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2012年の鹿島槍初冠雪の観測は10月24日朝。多分23日の下界の雨が、山では雪だったのだろう。この日は、ちょっと仕事をさぼって撮影に…というわけにいかず、会社のベランダからの白衣の正調鹿島槍ヶ岳。2012.10.22_初冠雪 posted by (C)takanebiranjiで、翌日の25日になって、ちょっとさぼって…撮った写真がこれ。2日晴天が続いたので、だいぶ雪は溶けているように見える。2012.10.25-2 posted by (C)takanebiranji2012.10.25 posted by (C)takanebiranji実は27日に所属山岳会のOGと小遠見まで登ることになっていたので、根雪になるかどうか心配で、遠見尾根の遠望も兼ねて行った次第。主稜線は雪が残るけど、小遠見までならないだろうと判断して、27日、「晴れ後曇り」という天気予報を信じて5人で登った。五竜のテレキャビンの直下はピークは過ぎたものの、まだ十分に美しい紅葉だった。テレキャビン posted by (C)takanebiranjiアルプス平から上のリフトは既に休業で、夏ならば高山植物園になっている所を、えっちらおっちら20分程かけて登った。こまくさの咲き残りが梅雨に濡れていた。みんなの願いは届かず、時々青空は出てくるものの、太陽もなかなか姿を見せず、霧も次から次へと沸き出して…。対岸の唐松岳も白馬岳の稜線も全く見えず。当然五竜も鹿島槍も見えない。♪見〜えぬあたりが、かくね里♪と歌いたくなるくらいの霧だった。私の今夏の山行は全て晴れだったのに、一体全体、今日の悪天は誰のせいなんだ〜っ!!!!!遠見2 posted by (C)takanebiranji霧 posted by (C)takanebiranjiそれでもこの中高年登山隊は、口だけは元気に話し、食べ、飲んで、寒い晩秋の山を堪能した。遠見の5人 posted by (C)takanebiranji友人のIさんが、私がインターフェロン治療をしているときに、治療を終えて元気になったら二人で遠見尾根を登ろうと約束したのだそうだ(物忘れの激しい私は「いつ約束したんだろうな」なんて思っていたが、たびたび電話で話すうちに、約束実現を楽しみに待つようになった)。Iさん自身もひどい腰痛や膝痛を当時抱えていて、私との約束を守るために、トレーニングを積み、装備も一新して今回の山行に備えてくれた。彼女にとっては20年ぶりの山らしい山だという。遠見尾根の風は「主稜線」とまではいかなくても、正しく北アの「稜線の風」だねと彼女は言ったけど、確かに弥彦山(彼女の居住地の近く)の風とは違うのだろう。でも、私はきどって「主稜線の風」と「稜線の風」は違うなんて言ってるけど、自分を鼓舞するために言っているだけであって、その実大した違いはないと思っている(笑)。彼女と歩いていると、青春の日にテントをかついで2人であちこちの山に出没したことが鮮明に浮かんでくる。独りで登ることの多い今、いかに彼女の存在が貴重であったのかが、身にしみる。でき得るならば、また来夏、今度はゆっくりと山頂を極め、主稜線の風(また、これだッ!)に身を委ねられたらいいなと思う。そしてもう一つ、今回うれしかったのは、「いっしょに登りませんか」の誘いに、3人の山岳会員が同行してくれたことである。冬の前の農作業に忙しいであろうに、当然のように。これまた若き日の合宿を思い出しながら、そしてまた、今は亡き先輩方を思い出しながら。体調不良で山には登れなくても、夜の慰労会に駆けつけてくれた人もいる。「同じ釜の飯を食う」とは言うけれど、何の気負いもなく、本音で語れる先輩諸氏。大好きな山で培った絆を、日常生活の中でも感じながら生きているって、もしかしたら素晴らしいことなのかもしれない。今年の締めの山行は、山は見えなかったけど、うーん、ほんとにいい山行だった。さあ、これからはスノーシューだぁっ!
2012年10月29日
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志津ママさん、コルリさん、そして放浪の達人さん、コメントありがとうございます。力を頂きました。気持ちがめげる時もありますが、でも、基本的にはライフワークの一つだと思っていますので、聞き取りを止めるつもりはありません。今回のMさんの場合は、30年前にした申請がだめだったけれど、自分の体験が今回活字になれば、もしかしたら認めてもらえると思った節があるのです。実は聞き取りを始める時に、ある程度まとまったら冊子にしたいという方針で始めました。早くとも2年はかかるだろうと話し合っていたのですが(1年が過ぎました)、聞き取りを甘く簡単に考えていた人もいて、思ったようには進まず、2年ではまとまらないだろうというのが、現在の状況です。当然、Mさんの体験も活字にはなっておらず、Mさんが活字化(冊子化)を待っていたのだとしたらという推測もできて、自責の念にかられたということなのです。今回「抜き刷り」で10冊程作ってMさんにさしあげ、社協や村長などに知ってもらおうということになりました。これは印刷屋の私にできるお礼とお詫びとも言えますが…。91歳になられたSさんのお宅へ、聞き取りの追加質問をしに一昨日伺いました。独り暮らしのSさん(お嬢さんが近くにいるので、食事の支度など生活の面倒をみてくれる人はいらっしゃいます)の横には、聞き取ったものをまとめて先日お渡しした校正用版下が置いてあり、ハッとさせられたのです。ああ、この方も活字化(冊子化)を待っていらっしゃるのかな…と。でも、話していて活字化というよりも、Sさんの場合は自分の話したことが文字になっていることがうれしくて、自分の側にいつも置いておられるという感じがしました。今の若い世代はパソコンやワープロで、文字化は簡単にできるし、自分の思いなどはすぐに文字として見ることができます。でも、私より上の世代は筆や鉛筆などの手書き文字で見ることはできても、活字的なもので見ることの少ない世代だったと思います。だから、手書きよりも活字の方が程度が高いという思いがあるように感じます。いずれにせよ、MさんもSさんも、今までにお聞きした数人の方に対して、なるべく早く冊子にまとめる必要はあるなと感じています。どなたも高齢なので、冊子になるのを待たずに…なんてこともあり得ますから。聞き取りを始めたグループはそれも考えていたはずなのに…と思うと悔しいし、申し訳ないし…。安易な気持で取り組んだはずはないのですが、現実はなかなか厳しいですね。だから、自分一人でも精一杯進めてまとめたいと、ふ●●し(女だけれど・笑)を締め直しています。以上、コメントへのお返事と補充記事でした。2012.10.14_鹿島槍 posted by (C)takanebiranjiいつものサンアルピナ鹿島槍スキー場より2012.10.14_白沢峠 posted by (C)takanebiranji旧鬼無里村白沢峠より
2012年10月15日
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「オレ、怪我の証明してもらうことは、あきらめることにしたんだわ」H地区のMさん(86歳)が無念そうに話した。彼は1945年7月に、浜松湖近くの浜名という町にあった「浜名海兵団」という所で、米軍の空爆、艦砲射撃や機銃掃射に遭っている。一般市民も犠牲が出ているが、この時は海兵団の中でも72人が亡くなったそうだ。Mさんは、艦砲射撃による破片で背中に傷を負ったが、それを証明できずに、傷病兵として認めてもらえない。しかも2ヶ月半の軍隊経験しかないため、軍人恩給の対象にもなっていないとのこと。今から30年程前に、一度申請をしてみたが受理されず、そのままあきらめていた所に、私達の聞き取りが始まり、この際にもう一度申請をしてみようかという思いもあって、体験を話してくれたのだという。浜名空襲に遭ったと主張しても、それを証明してくれる上司や文書がないために、お役所は頭から拒否。敗戦の8月15日以後も海兵団に留まって処理を命令されたというから、その時に一筆書いてもらえば良かったねと、今になって思うけれど、数えで20歳の青年がそこまで頭が回るわけもなく…。幸い、現在傷が痛むこともなく、農業を営み、花桃を植えて、元気に暮らしておられる。戦争体験や戦時中の暮らし体験の聞き取りは大切なことだと思いつつ、一方では、忘れたい古傷を白日に曝してしまうということもあるのかもしれない…ちょっと自責の念にかられている私である。宮島 posted by (C)takanebiranjia花桃とMさん
2012年10月13日
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富士山に登ってみて、はっきりとした違いだなと思ったのは、ごみと山小屋だった。富士山の1日目、8月25日午前8時過ぎ。須走口五合目から歩き出した私達一人ひとりに、富士山クリーンプロジェクトという団体の女性が、「富士山憲章」(憲章そのものは山梨め静岡県などが構成する富士山ネットワークが平成10年に制定している)なるものを印刷したごみ収集袋を「ご協力ください」と手渡した。ごみが多いということも世界遺産指定を外れた一因なのだから、協力するのにやぶさかではない。7合目の大陽館まで全員が拾ったごみを集めると1袋になった(袋の大きさ 横38センチ×縦44センチ)。結構、ごみは落ちているのだ。中にはレジ袋に入ったままのも。さて、このごみ袋をどうすればいいのか…そこまで五合目では確認しなかった。まあ、これが致命的ミスとも言えるが…。袋には「お配りした場所に回収スタッフがいない時間帯は恐れ入りますがご自宅までお持ち帰りください。」と印刷してあった。それでもと、ごみに詳しく&うるさいメンバーが山小屋スタッフに聞いてみた。「登山口でこういう袋をもらってこれだけ拾ってきたんですが、山小屋では引き取ってくれないんですか」返事は否だった。「自分たちのごみじゃないんですがねえ。協力した結果、このごみを今日・明日ずっと持ち続けなければいけないんですか?」「お気持ちはわかりますが、山小屋は関係してないので」小屋にしてみれば、そうかもしれない。営業に必要な物資は危険なブル道を使って荷揚げしているし、どこかの馬や鹿が棄てたごみまで持ち込まれてはかなわないだろう。かくして、このごみ袋、翌日、他の個人残留荷物といっしょに大陽館に置かれ、下山時に再び引き取り、ザックの後ろにくくられた。もちろん、これ以後、ごみは落ちていても、拾う気にはなれず…。五合目に着いたのは26日午後2時。回収スタッフはいなかった。早朝でもないし、夜間でもない。午後2時といえば下山のピークの一つだ。最初から自宅持ち帰りが前提だったのかなーなんて思ってしまった。富士山清掃登山で来たわけでもないし、体力不安から全員が極力荷物を減らしている中・高年登山隊でもある。善意だけを頼りにする活動にはいささか疑問を抱いてしまった。結局このごみは、富士山から信州の我が家に持ち帰られ、可燃ごみ、リサイクルごみに分別して、小川村の税金で処理された。問題は「富士山クリーンプロジェクト」と銘打った活動が、富士山に関している全ての人の同意を得ていない、つまり一体となった活動ではないらしいということだ。「富士山が世界遺産に指定されると、安易にいじれなくなるから、諸手を挙げて賛成しない人達もいるらしい」なんて声も聞こえてくるし。「富士山憲章」の一つに、「富士山の自然、景観、歴史・文化を後世に末長く継承しよう。」という項目がある。歴史・文化の面では、本当に大切な存在である山小屋。その山小屋を巻き込まずしてのプロジェクトはちょっといただけない。北アルプス、後立山。ごみは本当に落ちていない。自分の持ってきたごみの持ち帰りは当たり前だし、当然小屋でも販売したあとに出るごみの引き取りはしているだけ。富士山と北アのごみだけを見ても、何が違いを生んでいるのか…はあえて書かないことにする。兵隊さん posted by (C)takanebiranji現役の自衛隊員が、旧日本陸軍の装束で休暇を利用して富士登山。「兵隊さん、南のどこの島からお帰りですか」「恥ずかしながら生きてもどりました」の会話ですっかり仲良しになりました。隣はお父。曰く「やっぱり俺の敬礼とは違うな」
2012年10月04日
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