星とカワセミ好きのブログ

2025.11.07
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カテゴリ: スポーツ
2025年のワールドシリーズですが、ドジャーズの連覇で終わりました。
日本国内では、2025年の野球の話題というと、長嶋茂雄さんが亡くなられた事か記憶に残っています。備忘としてブログに残します。

私が小学校の頃、広島市民球場で巨人対広島戦を時々見に行きました。
球場で長嶋茂雄さんと王貞治さんのホームランを見たことは、いまだに思い出すことができます。


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【2025年6月4日付 朝日新聞朝刊】

長嶋茂雄さん死去
89歳 ミスタープロ野球
プロ野球の読売ジャイアンツ(巨人)で9年連続日本一(Ⅴ9)の中心選手として活躍し、「ミスタープロ野球」「燃える男」と呼ばれた元巨人監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが3日午前6時39分、肺炎のため、東京都内の病院で死去した。89歳だった。


1974年に「わが巨人軍は永久に不滅です」の名言を残して原液を引退。背番号「3」は巨人の永久欠番となった。
1975年に巨人監督に就任。1976年からリーグ連覇を果たしたが日本一にはなれず、1980年に事実上解任された。1988年に野球殿堂入り。1993年に監督に復帰すると、1994年に初の日本一を達成し、2000年にも王貞治監督率いるダイエー(現ソフトバンク)との「ON」決戦を制し、2度目の日本一に。
2001年に勇退し、終身名誉監督になった。2001年の朝日スポーツ賞を受賞。
2004年アテネ五輪の出場をめざす日本代表監督として指揮を執り、アジア予選を突破したが、2004年3月に脳梗塞を発症し、五輪での指揮を断念した。2013年には、監督時代に巨人の4番に育てた元大リーガーの松井秀樹さんとともに国民栄誉賞を受けた。2021年に文化勲章を受章した。
王さんはこの日、「長嶋さんの存在があったからこそ(プロ野球が)野球の好きな人にも『長嶋打ったのかな』という時代に入って、大きな輪になった」と功績をしのんだ。


↓ 王貞治監督率いるダイエーとの日本シリーズを制した巨人監督時代の長嶋茂雄さん
=2000年10月28日






↓ 後楽園球場での引退セレモニーで「私は引退しますが、わが巨人軍は永久に不滅です」とあいさつし、ファンに別れを告げる長嶋茂雄さん
=1974年10月14日



↓ 運命のアーチ 浴びた一球「誇り」
長嶋茂雄さんが佐倉一高(千葉・現・佐倉高)時代に公式戦で放った本塁打は、わずか1本。だが、その1本がスターへの第一歩となった。打たれた投手は「人生の糧になった」と振り返る。

熊谷のマウンドを任されたのは、2年生エースの福島郁夫さん(88)。試合前日、偵察した卒業生が「4番の遊撃手だけには、気を付けろ」と助言した。その遊撃手こそ、長嶋さんだった。試合当日の練習で正三塁手が負傷。長嶋さんは、後の代名詞となる「4番・サード」で出場した。
3-0と熊谷リードで迎えた6回表。長嶋さんとこの日3度目の対戦を迎えた。カウント1-1。「ねじ伏せてやる」と内角高めに直球を投じた。長嶋さんは木製バットをかぶせるように振り抜いた。「センターライナーだな」と思った打球は低い弾道のまあ、バックスクリーン下に突き刺さった。「え、あれが入っちゃうの、とあぜんとしたね」と福島さんは振り返る。
4-1で熊谷が勝ったが長嶋さんの一打は鮮烈だった。朝日新聞で紹介されたことをきっかけに立教大に進み、大打者への階段を駆け上がっていった。長嶋さんは朝日新聞の取材に「あの記事がなかったら、僕の野球人生は全く違うものになったかもしれません」と話している。
福島さんは高校卒業後の1955年、プロ野球の東映(現・北海道日本ハム)に進んだ。しかし、肩と腰を痛めて6年で引退。1965年、埼玉県内の百貨店に入社した。営業先に「長嶋に本塁打を打たれた投手」と知られるだけで、会話が弾んだ。長嶋さんの野球人生の1ページにかかわれたことが、誇りに思えた。
1983年には、県営大宮球場で再会した。長嶋さんは「元気だったか」と言いながら、福島さんを抱きしめたという。





↓ ゴジラそだてた素振り「千日計画」
長嶋さんは松井さんをジャイアンツの主砲に育て上げようと「4番1千日計画」を掲げ、徹底した素振りを課した。マンツーマンの特訓で、豪快なスイングを作り上げた。
「毎日でした。本当に毎日。長嶋監督とのエピソードでよく紹介されましたが『それしかないでしょ』というぐらい、僕の素振りに時間を費やしてくれた。ご一緒させてもらった時間のほとんどが素振りでした」
東京ドームの監督室や監督の自宅、遠征先のホテル・・・。場所を選ばずに素振りをした。いつも互いに真剣勝負だった。
長嶋さんは松井さんのバットスイングが空を切る音で好不調を判断したという。松井さんは「特別な授業」を受け、感じたことがあったという。
「監督は僕のことを好きかどうかはわからないけれど『何とかしよう』と「思ってくれていたのではないでしょうか。『コイツを何とかしよう』と。それは、ひしひしと伝わりましたね」
師弟の絆が深まるにつれ、松井さんもスイングの音で好不調が聞き分けられるようになった。
「途中から、自分のバットスイングのいい、悪いが分かるようになった。そういう感性とでも言うのでしょうか。何かを僕に託してくれたのかもしれません」
特訓で長嶋邸に通うようになり、大きな写真のパネルが飾られてあることに気づく。かつてのヤンキースのスーパースター、ジョー・ディマジオのユニホーム姿だった。
「元々、大リーグに憧れはありましたが、ヤンキースのイメージはありませんでした。(ヤンキースのユニホームの)ピンストライプを意識させてくれたのは、長嶋さん」
その後、ミスターが夢見たチームに松井さんがにゅだんし、ワールドシリーズの最優秀選手(MVP)を獲得して世界一にもなった。「監督と出会わなければ、プロ野球の世界でどこまでいけたかもわからないし、メジャーリーグには行ってなかった」(福角元伸記者)

↓ 松井秀樹さん(左)とともに国民栄誉賞の祝賀セレモニーに臨む長嶋茂雄さん
=2013年5月5日、東京ドーム。



ON砲 永遠のコンビ
「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さんと、「世界のホームラン王」王貞治さん(85)。2人はその頭文字から「ON砲」と呼ばれ、ファンを引き付けた。

立教大のスター選手だった長嶋さんは1958年、巨人に入団。翌年、東京・早稲田実高から5月年下の王さんが加わった。王さんは「入った時から長嶋さんは特別な存在でした」と振り返る。
初めてのキャンプでは、宿舎が同室だった。王さんは「(自分が)寝相は悪いわ、いびきはかくわで、すぐ部屋替えをさせられました」。柔和な表情で述懐した。
2人が同じ試合でアーチをかける「アベック本塁打」は106回を数えた。初めて達成したのが昭和天皇がプロ野球を始観戦した1959年6月25日の天覧試合。新人の王さんが7回にアーチをかけると、長嶋さんがこの試合2本目となる本塁打を放ち、サヨナラ勝ちした。
巨人でともにプレーしたのは計16シーズン。盟友であり、ライバルでもあった。「ONにはあうんの呼吸がある。(人には見えない)テーブルの下ではいろいろあっても、人前ではあれこれ言うことはないんだ」。2人の世界を王さんがこう表現したこともある。
ともに監督として、2000年の日本シリーズで初めて実現した「ON決戦」。巨人監督の永島さんは4勝2敗で制すると、「監督の指導力がすみずみまで行き渡っていた」とダイエー(現ソフトバンク)を率いた王さんをたたえた。
~ (笠井正基記者、清水優志記者)


↓ 試合前、後楽園球場グラウンドに立つ王貞治さん(左)と長嶋茂雄さん
=1963年6月30日



↓ 日本シリーズ開幕を翌日に控え、握手するダイエー・王貞治監督(左)と巨人・長嶋茂雄監督
=2000年10月20日、東京ドーム。


↓ 長嶋茂雄ヒストリー 1936年~2025年













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最終更新日  2025.11.16 10:00:32
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