゥいって食べるおいしさは、また格別です。赤と白の看板が見えるヤマザキパン屋さんへも、毎日のように行きました。顔なじみだったから「おじさんやおばさんは、今でも元気かなあ」って、フッと思い出してしまいます。私は、見るからに健康優良児の体型をしていたけれど、ガマンしてやせようなんて、これっぽっちも考えたりはしませんでした。すぐ横にある公園でハネまわったり、住吉神社のお祭りに行ったり・・・。花火で遊んだのも、みんな一緒の思い出です。仲がよすぎてケンカするっていうこごばがあるけれど、私たちに限ってはあてはまりません。3人とも同じような性格だし、のんきなところが幸いしたのかもしれませんね。ケンカになるような原因だって、なかったような気がします。とにかく、毎日が平和でのんびりとしていました。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 南海電鉄・粉浜駅、粉浜小学校、住吉第一中学校、粉浜西3丁目(住吉団地)、中央は国道26号線。↓ わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ/河合奈保子/ワニブックス
2025.04.22
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「わたぼうし翔んだ 奈保子の病棟スケッチ/河合奈保子/ワニブックス」のp130~132には、河合奈保子さんがデビューで東京に行った後、大阪・粉浜のご家族と電話で毎晩長電話をしていた頃の話が載っているので紹介します。ーーーーーーーーーーーーーーーp130~132電話代のことでは、なつかしい思い出があるんです。デビューして、一人暮らしを始めてからの事。お部屋へ帰ると、着替えるのもそっちのけで、毎晩、大阪の家まで電話をかけていました。「モシモシ、おかあさん?奈保子。そっちからかけてね」ガチャン。かけるたびに、家の方からかけなおしてもらっていました。一人暮らしの頃は、すべて事務所のほうで面倒を見ていただいていたんです。でも”事務所で電話代を払ってもらうんだ”って思うと、何だか申しわけなくて、ゆっくりと話せなくなっちゃって・・・。結局、そんな方法をとっていました。自分で好きで選んだ道だから、電話でグチを言ったことはありません。ただ、声が聞きたくなるんです。「ねえ、おかあさん。今日、こんなことがあったの」新曲なんか決まりそうな時は、電話で候補曲をゼ~ンブ聴いてもらうんです。「ちょっと聴いててね、いい?」続けザマに5、6曲かけて、終わったところで、どれがいいか答えてもらうんです。答えてもらっても、その意見を誰に話すわけでもありません。ただ、自分がいいと思う曲とおかあさんたちがいいと思う曲が一致すれば、それで気がすむんです。電話が長くなっても、あたり前なわけです。「電話代だけでも、バカにならないんよ」ある夜、とうとう、おかあさんにしかられてしまいました。”遠い所へ電話をすれば料金も高くなる”っていうことぐらいは知っています。でも、いくら高くなるかってことはまったく知らなかったわけで、知らないということは実に恐ろしいことでありました。なんと、大阪の家では、毎月6~7万円を電話局へ納めていたそうです。ちょっと多くなる時には、10万円にもなっていたとか・・・。家は、ごく普通のサラリーマンの家庭です。おとうさんのお給料から、毎月毎月そんなに多く支払っていたら、やりくりじょうずなおかあさんだって怒るのはあたり前。それ以来、なるべく電話をかけないように心がけていました。でも、そんな私をかわいそうに思ってか、今度は逆に、大阪からかかってくるようになりました。「モシモシ、お姉ちゃん?」言い出したのはおとうさん。でも、自分ではかけにくいらしいのです。いつもユカちゃん(妹さん)がダイヤルを回していました。照れくさがり屋の意地っぱり。へんなところが似ています。やっぱり親子なんですね。結局、わが家の電話料金は減らずじまいでした・・・。ーーーーーーーーーーーー↓ 大阪・粉浜駅周辺案内図。↓ 「わたぼうし翔んだ 奈保子の病棟スケッチ/河合奈保子/ワニブックス」。
2025.04.21
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2025年2月5日午後、河合奈保子さんが住んでおられた粉浜を散策しました。まずは粉浜駅から商店街を抜けて、大阪市立粉浜小学校に行きます。奈保子さんが小学生の時に文房具をよく購入していたという学校前の文具店は、2024年5月に閉店されたようです。国道26号線を越えて、奈保子さんが通っていた大阪市立住吉第一中学校前を歩きました。再び国道26号線を南に歩くと、近商ストア住吉店がありました。昔はこのそばにマクドナルドがあって、奈保子さんが学校の帰りに寄ったりした場所だと思います。この後ろには、奈保子さんが住んでいた住吉団地があります。そして住吉大社近くにある住吉高灯籠を見ました。ーーーーーーーーーーーー↓ 南海電鉄粉浜駅。↓ わいわいロード。↓ この先が小学校。↓ 大阪市立粉浜小学校。↓ 国道26号線。↓ 大阪市立住吉第一中学校。↓ 近商ストアが見える。この奥は住吉団地。↓ 住吉団地。↓ 住吉公園、住吉大社の案内板。↓ 住吉高灯籠。
2025.04.20
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「浜村淳の人・街・夢」(関西テレビ1993年6月4日放送)で河合奈保子編が放送されました。浜村淳さんと藤原みえさんが河合奈保子さんを囲み、南海電鉄・粉浜駅から粉浜商店街、そして奈保子さんが通っていた粉浜小学校まで色々な話があったので、一部を紹介します。【浜村】ただいま、南海本線の粉浜の駅前におりますが、このすぐ近くに家があったんですね?【河合】住吉団地の方だったんです。【浜村】向こうに見える小学校が、奈保子ちゃんが行っていた。【河合】そうなんです。粉浜小学校という。でもなんか、こんなんだったかなと。すっごい久しぶりなんで、記憶が。【浜村】綺麗でお洒落な駅で。【河合】こんな立派な本屋さんとか。【浜村】その頃にはピアノの勉強をしておりましたか?【河合】小学校1年生から習い始めて。でも5年生ぐらいからちょっと飽き始めて(笑)【浜村】小学校行くには商店街を通りますよね。この商店街は覚えていますか。【河合】覚えています。【浜村】行ってみましょうか。ー突然、中学校の同級生のお母さんに会ってー【河合】ああ、どうも。今お仕事で(来ています)。東京にみんないて。奈保子さんが浜村さんに友達の母を紹介した。【河合】トロンボーンをやっていたAさんという女の子のお母さんです。【浜村】この方は(奈保子さんの)同級生やなしに? この浜村さんの発言に、皆大ウケ、大爆笑。【浜村】同級生のお母ちゃん。(同級生とは)奈保子ちゃんと一緒にトロンボーンをやっていた。【友母】中学から一緒やったしね。(奈保子さんは)ピアノで、うちのはエレクトーン。【浜村】その頃から(奈保子さんは)可愛らしい?【友母】もう、だいぶん細くなった。【浜村】ほんまに?どんな感じでした?その頃は。【友母】胸、大きかったね! 太ってたもん。奈保子さんはこのコメントにキャッキャと恥ずかしがる。【浜村】ホントに? 今は(胸が)しぼんだ?【河合】やだーっ、もう!ー同級生のお母さんと別れ、小学校前のなつかしの文房具屋さんを探してー【河合】(指をさして)あっちです。若山の文房具屋さんです。ここで皆が若山文具店に入る。店内にはおじさんとおばさんがいた。【浜村】お邪魔します。こんにちは。河合奈保子ちゃんがね、小学校に行っている頃、しょっちゅうここで買い物をしたそうですが。このおじさんとおばさんでしたか?【河合】おじさん、覚えてます、私。おじさんは覚えていらっしゃらないと思うけど。【浜村】こちらは客商売だから、(奈保子さんを)覚えてませんね。【河合】小学校をずっとここに行ってまして。(おじさんを見て)若山のおっちゃんです。みんなで若山のおっちゃんと言っていました。【浜村】奈保子ちゃんは若山文具店でどんなものを買っていました?【河合】そうですね。よく鉛筆とかノートとか消しゴムとか、そういった物を。昔ここに蚕を置いてませんでした?【若山】置いてました。【河合】ああっ、良かった。(笑)【浜村】ちょっと待ってください。文房具店で何で蚕なの?【若山】理科とかに(使うため)。【若山】奈保子ちゃんはどこにいてはったんの、粉浜の?【河合】あそこの団地に住んでたんです。【浜村】その時からこのおっちゃんとおばちゃんだったんです?【河合】そうです。私おっちゃんの顔をよく覚えています!【若山】この顔は忘れられへんね。(笑)【河合】みんな、若山のおっちゃんと言ってすごい慕ってて。【浜村】この小学校はだいぶ変わったんですか?当時のままですか?【若山】だいぶ変わりました。ここで大阪市立粉浜小学校が映る。【浜村】奈保子ちゃんがいた当時の先生というのはどうでしょう。【若山】何先生でした?【河合】尾崎先生とか、その前は竹内先生とか。【若山】今はもうおいでになれへんからな。いや亡くなってんのとちゃうねん。このコメントに皆爆笑した。奈保子さんの小学校の卒業写真が映った。ーーーーーーーーーー↓ 南海電鉄・粉浜駅。↓「浜村淳の人・街・夢」 浜村淳さん、河合奈保子さん、藤原みえさん。↓ 粉浜駅から見た粉浜小学校。↓ 河合奈保子さん。↓ 当時、駅にあった本屋さん。↓ 粉浜本通商店街。ここを抜けて粉浜小学校に行く。ーーーーーーーーーーー↓ 中学の同級生の母親に偶然会う。↓ 浜村さんが同級生の母親に対して、奈保子さんの同級生?と聞いて、大ウケ、大爆笑になる。↓ 同級生の母親が、当時の奈保子さんについて「胸が大きかった」と言ったので、奈保子さんがキャッキャと恥ずかしがる。↓ 奈保子さん「ピアノを弾き始めた頃の思い出」。ーーーーーーーーーー↓ 同級生のお母さんと別れ、小学校前の懐かしの文房具屋さんを探して・・・。↓ 若山文具店に入る。↓ 奈保子さんが小学生の時、文房具を購入した若山文具店。↓ 奈保子さんがとても記憶に残っていた「若山のおっちゃん」。↓ 理科の実験用に、蚕を店に置いていた。↓ 若山文具店の横は粉浜小学校。↓ 大阪市立粉浜小学校。↓ 小学校の卒業写真。↓当時の河合奈保子さん。
2025.04.19
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2025年2月5日午後、大阪・南海電鉄・粉浜駅に行きました。私としては粉浜というと水木しげるさんが生まれた所と、河合奈保子さんがデビューまで生活をされた所というイメージがあります。水木しげるさんは鳥取県境港市が有名ですが、生まれは粉浜です。私は次の本を持っています。①「マンガ水木しげる伝(上)戦前編/水木しげる/講談社漫画文庫/講談社」②「マンガ水木しげる伝(中)戦中編/水木しげる/講談社漫画文庫/講談社」③「マンガ水木しげる伝(下)戦後編/水木しげる/講談社漫画文庫/講談社」この①の中のp9~17で、次の記載があります。「ボクが生まれたのは大阪の粉浜(こはま)村(現大阪市住吉区東粉浜3丁目)という所である」「大正11年(1922年)3月8日」父「おお、生まれたか」産婆「元気な男の子ですよ」母「男の子・・・」父「男だったか。弟だぞ宗平(しげるの兄)」父「宗平という名まえはひい爺さんの惣平(そうへい)からとったが、この子は爺さんの茂三郎(しげさぶろう)から一字とって茂にしよう」「これがボク、武良茂(むらしげる)。のちの水木しげるの誕生である」「さてボクの父亮一(りょういち)の仕事の都合で大阪に住んでいた武良一家は、一か月後に鳥取県境港に帰郷する。境港の高松町には祖父(辰司:たつじ)が建てた実家があった」「その二年後、弟の幸夫(ゆきお)が生まれる。武良家は三人の男の子に恵まれた」ーーーーーーーーーーーー粉浜駅の東側には、「水木しげる先生 生誕の地」という石碑があります。「水木しげる先生(本名 武良茂 1922~2015)は、大正11年3月8日、大阪府西成郡粉浜村(大阪市住吉区東粉浜3丁目)で誕生した。当時大阪の会社に勤めていた父亮一のもとに母琴江が赴いていた時、次男の茂(水木しげる)を出産した。生後まもなくして母子は鳥取県西伯郡境町(境港市)に帰郷した。先生の故郷、境港は北前船の寄港地として栄えた港町で、生家は曽祖父惣平の時代まで廻船問屋を営み、北前船で伯州綿などを商ってきた。北前船の関係者に信仰をあつめた住吉大社の門前町、東粉浜(住吉新家)において先生が生誕したことになる。青年期には画家を志し、再び大阪に出て印刷会社で働きながら、大阪上本町の精華美術学院、中之島洋画研究所などで絵画を学んだ。その後、南方の激戦地における壮絶な戦争体験を経て復員。そして紙芝居画家など様々な職業を経て、漫画家となった。昭和40年(1965年)「テレビくん」で講談社児童まんが賞を受賞。その後「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」「河童の三平」などのヒット作品を次々生み出し、日本を代表する漫画家となり、妖怪研究科としても大きな功績を遺した。平成27年(2015年)11月30日、93歳で逝去。先生の生誕百年を記念し、生誕の地に顕彰碑を建て永くこれを伝える。令和4年(2022年)3月吉日。ーーーーーーーーーーーー万葉集の歌碑もありました。住吉(すみのえ)の粉浜のしじみ開けも見ず隠(こも)りてのみや恋ひ渡りなむ(万葉集、巻六・九九七)「住吉乃 粉濱之四時美 開藻不見 隠耳哉 戀渡南 孝書」この歌は、天平6年(734年)春3月、聖武天皇難波行幸の時の作者未詳の歌で、粉浜の美しい風土と人々の奥ゆかしい心がうたわれたもので、粉浜の歴史を知り、郷土の誇りを永遠に伝えるため、大阪大学明渠教授 犬養孝先生の揮毫により、この歌碑を建立した。昭和59年(1984年)7月7日 東粉浜社会福祉協議会ーーーーーーーーーーー粉浜駅のガード下にあった「じゃんぼ聰本店」で、たこ焼きを買って食べました。ーーーーーーーーー↓ ①「マンガ水木しげる伝(上)戦前編/水木しげる/講談社漫画文庫/講談社」②「マンガ水木しげる伝(中)戦中編/水木しげる/講談社漫画文庫/講談社」③「マンガ水木しげる伝(下)戦後編/水木しげる/講談社漫画文庫/講談社」↓①「マンガ水木しげる伝(上)戦前編/水木しげる/講談社漫画文庫/講談社」↓ 毎日がつまらんと思う人は、この本を読むといいですよ。きっとフハッと驚いて、生きる意欲が湧いてきます。↓②「マンガ水木しげる伝(中)戦中編/水木しげる/講談社漫画文庫/講談社」↓ 今の人は簡単なことで、やる気をなくしたり、あきらめたりする。水木サンを見習って、好きなことを一生懸命に続けていけば、モノになるハズです。アーメン。↓ ③「マンガ水木しげる伝(下)戦後編/水木しげる/講談社漫画文庫/講談社」↓ あなたが今、貧乏だからといって落胆しとったらイカン。明日、”金霊:かなたま”が飛んでくるかもわからん。妖怪は、気まぐれですから。↓ 作者プロフィール。水木しげる(本名・武良茂)1922年鳥取県生まれ(ママ:本当は大阪・粉浜生まれ)。1957年単行本『ロケットマン』でデビュー。『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』『河童の三平』などの空前の大ヒット漫画を世に送り出す。1965年『テレビくん』で第6回講談社児童漫画賞を受賞、1989年『昭和史』で第13回講談社漫画賞、1991年NHKドラマ『のんのんばあとオレ』で平成3年度文化庁芸術作品賞他、各賞を受賞。1991年紫綬褒章を受章。2003年旭日小綬章を受賞。↓「ボクが生まれたのは大阪の粉浜(こはま)村(現大阪市住吉区東粉浜3丁目)という所である」「大正11年(1922年)3月8日」↓ 生まれるー!! オギャーッ。↓父「宗平という名まえはひい爺さんの惣平(そうへい)からとったが、この子は爺さんの茂三郎(しげさぶろう)から一字とって茂にしよう」「これがボク、武良茂(むらしげる)。のちの水木しげるの誕生である」↓「さてボクの父亮一(りょういち)の仕事の都合で大阪にすんでいた武良一家は、一か月後に鳥取県境港に帰郷する。境港の高松町には祖父(辰司:たつじ)が建てた実家があった」「その二年後、弟の幸夫(ゆきお)が生まれる。武良家は三人の男の子に恵まれた」↓ 粉浜駅ガード下。↓ 水木しげる先生 生誕の地。ーーーーーーーーーー↓ 万葉集の歌碑。住吉(すみのえ)の粉浜のしじみ開けも見ず隠(こも)りてのみや恋ひ渡りなむ(万葉集、巻六・九九七)「住吉乃 粉濱之四時美 開藻不見 隠耳哉 戀渡南 孝書」↓ ガード下の「じゃんぼ聰本店」でたこ焼きを買う。↓ たこ焼き。
2025.04.18
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2025年2月5日午後、南海電鉄なんば駅から粉浜駅まで移動しました。粉浜というと、ゲゲゲの鬼太郎で有名な水木しげるさんが生まれたところであり、私が大好きな河合奈保子さんがデビュー前まで生活されていた場所です。ーーーーーーーーーーーー↓ 南海電鉄なんば駅。↓ 怪獣8号展の案内。↓ 南海なんば駅。↓ 泉北高速鉄道7000系 7521。↓ 南海6000系。↓ 特急ラピート。↓ 南海8300系。↓ 南海なんば駅を出発した。↓ 新今宮駅。↓ 天下茶屋駅。↓ 岸里玉出駅。↓ 粉浜駅。↓ 粉浜駅。↓ 「あべのハルカス」がホームから見えた。↓ 粉浜駅改札口。↓ 東粉浜連合青壮年団。↓ 粉浜駅と粉浜小学校(河合奈保子さんが通学していた)。↓ 住吉第一中学校(河合奈保子さんが通学していた)↓ 住吉大社。↓ 粉浜駅。
2025.04.17
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2025年2月5日午後、大阪市中之島を散策しました。大阪市中央公会堂、大阪市立東洋陶器美術館、こどのの本の森の前を歩きました。ーーーーーーーーーーー↓ 大阪市中央公会堂。北浜の風雲児と呼ばれた株式相場師の岩本栄之助氏が高額寄付をして建設され、1918年に完成した。↓ 大阪市中央公会堂案内。↓ 大阪市中央公会堂の中に入っているレストラン「中之島ソーシャルイートアウェイク」。ミシュランシェフ・米村昌泰氏監修のフレンチ&イタリアン料理が出る。↓ 大阪市立東洋陶器美術館。↓ 大阪市立東洋陶器美術館。↓ 京阪中之島線 なにわ橋駅。↓ GARB weeks イタリアンレストラン。↓ 木村長門守重成表忠碑。木村重成(きむらしげなり)は豊臣秀吉の家臣で、大坂夏の陣で戦死した。以前はこの地に豊臣秀吉、秀頼、秀長を祀る豊國神社があり、その境内にこの石碑があったが、1961年に豊國神社は大阪城二の丸に移され、この碑だけが残った。↓ こどもの本の森。建築家の安藤忠雄氏により寄贈された施設。↓ 中之島の図。↓ 土佐堀川と難波橋。阪神高速1号環状線。↓ 大阪・サンフランシスコ姉妹都市提携50年記念。(2009年:平成21年7月)↓ 雪が少し降って来た。↓ 栴檀木橋(せんだんのきばし)。↓ 屋外彫刻「緑の賛歌」作者:本郷新(ほんごうしん)1973年4月建立。↓ 土佐堀川。↓ 淀屋橋。↓ 淀屋橋。↓ 大阪メトロ 淀屋橋駅。↓ 地下鉄御堂筋線。↓ 淀屋橋駅。↓ 大阪メトロ30000系。↓ 難波駅で下車。
2025.04.16
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2025年2月5日午後、大阪市中之島を散策し、「大阪府立中之島図書館」を訪れました。同図書館は住友家が建築し大阪府に寄贈され、1904年に開館しました。図書館はネオ・ルネサンス式の建物で、内部もとても雰囲気があります。2階には「スモーブローキッチンナカノシマ」が入っており、デンマークの郷土料理「スモーブロー」が食べられます。御堂筋・姉妹ストリート協定として、アメリカ合衆国シカゴ市の「ザ・マグニフィセント・マイル」と、オーストラリア連邦メルボルン市の「スワンストンストリート」の掲示があったので紹介します。ーーーーーーーーーー↓ 大阪市中之島にある大阪府立中之島図書館。↓ 図書館2階にある「スモーブローキッチンナカノシマ」。デンマークの郷土料理「スモーブロー」が有名。ーーーーーーーーーーーーー↓ 御堂筋・姉妹ストリート協定 締結記念。魅力的なまちづくりを展開するため、御堂筋と海外大都市のメインストリートについて、多様な技術交流、情報交換、情報発信を行い、両市の連携を深めるとともに、友好的に都市の協力を推進します。アメリカ合衆国・シカゴ市のメインストリート「ザ・マグニフィセント・マイル:The Magnificent Mile」ザ・マグニフィセント・マイル(魅惑の1マイル)の愛称で知られるノース・ミシガン・アベニューは、アメリカ合衆国シカゴ市の中心に位置する、世界で最も素晴らしい大通りのひとつです。美しいミシガン湖畔を間近に望み、高層ビル群に抱かれたザ・マグニフィセント・マイルは、美しい住宅、一流のブランドショップ、受賞歴を誇るレストラン、有名な美術館・博物館や観光名所、豪華なホテル、歴史的建造物が軒を連ね、高名な教育機関や医療設備も備えた、住む人も買い物をする人も仕事をする人も、訪れる人がみな「魅惑」される場所なのです。↓ オーストラリア連邦・メルボルン市の「スワンストンストリート:Swanston Street」スワンストンストリートは、オーストラリアのメルボルン市の中心にあるメインストリートです。1986年から歩行者とトラムを優先とするプロジェクトが実施され、2013年には自動車の通行を制限し、歩行者と自転車の利便性と安全性の向上をめざした道路空間への再編が行われました。官民が連携することにより、道路に活気あるオープン空間が造られ、伝統的な景観を維持しながら、増加した歩行者への対応と、歩道へのカフェやレストランのテラス席の設置を実現しました。
2025.04.15
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2025年2月5日午後、大阪市内を散策しました。大阪・中之島にある大阪市役所には、大阪・関西万博マスコットのミャクミャク像が設置されており、開催まで「あと67日」でした。ーーーーーーーーーー↓ 大阪市役所前に設置された、巨大な「ミャクミャク」。開催まであと67日。↓ 大阪市役所。↓ 大阪市役所。↓ 大阪市役所内部。↓ 想像以上!が、万博だ。来場予約受付中!↓ ミャクミャク像。道路の反対側は日本銀行大阪支店。↓ 大阪市役所。↓ 日本銀行大阪支店。↓ あいおいニッセイ同和損保フェニックスタワー。↓ 大阪マラソン案内。(2025年2月24日 通行止め)
2025.04.14
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2025年2月5日、午前中に仕事が終わったので、午後から大阪を散策しました。肥後橋から淀屋橋の写真を一部掲示します。林市蔵氏の像(大阪知事で民生委員制度を作った人物)や、大阪の豪商・淀屋が淀屋橋を作った紹介があります。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 中之島フェスティバルタワーウェスト。コンラッド大阪、中之島香雪美術館が入っている。↓ 中之島フェスティバルタワー。↓ 土佐堀川と阪神高速。↓ 中之島を越えると、堂島。↓ 錦橋と土佐堀川。↓ 肥後橋。↓ 肥後橋交差点。↓ 大同生命大阪本社ビル。↓ 土佐堀川。↓ 阪神高速。↓ 中之島フェスティバルタワー。↓ 大阪三井物産ビル、阪神高速、中之島セントラルタワー。↓ 三井住友銀行。↓ 三井住友銀行。↓ 左から大阪三井物産ビル、阪神高速、中之島セントラルタワー、大阪中之島ビル。↓ 住友ビルディング。↓ 日本銀行大阪支店。↓ 日本銀行大阪支店。↓ 大阪市役所。↓ 日本初の民生委員制度を作った林市蔵氏の記念像。↓ 1918年(大正7年)第一次世界大戦の直後、民衆の生活苦は相当なもので、当時の大阪府知事であった林市蔵氏が大阪府下に方面委員を設置した。これが日本初の民生委員制度となった。↓ 林市蔵先生記念像。↓ 林市蔵氏の像。↓ 民生委員制度創設百周年記念碑(平成30年5月)↓ 林市蔵先生肖像。↓ 淀屋の碑。↓ 淀屋は江戸時代前期の大阪を代表する最大の豪商であった。淀屋の本姓は岡本氏通称三郎右衛門。豊臣氏が天下をとるに及んで大阪に出て、十三人町(いまの大川町)に住み、淀屋と称し材木を商う。元和元年京橋一丁目の淀屋持地に青物市を開き、また米の相場をたてる。中之島を開発し、常安請地を開く。常安橋ー常安町の名がいまに残る。巨大なる米商人と目すべく淀屋米市のために土佐堀川に自費で橋をかける。淀屋橋であり、ここで行われた淀屋米市の盛大さはこの碑の絵が表現するとおりであった。↓ 淀屋橋と大阪市役所。↓ 日本銀行大阪支店。↓ 日本銀行大阪支店。↓ 淀屋橋から南を望む。
2025.04.13
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2025年2月4日夜、大阪の淀屋橋から肥後橋に移動しました。写真を一部紹介します。ーーーーーーーーーー↓ 淀屋橋。↓ 淀屋橋。橋の向こうは、左側が日本銀行、右側が大阪市役所。↓ 土佐堀川。奥が中之島。↓ 大阪・中之島の日本銀行大阪支店など。↓ 画面中央に月。↓ 中之島セントラルタワー、中之島フェスティバルタワーなど。画面上には月が写っている。↓ 左から大阪三井物産ビル、阪神高速、中之島セントラルタワー。↓ 中央は中之島フェスティバルタワー、左側は中之島フェスティバルタワーウェスト。↓ 大同生命大阪本社ビル。↓ 大同生命大阪本社ビル。↓ 肥後橋付近。↓ 肥後橋と土佐堀川、阪神高速。
2025.04.12
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2025年2月4日18時頃、新幹線さくらで徳山駅に向かっている途中で、新幹線が急に停車しました。車内アナウンスでは、徳山の工場でガス漏れの通報があり、安全確認が取れるまで止まるとの話でした。その後スマホでニュースを検索すると、テレビ山口のネットニュースに次の記事がありました。「工場のガス漏れが影響...JR広島・博多間で一時運転見合わせ(2025年2月4日)JR徳山駅(山口県周南市)付近の出光興産徳山事業所にある工場でガス漏れが発生したため、JR西日本は広島・博多駅間で新幹線・在来線ともに一時運転を見合わせました。新幹線、在来線ともにすでに運転を再開しています。出光興産徳山事業所によると、ガスは工場外には漏れておらず、けが人や体調不良者はいないということです。©テレビ山口株式会社 (tysテレビ山口)」新大阪駅に着くと、「大阪焼肉松屋」で焼き肉を食べ、大阪メトロで淀屋橋駅に移動しました。ーーーーーーーーーーーーー↓ 2025年2月4日18時頃、徳山駅近くで新幹線が約25分間止まった。↓ 東海道・山陽新幹線運行状況 新山口ー新岩国間で運転見合わせ。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 「工場のガス漏れが影響...JR広島・博多間で一時運転見合わせ(2025年2月4日)JR徳山駅(山口県周南市)付近の出光興産徳山事業所にある工場でガス漏れが発生したため、JR西日本は広島・博多駅間で新幹線・在来線ともに一時運転を見合わせました。新幹線、在来線ともにすでに運転を再開しています。出光興産徳山事業所によると、ガスは工場外には漏れておらず、けが人や体調不良者はいないということです。©テレビ山口株式会社 (tysテレビ山口)」ーーーーーーーーー↓ 新幹線が動き始めた。次は徳山駅。↓ 株式会社トクヤマの工場地帯。↓ JR徳山駅(山口県周南市)。↓ 山口県徳山駅。↓ 日本ゼオン株式会社徳山工場。↓ 出光興産徳山事業所。↓ 次は広島。↓ 広島市内。↓ 福山駅と福山城(広島県福山市)。↓ JR福山駅。↓ 福山城。↓ 次は岡山。↓ 岡山市内。↓ 次は新神戸。↓ 新神戸駅。↓ 大阪市内。↓ 新大阪。↓ 新大阪駅。↓ 新幹線さくら。↓ 新大阪駅にある大阪焼肉松屋で食事をした。↓ JR新大阪駅。↓ 大阪メトロ御堂筋線に乗る。↓ 2025年日本国際博覧会 EXPO 2025 Osaka, Kansai, Japan.↓ 淀屋橋駅 (大阪メトロ御堂筋線)
2025.04.11
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2025年2月4日夕方、JR九州・新鳥栖駅で、サガン鳥栖、緒方孝市さん、SAGA久光スプリングスの展示があったので、紹介します。その後、新幹線「さくら」で九州から本州に移動しました。ーーーーーーーーーーーーーー↓ サガン鳥栖。↓ サガン鳥栖(Sagan Tosu)サガン鳥栖(さがんとす)は、佐賀県鳥栖市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。1997年2月4日に創設され、1999年よりJリーグへ加盟している。ホームタウンの人口72,993人(2018年3月31日現在)はJリーグの中でも最も小さい。チーム名の「サガン」は砂粒が固まって砂岩(さがん)になるように小さい力を終結させ、立ち向かうことを表している。クラブマスコットは佐賀県の県鳥である「カチガラス」をモチーフとした「ウィントス」!↓ ウィントス。ーーーーーーーーーーー↓ 緒方孝市(Ogata Kouicjhi)佐賀県鳥栖市出身。佐賀県立鳥巣高校学校では3年春の九州大会でベスト8、夏は全国高等学校野球選手権佐賀大会でベスト4。鳥栖高校から1986年、ドラフト3位で広島東洋カープに入団。入団時の背番号は37。後に9へ変更する。入団時は二塁手・遊撃手だったが、後に外野手に転向。1991年、102試合に出場し広島のリーグ優勝に貢献。現役引退後も退団はせず、コーチや監督として引き続き広島東洋カープに所属。している。監督就任3年目の2017年、チームを37年ぶりのリーグ連覇に導いた。↓ 2017年度連盟特別表彰 最優秀監督賞広島東洋カープ 緒方孝市殿88勝51敗4引分 勝率.633連覇に導いた卓越した手腕を讃えます2017年11月20日 セントラル野球連盟ーーーーーーーーーーー↓ 第33回オリンピック競技大会(パリ)バレーボール女子日本代表チーム。↓ パリ2024年オリンピックに出場したSAGA久光スプリングスの荒木彩花選手が、オリンピック出場結果報告で市長を表敬訪問された際に鳥栖市へ贈られた、バレーボール女子日本代表チーム全員のサイン入り有田焼記念プレートです。↓ SAGA久光スプリングス 女性バレーボールチーム。↓ 栄絵里香選手。↓ 「ハルちゃん」。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 新鳥栖駅。↓ 新鳥栖駅。↓ 九州新幹線「つばめ」。↓ 新幹線「さくら」新大阪駅行き。↓ 博多駅から小倉駅に行く途中の車窓。雪が積もっている。↓ 雪が積もる。↓ 北九州市。板櫃川。↓ 小倉駅。↓ 新幹線「さくら」の車内。↓ 次は「新山口」駅。↓ 山口市と国道9号線。↓ 新山口駅。↓ JR西日本山口保線区付近。↓ 車両の回転台が見える。
2025.04.10
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2025年2月3日夜、佐賀県吉野ヶ里町の「どん亭」で、新鮮な魚料理を頂きました。特にイカが美味しく、堪能しました。佐賀県上峰町にある吉野ケ里温泉ホテルで宿泊し、翌朝窓の外を見ると、雪が舞っていました。この地で将棋の対局が行われたので、ホテルのフロアには色紙が飾られていました。ーーーーーーーーーーー↓ どん亭。↓ 新鮮なイカ。↓ 刺身。↓ イカシュウマイ。ーーーーーーーーーーー↓ 2025年2月4日朝。吉野ケ里温泉ホテルの窓から。↓ 雪が降って来た。ーーーーーーーーーーーーー↓ 吉野ケ里温泉ホテルのフロアに飾られてある色紙。画面左上は、つるの剛士さんの写真。↓ 女優・尾野真千子さん。↓ 王将・藤井聡太さん、八段・菅井竜也さん。↓ 王座・永瀬拓也さん。↓ 王将・藤井聡太さん、九段・羽生善治さん。↓ 九段・羽生善治さん。↓ 王将・渡辺明さん。
2025.04.09
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2025年2月3日、羽田空港から福岡空港まで、スカイマークのピカチュウジェット(B737-800)に乗りました。福岡空港からは地下鉄で博多駅に移動し、九州新幹線で新鳥栖駅まで行きました。ーーーーーーーーーーーーーースカイマークエアラインズのピカチュウジェット(B737-800)。↓ 福岡空港。↓ ピカチュウジェット。↓ 福岡空港。↓ 福岡市地下鉄空港線。↓ 博多駅。↓ 九州新幹線。↓ 次は新鳥栖。↓ 新鳥栖駅 (佐賀県鳥栖市)。
2025.04.08
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2025年2月3日、スカイマークエアラインズの飛行機で、羽田空港から福岡空港まで移動しました。東京から山梨県塩山上空までは地上が見えていましたが、それからずっと雲海が続いて何も見えません。山口県長門市上空でやっと雲が切れてきたので、それから福岡空港までの様子を一部紹介します。ーーーーーーーーーーー↓ 山口県長門市油谷上空。↓ 油谷(右下)、長門粟野(左下)。↓ 長門市油谷付近。↓ 長野粟野付近。↓ 画面下は、山口県下関市豊北町の風力発電群。↓ 山口県下関市豊浦超涌田上空。↓ 山口県下関市豊浦町 女島(奥)、男島(中央)、石島(手前)。↓ 山口県下関市蓋井島。↓ 福岡県宗像市地島。↓ 雲の中。↓ 志賀島(左)と沖津島(中央)。↓ 志賀島。↓ 能古島(左)。↓ 能古島。↓ 福岡市西区付近。↓ 福岡市の室見川。↓ 福岡市の百道(ももち)海岸と、福岡タワー。↓ 福岡ドーム。↓ 福岡ドーム。↓ 百道(ももち)海岸。↓ 大濠公園と福岡市営平和台陸上競技場。↓ 福岡市動植物園付近。↓ 鴻巣山緑地付近。↓ 福島市南区若久付近。↓ 福岡高速環状線が見える。↓ 福岡市南区野多目付近。↓ 中央は那珂川。↓ 博多南駅付近。↓ JR西日本博多総合車両所。↓ 福岡県大野城市水城付近。↓ 福岡県太宰府市 太宰府インターチェンジ付近。↓ 福岡県大野城市大池公園付近。↓ 福岡市博多区金隈付近。↓ 福岡空港。
2025.04.07
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2025年2月3日、羽田空港から福岡空港まで、スカイマークエアラインズで移動しました。天気は曇りで、飛行機の機窓からの景色は期待できなかったのですが、羽田空港から山梨県塩山上空までは、地上の景色を見る事が出来ました。それ以降は山口県上空まで、厚い雲に覆われた世界で、雲と青空以外は何も見られません。羽田空港から山梨県塩山上空までの写真を紹介します。ーーーーーーーーーーーー↓ 2025年2月3日、東京レインボーブリッジ。(東京モノレールの窓から)-↓ 羽田空港第一ターミナル。キキ&ララの広告。↓ キキ&ララ。↓ 空港内のコンビニで購入。↓ スカイマーク「B737-800」機内。↓ 羽田空港。↓ 滑走路を進む。↓ 飛行機の窓から東京ゲートブリッジが見えた。↓ 浮き上がる機体。↓ 城南島(手前)と、令和島(奥)。↓ 城南島上空で旋回する。↓ 令和島。↓ 羽田空港が見える。↓ 令和島。↓ 上昇していく。↓ 雲の上に上がり、青空が見えた。↓ 埼玉県所沢市 所沢航空記念公園付近。↓ 埼玉県さいたま市上空。↓ 埼玉県入間市 航空自衛隊入間基地。↓ 狭山湖(手前)と、航空自衛隊入間基地(奥)。↓ 埼玉県所沢市 狭山湖。画面右下には、丸い西武球場が見える。↓ 狭山湖の森(中央)と、米軍横田基地(左)↓ 狭山湖。↓ 米軍横田基地。↓ 米軍横田基地(中央)、画面左上は青梅、奥多摩へ続く。↓ 日野自動車羽村工場(中央)、立川国際カントリークラブと西多摩霊園(画面左下)。↓ 東京都あきる野市上空。画面下は秋川。↓ 東京都青梅市上空。画面上は多摩川。↓ 東京都奥多摩町付近。↓ 奥多摩湖。↓ 奥多摩湖(中央)、三頭山(画面手前)、雲取山(画面奥)。奥多摩湖から歩いて何度も雲取山に登ったことがある。↓ 雲取山(画面左の白い稜線の奥)、鷹ノ巣山(画面右下端の山)。雲取山に登る時は、画面左下の谷から歩いていき、七ツ石小屋(雲がかかっているT字路付近)を稜線に沿って左に進んで雲取山に行く。↓ 画面下が奥多摩湖。画面左側が、雲取山へ上るルート。雲取山は東京都で一番高い山(日本百名山)。↓ 三頭山。↓ 鷹ノ巣山。↓ 雲取山。↓ 山梨県甲州市塩山上空。↓ 塩山上空。塩山でワイン工場を見学したり、ここから車で奥に入り、金峰山(日本百名山)に2回登ったことがある。↓ 雲に覆われて、山口県上空まで地上が見えなくなった。
2025.04.06
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『GAMERA-Rebirth ガメラ リバース』が NHK総合で、2025年4月5日23時45分から始まるという告知を見たので、早速テレビにかじりついて見ました。2023年にNETFLIXで6回の放送があったのですが、それを今回はNHKで12回に分けて、再編集して放送されました。毎週土曜日に見ようと思います。「ガメラ対5怪獣」とあり、出ている怪獣はギャオス、ジャイガ―、ジグラ、ギロン、バイラスでした。怪獣バルゴンは外されているようです。私は幼少の頃からゴジラ、ガメラが大好きです。カメを飼っているので、このカメが大きくなってガメラにならないかなと思っています。ーーーーーーーーーーーーー↓ 『GAMERA-Rebirth ガメラ リバース』NHK総合予告編。↓ ガメラ。↓ ガメラ対5怪獣。(バルゴンが入っていない)↓ 2025年4月5日(土)ON AIR↓ ガメラ。↓ GAMERA-Rebirth ガメラ リバース↓ ギャオス。↓ ジャイガー。↓ ジグラ。↓ ギロン。↓ バイラス。↓ ギャオス↓ ジャイガー。↓ ジグラ。↓ ギロン。↓ バイラス。↓ 歌 WANIWA「夏晩」。『GAMERA-Rebirth ガメラ リバース』新編集版2025年4月5日(土)NHK総合23時45分より放送開始 (全12回)ーーーーーーーーーーーーーー↓ まだガメラにならないうちのカメ。
2025.04.05
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「昭和40年男2025年4月号/消えた昭和の常識155選/HERITAGE」を購入して読んでいると、P40~42で作詞家の売野雅勇さんのインタビュー記事があり、その中で河合奈保子さんの紹介がありました。P40「Interview 売野雅勇1980年代の到来は音楽の世界にも変貌をもたらした。この時代に作詞家として世に現れ、幾多の大ヒット曲を手掛けてきた作詞家・売野雅勇に、1980年代の斬新な表現法から、現在のJ-POPに求める作詞までを直撃インタビュー! 取材・文:馬飼野元宏、撮影:石塚康之、イラスト:二階堂ちはる」P42「Profile 売野雅勇/うりのまさおコピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年より作詞家活動を開始。1982年に手掛けた中森明菜「少女A」のヒットをきっかけに専念する。1980年代はチェッカーズや荻野目洋子をはじめ数々のヒット曲に携わり、1990年代以降も広いジャンルにわたって作品を提供し続けている」p41 (奈保子さんの記事部分)同じくアイドルでは、河合奈保子のイメージを大きく変えた1983年発表のシングル「エスカレーション」。それまでの清純派から生々しい女性の性を歌うようになった。「女性の本当の気持ちを書こうと思ったのかな。普段、女性が『大胆すぎるビキニを選んだ意味がわかるかしら?』なんて言わないでしょ。特にアイドルはそんなことを言わない。それを言わせる試みです。それが女性のズルさや悪さではなく、普通のことなのよ、と。河合奈保子さんは明るさと清潔感があるから、歌詞とキャラクターがチグハグでも大丈夫だろうという計算くらいはしていた気がします。だからイイ曲ができたんじゃないかな」奈保子さんの記事があれば、それだけで嬉しいです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓「昭和40年男2025年4月号/消えた昭和の常識155選/HERITAGE」↓ 売野雅勇さん。↓ 河合奈保子さん「エスカレーション」。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー私が持っている河合奈保子さん「エスカレーション」シングルレコード。
2025.04.04
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2025年4月、霞が関・文部科学省前の桜が満開だったので、写真を撮りました。
2025.04.03
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2025年の正月に、毎月1本映画を観る目標を立てました。「パーフェクト・デイズ」、「I Like Movies」と続き、その次は「侍タイムスリッパ―」を観ました。一言で言うと「本当に面白い」映画でした。妻も観て大満足との事でした。ーーーーーーーーーーーー↓ 「侍タイムスリッパ―」予告編より。
2025.04.02
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2025年3月30日午後、妻と一緒に東京・上野公園に行き、桜を鑑賞しました。↓ 不忍池。↓ 上野・スターバックス。↓ JR上野駅。
2025.04.01
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